「入門記」でも書きましたが、わたしは稽古について、なるべくゴチャゴチャ頭を使わないように気をつけています。
本当は人一倍屁理屈を捏ねるのが好きで、変な「自分理論」なら山ほどあるのですが、誰の役にも立ちませんし、うっかり披瀝してしまうと二ヶ月後には黒歴史になっているだけなので、余計なことは書かないでおきます。
分析的な内容は賢くて実力のある方々にお任せして、ここではしょうもない太氣会小ネタでも披露しておきます。
靴のはなし
わたしは入門以来、ベアフット系のソールの薄いシューズを練習に使っています。
靴なんて何でも良いかもしれませんが、あまりクッションの効いていないタイプの方が武術の稽古には向いているようです。太氣会の重鎮A先輩は、業務用?のシューズでソールの薄いものを見つけてきて、他の会員にも薦められています。
それはともかく、わたしは現在、練習に使う靴と練習に行く靴を分けています。つまり練習場についてから靴を履き替えています。どちらの靴も同じ靴の色違いで、最初の頃は来たままの靴でそのまま練習していました。
同じ種類の靴なのに、履き替えるようになったのには理由があります。
一足目の靴が少しボロくなってきて、二足目の同じタイプの靴を新調した時のことです。
いつものように稽古場所で禅を組んでいると、天野先生がおもむろにやって来られました。
そしてわたしのつま先をグッと踏みつけると、「つま先を持ち上げ、踵を踏み込む力!」とおっしゃったのです。
「つま先を持ち上げ、踵を踏み込む力」というのは、非常に重要なもので、禅の時も動いている時も、この力を絶やさないようにしなければなりません。おそらくその時は、わたしの禅でそこが欠けているように天野先生は感じられ、それを教えるためにつま先を踏まれたのでしょう。このように実際に足を踏んだり誰かに持ってもらって抵抗をかけたり、という練習も、時々行われています。
それは結構なのですが、その時のわたしの靴は、おろしたての新品。
不動の姿勢でピカピカの靴を踏んづけられていているわたし。踏んでいる天野先生も踏まれているわたしも真剣なのですが、傍から見たらかなり笑える状況です。コントみたいです。
ともあれ、そんなことがあって、わたしは練習用の靴を別にするようになりました。
まぁ、単に練習に使っているとすぐ靴がボロボロになるので、そのまま電車に乗るのが恥ずかしい、というのもありますが・・。
ちなみに、島田道男先生の道場では、屋内練習であるにも関わらず、組手の時は靴を履くそうです。足を踏んづけられるから、とのこと。
交流会などでも、島田先生はよく「相手の足を踏め! 足を踏めば手が出るんだから!」と仰っています。
打つことにとらわれると「相手の地位を奪う」ということが疎かになりますが、足を踏むような意識を持つことで、相手を崩す端緒をつかむことができる、ということかと思います。
とはいえ、普通は「足を踏むくらいのつもりで」ということで、実際に足を踏んづけることはそんなにないかと思うのですが・・。
太氣拳の稽古では、ソールの薄い靴が便利ですが、逆に上側はちょっと厚めの靴の方が良いかもしれません・・。
靴のはなし2
靴つながりで、もう一つお話を。
天野先生がよく仰ることに「五本の指で地面をつかめ!」というものがあります。
これは非常に大切な教えで、大切すぎてもったいないのでここではお話しません(笑)。入会して天野先生に伺って下さい。
ちなみに、同じく天野先生のお言葉で、「五本の指でつかまないでいいなら、五本も指がなかった筈だ」というのがあり、これはとても心に残っています。
今あるもののすべては、ささやかなりとも、なにがしかの理由があって今ここにあるのであります。
