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会員・会友員のテクスト 富川リュウの太気拳修行記

平成16年・夏なのだ

夏でも立禅、公園で

 今年の夏は、また一段と暑い。家の奥さんに「このクソ暑いのによく公園でなんか練習ができるわねぇ」と半ば呆れ顔で言われる。そして「40才過ぎてるサラリーマンでそんなことやってる人って居ないわよ」なんて。「そうは言っても、野球やサッカーやテニスなんかやってる人達はいるんじゃあないのかなぁ」などと生返事をする。

 実は、私が太気拳をはじめようとしていた時の一番の心配事は、素手素面の組手ではなく、冬は寒くて、夏は暑い中で稽古しなければならないということであった。「ほんとに大丈夫かなぁ。ちゃんと続けられるんだろうか・・・」はじめの一年は戦々恐々であった。それでも一年二年と経つうちに、自然と気にしなくなっていた。

 そして今年も、この猛暑の中、やっぱり公園の木の下で禅を組み、這いに興じる。なんとも充実した至福のときだ。夏バテ・・・それは私にとっては、もう死語も同然。暑さ寒さを乗り越えて、もう「矢でも鉄砲でも、持って来やがれぇ~」ってな気分。――でも雨が降ったら稽古はお休みします・・・濡れるのイヤだから。

質的変換

 質的変換――って言っても、感じたことのない人には何のことやらさっぱり・・・でしょうね。長いこと立禅をやっていると、だんだんと自分のフォームが変化していく――と言った方が一般的には判り易いんだろうけど、実感としては、質的に変化したことの方が先に来て、フォームはその結果として変わったかなって、いうくらいなもの。まあ普通の人が見たら、質的変換前のフォームと変換後のフォームは、同じに見えちゃうかもしれないんですけどね。

 ここでひとつだけ補足しておくけど、質的変換って、一回あったらオッケー!ってもんではないですから。もちろん一年に2回あったから、あんたは偉い!ってもんでもないです。もし毎日、立禅やってるとしたなら、1日にひとつ、少なくても3日にひとつくらいは、新しいモノが見つかるでしょう。これが私が言う処の「質的変換」です。それを見つける前の自分と、見つけちゃった後の自分とは、もう同じ自分ではないんです。んーこの違い、わかるかなぁ~わかんねぇだろうなぁ~(これって70年代の古い流行語のフレーズなんです)

低い半禅

 昨年の暮れの頃からだったか、天野先生から、かなり低い姿勢での立禅を指導されていた。自分なりに工夫したつもりではあったのだが「逆だよそれじゃ!」と言われてしまった。何が逆なのかというと、骨盤の傾き方。半禅で姿勢を低くして行くと、それまで7:3だった荷重バランスが、9:1か10:0くらいになってくる。そしてこの時、軸足の負担はピークに達するのだが、軸足になっている方の骨盤が上がってる方がどうも楽だったのでそうしていた。正しくは逆。骨盤は軸足のある側にやや下がる。先生からは「はじめは時間は短くてもいいから、とにかくその姿勢でやるように」と言われていたんだけど、日に日にそれが当たり前になってきて、二ヶ月も経つ頃にはそれなりに長時間やっても平気になっていた。

浮きあがる前足

 そしてある時不思議なことが起きた。フッと前の足が浮いたのである!

 そもそも10:0くらいのバランスで立っているので、始めから前足は浮いているといば浮いているのだが、それがまるで反重力装置でも装着したかのようにふわっと浮き上がって・・・それで何?なんか役に立つの?って聞かれなくても答えちゃいますけど、蹴り!蹴りが出来出来なんです!軸足は充分に安定しているし、遊足は軽軽なんでパンパンっって、すんごく蹴れるようになっちゃって、嬉しくなっちゃいました!

テニスボールを踏みしめて

 10:0の半禅で軸足の感じが定まって、いい気分でいたんだけれど、天野先生からは前足の踵の使い方と前足側の腰骨周りに指摘を受けた。確かにそれまでは、10:0なので前足もその腰骨周りにも力も何も無く、言うなれば「虚」の状態になっていた。先生はそれを見抜いていて、そこに力を!と言いたかったに違いない。まずひとつは前足の踵でテニスボールをギュッと踏んでいて、その反発力で押し返されるような感じで・・・とのこと。そして腰骨周りは僅かな緊張を・・・。

秘伝中の秘伝・反重力装置オン!

 そんな半禅を組んでいると、ふとある推論が浮かんだ。10:0の半禅の前足踵にテニスボールを挟んでおくと、前足が浮き上がりそうになって、それを抑え付けているような感覚が出来てくる。そして抑え付けているんだけれど、浮き上がろうと反発してくる。そうするとこれは10:0ではなく、10:-2と言った感じになって、自分の体重がその分軽くなっちゃったような・・・。んーなんて嬉しいダイエット効果!ってそういうことじゃあない!

