太気拳とは
太気拳は、中国拳法の伝統から生まれた最も進歩的、革新的な拳法です。その特徴は実用的護身と健康増進にあります。強さとは生き生きと活気ある身体と気持ちから生まれます。では、太気拳の成り立ちとはどんなものでしょうか。
太気拳の源流
中国河北省に生まれた王薌斎師(1885~1963)は、幼いころは病弱であったと伝えられる。しかし、子供の頃から稀代の名人と言われた郭雲深より形意拳を学び頭角を現したと言う。実力を養った王師は郭師の死後全国を武者修行し、各門派の良所を採り、無駄を省き独自の拳法を築き上げた。無敗を誇る王薌斎師は「国手」の名で呼ばれ、自身はその拳法を形意拳から形(かたち)を取り去り「意拳」と称し、同時に大成した拳法の意味で「大成拳」と周囲から呼ばれる事もあった。
拳法の果実
王薌斎師の最も革新的な事跡は、文字通りそれまでの型中心だった稽古から「形」を取り去った所に如実に現れている。形を取り去る事によって、内勁・内功と名付けられた内部からの力に眼を向けさせ、育み、それこそが拳法の求めるべき果実だ、と位置づけた。そして同時に、形を中心にした稽古では、十分に身体を動かしその結果、満足感や達成感はあるものの、体格・身体能力の限界を超える事は出来ないとした。しかし、形を取り去った後、立禅に代表される静的な稽古を中心に内勁・内功を充実させることで、その限界を乗り越えることが可能である事を証明した処にある。北京に住まいを定めた王師は、後の太気拳宗師沢井健一の兄弟子にあたる姚宗勛師を中心に数多くの俊英を育てた。
神秘主義の排斥
1940年王師は新聞の取材で多くの武術家に、旧弊や神秘主義を廃し共に真の武術の進歩を、と呼びかけたが賛同するものは少なかった。今これを読むと自信に溢れる気概から迸る真摯な呼びかけだが、この時代も、既に封建主義や神秘主義、問派主義が武術界に蔓延していたのが良く判る。しかし同時に、この記事の頃澤井師が既に門下に列していた事には弟子として感慨を覚える。
宗師沢井健一の敗北
「王師に出会ったのは32歳の時だった」。そう話してくれたのを私は憶えている。沢井師は若い頃から武術を好み、柔道・剣道・居合いと其々に道を修め、中国に渡った後も武術の稽古は欠かさなかった。ある時知り合いから「国手」王薌斎の名前を聞き、伝手を辿り手を合わせることになる。とすれば、当時王師は50歳前後。脂の乗り切った壮年の沢井健一は十分自信を持って手合わせに望んだ事は想像に難くない。柔道剣道を基礎に鍛え上げた身体を持った往時。それを思い出して「あの頃は首を吊っても死なないと思っていた」と語っていたほど充実した頃だ。ところが結果は惨敗。「その時は、頭が真っ白になり家に帰って布団に包まって放心した」と当時の思い出を語ってくれた。折れそうな心を立て直したのは、やはり武術を心から愛する心であり、同時に負けた悔しさを噛み締めることで、それを意地と共に新たな希望に変えたのだろう。沢井師の本当の強さはこの心の強さだろう。
決意の入門
当時外国人は弟子に採らなかった王師に血書を渡して弟子入り。後に中国人で弟弟子に当たる方々の話によると「最初は日本人だからあまり付き合わないように、と思ってたんだが、とても熱心で我々と一緒に食べたり飲んだり稽古してるうちに垣根がなくなったんだ」。当時の緊張した日中の関係を考えると、武術への情熱を通して心を繋げた沢井師の性格、心持に暖かいものを感じる。武術と言う共通の目標の前に国や人種の垣根は取り払われる。後に中国に留学する事になる弟子に「日本と中国の架け橋になれ」と送り出すことになるのはこんな経験からではないだろうか。
中国から日本へ 産声を上げた太気拳
そして出会いから10数年を師と共に過ごして敗戦、帰国後の混乱。そして意拳など誰も知らない中、つまり共に稽古する仲間の無いところでも稽古はひたすら粘り強く続けられた。誰一人理解するものの無い中で、ひたすら師の姿を追いながら立禅を組む姿を思うとき、鬼気迫るものを感じるのは私だけではあるまい。以後再び会うことは叶わなかったが、ある立会いで「これが王師の言われた気か!」と拳法に眼を開く。帰国時に王師より新たに拳法を開く許しを与えられていた沢井師の「太気至誠拳法太気拳」が産声を上げたのだ。王師との邂逅、中国での修行、そして帰国してからの孤独な稽古が報われた瞬間だ。
梁山泊 次代へ繋がる太気拳
以後沢井師は明治神宮での早朝稽古を中心に弟子に伝え始め、同時に武術界に大きな影響を与えた。後に極真会を組織する大山倍達氏との交誼から空手関係者が多かったが、「実践中国拳法 太気拳」を出版したことで、沢井師に教えを請う弟子が増え、当時の稽古場所だった神宮には猛者が集まり、毎週組み手を含めて稽古を重ねるようになった。また外国からの来訪者も多かった。稽古後の喫茶店でのひと時は、澤井師の話を聞ける楽しみな時間だったが、その折に「此処は梁山泊みたいなもんだ」と評した。志を同じくするものが、痛みを分かち合いながら切磋琢磨した頃で、先師から受けついだものを次代に渡すさんとする情熱と、受け継ごうとする熱気の溢れた時期だ。拳法に初心の者もいたが、多くは既存の武術に飽き足らず、あるいは限界を感じて参加した者が多かった。
神宮での切磋琢磨
稽古の最後は常に先輩も後輩も無関係な組み手。そんな中では、稽古年月の長短とは全く別に自然に序列のようなものも生まれる。「力の差はほんの少し、紙一枚分、髪の毛一筋の違いを乗り越えるのが大変なんだ」そう何時も弟子に励まし聞かせた。しかし、その差を乗り越えられずに去った弟子も勿論多い。また時に年齢を重ねた者が入って来る時もあったが、話が年齢に触れたとき「君、60代は青春真っ盛り、一番良い時だ」と言われたのが印象に残る。
1988年7月逝去85歳。直前まで神宮で指導した活気溢れる姿は、拳法のみならず生き方を教えてくれた。