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閑話休題

2017年交流会に寄せて

2017年春の交流会に寄せて

今年の交流会は残念ながら雨にたたられ、思うように稽古できなかった部分もありました。一つは組手での交流を中止にしたことと、その後の懇親会にちょっとばかり苦労しました。ただ、思うようにならない、と言うのが武術の根本にあるので、これはこれでいい経験だと思います。私は、常に管理され平準化された環境で稽古してホントのことなんて判るんかね~、と思うほうですから。
交流会の意味
さて、恒例の交流会の意味をちょっと話しておきます。交流で各会の弟子同士が仲良くなるのは確かに良いことですが、それだけでは単なる仲良し会です。交流会の目的は単純明快、稽古おける目的意識の共有です。参加している太気拳協会の各先生は教える方法が違う。同じ太気拳で同じことを教えようとしていても、各先生に方法の違いが出てくる。それを補正して別の見方や方法に触れること、そしてより深いものに触れる機会になればと思うからです。逆に言えば、我々にできるのは、より深いものより良いものに触れる機会を後進に与える、この一言に尽きます。本物に触れない限り、本物を知ることはできない。知ることが出来なければ、あることすら知らずに終わる。つまり知ることが出来なければ求めることすらできない、と論理は単純です。無いものを求めるのではなく、有るけれども未だ届かぬものを求める。我々は幸運にも沢井先生に触れる機会を得た。初代王郷斎師から二代目澤井先生と繋がり、そして三代目となった我々がやらなければならない使命、それは本物を次代、つまり四代目に引き継ぐことです。
虚構の武術
現在の武術の世界はほとんどが虚構で成り立っているように思います。武術と名前が付くから、何か特別ものがあるんじゃないだろうか、との思いで武術を始める人が多いと思います。ところが実際に踏み込んでみると、何のことはない何処にでもあるスポーツ、運動に伝統と歴史のお飾りを付けたものに過ぎない。ちょっと気の利いた若者が入れば、数年すれば先生を超えてしまう。実戦を標榜しても、若者を納得させるだけの力を持つ指導者がいないのが実情。あとはそれぞれの集団のヒエラルキーを上るかどうか、しかない。これは求めるべきものを知ることが出来なかった結果です。現在太気拳や意拳、あるいはその他中国拳法を名乗るものは多いが、その中にどれほど多くの偽物が混じっていることか・・・。現在様々な流派がありますが、その違いは精々試合のルールを基にした差でしかないのが実情です。
武術に求めるものは何か
では、本物の武術は何を以って本物とし、虚構の武術はなぜ虚構に過ぎないのか。それは先人の言葉が明らかにしてくれています。
まず沢井先生の兄弟子にあたる姚宗勲師の言葉を引用です。
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「拳術で求める力量は、日常生活や仕事で慣れている、力の使い方や方式(例えば重い物を運ぶ、車を引く)とは異なり、特殊な意義内容を持つ。一般に、自分が元々持っている力を「本力」といい、拳術の訓練を通して獲得する力を「功力」という。拳術に用いる特有力である」
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つまり先ほど話した虚構の武術を支えているのが姚師の言う、誰もが慣れ親しんだ力つまり「本力」。だから身体能力に優れた若者がたやすく先輩や先生を超えることが可能となる。当たり前です、力の使い方や方式に違いがないなら、若者がチョイと経験を積めば簡単に先輩を凌駕する。本力では年齢の壁を超えられないからです。そして一定の動作を覚えた後の稽古は、と言えば退屈な動作の反復稽古。技は教えてもらったけど、どうしたらそれが使えるのかがわからない。後は結果に対する幻想を支えに続けるしかない。と言うよりそれ以外に方法がない。次に頼るのは重いものを持ち上げたりのトレーニング、つまり「本力」を高めるしかなくなる。これでは、教えるほうも単なるルーティンワーク、お仕事になるしかない。つまり姚師の言う「特殊な意義内容」は何処にも見えてこない。これでは虚構の武術と言わざるを得ない。
気と勁力の実際を知る
では、この虚構を脱出して本物に至るために何が必要なのか。答えは実に簡単だ。「特殊な意義内容」あるいは「気と気分」の実際はどうであるのか、求めるものを目の当たりにして目的が明確にする。ここにすべての出発点があり、これ無くしては武術へのアプローチはあり得ない。気や勁力と言われるものが何であるのか、を身をもって指し示し、明らかにすることが指導者の役割であり、学習者は「特殊な意義内容」を肌身で感じ取り、それをわがものにする事こそが武術の目的だと知ること。ここをスタートラインに設定しない限り、幻想・虚構から脱却することはできない。
交流会の意義はここに極まります。つまり出発点の確認。これは同時に到達点の設定でもあります。目的の無いところに達成はない、と実にシンプルです。
ともすれば技とか、やり方と言った皮相なものに捉われがちですが、武術の本質をしっかりと見極める。これが交流会の意味です。