 つまり私の推論はこういうことである。仮に自分の体重が60kgだとしよう。半禅で10:0で立つようにすると、後ろ足には60kg掛かっている。しかし前足を前述のように引き上げるように使うと、それが12kg分、自分の体を浮き上がらせてくれる。ウソみたいだけど本当にそうなんだって!

それをやると軸足の負担が減るんだから!ここまでが自分で感じていること。そしてここからは推論なんだけど、もしその前足が-60kg分の浮力?を発生することが出来たなら、実質上、自分の体重はゼロってことになるじゃない!そうするともうこれはリニアモーターカー状態さ!ちょっとの力ですっ飛んでいくような速さが出ちゃうんじゃないでしょうか?

 そういえば佐藤聖二先生がこんなことを言ってたんです。「中国のある意拳の先生と立ち合いをした時に、膝を抜いて飛び出してくるから、どうにも対応しようのない速さがでてるんだよ」って。どうよ、富リュウの推論もあながち的外れでは無さそうでしょ。

調査依頼、半禅と這いとの取っ掛かりについて

 這いは禅の連続って言われてるけど、本当にそうなの?そんな疑問から、こんなことをやってみました・・・。荷重バランス10:0の半禅の姿勢から、次第に前足に荷重を移して行き、前足10で後ろ足0で、立ってみる。2、3日これを続けてると、んー、大腿骨→腸骨→仙骨→背骨といい感じに繋ながって、股関節→仙蝶関節がいい感じでハマッタぞ!!!

後ろ足もツッカエ棒?

 股関節→仙蝶関節がいい感じでハマッタのに気を良くして、半禅から前足方向へ後ろ足をツッカエ棒にして2、3歩進んでみる。そして向きを替えて(足を替えて)同じく2歩3歩・・・ん~なかなかいい感じにハマッテいる。今まであった腰のあたりの筋肉の負担感がまるで無くなっている。と、つかつかと歩み寄る怪しい影、天野先生の登場だ。「前の腰!そこをしっかりさせて!」・・・と言われるままに色々と工夫してみる・・・。先生も、ひねるんじゃなくて・・・とか、もっとこういう風に!とか色々と指導してくださる・・・。さてさて今度はどうなることやら、楽しみです。

推手、そして推手

 ここ2、3ヶ月で自分の推手は大きく変化した。やろうとしていたことは二つだけ。片足で立つ、そして前足に乗る。とにかく前に乗る。思いっきり乗る。充分に乗る。乗り切る。それに合わせて上体を真っ直ぐに落としていく、相手に寄りかかるのではなく、ソケイ部で吸い込んでちょっとだけ前傾させて。そして一歩を踏み出すときに次の一歩を腰で打つように前へ出て行く。考えていたことはこれだけ。それだけでずいぶん違う推手になってきた。

組手、やっぱり組手

 ここまでサクサクと軽快に動いていたキーボードを叩く指のスピードが、いきなり失速する。まるで牛の歩みだ。「組手」のことを書こうとするといつもそうだ。何故書きにくいのか・・・。

 ひとつには、その成果が目覚しいものではないということ。禅、這い、推手での稽古の手ごたえは、あるいは成果は、よく感じる。それに引き換え、組手ってやつはどうもよくわからない。もう少し時間が掛かるのかもしれないし、もっと回数をこなしたほうがよいのかもしれない。その時は「良く出来た」つもりでも、後からビデオを見ると全然だったり、その時に「あんまり良くないなあ」と思っても、人からは良かったよ、と言われることもたまにある。組手の最中は非日常的な精神状態にあって、何がどうなったのか、細かい事は覚えていない。相手にもらったダメージは体が覚えているのだが、相手を殴った記憶がほとんどない。でも組手が終わって「○○さんの蹴りが効きましたよ~」と話しかけると「富リュウさんの打拳を2、3発いいのもらっちゃいましたよ~」と言われ「えっ!」となる事もある。そういえば殴った私の手も痛い。もしかしたらこの非日常的な精神状態の中でも、冷静に何が起きているのかを覚えていられるようになることが、組手のスキルが、ある一定のレベルに達した事の目安なのかもしれない。

 ふたつめは、太気拳の組手が何をしようとしているのかが、わからないということ。殴る、蹴る、それをやっているのだが、どうも何かが違うようだ。新入りさんにはいい状態を保てても、各上の先輩には崩されっぱなし。はじめて1年2年の後輩でも、若くて元気のある奴には何発か貰ってしまうこともよくある。今年の夏の太氣会の合宿のテーマ、天野先生が示されたそれは「いかに殴らずに終わらせるか」ということであった。優先順位の一番目は、相手の突き蹴りを貰わないと言う事。それをかいくぐって相手の懐に入り込む。そしてこの時、入り込むと同時に相手を崩す。そして打てるなら打つし、相手がすっ転んでいれば、それまでだ。どうも既存の格闘技の経験やテレビ等の映像からの刷り込みで、突き蹴りを「当てる」ということを第一優先にしてしまいがちであるが、この辺からしてどうも違っているようだ。

 今日からの私の稽古のテーマ。その一つ目は、天野先生に言われたこと。「殴らないで終わらせる組手」をいかにして実現させるか。そして二つ目は、大関さんに言われたこと。「相手を良く見る」「相手の頭と肘、膝を常に自分の視界に捕らえておくこと」この二つに決定です!

