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会員・会友員のテクスト 会員Yの太氣拳日記

亀とガメラ

 今まで基本的にしょうもないエピソードや個人的な心構え的なことだけ書いてきましたが、ほんのちょっとだけ自分なりの身体論というか、武術そのもののことも書いてみようと思います。当然ながら、信用して良い内容ではありません。わたしは太氣会の中でも年数が浅く、下から数えた方が早い実力しかない者ですから、そんなペーペーの理論などがアテになるわけがありません。
 特にわたしは思い込みが激しく、時々練習中に電撃のような閃きに襲われて「わたしは天才じゃないのか」と思うことがあるのですが、一週間も経つと黒歴史になっています。夜中に書いたラブレターみたいなものです。
 それにしても、弱い人の書いた武術論というのは、実用的には役に立ちませんが、読み物としてはちょっと新しくて面白いかもしれませんね。貧乏な人が書いた「お金持ちになる方法」みたいです。

素人が最強?

 太氣拳を学んでおられる方は、武術や格闘技をよく知らない友人などに「太氣拳ってどんな技やるの?」などと聞かれて困った経験はないでしょうか。
 澤井先生はそういう時に立禅を見せた、というような話を聞いたことがありますが、下々の小市民たるわたしなどは、到底そんな度胸のあることは出来ず、テキトーにニヘラァと笑ってごまかすしかありません。空手や他の中国武術のような型があればとりあえずそれを見せることも出来ますし、少林寺の人なら立関節でもやってみせたら素人は誤魔化せると思うのですが、太氣拳にはそういう分かりやい「技っぽいもの」が全然ありません。
 それこそ意拳・太氣拳が真髄むき出したる所以である、というようなことは、実際に練習されている方には明々白々なわけですが(別に「見せるもの」がある武術がダメという意味ではありません、むしろ正直ちょっとうらやましいです)、そんなことは一般の人には通じません。澤井先生は「技なんか最後の三日でいい」とおっしゃったそうですが、普通の人は武術といったら「ちょっとしたコツ」みたいので手首の関節を捻ったりするような話だと思っているので、そんな高級な話は通じません。ちなみに、三日だと流石にちょっとキツイかと思うのですが・・。
 でも、ここには本当に大事な要素が隠されています。
 以前に天野先生が「武術なんか才能だ」ということを書かれていました。身も蓋もない話ですが、要するに「ちょっと技なんか練習するより、元からはしっこいヤツの方がずっと強い」というお話です。こう言ってしまうと、正にその武術を練習しているわたしたちとしては実にションボリしてしまうのですが、意拳・太氣拳でアプローチしようとしているのは、この「はしっこいヤツ」の「はしっこさ」源のようなものかと思うのです。
 「技やって見せて!」と言われて「いや、技とか特にないので」と答えたら、一般の方には「なんや、それなら素人やないか」と言われてしまうかもしれませんが、素人で強い人が一番強いのです。
 素人が格闘技者より強い、という意味ではありません。素人のままでかつ強いような人の持っているその「強さ」こそが、最も本質的だ、という意味です。実際、そういうナチュラルに強い人というのは存在します。格闘技や他のスポーツをやってこられた方なら、今までの人生で何人か見たことがある筈です。
 素人の段階で弱い人間が、突き蹴りや技を覚えて体を鍛えても、それはそれなりに強くはなります。ですが、実際にやってみれば分かることですが、二三年もするとそうやって身につけられる強さは飽和してしまって、そこから先へはなかなか進めなくなります。そうこうしているうちに若くて元気な人が後からやってきてあれよあれよという間に敵わなくなる、というのはよくある話です。
 意拳・太氣拳でやろうとしているのは、素人のままで強いような人の持っている「はしっこさ」みたいなものへのアプローチで、ここが変わると、本当にすべてが変わっていきます。しかも二三年程度では打ち止めになりません。逆に言うと時間がかかるのですが、かける時間だけの値打ちのあるものです。
 こう書くと何とも抽象的で、「そんなもんホンマにあるんかいな」と思われても仕方がないのですが、わたし自身の経験から言っても、何か自分の体の中に隠されていた秘密機能を発見するようなドラスティックな変わり方をします。わたしはよく夢で、自分の住んでいる家に知らない部屋があった、というようなのをよく見るのですが、丁度そんな感じです。もうかれこれウン十年だかこの体を使ってきたのに、そんな機能がついてるなんて知らなかった、みたいな感じです。
 で、最後に蛇足ですが、上で「二三年で打ち止め」などとネガティヴなことを書いてしまった一般的な練習ですが、わたし個人としては、これもそんなに馬鹿にしたものではないと思っています。天野先生なら鼻で笑うかもしれませんが、こうした一般的な練習は、確かに誰でも短時間である程度まで強くなります。最初のうちなら、それほど精緻な訓練をしなくても、根性で頑張るだけで上達するものです。限界があるのは確かですが、それはそれで無意味なものではありませんし、特に若いうちは大いにやってよろしいことかと思います。澤井先生は他の武道で黒帯になるまで弟子にとらなかったと聞きますが(単にふるい落としのためかも分かりませんが)、逆に言えばそれくらいはやっても全然問題ないし、むしろ意拳・太氣拳にとってもプラスになるのではないかと思っています。武術系には時々、一般的な格闘技や筋力トレーニングをやたら馬鹿にする人がいますが、格闘技者は本当に強いですし、格闘技と武術には確実にクロスオーバーする部分がありますから、変な癖やこだわりで凝り固まってしまわなければ、武術でも必ず活きる方向にもっていけると思います。

動物と怪獣

 「素人のままで強い」といえば、動物です。
 獣的な強さというのは、一般的に言っても武術の核心の一つなのではないかと思いますし、実際、割りとよく言われる表現です。
 ただ、そう言ってしまうとまた何とも抽象的ですし、山ごもりして獣のような暮らしをしたら強くなるかというと、別にそんなこともないでしょう(多分)。「獣的な強さ」というのが抽象的になってしまうのは、わたしたちの見る動物というのは、あくまで人間の目で見た人間ならざるものとしての動物だからです。つまり、外からのイメージでしか動物を捉えられていないからです。
 ですから、本当の動物、内からの動物ということを理解しようとすると、もうちょっと違うイメージが必要になるように思います。
 そういう時、わたしが思い浮かべるのは怪獣です。怪しい獣と書いて怪獣。これはもう、怪しいです。
 太氣拳の稽古をしていると、時々自分が怪獣になったような気分になります。もう、大きい木とか丸ごと引っこ抜いて投げつけてしまうような気分です。もちろん、実際に木を引っこ抜くことは出来ないので、気分の問題なのですが、本当にそれくらいの勢いで、「覇気」が足元から登ってきて髪の毛が逆立つような「ガオーッ」という気分になります。これは本当に不思議な体験で、やってみないと分からないものかと思いますが、やれば「これが覇気というものかっ!」と実感できます。
 怪獣というのは怪しい獣ですから、もう話なんか全然通じません。
 シャブ中のヤクザなんかより、もっと全然話が通じません。
 ゴジラがガーッとか言いながら新幹線を掴んで投げたりしていましたが、あの時ゴジラは、掴んでいるのが新幹線だとか、そこに人間が乗っているとか、そんなことは全然考えていなかったと思います。自分が何をやっているのかも分かっていません。もう何だか分からないけれど、掴んで投げちゃうのです。
 この自分でも何をやっているのやら分からないような話の通じない感じ、これが怪獣です。
 実際、太氣拳の先輩方の中には怪獣っぽい感じの人が何人かいらっしゃいますが、実名をあげるとしばかれそうなので伏せておきます。