人間は、進化史的にはごく最近になって急激に生活様式を変えたため、一見すると「無駄」に思える部分が身体にはあります。また、糖尿病のように、かつてはプラスに働いていた筈の因子が、現代生活の中で徒になってしまっている例もあります。
とはいえ、少なくとも人類の歴史のほとんどの中で、今持っているものはすべて「あるべくしてある」ものだった筈です。
そして武術という、ある意味、身体の原初的使用法を探求する営みの中では、そうした「あるもの」を一旦はそのままに受け止める、ということが大事かと思います。
と、ここまでは良いお話なのですが、太氣会の会友員の方に、他流の指導者でもある古参の某先輩がいらっしゃいます(太氣会には他流で長いこと修行を積まれた方や、今現在も指導者である方が何人もいらっしゃいます)。
この方は少なくともわたしの見るところ、間違いなく「強い」のですが、太氣の稽古にはあまり熱心ではないようで、天野先生の教えには沿っていないところも色々あるようです。
この方に対し、天野先生がいつものように「五本の指で地面をつかめ!」と指導されたところ、返事が秀逸でした。
「つかめません」「だって、間に靴がありますから・・」。
すごいです。
いや、確かに間に靴があります。だからつかめません。そこは間違ってはいません。
でもそういう話ではありませんよね・・。
仮にこういう疑問が浮かんでも、普通は自己ツッコミが入って意図を汲もうとするものかと思うのですが、ある意味、度胸があるというか、肚がすわっているようにも思います。
天野先生は呆れていらっしゃいましたが、個人的には、こういう天然力もひとつの魅力かと思いますので、それはそれで活かす方向でやっていって頂きたいなぁ、と思っています。
独身問題
以前に鹿志村先生のインタビュー記事を読んでいたら、澤井先生が最初の頃は「男は早くに結婚するようではイカン」というお話をされていたのが、皆んながあまりに結婚しないものだから段々言わなくなった、というお話をされていました。
そんな「伝統」があるのか、太氣会も未婚率が高いです。
客観的に見て「花婿さん候補」として決して条件の悪くない方もいらっしゃるのですが、一向に結婚される気配がありません。
もちろん、結婚なんてしようがしまいが本人の勝手なので、一生独身でも全然問題ないと思います。でも天野先生だってご結婚されて三人もお子様がいらっしゃるのですから、結婚して弱くなるということはないと思うのですが・・。
なんというか、武術のこと以外頭にないような人が多いのです。
その一人であるAY先輩は、長年フルコンの修行をしてこられ、太氣拳も熱心に練習されているムキムキマッチョの消防士さんです。
消防士さんというのは割とモテるそうですし、AY先輩は顔立ちも精悍で男前、礼儀正しいしタバコも吸わないし、実直で変な遊びにも興味がなさそうなので、いくらでもチャンスはありそうに見えます。しかしこのAY先輩、太氣会の中でもとりわけ「武術脳」というか、武術・格闘技以外の話をしているのをほとんど見たことがありません。
ある時、このAY先輩と別のI先輩、わたしの三人で、稽古帰りに電車に乗っていました。
その時、どういう話の流れだったか、わたしがI先輩に「いやぁ、でもAYさんは独身ですからねぇ」と言ったのです。
するとAY先輩が一言、「いや、自分、極真じゃないッスよ」。
・・・あ、ハイ・・・。
ある意味、なぜAYさんが独身なのかが納得できたエピソードでした。
普通の人に納得してもらうこと
