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2017年交流会に寄せて

2017年春の交流会に寄せて

今年の交流会は残念ながら雨にたたられ、思うように稽古できなかった部分もありました。一つは組手での交流を中止にしたことと、その後の懇親会にちょっとばかり苦労しました。ただ、思うようにならない、と言うのが武術の根本にあるので、これはこれでいい経験だと思います。私は、常に管理され平準化された環境で稽古してホントのことなんて判るんかね~、と思うほうですから。
交流会の意味
さて、恒例の交流会の意味をちょっと話しておきます。交流で各会の弟子同士が仲良くなるのは確かに良いことですが、それだけでは単なる仲良し会です。交流会の目的は単純明快、稽古おける目的意識の共有です。参加している太気拳協会の各先生は教える方法が違う。同じ太気拳で同じことを教えようとしていても、各先生に方法の違いが出てくる。それを補正して別の見方や方法に触れること、そしてより深いものに触れる機会になればと思うからです。逆に言えば、我々にできるのは、より深いものより良いものに触れる機会を後進に与える、この一言に尽きます。本物に触れない限り、本物を知ることはできない。知ることが出来なければ、あることすら知らずに終わる。つまり知ることが出来なければ求めることすらできない、と論理は単純です。無いものを求めるのではなく、有るけれども未だ届かぬものを求める。我々は幸運にも沢井先生に触れる機会を得た。初代王郷斎師から二代目澤井先生と繋がり、そして三代目となった我々がやらなければならない使命、それは本物を次代、つまり四代目に引き継ぐことです。
虚構の武術
現在の武術の世界はほとんどが虚構で成り立っているように思います。武術と名前が付くから、何か特別ものがあるんじゃないだろうか、との思いで武術を始める人が多いと思います。ところが実際に踏み込んでみると、何のことはない何処にでもあるスポーツ、運動に伝統と歴史のお飾りを付けたものに過ぎない。ちょっと気の利いた若者が入れば、数年すれば先生を超えてしまう。実戦を標榜しても、若者を納得させるだけの力を持つ指導者がいないのが実情。あとはそれぞれの集団のヒエラルキーを上るかどうか、しかない。これは求めるべきものを知ることが出来なかった結果です。現在太気拳や意拳、あるいはその他中国拳法を名乗るものは多いが、その中にどれほど多くの偽物が混じっていることか・・・。現在様々な流派がありますが、その違いは精々試合のルールを基にした差でしかないのが実情です。
武術に求めるものは何か
では、本物の武術は何を以って本物とし、虚構の武術はなぜ虚構に過ぎないのか。それは先人の言葉が明らかにしてくれています。
まず沢井先生の兄弟子にあたる姚宗勲師の言葉を引用です。
―――
「拳術で求める力量は、日常生活や仕事で慣れている、力の使い方や方式(例えば重い物を運ぶ、車を引く)とは異なり、特殊な意義内容を持つ。一般に、自分が元々持っている力を「本力」といい、拳術の訓練を通して獲得する力を「功力」という。拳術に用いる特有力である」
―――
つまり先ほど話した虚構の武術を支えているのが姚師の言う、誰もが慣れ親しんだ力つまり「本力」。だから身体能力に優れた若者がたやすく先輩や先生を超えることが可能となる。当たり前です、力の使い方や方式に違いがないなら、若者がチョイと経験を積めば簡単に先輩を凌駕する。本力では年齢の壁を超えられないからです。そして一定の動作を覚えた後の稽古は、と言えば退屈な動作の反復稽古。技は教えてもらったけど、どうしたらそれが使えるのかがわからない。後は結果に対する幻想を支えに続けるしかない。と言うよりそれ以外に方法がない。次に頼るのは重いものを持ち上げたりのトレーニング、つまり「本力」を高めるしかなくなる。これでは、教えるほうも単なるルーティンワーク、お仕事になるしかない。つまり姚師の言う「特殊な意義内容」は何処にも見えてこない。これでは虚構の武術と言わざるを得ない。
気と勁力の実際を知る
では、この虚構を脱出して本物に至るために何が必要なのか。答えは実に簡単だ。「特殊な意義内容」あるいは「気と気分」の実際はどうであるのか、求めるものを目の当たりにして目的が明確にする。ここにすべての出発点があり、これ無くしては武術へのアプローチはあり得ない。気や勁力と言われるものが何であるのか、を身をもって指し示し、明らかにすることが指導者の役割であり、学習者は「特殊な意義内容」を肌身で感じ取り、それをわがものにする事こそが武術の目的だと知ること。ここをスタートラインに設定しない限り、幻想・虚構から脱却することはできない。
交流会の意義はここに極まります。つまり出発点の確認。これは同時に到達点の設定でもあります。目的の無いところに達成はない、と実にシンプルです。
ともすれば技とか、やり方と言った皮相なものに捉われがちですが、武術の本質をしっかりと見極める。これが交流会の意味です。