亀とガメラ

 これはつい最近気付いたことなのですが、亀をイメージするとなかなか良い具合になります。
 推手で思うような動きができず、先輩方の動きをよくよく観察して、真似をしようとしているうちに、「これは亀さんや!」と気付いたのです。
 亀というのは、背中に大きな甲羅を背負っていて、手足も短くてリーチなんて全然ありません。甲羅を背負っているから、甲羅ごと動くしかありません。ちょっと甲羅を外してジャブを打ったりとかは出来ません。
 特に太氣会最古参のA先輩が、亀っぽいように感じたのですが、このA先輩と推手をしていると、何か仕掛ける度に先輩の手が勝手にわたしの顔にやってきます。それも狙って打ったとかカウンターとかいった風ではなく、ただ出していた手がうっかり当たってしまったような、自動追尾的な感じがあるのです。この自動追尾感というのは、A先輩に限らず、太氣会の強い先輩方は大抵持っています(個人的には、体格的なこともあり特にこのA先輩とT先輩を観察しており、この二人は格別亀です。ミドリガメです)。A先輩自身も「俺は何もやっていない、お前が勝手に突っ込んでくる」と仰り、「お前はバタバタ動きすぎだ」「両手が連動していない」とよく注意されています。
 自分が亀だと思うと、甲羅があるから自由にもならず、片手で器用に打つなどということは出来ません。仕方がないので、両手両足が繋がったようにオイショオイショと動くしかありません。これは一見不自由なのですが、やってみると良い感じに両手が連動してきて、体が開かなくなります。
 亀さんは不器用で遅いですから、ウサギさんのようにピョンピョン素早く仕掛けたり出来ません。地道にやるしかないです。でも、亀を守って甲羅を大事にオイショオイショとやっていると、そのうち相手が勝手に崩れてくれて、上手いこと中に入ることができる・・・こともあります(笑)。相手がもっと亀だとやっぱりやられますが。
 自分から仕掛けず、自分自身を保っているうちに自動で相手に入っていく感じは、ウサギと亀の競争にも似ています。ピョンピョン素早く動くことは出来ませんが、最後は勝つのです。アキレスと亀でも良いです。遅いのに早い。おぉ、なんだか秘伝っぽいじゃないですか。
 おまけに「亀は万年」ですから、縁起も大変よろしいです。
 この亀のことをトチ狂って天野先生にお話してみたところ、「もうちょっと手が長い方がいいけどな、カッパじゃないか」と言われました。でもカッパだと、ほぼ人間型で、イメージ的に手足がひょろ長くて器用すぎる感じがします。フリッカーとか打ってきそうです。ここで言う亀は、もう少し甲羅が大きくて不器用なのです。頭にお皿も乗っていませんし、キュウリも食べません。
 人型だとしても、亀仙人みたいな感じです。そう言えば、悟空とクリリンも甲羅を背負って稽古していましたし、これはもう、亀は強さの秘訣に違いありません。
 そう思ってみると、太氣拳の強い人達は、皆んなどこか亀っぽいです。忍者タートルズです。
 もちろん、一人ひとり個性があって、違いはあります。亀だってミドリガメとかゾウガメとか色んなのがいますから、亀なりにバリエーションがあるのは当然です。でも、亀は亀です。皆んな甲羅を背負っています。
 亀とは言っても、直立二足歩行なので、本物のリアル亀とはちょっと違います。二本脚で立ち上がって、少し前傾で腰を落とした感じです。
 そう考えると、一番ズバリなのはガメラだ、ということに気づきました。ガメラも二本脚で立って、腰が落ちた感じです。ガメラの腰がどの辺なのかよく分かりませんが、見るからに安定している感じです。
 しかもガメラなら怪獣です。怪獣のイメージと亀のイメージを兼ね備えたガメラは、体の捉え方としてベストなように思います。
 これは素晴らしい発想のように思うので、わたしが先生だったら秘伝にして、一升瓶持ってきた弟子にしか教えないのですが、先生ではないのでここに書いてしまいます。ガメラです、ガメラ。モスラじゃダメですよ。
 しかしよく考えてみると、ガメラというのは無茶苦茶な怪獣ですね。「亀を大きくして戦わせてみよう」とか、普通はちょっと思いつかないです。ガメラの発案者は一体何を考えていたのでしょうか。
 それにしても、やればやるほど亀っぽくなっていく武術というのは、正直、あんまりカッコ良くないですね。女性会員が増えない訳です。

意志と反応

 亀のことを書いていて、天野先生が「意志と反応は同居しない」というようなことを書かれていたのを思い出しました。
 自動追尾だけれどカウンターではない、というのは、カウンターというのは意志のものだからです。カウンターは意志に対して意志で後の先を取る技術です。これはこれで大変素晴らしいもので、尊敬に値する技術だと思いますが、意志と意志というのは鉛筆の先っぽと先っぽを合わせるような感じで、点と点がぴったり合うタイミング芸なくして成り立ちません。これは限られた状況を除くと大変難しいことで、神経のすり減ることです。
 一方で自動追尾というのは、体の状態から出てくるものです。歩いていてうっかりぶつかって「あ、ごめんなさい」というような、意図せずして勝手に当たってしまう感じです。これは意志よりも速く、一度状態が出来てしまえば後は点と点を合わせるような芸は必要ありません。アクシデントが起こるのを待っている感じです。
 そうは言っても、この状態を作るのが簡単ではないので、やはり職人芸の一種であることに変わりはないのですし、時間もかかるのですが、根本的に性質が異なることではないかと思います。

「今は」

 と、尤もらしいことを書いてみましたが、最初にお断りした通り一介の練習者の言うことなどアテになりませんし、わたし自身も来月になったら違うことを言っていそうな気がします。
 理論や言葉による説明には「気持ちが納得する」効果があります。理論が分かったところで理論通りに体を動かせるかどうかは別問題ではあるのですが、「気持ちが納得する」だけでも意味はあります。天野先生がどこかで「素直であることが上達の秘訣」といったことを書かれていましたが、気持ちが納得すれば、心も素直になります。頭ごなしに言われれば誰しも心が頑なになるものです。納得しないでも先生の仰ることには総て「押忍」という、まっさらな心の持ち主であれば、別に納得など要らないかもしれませんが、わたしのように心がネジ曲がった人間は、納得できないとなかなか素直になれないものです。筋の通った分かりやすい話というのは(たとえその理論通りにことが運ばなかったとしても)、人の心を素直にして、物事を受け入れて習得しやすくする効果があります。
 一方で、理論というのはあくまで仮説の積み重ね、ただの言葉ですから、絶対視してしまうと大変危険です。先生だって、自分のやっていることを100%言葉にしたりは出来ないのですから、まして下々の者が自分を説得するために考えだしたオレオレ理論など、「そういう考えもある」程度に流しておかなければ、かえって頭も体も固くなって自然な上達を妨げることになりかねません。
 身体論や武術の世界には、明晰判明で武術オタ心を満たす理論を掲げる方がいらっしゃいますが、どんな理論も話半分程度に聞いておいた方が身のためです。特に「日本人はこうだけれど、西洋人はこう」みたいな紋切型の単細胞な発想は警戒しないと危ないです。東洋と西洋とか、そんな単純に物事切り分けられる訳がありません。「じゃあモーリタニア人はどう動くんや」とかツッコミどころ満載です。伸筋と屈筋とか、骨盤前傾と後傾とか、怪しげなものが沢山あります。世の中も生き物の体ももっとややこしいもので、神様の作ったものを人の言葉でスッパリ切り分けようなどというのがおこがましいです。
 太氣会最強の一人M先輩が、ある時こんな話をされていました。「考えるのは良いけれど、どんな考えも『今は』を付けないとダメだ」。つまり、練習の過程で自分なりの仮説を立て、しばらくそれに沿って稽古してみることは有効だけれど、あくまで暫定的なもので、「今は○○と考えて○○してみる」くらいに思っておかないといけない、ということです。この心構えはとても大切だと思います。
 尤も、その時M先輩は既に結構酔っ払っていたので、そんなことを仰ったのは覚えていない気もしますが・・。

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靴のはなし、出来ないことの素晴らしさ、言葉の受け止め方

 「入門記」でも書きましたが、わたしは稽古について、なるべくゴチャゴチャ頭を使わないように気をつけています。
 本当は人一倍屁理屈を捏ねるのが好きで、変な「自分理論」なら山ほどあるのですが、誰の役にも立ちませんし、うっかり披瀝してしまうと二ヶ月後には黒歴史になっているだけなので、余計なことは書かないでおきます。
 分析的な内容は賢くて実力のある方々にお任せして、ここではしょうもない太氣会小ネタでも披露しておきます。

靴のはなし

 わたしは入門以来、ベアフット系のソールの薄いシューズを練習に使っています。
 靴なんて何でも良いかもしれませんが、あまりクッションの効いていないタイプの方が武術の稽古には向いているようです。太氣会の重鎮A先輩は、業務用?のシューズでソールの薄いものを見つけてきて、他の会員にも薦められています。
 それはともかく、わたしは現在、練習に使う靴と練習に行く靴を分けています。つまり練習場についてから靴を履き替えています。どちらの靴も同じ靴の色違いで、最初の頃は来たままの靴でそのまま練習していました。
 同じ種類の靴なのに、履き替えるようになったのには理由があります。

 一足目の靴が少しボロくなってきて、二足目の同じタイプの靴を新調した時のことです。
 いつものように稽古場所で禅を組んでいると、天野先生がおもむろにやって来られました。
 そしてわたしのつま先をグッと踏みつけると、「つま先を持ち上げ、踵を踏み込む力!」とおっしゃったのです。
 「つま先を持ち上げ、踵を踏み込む力」というのは、非常に重要なもので、禅の時も動いている時も、この力を絶やさないようにしなければなりません。おそらくその時は、わたしの禅でそこが欠けているように天野先生は感じられ、それを教えるためにつま先を踏まれたのでしょう。このように実際に足を踏んだり誰かに持ってもらって抵抗をかけたり、という練習も、時々行われています。
 それは結構なのですが、その時のわたしの靴は、おろしたての新品。
 不動の姿勢でピカピカの靴を踏んづけられていているわたし。踏んでいる天野先生も踏まれているわたしも真剣なのですが、傍から見たらかなり笑える状況です。コントみたいです。
 ともあれ、そんなことがあって、わたしは練習用の靴を別にするようになりました。
 まぁ、単に練習に使っているとすぐ靴がボロボロになるので、そのまま電車に乗るのが恥ずかしい、というのもありますが・・。

