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天野敏のテクスト 閑話休題

自然の恵みと脅威

母方の実家の祖母が茨城県の六郷の出身、今の取手市になる。利根川流域の稲作で有名な水郷地帯の一角だ。 小さい頃に遊びに行った記憶がある。典型的な米作農家で、ヤギを飼っていた。この時、生まれて初めてヤギの 乳を飲んだ。母屋の脇を用水を兼ねた川が流れ、子ども達がうなぎを取る仕掛けを川に沈めてくれた。勿論用水 は利根川から取水。トイレが母屋とは別にあり、夜中に眼が覚めて母についてきてもらった覚えがある。外は月 明かり以外には何の頼りもなく、都会では知ることの無い夜の暗さに驚いた。朝になって用水から仕掛けを引き 上げたが、残念ながら収穫は無し。不思議に思ったのは納屋の梁から船がぶら下がっていたこと。今考えると洪 水のときの足替わり、と言うことだろう。
川の氾濫は、逆に言うと上流からの恵みともとれる。治水は人々の望みだったに違いないが、氾濫が無くなれば、 豊かな恵みも無くなるという事になる。中国の黄河や揚子江が氾濫によって土地を肥沃にしていたように、ある いはエジプトのナイル川がそうであったように。
山を削り、護岸工事を繰り返し、河をコンクリートで囲うことによって確かに氾濫を押さえ込んだように見えて、 逆に土地をやせ衰えさせ、化学肥料に頼らざるを得なくさせているのかもしれない。ダムを作って水害を防止す れば上流からの恵みを多く含んだ土砂はダムに溜まるだけで、下流を潤す事はない。ただ上澄みだけか流れてい く川が豊かなはずは無い。森が海の母といわれるが、こうなると母ではいられなくなるのかも知れない。
大型の台風が上陸しそうだ。
台風被害は勿論ないほうがいい。
しかし、台風があるおかげで、深い入り江の多い日本の沿岸は水が入れ替わる。
台風でもなければ流れの無い入り江の深いところでは、水が死ぬ。
自然は別に人のためにだけあるわけではない。
その自然に手を入れるということの難しさ。