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メールQ&A 天野敏のテクスト

立禅が続かない

Q:
久しぶりにメールします。立禅を始めて約半年になりますが、持続時間が伸びなくて、悩んでいます。長く出来る方は2時間・3時間と出来ると聞いてます。
自分は連続で2分しか続きません。自分で探す・中年からはじめる本物の中国武術のDVDを何度も見直して立禅をやっていますが時々違う感覚になります。
長く持続できなければ効果は薄いのでしょうか? また、足首の力で物を挟むようにするを続けていると、足の小指の拳骨付近が痛くなってきました。
時間が続かない理由は前方に傾いてバランスを崩してしまうのと、足首のアキレス腱が痛くてやばい!と思って中断してしまう事です。天野先生はいつも同じ感覚で立禅を組めていますか?また、アキレス腱は痛くなりますか?・・・
天野先生は愚直に稽古すれば裏切らないとおっしゃりましたが不安になってきたのでまた我慢出来ずに質問させて頂く事をお許しください。
私は天野先生のもとに行きたくても行けない身分なのでこれからもくだらない・小さな事を質問をさせてよろしいでしょうか?

北海道YS

A:
さて、立禅が続かないとのこと。

いろいろ理由はあると思いますが、足の小指が痛くなるなら、痛くならないように力の具合を工夫する。
またアキレス腱が痛くなってやばいと書いてありますが、痛くなってなんかやばい事ががあるんでしょうか。
それから前方に傾いてバランスを崩してしまうのならそうならないようにする。
そういう工夫が稽古です。

立禅を組むと最初は痛いところだらけ。
何故なら立つことと向かい合ったことがないから、立ち方が判らない。
だから各所が痛む。

身体が痛いという信号を発して、今の立ち方が不十分だと知らせてくれてるわけです。
なら、その信号が出てこないような工夫をする。
だから徐々に痛くない立ち方を見つけるし、その繰り返しで身体が整う。
必要な筋肉もできてくる。

大事なのは形を守って工夫することです。

まずは痛くても、ヤバイと思っても5分立つ事を目標にしてください。
晩御飯のことでも考えていれば、5分なんてあっという間です。

太気会 天野

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メールQ&A 天野敏のテクスト

稽古の順番、時間帯

Q:
天野先生、「中年から始める本物の中国拳法」大変参考になりました。私のように地方に住むものにとっては、DVD等の資料は、貴重な学習元となります。
「体力がなくなったからこそ、気付く強さというものがある」という言葉は、目から鱗が落ちるとともに、大変勇気づけられる言葉でありました。現在学んでいる太氣拳の稽古を振り返り、今後も、一つ一つ考えながら進みたいと思います。

さて、そこで質問があります。

それは、稽古の順番のことです。
太氣拳の稽古は、立禅→揺→這→練という順番に進んでいくと教えられ、現在基本的には、その順番で励んでいます。
しかし、仕事の都合により時間がなかなかとれず、この通りに進めることができないことがあります。体を緩める、自分の体に気付くということが大切だということは分かってきました。そのための稽古の順番でもあると思います。ですが、時間によっては、這のみ、練のみの稽古日ということがあっても構わないものなのでしょうか?
また、稽古の時間帯としては、夜よりはやはり早朝の方がよいものでしょうか?
はじめて2か月程の初心者ですので、本質を分かっていない稚拙な質問であるとは思います。
ですが、どんなに仕事が忙しくとも、生活の中に、自分なりにできるだけ正しく、質の良い稽古を取り入れ、積み重ねていきたいと思っております。
お答いただければうれしいです。

質問者 S

A:メール拝見しました。
私もこのようなメールを頂くと、書いた甲斐があったと勇気付けられます。
頑張って稽古を続けてください。
稽古は裏切りません。

さて、質問にある稽古の順番です。
基本的にはやはり立禅から始まって順序だててやるのが一番だと思います。

何故か、というとそれにも理由があります。
立禅のように静的な稽古が一番身体を整えやすいからです。
稽古で一番大事なのは自分と向き合うこと。

では自分と向き合うと言葉で言うのは簡単ですが、一体どういう自分と向き合うのか。

それは普通の生活では見えてこない自分です。
これも別に難しいことではありません。

例えばの話し、自分の見えない部分ということで背中を例にとっても良いです。
皆さんは自分の背中の動きを感じ取れるでしょうか。
多分、背中を意識することは殆どないのが実際の生活だと思います。
何故なら見えないからです。
人は見えないものは無いものとして生活します。
だから生活の中で背中の変化や動きを感じ取れない。
試しに肩甲骨を動かせる人が、一体何人いるでしょうか。
あるいは肩甲骨を動かす、という発想すら持てないのが普通かもしれません。

ところが静的なところで身体が整える、つまり自分の身体と向かい合うということですが。
そうすると普段見えないところが感じられる。
ここでいえば肩甲骨とその周囲の神経や筋肉の動きが感じられる。
だから骨格として肩甲骨も操れる、ということになります。
まあ、肩甲骨は例ですから、これが動かせれば良いとかそういうことではありませんが・・・。

つまり、ここで言いたいのは静的な稽古で感じられたことが大事という事。
そして今度は動的な稽古、揺りや這い、練りといった稽古でもその感じられたことを失わずに動けるか、ということが課題になるということです。

動けば身体が受け取る情報量は飛躍的に増えます。
その中でも、ただ立っているときのように自分と向き合って、同じことを感じ取りながら動けるようにする。
 
つまり、静的な質を動的な稽古でも失わないように稽古する。
だから稽古の最初には、やはり立禅から始めるのが一番。

とまあ、これは話としては筋道は通っていますが、そう行かないのが普段の生活。
稽古の為に生きているわけではないですから、そんな杓子定規なことを言っても始まりません。
大事なことは、そのときその場でできる稽古をするといことです。

