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会友員・参加者からのお便り

初心者講座参加者D.K.さんからのお便り

 初心者講座に参加されたD.K.さんよりお便りを頂きました。
 許可を頂き、以下に転載させて頂きます。

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アドバイスをいただき、ありがとうございます。今後にいかしていきたいと思います。

感想

1 道場がなく、外での稽古が良かった。天候に左右されますが、自然の中での稽古は大切だと思います。

2 服装が自由、気軽さがあり良いと思います。

3 先生に常に教えていただいたので、ありがたかったです。

4 内容は理解は出来ましたが、難しかったです。

5 休憩時間が無かったので、休んで良いか戸惑いました。

6 非常に魅力的な武術だと思います。トレーニングは地味な面はありますが、どの武術に共通する面が沢山あると思います。

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会友員・参加者からのお便り

初心者講座参加者J.T.さんからのお便り

 初心者講座に参加されたJ.T.さんよりお便りを頂きました。
 許可を頂き、以下に転載させて頂きます。

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こんばんは、遅くなりましたが、先日の講習の感想お送りします。

先日は、ご指導頂きありがとうございました。
子供の頃から柔道を続けて20年を過ぎた頃、自分の成長に限界を感じ、何か年齢を重ねても強くなれる武術はないかと合気道や空手をかじってきました。
そんな自分が太気拳という武術、立禅という稽古法を知るのに時間はかかりませんでした。
ただ、なんとなく敷居の高さを感じていたため参加をためらってきたのですが、今回初心者向けの講座があるということを知り、即参加を決めました。
稽古の冒頭、天野先生の手を、押さえつけるように取らせていただきました。瞬間ものすごい強烈な力で押し返され、引っ張られ、持ち上げられたことに驚愕しました。それがただの力任せのものではないことは、柔道をやっていた自分にはよくわかります。何か得体の知れないパワーとしか言いようがありません。
驚きを隠せぬまま、早速立禅の稽古に入りました。
今まで、形だけ真似て組んでいた立禅ですが、天野先生から直接、両足の張り、手足の意識の持ちかた等を指導して頂き、正しいイメージを持つことができました。
そして正しくできていれば、上下左右前後、つまり六方向に押されても引かれても動かない。どころか自分が相手を動かすことができるということも教わりました。
「動かない、ということは動くことができるからなんだ。」と言われた言葉が印象的です。
と 、そこまで教わって、やっとおぼろげながら頭の中で、つながってきました。
冒頭の先生の技です。先生の手を持たせて頂き、そのパワーを感じた時、普段こういうものには否定も肯定もせず冷めた姿勢でいた自分が、思わず「先生、これは “気”ですか! ?︎」と聞いてしまいました。それに対して先生は、「T君が”気”だと言えば”気”になるんだよ。呼び方なんて何でもいい。ただ、不思議な力とかじゃなく身体の使い方なんだよ。それを稽古するために禅を組むんだよ。」(興奮気味でよく覚えてませんが、このような事を言われたと思います。間違えてたらすみませんっ。)

今回は、太気拳という武術の一端を体験させて頂き、貴重な経験となりました。 また、年齢を重ねても強くなれるいうことに希望が見えた気がします。
近いうちにまた是非、稽古に参加させていただき頂きたいと思います。ありがとうございました。

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会員紹介

会員紹介 H.T.

 今回の会員紹介はH.T.さん(本人希望により匿名)。太氣拳歴7年と、太氣会中堅ポジションの会員で、居合・剣術出身という異色の経歴です。
 組手では格上クラスをくるんと回して捉えてしまうこともあり、粘り強い堅実な戦い方ができる方です。
 聞き手は個人的にこのTさんに練習相手をして頂く機会が多いのですが、この人の良いところは、格闘技系出身ではないためか、稽古の本道のようなものをよくわきまえていることです。目先の当たった当たらないのようなことに振り回されず、無駄に人を傷つけず綺麗な動きができるため、見ていても気持ちが良いし、一緒に練習していて安全に実のある稽古ができるのです。ただの潰し合いでは明日につながらないでしょう。
 また人柄的にも常識人で、己をわきまえて相手に入り過ぎることもなく、安心感をもって接することのできる人です。

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会員一問一答

――太気拳修行歴(年数)
 7年
――太気拳以前の武術・格闘技やその他のスポーツ歴
 居合・剣術
――太気拳を始めようと思ったきっかけ
 居合・剣術で役立つことがありそうだったので
――太氣会を選んだ理由
 秘伝を読んでいて先生の記事が掲載されていたため
――太気拳を始めるにあたって迷ったり躊躇したりしましたか。その時の心境等を教えて下さい
 していない
――稽古に参加して最初に印象に残ったことはなんでしょうか
 先生の動きが速かった
――稽古で今までで記憶に残っていること、印象的なこと、面白かったこと等を教えて下さい
 初めて組手をした時、どうしたらいいかわからなかったこと
――稽古を通じ、以前と変わったと思うのはどんなところでしょうか。逆に変わらないところもあれば教えて下さい
 ケツがでかくなった
――太気拳を始めて良かったと思うのはどんな時ですか
 嫌な気分の時でも稽古をすると忘れられる
――稽古の中で、今課題としているのはどんなことでしょうか
 発力
――今はどんな気持ちで練習に向かい合っていますか。またどんな自分になりたいですか
 直近の課題をクリアしたい
――武術以外の楽しみがあれば教えて下さい
 飲み食い
――これから太気拳を始める人、入会を迷っている方などに一言あればお願いします
 自分の中の小さな変化を楽しめる人であればハマると思います

ショートインタビュー

――居合や剣術の出身ということで、太氣会の中でも異色の経歴ですが、戸惑いなどはありませんでしたか

居合とかだと道場稽古で、師範とかがいて、挨拶して一斉に始めるじゃないですか。師範の言う通りに素振りや型を始めたり。太氣だと挨拶もなく、おもむろにみんな勝手に禅を組んでいたりするじゃないですか。それが日本の武道の道場稽古とまったく違うので戸惑いましたね。

――組手に関してはどうでしたか

型の世界って仮想敵というのがあって、それに対して行う、というのがあるんですけど、実際に人がいたときに人間がそんな型のように動けるものなのか、という疑問があったんですよね。(太氣会での組手は)最初にやったのが四ヶ月目くらいで、突然指名されたんですけど、実際に組手をすると何をしたら良いのかわからない状態で。型の世界と違って逆に色々やれるはずなのに、どうしたらいいんだろう、となりました。組手の内容は覚えていないですが、この戸惑いだけは覚えています。フリーすぎてなにしたらいいかわからないというか。
やっぱりそういうメンタルな面、それも気合とかそういう意味じゃなくて、心の置き所みたいのを研究していかなければ実際には使えないと思います。

――そういう武術系出身の会員ももっと増えたらいいと思うのですが、そういう方に何かアピールがあれば

居合とか剣術とかだと、サークルっぽくやりたい人と、探求したい人がいて、探求したいタイプの人は、身体の使い方とかそういう本を読みだしたりするんですよね。そういう一貫で自分も最初に太氣会のセミナーに来たんですけど。居合や剣術の役に立てればいいな、と思って。仕事の関係などで居合の方は足が遠のいてしまっているんですが、太氣拳をやってから居合などに立ち返ってみると、随分変わった感じになってるんじゃないかな、と楽しみにしています。

――そういう意識の方が、社会生活にも活きる面があるように思います

自分も普通のサラリーマンなんですけど、仕事していてイヤなこととか沢山あると思うんですよ。そういう時、帰りがけに五分でもいいから禅を組んだりすると、ちょっと楽になったりして、そういう面だけでもやる価値はあると思いますよ。