 ちなみに、島田道男先生の道場では、屋内練習であるにも関わらず、組手の時は靴を履くそうです。足を踏んづけられるから、とのこと。
 交流会などでも、島田先生はよく「相手の足を踏め! 足を踏めば手が出るんだから!」と仰っています。
 打つことにとらわれると「相手の地位を奪う」ということが疎かになりますが、足を踏むような意識を持つことで、相手を崩す端緒をつかむことができる、ということかと思います。
 とはいえ、普通は「足を踏むくらいのつもりで」ということで、実際に足を踏んづけることはそんなにないかと思うのですが・・。

 太氣拳の稽古では、ソールの薄い靴が便利ですが、逆に上側はちょっと厚めの靴の方が良いかもしれません・・。

靴のはなし2

 靴つながりで、もう一つお話を。
 天野先生がよく仰ることに「五本の指で地面をつかめ!」というものがあります。
 これは非常に大切な教えで、大切すぎてもったいないのでここではお話しません(笑)。入会して天野先生に伺って下さい。
 ちなみに、同じく天野先生のお言葉で、「五本の指でつかまないでいいなら、五本も指がなかった筈だ」というのがあり、これはとても心に残っています。
 今あるもののすべては、ささやかなりとも、なにがしかの理由があって今ここにあるのであります。
 人間は、進化史的にはごく最近になって急激に生活様式を変えたため、一見すると「無駄」に思える部分が身体にはあります。また、糖尿病のように、かつてはプラスに働いていた筈の因子が、現代生活の中で徒になってしまっている例もあります。
 とはいえ、少なくとも人類の歴史のほとんどの中で、今持っているものはすべて「あるべくしてある」ものだった筈です。
 そして武術という、ある意味、身体の原初的使用法を探求する営みの中では、そうした「あるもの」を一旦はそのままに受け止める、ということが大事かと思います。

 と、ここまでは良いお話なのですが、太氣会の会友員の方に、他流の指導者でもある古参の某先輩がいらっしゃいます(太氣会には他流で長いこと修行を積まれた方や、今現在も指導者である方が何人もいらっしゃいます)。
 この方は少なくともわたしの見るところ、間違いなく「強い」のですが、太氣の稽古にはあまり熱心ではないようで、天野先生の教えには沿っていないところも色々あるようです。
 この方に対し、天野先生がいつものように「五本の指で地面をつかめ!」と指導されたところ、返事が秀逸でした。
 「つかめません」「だって、間に靴がありますから・・」。
 すごいです。
 いや、確かに間に靴があります。だからつかめません。そこは間違ってはいません。
 でもそういう話ではありませんよね・・。
 仮にこういう疑問が浮かんでも、普通は自己ツッコミが入って意図を汲もうとするものかと思うのですが、ある意味、度胸があるというか、肚がすわっているようにも思います。
 天野先生は呆れていらっしゃいましたが、個人的には、こういう天然力もひとつの魅力かと思いますので、それはそれで活かす方向でやっていって頂きたいなぁ、と思っています。

独身問題

 以前に鹿志村先生のインタビュー記事を読んでいたら、澤井先生が最初の頃は「男は早くに結婚するようではイカン」というお話をされていたのが、皆んながあまりに結婚しないものだから段々言わなくなった、というお話をされていました。
 そんな「伝統」があるのか、太氣会も未婚率が高いです。
 客観的に見て「花婿さん候補」として決して条件の悪くない方もいらっしゃるのですが、一向に結婚される気配がありません。
 もちろん、結婚なんてしようがしまいが本人の勝手なので、一生独身でも全然問題ないと思います。でも天野先生だってご結婚されて三人もお子様がいらっしゃるのですから、結婚して弱くなるということはないと思うのですが・・。
 なんというか、武術のこと以外頭にないような人が多いのです。
 その一人であるAY先輩は、長年フルコンの修行をしてこられ、太氣拳も熱心に練習されているムキムキマッチョの消防士さんです。
 消防士さんというのは割とモテるそうですし、AY先輩は顔立ちも精悍で男前、礼儀正しいしタバコも吸わないし、実直で変な遊びにも興味がなさそうなので、いくらでもチャンスはありそうに見えます。しかしこのAY先輩、太氣会の中でもとりわけ「武術脳」というか、武術・格闘技以外の話をしているのをほとんど見たことがありません。
 ある時、このAY先輩と別のI先輩、わたしの三人で、稽古帰りに電車に乗っていました。
 その時、どういう話の流れだったか、わたしがI先輩に「いやぁ、でもAYさんは独身ですからねぇ」と言ったのです。
 するとAY先輩が一言、「いや、自分、極真じゃないッスよ」。
 ・・・あ、ハイ・・・。
 ある意味、なぜAYさんが独身なのかが納得できたエピソードでした。

普通の人に納得してもらうこと

 太氣拳の稽古は、一見したところでは何をやっているのやら意味不明なものが多いです。そして太氣会の稽古は基本的に公園などの公共の場で行われているため、ときどき不思議に思った方に話しかけられることがあります。
 わたしは割と話しかけやすいポジションにいるのか、よくお年寄りや子供の「質問ターゲット」にされます。別にわたしもフレンドリーな性格では全然ないし、むしろ取っ付きにくい方だと思うのですが、他のオジサンたちが余程強面で話しかけづらいのでしょう。消去法でわたしのところに来るようです。
 純粋な気持ちで質問されているなら、礼節をもって真面目に応えたいのですが、一言で説明できるものでもないので、なかなか悩まされます。
 一度外国人の女性に「これは体操ですか?」と尋ねられたことがあります。
 この時は、禅を組んでいた澤井先生が外国人に「これは何か」と尋ねられて「あなたには分からない」と答えた、というエピソードを思い出し、カッコ良く答えようかと思ったのですが、小物なので「あ、いや、体操とはまた違うんですけど・・アハハ・・」くらいしかリアクションできませんでした。

 つい先日も、小学生の女の子三人組に話しかけられました。
 余程気になっていたのか、最初は遠巻きに眺めていたのですが、勇気を出して近くにやってきて「いっしょに言おう」「ね」「せーの」「何やってるんですか?」と可愛く尋ねられました。
 こういう時は、大人として親切に答えたいものです。
 「ブジュツって分かる?」と突き蹴りの動きを見せたりして、「最初はゆっくり動いて、段々速く練習する」とか、もっともらしいことを言って納得して頂きました。本当のところ、こんな説明はちょっと嘘な訳ですが、子供やまったくの素人の人を相手にして大事なのは、とりあえずざっくりと納得してもらう、ということです。ちょっと嘘でも、ツカミが大事です。

 武術は見世物ではありませんし、「興行」をやっている訳ではないですから、別に素人の「お客さん」を喜ばせる義理はありません。ありませんが、武術をやっている人間も人の間で生きていて、世の中に生かせれている訳ですから、人との関係とか、「相手に分かるように自分を表現する」ということも大切でしょう。武術以前に一市民として、そういうことは疎かにしてはいけないと、個人的には思います。
 こういう時、高い蹴りなどが得意だと、素人受けし易くて大変便利です。少林寺のような逆手技なども好都合だと思います。
 わたしは太氣会に入って以降、組手で上段を蹴ったことはほとんどないですし、後ろ回しや二段蹴り系なんてもう一生使わない気もしますが、見せ芸として一応ちょっとは練習しています(後ろ回しは身体操作上のエクササイズとして有効だと個人的には思っているのですが・・)。
 自分の場合、そもそも格闘技と縁をもったキッカケも「飛んで回って蹴ったらカンフー映画みたいでカッコイイ」とか、そういうレベルの話だったので、「初心」を忘れないためにも(笑)、見た目の良いことは一応引き出しにいれておきたいです。

 どんな「専門」でもそうですが、世の中のほとんどの人はその分野についてよく知らないし、見る目もありません。そのお陰で「専門」が専門たりえているのです。世の中皆んなが医学のエキスパートなら、医者も商売あがったりです。
 そういう意味で、何かができる、何かを知っている、ということは、それができない、知らない人に生かされている一面もあるわけで、そういう人の理解を得て仲良くしていくということは、(専門そのものを深めていくということとは別問題として)結構大事なことだと思っています。
 それに、「その他大勢」の人たちと日頃から仲良くしておかないと、万が一何かの間違いで誰かを半殺しにしてしまった時に、誰も味方してくれなくなりますよ!