私自身、稽古で途中を飛ばしたりはしょったりします、あるいは立禅しか組まなかったりと色々です。
稽古を続けていればその時その時で課題が違ってきます。
そういうものです。

結論です。
基本は基本、立禅から始めるのが最良。
でも、ケース・バイ・ケースでも別に問題ありません。

できる時にできる物を、これで良いと思います。
太気拳の稽古は、どの稽古もみんな一つの方向を向いています。

それを見つけるのも面白いものです。

太気会 天野

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「空間」を意識した時に推手で気をつけなければならないことは何か

Q:
早速の丁寧なご回答、ありがとうございます。
その後、先生のお返事を元によく考えて、その結果を稽古で試してみました。

相手と接触した後前に出ると、剣道の場合には間が詰まり過ぎ、つばぜり合いからの技か返し胴のような形でなければ打てないように思われます。むしろ、技を出し合う前の剣先での攻め合いの方が「空間を奪う」という状態に近いように感じられました。これまで、剣先の争いは、「中心を取る」という感覚が中心で、私は「点」や「線」のようにイメージしていました。
「相手の竹刀を中心から押し出して、自分の竹刀が中心を取る」「相手の竹刀が強ければ、反対から中心を取る」というような感覚です。相手も同じことを意図しているので、なかなか簡単には取れず、無理をすると崩れてしまって、逆に打たれるという事態も起こります。
しかし、先生のお話を元に「作業スペース」という感覚を意識すると、新しい展開が期待できるように思われます。今はよくわかりませんが、研究したいと思います。

一方、剣先での空間の奪い合いの状態は、太気拳の推手の状態に近いようにも感じられます。「空間」を意識した時に、推手で気をつけなければならないことは何なのでしょうか。
お教え頂ければ、幸いです。

福岡 N

A:
「相手と接触した後前に出ると、剣道の場合には間が詰まり過ぎ」とあります。
そうです、組み手でも同様のことが起こります。

まず、これは当たり前のことだと思ってください。
これを嫌がってはいけません。
もし人が嫌がるのなら、これこそ一番工夫し甲斐のあるところかもしれません。
前回も書きましたが、私の打つ間合いは非常に近い。
いや、私が近いのではなく、皆遠いところで打つことしか知らないのだと思います。
相手の中に入ったところ、実は此処が一番安全なのを皆知らないのです。
一番よいところを知らないのではと思います。

自分が前に出る、相手が下がれば良いですがそうでなければ間合いがつまり、空間がせばまる。
これを恐れてはいけないと思います。
その時に前に出る力がものをいいます。
組み手でも、鍔迫り合いのようになりますが、大事なのはその時に触れ合ったまま相手の重心を奪えるかどうかです。
相手も崩れていいない、こちらも同じ。
触れ合った瞬間にそうなっては五分五分です。
そこで五分になっては前に出る意味がありません。
触れ合った瞬間に相手に圧力が自分より上かそれとも下か、それを感じ取ることが大事です。
これはくり返し相手とぶつかって身体で覚えるよりありません。
太気ではそれを推手や組み手でやります。
そして相手をそれこそ力で押しつぶせると感じたら、腰を思い切りぶつける様にして相手の空間を潰します。
力で潰せるときに、技なんていりません。

否、それを瞬間に判断できる出来ないが、それこそ技と言うものの本質と言うものです。

相手が前を向いていられないようなくらいにして始末を付けます。相手の力によって、その時にそのままか、あるいは相手の中心をちょっと左右に振ってから前の出ます。
もし、相手の圧力が強くて力でいけないとその瞬間に判断したら、引くかあるいは左右に変化します。
これも真っ直ぐに引いたりしてはやられます。
その加減は言葉では無理です。
くり返し言いますが、それを判断できる出来ないが技です。
技は形ではありません。

しかし、どちらにしても自分の力がしっかりと前に出ていることが大事です。

良く中国拳法と名乗る人が推手をやっているのを見ることがありますが、殆どはただ手を合わせているだけ。
大事なのは自分の力(腕力だけではありません)が相手に対して真っ直ぐに向かっていることが第一番です。
それがない推手は何の意味もありません。
接点を通じて相手の中心に迫る力を探す。
それが大事です。
相手を押しつぶす力が基本にあってこその変化です。

剣道は良くわかりませんが、良くテレビで見ると鍔迫り合いからどちらかが引き際に胴や面をとるようです。
つまり下がれば圧力から逃れられるのでしょうか。

推手では相手が圧力に負けて下がればそのまま、それこそ相撲の押し出しのように壁まで間髪入れずに持って行きます。
相手を打つのはその後でも十分間に合います。
こちらに圧力があれば、下がって竹刀を振るう暇は無いように思えるのですが。
相手が接点から力を抜いて変化しようとした瞬間こそ狙い目です。
接点は推手では腕、鍔迫り合いでは竹刀。
でも相手にしているのは腕でも竹刀でもなく、相手の中心です。
接点を維持するのは技術ですが、それを支えるのは腹と腰が腕を押し出す力です。
推手の注意点は接点がどう変化しても、圧力が変化しないことです。
つまり、接点が動いているように見えます、
しかし実は接点は動いてはいますが変化してはいません。
そのために身体全体が変化するのです。
常に接点を腹と腰で支えるわけです。
それを十分に身体に沁みこませます。
形ではなく、その感覚がしみこんで初めて腕に力が滲み出ます。