 

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六面力、勁力、発勁について

六面力、勁力、発勁について
六面力、勁力あるいは拳勁、そして発勁・発力という言葉を頻繁に使いますが、この意味をある程度整理しておきます。
勁力は武術独特の力で、日本でも中国でも伝統的に求められていたもの。勁とはそのものズバリの「強い」を意味する語で、武術を武術たらしめるものです。単なる生来の膂力や筋力ではなく、稽古を通じて作り上げる強い力を意味します。天然自然に身に付くものではなく、稽古を通して新たな運動原理を体得し、それを中心に据えて引き出されたものが勁力であり、これに基づいた行動の一元化が武術の目的です。この勁力を拳に生かせば拳勁で、剣ならば剣勁、杖なら杖勁となります。澤井先生が「太気拳は何にでも活かせる」と言ったのはこの意味です。そして六面力は、その新たな運動原理の中核であり、勁力の成立過程の分析的な表現になります。六面とは上下前後左右ですが、転じて総ての方向に向かう力を言い、これがあって初めて勁力となります。(六面力を引き出す立禅の組み方や注意点は、他のページに図解で説明)澤井先生はこれを「独楽のような」と表現しましたが、あえて六面としたのは、上下・前後・左右を切り分けて考えることもできるからです。そしてその発揮方法が拳なりあるいは剣になれば勁力の呼称も少し異なる訳です。そして勁力を核にした動きを「発勁」「発力」と言い、両語とも同じものを意味します。勁力を使う事を発勁と言い、相手を打つとか飛ばす事のみでなく、勁力を生かした動作全てが発勁です。単純な手の上げ下げから一歩踏み出す足捌き、どのような動きも勁力から発したものであれば発勁です。緩慢に見える動作も素早いものも、その前提が満たされていれば同質となります。意拳では「発勁」ではなく「発力」の言葉を使います。私があえて「勁」の語を使うのは、「勁」の言葉を生み出した伝統や文化に敬意を感じるからにすぎません。
そうして考えると、稽古の段階的な目標が明らかになってきます。生来のものではなく新たな運動原理を求めること。そしてそのために六面力の何たるかを知ること。最初の目標はこれに尽きます。上下の力から始まり、そこからの転換で前後の力を知り、同時に左右の力を明らかにする、という事になります。まず最初に上下の力があり、そこから前後左右に転換していきます。これは上に向かって吹き上がる噴水を抑えると、行き場を失った水が横に飛ぶのと同じ理屈で、工夫次第でどの方向にも力を向けることが可能です。この上下の力は、人間が重力に抗って二本の脚で立つことによって生み出された、人を人たらしめる根本の力であり、神経と筋肉、骨格の連携による高度な全身統合の結果です。技ややり方をいくら学んでも、そこにこうした勁力が無ければ形だけの砂上の楼閣。いとも簡単に歳とともに衰えてしまいます。

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2016合宿

2016年の夏合宿無事終了。

例年は二泊三日の合宿でしたが、今年は一日短縮。
日程は短縮しましたが、稽古時間は変わらず。
つまり、稽古時間の密度が濃くなったわけです。

 

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初日は朝から好天に恵まれ熱海山中の高原の爽やかな空気を感じられたのが良かったですね。清々しさは空気だけではなく、名水柿田川水系からの水がおいしくてこれも毎年楽しみにのひとつ。よい環境に恵まれ気持ちを集中して稽古できたことで、それぞれが成果を持ち帰れたのではないかと思います。

