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閑話休題

2016合宿

2016年の夏合宿無事終了。

例年は二泊三日の合宿でしたが、今年は一日短縮。
日程は短縮しましたが、稽古時間は変わらず。
つまり、稽古時間の密度が濃くなったわけです。

 

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初日は朝から好天に恵まれ熱海山中の高原の爽やかな空気を感じられたのが良かったですね。清々しさは空気だけではなく、名水柿田川水系からの水がおいしくてこれも毎年楽しみにのひとつ。よい環境に恵まれ気持ちを集中して稽古できたことで、それぞれが成果を持ち帰れたのではないかと思います。

さて、合宿の総括と言うほどではありませんが、気が付いたことをまとめてみました。

初日は特にテーマを決めて臨んだわけではありませんが、結果的には基本の徹底になりました。基本を徹底するためには、何故基本があるのかを含めてその意味をどれだけ深く理解しているのか、が必須の条件になります。基本は文字通り根本になるものです。しかし、その意味を知らなければ、単なる手続きや通過儀礼に過ぎなくなり、準備運動の代わりに成り下がってしまいます。現在の武術と称するものにおいて基本がまるで生きていないのは、ここに問題があるからです。生きていないのだから基本の練習はやめようじゃないか、と正直に捨て去る流派もあります。非常に素直で合理的に見えますが、じつは基本の意味を見つける事ができなかった、にすぎません。
さて、私が此処で言う基本とは勁力あるいは拳勁ですが、ここでちょっと言葉について話します。拳法の基本について意拳で六面力と言います。これは禅などの静的な中で感じ取る力感で、拳法の中枢をなすものです。そしてこの力感を展開して実際に効果的に行使されたものが勁力・拳勁です。つまり六面力を核にして日常的運動原則の根本を置き換え、展開していくのが武術です。当然時には日常的なものを捨て去ることを要求されます。ですからその勁力の練度がその人のレベル最大値という事になります。つまり六面力の基礎とその展開があって初めて拳法・武術になるという事です。。
ですから太気拳のレベルについて考える時幾つかの段階に分けることが出来ます。
まずは初心者ですが、当たり前ですが六面力を感じ取れず、勁力・拳勁が判らずに生まれつきの力や経験則でしか動けないものを言います。持って生まれた身体能力や体力と経験値で、と言うレベルです。強いとか弱いの話ではありません。運動原則転換以前、武術未満ですね。
次は勁を感じ六面力を感じながらそれを武術に必要な力として発揮できない状態。つまり静においては六面力を感じ取れるが、その意味を把握しきれず運動に展開して勁力として生かせないレベル。言って見れば、手に入れたは良いけれど、どう使って何をやったらいいのか、がまだよくわからない段階。個々における武術史の出発点、開闢。(大地溝帯からの脱出?・・・)
三つめは、一定の状態つまり典型的には定歩の状態で勁力の発揮、つまり発勁が出来ること。歩法においても勁力を生かした勁歩が出来ること。しかしながら、一定の状態を外れると力をコントロールしきれないレベル。勁力を核にした身体全体の統一がまだ不十分な段階。意識的な作業を経ないと勁力が引き出せない。つまり勁力はあるけれど、拳勁未満。まあ、言ってみれば産業革命の勃興期?
そして四つめは、勁歩で変化を受け入れながらも機に応じて発勁が出来ること。つまり勁力が当たり前になる状態。ここまでが指導できるレベルで、ここから先は自分で歩むしかない道です。ここまで来れば、自分は太気拳だ、と胸を張れるレベルだと思います。
レベル1の初心者は太気会ではほぼ皆無。これは注意点を正確に頭に入れて立禅を組めば六面力は3日も稽古すればだれでも感じ取れ、ここは脱出できるからです。ただし、ここからの道のりは短くはありません。ですから合宿の参加者のレベルは2から3。つまり勁力を保ちながら動く、あるいは定型以外での発勁に於いて必要とされるものは何か、を明確にするのが必要で、それが今回の合宿の目的になりました。
その観点から特に今回一番目についたのが歩法。歩法がただの脚の運び方ではなく、勁力を維持した勁歩でなくては意味がありません。つまり歩法それ自体が発勁でなくてはならないので、どうしてもそこに粗さが目立ちました。立禅には拳勁の全てが詰まっています、ですから立禅で感じ取れる六面力、上下前後左右のどの部分が何処に対応して半禅に至るかを明確にすることが稽古の主題になりました。
立禅では六面それぞれに向かう力が比較的分けることが出来やすいので、それぞれを明確にして分解し、そのうえで半禅に至る際にそれらがどう変化し、さらに如何に勁歩に至るのかを明らかにする。立禅で感じ取れるものは、半禅でも同じように在り、さらに歩法においても失われない時に初めて勁歩となる。ですから随分細かい指導になりました。
そのために改めて肝に銘じて欲しいいくつかの点を挙げておきます。
1、 歩法の際、前脚のどの指から足をつかなければならないか。
2、 つま先と踵の関係がどうあればいいのか。
3、 後ろ脚と前脚の定八歩の徹底、浮いた脚が描く軌跡を正確にすること。
4、 勁力の中心はただ一つであり、前進後退左右転進はその抵抗位置の転換に過ぎない事。
とにかく形には小姑並みの口やかましさだったけれど、形にこだわる理由は、意識に上らない部分を明確にするためで、決して形式を守ることに意味を求める訳ではありません。
形に依って際立つ部分は、形を捨てても明確に出来るので、そこを目標に稽古してほしいと思います。注意点を守った場合とそうでない場合の違い、それを自分で知ることが大事です。