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平成16年・春めいて

逃げる右肩

 組手の時に、手を前に出しすぎてしまうことをやめるのが、今の私の最大の課題だ。その原因はいくつか考えられる。ひとつめは気がせいて手だけが前に行き、体が残ってしまうから。もうひとつは顔を打たれるのが怖いから手だけを前に出してしまう。そしてあとは「打つ」ことにこだわっているから。打とう打とういう気持ちから手だけを前に押しやり、自分で自分のフォームを崩してしまう。

 ようく考えよ~♪姿勢は大事だよ~。今一度、自分の禅と這いを見直してみる。立禅ではちゃんと肘が自分の周りに着いている。這いでは、右足に乗るときに左肘が自分の周りにあって、指関節、手首、肘、肩、肩甲骨まではギュッとはまっていく感じだ。左足に乗るときには、右肘がちゃんと自分の周りに・・・アレッ無い!

 肩が逃げていく。肘も離れていく。まあ何と言うことでしょう!

際立つスケートの刃

 「足裏にスケートの刃の感覚をもて」これはかの有名なクラーク博士ではなく、天野敏氏の言葉である。一般的にフットワークを要求されるスポーツでは、初心者に対してカカトを少しだけ浮かせて、前足底の部分だけで立っているようにと指導することが多い。太氣拳ではちょっと違う。もちろんそういう使い方もするが、もっと精細に、つま先のみ、カカトのみ、内側荷重、外側荷重、といった使い方をする。要はケース・バイ・ケースで、それぞれを使い分けるってことだ。

 そのヒントとして先生が言われたのが前述の「スケートの刃の感覚」である。足の裏に一本の線を引く。足裏全体が地面に接していても常にその線を意識しておく。その刃で踏ん張り、それに沿って力を出す。禅、這い、練り、そして推手で、この感覚を磨いていく。そうするとだんだん体の動きにキレができてくる。

右きき上手

 私の私の彼は~♪♪左ききぃ~と、昔のアイドル歌手が歌っていた。あれはたしか麻丘めぐみの謡だったか・・・?

 唐突に先生が言う。「右利きにはさ、右利きの利点があるんだよな」と。これは別に、右利きと左利きのどちらが有利なのか?という話ではなく、何故人間は両利きではなく、左右どちらかが利き手、利き足になっているのか?という問い掛けである。先生曰く「両利きだったらさ、あっと思った時にどっちの手足を出せばいいのか、咄嗟に判断がつかないじゃない。だから人間はさ、必ずどちらかが利き手・利き足になってるんだよ」って。有線から麻丘めぐみの歌が流れると、先生のこの言葉を思い出す。

 子供の頃、ひ弱だった私はテレビアニメのアタックNo1を見て、左右両利きに憧れたものだ。利き腕である右腕の筋力も貧弱だったので「両利きだと友達に自慢できるかな」などと思い、一時は左手で箸を持ったり字を書いたりと、無駄な努力に励んでいた。

 半禅には左右差がある。右足が軸足の時には、左足と左手が前になる。たいてい、新しい課題に取り組もうとしたときに、はじめにその課題が上手く行くようになるのは、この右軸足の半禅である。右足のほうが利き足なので筋力もあり、左に比べると器用に動かせてコントロールが効くからだ。逆に左の半禅では、なかなか新しいことに馴染むのに時間が掛かる。

 一方で利き手・利き足がデメリットとなることもある。去年の夏頃だったであろうか、推手の際に天野先生から「その貧相な右手をなんとかしろ!」と何度も注意されていた。左手では、相手の圧力を全身で受け止めるような体の使い方が出来ているのに、右手では、それが出来ないでいた。右手は腕力があって器用に動かせてしまうので、どうしても手だけで対処しようとしてしまうようで、その癖がなかなか抜けないでいた。

 「禅では出来てるんだよ。這いでも練りでも、手だけじゃなく、全身のまとまった力が手に乗るようになっているじゃないか。なんでそれが推手できないんだ!無いものを出せないのはみっともないことじゃない。でもね、あるものを出さないのはみっともないことなの。だから「貧相」なんだよ」―――その貧相な右手を解消するには結構な時間を費やしたような気がする。そしてこんなときには不器用で弱っちい左手が、右手の先生となる。左手が前の半禅を組み、自分の体に問い掛ける。「左手はどんな感じ?左肩や背中はどうなってる?下半身との協調は?」それをしっかり確認してから、右手を前に半禅。「ハイ、右手クン、左手先生の真似をしてくださいね・・・」

前足はつっかえ棒?

