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閑話休題

2017年交流会に寄せて

2017年春の交流会に寄せて

今年の交流会は残念ながら雨にたたられ、思うように稽古できなかった部分もありました。一つは組手での交流を中止にしたことと、その後の懇親会にちょっとばかり苦労しました。ただ、思うようにならない、と言うのが武術の根本にあるので、これはこれでいい経験だと思います。私は、常に管理され平準化された環境で稽古してホントのことなんて判るんかね~、と思うほうですから。
交流会の意味
さて、恒例の交流会の意味をちょっと話しておきます。交流で各会の弟子同士が仲良くなるのは確かに良いことですが、それだけでは単なる仲良し会です。交流会の目的は単純明快、稽古おける目的意識の共有です。参加している太気拳協会の各先生は教える方法が違う。同じ太気拳で同じことを教えようとしていても、各先生に方法の違いが出てくる。それを補正して別の見方や方法に触れること、そしてより深いものに触れる機会になればと思うからです。逆に言えば、我々にできるのは、より深いものより良いものに触れる機会を後進に与える、この一言に尽きます。本物に触れない限り、本物を知ることはできない。知ることが出来なければ、あることすら知らずに終わる。つまり知ることが出来なければ求めることすらできない、と論理は単純です。無いものを求めるのではなく、有るけれども未だ届かぬものを求める。我々は幸運にも沢井先生に触れる機会を得た。初代王郷斎師から二代目澤井先生と繋がり、そして三代目となった我々がやらなければならない使命、それは本物を次代、つまり四代目に引き継ぐことです。
虚構の武術
現在の武術の世界はほとんどが虚構で成り立っているように思います。武術と名前が付くから、何か特別ものがあるんじゃないだろうか、との思いで武術を始める人が多いと思います。ところが実際に踏み込んでみると、何のことはない何処にでもあるスポーツ、運動に伝統と歴史のお飾りを付けたものに過ぎない。ちょっと気の利いた若者が入れば、数年すれば先生を超えてしまう。実戦を標榜しても、若者を納得させるだけの力を持つ指導者がいないのが実情。あとはそれぞれの集団のヒエラルキーを上るかどうか、しかない。これは求めるべきものを知ることが出来なかった結果です。現在太気拳や意拳、あるいはその他中国拳法を名乗るものは多いが、その中にどれほど多くの偽物が混じっていることか・・・。現在様々な流派がありますが、その違いは精々試合のルールを基にした差でしかないのが実情です。
武術に求めるものは何か
では、本物の武術は何を以って本物とし、虚構の武術はなぜ虚構に過ぎないのか。それは先人の言葉が明らかにしてくれています。
まず沢井先生の兄弟子にあたる姚宗勲師の言葉を引用です。
―――
「拳術で求める力量は、日常生活や仕事で慣れている、力の使い方や方式(例えば重い物を運ぶ、車を引く)とは異なり、特殊な意義内容を持つ。一般に、自分が元々持っている力を「本力」といい、拳術の訓練を通して獲得する力を「功力」という。拳術に用いる特有力である」
―――
つまり先ほど話した虚構の武術を支えているのが姚師の言う、誰もが慣れ親しんだ力つまり「本力」。だから身体能力に優れた若者がたやすく先輩や先生を超えることが可能となる。当たり前です、力の使い方や方式に違いがないなら、若者がチョイと経験を積めば簡単に先輩を凌駕する。本力では年齢の壁を超えられないからです。そして一定の動作を覚えた後の稽古は、と言えば退屈な動作の反復稽古。技は教えてもらったけど、どうしたらそれが使えるのかがわからない。後は結果に対する幻想を支えに続けるしかない。と言うよりそれ以外に方法がない。次に頼るのは重いものを持ち上げたりのトレーニング、つまり「本力」を高めるしかなくなる。これでは、教えるほうも単なるルーティンワーク、お仕事になるしかない。つまり姚師の言う「特殊な意義内容」は何処にも見えてこない。これでは虚構の武術と言わざるを得ない。
気と勁力の実際を知る
では、この虚構を脱出して本物に至るために何が必要なのか。答えは実に簡単だ。「特殊な意義内容」あるいは「気と気分」の実際はどうであるのか、求めるものを目の当たりにして目的が明確にする。ここにすべての出発点があり、これ無くしては武術へのアプローチはあり得ない。気や勁力と言われるものが何であるのか、を身をもって指し示し、明らかにすることが指導者の役割であり、学習者は「特殊な意義内容」を肌身で感じ取り、それをわがものにする事こそが武術の目的だと知ること。ここをスタートラインに設定しない限り、幻想・虚構から脱却することはできない。
交流会の意義はここに極まります。つまり出発点の確認。これは同時に到達点の設定でもあります。目的の無いところに達成はない、と実にシンプルです。
ともすれば技とか、やり方と言った皮相なものに捉われがちですが、武術の本質をしっかりと見極める。これが交流会の意味です。