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会員・会友員のテクスト 会員紹介

会員紹介 宮島志問

 今回の会員紹介は、宮島志問先輩です。
 この宮島先輩をおいて太氣会を語ることはできないでしょう。
 天才肌でマイペース。超人的な技量を持ちながら人柄は朗らかで偉ぶるところがなく、どこか素朴な子供のようなところもあり、どんな高いお酒もコーラで割ってしまう可愛らしい人です。
 立禅や這などの太氣拳の稽古は一見非常に地味で、「こんなことをやって強くなれるのか」と思われる方は沢山いらっしゃるでしょう。その中で、宮島先輩の常識では考えられないような動きを見て、心の支えにしている会員もいらっしゃるのではないでしょうか。
 聞き手は別のある先輩と話していて、「宮島さんのようになれないといけないんですよ、あれができなくちゃ意味がないんです!」と力説されたことがあります。
 ゆっくり動いているのに速く、フットワークがあるわけでもないのに文字通り相手をクルンと回してしまい、いつの間にか背後をとっている。ビデオでスローモーションで見ても何をやっているのかよく分からない。まるで子猫が毛玉で遊んでいるようです。
 ちなみに、上の某先輩は「ああいう風になったら組手も楽しいでしょうね」とおっしゃっていました。
 傍で見ていてもよく分からないのですが、やられてみるともっと分かりません。新しい会員の方が宮島先輩にコロコロ転がされてくれると、「あのわけのわからない感じを共有できた」ことが嬉しくなるくらいです。
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会員一問一答

――太気拳修行歴(年数)
 21年
――太気拳以前の武術・格闘技やその他のスポーツ歴
 十代にサッカー、二十代は空手をやっていました
――太気拳を始めようと思ったきっかけ
 太氣拳は、空手を習っていた先で知りました
 数年後、引っ越した先で当会を知り、入門しました
――太氣会を選んだ理由
 体力に限界を感じ始めた頃、澤井先生の書物を読み、年をとって老いても残るものがあると思い
――太気拳を始めるにあたって迷ったり躊躇したりしましたか。その時の心境等を教えて下さい
 今までやって来たこととは全くの別物として捉えていたので、迷いはありませんでした
――稽古に参加して最初に印象に残ったことはなんでしょうか
 始めの止まって行う立禅と、稽古の最後の組手のギャップ
 静と動の両極端が最初の印象です。
――稽古で今までで記憶に残っていること、印象的なこと、面白かったこと等を教えて下さい
 一番面白く印象に残っているのは、稽古後の先生の生前の澤井先生の話や、組手や稽古のワンポイントの実演
――稽古を通じ、以前と変わったと思うのはどんなところでしょうか。逆に変わらないところもあれば教えて下さい
 変わったことは、老後への希望。老いても成長できると思っています
 太氣拳を始めていなければ、三十代で武術・格闘技は見る側にまわって終わっていたと思います
 変わらないのは性格です。性格は変わりませんね
――稽古の中で、今課題としているのはどんなことでしょうか
 今できていることを整理し、はっきりさせてまとめること
――今はどんな気持ちで練習に向かい合っていますか。またどんな自分になりたいですか
 あまり考えずに稽古してきたので、整理してまとめることをしています
 怪異な老人(になりたい)
――武術以外の楽しみがあれば教えて下さい
 旅行と晩酌
――これから太気拳を始める人、入会を迷っている方などに一言あればお願いします
 武術なら技や技術、型などの練習に重点を置きますが、太氣拳で最初に学ぶのは立禅。わたしは入門して二十年経ちますが、一年、十年経ても、二十年の今も変わらずに立っています
 立禅で技や華やかな形などは身につきません。立禅で何を得るのか? 二十年前と今の立禅の外見はそんなに変わりありません。違うのは感覚。
 感覚が芽生え、立つ日々に新たな拡がりが生まれてくる感じがあります
 感覚が違えば反応が変わり、反応が違えば技や運動神経を超える能力になると信じています

ショートインタビュー

――宮島さんは長く太氣拳をやっていらっしゃるのですが、どこかの時点でガラッと変わったみたいな経験はありますか? 宮島さんはとても個性的な印象がありますが、宮島さんはいつ「宮島さん」になったのでしょうか?

 何かのきっかけでボンッと上がる時というのはあるんだけれど、それも少し経つと普通になっちゃうんだよね。当たり前になって。何かきっかけがあるのかな。でも積み重ねがないと、そのきっかけがあっても見えない。

――宮島さんが教えていくとすると、どういうアプローチをされていきますか

 どう言ったらその人がわかるかなぁ、というのを考えて言うけれど、その人の下地ができてないと言ってもわからない。
 俺はずっと何も言わなかったんだよな。でもある時質問してきた人に「こうやったらいいんじゃないかなぁ」みたいなことを言ったら、「じゃぁこれはどうなんですか」と聞かれて。それに答えられなくて、「一週間くらい時間下さい」て言って考えたんだよ。その時に、自分が今までなにもまとめないでやってきたことに気づいて、そういうのをまとめることで次のステップに行けるんじゃないかな、と思ったんだよ。まとめるってのも大切で、今はそれを考えてる。

――宮島さんは一時的に太氣会を離れたり、色々な経験があったと伺っていますが。

 今の先生の教え方は、止まっている練習と組手をつなげる説明をちゃんとしてるんだけど、俺が入った頃はまったくつながりがなかったんだよ。わかんなかったんだよ。だから続く人というのは、本当に根気のある人か、何か気みたいのが舞い降りてくると信じてやってる人か、二種類しかいなかったんだよ。俺なんかどっちもなかったから、しょっちゅう休会してた。
 でもしばらく遠ざかってると、自分の中に普通の人に感じられないものがあって、続けていけば残っていくものがあるかなぁ、と思って戻ってきたんだよね。

――言葉にしにくいものなので、コミュニケーションが難しいですね。

 同じレベルの人じゃないと、言葉にしてもわからないんだよ。下の人だとわからない。
 でもやっていけば先生に近づけるんじゃないかな、と思ってやってるよ。

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会員紹介

会員紹介 T.T.

 今回ご紹介させて頂くT先輩は太氣拳歴十年であると同時に、某フルコンタクト空手の指導者でもあります。仕事、空手、太氣拳と非常に多忙な生活を送っておられるはずで、一体いつ寝ているのか不思議なほどです。
 寡黙で真面目、実力者であるにも関わらず決して出過ぎることなく、愚痴どころかネガティヴなことを口にしたり、人についてあれこれ言及するのも見たことがない、人間的に非常に尊敬できる方です。
 その推手や組手は質実剛健、間違っても一発を狙うことなく、ひたすら「状態を守る」ことを貫き、徹底的な粘り腰で詰将棋のように相手を追い詰めていきます。T先輩と推手をしていると、こちらが攻めた筈なのに、まったく打つ様子もなく先輩の手が顔の前に自動的に来ている、ということをしばしば経験させられます。
 また聞き手は組手でお相手頂き、するすると切れ目なく間合いを詰められ、何もできないまま上から空き缶をペシャンと潰すように転がされたことがあり、まるで魔法のように感じました。
(本人希望により匿名でご紹介させて頂きます)

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会員一問一答

――太気拳を初めてどのくらいになりますか。また、その前にやっていた運動あるいは武術がありますか。
 太気を初めて10年になります。以前より空手をやっております。
――何故始めようと思ったんでしょうか、またきっかけは何ですか。
 もともと興味がありましたし、空手の先輩が会友員だったので紹介してもらいました。
――その時に迷ったり、躊躇したりしましたか。
 まったくありません。
――稽古に参加して最初に印象に残ったことはなんでしょうか。またなぜ印象に残ったのでしょうか。
 立禅がこんなにきついとは思いませんでした。
 立禅の真似事はしていましたが、せいぜい15分位程度でしたが、初めて基礎講座に参加させていただいて、一日中、立禅をしていたので。
――今までで記憶に残っていることはどんな事でしょうか。また一番印象的な出来事、面白かった事は?
 初めての組手で会員№○○先輩の洗礼を受けた事。
 今は退会してしまったKさんと、よく玉縄の稽古で真冬にも関わらず、大汗をかきながらずっと練りをやっていたこと。終盤は稽古の目的からだいぶずれて、お互いに相手が歩を止めるまでと勝負ごとになっていた。
――楽しいと思うときはどんな時でしょうか。
 稽古で新しい発見(体の変化)があったとき。
――以前と変わったと思うのはどんな時ですか。逆に変わらないな、と思うのはどんな時ですか。
 人の対人練習を見ていて以前の自分と変わった視点から見れるようになった。
 兄弟弟子の皆さんの技術が、日進月歩なのに自分はあまり進歩していない気がする自分の思考が変わっていない。                
――始める前と後で何か違った事がありますか。始めて良かったと思うのはどんな時ですか。
 稽古に対する考え方、取り組み方が、違ってきました。
 先生、兄弟弟子の皆さんと武術の話ができる時
――今課題と思ってるのはどんな事ですか。
 稽古で形に囚われてしまうので、囚われ無いようにする。
――今はどんな気持ちで練習に向かい合っていますか。どんな自分になりたいですか。
 今の自分のレベルで、一挙一動、丁寧に注意深く雑にならぬよう心がけています。
 10年、20年後も、ずっと太気と向かい合っている自分で在りたい。
――武術以外の楽しみはどんなものですか。
 バイクでツーリング。