 低い禅をやっているとかなり足腰に負担が掛かる。当然のことながら、はじめは右足を軸にしたほうが良く出来る。そんな低い禅が左右ともに板についてきた頃、天野先生から指摘を受ける。「前足の膝がつま先より前に出てちゃいけないよ。自分の目でつま先が見えるくらいにしておかないと。前足はつっかえ棒みたいな感じ。踵は着かないで、つま先だけを地面に着けて、後ろから押されたときにグッと踏ん張れるようにしてごらん」「そ、そうですか・・」戸惑いを隠しきれない富川リュウ。やっと低い禅が板についてきて良い気分でいたのに・・・たしかに今までは低さにこだわるあまりに、前足もかなり曲がっていた。そして踵も地面に着いていた。それをまた修正しなきゃ。

 それでもこの頃は一週間で成果が出る。日曜の稽古で先生に指摘されたり、新しいメニューを指示されて、毎朝の自主練5日間で体がそれを覚えてくれる。月曜の立禅は居心地が悪い。火曜には右の半禅ができてくる。木曜あたりには左も出来てくる。そして当然、この体の使い方を這いや練りにも応用していく。

 ときに、左が右の先生となり、右が左の先生となることが、短い周期でやってくる。前足のつま先で地面をポワントする(※)と、そのさりげなさとは裏腹に前足のハムストリングスがヒクヒクしてくる。そしてこれをうまく引き出してやると前足が舵(カジ)兼スターターとなり体を前へ運んでくれるようになる。こうなるまでに5日間、ある時は右の方がよく出来て、またある時は左のほうが良く出来る。そんなこんなを繰る返すうち、左右ともに出来るようになっちゃうってえあん梅だ。

 右は左を助け、左は右を補う。右には右の得手があり、左には左の良さがある。男と女、陰と陽、プラスとマイナス、表と裏。ものごとは表裏一体。身を以って森羅万象の真理に目覚めた富川リュウであった。

 (※)ポワント=POINTのフランス語読み。バレエやダンスなどで足先で床を指差すしぐさのこと。

腰だけで歩く

 低い禅の延長で低い這いをやってみると、これがまた足腰にキツイ。「足で動こうとするからキツイんだよ。腰だよ、腰だけで歩くんだよ」先生が見本を見せてくれる。なるほど姿勢は十分に低く重い感じではあるが、同時にスムーズで力みがまるで無い。そうっと真似してみる。「それじゃダメだよ。体重が移動していない。首がずっとまん中にあるじゃないか。ちゃんと一歩一歩、右足に乗る。左足に乗る!」

謎のトコトコ歩き

 「よしそれじゃこれをやってごらん」這いの稽古もそこそこに、練りの稽古を指示された。両手をぐるぐる廻しながら腰だけで歩いて、前進後退を繰り返す。そしてどんどん速度を速めていく。「もっと速く!」先生の激が飛ぶ。これは練りのトコトコバージョンである。名づけて「謎のトコトコ歩き!」何故なら動きがとっても怪しいのだ。

 日が西に傾く黄昏時、拳士たちの影がぼうっと長くなる。先生は日に背を向けて、俺の影を見ろと弟子たちを促す。首の位置がよくわかる。先生の影は、一歩一歩で頭の位置が右へ左へと移動している。ところが私の影は、足を踏んでも頭の位置はまん中のまま。これじゃあいかんと、頭を一生懸命左右に振ると目が回る。「振るんじゃなくて、軸は真っ直ぐで平行移動するんだよ」そうは言われても、これはなかなか難しい。さて明日の月曜から特訓だ。金曜までに出来るかな?

ミモフタモナイ

 3月に入るといよいよ春めいてきて、桜の開花予想などがニュースになる。今年はまた開花が一段と早まって、3月末にはもう満開の見ごろを迎えるらしい。去年より早い4月4日が太氣会の花見の予定日であるが、その時にはもう桜が散ってしまっているのではないかと心配になる。「でも先生は花が無くても飲めればいいんですよね」などと悪態をつくと「そんなミモフタモナイことを言うなよ」と切り返される。

 手元の辞書によると、[身も蓋もない=言葉が露骨すぎて憂いも含みもないこと]とある。なるほどこれは、いつもの私の悪い癖。時に、気づかないうちに露骨な言葉で人を傷つけてしまう。まあ先生は心もタフだからそんなことはないだろうけど、世の中にはそうじゃない人も多いようで、私の心ない言葉に傷つき、去っていった数々の女性達・・・あの頃は私も若かった・・・などと感傷にひたっている場合ではない。組手なのだ、もうすぐ。