 

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六面力、勁力、発勁について

六面力、勁力、発勁について
六面力、勁力あるいは拳勁、そして発勁・発力という言葉を頻繁に使いますが、この意味をある程度整理しておきます。
勁力は武術独特の力で、日本でも中国でも伝統的に求められていたもの。勁とはそのものズバリの「強い」を意味する語で、武術を武術たらしめるものです。単なる生来の膂力や筋力ではなく、稽古を通じて作り上げる強い力を意味します。天然自然に身に付くものではなく、稽古を通して新たな運動原理を体得し、それを中心に据えて引き出されたものが勁力であり、これに基づいた行動の一元化が武術の目的です。この勁力を拳に生かせば拳勁で、剣ならば剣勁、杖なら杖勁となります。澤井先生が「太気拳は何にでも活かせる」と言ったのはこの意味です。そして六面力は、その新たな運動原理の中核であり、勁力の成立過程の分析的な表現になります。六面とは上下前後左右ですが、転じて総ての方向に向かう力を言い、これがあって初めて勁力となります。(六面力を引き出す立禅の組み方や注意点は、他のページに図解で説明)澤井先生はこれを「独楽のような」と表現しましたが、あえて六面としたのは、上下・前後・左右を切り分けて考えることもできるからです。そしてその発揮方法が拳なりあるいは剣になれば勁力の呼称も少し異なる訳です。そして勁力を核にした動きを「発勁」「発力」と言い、両語とも同じものを意味します。勁力を使う事を発勁と言い、相手を打つとか飛ばす事のみでなく、勁力を生かした動作全てが発勁です。単純な手の上げ下げから一歩踏み出す足捌き、どのような動きも勁力から発したものであれば発勁です。緩慢に見える動作も素早いものも、その前提が満たされていれば同質となります。意拳では「発勁」ではなく「発力」の言葉を使います。私があえて「勁」の語を使うのは、「勁」の言葉を生み出した伝統や文化に敬意を感じるからにすぎません。
そうして考えると、稽古の段階的な目標が明らかになってきます。生来のものではなく新たな運動原理を求めること。そしてそのために六面力の何たるかを知ること。最初の目標はこれに尽きます。上下の力から始まり、そこからの転換で前後の力を知り、同時に左右の力を明らかにする、という事になります。まず最初に上下の力があり、そこから前後左右に転換していきます。これは上に向かって吹き上がる噴水を抑えると、行き場を失った水が横に飛ぶのと同じ理屈で、工夫次第でどの方向にも力を向けることが可能です。この上下の力は、人間が重力に抗って二本の脚で立つことによって生み出された、人を人たらしめる根本の力であり、神経と筋肉、骨格の連携による高度な全身統合の結果です。技ややり方をいくら学んでも、そこにこうした勁力が無ければ形だけの砂上の楼閣。いとも簡単に歳とともに衰えてしまいます。

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閑話休題

2016合宿

2016年の夏合宿無事終了。

例年は二泊三日の合宿でしたが、今年は一日短縮。
日程は短縮しましたが、稽古時間は変わらず。
つまり、稽古時間の密度が濃くなったわけです。

 

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初日は朝から好天に恵まれ熱海山中の高原の爽やかな空気を感じられたのが良かったですね。清々しさは空気だけではなく、名水柿田川水系からの水がおいしくてこれも毎年楽しみにのひとつ。よい環境に恵まれ気持ちを集中して稽古できたことで、それぞれが成果を持ち帰れたのではないかと思います。