触れてからの変化、これが実は一番稽古し甲斐のあることだと思っています。
離れているところからの打ち合いは、体格・体力や年齢に左右されがちです。
ですが、触れてからの変化は稽古したものの勝ちです。
工夫したものの勝ちです。

鍔迫り合いからの変化、力、これをしっかりやると違う局面が見えてくるかもしれませんね。

私の先生の沢井健一氏も随分剣の修行はされたようです。
剣は手の延長だ、とよく言われていました。
私は剣は疎いですが、何かの役に立てばと思います。

太気会 天野

天野敏先生

ご回答ありがとうございます。

先生のご回答の中に剣道の高段の先生がおっしゃることと共通するものがたくさんあることに驚きました。作業スペースをつぶすお話も「相手の剣を殺し、技を殺し、気を殺す」という三殺法の教えを連想させます。極めた人のお話には共通点があるものなのですね。

最近、練りが気持ちよくでき、それに連れて体が軽く感じるようになってきました。先生がいつか書かれていた「立禅をすると鼻がなぜか通る」というお話はその時は「そんなものなのかな」と思って読んでおりましたが、最近時々実感できます。

早速、鍔迫り合いも含めて、研究していきたいと思います。ありがとうございました。

質問者 N

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太気拳における「空間」の意味とは何なのか

Q:
先生の『組手再入門』、興味深く読ませて頂きました。
いつもながら、実体験に基づく具体的でわかりやすい内容で、むさぼ るように 読んでしまいました。

その中で、「空間で蹴りを抑える」という写真があり(p 69)、この「空間」 というものについて、おうかがいしたく、メールさせて頂きました。

私は剣道を学んでいます。いつも先生のお話は、剣道書と共通する内容が多く、 しかも禅用語などの剣道書に多い難しい言葉が少ないので、ありがたく 拝読して おります。

『組手再入門』を読んで、地稽古の際に『空間』を意識してみまし た。竹刀を突きつけられると、なかなか平常心ではいられないのですが、相手の竹刀が自分 を打つ時には必ず通らねばならない空間があり、その空間を意識すると少し気持ちが楽になります。「ここに入ってきたものだけはじき出せば、打たれない」と いう感覚です。しかし、これは守りの感覚で、結局最後には打たれてし まいます。

太気拳における「空間」の意味とは何なのか。もう少し詳しくお教え頂けない でしょうか。よろしく、お願い致します。

福 岡 N

A:
質問から剣道への情熱や工夫が感じられます。本当に稽古で苦心しているものにしか分からない疑問だと思います。

空間に関することを言葉で表現するのは非常に厄介です。
しかし、文中に「相手の竹 刀が自分を打つ時には必ず通らねばならない空間があり・・・」とあります。
これを感じられているのなら話せそうな気がします。
この感覚は非常に大切で、これを稽古の中でN君が見つけたとしたら、その苦労は大変なことだと思います。

多くの人は、ただ守ろうとか、こうきたらこうとか漫然と相手を見がちです。しかし、相手が人間であり、自分と同じように手足がある以上、また手足の置き場所(構え)がある以上そこから始まり自分のところに攻撃が届くには無限の可能性があるように思えても、実際はそうではありません。

そこには通らなくてはならない道があります。
v つまり自分という陣地に相手が攻めてくるにはいくつかのルートを通らざるを得ない、だからその道を塞ぐことが大事だということになります。ちょっとしたこの発想が大きな違いに育ちます。
つまり相手の攻撃を防ぐというのではなく、その道筋を塞ぐということです。
攻撃を避けるということと、攻撃の道筋・ルートを潰すというのは一見すると同じように見えますが、内容は天地の差ほどの違いがあります。

大事なのは此処です。

此処が見えるか見えないかが分かれ目と言えるくらい大事なところです。そして此処からの工夫が更なる分かれ目ともなります。

「ここに入ってきたものだけはじき出せば、打たれない」とあるのは空間を守る感覚が芽生えてきているからですが、更に一歩進むためにもう一つ工夫してみてください。

それは「相手の空間を潰す」ということです。

相手の攻撃をはじき出した瞬間に相手の空間を潰すにはどうすれば良いか、です。僕の場合はその瞬間にほんの僅か、それが10センチかあるいは数センチ、ひょっとすると数ミリくらいかもしれませんが前に出ます。
その瞬間に相手とのあいだに新しい空間が立ち現れます。相手の攻撃を受けるのは身体のやることで、どう受けるかなんていうことは考える暇もないし必要もありません。身体が勝手に動くようにするには稽古するのみです。

だから心がけるのは、相手が此処に居ると思っている自分の場所からほんの僅かでも前に出ること。それによって相手の空間を奪い、同時に自分の新しい空間を作り出すこと。

昨年末に組み手のビデオを出しました。それを見てもらえると分かるかもしれませんが、僕が相手を打つ位置は非常に近いんです。つまり手を伸ばせば、相手の後頭部を打てるくらいの距離で打ちます。

組み手をすればお互いに手を出す距離や瞬間は見えてくるものです。殆どの人はそこしかないと思っています。だから同じところでどちらが速いとか、どちらが効いたとか言うところでやっています。その瞬間の奪い合いしかやりません。

そんなのはいくらやっても頭打ち。成功もあれば失敗もあるといったところです。

そうではなく、その瞬間に空間を奪うことが出来れば、正直言って相手を打つ必要もないくらいです。
もっともそこで打たないと打たれることもあります、だからしょうがないから打ちますが・・・(笑)。