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さて、2日目は打って変わって雨模様で肌寒い天気。なかには半袖から長袖に着替えて稽古に臨むものも居るくらい。夏の盛りも過ぎ山の中腹という事もあり、靄が掛かって遠くの景色がまるで見えない。幽玄の霞に禅を組む、のも興のひとつ・・・。
午前中は前日の延長で基本の徹底。午後は立禅の状態からの後方発勁を手始めに、片脚を引きながらの発勁。立禅の状態から発勁は出来るものの、片脚を引くという単純な動作を加えただけで全体の調和が失われ、勁力の持続が出来なくなる。動きながらの発勁は必須だからこの基本動作は嫌になるほど反復が必要です。これを起点に出来れば、脚を運びながら後方だけでなく前方、左右とすべての方向への発勁が当たり前になります。
此処での注意点を繰り返します。
1、 立禅と同じですが、つま先と踵の関係の正確な把握。
2、 後方発勁の次の瞬間には前方に力が反発すること。
3、 腕を動かして引くという日常的な感覚を捨てる。
4、 勿論前方に反発する場合も同様で腕を動かす感覚は無用。
5、 発勁は六面それぞれに向かいあう力の反発・振動ですから、勁力の感覚のみを研ぎ澄ます。
6、 ある程度できるようになったら、後方から前方への反発だけではなく、逆に前方から後方、あるいは左右への転換を工夫してみる。転換を阻害するのは多くの場合、思い込みにあります。
7、 さらに進んで試声との関係を求める。
要求事項を箇条書きにしましたが、どれもが相互に関係のあることなので、それぞれが別個のものではありません。出来るようになれば個別の事などすべて消え去り、ただ中心の振動する感触を求めるだけになります。

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さて、先ほどレベルの話をしましたが、これを自分の武術史に当てはめてみましょう。武術未満で身体能力頼みのレベル1。実はこのレベルでの在籍年数はほぼ20年、学校だったらとっくに学籍抹消で退学です。つまり澤井先生に出会い、立禅を組み始めてから20年間、六面力も勁力も気づかずに過ごしました。つまり3日で判ることに20年かけたわけです。その代り気付いた瞬間には2から一挙に3へ、そして3年ほどの時間をかけて次に進めた気がします。それは何もわからずに20年過ごしましたが、その間に何かをじっくり溜めこみ育んだものがあったんだと思います。言葉に出来る内容は実に貧弱なものしかありません。言葉に出来ないもの、あるいは自分でも気づけないものの中に大切なものがあるんだと改めて思います。

今回の合宿をひとつの節目として、これからの飛躍を楽しみにしています。