普通であること

 天野先生はよく「普通じゃなくならないとダメだ」ということをおっしゃいますが、同時に(別の意味で)「普通である」ということも大切だと、わたしは思っています。
 前にも書きましたが、個人的には、天野先生の良いところの一つは、「普通」な感覚も併せ持っているところだと感じています。ボケツッコミで言うとツッコミタイプです。これは好みというか、相性のようなお話なので、別にどっちが良いとかいうことではありません。
 ちなみに、「師匠がボケだとツッコミの弟子が集まり、師匠がツッコミだとボケの弟子が集まる」というボケツッコミ仮説を密かに温めているのですが、特に根拠はない上、立証できても武術の進歩にも学問の進歩にも寄与するところがないので、忘れて下さい。

 話を戻しますが、前に天野先生が「稽古というのは、細い糸を少しずつ撚って撚って、縄にしていくようなものだ」と仰ったことがあります。
 何か秘伝とか必殺技とかを習うとズバーン!と急に強くなる、とかいうことではなく、本当に細かい、紙一重の違いのようなことを、丁寧に丁寧に積み上げていくことで、本当の強さが培われる、ということです。
 伝統武術系の世界では、やたら達人とか秘伝とか、雲の上みたいな話を好む方が時々いらっしゃいますが、どんなに不思議に見えるものでも、ある意味すごく「普通」というか、細かく地道な工夫を積み上げていった結果なのだと思います。ある日夢枕に宮本武蔵が立って秘術を授かった、とか、そういうのは絶対ウソだと思います。
 「戦う編集長」の山田英司さんが、以前に「茶帯を目指せ」ということを書かれていました。やれ達人や絶招やといった話をやたら好む人がいるけれど、それ以前に茶帯のレベルにならないとどうしようもない、というお話です。茶帯というのは、黒帯以前な訳ですから、武術・武道の世界では「まだまだ」ということになるのでしょう。一方で、白帯とか素人から見ると、茶帯レベルの人というのは、もう「絶対ムリ」というレベルで強いものです。それくらいの強さをまず目指せ、達人になるのはそれからでも遅くない、というお話です。
 太氣会には帯の色も段位もありませんし、天野先生は「大事なのは『ある』か『ない』かで、段がちょっと上がったなんてのは意味がない」といったことを仰っていますが、だからといって、ある日突然白帯が達人になる訳がないと思います。
 自分はとりあえず「茶帯」を目指しています。天野先生は否定されるかもしれませんが、茶帯だって相当なものですよ!

 こんなお話をするのは、わたしの心が弱くて、人一倍「一発逆転」的なロマンに惹かれるところがあるからだと思います。「未公開株で一攫千金!」とか「運命の人と出会って人生が急展開!」とかも、同じ種類のお話です。
 この手のお話というのは、要するに「細い糸を少しずつ撚って」いく努力が面倒くさくて、何か神秘的な技とか白馬の王子様とか、そういうものがやって来てすっかり変えてくれる、という、ご都合主義的なファンタジーに過ぎません。
 ファンタジーとしては結構ですけれど、現実にはそんな他力本願な姿勢では何事も成し遂げられないし、幸せにもなれないでしょう。
 どんなことでも「自分から動いて、自分で決めて、自分で責任を取る」しかないのです。そうでないと、たとえ一時的な成功を手にしたとしても、幸せにはなれないと思っています。
 騙して儲ける側なら、ちょっと見習ってみようかとも思いますが(笑)。

 わたしが入門したばかりの頃、天野先生にこんな話をされたことがあります。
 以前に普段の歩き方からして全然ダメな弟子がいたそうです。その人は禅を組んでも五分ともたず、仕方なく座ってやる禅から教えたとのこと。それが少しずつ少しずつ上達して、ある時ふと見てみると、普段の歩いている姿が随分サマになってきていた、というお話です。
 天野先生としては「昔ダメなヤツがいてなぁ」くらいのつもりだったのかもしれませんが、わたしはこの人のエピソードに結構感銘を受けました。
 わたしは打たれ弱い性格なので、他の人が三十分とか平気でやっていることを自分が五分もできなかったら、恥ずかしくて続けていくことが出来なかったと思います。
 それが辛抱に辛抱を重ねて、笑われながら努力することをやめなかったのです。
 それだけ頑張っても、その人は武術をやっている人間として大したレベルではなかったかもしれません。せいぜい運動音痴が普通レベルになったとか、偏差値30が50になったとか、その程度だったのかも分かりません。でもその人の「普通」は、他の人の「普通」の何十倍も尊いものだと思いますし、そういう人の積み重ねた努力の方が、狭い意味での武術を越えて、人生を豊かにしてくれるものではないのかなぁ、と思っています。

 自分はそこまでドン臭いタイプの人間ではないつもりですが、性格がネジ曲がっていて劣等感が強く、「せめて普通くらいになりたい」という思いがあります。
 また、これとは別の意味で、「人間である」というだけで、何か「普通」以下なようにも感じます。自分は野鳥や動物が好きなのですが、鳥や犬猫に比べても人間はあまりにドン臭いし、真っ当に生きるのに色々手続きが必要です。神様の声がちゃんと聞こえていない感じです。
 普通というか、自然になりたいと思っています。

出来ないことの素晴らしさ

 天野先生が「何かが出来ないということは素晴らしいことなんだよ!」と仰ったことがあります。
 武術の稽古というのは、配管の水漏れ箇所を探すような作業に似ている気がします。今のままでもとりあえず水は出てくるけれど、どこかで漏れている。出来ていないところがある。それを丹念に探して塞いでいく、という作業です。
 この時、「とりあえず水は出てくる」というのが、非常にクセモノです。
 蛇口をひねってもうんともすんとも言わない、というなら、「間違っている」ことが丸わかりですが(それはそれで問題ですけれど)、なまじ「とりあえずはなんとかなる」だけに、「上手く行っていない」ところに目が行きません。
 カモのお母さんは、「1、2、沢山」みたいな数の把握の仕方をしていて、八羽くらいいるヒナが一羽くらいいなくなっても気づかないようです。それが六羽、五羽と段々減っていって、最後の一羽か二羽くらいになったところで「・・あれ? 最近うちの子ちょっと減ってない?」とハッとする訳です。
 それでは遅すぎます。
 八羽と七羽じゃ大して違わないのかもしれませんが、我が子の失踪なのですから、よくよく目を光らせておかないといけません。
 そういう意味で、すごく些細な「足りないもの」「抜け」を見つけるというのは、骨が折れるけれど大切なことだと思います。
 太氣拳の場合、出てくる感覚に独特のものがあるので、1あるだけで100できているかのような錯覚に陥りがちなところがあると思います。こういう時、対人練習をやってみるとびっくりするくらい出来ていないことが分かります。0ではないかもしれませんが、せいぜいのところ2とか3で、10とか30とかある人の前では赤子同然なのです。こういう経験にはションボリさせられますが、勉強にもなります。一人で稽古している時も、自分の中で一つずつスイッチを入れたり切ったりしてみて、どこが通じていないのか確かめてみることがあります。
 「何かが出来ない」というか、「何かが出来ないことに気づけた」というのは、素晴らしいことだと思います。

言葉の受け止め方

 あまり分析的にならない、言葉にとらわれないようにする、ということは前にも書きました。師匠というのは、表面的に「矛盾する」ことを言うもので、その末節に囚われていると、一番大事なメッセージを捕まえ残ってしまうからです。
 大体、天野先生ご自身だって、自分が一体どうやって動いているのか、100%把握している訳ではないでしょう。
 別に天野先生に限らず、指導者一般について、何かが「できる」ということと、そのメカニズムを把握していて説明できる、ということは別問題です。言ってることとやってることが違う、なんてことはゴロゴロあるでしょう。
 仮に百歩譲って、指導者が自分の身体メカニズムを100%把握していて、かつ完璧に言表できるとしても、それを聞いた弟子や生徒が、その通りに出来るというわけではありません。中には特別センスのある生徒がいて、言われたとおりにパッとできることもあるかも分かりませんが、まずほとんどの人にはムリな話です。
 そもそも、別段武術や身体論の話に限らず、わたしたちの言語活動は「事実」と照応するような関係で成り立っているものではありません。そんな素朴なモデルでは、人間の言語活動の99%は説明できませんし、言語哲学の教養向け教科書でも読むだけで納得できる話です。
 言葉というのは、事実と向き合っているかのように見えて、まず行為として眺めることでしか受け止めることは出来ません。