さて、合宿の総括と言うほどではありませんが、気が付いたことをまとめてみました。

初日は特にテーマを決めて臨んだわけではありませんが、結果的には基本の徹底になりました。基本を徹底するためには、何故基本があるのかを含めてその意味をどれだけ深く理解しているのか、が必須の条件になります。基本は文字通り根本になるものです。しかし、その意味を知らなければ、単なる手続きや通過儀礼に過ぎなくなり、準備運動の代わりに成り下がってしまいます。現在の武術と称するものにおいて基本がまるで生きていないのは、ここに問題があるからです。生きていないのだから基本の練習はやめようじゃないか、と正直に捨て去る流派もあります。非常に素直で合理的に見えますが、じつは基本の意味を見つける事ができなかった、にすぎません。
さて、私が此処で言う基本とは勁力あるいは拳勁ですが、ここでちょっと言葉について話します。拳法の基本について意拳で六面力と言います。これは禅などの静的な中で感じ取る力感で、拳法の中枢をなすものです。そしてこの力感を展開して実際に効果的に行使されたものが勁力・拳勁です。つまり六面力を核にして日常的運動原則の根本を置き換え、展開していくのが武術です。当然時には日常的なものを捨て去ることを要求されます。ですからその勁力の練度がその人のレベル最大値という事になります。つまり六面力の基礎とその展開があって初めて拳法・武術になるという事です。。
ですから太気拳のレベルについて考える時幾つかの段階に分けることが出来ます。
まずは初心者ですが、当たり前ですが六面力を感じ取れず、勁力・拳勁が判らずに生まれつきの力や経験則でしか動けないものを言います。持って生まれた身体能力や体力と経験値で、と言うレベルです。強いとか弱いの話ではありません。運動原則転換以前、武術未満ですね。
次は勁を感じ六面力を感じながらそれを武術に必要な力として発揮できない状態。つまり静においては六面力を感じ取れるが、その意味を把握しきれず運動に展開して勁力として生かせないレベル。言って見れば、手に入れたは良いけれど、どう使って何をやったらいいのか、がまだよくわからない段階。個々における武術史の出発点、開闢。(大地溝帯からの脱出?・・・)
三つめは、一定の状態つまり典型的には定歩の状態で勁力の発揮、つまり発勁が出来ること。歩法においても勁力を生かした勁歩が出来ること。しかしながら、一定の状態を外れると力をコントロールしきれないレベル。勁力を核にした身体全体の統一がまだ不十分な段階。意識的な作業を経ないと勁力が引き出せない。つまり勁力はあるけれど、拳勁未満。まあ、言ってみれば産業革命の勃興期?
そして四つめは、勁歩で変化を受け入れながらも機に応じて発勁が出来ること。つまり勁力が当たり前になる状態。ここまでが指導できるレベルで、ここから先は自分で歩むしかない道です。ここまで来れば、自分は太気拳だ、と胸を張れるレベルだと思います。
レベル1の初心者は太気会ではほぼ皆無。これは注意点を正確に頭に入れて立禅を組めば六面力は3日も稽古すればだれでも感じ取れ、ここは脱出できるからです。ただし、ここからの道のりは短くはありません。ですから合宿の参加者のレベルは2から3。つまり勁力を保ちながら動く、あるいは定型以外での発勁に於いて必要とされるものは何か、を明確にするのが必要で、それが今回の合宿の目的になりました。
その観点から特に今回一番目についたのが歩法。歩法がただの脚の運び方ではなく、勁力を維持した勁歩でなくては意味がありません。つまり歩法それ自体が発勁でなくてはならないので、どうしてもそこに粗さが目立ちました。立禅には拳勁の全てが詰まっています、ですから立禅で感じ取れる六面力、上下前後左右のどの部分が何処に対応して半禅に至るかを明確にすることが稽古の主題になりました。
立禅では六面それぞれに向かう力が比較的分けることが出来やすいので、それぞれを明確にして分解し、そのうえで半禅に至る際にそれらがどう変化し、さらに如何に勁歩に至るのかを明らかにする。立禅で感じ取れるものは、半禅でも同じように在り、さらに歩法においても失われない時に初めて勁歩となる。ですから随分細かい指導になりました。
そのために改めて肝に銘じて欲しいいくつかの点を挙げておきます。
1、 歩法の際、前脚のどの指から足をつかなければならないか。
2、 つま先と踵の関係がどうあればいいのか。
3、 後ろ脚と前脚の定八歩の徹底、浮いた脚が描く軌跡を正確にすること。
4、 勁力の中心はただ一つであり、前進後退左右転進はその抵抗位置の転換に過ぎない事。
とにかく形には小姑並みの口やかましさだったけれど、形にこだわる理由は、意識に上らない部分を明確にするためで、決して形式を守ることに意味を求める訳ではありません。
形に依って際立つ部分は、形を捨てても明確に出来るので、そこを目標に稽古してほしいと思います。注意点を守った場合とそうでない場合の違い、それを自分で知ることが大事です。