さて、合宿の総括と言うほどではありませんが、気が付いたことをまとめてみました。

初日は特にテーマを決めて臨んだわけではありませんが、結果的には基本の徹底になりました。基本を徹底するためには、何故基本があるのかを含めてその意味をどれだけ深く理解しているのか、が必須の条件になります。基本は文字通り根本になるものです。しかし、その意味を知らなければ、単なる手続きや通過儀礼に過ぎなくなり、準備運動の代わりに成り下がってしまいます。現在の武術と称するものにおいて基本がまるで生きていないのは、ここに問題があるからです。生きていないのだから基本の練習はやめようじゃないか、と正直に捨て去る流派もあります。非常に素直で合理的に見えますが、じつは基本の意味を見つける事ができなかった、にすぎません。
さて、私が此処で言う基本とは勁力あるいは拳勁ですが、ここでちょっと言葉について話します。拳法の基本について意拳で六面力と言います。これは禅などの静的な中で感じ取る力感で、拳法の中枢をなすものです。そしてこの力感を展開して実際に効果的に行使されたものが勁力・拳勁です。つまり六面力を核にして日常的運動原則の根本を置き換え、展開していくのが武術です。当然時には日常的なものを捨て去ることを要求されます。ですからその勁力の練度がその人のレベル最大値という事になります。つまり六面力の基礎とその展開があって初めて拳法・武術になるという事です。。
ですから太気拳のレベルについて考える時幾つかの段階に分けることが出来ます。
まずは初心者ですが、当たり前ですが六面力を感じ取れず、勁力・拳勁が判らずに生まれつきの力や経験則でしか動けないものを言います。持って生まれた身体能力や体力と経験値で、と言うレベルです。強いとか弱いの話ではありません。運動原則転換以前、武術未満ですね。
次は勁を感じ六面力を感じながらそれを武術に必要な力として発揮できない状態。つまり静においては六面力を感じ取れるが、その意味を把握しきれず運動に展開して勁力として生かせないレベル。言って見れば、手に入れたは良いけれど、どう使って何をやったらいいのか、がまだよくわからない段階。個々における武術史の出発点、開闢。(大地溝帯からの脱出?・・・)
三つめは、一定の状態つまり典型的には定歩の状態で勁力の発揮、つまり発勁が出来ること。歩法においても勁力を生かした勁歩が出来ること。しかしながら、一定の状態を外れると力をコントロールしきれないレベル。勁力を核にした身体全体の統一がまだ不十分な段階。意識的な作業を経ないと勁力が引き出せない。つまり勁力はあるけれど、拳勁未満。まあ、言ってみれば産業革命の勃興期?
そして四つめは、勁歩で変化を受け入れながらも機に応じて発勁が出来ること。つまり勁力が当たり前になる状態。ここまでが指導できるレベルで、ここから先は自分で歩むしかない道です。ここまで来れば、自分は太気拳だ、と胸を張れるレベルだと思います。
レベル1の初心者は太気会ではほぼ皆無。これは注意点を正確に頭に入れて立禅を組めば六面力は3日も稽古すればだれでも感じ取れ、ここは脱出できるからです。ただし、ここからの道のりは短くはありません。ですから合宿の参加者のレベルは2から3。つまり勁力を保ちながら動く、あるいは定型以外での発勁に於いて必要とされるものは何か、を明確にするのが必要で、それが今回の合宿の目的になりました。
その観点から特に今回一番目についたのが歩法。歩法がただの脚の運び方ではなく、勁力を維持した勁歩でなくては意味がありません。つまり歩法それ自体が発勁でなくてはならないので、どうしてもそこに粗さが目立ちました。立禅には拳勁の全てが詰まっています、ですから立禅で感じ取れる六面力、上下前後左右のどの部分が何処に対応して半禅に至るかを明確にすることが稽古の主題になりました。
立禅では六面それぞれに向かう力が比較的分けることが出来やすいので、それぞれを明確にして分解し、そのうえで半禅に至る際にそれらがどう変化し、さらに如何に勁歩に至るのかを明らかにする。立禅で感じ取れるものは、半禅でも同じように在り、さらに歩法においても失われない時に初めて勁歩となる。ですから随分細かい指導になりました。
そのために改めて肝に銘じて欲しいいくつかの点を挙げておきます。
1、 歩法の際、前脚のどの指から足をつかなければならないか。
2、 つま先と踵の関係がどうあればいいのか。
3、 後ろ脚と前脚の定八歩の徹底、浮いた脚が描く軌跡を正確にすること。
4、 勁力の中心はただ一つであり、前進後退左右転進はその抵抗位置の転換に過ぎない事。
とにかく形には小姑並みの口やかましさだったけれど、形にこだわる理由は、意識に上らない部分を明確にするためで、決して形式を守ることに意味を求める訳ではありません。
形に依って際立つ部分は、形を捨てても明確に出来るので、そこを目標に稽古してほしいと思います。注意点を守った場合とそうでない場合の違い、それを自分で知ることが大事です。