 ここのところ天野先生は「踵を踏む」という表現を重視されていますが、以前はあまりそういう言い方をせず、むしろつま先よりの重心のお話をされていたと思います。
 この足裏の重心というのを例にとると、これは武術・身体論系の世界では一大テーマで、正に百家争鳴というか、拇指球が大事とか、つま先は受けてとか、いやいやアウトエッジが大事とか、内踝の下に来るようにとか、色々な意見があります。そもそもの重心タイプが人によって違う、として、分類論を行っている人もいます。
 これだけ色々なことを言う人がいる、ということは、裏を返せば、つま先だとか踵だとか「これだけやってればオッケー」みたいな簡単な話ではない、ということでしょう。
 「相手と向き合った時は足で立つべきか、それとも逆立ちすべきか」とかで議論する武術家はいません。犬が西向きゃ尾は東みたいなことだったら、こんな色んな意見が出てきたりはしないでしょう。
 こういう、客観的に見て「一筋縄に行くわけがない」「シンプルな答えがあるわけがない」ところにズバッとした言葉が来た時、聞く側はこれを額面通りに受け取ってはいけません。額面通りに取れば、それは端的に言って「間違っている」か、あるいは「極めて部分的にしか正しくない」言葉でしかないからです。
 話半分で聞いておけ、というのもありますが、それよりも、そういうシンプルな言葉で師匠なり何なりが表現しようとしている勢いみたいなものを、感じた方が良いと思います。
 そういう勢いを眺めていると、言葉そのものは大したことを言っていなくても、ハッとすることがあります。自分の中でモヤモヤしていたものが、「あっ!」という感じで、ひらめくことがあるのです。
 ですから、極端な話、言っている言葉の内容そのものは、なんだって良いのかもしれません。
 いや、何でもイイということはないかもしれませんが、重要なのは聞いている人に「あれ?」という気持ちを沸き上がらせることであって、何か事実を伝えるとか、そういう機能を果たしている必要はないのかと思います。
 敢えてつま先だの踵だのといったセンシティヴなテーマで言葉を発するというのは、ジャズのスタンダードを演奏するようなもので、「その人が今、こういうアレンジで演奏している」というところを見ないと、目の前で起こっていることを取り逃がしてしまいます。
 そして多分、「あれ?」という気持ちになりながらも真剣に向き合う、というような関係は、一朝一夕に築けるものではなく、指導者の側にとっても生徒の側にとっても、時間をかけて積み上げていくしかないものでしょう。
 島田道男先生のインタビューなどを読むと、「サッと入ってバーンとやっちまえばいいんだ」みたいなことをお話されていて、こうして文字にしてみると何がなにやらサッパリ分かりません。「バーン」って何ですか一体。でも、日頃先生の下で稽古されているお弟子さんたちにとっては、「バーンと」とか言われるだけで、何かピンと来たり、閃いたりすることがあるのでは、と思います。
 ものを教わるというのはそういうことで、言葉の受け止め方というのも、よくよく工夫しないといけないと思っています。

 これは余談ですが、武術に限らず、人の話というのは鳥が鳴いているように受け止める、自分の言葉も歌うように話す、ということは、自分の場合、色々と役に立っています。
 なまじ言葉に意味があって、しかも事実と照応しているかのように思えてしまうと、意味と意味がぶつかったり、「なんで分かってくれないの」という気持ちになったり、良くも悪くも強い感情と結びつきがちです。
 人の喋っていることなんてそんな大層なものではないし、逆に、鳥が歌っているのだって鳥なりにすごく歌いたい気持ちがあるのでしょう。
 だから、人の言っている内容そのものではなく、「あぁ、この人は今すごく訴えかけたい気持ちなんだなぁ」と眺めたりすることで、むしろその人の気持ちと素直に相対することができるように思います。逆に、自分自身についても、どうせ言っている内容は大したことではなくて、ただ歌いたいから歌うとか、踊りたいから踊るとか、そういうものなんだなぁ、と眺めています。
 自分は非常に感情の起伏が激しい人間で、若い時はそれで色々な失敗をしたのですが、そうやってぼんやり眺めるように努めてから、少し人間関係が楽になったように思います。

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会員・会友員のテクスト 会員Yの太氣拳日記

会員Yの入門記

 はじめまして、会員Yと申します。
 わたしは現時点でまだ太氣会入会から二年も経っていない若輩であり、到底修行記など書く資格もない太氣会最弱の末端会員です。ですから、これは修行記というより入門記です。
 先生や大先輩方の文章が一番参考になるのはもちろんですが、それだけでは入門を検討されている方にいささか敷居が高いかもしれませんし、あくまで参考用に、末端会員の乏しい経験を披瀝させて頂きます。

太氣拳以前

 太氣拳以前の自分について簡単に書かせていただきます。
 子供の頃は体操や水泳を習わされていましたが、親に無理やり通わされていたようなもので、本人としてはイヤでたまりませんでした。一人で本を読んでいる方が好きな暗い子供でした。
 今思えば軽いアスペルガー的なものだったのか、勉強だけはまるで答案が最初から書いているかのように不自由なくできたのですが、場の雰囲気が読めず、友達もうまく作ることができず、大体どこに行っても孤立していました。成長するに連れ、大分「人間」になってきましたが、相変わらず変人なところは変わっていません。
 そんなわけで、体を動かすこと自体は嫌いではなかったのですが、それ以前に学校に馴染むことができず、中学以降も部活なども熱心にはやりませんでした。
 大学生の時、友人に誘われて太極拳を始めました。
 太極拳といっても、中高年の方が中心に、地域のスポーツセンターなどで簡化太極拳などをやっているもので、まったくの健康体操です。それまでわたしは、武術にも格闘技にも全く興味がなく、太極拳というのは「中国のお年寄りがやっているラジオ体操」という認識だったのですが、実際そこでやっているのはラジオ体操的な太極拳でした。
 これくらいなら楽だし、運動不足解消に良いかな、と思って半年ほど続けていたのですが(ちなみに誘った友人はすぐ辞めました)、凝り性な性格のため、やっているうちに「この太極拳というのは一体なんなの? 『拳』とかついてるけど、もしかして拳法?」と疑問に思うようになりました。そこで練習している太極拳は、どう考えても「拳法」という感じはしません。
 武術・格闘技関係の本を色々と買ってきて、片っ端から読んでみると、どうも太極拳というのも元々は武術で、中国の武術にも色々な種類があるらしい、という、通り一遍の知識は付きました。太極拳というのは「内家拳」とかいうグループに属するもので、時間をかけて勁力なるものを養うらしいです。
 ものの本では、中国武術でも空手などと対等に戦える、というようなことが書いてあります。しかしわたしの習っていた太極拳で空手家やキックボクサーに立ち向かえば秒殺されるとしか思えないので、もうちょっと普通の中国武術というのを探してみることにしました。
 本で読んだ知識で、「内家拳」というのは随分高級そうで時間もかかるらしいので、自分はもっと普通っぽい「外家拳」的なものがいいな、と思いました。また、どうも中国武術や伝統武術の世界には、神秘がかっていて胡散臭いものが多く、変なところに行って壺でも売りつけられたらたまらない、と考えました。
 そこで近くにあった道場に見学に行ったのですが、そこでの練習は全然神秘的なところはなく、普通にサンドバッグを蹴ったりミットを打ったり、格闘技的なものでした。またそこの先生が、開口一番「気とかそういうのは、うちはないから」と仰ったのも好印象でした。
 そこの道場は、看板こそ中国武術を掲げているものの、伝統的な套路などはほとんどやらず、空手道場のように基本・移動・型(鍛錬型)・約束組手・自由組手・補強のような形式で練習しているものでした。実質的に競技散打のような内容でした。
 それまで格闘技などとはまったく無縁だった自分は、新しい世界の魅力にすっかりはまってしまい、三四年は通っていました。
 それまで、カンフーというのはジャッキー・チェンの映画のようにクルクル回って空中で何度も蹴るようなものかと思っていたのですが、当然ながら、現実にはそんな技は出てきません。旋風脚などの技も基本では練習するのですが、組手になると左ミドルを連打していたりして、ものすごく普通です。
 そうなってくると、次第に「では基本は一体なんのためにやっているのか」「伝統的な中国武術ではどういう練習をするのか」というのも気になってきました。
 そこで一時期、伝統派の中国武術団体と掛け持ちしたり、知り合いに伝統空手を習ったりもしていたのですが、あまりノリが合わず、長くは続きませんでした。
 今思うと、最初に入ったこの道場の練習は、「実際的」という意味では有効なのですが、裏を返すと特に軸もなく、指導者も流行の練習法などをホイホイ取り入れていて、地に足がついていないところがありました。それでもまったくの未経験者であった自分には良い経験となったのですが、体力がついて通り一遍の突き蹴りが出来るようになる以上のことはありませんでした。
 ただ一つ、その後の自分にとって重要な出会いだったのが、この道場は少し意拳と交流があり、初歩の初歩のようなことをちらっと教わったことです。
 站樁や摩擦歩などを形だけ教えて頂いたのですが、せいぜい手が暖かくなってぼわーんという感じで勝手に動く感じがする、という程度で、本当に触りだけやった程度です。当時はその価値も全然理解できず、「手が暖かくなったから何なの? そんなことよりミットでも蹴った方がええやん」と不遜なことを思っていました。