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さて、2日目は打って変わって雨模様で肌寒い天気。なかには半袖から長袖に着替えて稽古に臨むものも居るくらい。夏の盛りも過ぎ山の中腹という事もあり、靄が掛かって遠くの景色がまるで見えない。幽玄の霞に禅を組む、のも興のひとつ・・・。
午前中は前日の延長で基本の徹底。午後は立禅の状態からの後方発勁を手始めに、片脚を引きながらの発勁。立禅の状態から発勁は出来るものの、片脚を引くという単純な動作を加えただけで全体の調和が失われ、勁力の持続が出来なくなる。動きながらの発勁は必須だからこの基本動作は嫌になるほど反復が必要です。これを起点に出来れば、脚を運びながら後方だけでなく前方、左右とすべての方向への発勁が当たり前になります。
此処での注意点を繰り返します。
1、 立禅と同じですが、つま先と踵の関係の正確な把握。
2、 後方発勁の次の瞬間には前方に力が反発すること。
3、 腕を動かして引くという日常的な感覚を捨てる。
4、 勿論前方に反発する場合も同様で腕を動かす感覚は無用。
5、 発勁は六面それぞれに向かいあう力の反発・振動ですから、勁力の感覚のみを研ぎ澄ます。
6、 ある程度できるようになったら、後方から前方への反発だけではなく、逆に前方から後方、あるいは左右への転換を工夫してみる。転換を阻害するのは多くの場合、思い込みにあります。
7、 さらに進んで試声との関係を求める。
要求事項を箇条書きにしましたが、どれもが相互に関係のあることなので、それぞれが別個のものではありません。出来るようになれば個別の事などすべて消え去り、ただ中心の振動する感触を求めるだけになります。

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さて、先ほどレベルの話をしましたが、これを自分の武術史に当てはめてみましょう。武術未満で身体能力頼みのレベル1。実はこのレベルでの在籍年数はほぼ20年、学校だったらとっくに学籍抹消で退学です。つまり澤井先生に出会い、立禅を組み始めてから20年間、六面力も勁力も気づかずに過ごしました。つまり3日で判ることに20年かけたわけです。その代り気付いた瞬間には2から一挙に3へ、そして3年ほどの時間をかけて次に進めた気がします。それは何もわからずに20年過ごしましたが、その間に何かをじっくり溜めこみ育んだものがあったんだと思います。言葉に出来る内容は実に貧弱なものしかありません。言葉に出来ないもの、あるいは自分でも気づけないものの中に大切なものがあるんだと改めて思います。

今回の合宿をひとつの節目として、これからの飛躍を楽しみにしています。

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動画 天野敏のテクスト 閑話休題

震動 2014年夏合宿

震動・・・
2014年の夏合宿の課題は「震動」。
震動は太気拳の核になるもので、連続する身体内の力の転換です。
立禅や半禅では様々な注意点がありますが、それらはすべて震動につながります。
基本は立禅の中で、上下の張りを感じるところから始まります。
足は小指からじっくりと地を掴むように立ち、膝は僅かに外に張ります。
その上であたかも座り込む様でもあり、立ち上がる様でもある、と言った気持ちの変化が生み出す身体内の転換です。頭の位置や肩の水平、胸の張り具合も重要だし視線の位置も大事です。
そしてその転換をより小さくより速くしていきます。小さな震動が大きな動きよりも大事なのは、繰り返される高速の震動が神経や脳の活動の亢進を促すからです。大きく動けばそれだけ時間が掛かりますが、小さければそれだけ緊張感が高まります。
小さく速い振動は動画にしてみてもただ立っているように見えるだけですが、合宿では皆に身体を触れてもらったりして感じ取る機会があったので、それを思い出してもらえれば良いでしょう。
触れて感じ取ったものを、自分で作り上げる工夫が稽古で求められます。
また静から突然表出する動も試してください。
例えば、手を前に出しその上に相手の手を置いてもらい、そこから急激に手を跳ね上げます。手の動きで跳ね上げるのではなく、その源の震動を探ります。
中国拳法の南派と言われるものの中に「震脚」と言われる稽古方法がありますが、
これも震動を求めるための稽古法です。

動画には足を小さく速く力強く踏み込むことで震動を生み出し、それを相手に伝えるもの。
そして、動作を小さくして震動を相手に伝える動きをアップしました。相手に腕を押さえてもらってからの震動の伝達です。雰囲気を思い出して稽古の実りの助けにしてください。

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メールQ&A 天野敏のテクスト

這いに対する取り組み方について

Q:
こんばんは、前回のセミナーで教えていただいたAです。
最近、禅を組んでいると足首を外へ返す力で上半身と下半身が体の中心へ引き合う感覚があり、逆にかかとをくっつける力で互いに離れる感覚があります。これがハラの力というのかわかりませんが、その感覚を無くさないよう這いに取り組んでおります。

その這いに対する取り組み方で質問があります。

仮に、練りを上半身(無論下半身もつかうのでしょうが)の動かし方の例と捉えると、這いは下半身の動かし方・フットワークと考えられます。練りは何種類かありますが、這いに関しては基本的に前進と後進のみ。稽古していて「どう動き、戦うのか」なかなかイメージし難いと思います。修練が足りないと言われればそうなのですが、どのようなビジョンを持って這いに取り組むべきかと考えています。

太気拳においてフットワークは修行者が這いを元に独自に編み出していくものでしょうか?あるいは「こうきたらこうするではない」との事ですので、体がアドリブで動くのに任せるという事でしょうか?