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さて、2日目は打って変わって雨模様で肌寒い天気。なかには半袖から長袖に着替えて稽古に臨むものも居るくらい。夏の盛りも過ぎ山の中腹という事もあり、靄が掛かって遠くの景色がまるで見えない。幽玄の霞に禅を組む、のも興のひとつ・・・。
午前中は前日の延長で基本の徹底。午後は立禅の状態からの後方発勁を手始めに、片脚を引きながらの発勁。立禅の状態から発勁は出来るものの、片脚を引くという単純な動作を加えただけで全体の調和が失われ、勁力の持続が出来なくなる。動きながらの発勁は必須だからこの基本動作は嫌になるほど反復が必要です。これを起点に出来れば、脚を運びながら後方だけでなく前方、左右とすべての方向への発勁が当たり前になります。
此処での注意点を繰り返します。
1、 立禅と同じですが、つま先と踵の関係の正確な把握。
2、 後方発勁の次の瞬間には前方に力が反発すること。
3、 腕を動かして引くという日常的な感覚を捨てる。
4、 勿論前方に反発する場合も同様で腕を動かす感覚は無用。
5、 発勁は六面それぞれに向かいあう力の反発・振動ですから、勁力の感覚のみを研ぎ澄ます。
6、 ある程度できるようになったら、後方から前方への反発だけではなく、逆に前方から後方、あるいは左右への転換を工夫してみる。転換を阻害するのは多くの場合、思い込みにあります。
7、 さらに進んで試声との関係を求める。
要求事項を箇条書きにしましたが、どれもが相互に関係のあることなので、それぞれが別個のものではありません。出来るようになれば個別の事などすべて消え去り、ただ中心の振動する感触を求めるだけになります。

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さて、先ほどレベルの話をしましたが、これを自分の武術史に当てはめてみましょう。武術未満で身体能力頼みのレベル1。実はこのレベルでの在籍年数はほぼ20年、学校だったらとっくに学籍抹消で退学です。つまり澤井先生に出会い、立禅を組み始めてから20年間、六面力も勁力も気づかずに過ごしました。つまり3日で判ることに20年かけたわけです。その代り気付いた瞬間には2から一挙に3へ、そして3年ほどの時間をかけて次に進めた気がします。それは何もわからずに20年過ごしましたが、その間に何かをじっくり溜めこみ育んだものがあったんだと思います。言葉に出来る内容は実に貧弱なものしかありません。言葉に出来ないもの、あるいは自分でも気づけないものの中に大切なものがあるんだと改めて思います。

今回の合宿をひとつの節目として、これからの飛躍を楽しみにしています。

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動画 天野敏のテクスト 閑話休題

震動 2014年夏合宿

震動・・・
2014年の夏合宿の課題は「震動」。
震動は太気拳の核になるもので、連続する身体内の力の転換です。
立禅や半禅では様々な注意点がありますが、それらはすべて震動につながります。
基本は立禅の中で、上下の張りを感じるところから始まります。
足は小指からじっくりと地を掴むように立ち、膝は僅かに外に張ります。
その上であたかも座り込む様でもあり、立ち上がる様でもある、と言った気持ちの変化が生み出す身体内の転換です。頭の位置や肩の水平、胸の張り具合も重要だし視線の位置も大事です。
そしてその転換をより小さくより速くしていきます。小さな震動が大きな動きよりも大事なのは、繰り返される高速の震動が神経や脳の活動の亢進を促すからです。大きく動けばそれだけ時間が掛かりますが、小さければそれだけ緊張感が高まります。
小さく速い振動は動画にしてみてもただ立っているように見えるだけですが、合宿では皆に身体を触れてもらったりして感じ取る機会があったので、それを思い出してもらえれば良いでしょう。
触れて感じ取ったものを、自分で作り上げる工夫が稽古で求められます。
また静から突然表出する動も試してください。
例えば、手を前に出しその上に相手の手を置いてもらい、そこから急激に手を跳ね上げます。手の動きで跳ね上げるのではなく、その源の震動を探ります。
中国拳法の南派と言われるものの中に「震脚」と言われる稽古方法がありますが、
これも震動を求めるための稽古法です。

動画には足を小さく速く力強く踏み込むことで震動を生み出し、それを相手に伝えるもの。
そして、動作を小さくして震動を相手に伝える動きをアップしました。相手に腕を押さえてもらってからの震動の伝達です。雰囲気を思い出して稽古の実りの助けにしてください。