 それから色々あり、この道場からは足が遠のいてしまい、しばらく自己流の練習程度しかしていなかったのですが、また気まぐれで別の団体に所属することになりました。
 南の方の中国武術系をルーツにしながらも、アメリカで発展した武術で、知名度だけはそれなりにあるものです。
 この団体を選んだのは、中国武術に愛着はあるものの、もっと格闘技的に体系だったものがやりたい、と考えていたからです。アメリカ経由のものなら、ある程度の検証は経ているはずですし、変な神秘がかったことはなく、最悪でも体力程度はつくだろう、ということです。また、中国の南の方の武術に興味を持っていた、というのもあります。なんとなく空手に近い感じがして、パッと見た感じも強そうです。自分は割と蹴りが好きなのですが、高い蹴りが目立つのもカッコイイと思いました。
 世の中広いですから、高級な武術というのも存在するのでしょうし、もしかすると手も触れないで相手を吹っ飛ばすような不思議な技を使う達人もいるのかもしれませんが、自分にはどうせできないだろうから関係ない、と考えました。100人やって1人が身に付けるような高級な技があるとしても、どう考えても自分は残りの99人の方です。大体、そんな神通力みたいなものでやっつけないでも、普通に歩いていって殴った方が早いし、その方がカッコイイです。
 実際、その団体での練習はミットワークなどを中心にした格闘技的なもので、技術的にもボクシングやサバットの影響を受けています。練習もアメリカンな明るいノリで、音楽をかけながらノリノリでやっていました。
 しかし、色々な事情から大きく居住地を移ることになり、生活環境もガラッと変わったことから、また武術・格闘技とは離れてしまいます。
 その後も体を動かすことは続けており、短期間だけ団体に所属することもあったのですが、仕事が非常に忙しかったこともあり、長続きしませんでした。「もう人を殴ったり蹴ったりすることはやめよう」と、ダンスをやっていたこともあります。
 あまり社交的な性格ではないので、団体練習にはなかなか馴染めないのですが、その分一人で黙々と練習するのは苦にならず、公園や自宅で自己流の運動をしたりしていました。

自己流の立禅

 ある頃からエアロビ的なエクササイズにハマり、毎日3時間くらい筋トレとエアロビ的トレーニングをしていたところ、体が重くなって全然疲れがとれなくなりました。ダイエット的な理由で食事を制限していたのも一因かと思います。
 「もう年だし、もう少し体に優しいものをやった方がいいのかも」と思い、ふと昔習った意拳の站樁をやってみました。
 どうせやるのだから、と、色々意拳・太氣拳関係の本を読んだり、当時関心を持っていた体操などの練習と組み合わせ、自分なりに研究してみました。
 すると、大昔にやらされていた時とは違い、不思議な感覚が次々と湧き出てきたのです。
 手については誰でも割とすぐ分かると思うのですが、この時感じたのは、膝の周りが粘っこい液体で覆われているようなもので、腰から下が引っ張られるように勝手に動く、というものでした。
 この感覚が分かると、スイスイと滑るようにすごいスピードで自在に動くことができます。体の中に重いスライムのような物質があり、それが動くことで、残りの部分が勝手に連れて行かれるような感じです。格闘技をあれだけ練習していた時にはできなかったことが、疲れ果てて突っ立っていたらできたのです。
 今思えば至って低レベルのものだったのですが、当時は「これはすごい!」と驚き、まるで超能力か何かに目覚めたようで、「自分は天才なんじゃないか」と有頂天になりました(笑)。
 とにかく、こんなすごいものなら本格的にやってみなくてはいけない、と、いくつか検討した結果、天野先生の団体に入らせて頂くことにしました。

なぜ太氣会を選んだのか

 (意拳ではなく)太氣拳を選んだのは、なんとなくイメージで太氣拳は荒っぽくて硬派な感じがして、組手志向のような印象があったからです。もちろん、実際のところは意拳でも太氣拳でも団体・指導者によるのでしょうから、単なるイメージです。素手素面の組手というのは恐ろしかったのですが、実際に打ち合うことなくただ立禅だけやっているような練習には抵抗がありました(組手だけやっていても仕方ない、ということも今は理解しているつもりですが)。
 その中で天野先生を選んだのは、著書の『組手再入門』に感銘を受けたことが第一です。
 一般の武術・格闘技書とはまったく切り口が違い、「こんな教えを若い時に受けていれば!」と眼から鱗がおちるような気がしました。
 ただ、どこの世界にも口だけは達者な人というのがいますし、本を読んだだけではなんとも分かりません。文章は素晴らしいですが、もしかしてただ文才のあるだけの人かもしれませんし(仮にそうだとしても、個人的には「文学の分かる人」を大変尊敬するので、それだけでも価値があるのですが)、ゴーストライターが書いているのかもしれません。そこで映像なども見てみたのですが、ただならぬものを感じはするものの、今度はこっちに見る目が備わっていません。
 よく天野先生が「人間は自分の体を通してしか人の動きなんか見られないんだ」というようなことをおっしゃいますが、自分のレベルを大きく越えるような動きというのは、いくら見たって本質が分かるわけがありません。天野先生曰く、「金メダルのヤツがどれだけ凄いか分かっているのは、銀メダルのヤツだ、他のはただ見て『すげー』とか言ってるだけだ」ということです。
 そこで、最終的に決め手になったのは、顔です
 冗談のようですが、わたしは人を見る時、迷ったら最終的に顔を見た印象で直観的に決めています。
 別にイケメンを選ぶ、という意味ではありません(天野先生はハンサムな方だとは思いますが・・)。顔形というのは、もって生まれた造形というのはあるものの、二十年三十年と生きていれば、それまでの生き方や姿勢というものがおのずと表れてくるものだと思います。もちろん、100%ではありませんが、中身だって100%なんて分からないのですから、一緒のことです。
 天野先生は「心と身体を一致させる」「区別なんてのは人間の作ったものだ」というようなことをおっしゃいますが、内面と外面というのも、所詮は人間が作った概念上の区別であって、実体はひとつのものです。同じものの別の側面が出たに過ぎません。
 大体、何でも外面を取り繕うのは本質を改善するより簡単なものです。その簡単な外面もロクに出来ない人間が、中身だけは素晴らしい、などということは滅多にあるものではないでしょう(逆に外面は良くても中身はダメ、ということは結構あるかもしれません)。
 ですから、顔(や外見の印象)の良い人を選んでおけば、絶対ではないにせよ割と「アタリ」の確率は高いと思います。仮に中身が悪くても、少なくとも顔だけは良いですから、外も中も悪いよりはいくらかマシでしょう(笑)。
 というわけで、いくつかの候補の中からパッと見て一番(自分にとって)良い感じがした天野先生の門を叩くことに決めました。
 ちなみに、顔だけではなく、服装でも天野先生は好印象でした。変に中国服を着たりもっともらしい格好をすることなく、また袴で足の動きを隠すようなこともなく、Tシャツに短パンですべてをさらけ出しています。またちょい悪オヤジ風でセンスもなかなかです。服装というのは、「外面」の中でも一番簡単に変えられるものですから、そこに全然気が配れないような人では中身も推して知るべし、だと思います。自分は日本の伝統武術のようにやたら服装やらシキタリにうるさいところは苦手なので、天野先生のカジュアルなスタイルには惹かれました。

太氣会入会

 初日の練習日は、かなり緊張して赴きました。
 太氣拳は荒っぽいイメージがあるし、初日にボコボコにされて帰ったら、うちの人になんて言い訳しよう、と考えながら電車に乗っていました。普通に考えて、いきなりボコボコか、半年くらい名前も覚えてもらえないか、どっちかだろうなぁ、と思っていました。
 しかしお目にかかった天野先生は随分優しい印象で、初日は簡単な立禅のやり方を丁寧に教えて下さいました。実際、天野先生は、稽古の時以外はすごく「優しいおじさん」で、ひょうきんで話も面白い方です(稽古の時は、たまにものすごい怖いことがあり、もうわたしは二週間分くらい寿命が縮んだ気がしますが・・)。ちなみに、この日はまだ他に習っていなかったため、二時間半ずっと立ちっぱなしで正直ちょっと辛かったのですが、ここでへこたれたら速攻ナメられる!と思って必死で立っていました。
 後から分かったことですが、太氣会のメンバーの方は皆優しくちゃんとした人たちで(変わった人は自分も含めて多いですが)、半年間無視される、というようなこともありませんでした。いきなり組手でボコボコにさせられることもありません。もちろん、経験者が希望すればすぐ組手もできますが、武術的にはあまり意味のある練習にはならないかと思います。
 この日に天野先生がされたのは、「英語を勉強しようという時、観光旅行に行くなら会話集などを買うだろう。しかし本格的に身につけようというなら、そんな間に合わせの本は買わない。きちんとした辞書を買って腰を据えて勉強するものだ」というお話でした。つまり太氣拳の稽古というのは、後者のもので、技や枝葉を求めているならお門違いですよ、ということです。
 ちなみに、初日に参加者全員の方から自己紹介して頂いたのですが、この日の練習は夜だったため顔が全然見えず、わたしの乏しい記憶力では一気に何人も覚えることもできないため、名前を覚えないのは自分の方、という結果になりました。