空間というのは言ってみれば作業スペースです。お互いに離れていればそのスペースは確保できますが、接近すればするほどその奪い合いになります。接触した際の変化はその奪い合いです。
自分が相手を打った瞬間、あるいは相手の攻撃をはじいた瞬間、その瞬間にどう変化するかです。
その時に相手のスペースを奪い、同時に自分のスペースを確保できれば「自分は打てても打たれない」という実に都合の良い瞬間が生まれます。
打つのはそれからで十分間に合います。だから大事なのはその変化を研究することだと思います。

一番大事なのは距離や速さではなく、空間の感覚と瞬間の変化です。頑張って稽古してください。この文章が役に立つことを祈っています。

太気会 天野

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メールQ&A 天野敏のテクスト

ランニングや筋トレは行わないのか

Q:
天野先生
先日はご指導頂き本当にありがとうございました。 自分は天野先生の「中年からはじめる本物の中国武術」のDVDを見て立禅を始めました。ひざを緩める、全身を緩めるとあったので、 立禅を組むと足が震え、体制がつまづいたように前に崩れる、足で耐えようとして気持ちが、足ばかりに行ってしまい、五感を開くという 気持ちの余裕、リラックスが出来ていないので、これでいいのだろうか?と思い質問させて頂きましたが、痛くない立ち方を見つけるまで よけいな事は考えずに続けてがんばろうと思います。

ここでまた質問させて頂きたいのですが、大氣拳とは体力に頼らない方法なんだなと解釈しましたが、稽古の一環としてランニングや空手の様に拳を鍛えたり、上半身の筋トレはいっさい行わないのでしょうか?
今は立禅しかわからないので教えて頂けないでしょうか?

北海道 YS

A:
確かに稽古をする時に体力に頼った稽古をしてもしょうがないと思います。
体力に頼った稽古は、当たり前ですが体力が衰えればそれでおしまい。
面白くもなんともありません。
しかし、体力に頼らないということと体力がなくても良い、ということとは別の問題です。
よく中国拳法に対する憧れに、体力がなくても強くなれそうだから、と言うパターンがありそうですが、 非力な人間が非力なまま強くなると言うのは、単なる幻想です。
そうあって欲しいと言うことと、そうであることとは別です。
何をやるにしても、それを支える体力は必要です。
僕は昔から筋肉トレーニングをやったことはありませんが、もし質問のYS君が非力な方ならやっても良いと思います。

「中年からはじめる本物の中国武術」で立禅については結構細かく書いてあるので分かると思いますが、 立禅を組むにしても、きちんと組めばそれこそ最初は5分立つのがやっとのはず。
それが続けることにより、徐々に足裏やふくらはぎ、腰や背中、肩の筋肉等もついてきます。
またそういった見える筋肉だけではなく、普段感じられない部分も鍛えられていきます。

無論筋肉が鍛えられればそれで十分と言うことではないですが、そういった効果も無視できません。

体力のある人間が体力に頼らない稽古をするのと、体力のない人間が体力に頼らない稽古をするのとどちらがいいか。
答えは自明でしょう。

ただし重いものを持ち上げればいいと言うのではなく、自分の身体を柔軟に動かせるような体力の育成を心がければいいと思います。
そういう意味ではランニングなどはいいと思います。
それから拳を鍛えることですが、コレはあまり意味ありません。
拳の強さを言うなら拳ダコを自慢するより、握力の方が大事ですから。

太気会 天野

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メールQ&A 天野敏のテクスト

足ががくがくして立禅が5分も出来ない

Q:
天野先生
立禅をはじめてから2週間ぐらいたとうとしていますが筋肉はついたのですが、体が熱くなるなどの変化はまだありません。

立禅のやり方が間違ってるのでしょうか?体に感じる感覚のままを受け入れればいいとQ&Aで読んだのでイメージの風船を抱くような イメージなどが出来ていないせいでしょうか?立禅の時間も足ががくがくして5分も連続で出来ていない状況です。時間が短いせいでしょうか? 体勢もくずれてもすぐに直して続ければいいのでしょうか? どうかアドバイスお願いします。

北海道YS

A:
さて、どういう風に答えればいいかちょっと迷います。
立禅を何故やるのか、その答えは光の当てかたによっていくらでもでてくると思います。
しかし、その全部には答えられませんから、的を絞って話します。

以前、5分も禅を組むと足が痛くなって筋肉痛になるという質問がありました。
これは当たり前のことです。腰を落とせば足に負担がある。なれないうちは筋肉もついていないから痛くなる。

では筋肉がついたら楽になるかと言うとそうでもない。
肩が痛くなったり、腰が痛くなったり、背中が張ったりする。ぜんぜん楽にならない。楽に組むと口で言うのは簡単だが、そうはいかない。

そうです、楽に組めない。ここが大事です。

それでも頑張って組む。一時間でも組んでみる。それを繰り返すことで身体が勝手に、つまり自分の思惑とは別に身体が楽を見つけようとする。
これが大事です。
頭が考えるより、身体が考えます。
そのために痛くても退屈でも我慢して組む。

痛いから痛くない立ち方を身体が見つけます。
手先足先の力ではなく、いわゆる体幹の力を見つけてくれます。
退屈だから退屈しない気持ちの置き方を見つけてくれます。
つまり今自分が知らないものを身体が見つけるということです。

稽古はまだ自分で見えないことを見ようとすること。
だから今の自分の考えなんていうのは、言ってみれば泳げない人が泳ぎかたを想像してるようなもの。
愚直と言う言葉がありますが、わからなくても愚直に稽古することしか先に進む道はないということです。
そしていつか泳げるようになったとき、ああ、あの時は何もわかってなかったな、と気が付くものです。