太氣拳の稽古は、一見したところでは何をやっているのやら意味不明なものが多いです。そして太氣会の稽古は基本的に公園などの公共の場で行われているため、ときどき不思議に思った方に話しかけられることがあります。
わたしは割と話しかけやすいポジションにいるのか、よくお年寄りや子供の「質問ターゲット」にされます。別にわたしもフレンドリーな性格では全然ないし、むしろ取っ付きにくい方だと思うのですが、他のオジサンたちが余程強面で話しかけづらいのでしょう。消去法でわたしのところに来るようです。
純粋な気持ちで質問されているなら、礼節をもって真面目に応えたいのですが、一言で説明できるものでもないので、なかなか悩まされます。
一度外国人の女性に「これは体操ですか?」と尋ねられたことがあります。
この時は、禅を組んでいた澤井先生が外国人に「これは何か」と尋ねられて「あなたには分からない」と答えた、というエピソードを思い出し、カッコ良く答えようかと思ったのですが、小物なので「あ、いや、体操とはまた違うんですけど・・アハハ・・」くらいしかリアクションできませんでした。
つい先日も、小学生の女の子三人組に話しかけられました。
余程気になっていたのか、最初は遠巻きに眺めていたのですが、勇気を出して近くにやってきて「いっしょに言おう」「ね」「せーの」「何やってるんですか?」と可愛く尋ねられました。
こういう時は、大人として親切に答えたいものです。
「ブジュツって分かる?」と突き蹴りの動きを見せたりして、「最初はゆっくり動いて、段々速く練習する」とか、もっともらしいことを言って納得して頂きました。本当のところ、こんな説明はちょっと嘘な訳ですが、子供やまったくの素人の人を相手にして大事なのは、とりあえずざっくりと納得してもらう、ということです。ちょっと嘘でも、ツカミが大事です。
武術は見世物ではありませんし、「興行」をやっている訳ではないですから、別に素人の「お客さん」を喜ばせる義理はありません。ありませんが、武術をやっている人間も人の間で生きていて、世の中に生かせれている訳ですから、人との関係とか、「相手に分かるように自分を表現する」ということも大切でしょう。武術以前に一市民として、そういうことは疎かにしてはいけないと、個人的には思います。
こういう時、高い蹴りなどが得意だと、素人受けし易くて大変便利です。少林寺のような逆手技なども好都合だと思います。
わたしは太氣会に入って以降、組手で上段を蹴ったことはほとんどないですし、後ろ回しや二段蹴り系なんてもう一生使わない気もしますが、見せ芸として一応ちょっとは練習しています(後ろ回しは身体操作上のエクササイズとして有効だと個人的には思っているのですが・・)。
自分の場合、そもそも格闘技と縁をもったキッカケも「飛んで回って蹴ったらカンフー映画みたいでカッコイイ」とか、そういうレベルの話だったので、「初心」を忘れないためにも(笑)、見た目の良いことは一応引き出しにいれておきたいです。
どんな「専門」でもそうですが、世の中のほとんどの人はその分野についてよく知らないし、見る目もありません。そのお陰で「専門」が専門たりえているのです。世の中皆んなが医学のエキスパートなら、医者も商売あがったりです。
そういう意味で、何かができる、何かを知っている、ということは、それができない、知らない人に生かされている一面もあるわけで、そういう人の理解を得て仲良くしていくということは、(専門そのものを深めていくということとは別問題として)結構大事なことだと思っています。
それに、「その他大勢」の人たちと日頃から仲良くしておかないと、万が一何かの間違いで誰かを半殺しにしてしまった時に、誰も味方してくれなくなりますよ!