探手はバッチリ

 ここのところの進歩には目覚しいものがある。一週間でかなり身体が変わってくるのが実感できる。探手(※)の仕上がりはバッチリである。探手で激しく動き回っても肘を自分の周りに置いておけるようになってきた。大きく打ち込むときにも手だけではなく、身体ごと前へ持っていけるようになった。

 自分なりに分析してみると、探手が変わった事には三つの要因が思い当たる。ひとつは肩甲骨がよく動くようになってきたこと。これにより、肘の動きが小さな範囲であっても前腕に圧力が乗るようになってきた。二つ目はトコトコ歩きの要点である、体重移動が片足ずつに乗るようになってきたから。そして三つ目はトコトコ歩きを繰り返す事で肚とそ頚部に柔らかさができてきたこと。そんなこんなで探手の仕上がりはバッチリである。しかし一抹の不安が残る。花見の組手の前前日まで、2週間も出張していたし、その前の週も稽古に行けなかったので、まるまる3週間も対人稽古をしていないのだ。

 4月2日金曜日の最終便で羽田へ降り立つ。ややお疲れモードである。4月3日土曜日、元住吉の稽古に1時間ほど参加。推手をやって体の感覚を取り戻す。「ずっと練習に出てなかった割には、身体が良くまとまっていたね」と先生に言われ嬉しくなる。出張先でも毎朝稽古していた甲斐があったというものだ。さて4月4日は花見で組手で、しかも今回は佐藤聖二先生ひきいる拳学研究会との交流会も兼ねている・・・。古くからの先輩達はずっと以前に拳学研究会の方々と手合わせしたことがあるようだが、私は佐藤先生に会うもの初めて。はてさてどうなってしまうのでしょうか?

 (※)探手(たんしゅ)とはボクシングの練習でいうところのシャドウボクシングに相当するもので、架空の相手を想定して攻撃や防御の動き行うものです(この修業記を初めから読んでいない方のために補足しました)

太気拳拳学研究会

 「ずいぶんいっぱいいるな~」15分ほど遅れて岸根公園に到着すると、立禅を組む怪しい人影がいつもより多い多い。ざっと数えても40人近くいる。佐藤先生の姿を見つけ、さっそく挨拶に行く。にこやかに「よろしくお願いします」と頭を下げられる佐藤先生。その丁寧さに、こちらの方が恐縮してしまう。

 準備体操をして、立禅や這いなどを行い30分ほどが経った頃であろうか、天野先生から「集まって!」と号令がかかり、それぞれの紹介がおこなわれた。そして、まずはお互いに見知らぬ相手と推手をしましょうとのこと。自分は胸を貸していただくつもりで出来るだけ先輩を思われる方々と組むようにと心掛けた。そんな中、僭越ながら佐藤先生とも推手をしていただける機会に恵まれ、とても光栄であった。佐藤先生との推手では、一旦ちょっとでも崩されると立て直す隙を与えずに一気に発力に持っていかれる。そしてあっという間にすっとばされてしまった。天野先生とはまた何かが違い、その強さと怖さが印象的でありました。

今後の課題

 自分の組手は、まずまずの出来であった。とりあえず今もっているパフォーマンスは出せたと思う。それに何より楽しんで組手をできたのが良かったと思う。でもなんとなく「このままでいいのだろうか」という、もやもやした感じが心の中に漂っている。自分の稽古の方向性は間違ってはいないと思う。前回よりも進歩はしている。だけど、どうも後手に回って守っているだけのようにも感じる・・・。

 花見の席で、A野先輩がいいアドバイスをくださった。「富リュウもいい線までできてるよ・・・。ただ一発の怖さがないとね・・・それがあるのとないのとでは大違いだからさ。リーチを生かしてポーンて自分の得意なのを出せるようにしてみたらどうかな。これをもらうとヤバイって、相手に思わせる怖さがないとね」って。心の中のもやもやがスーっと晴れていくような的確なアドバイスであった。「そうだよ、それが足りないんだよ!今の自分には――」

 拳学研究会の方々との交流を通して、また違った角度から自分の拳法を見直すことができました。そしてなにより太気拳を志すこんなに多くの仲間達がいることを嬉しく感じました。今回お相手くださった拳学研究会の皆様には、この場をお借りして御礼を申し上げたいと思います。ありがとうございました。そしてまた、胸を貸してください。お願いします!

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平成15年・暖冬みたい

組手は怖いか楽しいか?