A:
A様

前回は初めての参加で、色々苦労したと思います。
それでも、文章を読むと掴むところもあったようで嬉しい限りです。

禅で感じている事も稽古を続けていく中でこれから様々に変化していく事と思います。
今感じている事を大事にしながら、同時にこれが絶対だ、などと決め付けずに稽古してください。
感じ方が変わっていくこと。
これが稽古と言う事ですから。

それから這いと練りに関しての質問です。

質問に、「仮に」と言う但し書きつきで上半身と下半身の動きを分けて考えているようですが、
これは根本的に間違いだと思っています。
人の身体を上半身と下半身に分けて考えるのは、
非常に判りやすく納得しやすいですが、
これは単なる言葉の上での事に過ぎない、と言うことを考えて見る必要があります。

これは手の使い方とか足捌きとか言うのも同じですが、
手とか足とか、上半身とか下半身とか言うのは単なる概念にしか過ぎなくて、
頭で分解して理解しようとする時だけ有効ですが、
実際に自分の身体を全体で捉えると、
何処までが手で、何処までが脚で、そして何処までが上半身で、
何処までが下半身なのか判然としなくなるはずです。

或いはちょっと別の言い方をして見ましょう。

上半身とか下半身、或いは手とか脚とかそういった区別を無くしていく。
それこそが稽古だと言う事です。
手をどう動かすとか、脚をこう踏むとか、
そんなことに惑わされているうちは何時まで経っても先に進めません。

武術を志して挫折する多くの人がいます。

彼らは手はこうで脚はこうして、といった形に囚われてしまって、
形を上手く出来る様になる事が稽古だと勘違いしたり、
或いは形や技を使いこなす事が武術だと思ってしまっているのだと思います。

そのお陰で、本来自分の持っているものを発揮できないのです。
形や技はわかりやすいし真似しやすいですが、
判りやすくて真似しやすいものなんていうのは、それだけのものです。

簡単に言えば、動けば技になるようになろうとするのが太気拳だと思っています。
動けば技になるなら、手がどうの脚がどうのなんて必要は無いですから。

そして、ちょっと考えてみてください。
動けば技になる、技が見える形になる、それを他人がまねる。
真似る人にとっては、この時点で技は自分の外のもの。
自分の外のものをいくら真似たって、自分のものにならない。
だから武術に挫折する。
まあ、挫折のスパイラルって奴です。
武術って奴は何処にあるのでもなく、自分の内にしか無い訳ですから、
形を追う限りこのスパイラルから抜けられない。。

さて、ちょっと話がずれたので話を「這い」に戻します。

這いで先ず大事なのは「片足に重心がきっちりと乗る」と言うことです。
人と相対したときに大事なのは変化です。
変化の源泉は何か、と言うとそれは重心の転換です。
では、重心の転換の最大のものはなにかと言うと、
それは左右の脚の重心の転換です。
それに加えて、片足の中でも重心の変化もあります。
そしてそれらの重心の変化にしたがって、身体全体が自然に変化していきます。
それを当たり前に受け入れていく事。
これが「這い」の一番重要なものだと思っています。
身体が自然に変化していく。
それを受け入れる。

つまり、自分の中の自然を受け入れて、
「自分の中の自然を味方につける」と言うことでしょうか。

話しは戻りますが、
上半身とか下半身とか言うのは、
人が頭で考えて創り出した概念にしか過ぎません。
ほとんどの人は最初から上半身と言うものと、下半身と言うものが、
或いは手や脚と言うものがあると思っていますが、
そんな物は人が創り出したものでしかないのです。
つまり言葉でしか無いのです。
言葉に振り回されてしまう人の悲しさですね。

その事に気がつけるかどうか。
そこら辺が武術を自分のもに出来るかどうか、
の境目かとも思います。

メールでこういった事を書くのはどうももどかしくてしょうがありません。
ま、詳しくは次回にお会いした時にでも話しましょう。

太気会 天野

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メールQ&A 天野敏のテクスト

実践を想定した立禅

天野先生、お元気でしょうか?

『中年からはじめる本物の中国武術』で立禅を御教授戴いておりますIです。

最近私は『実践を想定した立禅』に取り組んでおります。

そこで教わった、「顔を守る」為に顔の前に手を出す、ということについてですが、私の感想は「ああ、やはり太氣拳は格闘技なんだ。」でした。

そして「相手全体を捉える」その2つを取り入れて立禅を組んでみますと、今までの立禅と違い、格闘技としての緊張感を感じました。

「腰の力で動く」ということは解ります(解ったつもり)が「腰の力でいつでも動くことができる状態」というのは現状では私は立禅をはじめたばかりなので、よく解りませんがこれから歩法や防御法などを学ぶ際に「腰の力で動く」ということが、とても重要なことになっていくのだろうな、と思いました。