普通であること
天野先生はよく「普通じゃなくならないとダメだ」ということをおっしゃいますが、同時に(別の意味で)「普通である」ということも大切だと、わたしは思っています。
前にも書きましたが、個人的には、天野先生の良いところの一つは、「普通」な感覚も併せ持っているところだと感じています。ボケツッコミで言うとツッコミタイプです。これは好みというか、相性のようなお話なので、別にどっちが良いとかいうことではありません。
ちなみに、「師匠がボケだとツッコミの弟子が集まり、師匠がツッコミだとボケの弟子が集まる」というボケツッコミ仮説を密かに温めているのですが、特に根拠はない上、立証できても武術の進歩にも学問の進歩にも寄与するところがないので、忘れて下さい。
話を戻しますが、前に天野先生が「稽古というのは、細い糸を少しずつ撚って撚って、縄にしていくようなものだ」と仰ったことがあります。
何か秘伝とか必殺技とかを習うとズバーン!と急に強くなる、とかいうことではなく、本当に細かい、紙一重の違いのようなことを、丁寧に丁寧に積み上げていくことで、本当の強さが培われる、ということです。
伝統武術系の世界では、やたら達人とか秘伝とか、雲の上みたいな話を好む方が時々いらっしゃいますが、どんなに不思議に見えるものでも、ある意味すごく「普通」というか、細かく地道な工夫を積み上げていった結果なのだと思います。ある日夢枕に宮本武蔵が立って秘術を授かった、とか、そういうのは絶対ウソだと思います。
「戦う編集長」の山田英司さんが、以前に「茶帯を目指せ」ということを書かれていました。やれ達人や絶招やといった話をやたら好む人がいるけれど、それ以前に茶帯のレベルにならないとどうしようもない、というお話です。茶帯というのは、黒帯以前な訳ですから、武術・武道の世界では「まだまだ」ということになるのでしょう。一方で、白帯とか素人から見ると、茶帯レベルの人というのは、もう「絶対ムリ」というレベルで強いものです。それくらいの強さをまず目指せ、達人になるのはそれからでも遅くない、というお話です。
太氣会には帯の色も段位もありませんし、天野先生は「大事なのは『ある』か『ない』かで、段がちょっと上がったなんてのは意味がない」といったことを仰っていますが、だからといって、ある日突然白帯が達人になる訳がないと思います。
自分はとりあえず「茶帯」を目指しています。天野先生は否定されるかもしれませんが、茶帯だって相当なものですよ!
こんなお話をするのは、わたしの心が弱くて、人一倍「一発逆転」的なロマンに惹かれるところがあるからだと思います。「未公開株で一攫千金!」とか「運命の人と出会って人生が急展開!」とかも、同じ種類のお話です。
この手のお話というのは、要するに「細い糸を少しずつ撚って」いく努力が面倒くさくて、何か神秘的な技とか白馬の王子様とか、そういうものがやって来てすっかり変えてくれる、という、ご都合主義的なファンタジーに過ぎません。
ファンタジーとしては結構ですけれど、現実にはそんな他力本願な姿勢では何事も成し遂げられないし、幸せにもなれないでしょう。
どんなことでも「自分から動いて、自分で決めて、自分で責任を取る」しかないのです。そうでないと、たとえ一時的な成功を手にしたとしても、幸せにはなれないと思っています。
騙して儲ける側なら、ちょっと見習ってみようかとも思いますが(笑)。
わたしが入門したばかりの頃、天野先生にこんな話をされたことがあります。
以前に普段の歩き方からして全然ダメな弟子がいたそうです。その人は禅を組んでも五分ともたず、仕方なく座ってやる禅から教えたとのこと。それが少しずつ少しずつ上達して、ある時ふと見てみると、普段の歩いている姿が随分サマになってきていた、というお話です。
天野先生としては「昔ダメなヤツがいてなぁ」くらいのつもりだったのかもしれませんが、わたしはこの人のエピソードに結構感銘を受けました。
わたしは打たれ弱い性格なので、他の人が三十分とか平気でやっていることを自分が五分もできなかったら、恥ずかしくて続けていくことが出来なかったと思います。
それが辛抱に辛抱を重ねて、笑われながら努力することをやめなかったのです。