 今年はずいぶんと暖冬のような気がする。それでも11月も下旬にさしかかるとやっと冬らしく冷え込んできた。こうなってくると世間はもう年末商戦の雰囲気だ。デパートや商店街では早くもクリスマスソングが流れ、あわただしさにいっそうの拍車をかける。年末の喧騒の中にワサワサと飲み込まれていく人々。そんなことはどこ吹く風と、ひとり静かに禅を組む。心がゆったりと落ち着いて、身体が静かに整ってくる。これで二日酔いさえなければ最高なのだが・・・。昨日は飲みすぎてしまった。いかんいかん。

 忘年会組み手に向け、ふだんは推手が対人稽古のメインとなるが、ここのところ何回かは組み手の稽古も行われている。以前ほどに怖さは感じなくなっているが、どうも身体の動きが鈍い。馴れ、といえば馴れなのだろうけれども、威圧感のある相手には踏み込んで入っていくことができないし、格下の相手には、相手のどこを打てばよいのかが判らない。先生、前に出て行けないんですけど・・・私が情けない質問をする。

 師からのアドバイスは、頭を沈めてうねるようにジグザグに入っていく。もうひとつは膝の角度。これが深く取れていれば、一歩の踏み込みが大きく出せるとのこと。そして禅のときのように、腕も脚も、身体全体をリラックスした状態に保っておくこと。これが一番大事。あとは来たら避ければいいし、空いていれば打てばいい。――そうは言っても、言うは易く、行うは難し。

 それでもだんだんと足が動くようになってきた。あとはそれにどう気持ちを載せていくのかが問題である。あと一歩前に出る勇気、それさえあれば・・・。「勇気?そんなものは要らないよ。俺だって怖いよ、そんなもん。正面から突っ込んでいくなんてさ。怖くてそんなことできないよ。だから横へ廻ってさ、いい所から攻撃するんだよ。5分と5分じゃあ、やらない。8/2か、悪くても7/3くらいでやらないとね」んーなるほど。勇気・・・じゃないんだ・・・。組手のたびに、目尻に青タンを作り、頭にコブを作っている。それでも組み手は楽しいと思えるようになってきた。禅も這いも推手も、そのためにやっているのだから。

徹夜のお仕事

 装置が壊れた。私のお仕事は、産業用の装置の修理。今回の故障はやっかいだった。一箇所が直ると、また別の所が壊れる。こんなことを延々と10日間もやっていた。そして後半には、徹夜作業を2回もした。装置が止まってしまうと製品が流れなくなってしまうので、工場の担当者も必死だ。火曜日に徹夜、朝方1時間だけ会議室のソファーで仮眠を取り、水曜日はそのまま夜11時まで仕事。終夜で検査ランニングをすることになり、なんとか帰宅を許される。ランニングの結果がNGで、木曜日も朝9時から仕事。そしてまたまた徹夜。金曜の朝になって、なんとか生産できる状態になり、午前中の打合わせのあと、やっと開放された。午後は帰宅して爆睡――。

 修理が始まって第二週目、なんでこんなに辛い目に逢うんだろうと、恨み節のひとつも出そうになったけど、頭を切り替えて「これも拳法の修行のうちだ」と考えてみた。R田先輩の言葉を思い出す。一晩中でもやっていられるような組手が理想なんだよね・・・。師の言葉も脳裏をかすめる。やれることをやればいいんだよ。やれないことをしようとするから、無理が出る――。そうか、組手やってるつもりで仕事しよう。そう思い立ち、実行した。嫌なことや不安な気持ち打ち消して、無心になり、肩の力を抜いて、目の前のやるべきことをひとつずつ淡々とこなしていった。――それから数日後、2度の徹夜をくぐり抜け、不思議とそれほど疲れてなかった。以前の自分には考えられないことだ。体力に自信がなく、神経質で几帳面。ハンで捺したような規則正しい毎日が好きな自分。それでも今は、こんな状況にも耐えられるようになった。体力面でも、精神面でも、ずいぶん大きく成長したと思う。太気拳のおかげだ。

 そしてこの試練から得られたものも大きかった。力を抜くこと、手は抜かないで、もっと力を抜くこと。それが脱力の極意。どんな作業も公園の散歩と思い。気を煩わせないこと。気は使うけど、気を煩わせない。ココロ晴れやかに朗らかに、無心になること。よし、明日からの探手、組手は、こんな感じでやってみよっと。

 かくしてこれが富川流、拳法/仕事/拳法の3段活用フードバッグ技法である。拳法やって、仕事も拳法のつもりでやって、そこで得られたことをまた拳法に生かすだ。

 あーあ、その真剣さが仕事にも生かされればねぇ・・・。妻が嘆く。

本番前日

 組手という非常事態の中でいかに正気を保つか。無心に「ボワン」となって師に挑む。すうっと師の半拳が僕の鼻先に当たる。「先生、全然見えなかったんですけど・・・何が悪いんでしょう?」「意識の切り替えが出来てないな」と一言。あっそっか。「ボワン」があって「カッ!」があって、その両方を使い分ければいいのかな・・・。あるいは「カッ!」の状態でリラックスしているような・・・。