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天野敏のテクスト 閑話休題

太気拳ノート―1

前後の力、六面力、或いは静的な力について。

立禅を何故組むのか、と言う疑問については答えは幾通りにもある。
簡単に言えば、立禅から色々なものを引き出すことが出来るからだが、その中でも大事なものの 一つに静的な力を引き出す、或いは感じ取ると言う事が上げられる。
静的な力は、意拳的に言えば六面力であり、上下前後左右に力を感じると言う事だ。
六面に力を得る、と言うことは自分の周囲360度と重力に抗する力を得る事であるが、 上下の力が大元にあり、その変化形として前後左右の力があると考えた方がわかりやすい。

静的な力と言うのは動こうとする力ではなく「動くまい 動かされまい」とする力だ。
そういう意味では受動的なところから引き出される力と言える。
これを感じ取るには、立禅を組んでいる最中に前から胸を軽く押してもらう。或いは後ろから押してもらう。 また左右から軽く押してもらう。
それらを間断なく前後左右を入れ替えながらそれらの力に抗する方法を探る事から見つけることが出来る。
力を入れ替える時間は徐々に短くしていく事で、前から押されても、押し返すだけでなく後ろも押さえ、 左から押されても右を押さえる、といったように同時に前後左右に力を得る事が出来るようになる。

柔道などの組み技系の経験者なら誰でも知っていることだが、組んだ瞬間に相手の重さを感じる。 これが言ってみれば六面力に近い。引いても引けず、押しても押せずと言う感じだ。そこに居る強さ、 とでも言えば良いかもしれない。あるいは動かされない存在感、とでも言うか。技術以前のそのヒトのあり方だ。 だから表題に書いたように「静的な力」と言うわけだ。

具体的なイメージで言えば、前後に関しては立ち幅跳びで前に飛び出そうとした瞬間の力感が一番近い 感じがする。或いは後ろに飛ぼうとした感じでもよい。両足が前後に揃っている場合、引き出される力は 第一に身体全体が前後に震動するような力で、これは幅跳びの時の身体の運用を考えれば想像に難くない。

左右に関しては、親指を中心にした足首の外旋する力が水平方向の力の基本になる。それに加えて、 身体全体が上に伸び上がろうとする力が突き当たって下に向かう感じだ。

どちらにしても、常に前後左右上下に抵抗感・圧力感を感じるところから始まる。

この力がもっとも基本になり、動く稽古は、その抵抗感や圧力感をを失わずに動く事が課題となる。
 その意味で、静的な力を感じ取れないところでの動的な稽古は、何のことは無い、ただの運動になるということだ。

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あっという間に年末

あっという間に年末。今年は何となく落ち着かない一年と言う感じだった。落ち着かない、と言うのは今年中に 片付けようと思ったものが予定通りに行かなかったというのが理由。幾つかあるが、雑誌に連載していた「組み手 再入門」の書籍化が来春に持ち越しになってしまった事。後から製作したビデオの一巻目が年内に発売されたにも かかわらず、原稿の出来ていた書籍化が遅れた。責任はもちろん私にある。校正や書き直しの部分を先延ばしにし たからに他ならない。

さて、それに対して片付けられた事の幾つか。「組み手再入門」の映像化。組み手に関して色々書いて、それが 空念仏じゃしょうがないから、と言うところ。組み手の実際を見てもらってイメージを作る事が出来ればと思って の映像化。連載あるいは書籍と突きあわせて貰えれば、文章より伝わるだろうと考えての事だが、果たしてどうか。 今年の夏合宿での弟子を相手にした組み手やスタジオでの組み手を7~8回、それらを例にとってポイントの指摘及び整理。 正直に言うと、他の武術やスポーツ格闘技の組み手の映像と横並びで比べてみるとその違いがハッキリする。が、 まさかそれを自分のビデオでするわけにもいかず、ちょっと残念。太気拳と言うか、あるいは私の組み手がと言うべきか、 普通の人にとってはとても異質な感じだろうな、と言うのが感想。まあ、判る人が判ればいいでしょう。