それから、身体が熱くなるとありますが、そんなことに拘ることは全く必要ありません。
また風船のイメージもよく言われますが、それは何年もすれば自然に感じられるもの。
感じられた時に、ああこれか、と思えばいいだけです。結果としてそう感じるものだ、と思っていればそれで十分です。

立禅を組み始めて2週間とのこと。
立禅を組むなんて簡単なことだ、とみんな思います。
でもたった2週間で、どう立って良いのか分からなくなるほど、立つということは難しいという事。
僕もこんな感じで立てばいいのかな、と思い始めたのはつい最近。
結果をあわてて求めすぎない事。
誰でもすぐ分かることなら、やっても大した価値はないって言うこともあるから、のんびり長いスパンでものを考えて稽古していってください。

自分と向き合う稽古をすれば、稽古は裏切ることはないから。

太気会 天野

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メールQ&A 天野敏のテクスト

立禅の際の呼吸について

Q:
天野先生,初めてメールさせていただきます。

私は空手を始めて13年経ちます。
このごろやっと基本や約束組手で力みが取れてきたなと感じられるようになってきたのですが,自由組手となるとだめです。結局,心と体の一体感がつかめていないのだと思います。

心と体の一致させる方法として呼吸が大事で,それに気を乗せるというか合わせるということが少しずつ分かってきましたので,三戦で鍛錬しています。三戦によって気も養成できるのですが,空手には内家拳ほど詳しい気の養成方法が確立されていないように感じます。

そこで,2年ほど前より先生の著書やDVDを教科書として,立禅に取り組んでいます。現在,立禅をしていると下半身と腕,胸に奇妙な感覚が表れ始めています。

天野先生に教えていただきたいことがあるのですが,立禅の際の呼吸についてです。呼吸の仕方について,腹式呼吸なのか逆式呼吸なのか,座禅のように息を吐ききっていっぱいまで吸い込むのか,それとも自然に任せるのか,その他呼吸をする際の注意点などを教えいただけると嬉しい限りです。

武の世界では修行年数13年なんて鼻たれ小僧ですが,技の質を高める気持ちを持って励んでいきたいと思います。どうかよろしくお願いいたします。

A:
空手を13年との事、いろいろな事がわかってくると同時に自分の限界も感じてくる頃だと思います。負けないでがんばってください。

さて、今回の質問は呼吸についてですが、それ以外にも他の人にも共通の問題があるのではと思うので、これを機会に書いてみようと思います。

まず最初に呼吸について。呼吸には腹式と胸式があります。
と言うか、二つあるように考えられています。確かに腹式と胸式に分けて呼吸をする事が出来ますが、それは単にできるというだけで、自然な呼吸と言うのはその両方を併せ持っているものです。
呼吸は不思議なもので、意識しないでも自然にしますが、止めたり或いは深呼吸をしたりと意図的にコントロールする事が出来ます。
簡単に言えば呼吸筋は随意筋と言うことでしょう。逆に言えば随意筋だからコントロールできる。だからどちらか良いほうにすればよい。と考えるのかもしれません。
ところが武術と言う事で考えれば、正直に言って、そんなことに神経を遣う必要はない、或いは暇はないと言うのが正直なところだ。そんなことに気をつけることより、他に気にしなければいけないことが人と向かい合ったら山ほどある。幾ら腹式呼吸がいいからといって、それを気にしながらでは約束組み手さえ出来ません。
だから、そんなこと呼吸に気をつけるよりも自然な呼吸でいることのほうが大事です。つまり、自然に任せる、或いはどんな時でも自然な呼吸でいられるようにする事が稽古です。

よく腹式呼吸をする事で、気持ちを落ち着かせると言う人がいます。それはそれで間違いではないと思います。
なぜなら、緊張したり興奮したりすると、肩や背中が緊張します。そうなると腹筋が動かなくなり、結果的に胸式呼吸になりがちだからです。
図式的に言えば、気持ちが緊張する、身体が硬くなる、背も腹も緊張する、だから呼吸が胸式になる、場合によっては呼吸も止まる。それに対する処方として腹式呼吸を意識する事で背や腹の緊張をほぐし、ひいては身体を緩め、気持ちの平静を取り戻す。
気持ちで起こった緊張を身体から解きほぐす、と言うこと。簡単に言えば風邪を引いたときに薬を飲む、その薬が腹式呼吸。
だからそう言う意味では腹式も覚えておいたほうがいいと思います。入学試験の会場で上がってしまった、などという時は有効かもしれません。
ただ武術で言えば、もっと大事な事があります。何かと言うと、事にあたった時にも当たり前な自然な呼吸でいる事。つまり過緊張にならず自然な気持ちと身体でいる事です。
呼吸は気持ちが乱れれば、乱れるものです。つまり呼吸は気持ちの結果。だから大事なのは乱れない気持ちを育てることのほうが呼吸をいじる事よりもっともっと大事と言うです。

さて、質問の最初にあった自由組み手と約束組み手の距離感です。
多くに場合この二つは全く別のものです。約束組み手は約束です。だからできる、当たり前です。
相手がこう来たらこう動こう、と思ってタイミングを合わせてやる。ところが自由組み手はそうはいかない。こう来るかもしれないし、来ないかもしれない。そんな状況の中で、約束組み手の内容が生きるか、と考えてみると良くわかる。
皆約束組み手の技術や技を自由組み手に生かそうと考える、其処が大きな間違い。では何が大事なのか。