島田道男先生の教え

 代々木公園に集まって、組手に入る前に通常の稽古が行われる。気功会のメンバーもあちこちに見られ、それぞれに禅を組んだり、這いをやったり、ひさびさの再会に立ち話に興じる者もいる。島田先生が来た。練りをやっていると。「ダメだよ!そんなんじゃ」とゲキを飛ばされた。この先生は見た目も怖いが、指導も怖い。それでも色々とアドバイスをいただいた。「押されても動かないようなどっしりとした禅じゃないとダメだ」「肩を前に出すな」「手の力を抜いて」。最近、肚が出来てきてるなと思っていた僕に「肚が全然出来てないよ。(自分の肚を指して)ココが全然ない!」と言われたのは、かなりショックだった。ううっ・・・禅と練り、またやり直しだ・・・。と思った矢先、天野先生の「あと10分したら始めま~す!」の掛け声。年の瀬の日曜日、公園の片隅で殴り合う変な大人達。きっとまわりの人達には、そう見えたに違いない。

 今回の組手は、気功会のM井さんとキー坊(鉄拳タフ)の気合の入りようが凄かった。なんでも気功会に殴りこみに行くっていうレスが2チャンネルにあったそうで、島田先生も楽しみにしていたそうだけど、結局、誰も来なかったようで・・・。その気合の矛先が太氣会のメンバーに向けられちゃったってこと?

 気功会M井さんと太氣会のR田さんの組手では、「何やってんだお前ら!」と天野先生に頭をはたかれ、島田先生にも「そんな力んでちゃあ、ダメだよ。力を抜け!」とたしなめられてた。力と技がぶつかり合う壮絶な組手に見えたけど、島田先生に言わせると「ダメだ、そんな力はいってるんじゃ、ハイ、終わり」って。組手が終わってからM井さんに「お疲れ様です。今日は気合が入ってましたねー」と声をかけると、「いやー全然疲れてないんですよ。ちょっと気合が入りすぎて、空回りしちゃったな・・・」なんて言ってました。

 そしてそんな上級者達の組手とは裏腹に僕の組手はしょぼかった・・・。なんか僕って、ちゃんとした組手が出来るようになるんだろうか・・・。島田先生の一言で落ち込んで、またまた組手で落ち込んで、んーこれはもう、酒を浴びるほど飲むしかない!っと忘年会に突入したのでありました。

どこでもドアはどこにある?

 それにしてもみんな強くなっていてびっくりです。O津さんも、K屋さんも、K木くんも、K屋くんも・・・みんなKだな。とにかくその上達振りは目を見張るばかりです。毎朝立禅組んでる富リュウが落ち込むのもわかってもらえるでしょ。もう後輩にケツ叩かれて、イヤーンばかぁ!と言いたくなっちゃいますよ。

 一週間後、稽古の後の飲み会で天野先生の話を聞く機会があって、O津さんやK屋くんのことをずいぶんと褒めてました。「K屋なんかはさ、前の日まではすぐ横向いちゃってたんだけど、本番当日はちゃんとやってたよ。あいつの中で扉をひとつ開けちゃったんだよな。その扉を開けるとさ、新しい世界に入っちゃうんだよね。太気拳は」「せ、先生、やっぱり僕の組手って、しょぼかったですよね・・・」「富リュウも良かったよ。とりあえず自分の持てるもんは出せてたじゃない。それができれば十分でさ、あとは次の日から足りないものを補っていくような稽古をすればいいんだから・・・」と思いがけずのお褒めのお言葉・・・。ウルウルと嬉し涙にむせび泣く富リュウ。はてさて僕の扉はどこにある?

 ドラえもんにたのんでみようかどこでもドア

 未来の自分が見えるかも。←これって短歌になってます?

 そういえば、前から不思議に思っていたんだけど、天野先生の本、タイトルが「太氣拳の扉」――つまりそういう意味だったのね。

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平成15年・秋桜の季節

いつも答えはやってくる

 答えが見つかった時、いつも思うことがある。だったら先生、このことを初めから言ってくれればいいのに……その方が楽だし、その方が早いじゃない。でもこうも思う。そのプロセスに意義があるのかな、とも。

 人は安易に解答を求めすぎる。そしてそれは、たったひとつだと信じている。でもきっとそれは違うんだと思う。聞いてすぐに解ったことは、本当には理解できていない。しかもそれは、たくさんある答え中のひとつに過ぎない。その人にとっては正しい答えであっても、それがそのまま自分に当てはまる訳ではない。もちろん当てはまる場合も、たまにはあるんだけど。

 先生からは色々言われる。動き方を指示されることもある。こういうのをやりなさい。抽象的なアドバイスを受ける場合もある。雲の上を歩くようにしなさい。何を信じて太気拳をやっているのだろうか。以前はぼんやりとしていたものが、今ははっきりとわかっている。それはいつも答えは自分の中に在るということ。ときに搾り出すように。ときに滲み出すように。ときに湧き出すように。必ず答えはやってくる。培うこと、それが私の太気拳だ。