「感覚」について

 太氣会に入って意外だったのは、天野先生も会員の方も、「感覚」の話をほとんどされない、ということです。
 また、天野先生は、やたら感覚を協調する神秘がかった言説を嫌っていらっしゃると思います。実際、口だけの人というのは世の中に沢山いらっしゃいますし、わたし自身、胡散臭い壺商人みたいなのは大嫌いですから、ある程度理解できるつもりです。
 ただ、この感覚は大変独特で不思議なもので、確実に存在するものです。普通の人には全然通じませんが、太氣会に入ればやっとこの話題を共有できる、と思っていたのに、誰も口にしません。タブーのような雰囲気すらあります。
 次第に理解するようになったのは、感覚は非常に大切ではあるものの、言葉にしてみたところで人によって違うものですし、変に言葉にすると言葉に呑まれてしまう、ということです。天野先生はこうしたことを大変警戒されているようで、必要以上に専門用語を使ったり、言葉にしすぎてしまうことを避けているようです。あくまで自分の言葉でお話されるよう、努めていらっしゃるように見受けられます。
 また、これは自分の考えですが、感覚というのはロッククライミングをする時につかむ岩とか出っ張りのようなものだと思っています。この出っ張りには、文字通り命がかかっているので、絶対に掴んで離さず、よく味あわないといけませんが、別に最終目的ではありません。目指すのはあくまで頂上です。出っ張りがいかに大切だとしても、そこにぶら下がっているだけではどうにもなりません。よく味わったら、次の出っ張りに進まないといけませんし、場合によってはちょっと戻って登り直すことだってあるでしょう。また、登るルートには様々なものがありますから、自分の掴んでいる出っ張りについて「すごいイイ岩なんだよ!」などと熱く語ったとしても、別のルートから登っている人には全然関係ない話です。この出っ張りは自分だけのものなのですから、自分の中で大切にして、自分のルートで着実に登っていくことが大事なのだと思います。

 上に書いたように、最初に感覚が出てきた時、わたしは有頂天になっていました。そういう人は結構いらっしゃるのではないかと思います(わたしだけでしょうか・・)。
 でもこれは、100のうちの1とか0.1とかが分かっただけで、それまで0だったから違いに驚いた、というだけの話です。
 天野先生がよく「ないものを見つけろ」「できるやり方でやるな」とおっしゃいますが、大切なのは残りの99です。しかもこれは、まだ「ない」ものなのですから、自分の身体の中にないものを見つける、という、大変逆説的で難しい作業をしなければなりません。1とか2で小躍りしている場合ではなかったのです。
 1とか2でも最初は本当にびっくりしますから、ついその「1」に振り回されて、そこで止まってしまいがちかと思います。でも実際は、1や2程度ではまだまだ全然使えたものではありません。そんなことは、推手や組手をしてみればすぐ分かります。
 わたしは最初に「1」が出た時、「今ならスーパーダンサーになれるんじゃないか」と思って踊ってみたのですが、鏡で見たら全然大したことなかったです。推手をしたら、あんまり自分が弱いのでびっくりしました。そういう脳天気な人が多いので、天野先生は口を酸っぱくして「ないものを見つけろ」と仰るのでしょう。
 その後の練習で、流石に1が2か3くらいにはなっているかと期待したいのですが、所詮は底辺も底辺、ほんの僅かなことを垣間見たに過ぎません。江頭2:50の名言に「生まれたときから目が見えない人に、空の青さを伝えるとき何て言えばいいんだ?こんな簡単なことさえ言葉に出来ない俺は芸人失格だよ」というのがありますが、「ないものを見つける」には、目の見えない人が空の青さを求めるような作業を根気よく続けていかなければならないのでしょう。

 感覚ということについて、身の程をわきまえずもう少しだけ書いてみます。
 時々、太氣拳・意拳を「イメージ拳法」のように形容し、感覚をイメージのように語っているものを見かけますが、個人的にはこれは疑問です。イメージ・意念は感覚を誘導する上で有効だと思いますが、感覚さえあればイメージなんてあってもなくても良いのではないでしょうか(さらに言えば、その感覚もロッククライミングの出っ張りの筈です)。
 この意念のことを「イメージトレーニング」のイメージのように考え、太氣拳・意拳はイメージトレーニングを行っている、みたいな言い方がされていることもありますが、これもおかしい気がします。イメージトレーニングというのは、例えばシュートが決まった瞬間とか、プレゼンが成功している風景とか、「望む状態」「実現したいこと」をイメージして、そこに心身の状態を持っていく、というものでしょう。対して意念では、例えば「地面を指した手がどんどん伸びて地面にズブズブと刺さっていく」といったものがありますが、ダルシムじゃあるまいし、実現したら化け物です。あくまで感覚を誘導するための手段に過ぎない筈です。
 そして感覚というものは、一度分かれば(その分かった範囲に限っては)「なんとなくそんな感じ」といったアヤフヤなものではなく、カラスが黒いくらい間違えようのないものだと思います。
 島田道男先生がDVDの中で、「禅は高い椅子の上に座っているように、とかいうけれど、そうじゃなくて、椅子があるんだよ!!」と仰っています。いや、もちろん椅子はないのですが、「座ってる感じ」とかそんなフワフワしたものではなく、椅子的な何かが自分の外にある、それがハッキリ分かる、ということをお話されているのだと思います。
 実際はもちろん、宇宙のパワーか何かが本当に外にあるのではなく、神経上の信号か何かなのでしょう。その辺は学者ではないので分かりませんし、天野先生も特に興味もないかと思います。ただ、それを言ったら、普通にものを見るのだって、感じているのは信号であって、対象のもの自体ではありません。一般には知られていないだけで、自然なものなのだと思います。
 天野先生は「正座をした後で足が痺れる、ということを知らない人がいたら、最初に痺れた時はびっくりするだろうが、慣れてしまえば普通のことで、自然なものだ」と仰っています。正座の後で宇宙のパワーが足に宿る、とか言ってる人がいたら頭がおかしいでしょう。

言葉にしてしまう危うさ

 入会当初は、入会前にあれこれと武術書などを漁っていたこともあって、自分は随分頭でっかちになっていたと思います。
 練習している時も、「この時股関節が外旋し、右体側が伸びる方向に動いているから・・」などと、機械的なことを考えていました。
 しかしこうした考えというのは、仮に物理的に正しいものだったとしても、武術的にはあまり役に立ちません。
 よく天野先生が「自転車に乗れるようになりたかったら、自転車に乗ればいい。乗れるようになっちまえば関係ねぇんだ」とおっしゃいますが、自転車が倒れずに走れる理由を力学的に説明されたところで、自転車には乗れません。逆に、自転車に乗っているほとんどの人は、なぜ自分が乗れているのかなど説明できないでしょう。もちろん、この力学的説明などもお話それ自体としては楽しいのですが(個人的には好きです)、それはそれ、これはこれ、武術とは別の問題です。
 最近では、言葉の上でどうだというかいうことは、ほとんど考えなくなりました。
 いや、考えてはしまうのですが、言葉で考えるのは最初の三歩くらいで、後はなるべく身体に任せるようにしています。当然、パッとできるものではありませんが、考えたってどのみちできないのですから、中の小人が何か見つけてきてくれるまで黙って稽古していれば良いのです。
 天野先生曰く、「感覚に嘘はない。そこに名前をつけるところからおかしくなってくる」。
 名前を付けるというのは、整理したり人に教えたりする上では便利なものです。ただ、整理というのは、要するに頭で作った概念上の秩序に従って並べるだけです。もしかすると、(犬猫小鳥神様の感じる)「本当の世界」は、そんな秩序では全然できていないのかもしれません(できていない、と個人的には信じています)。
 大体、わたしはO型で「一山いくら」みたいな大雑把な人間なので、そんな人間が整理などしたところで、冷蔵庫にメガネが入っているようなトンチンカンなことをするのが関の山です。また幸いなことに、あと百年くらいは人に教える予定もありません。だから自分にとっては名前なんて無用の長物ですから、せいぜい「ぼわーん」とか「ぎゅー」とか呼ぶくらいで済ませることにしています。
 ちなみに、太氣会最強の一人M先輩は、後方発力(たぶん)のことを「引っ張るやつ」と呼んでいて、わたしもずっと「引っ張るやつ」として親しんでいました。この先輩は、推手や組手では本当に化け物のようですが、普段はどことなく可愛らしくて子供のような一面があります(すいません!)。そういう素朴なところが、強さの秘密なのではないかと思います。

 思い出しついでに「言葉」について書いておくと、太氣拳の用語は大和言葉が多く、響きが美しいです。「練り」とか「這い」とか言われると、いかにも「あぁ、練るんだなぁ」という感じがします。これが「摩擦歩!」とか「モーザーブー!」とか言われると、なんだかサンドペーパーみたいで大変なことになりそうです(意拳の専門家の方、ごめんなさい)。もちろん、それはただ単にわたしが日本語話者だからですが、多くの日本語話者にとっては同じようにスッと胸に落ちるのではないでしょうか。澤井先生は言葉のセンスが美しい方だったのだと思います。
 個人的には「探手」も「さぐりて」という読みだったらもっと良かったと思います。すごく、探ってる感じです。立禅も「立つやつ」とか呼ぶと、幼稚園児みたいで可愛いのではないでしょうか。天野先生に怒鳴られそうですが。