質問の最初に約束なら力みが取れる、しかし自由組み手ではそういかない。と書いてあります。此処に実は答えがあります。
つまり約束組み手で得られる事は、力みを取れば何かが出来る、と言うことを知ることです。
決してこう来たらこうと言う技術ではない。そんな技なんて言うものは、力みや緊張がなければその場に応じて出てくるものだし、そうでなければいけない。組み手の中で複雑な事なんかできるわけがない。
だから何かをやろうとするのではなく、何でもできるような力みの取れた状態で相手と向かい合う。これが出来れば十分。組み手では出来ない事はどんなにがんばってやろうとしても出来ない。だからせめて出来る事をやり切れる状態に自分を置いて、自分がなにをやるか楽しむような気持ちでやること。

出来ない事を出来るように努力する事は大事だけど、組み手のときは出来る事しか出来ない。そう腹をくくって自然な気持ちで向かい合う、それしかないと思います。組み手でうまくやる必要なんて全然ないからです。上手くいかないからこそ次の課題が出てくるもんです。

太気会 天野

大変多忙の毎日を送られているにもかかわらず,面識もない自分に身に余るほどの親切丁寧なご指導を賜り,心より感謝申し上げます。
先生のお言葉を読んだ後,武道はすべてにおいて気持ちが一番重要であることが分かりました。このことは良く耳にする言葉ですが,自分が今まで持っていた気持ちというのは,相手に気位負けしないようにするある意味緊張の連続の意識の持ち方でした。そうではなくて,自然な状態を保つ気持ちがいかに大切なのかということに気付きました。そういえば,何気なしに立っているか細い木々もちょっとやそっとの力ではびくともしませんね。
私は,自然な心の状態を身につけるための呼吸法が,いつのまにか腹式か胸式かという形にとらわれていました。また,組手においては力を抜いてと,耳にたこができるくらい聞かされているのに,打とう,受けよう,蹴ろうという形に意識が行っていました。当然,先生のおっしゃるとおり,息は上がり,体に余分な力が入っている状態です。空手を覚えた手の頃は,移動稽古のとき,何も考えずに足を一歩踏み出していたのに,今は思うような一歩が出せない状況です。言われてみればそうかということが,実際になかなかできないのがこの世界なのですね。自分の体なのに,思うように動かせないことを痛感しています。
「約束組手の本質は,力まなければ何かができることを知ること」・・・天野先生のこのお言葉は,行き詰っていた私に明確な方向性を示してくれました。こうきたらこうする言い換えれば,何かをしなければならないという行動をとる今までの自分から,何かができるつまり,無意識に何が出るか分からないが何らかの動作ががひょいと出てくるこれからの自分を目指すということです。当然これからの稽古での意識の置き方も変わってきます。なんだか,再び空手が楽しくなってきました。私の空手がこの先どのようなものになっていくのかわくわくします。
天野先生,本当にありがとうございました。先生のおかげで形にとらわれていた過ちに気付き,何が大切なのかが分かりました。後は,実行です。励んでいきたいと思います。先生ご自身と太気会の益々の御活躍をお祈りいたしまして,お礼の言葉とさせていただきます。

質問者 N

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メールQ&A 天野敏のテクスト

立禅の精神面での効果

Q:
久しぶりにメール致します。
太気拳の扉』と先生のDVDを見ながら、立禅や這いを稽古しています。
成人してから剣道を始めたのですが、特に足捌きなどによい効果が出ているように感じています。一方、試合などになると途端に動きが固くなるのです。
立禅を中心とした稽古は、長く続ければ精神的な面での効果も期待できるのでしょうか。

福岡 N

A:
メール拝見しました。

剣道においての足捌きに良い効果が出ているとの事。
脚に神経が行き渡り、身体全体のまとまりが出てきているのでしょう。
これからも続けてください。

さて、精神的な面の効果と言うことですが、これも稽古では大事です。
正直に言って、人のやる事は全て気持ちがやらせるもの。
気持ちがうわずれば動きもうわずります。
そうなっては、対人練習で力を引き出せません。
稽古場では力を出せても、いざという時に持っているものが出てこないということになります。
これは弟子達の稽古を見ていても良くあります。
彼らを見ていて感じるのは、身体の問題と言うよりむしろ気持ちの問題を感じる事の方が多いくらいです。

では、気持ちの問題に対してどう対処するか。

と言うことですが、実は太気拳の稽古は最初からその問題に答えを用意しているような気がしてなりません。

それは立禅です。

立禅をどの様に組むか、です。
気持ちに関しては立禅を組んでいる時のような気分で人に対する、と言うことが大事です。
では、その時はどの様な気分か、と聞かれても説明できません。
ただ、どの様にして人と向かい合ってもそのストレスを乗り越えられるような気分を作るか、については話す事は出来ます。

立禅のときの注意点です。

大事な事は、遠くを見ますが見ることにとらわれずに五感を開く事です。
遠くを見てもそれに捉われずに、聞くこと、つまり遠くの音を聞くようにしたりします。

あるいは背後の気配に気を配る事も大事です。
そうする事で眼の前の事ではなく、全体に向かって気持ちを開くような感じになります。

その感じを失わずに人に向かいます。
立禅を組んでいると、何かボーっとした気持ちになります。
その気持ちこそが実はとても大事なのです。
その気分を事に及んでも失わない事です。

人と向かい合っても、立禅を組んでいる時の茫洋とした気分でいるようにすること。
それがとても大事な事です。
もちろん這いの時も同じ気分です。
簡単に出来る事ではありませんが、一人のときにそういった気分になる事が出来れば、人と向かい合っても出来るはずです。
緊張する場面でも自分を失わずにいること、これがどれだけ大事な事か判るのは自分を失ってしまった経験のある人だけです。