実際に顔の前に手を出して立禅を行ってみますと、普段の立禅と違う所は、前に重心がかかる、ということです。

足の親指に普段の立禅より力が入ります。

手を前に出したまま、『腰の力で腰自身を動かす』を行ってみますと、爪先を引き上げ、踵を下に降ろす時に、普段の立禅では重心が後ろにかかりますが、手を前に出した立禅では、重心があまり後ろにかからず、むしろ下にかかります。

手を前に出した立禅はバランスを取るのが難しく、前方によろけてしまうこともしばしばです。

(腕って重いのだなあ…)と感じました。

これからも立禅を続けていきたいと思います。

A:
メール拝見しました。

一人での稽古大変だと思いますが、頑張っているようですね。

立禅を組んでいると、手の位置をちょっと変えるだけで微妙にバランスが変わる、ということに気がつきます。
多分普通では感じられないようなことですが、
禅を組むということで、身体に対する視線が鋭くなってきているのだと思います。

たしかに、顔の前に手を上げるとそれだけで前のめりになりがちです。
それは重心の変化と言う事に加えて、意識の変化もあります。
普通に禅を組んでいるときに比べて、前面に意識が行きがちになります。
その結果、眼と手に意識が集中してしまい、前のめりになることがよくあります。

そうなったら、もう一度普通の立禅を思い出してください。
手が上がっていても、姿勢は普通の立禅と同じになるように工夫してみてください。

手の形や位置が変わっても、基本的な姿勢は揺るぎません。
前だけでなく、後ろや側面にも気を配れるような気持ちと身体のバランスに気をつけてください。

これからもいろいろ発見があると思います。
発見こそが武術の楽しみだと思います。

当たり前の日々の中にある発見の楽しみ。
太気拳をやる喜びです。

では、頑張ってください。

太気会 天野

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メールQ&A 天野敏のテクスト

腰の力で腰自身を動かす

Q:
天野先生、お元気でしょうか?

私は11月10日に『中年からはじめる本物の中国武術』の感想をお送りした、Iと申します。

あれから立禅は続けております。

特に『腰の力で腰自身を動かす』に取り組みました。

まずはDVDを拝見して『爪先を引き上げる力で膝を引き上げる』を行いました。

始めに思ったのは、爪先を引き上げる力は、私の場合、踵を床に踏みつける、のめり込ます力になる。ということでした。

これは天野先生の仰っていることと違うので、少し戸惑いました。
今度は、膝を引き上げる意識を持ちながら、爪先を引き上げてみると、じわりじわりと爪先が引き上げられていき、またじわりじわりと太もも、股関節に力が入っていき、遂には膝が上がりました。