ショートインタビュー

――T先輩は仕事、空手、太氣拳と、大変多忙でいらっしゃるかと思います。それらの間でのバランスや関係などをどう図っていらっしゃるのでしょうか。
 まず、仕事と武道というのはまったく別ですよね。
 空手と太氣拳は、最初は空手は空手、太氣拳は太氣拳、と分けて考えていました。でもそうすると、自分の身体の中に矛盾が出てくるんです。今は自分の中では、二つの区別はありません。
――体験を通じて、空手も変わったのでしょうか。
 質が変わったと思います。
――T先輩は空手指導者としても活躍されているわけですが、太氣拳を教えるとしたら、どのように教えられますか。
 自分は本当にセンスの欠片もない人間で、それが曲がりなりにも人前に出して恥ずかしくない程度には成長できたと思うので、そういう視点から教えられることはあると思います。
 身体の使い方や姿勢など、まったく理解していませんでしたから、間違っていた、ということを知っているんです。そういうアプローチはできると思います。
――太氣の稽古をしていると、直近で悩んだり気になっていることがあっても、教わることもできないし質問することすらできない、ということがあります。コミュニケーションをとるのがとても難しいと思うのですが。
 質問されてもなかなか答えられないですよね。
 でも姿勢などで教えられることもありますから、そこから何かを感じ取ってもらえればいいかと。
――T先輩は個人的に特別にすごいな、と思っており、人間的にも一番尊敬できるのですが、その粘り強さはどのように養われたのでしょうか。
 自分は稽古に対する姿勢はすごくねちっこいんですよ。それは核の部分で自分がすごく弱く、臆病だからです。人一倍強くなりたいんです。単に組手とかいうことではなく。
 切り捨てて切り捨てていこうとするんですが、天野先生に指摘されて、全然できていないことを気づくことがあります。
――それは精神的なもの? 無駄な力を使わないということですか?
 無駄なことをしない、そぎ落としていく、ということですが、精神的にもネガティヴなものを切り捨てていこうとしています。心の中にはドロドロのものがあるんですよ。
 そういう自分の弱さと決別することです。

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会友員・参加者からのお便り 会員・会友員のテクスト

初心者講座体験記参加者H.H.さんからのお便り

 初心者講座に参加されたH.H.さんよりお便りを頂きました。
 許可を頂き、以下に転載させて頂きます。

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今回、太氣拳の初心者講座に参加させて頂き、
感じたのは気持ちの良さでした。

気持ちが良いといっても様々な気持ちの良さがありますが、
清涼感、凛とした緊張感が講座を通して感じられ、
自分の中もそういった気分に満たされていくのを実感していきました。

初めて訪れたのですが、公園の一角の緑の中のロケーションでの
練習も素晴らしかったですし、
なによりも天野先生の丁寧で分かりやすい指導の元、
禅を組むということが出来たのが一番でし た。

また、その日の先生のお言葉の中で一番、印象的だったのが、
「体を動かさないと心が動かない」の一言です。

その言葉の通り、今回の禅の稽古を通して、
普段、使ってない体の部分を意識し、動かすことで、
明らかに自分の心、気分が変わったことを体験しました。

普段、行わない運動を行ったせいか、
後半は両足が細かく震え、膝が笑いだしたのですが、
あっという間に2時間が過ぎ、清々しい気持ちで稽古を終える事ができました。

最後に会員の皆様の対人練習も見学させて頂いた所、
非常に興味深く、自分自身も入会し、練習に加えさせて頂きたいと思った次第です。< /div>

天野先生、本当に貴重な体験を有難うございました!

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会員・会友員のテクスト 会員紹介

会員紹介 浅野一

 会員紹介の記念すべき第一回は、太氣会最古参の浅野一先輩です。
 天野先生とは横浜太氣拳研究会からの長いお付き合いです。
 面倒見の良い「昭和の兄貴」といったキャラクターで、真面目で稽古熱心なことでは右に出る者がなく、小柄ながら接近戦も中間距離もこなせるファイターです。
 聞き手の個人的な思い出としては、身長差20センチ以上、体重差で30キロはある筈の先輩(この人も十年以上のキャリアがあり、その前も格闘技経験者です)を軽く手玉に取り地面に組み伏せてしまったことがあります。

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会員一問一答

――太気拳修行歴(年数)
 24年
――太気拳以前の武術・格闘技やその他のスポーツ歴
 ボクシング・徒手格闘技・グローブ空手
――太気拳を始めようと思ったきっかけ
 競技者としての自分の先が見えてしまった1991年、当時の練習仲間から立禅を紹介されて、半信半疑で組んでいたら攻撃力と反射速度が上がったのを自覚して、これは何だろうと
――太氣会を選んだ理由
 練習仲間が太氣会の前身にあたる横浜太氣拳研究会の会員だったので、その縁で
――太気拳を始めるにあたって迷ったり躊躇したりしましたか。その時の心境等を教えて下さい
 素面素手の組手をやっていることを聞いていたので、どうなるのかと緊張していた
――稽古に参加して最初に印象に残ったことはなんでしょうか
 立禅に代表される外から見て動かない稽古と激しい組手とのギャップ
――稽古で今までで記憶に残っていること、印象的なこと、面白かったこと等を教えて下さい
 それまで自分がこうであるに違いないと思い込んできたことや何の疑問も感じないままでやってきたことが間違いだったと分かることが楽しい
――稽古を通じ、以前と変わったと思うのはどんなところでしょうか。逆に変わらないところもあれば教えて下さい
 生きていく上で物事を本質的に捉えようとする意識を持てるようになったが臆病なところは変わらない
――太気拳を始めて良かったと思うのはどんな時ですか
 人生が豊かになった
――稽古の中で、今課題としているのはどんなことでしょうか
 頭で考えず身体で感じる
――今はどんな気持ちで練習に向かい合っていますか。またどんな自分になりたいですか
 なっていないことばかりなのでなれるようになりたい
――武術以外の楽しみがあれば教えて下さい
 タイ語学習
――これから太気拳を始める人、入会を迷っている方などに一言あればお願いします
 やらずに後悔するよりやって後悔

ショートインタビュー

――太氣会最古参の浅野さんということで、昔の太氣会、太氣会になる以前の横浜太氣拳研究会時代のことについてお伺いしてみたいです。当時はどういった雰囲気だったのでしょうか。
 殺伐としていたね。入門してくるのは何かの格闘技の経験者ばかりなんだけど、一通り立禅のやり方とかを教えて、それから組手になる。すぐに顔に痣作って。その後「○○さん」とか紹介されるんだけれど、もう次から来ない、というようなことがよくあった。平気で拳入れてくる先輩とかもいたし。
 当時は神宮の先輩たち、天野先生のお兄さんや久保先生、斎藤昭先生、天野先生の空手つながりの古川先生などが一緒にやっていた。
 立禅や這などの静かな稽古の後、いきなり組手になって、そのギャップがストレスになっていた。つながらないし、分からないから。
 自分は元々グローブでやっていたので、素手素面の組手とはどういうことになるんだろう、と思っていた。拳で殴られるわけだから。
 (註:現在の太氣会では入門していきなり組手をさせる、ということはありません。また組手はお互いコントロールしたやり方でやっており、最近では頻繁に組手が行われているわけでもありません)
――当時と今、どちらの太氣会の方が良いと思いますか。
 今の方がいいね。普通の人が強くなって組手ができるようになる、というのはすごいことだよ。
――浅野さんが今後指導する立場になるとしたら、どういう教え方をしていきたいですか。
 教えるなんてことはできないよ。そんなおこがましいことはできない。
 天野先生を見ているから。どれだけ厳しいことなのか見ているからね。そんな大それたことはできないよ。