「身体の使い方」より「わたしの使い方」

 ある時、練習中に天野先生がわたしのそばにいらして、別のまだ歴の浅い会員の方を指して、「なにかぎこちないと思わねぇか? なぜだと思う?」とおっしゃいました。その時わたしは、小賢しく身体操作上の間違いのようなことをモゴモゴ言った気がするのですが、天野先生の答えはこうでした。「自分の身体を信じてねぇんだ。身体の使い方とか、そんなことを考えてるんだ」。
 「身体の使い方」というのは、武術でもダンスでも実践者なら誰もが考えることですが、それを頭でごちゃごちゃ考えても、大した成果は上がりません。
 そもそも「わたし」が「身体」を使う、という発想がおこがましいです。むしろ「身体」が「わたし」を使っている、くらいに考えるべきではないでしょうか。だから研究すべきなのは、「身体の使い方」よりはむしろ「わたしの使い方」というか、「わたしをどこに置いておくか」ということなのかと思っています。
 大体「わたし」はピーピーうるさくて役に立たないので、どこかに座らせて大人しくさせておかないといけません。駅のトイレなどだと、赤ちゃんを座らせておくベビーチェアが付いている個室がありますが、あんな場所を心の中に作って、そこに「わたし」を乗せて置いてる間に用を足さないといけません。
 実際、自分の場合、うまく動いている時は、身体がリモコンで動かされているようで、自分の意識は首の後ろ辺りの操縦席で眺めているような感じがします。まぁ、それが組手や推手でいつもできるなら苦労はないわけで、大抵は途中で赤ちゃんがトイレの床に落っこちるのですが。
 頭で考えると、大体動作が「わざとらしく」なります。武術でもダンスでもお芝居でも、パッと見て「わざとらしい」感じがする時はダメなものです。自分は時々鏡を見ながら練習して「わざとらしい」印象がないか確かめるようにしています。

 一度天野先生に「頭で考えるな、どうせ大したモン入ってないんだろ!」と言われたことがあります。まぁ実際、わたしの頭など入っていても小鳥と印鑑くらいですし、むしろ何も入っていない方が良いと思います。わたしの場合、割と小賢しい子供時代を過ごしたこともあって、ある年齢に達してからはなるべくアホになるように心がけてきたのですが、太氣拳のお陰でいよいよ立派なアホになれてきた気がします。さくらももこのマンガに「バカでも優しい方がいい」というのがありますが、本当にバカでも優しい方がいいと思います。いや、これはちょっと違う話ですが・・。
 正直、最近は、天野先生や先輩がお話になっていても、話の言葉を聞くというより、お話されている時の空気や所作のようなものを感じて真似るようにしています。自分が日本語の分からない外国人だとか、言葉の分からない犬猫になったような気分でいます。
 実際、犬猫小鳥の方が人間より余程身体が動くのですから、犬猫小鳥のやり方の方が優秀なのだと思っています。算数とかはちょっと出来ないですが・・。

バラバラの身体

 また、わたしが感銘を受けた天野先生のセリフに「手とか足とか、そんなものはねぇんだ!」というのがあります。
 言葉だけだと、メチャクチャです。幸いなことに、わたしには手も足もありますから。
 その真意は、「ここから先が手」とか「足」とかいった区別というものは、人間が頭で考えた概念上の区別であって、「本当の身体」そのものではない、ということかと思います。犬や猫にとっての身体イメージは、おそらく一つの「かたまり」であって、その「かたまり」が全体として動くから、小さい身体で物凄い力を出すことが出来るのでしょう。
 人間の場合、それが部分によってバラバラになっています。なまじ頭が良いので、区別して考えてしまい、内側のつながりというものをおろそかにしてしまうのでしょう。また、日常生活ではそれで用が足りるから、というのもあります。
 ジャック・ラカンという精神分析学者の鏡像段階論という理論があります。これは本当は非常に複雑なお話なので、大幅にはしょってお話しますと、人間は自分の統合された身体イメージ像というのを、「鏡像」、つまり鏡の中の像から獲得する、というものです。
 実際には、物理的な鏡というより、言葉の海、つまり父母や他の人間達の語らいのなかにある、一つの(呼びかけられる)「名」としての自分、ということです。
 つまり、人間にとっての統一的な「自分」は、外から見たものとして先取される、ということです。それまでの人間は、部分部分に分かれて蠢く臓器の集合に過ぎません。それがイメージによって外から統合される、ということは、逆に言うと、中からのつながりというのは疎かにされている、ということです。
 全然違う世界の話を軽々しくつなげるのは慎まなければいけませんが、太氣拳の稽古をしていると、このことをよく思い出します。
 犬や猫は言葉も分からないし鏡像も理解しませんから、「自分」というものを内側からつなげて作っているのです。
 天野先生が「嫌がる猫を無理やり抱いた時に、猫が身を捩らせて脱出するときの力」という言い方をされていますが、内側からつながっているから、あんな物凄い力が出せるのです。
 対して人間は、自分ではつながっているつもりでも、それはイメージだけの話で、実は中はバラバラのままです。バラバラなのに、自分で気づいていないのです。
 太氣拳の稽古は、これをつないでいくものですが、そのためには、まずつながっていないことを自覚しないといけません。「ない」ものを探す、というのは、こういう意味でもあります。

「俺は矛盾したことを言うぞ!」

 もう一つ、印象に残っている天野先生のセリフをあげると、「俺は矛盾したことを言うぞ!」というのがあります。
 これはある意味、当たり前のことです。武術に限らず、芸事の先生の言葉というのは、表面的には矛盾していることがよくあるものです。なぜなら、先生というのは見ている風景が違うからです。
 円錐形を真上から見ている人は「円だ」と言い、真横から見ている人は「二等辺三角形だ」と言うかもしれません。どちらも嘘ではありませんが、部分的なもので、そこだけ取れば矛盾しています。
 円錐形であれば「円錐形です」と言えばよいので話は足りるのですが、武術や芸事では、その「対象」は言葉にできるものではありません。直接に名指すことができないので「(上から見れば)円だ」「(横から見れば)二等辺三角形だ」というような断片的なことを言うより他にないのです。
 弟子はその(矛盾した)言葉を聞いて、その矛盾が止揚される場所を探さないといけません。円錐形の全体が見渡せる場所はどこなのか、を探求しないといけないのです(どんな分野でも、先生の言葉通り、字面通りのことしか受け取れず、手取り足取り教えて貰おうという人が時々いますが、そういう人が上達することはないと思います。質問というのも最後の手段で、基本的には「自分が最後の一人になってもやる」という意識がないと何事も身につかないし、天野先生ご自身もそういう意識で修行されてきたかと想像しています)。
 ここまでは普通なのですが、天野先生がユニークなのは、わざわざ自分で「俺は矛盾したことを言うぞ!」と宣言することです。普通、先生はそんなことは言いません。ムッツリしてただ矛盾したことを言うのです。
 おそらくですが、天野先生の中には、武術家として非常に「普通じゃない」部分がある一方で、三人のお子さんを育てたお父さんであり、サーファーであり、常識人であり、といった「普通」の部分もあるのでしょう。そこで「普通じゃない」部分が禅問答のような言葉を発するのですが、「普通」の部分もちゃんと生きていて、ツッコミを入れてしまうのではないでしょうか(よく考えると五十過ぎてからサーファーデビューする人は普通じゃない気もしますが)。
 武術家や芸術家は、極めようと思ったらどうしたって「普通じゃない」ことになると思うのですが、頭の先から爪先まで「普通じゃない」一色の奇人になる方と、「普通」な部分とバランスをとる方がいらっしゃると思います。別に大変人がいけないというわけではありませんが、個人的には、両方の側面があってバランスがとれている人の方が尊敬できます。
 こういうところも、天野先生の魅力の一つだと思います。

小鳥に助けられて

 武術そのものではなく、太氣会の練習ということでは、個人的に一番救われたのは、練習場所です。
 太氣会の練習は、基本的にすべて屋外で、公園などで行っています。
 その練習場所のいくつかが、緑豊かな公園で、大変に居心地が良いのです(そうでもない場所もありますが)。
 あまり社交性のない自分は、狭い部屋に押し込められて対人稽古ばかりやったりしていると、段々鬱々としてきていまうことがあるのですが、太氣拳の稽古はほとんどが一人で、しかも屋外です。夏は暑く、冬は寒く、時には禅を組んでいる身体に雪が積もっていくこともありますが、それでもこの稽古方法は大変に解放されます。
 自分は野鳥が好きで、よく野鳥観察に出かけるのですが、公園で禅を組んでいると、視線は動かさないまま鳴き声だけで「あそこにシジュウカラ、こっちにコゲラ」などと3Dの鳥空間が出来てきます。禅を組んでいる時に「周囲の音を聞け」という教えがありますが、小鳥のお陰で、放っといても意識が全体に広がるような感じになります。天野先生や先輩方に大変にお世話になっているのはもちろんですが、加えて、練習場所の環境と小鳥に随分助けられていると思います。
 こうした環境がなければ、根性のない自分には続けていけなかったかもしれません。

 具体的な身体操作や技術的なことについては、日々発見の連続です。語りたいことは山ほどありますが、言った先から陳腐化するのは目に見えていますし、何よりわたしのような底辺が語ったところで何の値打ちもありませんから、自分の中に収めておきます。
 天野先生や先輩方の前では、まだゴミクズのようにレベルの低い自分ではありますが、先生や先輩方、周囲の理解、小鳥と神様のお導きに助けて頂いて、細々やっていきたいと思っています。今後共何卒よろしくお願い申し上げます。