脚というものは基本的には重力により地面に突き刺さるような力が加わるので、脚を上げる時には多少なりとも『意識』というものが必要なのかな?と思いました。

そして、いよいよ立禅を組みながら『爪先を引き上げる力で膝を引き上げ』『立ちながら座ろうとする』『腰の力で腰自身を動かす』に挑戦です。

じわりじわりと爪先を上げていきますと、思いの外、すんなりとその爪先の力を利用して『立ちながら座ろうとする』ことができました! その際、膝も動きませんでした。

その調子!と続けて行ったのですが、続けると段々先ほどの新鮮な感覚は失われていきました。

理由はズバリ、疲れたからだと思います。

疲れたので普通の立禅に戻った後で、再度行うと、再びうまい具合に良い感触が得られました。

行った感想としては、大げさかもしれませんが、自分が腰を落とすというより、自分が爪先で地面を引っ張り上げる様な感じがしました。

立禅を終了して、家に帰るとき、立ち止まると足首がガタガタと震えてしまいました。

その位、疲れました。その分とても充実した気分で、はじめて立禅が楽しいと思いました(それまでは楽しくなかった?)。

その後も『腰の力で腰自身を動かす』立禅を続けました。

その運動量は10分ながら、想像以上で、段々股関節に疲労がたまって痛くなってきましたので、普通の立禅に戻しました。

すると、その立禅は以前よりずっと楽に出来る様になっていました。

体力がついた様です。
来年からまた『腰の力で腰自身を動かす』立禅を行ってみたいと思います。

天野先生、これからも宜しくお願い申し上げます。

良いお年を。

天野先生が御迷惑でなければ、年賀メールをお送りしたいと思っております。

A:
I様

立禅を続けているとのこと、嬉しく思います。

「さて、爪先を引き上げる力が踵をめり込ませる力になる」

と書いてありましたが、その通りです。
踵を身体全体の力で踏み込む力も大事な事です。
但しあまり力を入れすぎないように。

メールを読んだ感想は、よく稽古してるな、です。

よくいろいろ発見していると思います。
良い方向に向かった稽古だと思います。

ただ、これからは余分な力を抜く事にも気をつけていきましょう。
ただ力を抜くというのではなく、大事なところは生かしつつ、
余分なところの力を抜く。

そんなところを見つけるのも大事な稽古です。

また成果の報告を楽しみにしています。

太気会 天野

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メールQ&A 天野敏のテクスト

太気拳の脳になる

おはようございます。

長野県のMです。土曜日の代々木公園にてのご指導ありがとうございました。
今回は、力を伝達させる体内の経路を感じとること、そして前後、左右といったことの概念について教えていただきました。
やはり直接教えていただくことにより、わかってくることがたくさんあります。
初めて講習会に参加させていただいた時に先生がおっしゃった、「太気拳をやると脳がかわる」そして、それは「知らないうちに変わっている」という意味が何となくわかってきた気がします。

しかし、まだまだ私の脳はとても太気拳の脳にはなっていないのでワンクッションおいて考えてから実行です。
いつか太気拳の脳になれるのを楽しみに長く稽古していきたいと思います。
私の住む南信州からは代々木は比較的利便性が良いので、冬は代々木に参加させていただきたいと思います。

来月もよろしくお願いいたします。

長野県 M 2009-10-27

土曜日の稽古、ご苦労様でした。

まあ、僕は言ったこと直ぐ忘れちゃうんですが、
脳が変わるなんて言ったっけ(笑)。

でも、稽古をしていくことで考え方が変わっていく。
大きな事言えば、世界観が変わっていく。
自分に対する見方も変わるし、その他諸々に対する見方が変わる。

稽古をして行って一番面白いことって、こういうことだと思います。

では、次回の稽古をを楽しみにしています。

太気会 天野

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メールQ&A 天野敏のテクスト

恐怖心の克服

Q:
最近澤井先生の本を知り太気拳に興味を持ち考え方にも共感をおぼえます
自分は総合格闘技をしているんですが、試合になるとなかなか打撃で向かっていけません

組技・打撃ともに練習ではそこそこのプロと渡り合えます
ただ試合であの素手に近いグローブになると打撃で打ち合ったり中に入っていけません

相手の打撃にカウンターでタックルには入れます
ただ自分としては恐怖心を克服して打撃で勝負してみたいと思っています
どのようにすればよいでしょうか?

A:
問題を整理してみます。

・打撃に対してタックルと言う形では反応できる。
・練習用のグローブでは恐怖心なく打撃が出来る。
・試合用のグローブでは恐怖心を感じる。

で、これらを克服したい。
克服するのは恐怖心。

ここで恐怖心と言う事を考えてみます。
やった事がないとか、未知の経験に対して恐怖心をもつ。
これらは経験する事で克服できる場合もある。
逆に恐怖心を持たなければ、つまり回避しなくてはいけない事を学ぶ事もある。
恐怖心と言うのは、必要な感情です。

たぶん質問してきてる方は、
経験は重ねてると言う事ですから、
今の力量では打撃回避と言う判断を身体がしてるんだと思います。

では、どうやって克服するかと言う事ですが、
簡単に言えば、
手が利くようにする、
脚が動くようにする、
簡単に言えば身体が動くようにする。

強くなるって言う事は、技を覚えるとかじゃなくて、
そういうことだと思います。
あまりに答えにならない答えですが、
強くなっちゃえばいいだけです。
と言ってしまえば簡単です。

多分質問の方は、手も脚も動くって思ってると思います。
でも、手も脚も動く時は身体全体と連動してるかって言うとまた問題は別。
身体全体が連動する、つまり身体をまとめる。
それ以外にはないと思います。

つまり特効薬は無いって言うことです。
地道な稽古で気持ちと身体を繋げるしかない。

どうやってそれを実現するかは、その人その人だと思いますが、
僕の場合はそれが太気拳だったって言う事です。

だから僕の答えは立禅組んで、這いやって、練りをやる。

あまりに率直で、本質的な質問。

僕が太気拳をやるのも、同じ質問の答えを探したいからです。

お互いに面識もない所では、こんな答えになってしまいました。

太気会 天野

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メールQ&A 天野敏のテクスト

下段回し蹴りに対して反応が遅れる

Q:
基礎講座に参加させていただいているTです。
今回は質問がありメール致しました。
私はフルコンタクト空手を行っているのですが、
基礎講座で立禅、歩法などをご指導いただいき、
日々練習していく中で空手の組手の際、間合いのとり方や、
特に空間認識能力が上がってきた感があります。
フェイントからの攻撃などをもらう確立が減ってきたように思うのですが
ひとつ問題があります。
それは下段回し蹴りに対して反応が遅れてしまうことが多々あり
その後、足が棒立ちになり重心をおこされて、
ボディを効かされてしまうのです。