それともう一つ出来たのがE-BOOK「中年から始める本物の中国武術」、とりあえず第一部の「立禅」を完成。 太気拳の入門書的な作り、これもテキストとDVDのセット。テキストが原稿用紙70枚余りと一時間の映像。立禅につ いては正直言ってこれでも不十分だが、キリがないのでそこそこに収めた。文章だけだと歯がゆいし、映像だけだと言い 忘れや抜け落ちるところがあるので、両方で相互補完と言う感じ。「中年の~」と銘打ったのは別に中年じゃないといけ ない、と言うわけではない。私がもう中年だから、エールを送る意味でつけた題名。また、今回立禅だけの章にしたのは、 太気拳だけでなく、ほかの武術や健康のためにと言う問い合わせがよく来るため。色々な所で立禅に似た稽古法を指導し ている所もあるようだが、そう言うところの経験者から漏れ聞くと、結構いい加減だったりする。別に私だけが正しいと 思っているわけではないが、書くべき事は書いておこうと言うところ。この後、半禅や這い、そして練りや他の稽古も書き、 同時に映像化のつもりだが、何時になるかはまだ不明。なんと言っても「立禅」の章でほぼ一年掛かり。ライフワークなんて 気取るつもりはないが、どうなるか・・・。

さて、最大の落ち着かない理由は十分に遊べなかった事。遊べないといっても遊んではいる。要は思うように遊べな かったという事。今年は年明けから波がなくて、十分にサーフィンが出来なかった。それに加えて夏の台風直撃で地形が 変り、波の質が落ちた。じゃあ、と言うんで今度は釣りを始めたが、もちろん思うように釣れない。今日は休みで、実は 釣りに行ったがバラシ。知り合いが80センチの平目を釣ったとか、誰それが70センチのスズキを釣ったとか言うがこちら には来ない。このふた月の釣果は、40センチのイナダ一匹・15センチのスズキの子供・同サイズのメッキ鯵。まあ、魚に してみれば私に釣られるなんて言うのは、交通事故にあうようなもの。めったにあることではない。で、モチベーション が落ちて、もういいかなんて思ってると、眼の前で他の人が大物を釣ったりする。じゃあ、この竿にも掛かっていいん じゃないの、何で掛かってくれないの、と生殺しの蛇のようで日々落ち着かない。

「遊びをせんとや生まれけん」じゃあないが、せいぜい正月は落ち着いて遊びたいもの。そのためには祝いの膳に 自分の釣った魚を、なんて初夢でも見ることが出来ればよしとするか・・・。

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雑誌の連載が終了

雑誌の連載が終了。「組み手再入門」の題で一年余り書いてきた。書く事はいくらでもあるような気がするが、書いているうち にもどかしくなってしょうがなかった。考えてみれば当たり前で、組み手に関していくら書いても隔靴掻痒、言いたい事、伝えたい 事の距離感をべらぼうに感じた。それがストレスで多少嫌気が差した、というのが正直なところ。それで、そのストレスを今度は 映像化すれば少しは晴れるか、ということで同じ題名「組み手再入門」で映像を先日撮り終えた。なんと言っても百聞は一見にし かず、だ。本当を言うと、題名は「組み手改造計画」とでもしたかったが、連載とリンクした内容だからという事で同じに決まった。 キーボードに向かって組み手について書いているよりどれほど判りやすいか、と思っていたがこれもなかなか難しい。カメラに向かっ て話しているうちに、肝心な事を言いわすれたと気がついたりする。それが撮影中だったら撮り直しもきくが、終わってから思い出 すなんていう事もある。まあ、連載はそのうち書籍化するから映像と書籍と両方を参考にしてもらえれば、少しは組み手に行き詰っ て悩んでいる人の助けになると思う。

空手にしても他の武術にしても形にばかり拘って、組み手に工夫が無さすぎるって言うのが連載を始めた主旨。みんな拘っている のがどうでもいい事に僕には見えてしょうがない。どこも最初に決まった形の構えがあって、そこから全部始まるなんていう不思議 な事をやっている。そんな常識なんて役に立ちはしませんよ、という所を見取ってもらえればいい。どんな流派だって良いが、当た り前に組み手をやれば太気の組み手に似てくるというのが持論。当てっこだとか、ゲームで良いって割り切るなら既存のままでいい けどね。

今回の映像には、今年の夏合宿の組み手を幾つか参考として載せる予定。合宿のときはそんな気はなかったので、のんびりとした 指導組み手だが、それなりには役に立ちそう。組み手の技術というだけではなく、雰囲気から組み手に対する取り組み方を感じ取って もらえれば良い。組み手が殺伐としたものではなく、自分の課題に取り組むためのものだという捉え方が出来ればいいと思う。もし 機会があったら太気以外の組み手と比べてみると、違いが一目瞭然で面白いかも知れない。