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会友員・参加者からのお便り

太氣拳基礎講座参加者M.T.さんからのお便り

 太氣拳基礎講座に参加されたM.T.さんよりお便りを頂きました。
 許可を頂き、以下に転載させて頂きます。

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太気会 天野先生
 先日は大変お世話になりました。遅れましたが基礎講座に参加した感想を述べさせて頂きます。
 率直に言えば時間をかけて体験にいって良かったという事です。太気拳がどんな練習をするかは、書籍などより何となくは知っていたのですが、その練習がどのように効果がでるのかは正直よく分かっていませんでした。
 しかし実際に天野先生にお会いして、動きを見せてもらったり突きを出してもらったりと実際に体験する事で、今までには体験したことがないような強い力があり、それをコントロールする事ができるものなのか、と感じました。
 現在練習している武道でやや限界を感じていた矢先に実際にそこまで強くなることができる、と分かったのが一番の得る所でした。
 まだ講座に一回参加しただけなので私の勘違いの域かもしれませんが、今回教えていただいた立ち方、歩法などを通じて自分なりに考察したのが、攻防移動にその一番いい状態を如何にキープして戦うのか?という事です。
 今まで何となしに動いてきて、あまり自分がどのように動いていたか分かっていなかったように感じました。
 遠方であり小遣いが尽きてしまった今(笑)、なかなか神奈川まで出て行くことができませんが今回教えて頂いた練習を続け、現在練習している武道にもいろいろ試してみようと思います。
 小遣いが無事溜まり時間がとれた暁には是非ともまた練習に参加させて頂けたら幸いです。

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会員・会友員のテクスト 会員Yの太氣拳日記

亀とガメラ

 今まで基本的にしょうもないエピソードや個人的な心構え的なことだけ書いてきましたが、ほんのちょっとだけ自分なりの身体論というか、武術そのもののことも書いてみようと思います。当然ながら、信用して良い内容ではありません。わたしは太氣会の中でも年数が浅く、下から数えた方が早い実力しかない者ですから、そんなペーペーの理論などがアテになるわけがありません。
 特にわたしは思い込みが激しく、時々練習中に電撃のような閃きに襲われて「わたしは天才じゃないのか」と思うことがあるのですが、一週間も経つと黒歴史になっています。夜中に書いたラブレターみたいなものです。
 それにしても、弱い人の書いた武術論というのは、実用的には役に立ちませんが、読み物としてはちょっと新しくて面白いかもしれませんね。貧乏な人が書いた「お金持ちになる方法」みたいです。

素人が最強?

 太氣拳を学んでおられる方は、武術や格闘技をよく知らない友人などに「太氣拳ってどんな技やるの?」などと聞かれて困った経験はないでしょうか。
 澤井先生はそういう時に立禅を見せた、というような話を聞いたことがありますが、下々の小市民たるわたしなどは、到底そんな度胸のあることは出来ず、テキトーにニヘラァと笑ってごまかすしかありません。空手や他の中国武術のような型があればとりあえずそれを見せることも出来ますし、少林寺の人なら立関節でもやってみせたら素人は誤魔化せると思うのですが、太氣拳にはそういう分かりやい「技っぽいもの」が全然ありません。
 それこそ意拳・太氣拳が真髄むき出したる所以である、というようなことは、実際に練習されている方には明々白々なわけですが(別に「見せるもの」がある武術がダメという意味ではありません、むしろ正直ちょっとうらやましいです)、そんなことは一般の人には通じません。澤井先生は「技なんか最後の三日でいい」とおっしゃったそうですが、普通の人は武術といったら「ちょっとしたコツ」みたいので手首の関節を捻ったりするような話だと思っているので、そんな高級な話は通じません。ちなみに、三日だと流石にちょっとキツイかと思うのですが・・。
 でも、ここには本当に大事な要素が隠されています。
 以前に天野先生が「武術なんか才能だ」ということを書かれていました。身も蓋もない話ですが、要するに「ちょっと技なんか練習するより、元からはしっこいヤツの方がずっと強い」というお話です。こう言ってしまうと、正にその武術を練習しているわたしたちとしては実にションボリしてしまうのですが、意拳・太氣拳でアプローチしようとしているのは、この「はしっこいヤツ」の「はしっこさ」源のようなものかと思うのです。
 「技やって見せて!」と言われて「いや、技とか特にないので」と答えたら、一般の方には「なんや、それなら素人やないか」と言われてしまうかもしれませんが、素人で強い人が一番強いのです。
 素人が格闘技者より強い、という意味ではありません。素人のままでかつ強いような人の持っているその「強さ」こそが、最も本質的だ、という意味です。実際、そういうナチュラルに強い人というのは存在します。格闘技や他のスポーツをやってこられた方なら、今までの人生で何人か見たことがある筈です。
 素人の段階で弱い人間が、突き蹴りや技を覚えて体を鍛えても、それはそれなりに強くはなります。ですが、実際にやってみれば分かることですが、二三年もするとそうやって身につけられる強さは飽和してしまって、そこから先へはなかなか進めなくなります。そうこうしているうちに若くて元気な人が後からやってきてあれよあれよという間に敵わなくなる、というのはよくある話です。
 意拳・太氣拳でやろうとしているのは、素人のままで強いような人の持っている「はしっこさ」みたいなものへのアプローチで、ここが変わると、本当にすべてが変わっていきます。しかも二三年程度では打ち止めになりません。逆に言うと時間がかかるのですが、かける時間だけの値打ちのあるものです。
 こう書くと何とも抽象的で、「そんなもんホンマにあるんかいな」と思われても仕方がないのですが、わたし自身の経験から言っても、何か自分の体の中に隠されていた秘密機能を発見するようなドラスティックな変わり方をします。わたしはよく夢で、自分の住んでいる家に知らない部屋があった、というようなのをよく見るのですが、丁度そんな感じです。もうかれこれウン十年だかこの体を使ってきたのに、そんな機能がついてるなんて知らなかった、みたいな感じです。
 で、最後に蛇足ですが、上で「二三年で打ち止め」などとネガティヴなことを書いてしまった一般的な練習ですが、わたし個人としては、これもそんなに馬鹿にしたものではないと思っています。天野先生なら鼻で笑うかもしれませんが、こうした一般的な練習は、確かに誰でも短時間である程度まで強くなります。最初のうちなら、それほど精緻な訓練をしなくても、根性で頑張るだけで上達するものです。限界があるのは確かですが、それはそれで無意味なものではありませんし、特に若いうちは大いにやってよろしいことかと思います。澤井先生は他の武道で黒帯になるまで弟子にとらなかったと聞きますが(単にふるい落としのためかも分かりませんが)、逆に言えばそれくらいはやっても全然問題ないし、むしろ意拳・太氣拳にとってもプラスになるのではないかと思っています。武術系には時々、一般的な格闘技や筋力トレーニングをやたら馬鹿にする人がいますが、格闘技者は本当に強いですし、格闘技と武術には確実にクロスオーバーする部分がありますから、変な癖やこだわりで凝り固まってしまわなければ、武術でも必ず活きる方向にもっていけると思います。

