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メールQ&A 天野敏のテクスト

これが「上下に力」なのか

Q:
天野先生、初めてメールさせていただきます。
私は日本拳法の経験がある39才の男です。
最近年令の影響で、体力の衰えを感じ始めており、仕事で道場にも通えず、武道から遠ざかり気味でした。
天野先生の著作「太気拳の扉」を購入したのがきっかけで、立禅を見よう見まねで1週間程、1日15分やってみたところ、体の感覚が違う事に気がついたので、質問させていただけないかとメールした次第です。

立禅で、腰を普段より押し出し気味に真直ぐに立てようとしていると、尾てい骨と股関節、両側の腰骨あたりに力が入り硬く緊張している違和感を感じました。
この違和感を抜けないかともぞもぞしてみました(楽な姿勢を探せと著作にあったからです)。
3日目くらいに緊張が無くなり、尾てい骨が下に、膝に向かってグ-ンと引っ張られるような感じが出て、また背中の下から膝上にかけてからっぽになった様な感覚がありました。更に足が重くなり足裏が地面に刺さるような感じも。
この状態で顎を引くと背骨が上下に引っ張られる感じがあります。
太気拳で言われている上下の力と言うのはこのような状態を言うのでしょうか?
また歩く時にこの尾てい骨の感じを意識すると腰が軽く、しかし足は重い感覚があり、歩こうと思うとこれまでより楽に速く歩けます。変な言い方ですが、思うだけで勝手に足が動いている感じがあり「なんで?いいのかこんなことしてて?」ととまどったりすることもあります。

初心者的な質問ですいません。文面だけですが、何か間違っていそうであれば御指摘お願い申し上げます。
どうぞ宜しくお願いします。

A:
メール拝見しました。
立禅をやっていると実にいろいろな感覚が出てきます。
たつという単純なことを、実はないがしろにしてきたということがよく判ります。
そこで静かに立っていると今まで見えなかったことが見えてきます。

質問では「上下の力」という事でしたが、それは何の事はないただの整理の際の名前にすぎません。
身体の繋がりは実に複雑怪奇。
実は言葉に出来ることではないと思っています。
ただ、ある瞬間にある状態になったときに、ああ、これがそうか、とひらめく時があります。
その時のために、私はいろいろ書いているつもりです。
形ではなく、内部の感覚を文章にするという事は実に難しく、書く事はできてもそれを共有することは至難の業。
ただ大事な事は身体から出てきたものに嘘はない、という事です。
もしここで私が「それが上下の力です」等と言ったら、「ああ、これが上下に力と言うものか」で終ってしまいます。
身体から出てきた感覚を育てて、次々に発見を続けていくことが稽古と言うことです。

感覚に名前をつけて何かを共有した安心感を持ちたいと言うのは十分わかります。
しかし、自分の身体の主は自分自身です。
一つ一つに名前をつけることなんかありません。
名前をつけると他の可能性が手から零れ落ちます。
一つの感覚を手蔓に、もっともっと探してみてください。
自分の身体という宇宙を探検するつもりで禅を組んでいけば、もっと色々な事を見つけていくことが出来ます。

実際に見つけた感覚をもって、動くことが出来れば動きが変っていくのも事実。
そういった工夫もいつの間にか、自分を育てて行きます。
それを楽しみにこれからも稽古して行ってください。

それから39歳との事ですが、武術はそこからです。
体力が落ちて、とありますが、まさにそれが原点。
体力に任せていくらやっても、体力が落ちればそれで終わり。
体力がなくなって出来ないのは、体力がなくては出来ないことばかりやっているからです。
みんなそう思っているようですが、そこからこそが出発点。
なんといっても、強くなるという事は、弱い人間が強いものに勝つということ。
やっと弱くなって、武術に向かい合えると言うものです。

変な話、体力が落ちて良かったねって事もあるかもしれません。
何故なら、体力に頼らない、という事を知ることが出来るからです。

太気会 天野