ただ、映像にするのを選ぶために何回も同じ自分の動きを見るのは正直言って辛い。段々あらが見えてきていやになってくる。 まあ、約束したからしょうがないか、という気分。恥を書くのもなんかの薬になって、そのうち役に立つ事もあるかもしれない。 しかし、映像でも喋ったけれど、25年間毎週組み手をやったというのは、考えてみればよくやったよね、という感じ。好きなんだね、 組み手が。下手の横好きか、それとも好きこそものの上手なれ、なのかは皆さんの判断に任せます。撮ってしまったらもう俎板の上の鯉。

今回のカメラマンは、実は地元のサーフィンの先輩にお願いした。勿論撮影中はそんな話は全然しない。ところが昼食でアシスタント の若者がやはりサーファーと判り、話が盛り上がる。聞くところによると、最近格闘技系の選手がサーフィンを良くやるとのこと。ブラジ ルの選手がやったというところから始まったらしい。勿論バランス感覚は要求されるから、そう言うところがトレーニングになるんでしょ うね、と言う。まあ、それもあるけど、それより判断力だろう、というのが僕の感想。やらない人はわからないと思うけど、一瞬の判断を 常に要求されるのがサーフィン。判断ミスをすると場合によっては大怪我をする。波に乗る瞬間、どっちにいくか、周りに何処に人がいるか、 避けられるかそうでないか、同じ波に自分以外の人が乗っていないか、そのほか色んな事を瞬間に見取って乗る、あるいは乗らないを決定する。 時には乗ってから降りる。それはほとんどの場合、ほんの一瞬でしかない。見て考えるのではなく、見た瞬間に判断する、決定する。 勿論乗ってからも、ボードのコントロールは考えていては遅い。感覚で動かす。そこら辺は組み手と同じで、自分の場合は組み手の感覚が サーフィンに少しは活きたかも知れない、そんな事を話して昼休みが終了。自分は昼食後に3分でも寝ないと午後は眠くなる性質。 それをしなかったおかげで午後の撮影はNGの連続。皆さん、ご迷惑をおかけしました、反省はしてます。

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天野敏のテクスト 閑話休題

猿の惑星

日曜日に台風4号が関東に接近。上陸は避けられたものの、沿岸をかすめて通過。その日は朝から雨。稽古を始めてからしばらく は雨と風がけっこう激しかったが、そのうちに雨が止む。雨があがると同時に、風が北よりに変わる。「あ、台風が東に抜けたな」と、 頭の中で天気図を思い描く。天気のせいか何時もより人が少なかったが、軽く組み手をやって稽古を終わる。 稽古終了後、家に帰ってから海を見に行く。海岸にでた途端に凄まじい波の勢いに圧倒される。海鳴りが襲い掛かるように響く、肌があ わ立つ。台風の風に引き起こされたうねりが海岸に近づく。浅瀬に乗り上げたうねりは力の行き場を失い、盛り上がり、波頭を切り立て て海岸に押し寄せる。7メートルから8メートルに達した波が一気に崩れ落ちる。その質量、そのエネルギーが何度も何度も崩落、激突、 飛散。飛沫は風にあおられ、光をひいて舞い上がり、飛び散る。海が煙る。
自然の圧倒的な力を眼の前にすると、人の力のなんと無力なことか。人は自然の中に生きてきた。でも、自然は人の為にのみあるわけではない。
環境破壊は進む。人の歴史は自然を破壊してきた歴史。文明は全てエネルギーとしての森林を切り開くことから始まった。ヨーロッパも そうだし、メソポタミアで発見された最古の叙事詩、ギルガメッシュも森の神との戦いの物語だ。日本人の中にある原風景としての里山も、 何の事はない森林を切り開いて作り上げたものだ。
しかし、自然は強靭。海の汚染も、オゾン層も、人の尺度で考えるから深刻。だが果たして地球の尺度からするとどうなるのか。40億年、 50億年と言う地球の尺度から見ると、案外なんて事のない汚染なのかもしれない。

人が滅び、建物が崩壊して地球上から文明の一切の痕跡がなくなっても、太陽は輝き、海はうねり、風は吹き渡る。そしていつか再び、 未知の生き物が文明を起こし、太陽の恵みを受け、海鳴りや風を聞きながら生きていくのかもしれない。