それだけ頑張っても、その人は武術をやっている人間として大したレベルではなかったかもしれません。せいぜい運動音痴が普通レベルになったとか、偏差値30が50になったとか、その程度だったのかも分かりません。でもその人の「普通」は、他の人の「普通」の何十倍も尊いものだと思いますし、そういう人の積み重ねた努力の方が、狭い意味での武術を越えて、人生を豊かにしてくれるものではないのかなぁ、と思っています。
自分はそこまでドン臭いタイプの人間ではないつもりですが、性格がネジ曲がっていて劣等感が強く、「せめて普通くらいになりたい」という思いがあります。
また、これとは別の意味で、「人間である」というだけで、何か「普通」以下なようにも感じます。自分は野鳥や動物が好きなのですが、鳥や犬猫に比べても人間はあまりにドン臭いし、真っ当に生きるのに色々手続きが必要です。神様の声がちゃんと聞こえていない感じです。
普通というか、自然になりたいと思っています。
出来ないことの素晴らしさ
天野先生が「何かが出来ないということは素晴らしいことなんだよ!」と仰ったことがあります。
武術の稽古というのは、配管の水漏れ箇所を探すような作業に似ている気がします。今のままでもとりあえず水は出てくるけれど、どこかで漏れている。出来ていないところがある。それを丹念に探して塞いでいく、という作業です。
この時、「とりあえず水は出てくる」というのが、非常にクセモノです。
蛇口をひねってもうんともすんとも言わない、というなら、「間違っている」ことが丸わかりですが(それはそれで問題ですけれど)、なまじ「とりあえずはなんとかなる」だけに、「上手く行っていない」ところに目が行きません。
カモのお母さんは、「1、2、沢山」みたいな数の把握の仕方をしていて、八羽くらいいるヒナが一羽くらいいなくなっても気づかないようです。それが六羽、五羽と段々減っていって、最後の一羽か二羽くらいになったところで「・・あれ? 最近うちの子ちょっと減ってない?」とハッとする訳です。
それでは遅すぎます。
八羽と七羽じゃ大して違わないのかもしれませんが、我が子の失踪なのですから、よくよく目を光らせておかないといけません。
そういう意味で、すごく些細な「足りないもの」「抜け」を見つけるというのは、骨が折れるけれど大切なことだと思います。
太氣拳の場合、出てくる感覚に独特のものがあるので、1あるだけで100できているかのような錯覚に陥りがちなところがあると思います。こういう時、対人練習をやってみるとびっくりするくらい出来ていないことが分かります。0ではないかもしれませんが、せいぜいのところ2とか3で、10とか30とかある人の前では赤子同然なのです。こういう経験にはションボリさせられますが、勉強にもなります。一人で稽古している時も、自分の中で一つずつスイッチを入れたり切ったりしてみて、どこが通じていないのか確かめてみることがあります。
「何かが出来ない」というか、「何かが出来ないことに気づけた」というのは、素晴らしいことだと思います。
言葉の受け止め方
あまり分析的にならない、言葉にとらわれないようにする、ということは前にも書きました。師匠というのは、表面的に「矛盾する」ことを言うもので、その末節に囚われていると、一番大事なメッセージを捕まえ残ってしまうからです。
大体、天野先生ご自身だって、自分が一体どうやって動いているのか、100%把握している訳ではないでしょう。
別に天野先生に限らず、指導者一般について、何かが「できる」ということと、そのメカニズムを把握していて説明できる、ということは別問題です。言ってることとやってることが違う、なんてことはゴロゴロあるでしょう。
仮に百歩譲って、指導者が自分の身体メカニズムを100%把握していて、かつ完璧に言表できるとしても、それを聞いた弟子や生徒が、その通りに出来るというわけではありません。中には特別センスのある生徒がいて、言われたとおりにパッとできることもあるかも分かりませんが、まずほとんどの人にはムリな話です。
そもそも、別段武術や身体論の話に限らず、わたしたちの言語活動は「事実」と照応するような関係で成り立っているものではありません。そんな素朴なモデルでは、人間の言語活動の99%は説明できませんし、言語哲学の教養向け教科書でも読むだけで納得できる話です。
言葉というのは、事実と向き合っているかのように見えて、まず行為として眺めることでしか受け止めることは出来ません。