動物と怪獣

 「素人のままで強い」といえば、動物です。
 獣的な強さというのは、一般的に言っても武術の核心の一つなのではないかと思いますし、実際、割りとよく言われる表現です。
 ただ、そう言ってしまうとまた何とも抽象的ですし、山ごもりして獣のような暮らしをしたら強くなるかというと、別にそんなこともないでしょう(多分)。「獣的な強さ」というのが抽象的になってしまうのは、わたしたちの見る動物というのは、あくまで人間の目で見た人間ならざるものとしての動物だからです。つまり、外からのイメージでしか動物を捉えられていないからです。
 ですから、本当の動物、内からの動物ということを理解しようとすると、もうちょっと違うイメージが必要になるように思います。
 そういう時、わたしが思い浮かべるのは怪獣です。怪しい獣と書いて怪獣。これはもう、怪しいです。
 太氣拳の稽古をしていると、時々自分が怪獣になったような気分になります。もう、大きい木とか丸ごと引っこ抜いて投げつけてしまうような気分です。もちろん、実際に木を引っこ抜くことは出来ないので、気分の問題なのですが、本当にそれくらいの勢いで、「覇気」が足元から登ってきて髪の毛が逆立つような「ガオーッ」という気分になります。これは本当に不思議な体験で、やってみないと分からないものかと思いますが、やれば「これが覇気というものかっ!」と実感できます。
 怪獣というのは怪しい獣ですから、もう話なんか全然通じません。
 シャブ中のヤクザなんかより、もっと全然話が通じません。
 ゴジラがガーッとか言いながら新幹線を掴んで投げたりしていましたが、あの時ゴジラは、掴んでいるのが新幹線だとか、そこに人間が乗っているとか、そんなことは全然考えていなかったと思います。自分が何をやっているのかも分かっていません。もう何だか分からないけれど、掴んで投げちゃうのです。
 この自分でも何をやっているのやら分からないような話の通じない感じ、これが怪獣です。
 実際、太氣拳の先輩方の中には怪獣っぽい感じの人が何人かいらっしゃいますが、実名をあげるとしばかれそうなので伏せておきます。

亀とガメラ

 これはつい最近気付いたことなのですが、亀をイメージするとなかなか良い具合になります。
 推手で思うような動きができず、先輩方の動きをよくよく観察して、真似をしようとしているうちに、「これは亀さんや!」と気付いたのです。
 亀というのは、背中に大きな甲羅を背負っていて、手足も短くてリーチなんて全然ありません。甲羅を背負っているから、甲羅ごと動くしかありません。ちょっと甲羅を外してジャブを打ったりとかは出来ません。
 特に太氣会最古参のA先輩が、亀っぽいように感じたのですが、このA先輩と推手をしていると、何か仕掛ける度に先輩の手が勝手にわたしの顔にやってきます。それも狙って打ったとかカウンターとかいった風ではなく、ただ出していた手がうっかり当たってしまったような、自動追尾的な感じがあるのです。この自動追尾感というのは、A先輩に限らず、太氣会の強い先輩方は大抵持っています(個人的には、体格的なこともあり特にこのA先輩とT先輩を観察しており、この二人は格別亀です。ミドリガメです)。A先輩自身も「俺は何もやっていない、お前が勝手に突っ込んでくる」と仰り、「お前はバタバタ動きすぎだ」「両手が連動していない」とよく注意されています。
 自分が亀だと思うと、甲羅があるから自由にもならず、片手で器用に打つなどということは出来ません。仕方がないので、両手両足が繋がったようにオイショオイショと動くしかありません。これは一見不自由なのですが、やってみると良い感じに両手が連動してきて、体が開かなくなります。
 亀さんは不器用で遅いですから、ウサギさんのようにピョンピョン素早く仕掛けたり出来ません。地道にやるしかないです。でも、亀を守って甲羅を大事にオイショオイショとやっていると、そのうち相手が勝手に崩れてくれて、上手いこと中に入ることができる・・・こともあります(笑)。相手がもっと亀だとやっぱりやられますが。
 自分から仕掛けず、自分自身を保っているうちに自動で相手に入っていく感じは、ウサギと亀の競争にも似ています。ピョンピョン素早く動くことは出来ませんが、最後は勝つのです。アキレスと亀でも良いです。遅いのに早い。おぉ、なんだか秘伝っぽいじゃないですか。
 おまけに「亀は万年」ですから、縁起も大変よろしいです。
 この亀のことをトチ狂って天野先生にお話してみたところ、「もうちょっと手が長い方がいいけどな、カッパじゃないか」と言われました。でもカッパだと、ほぼ人間型で、イメージ的に手足がひょろ長くて器用すぎる感じがします。フリッカーとか打ってきそうです。ここで言う亀は、もう少し甲羅が大きくて不器用なのです。頭にお皿も乗っていませんし、キュウリも食べません。
 人型だとしても、亀仙人みたいな感じです。そう言えば、悟空とクリリンも甲羅を背負って稽古していましたし、これはもう、亀は強さの秘訣に違いありません。
 そう思ってみると、太氣拳の強い人達は、皆んなどこか亀っぽいです。忍者タートルズです。
 もちろん、一人ひとり個性があって、違いはあります。亀だってミドリガメとかゾウガメとか色んなのがいますから、亀なりにバリエーションがあるのは当然です。でも、亀は亀です。皆んな甲羅を背負っています。
 亀とは言っても、直立二足歩行なので、本物のリアル亀とはちょっと違います。二本脚で立ち上がって、少し前傾で腰を落とした感じです。
 そう考えると、一番ズバリなのはガメラだ、ということに気づきました。ガメラも二本脚で立って、腰が落ちた感じです。ガメラの腰がどの辺なのかよく分かりませんが、見るからに安定している感じです。
 しかもガメラなら怪獣です。怪獣のイメージと亀のイメージを兼ね備えたガメラは、体の捉え方としてベストなように思います。
 これは素晴らしい発想のように思うので、わたしが先生だったら秘伝にして、一升瓶持ってきた弟子にしか教えないのですが、先生ではないのでここに書いてしまいます。ガメラです、ガメラ。モスラじゃダメですよ。
 しかしよく考えてみると、ガメラというのは無茶苦茶な怪獣ですね。「亀を大きくして戦わせてみよう」とか、普通はちょっと思いつかないです。ガメラの発案者は一体何を考えていたのでしょうか。
 それにしても、やればやるほど亀っぽくなっていく武術というのは、正直、あんまりカッコ良くないですね。女性会員が増えない訳です。

意志と反応

 亀のことを書いていて、天野先生が「意志と反応は同居しない」というようなことを書かれていたのを思い出しました。
 自動追尾だけれどカウンターではない、というのは、カウンターというのは意志のものだからです。カウンターは意志に対して意志で後の先を取る技術です。これはこれで大変素晴らしいもので、尊敬に値する技術だと思いますが、意志と意志というのは鉛筆の先っぽと先っぽを合わせるような感じで、点と点がぴったり合うタイミング芸なくして成り立ちません。これは限られた状況を除くと大変難しいことで、神経のすり減ることです。
 一方で自動追尾というのは、体の状態から出てくるものです。歩いていてうっかりぶつかって「あ、ごめんなさい」というような、意図せずして勝手に当たってしまう感じです。これは意志よりも速く、一度状態が出来てしまえば後は点と点を合わせるような芸は必要ありません。アクシデントが起こるのを待っている感じです。
 そうは言っても、この状態を作るのが簡単ではないので、やはり職人芸の一種であることに変わりはないのですし、時間もかかるのですが、根本的に性質が異なることではないかと思います。

「今は」

 と、尤もらしいことを書いてみましたが、最初にお断りした通り一介の練習者の言うことなどアテになりませんし、わたし自身も来月になったら違うことを言っていそうな気がします。
 理論や言葉による説明には「気持ちが納得する」効果があります。理論が分かったところで理論通りに体を動かせるかどうかは別問題ではあるのですが、「気持ちが納得する」だけでも意味はあります。天野先生がどこかで「素直であることが上達の秘訣」といったことを書かれていましたが、気持ちが納得すれば、心も素直になります。頭ごなしに言われれば誰しも心が頑なになるものです。納得しないでも先生の仰ることには総て「押忍」という、まっさらな心の持ち主であれば、別に納得など要らないかもしれませんが、わたしのように心がネジ曲がった人間は、納得できないとなかなか素直になれないものです。筋の通った分かりやすい話というのは(たとえその理論通りにことが運ばなかったとしても)、人の心を素直にして、物事を受け入れて習得しやすくする効果があります。
 一方で、理論というのはあくまで仮説の積み重ね、ただの言葉ですから、絶対視してしまうと大変危険です。先生だって、自分のやっていることを100%言葉にしたりは出来ないのですから、まして下々の者が自分を説得するために考えだしたオレオレ理論など、「そういう考えもある」程度に流しておかなければ、かえって頭も体も固くなって自然な上達を妨げることになりかねません。
 身体論や武術の世界には、明晰判明で武術オタ心を満たす理論を掲げる方がいらっしゃいますが、どんな理論も話半分程度に聞いておいた方が身のためです。特に「日本人はこうだけれど、西洋人はこう」みたいな紋切型の単細胞な発想は警戒しないと危ないです。東洋と西洋とか、そんな単純に物事切り分けられる訳がありません。「じゃあモーリタニア人はどう動くんや」とかツッコミどころ満載です。伸筋と屈筋とか、骨盤前傾と後傾とか、怪しげなものが沢山あります。世の中も生き物の体ももっとややこしいもので、神様の作ったものを人の言葉でスッパリ切り分けようなどというのがおこがましいです。
 太氣会最強の一人M先輩が、ある時こんな話をされていました。「考えるのは良いけれど、どんな考えも『今は』を付けないとダメだ」。つまり、練習の過程で自分なりの仮説を立て、しばらくそれに沿って稽古してみることは有効だけれど、あくまで暫定的なもので、「今は○○と考えて○○してみる」くらいに思っておかないといけない、ということです。この心構えはとても大切だと思います。
 尤も、その時M先輩は既に結構酔っ払っていたので、そんなことを仰ったのは覚えていない気もしますが・・。