滅多にノックダウンまでは至りませんが
身体の丈夫さと根性だけでは今後は通じなくなってくると思います。
(そのために基礎講習で太気拳を習いたいと思ったのです)

立禅をイメージして腰を落とし、
(歩幅は半禅を意識してつま先を若干外に開きながら狭めにしています)
開手で正面に構え、目線を上にすると
手技、上、中段蹴りに対してはの反応は自然にできてくるのですが
フルコンタクト空手は下段蹴りの頻度が高いため
特にスピードのある相手には反応が遅れてしまいます。
(武術的に考えれば限定されたルールの中での下段蹴りなど実践的では
ないのかも知れないのでは?とこの頃は感じることもあるのですが)
私も下段回し蹴りは得意技で組手での使用頻度が非常に高かったこともあり困惑しています。
今までの私の組手はガチンコスタイルで我慢比べ的なところがあり
下段蹴りは腿の筋肉を閉めて前に出る方法や膝を当てていくのが主体でしたが構えを変えたためそれにあった方法が見つけられないでいます。
太気拳一筋でやっていらっしゃる皆さんには空手に役立てたいなど失礼かもしれなく申し訳ないのですが、天野先生は空手出身だと聞きました。
何か良い対処方法などありましたらアドバイスをお願いしたいのですが

A:
返信が遅くなりました。

今月の講習会に来るとの事だったので、メールでの返信を怠けました。

さて、具体的な下段蹴りに対する対応に関して。
こうすれば良い、と言うものは無いです。
と言っては身も蓋もありませんが、大事な事は間合いの取り方。
間合いを固定したものと考えないで、常に入ったり出たりしていること。
別の言い方をすれば動けるようになる事です。
打ったり蹴ったりも常に動きながらすること。

動けるようになる、って言うのは言葉で言えば余りにも当たり前に聞こえると思います。
誰も自分が動けないなんて思ってない。
でも、僕の眼から見るとみんな動けてないと思います。
動いていないから蹴られる、打たれる。

自分が相手を蹴ったときのことを思い出してみてください。

その瞬間は相手が止まっているはずです、
止まった瞬間に打てる、蹴れるということは逆に言えば止まっていなければ打たれない、蹴られないという事です。

太気拳の稽古の大部分は動く為の稽古です。
動く稽古をするということは、動けないのが普通の人、と言う事。

脚を止めて手を動かす、手を止めて脚を動かす。
そうではなく、手も脚も動きを止めることなく自然に力強く動ければいいんです。
とっても当たり前ですが、これが大事なところです。
組み手に限らず、相手がいるというストレスはとっても大きいものです。
その中で自然に動けるようになれば、不用意な蹴りは貰わないと思います。

T君は空手を20年以上やっていて、きっと指導的な立場だと思います。
そんな中で、以下のような経験はありませんか。

入りたてのちょっとやんちゃな若者が結構強い。
蹴りも突きも半端なんだけど、組み手だけはすばしっこくて手こずる。
それが何年かして、空手らしくなってくると相手しやすくなる、御しやすくなる。

変な言い方ですが、強くなると弱くなる。

つまり型にはめると、動けなくなる。
本来自分が持っていたはずの自由自在な動きがなくなってしまう、という事です。

考えてみると、こんなばかげた事は無いんですが、実際にはよくある。
稽古してサマになってくると弱くなる。

こうならない為には、手と脚を協調して動かせるようにする稽古をするしかない。

太気拳なら練りの稽古はその中心になります。
手が動いたら脚が動き、脚が動いたら手が動く。

こうなれば、先ほど書いた間合いの出入りも楽になるということです。

今回の基礎講座でやった動きが練りの基本です。
それを十分にやっていけば、組み手も変わってくると思います。

また稽古で会うのを楽しみにしています。

太気会 天野

RE:
天野先生

今回は組手で胸を貸していただきありがとうございました。
先生の質の違う強さを目の当たりにして、驚きとともに今までの自分の尺度では測れないものがありました私の求める強さを感じられて大変貴重な体験ができました。

なぜ、あの年齢で(失礼ですが)連続組手が可能なのか?
(見た目には楽にやっているようにも見えました)

なぜ、投げようとしても動かなかったのか?

先生の打撃の当て感の良さはどうしてなのか?

止まらない動き、無理のない動作等

考えさせることがたくさんありました。

後、自分のQ&Aにヒントのお言葉をいただきありがとうございました。
ここ数ヶ月で今までの組手をかなり変化させてきましたが、フルコンタクト空手のポピュラーな技である下段回しの攻防では元のままになっていたようです。居着いている状態だったのかと思います。
今後はそれらを打破できるようにどの攻防でも動きをつけて
先生の組手での動きを参考にしていきたいと思います。

またお邪魔しますのでご指導を宜しくお願いいたします。