立禅を生かすという事があります。
稽古していると意識しなくても何となくそうなってくる、と言う事もあります。
しかし、それだけでは不十分です。
人と向かい合っても意識的に気分を立禅のときのようにもっていく事。
そう言う風にしてください。

ともすると気持ちや気分、あるいは精神的なことを忘れてからだの事にばかり気が行ってしまう人が多いようです。
その意味では、気持ちの面に眼が向くとの事。
とても大事な事に気がついたね、といった気がします。
武術はこれを乗り越えないと見えてきません。

僕がこう来たらこうするといった技術論が嫌いなのは、この気持ちの問題を無視しているからです。
この気持ちの問題こそが、武術をやっていて乗り超えなければいけない大きな壁だからです。
気持ちがあって初めて身体が動くものです。
太気拳をやっていて面白いな、と思うのは問題が出てくると初めて答えが稽古の中にある、と気がつくことです。
当たり前ですが、問題意識がなければ答えも出てきません。
これからは気持ちの問題も含めて、立禅や這いを剣道に生かしてください。

太気会 天野

いつもながらわかりやすいお答えを頂きまして、ありがとうございます。

剣道の書籍も何冊も読みましたが、禅の言葉など高尚なお話が多く、 逆に難しいものが多いように思われます。 しかし、先生のお話は、具体的で 言葉も簡単な表現なのでわかりやすいと感じます。虚飾がなく、実体験に基 づいたことだけだからなのでしょう。

足は、以前はぎこちなく動いて打った後ばたばたする感じでしたが、 立禅を中心とした稽古を取り入れるようになって 、2年くらいした頃、気が つくとスムーズに動けるようになり、足が軽く感じるようになっていました。

もう3年近く続けていますが、最近は、立禅の時に先生のぼーっとする 感じと周りの空気が少し重くなったような感じが する時があります。地稽古 (組手)の時にもそんな感じの時もあり、そんな時には考えるより先に打て ていた、という ことがあります。とても、気持ちのよい瞬間です。ただ、いつもとはいかず、また試合や審査となると足が何を踏んでいるにも かわからず、 気がつくと行ってはいけないところで、夢中で出て行って打たれるとなって しまいます。

先生のご助言を参考にして、立禅の状態をいろんな場所で保てること を稽古の目標にしたいと思います。これも剣道の 言葉でいえば、「平常心」 とか「剣道の日常化」という言葉で表されることになるのでしょうが、先生 のお話は具体的なので、目標と しても明確に設定できるのがすばらしいと思います。ありがとうございました。

福岡 N

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メールQ&A 天野敏のテクスト

立禅で足裏が痛くなる、骨盤と重心

Q:
 初めまして、私は他武術の修行をしている者ですが、鍛錬や全身の協調を養うために立禅をやっております。天野先生の著書「太気拳の扉」を拝読していますが、質問が二つございます。
 ひとつは、足裏で地面をつかむ感覚で立禅を15分ほどしていると、他の部位はなんともないのに足裏(特に土踏まず)が痛くなることです。これはやり方が間違っているのか、それとも単に鍛え方がたりないのでしょうか?
 もうひとつは、先生の著書において「骨盤の左右の傾斜および交叉伸展反射」の際「右側の骨盤を引き上げるようにするが、足裏が地についているので左側の骨盤がさがり重心が右側に移る」とゆう部分です。この場合骨盤の下がった方に重心がいかないように、引き上げようとする方の筋肉を緊張させて重心を移すとゆう、やや強引な(?)方法をしていますが、正しいやり方なのでしょうか?無駄に力んでいるのではと疑問を持っております。
 著書の読み込みが足りないのかもしれませんが、お答え頂ければ幸いです。

A:
メール拝見しました。
本を頼りの稽古は大変だと思います。
こういったメールを頂くと、正しく伝えるという事の難しさを痛感します。

先ず最初の土踏まずが痛くなるということ。
多分力の入れすぎだと思います。
地面を軽くつかむ感じで、強くつかむ必要はありません。
あるいはつかむ感覚が感じられるだけで十分です。
肝心なのは足の指の感覚、足首や膝そして股関節の感覚を目覚めさせる事が出来ればいいと思います。
そしてそれをどんな時でも持続させる事です。

さて、次の骨盤に関してです。

ですがその前に一言いっておきます。

質問文にあった正しい・正しくないというのは評価です。
必要なのは評価ではなく、自分が何かを感じ取ってそれを生かそうとすることです。
そう言う意味では、質問の方は感じているけれども活かしかたが分からない、と言うことでしょう。
その意味で言ってみれば正しい悩み方をしていると思います。

疑問に思う、という事が稽古するということです。
でももし僕が、それが正しい、といったらもう疑問を持たないでしょうか。
正しいと言われたけど、本当にそうだろうか、何で正しいんだろうか、と思わないでしょうか。

たぶん、疑問に思うでしょう。

つまり、正しい・正しくない、間違っている、間違っていない、の答えを永遠に求め続けるのが稽古というものかもしれません。
稽古するという事は様々な事を発見するという事ですが、発見するということが実は次の疑問の出発点になって行きます。