う~ん、どうも台風の話から猿の惑星っぽくなってきた。

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天野敏のテクスト 閑話休題

自然の恵みと脅威

母方の実家の祖母が茨城県の六郷の出身、今の取手市になる。利根川流域の稲作で有名な水郷地帯の一角だ。 小さい頃に遊びに行った記憶がある。典型的な米作農家で、ヤギを飼っていた。この時、生まれて初めてヤギの 乳を飲んだ。母屋の脇を用水を兼ねた川が流れ、子ども達がうなぎを取る仕掛けを川に沈めてくれた。勿論用水 は利根川から取水。トイレが母屋とは別にあり、夜中に眼が覚めて母についてきてもらった覚えがある。外は月 明かり以外には何の頼りもなく、都会では知ることの無い夜の暗さに驚いた。朝になって用水から仕掛けを引き 上げたが、残念ながら収穫は無し。不思議に思ったのは納屋の梁から船がぶら下がっていたこと。今考えると洪 水のときの足替わり、と言うことだろう。
川の氾濫は、逆に言うと上流からの恵みともとれる。治水は人々の望みだったに違いないが、氾濫が無くなれば、 豊かな恵みも無くなるという事になる。中国の黄河や揚子江が氾濫によって土地を肥沃にしていたように、ある いはエジプトのナイル川がそうであったように。
山を削り、護岸工事を繰り返し、河をコンクリートで囲うことによって確かに氾濫を押さえ込んだように見えて、 逆に土地をやせ衰えさせ、化学肥料に頼らざるを得なくさせているのかもしれない。ダムを作って水害を防止す れば上流からの恵みを多く含んだ土砂はダムに溜まるだけで、下流を潤す事はない。ただ上澄みだけか流れてい く川が豊かなはずは無い。森が海の母といわれるが、こうなると母ではいられなくなるのかも知れない。
大型の台風が上陸しそうだ。
台風被害は勿論ないほうがいい。
しかし、台風があるおかげで、深い入り江の多い日本の沿岸は水が入れ替わる。
台風でもなければ流れの無い入り江の深いところでは、水が死ぬ。
自然は別に人のためにだけあるわけではない。
その自然に手を入れるということの難しさ。

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天野敏のテクスト 閑話休題

茅ヶ崎の蛇 荒崎の亀

自宅を出た道路の片隅になにやら見かけないものがある。道路より一段高くなったお向かいさんの低い塀のすぐ下。 よく見ると蛇だ。私の親指よりちょっと太め、長さは1メートルくらい。8の字にとぐろを巻いて鎌首をもたげている。 口をカッと開き、虚空に向かって威嚇するようにじっとしている。

子どもの頃はそこらじゅうに空き地があった。そんな空き地でよく蛇を捕まえては遊んだ。尻尾を掴んで振り回した り、怖がる女の子に投げつけたりした。小さな穴を掘り、蛇を投げ込んでみんなで小便を引っ掛けたりした。しかし、 アスファルトで舗装された道路の上の蛇は、場違いで悲しい。そっと手を出して頭に触れる。相変わらず蛇は虚空をに らんで動かない。死んでいた。今にも躍りかかりそうな姿で死んでいたのだ。

ふっと数年前に見た海亀を思い出した。夏のある日、三浦半島の荒崎の友人宅に子どもをつれて遊びに行った時だ。 荒崎はその名の通り、荒々しいリアス式の海岸の景観で有名。車を駐車場に入れ、さっそくみんなで海岸に散歩に出た。 すぐ眼の前が漁港。港の脇の船揚場を抜けて岬の突端に行こうとした時のことだ。子どもが「あ、亀だ!」と叫んだ。 成る程亀がいる。アカウミガメ。甲羅の大きさは一抱えほどある。その亀が昂然と首をもたげ、辺りを睥睨している。 しかし、動かない。そこだけ時間が止まっているようにその亀も死んでいた。船のスクリューにでも傷つけられたのか、 甲羅の後ろに大きな傷があり、わずかに血が流れた跡があった。腐臭もしないことから死んで間もないことが判る。 傷ついた身体で陸に上がり、水際から20メートルほどで力尽きたに違いない。何を思って20メートルの距離を歩ん だのかは、勿論判らない。しかし、死んでもなお昂然と首をもたげた姿からは、自然に生きるものの気高さが迫ってくる。 生きる意志を強く訴えてくる。

蛇にしても亀にしても、何故そのような格好で死んでいったのかはわからない。全ての蛇や亀がこのように死ぬわけで もないだろう。しかし、その姿は、ぬくぬくと生きている人間に、何かを叩きつけているようだ。生きて生きて、最後の瞬 間まで生きて、ついに生きたまま時間が止まる。生きているように死ぬ。死んだように生きるな、そう言っているのかもしれない。