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靴のはなし、出来ないことの素晴らしさ、言葉の受け止め方

 「入門記」でも書きましたが、わたしは稽古について、なるべくゴチャゴチャ頭を使わないように気をつけています。
 本当は人一倍屁理屈を捏ねるのが好きで、変な「自分理論」なら山ほどあるのですが、誰の役にも立ちませんし、うっかり披瀝してしまうと二ヶ月後には黒歴史になっているだけなので、余計なことは書かないでおきます。
 分析的な内容は賢くて実力のある方々にお任せして、ここではしょうもない太氣会小ネタでも披露しておきます。

靴のはなし

 わたしは入門以来、ベアフット系のソールの薄いシューズを練習に使っています。
 靴なんて何でも良いかもしれませんが、あまりクッションの効いていないタイプの方が武術の稽古には向いているようです。太氣会の重鎮A先輩は、業務用?のシューズでソールの薄いものを見つけてきて、他の会員にも薦められています。
 それはともかく、わたしは現在、練習に使う靴と練習に行く靴を分けています。つまり練習場についてから靴を履き替えています。どちらの靴も同じ靴の色違いで、最初の頃は来たままの靴でそのまま練習していました。
 同じ種類の靴なのに、履き替えるようになったのには理由があります。

 一足目の靴が少しボロくなってきて、二足目の同じタイプの靴を新調した時のことです。
 いつものように稽古場所で禅を組んでいると、天野先生がおもむろにやって来られました。
 そしてわたしのつま先をグッと踏みつけると、「つま先を持ち上げ、踵を踏み込む力!」とおっしゃったのです。
 「つま先を持ち上げ、踵を踏み込む力」というのは、非常に重要なもので、禅の時も動いている時も、この力を絶やさないようにしなければなりません。おそらくその時は、わたしの禅でそこが欠けているように天野先生は感じられ、それを教えるためにつま先を踏まれたのでしょう。このように実際に足を踏んだり誰かに持ってもらって抵抗をかけたり、という練習も、時々行われています。
 それは結構なのですが、その時のわたしの靴は、おろしたての新品。
 不動の姿勢でピカピカの靴を踏んづけられていているわたし。踏んでいる天野先生も踏まれているわたしも真剣なのですが、傍から見たらかなり笑える状況です。コントみたいです。
 ともあれ、そんなことがあって、わたしは練習用の靴を別にするようになりました。
 まぁ、単に練習に使っているとすぐ靴がボロボロになるので、そのまま電車に乗るのが恥ずかしい、というのもありますが・・。

 ちなみに、島田道男先生の道場では、屋内練習であるにも関わらず、組手の時は靴を履くそうです。足を踏んづけられるから、とのこと。
 交流会などでも、島田先生はよく「相手の足を踏め! 足を踏めば手が出るんだから!」と仰っています。
 打つことにとらわれると「相手の地位を奪う」ということが疎かになりますが、足を踏むような意識を持つことで、相手を崩す端緒をつかむことができる、ということかと思います。
 とはいえ、普通は「足を踏むくらいのつもりで」ということで、実際に足を踏んづけることはそんなにないかと思うのですが・・。

 太氣拳の稽古では、ソールの薄い靴が便利ですが、逆に上側はちょっと厚めの靴の方が良いかもしれません・・。

靴のはなし2

 靴つながりで、もう一つお話を。
 天野先生がよく仰ることに「五本の指で地面をつかめ!」というものがあります。
 これは非常に大切な教えで、大切すぎてもったいないのでここではお話しません(笑)。入会して天野先生に伺って下さい。
 ちなみに、同じく天野先生のお言葉で、「五本の指でつかまないでいいなら、五本も指がなかった筈だ」というのがあり、これはとても心に残っています。
 今あるもののすべては、ささやかなりとも、なにがしかの理由があって今ここにあるのであります。
 人間は、進化史的にはごく最近になって急激に生活様式を変えたため、一見すると「無駄」に思える部分が身体にはあります。また、糖尿病のように、かつてはプラスに働いていた筈の因子が、現代生活の中で徒になってしまっている例もあります。
 とはいえ、少なくとも人類の歴史のほとんどの中で、今持っているものはすべて「あるべくしてある」ものだった筈です。
 そして武術という、ある意味、身体の原初的使用法を探求する営みの中では、そうした「あるもの」を一旦はそのままに受け止める、ということが大事かと思います。

 と、ここまでは良いお話なのですが、太氣会の会友員の方に、他流の指導者でもある古参の某先輩がいらっしゃいます(太氣会には他流で長いこと修行を積まれた方や、今現在も指導者である方が何人もいらっしゃいます)。
 この方は少なくともわたしの見るところ、間違いなく「強い」のですが、太氣の稽古にはあまり熱心ではないようで、天野先生の教えには沿っていないところも色々あるようです。
 この方に対し、天野先生がいつものように「五本の指で地面をつかめ!」と指導されたところ、返事が秀逸でした。
 「つかめません」「だって、間に靴がありますから・・」。
 すごいです。
 いや、確かに間に靴があります。だからつかめません。そこは間違ってはいません。
 でもそういう話ではありませんよね・・。
 仮にこういう疑問が浮かんでも、普通は自己ツッコミが入って意図を汲もうとするものかと思うのですが、ある意味、度胸があるというか、肚がすわっているようにも思います。
 天野先生は呆れていらっしゃいましたが、個人的には、こういう天然力もひとつの魅力かと思いますので、それはそれで活かす方向でやっていって頂きたいなぁ、と思っています。

独身問題

 以前に鹿志村先生のインタビュー記事を読んでいたら、澤井先生が最初の頃は「男は早くに結婚するようではイカン」というお話をされていたのが、皆んながあまりに結婚しないものだから段々言わなくなった、というお話をされていました。
 そんな「伝統」があるのか、太氣会も未婚率が高いです。
 客観的に見て「花婿さん候補」として決して条件の悪くない方もいらっしゃるのですが、一向に結婚される気配がありません。
 もちろん、結婚なんてしようがしまいが本人の勝手なので、一生独身でも全然問題ないと思います。でも天野先生だってご結婚されて三人もお子様がいらっしゃるのですから、結婚して弱くなるということはないと思うのですが・・。
 なんというか、武術のこと以外頭にないような人が多いのです。
 その一人であるAY先輩は、長年フルコンの修行をしてこられ、太氣拳も熱心に練習されているムキムキマッチョの消防士さんです。
 消防士さんというのは割とモテるそうですし、AY先輩は顔立ちも精悍で男前、礼儀正しいしタバコも吸わないし、実直で変な遊びにも興味がなさそうなので、いくらでもチャンスはありそうに見えます。しかしこのAY先輩、太氣会の中でもとりわけ「武術脳」というか、武術・格闘技以外の話をしているのをほとんど見たことがありません。
 ある時、このAY先輩と別のI先輩、わたしの三人で、稽古帰りに電車に乗っていました。
 その時、どういう話の流れだったか、わたしがI先輩に「いやぁ、でもAYさんは独身ですからねぇ」と言ったのです。
 するとAY先輩が一言、「いや、自分、極真じゃないッスよ」。
 ・・・あ、ハイ・・・。
 ある意味、なぜAYさんが独身なのかが納得できたエピソードでした。