ここのところ天野先生は「踵を踏む」という表現を重視されていますが、以前はあまりそういう言い方をせず、むしろつま先よりの重心のお話をされていたと思います。
この足裏の重心というのを例にとると、これは武術・身体論系の世界では一大テーマで、正に百家争鳴というか、拇指球が大事とか、つま先は受けてとか、いやいやアウトエッジが大事とか、内踝の下に来るようにとか、色々な意見があります。そもそもの重心タイプが人によって違う、として、分類論を行っている人もいます。
これだけ色々なことを言う人がいる、ということは、裏を返せば、つま先だとか踵だとか「これだけやってればオッケー」みたいな簡単な話ではない、ということでしょう。
「相手と向き合った時は足で立つべきか、それとも逆立ちすべきか」とかで議論する武術家はいません。犬が西向きゃ尾は東みたいなことだったら、こんな色んな意見が出てきたりはしないでしょう。
こういう、客観的に見て「一筋縄に行くわけがない」「シンプルな答えがあるわけがない」ところにズバッとした言葉が来た時、聞く側はこれを額面通りに受け取ってはいけません。額面通りに取れば、それは端的に言って「間違っている」か、あるいは「極めて部分的にしか正しくない」言葉でしかないからです。
話半分で聞いておけ、というのもありますが、それよりも、そういうシンプルな言葉で師匠なり何なりが表現しようとしている勢いみたいなものを、感じた方が良いと思います。
そういう勢いを眺めていると、言葉そのものは大したことを言っていなくても、ハッとすることがあります。自分の中でモヤモヤしていたものが、「あっ!」という感じで、ひらめくことがあるのです。
ですから、極端な話、言っている言葉の内容そのものは、なんだって良いのかもしれません。
いや、何でもイイということはないかもしれませんが、重要なのは聞いている人に「あれ?」という気持ちを沸き上がらせることであって、何か事実を伝えるとか、そういう機能を果たしている必要はないのかと思います。
敢えてつま先だの踵だのといったセンシティヴなテーマで言葉を発するというのは、ジャズのスタンダードを演奏するようなもので、「その人が今、こういうアレンジで演奏している」というところを見ないと、目の前で起こっていることを取り逃がしてしまいます。
そして多分、「あれ?」という気持ちになりながらも真剣に向き合う、というような関係は、一朝一夕に築けるものではなく、指導者の側にとっても生徒の側にとっても、時間をかけて積み上げていくしかないものでしょう。
島田道男先生のインタビューなどを読むと、「サッと入ってバーンとやっちまえばいいんだ」みたいなことをお話されていて、こうして文字にしてみると何がなにやらサッパリ分かりません。「バーン」って何ですか一体。でも、日頃先生の下で稽古されているお弟子さんたちにとっては、「バーンと」とか言われるだけで、何かピンと来たり、閃いたりすることがあるのでは、と思います。
ものを教わるというのはそういうことで、言葉の受け止め方というのも、よくよく工夫しないといけないと思っています。
これは余談ですが、武術に限らず、人の話というのは鳥が鳴いているように受け止める、自分の言葉も歌うように話す、ということは、自分の場合、色々と役に立っています。
なまじ言葉に意味があって、しかも事実と照応しているかのように思えてしまうと、意味と意味がぶつかったり、「なんで分かってくれないの」という気持ちになったり、良くも悪くも強い感情と結びつきがちです。
人の喋っていることなんてそんな大層なものではないし、逆に、鳥が歌っているのだって鳥なりにすごく歌いたい気持ちがあるのでしょう。
だから、人の言っている内容そのものではなく、「あぁ、この人は今すごく訴えかけたい気持ちなんだなぁ」と眺めたりすることで、むしろその人の気持ちと素直に相対することができるように思います。逆に、自分自身についても、どうせ言っている内容は大したことではなくて、ただ歌いたいから歌うとか、踊りたいから踊るとか、そういうものなんだなぁ、と眺めています。
自分は非常に感情の起伏が激しい人間で、若い時はそれで色々な失敗をしたのですが、そうやってぼんやり眺めるように努めてから、少し人間関係が楽になったように思います。