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閑話休題

六面力、勁力、発勁について

六面力、勁力、発勁について
六面力、勁力あるいは拳勁、そして発勁・発力という言葉を頻繁に使いますが、この意味をある程度整理しておきます。
勁力は武術独特の力で、日本でも中国でも伝統的に求められていたもの。勁とはそのものズバリの「強い」を意味する語で、武術を武術たらしめるものです。単なる生来の膂力や筋力ではなく、稽古を通じて作り上げる強い力を意味します。天然自然に身に付くものではなく、稽古を通して新たな運動原理を体得し、それを中心に据えて引き出されたものが勁力であり、これに基づいた行動の一元化が武術の目的です。この勁力を拳に生かせば拳勁で、剣ならば剣勁、杖なら杖勁となります。澤井先生が「太気拳は何にでも活かせる」と言ったのはこの意味です。そして六面力は、その新たな運動原理の中核であり、勁力の成立過程の分析的な表現になります。六面とは上下前後左右ですが、転じて総ての方向に向かう力を言い、これがあって初めて勁力となります。(六面力を引き出す立禅の組み方や注意点は、他のページに図解で説明)澤井先生はこれを「独楽のような」と表現しましたが、あえて六面としたのは、上下・前後・左右を切り分けて考えることもできるからです。そしてその発揮方法が拳なりあるいは剣になれば勁力の呼称も少し異なる訳です。そして勁力を核にした動きを「発勁」「発力」と言い、両語とも同じものを意味します。勁力を使う事を発勁と言い、相手を打つとか飛ばす事のみでなく、勁力を生かした動作全てが発勁です。単純な手の上げ下げから一歩踏み出す足捌き、どのような動きも勁力から発したものであれば発勁です。緩慢に見える動作も素早いものも、その前提が満たされていれば同質となります。意拳では「発勁」ではなく「発力」の言葉を使います。私があえて「勁」の語を使うのは、「勁」の言葉を生み出した伝統や文化に敬意を感じるからにすぎません。
そうして考えると、稽古の段階的な目標が明らかになってきます。生来のものではなく新たな運動原理を求めること。そしてそのために六面力の何たるかを知ること。最初の目標はこれに尽きます。上下の力から始まり、そこからの転換で前後の力を知り、同時に左右の力を明らかにする、という事になります。まず最初に上下の力があり、そこから前後左右に転換していきます。これは上に向かって吹き上がる噴水を抑えると、行き場を失った水が横に飛ぶのと同じ理屈で、工夫次第でどの方向にも力を向けることが可能です。この上下の力は、人間が重力に抗って二本の脚で立つことによって生み出された、人を人たらしめる根本の力であり、神経と筋肉、骨格の連携による高度な全身統合の結果です。技ややり方をいくら学んでも、そこにこうした勁力が無ければ形だけの砂上の楼閣。いとも簡単に歳とともに衰えてしまいます。