人に正しいといわれたから、そう疑問も持たずに稽古する。
多分、そんな人なら他の武術をやっていて、あえて立禅など組まないと思います。

さて、骨盤の件です。
大事なのは動く、つまり重心の転換をどんな力で行うのか、です。
ほとんどの人は脚で動くと思っていますが、それだけではありません。
勿論脚や腰の力も使いますが、同時に骨盤の傾斜する力を生かすことで力強い変化に通じていくのです。
骨盤が傾斜すれば自然に片方は引きあがり、逆は踏み込むようになります。
そんな当たり前のことを、当たり前に自分の動きにしていけばいいのです。
最初は意識的に、そしてそのうちに当たり前に骨盤の力を活かしながら動けるようになります。

骨盤を傾斜させる力は腹の力です。
それを感じていく事が大事。
その力を感じたら、それを生かして動く事を工夫すればいいわけです。
腹の力を使うと、上体の変化が引き出されます。
そこからまた発見があると思います。
これもまた、大事なのはその感覚を持続させる事です。

立禅は形ではなく、そこで得られた感覚を動いても動かなくても失わないでいることです。
そうすれば、その質は失われない訳です。
そしてその質をブラッシュ・アップするのが日々の稽古です。

ですから、本の内容どおりではなく、あるいは形を真似しようとしないで、自分のスタイルを作るように稽古してください。
本の内容はあくまで僕自身のものにすぎません。
真似しようとすると、強引な事もしてしまいがちです。
武術はあくまで自分自身の中にあります。
現れ方はそれぞれの形、違いがあって当然です。
自分の身体の中で起こっている事を伝える事は本当に難しい、そう思います。
これは質問している当人も同じだと思います。
いつも歯がゆいものを感じます。
そんな思いで、立禅に関してだけの映像とテキストを製作中です。

勿論、先々は他の内容にも触れていきたいと思いますが、とりあえずは立禅だけで一時間くらいの内容になるはずです。
それが出来上がったら、それも参考にしてもらえればと思います。

太気会 天野

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メールQ&A 天野敏のテクスト

これが「上下に力」なのか

Q:
天野先生、初めてメールさせていただきます。
私は日本拳法の経験がある39才の男です。
最近年令の影響で、体力の衰えを感じ始めており、仕事で道場にも通えず、武道から遠ざかり気味でした。
天野先生の著作「太気拳の扉」を購入したのがきっかけで、立禅を見よう見まねで1週間程、1日15分やってみたところ、体の感覚が違う事に気がついたので、質問させていただけないかとメールした次第です。

立禅で、腰を普段より押し出し気味に真直ぐに立てようとしていると、尾てい骨と股関節、両側の腰骨あたりに力が入り硬く緊張している違和感を感じました。
この違和感を抜けないかともぞもぞしてみました(楽な姿勢を探せと著作にあったからです)。
3日目くらいに緊張が無くなり、尾てい骨が下に、膝に向かってグ-ンと引っ張られるような感じが出て、また背中の下から膝上にかけてからっぽになった様な感覚がありました。更に足が重くなり足裏が地面に刺さるような感じも。
この状態で顎を引くと背骨が上下に引っ張られる感じがあります。
太気拳で言われている上下の力と言うのはこのような状態を言うのでしょうか?
また歩く時にこの尾てい骨の感じを意識すると腰が軽く、しかし足は重い感覚があり、歩こうと思うとこれまでより楽に速く歩けます。変な言い方ですが、思うだけで勝手に足が動いている感じがあり「なんで?いいのかこんなことしてて?」ととまどったりすることもあります。

初心者的な質問ですいません。文面だけですが、何か間違っていそうであれば御指摘お願い申し上げます。
どうぞ宜しくお願いします。

A:
メール拝見しました。
立禅をやっていると実にいろいろな感覚が出てきます。
たつという単純なことを、実はないがしろにしてきたということがよく判ります。
そこで静かに立っていると今まで見えなかったことが見えてきます。

質問では「上下の力」という事でしたが、それは何の事はないただの整理の際の名前にすぎません。
身体の繋がりは実に複雑怪奇。
実は言葉に出来ることではないと思っています。
ただ、ある瞬間にある状態になったときに、ああ、これがそうか、とひらめく時があります。
その時のために、私はいろいろ書いているつもりです。
形ではなく、内部の感覚を文章にするという事は実に難しく、書く事はできてもそれを共有することは至難の業。
ただ大事な事は身体から出てきたものに嘘はない、という事です。
もしここで私が「それが上下の力です」等と言ったら、「ああ、これが上下に力と言うものか」で終ってしまいます。
身体から出てきた感覚を育てて、次々に発見を続けていくことが稽古と言うことです。

感覚に名前をつけて何かを共有した安心感を持ちたいと言うのは十分わかります。
しかし、自分の身体の主は自分自身です。
一つ一つに名前をつけることなんかありません。
名前をつけると他の可能性が手から零れ落ちます。
一つの感覚を手蔓に、もっともっと探してみてください。
自分の身体という宇宙を探検するつもりで禅を組んでいけば、もっと色々な事を見つけていくことが出来ます。

実際に見つけた感覚をもって、動くことが出来れば動きが変っていくのも事実。
そういった工夫もいつの間にか、自分を育てて行きます。
それを楽しみにこれからも稽古して行ってください。

それから39歳との事ですが、武術はそこからです。
体力が落ちて、とありますが、まさにそれが原点。
体力に任せていくらやっても、体力が落ちればそれで終わり。
体力がなくなって出来ないのは、体力がなくては出来ないことばかりやっているからです。
みんなそう思っているようですが、そこからこそが出発点。
なんといっても、強くなるという事は、弱い人間が強いものに勝つということ。
やっと弱くなって、武術に向かい合えると言うものです。

変な話、体力が落ちて良かったねって事もあるかもしれません。
何故なら、体力に頼らない、という事を知ることが出来るからです。

太気会 天野