普通の人に納得してもらうこと

 太氣拳の稽古は、一見したところでは何をやっているのやら意味不明なものが多いです。そして太氣会の稽古は基本的に公園などの公共の場で行われているため、ときどき不思議に思った方に話しかけられることがあります。
 わたしは割と話しかけやすいポジションにいるのか、よくお年寄りや子供の「質問ターゲット」にされます。別にわたしもフレンドリーな性格では全然ないし、むしろ取っ付きにくい方だと思うのですが、他のオジサンたちが余程強面で話しかけづらいのでしょう。消去法でわたしのところに来るようです。
 純粋な気持ちで質問されているなら、礼節をもって真面目に応えたいのですが、一言で説明できるものでもないので、なかなか悩まされます。
 一度外国人の女性に「これは体操ですか?」と尋ねられたことがあります。
 この時は、禅を組んでいた澤井先生が外国人に「これは何か」と尋ねられて「あなたには分からない」と答えた、というエピソードを思い出し、カッコ良く答えようかと思ったのですが、小物なので「あ、いや、体操とはまた違うんですけど・・アハハ・・」くらいしかリアクションできませんでした。

 つい先日も、小学生の女の子三人組に話しかけられました。
 余程気になっていたのか、最初は遠巻きに眺めていたのですが、勇気を出して近くにやってきて「いっしょに言おう」「ね」「せーの」「何やってるんですか?」と可愛く尋ねられました。
 こういう時は、大人として親切に答えたいものです。
 「ブジュツって分かる?」と突き蹴りの動きを見せたりして、「最初はゆっくり動いて、段々速く練習する」とか、もっともらしいことを言って納得して頂きました。本当のところ、こんな説明はちょっと嘘な訳ですが、子供やまったくの素人の人を相手にして大事なのは、とりあえずざっくりと納得してもらう、ということです。ちょっと嘘でも、ツカミが大事です。

 武術は見世物ではありませんし、「興行」をやっている訳ではないですから、別に素人の「お客さん」を喜ばせる義理はありません。ありませんが、武術をやっている人間も人の間で生きていて、世の中に生かせれている訳ですから、人との関係とか、「相手に分かるように自分を表現する」ということも大切でしょう。武術以前に一市民として、そういうことは疎かにしてはいけないと、個人的には思います。
 こういう時、高い蹴りなどが得意だと、素人受けし易くて大変便利です。少林寺のような逆手技なども好都合だと思います。
 わたしは太氣会に入って以降、組手で上段を蹴ったことはほとんどないですし、後ろ回しや二段蹴り系なんてもう一生使わない気もしますが、見せ芸として一応ちょっとは練習しています(後ろ回しは身体操作上のエクササイズとして有効だと個人的には思っているのですが・・)。
 自分の場合、そもそも格闘技と縁をもったキッカケも「飛んで回って蹴ったらカンフー映画みたいでカッコイイ」とか、そういうレベルの話だったので、「初心」を忘れないためにも(笑)、見た目の良いことは一応引き出しにいれておきたいです。

 どんな「専門」でもそうですが、世の中のほとんどの人はその分野についてよく知らないし、見る目もありません。そのお陰で「専門」が専門たりえているのです。世の中皆んなが医学のエキスパートなら、医者も商売あがったりです。
 そういう意味で、何かができる、何かを知っている、ということは、それができない、知らない人に生かされている一面もあるわけで、そういう人の理解を得て仲良くしていくということは、(専門そのものを深めていくということとは別問題として)結構大事なことだと思っています。
 それに、「その他大勢」の人たちと日頃から仲良くしておかないと、万が一何かの間違いで誰かを半殺しにしてしまった時に、誰も味方してくれなくなりますよ!

普通であること

 天野先生はよく「普通じゃなくならないとダメだ」ということをおっしゃいますが、同時に(別の意味で)「普通である」ということも大切だと、わたしは思っています。
 前にも書きましたが、個人的には、天野先生の良いところの一つは、「普通」な感覚も併せ持っているところだと感じています。ボケツッコミで言うとツッコミタイプです。これは好みというか、相性のようなお話なので、別にどっちが良いとかいうことではありません。
 ちなみに、「師匠がボケだとツッコミの弟子が集まり、師匠がツッコミだとボケの弟子が集まる」というボケツッコミ仮説を密かに温めているのですが、特に根拠はない上、立証できても武術の進歩にも学問の進歩にも寄与するところがないので、忘れて下さい。

 話を戻しますが、前に天野先生が「稽古というのは、細い糸を少しずつ撚って撚って、縄にしていくようなものだ」と仰ったことがあります。
 何か秘伝とか必殺技とかを習うとズバーン!と急に強くなる、とかいうことではなく、本当に細かい、紙一重の違いのようなことを、丁寧に丁寧に積み上げていくことで、本当の強さが培われる、ということです。
 伝統武術系の世界では、やたら達人とか秘伝とか、雲の上みたいな話を好む方が時々いらっしゃいますが、どんなに不思議に見えるものでも、ある意味すごく「普通」というか、細かく地道な工夫を積み上げていった結果なのだと思います。ある日夢枕に宮本武蔵が立って秘術を授かった、とか、そういうのは絶対ウソだと思います。
 「戦う編集長」の山田英司さんが、以前に「茶帯を目指せ」ということを書かれていました。やれ達人や絶招やといった話をやたら好む人がいるけれど、それ以前に茶帯のレベルにならないとどうしようもない、というお話です。茶帯というのは、黒帯以前な訳ですから、武術・武道の世界では「まだまだ」ということになるのでしょう。一方で、白帯とか素人から見ると、茶帯レベルの人というのは、もう「絶対ムリ」というレベルで強いものです。それくらいの強さをまず目指せ、達人になるのはそれからでも遅くない、というお話です。
 太氣会には帯の色も段位もありませんし、天野先生は「大事なのは『ある』か『ない』かで、段がちょっと上がったなんてのは意味がない」といったことを仰っていますが、だからといって、ある日突然白帯が達人になる訳がないと思います。
 自分はとりあえず「茶帯」を目指しています。天野先生は否定されるかもしれませんが、茶帯だって相当なものですよ!

 こんなお話をするのは、わたしの心が弱くて、人一倍「一発逆転」的なロマンに惹かれるところがあるからだと思います。「未公開株で一攫千金!」とか「運命の人と出会って人生が急展開!」とかも、同じ種類のお話です。
 この手のお話というのは、要するに「細い糸を少しずつ撚って」いく努力が面倒くさくて、何か神秘的な技とか白馬の王子様とか、そういうものがやって来てすっかり変えてくれる、という、ご都合主義的なファンタジーに過ぎません。
 ファンタジーとしては結構ですけれど、現実にはそんな他力本願な姿勢では何事も成し遂げられないし、幸せにもなれないでしょう。
 どんなことでも「自分から動いて、自分で決めて、自分で責任を取る」しかないのです。そうでないと、たとえ一時的な成功を手にしたとしても、幸せにはなれないと思っています。
 騙して儲ける側なら、ちょっと見習ってみようかとも思いますが(笑)。

 わたしが入門したばかりの頃、天野先生にこんな話をされたことがあります。
 以前に普段の歩き方からして全然ダメな弟子がいたそうです。その人は禅を組んでも五分ともたず、仕方なく座ってやる禅から教えたとのこと。それが少しずつ少しずつ上達して、ある時ふと見てみると、普段の歩いている姿が随分サマになってきていた、というお話です。
 天野先生としては「昔ダメなヤツがいてなぁ」くらいのつもりだったのかもしれませんが、わたしはこの人のエピソードに結構感銘を受けました。
 わたしは打たれ弱い性格なので、他の人が三十分とか平気でやっていることを自分が五分もできなかったら、恥ずかしくて続けていくことが出来なかったと思います。
 それが辛抱に辛抱を重ねて、笑われながら努力することをやめなかったのです。
 それだけ頑張っても、その人は武術をやっている人間として大したレベルではなかったかもしれません。せいぜい運動音痴が普通レベルになったとか、偏差値30が50になったとか、その程度だったのかも分かりません。でもその人の「普通」は、他の人の「普通」の何十倍も尊いものだと思いますし、そういう人の積み重ねた努力の方が、狭い意味での武術を越えて、人生を豊かにしてくれるものではないのかなぁ、と思っています。

 自分はそこまでドン臭いタイプの人間ではないつもりですが、性格がネジ曲がっていて劣等感が強く、「せめて普通くらいになりたい」という思いがあります。
 また、これとは別の意味で、「人間である」というだけで、何か「普通」以下なようにも感じます。自分は野鳥や動物が好きなのですが、鳥や犬猫に比べても人間はあまりにドン臭いし、真っ当に生きるのに色々手続きが必要です。神様の声がちゃんと聞こえていない感じです。
 普通というか、自然になりたいと思っています。

出来ないことの素晴らしさ

 天野先生が「何かが出来ないということは素晴らしいことなんだよ!」と仰ったことがあります。
 武術の稽古というのは、配管の水漏れ箇所を探すような作業に似ている気がします。今のままでもとりあえず水は出てくるけれど、どこかで漏れている。出来ていないところがある。それを丹念に探して塞いでいく、という作業です。
 この時、「とりあえず水は出てくる」というのが、非常にクセモノです。
 蛇口をひねってもうんともすんとも言わない、というなら、「間違っている」ことが丸わかりですが(それはそれで問題ですけれど)、なまじ「とりあえずはなんとかなる」だけに、「上手く行っていない」ところに目が行きません。
 カモのお母さんは、「1、2、沢山」みたいな数の把握の仕方をしていて、八羽くらいいるヒナが一羽くらいいなくなっても気づかないようです。それが六羽、五羽と段々減っていって、最後の一羽か二羽くらいになったところで「・・あれ? 最近うちの子ちょっと減ってない?」とハッとする訳です。
 それでは遅すぎます。
 八羽と七羽じゃ大して違わないのかもしれませんが、我が子の失踪なのですから、よくよく目を光らせておかないといけません。
 そういう意味で、すごく些細な「足りないもの」「抜け」を見つけるというのは、骨が折れるけれど大切なことだと思います。
 太氣拳の場合、出てくる感覚に独特のものがあるので、1あるだけで100できているかのような錯覚に陥りがちなところがあると思います。こういう時、対人練習をやってみるとびっくりするくらい出来ていないことが分かります。0ではないかもしれませんが、せいぜいのところ2とか3で、10とか30とかある人の前では赤子同然なのです。こういう経験にはションボリさせられますが、勉強にもなります。一人で稽古している時も、自分の中で一つずつスイッチを入れたり切ったりしてみて、どこが通じていないのか確かめてみることがあります。
 「何かが出来ない」というか、「何かが出来ないことに気づけた」というのは、素晴らしいことだと思います。

言葉の受け止め方

 あまり分析的にならない、言葉にとらわれないようにする、ということは前にも書きました。師匠というのは、表面的に「矛盾する」ことを言うもので、その末節に囚われていると、一番大事なメッセージを捕まえ残ってしまうからです。
 大体、天野先生ご自身だって、自分が一体どうやって動いているのか、100%把握している訳ではないでしょう。
 別に天野先生に限らず、指導者一般について、何かが「できる」ということと、そのメカニズムを把握していて説明できる、ということは別問題です。言ってることとやってることが違う、なんてことはゴロゴロあるでしょう。
 仮に百歩譲って、指導者が自分の身体メカニズムを100%把握していて、かつ完璧に言表できるとしても、それを聞いた弟子や生徒が、その通りに出来るというわけではありません。中には特別センスのある生徒がいて、言われたとおりにパッとできることもあるかも分かりませんが、まずほとんどの人にはムリな話です。
 そもそも、別段武術や身体論の話に限らず、わたしたちの言語活動は「事実」と照応するような関係で成り立っているものではありません。そんな素朴なモデルでは、人間の言語活動の99%は説明できませんし、言語哲学の教養向け教科書でも読むだけで納得できる話です。
 言葉というのは、事実と向き合っているかのように見えて、まず行為として眺めることでしか受け止めることは出来ません。

 ここのところ天野先生は「踵を踏む」という表現を重視されていますが、以前はあまりそういう言い方をせず、むしろつま先よりの重心のお話をされていたと思います。
 この足裏の重心というのを例にとると、これは武術・身体論系の世界では一大テーマで、正に百家争鳴というか、拇指球が大事とか、つま先は受けてとか、いやいやアウトエッジが大事とか、内踝の下に来るようにとか、色々な意見があります。そもそもの重心タイプが人によって違う、として、分類論を行っている人もいます。
 これだけ色々なことを言う人がいる、ということは、裏を返せば、つま先だとか踵だとか「これだけやってればオッケー」みたいな簡単な話ではない、ということでしょう。
 「相手と向き合った時は足で立つべきか、それとも逆立ちすべきか」とかで議論する武術家はいません。犬が西向きゃ尾は東みたいなことだったら、こんな色んな意見が出てきたりはしないでしょう。
 こういう、客観的に見て「一筋縄に行くわけがない」「シンプルな答えがあるわけがない」ところにズバッとした言葉が来た時、聞く側はこれを額面通りに受け取ってはいけません。額面通りに取れば、それは端的に言って「間違っている」か、あるいは「極めて部分的にしか正しくない」言葉でしかないからです。
 話半分で聞いておけ、というのもありますが、それよりも、そういうシンプルな言葉で師匠なり何なりが表現しようとしている勢いみたいなものを、感じた方が良いと思います。
 そういう勢いを眺めていると、言葉そのものは大したことを言っていなくても、ハッとすることがあります。自分の中でモヤモヤしていたものが、「あっ!」という感じで、ひらめくことがあるのです。
 ですから、極端な話、言っている言葉の内容そのものは、なんだって良いのかもしれません。
 いや、何でもイイということはないかもしれませんが、重要なのは聞いている人に「あれ?」という気持ちを沸き上がらせることであって、何か事実を伝えるとか、そういう機能を果たしている必要はないのかと思います。
 敢えてつま先だの踵だのといったセンシティヴなテーマで言葉を発するというのは、ジャズのスタンダードを演奏するようなもので、「その人が今、こういうアレンジで演奏している」というところを見ないと、目の前で起こっていることを取り逃がしてしまいます。
 そして多分、「あれ?」という気持ちになりながらも真剣に向き合う、というような関係は、一朝一夕に築けるものではなく、指導者の側にとっても生徒の側にとっても、時間をかけて積み上げていくしかないものでしょう。
 島田道男先生のインタビューなどを読むと、「サッと入ってバーンとやっちまえばいいんだ」みたいなことをお話されていて、こうして文字にしてみると何がなにやらサッパリ分かりません。「バーン」って何ですか一体。でも、日頃先生の下で稽古されているお弟子さんたちにとっては、「バーンと」とか言われるだけで、何かピンと来たり、閃いたりすることがあるのでは、と思います。
 ものを教わるというのはそういうことで、言葉の受け止め方というのも、よくよく工夫しないといけないと思っています。

 これは余談ですが、武術に限らず、人の話というのは鳥が鳴いているように受け止める、自分の言葉も歌うように話す、ということは、自分の場合、色々と役に立っています。
 なまじ言葉に意味があって、しかも事実と照応しているかのように思えてしまうと、意味と意味がぶつかったり、「なんで分かってくれないの」という気持ちになったり、良くも悪くも強い感情と結びつきがちです。
 人の喋っていることなんてそんな大層なものではないし、逆に、鳥が歌っているのだって鳥なりにすごく歌いたい気持ちがあるのでしょう。
 だから、人の言っている内容そのものではなく、「あぁ、この人は今すごく訴えかけたい気持ちなんだなぁ」と眺めたりすることで、むしろその人の気持ちと素直に相対することができるように思います。逆に、自分自身についても、どうせ言っている内容は大したことではなくて、ただ歌いたいから歌うとか、踊りたいから踊るとか、そういうものなんだなぁ、と眺めています。
 自分は非常に感情の起伏が激しい人間で、若い時はそれで色々な失敗をしたのですが、そうやってぼんやり眺めるように努めてから、少し人間関係が楽になったように思います。