一本の線が見えてくる

 体の中に一本の線が見えてくる。それは立つための軸であり、動くための方向。そんなことを言っていた。そしてそれをずっと探していた。立禅のなかで、這いのなかで、探手のなかで、推手のなかで……。おぼろげに、それらしきものが体の中に育ってきている。養育費はただ。

肚のもやもや

 鼠径部で吸込むようにするとさ、肚のあたりにもやもやするものができてね、それが脚とかわき腹とか体を動かしてくれるんだよね。そいで、あとこれ(指差し歩きのフォーム)これができてればそうそうやられないよ。そんなことを先生が言う。早く私も、そう言えるようになりたいものだ。低い姿勢の立禅や這いをすると、足腰が張ってくる。そこで、もっと力を抜いてやってみる。鼠径部で吸い込むように立ち、肚は出っ張るでもなく、引っ込めるでもなく。しかしヒクヒクする感じ……。これって何?

頭で手を抑える

 首で肩を作る。頭から肘までが一体となる感じ。頭で手を抑える。手に頭が乗っていく。立禅と這いと練りと探手でこれをやる。動きが大きく早くなるほどにリキミが出てくる。肚は常に軟らかくヒクヒクさせておく。リラックスして一瞬の緊張を引き出す。打拳に頭を乗せる。上体が流れる、いかんいかん。足の踏み位置を重視。足が踏んでそこに頭が載っていてそれを打拳につなげる。ってことは自分のまわりだけに手を置いておくってことかしら? タン、ハツ、カシラ、レバーはたれで。

レクチャー

肚のもやもや?上半身と下半身を継なげる?脚の力を手に伝える?9月と10月は、わき腹、肚、内もも、このへんの連携を重点的に稽古していた。それはざっとこんな感じだ。

 立禅と半禅において、
 頭を突き上げて肘を引き落とす。
 咽のゴックンの感じを肚の真上に持ってくる。
 右上腕の内側(脇の下)と右わき腹(A)の充足感を味わう
 左上腕の内側(脇の下)と左わき腹(B)の充足感を味わう
 右の内ももの意識=C
 左の内ももの意識=D
 肚をカスガイとしてAとDを継ないでいく
 肚をカスガイとしてBとCを継ないでいく
 肚をカスガイとしてAとCを継ないでいく
 肚をカスガイとしてBとDを継ないでいく

這いでも同じようにやる。
 肚をカスガイとしてAとDが継ながっていて、BとCが継ながっている感じで這いをする。
 次は、 
 肚をカスガイとしてAとCが継ながっていて、BとDが継ながっている感じで這いをする。

練りも同じようにやってみる。
 肚をカスガイとしてAとDが継ながっていて、BとCが継ながっている感じで練りをする。
 次は、
 肚をカスガイとしてAとCが継ながっていて、BとDが継ながっている感じで練りをする。
 最後には、
 咽と肚だけ意識しておくと、肚を中心として自然にABCDが連携して動いてくれるように
 していく。

まあ、文章にすると長ったらしくなっちゃうけど、絵に描いてみると意外と単純。自分の身体でやってみると、そんなに難しい事ではない。やっぱり型(やり方)が重要なのではなくて、要はそのとき自分の体がどう感じているかってこと。あとは、継ながる感覚を自分の中から滲み出させるための工夫を皆さんもやってみてください。おわり。

毎日違う自分になる

最近では毎日新しい発見がある。毎日違う自分になっている。外見の変化は目に見えないかもしれない。まわりの人には気づかれないことかもしれない。でも自分の中は確かに変化している。これってとっても素敵なことだと思う。

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会員・会友員のテクスト 富川リュウの太気拳修行記

平成15年・初夏のたわむれ

謎の指差し歩き

 「できることをやっていてもしょうがないんだよ!」師の叱責がとぶ。“なんば歩きで綱渡り”をやっていたときのことだ。師の言葉がつづく。「できてることを何十回、何百回やったって意味がないんだよ。自分に足りないものは何かということをよく考えて、それをしっかりと見つめて、それを乗り越えていくことが、太気拳の稽古なんだって、俺は思うんだけどな」と。どうも人間とは弱いもので、できるようになったことに固執しがちだ。それを繰り返す事で悦に入ってしまう。しかして師はその甘えをいっさい許さない。できるようになったことを褒める前に次の課題を示される。そして次はこれをやりなさいと、“謎の指差し歩き”を指示された。

 “謎の指差し歩き”なるものは、それまで一度も見たことのない動きだった。だまってやってはみたものの、それが何を意図しているのかがさっぱりわからない。だから私にとっては“謎の”〇○○なのだ。何もわからないまま見よう見まねでそれをやっていると、そこかしこで「肩をしっかり返して!」「もっと指で中心を差すように!」「最短距離を三角に動かして!」「もっと腰を落として!」とアドバイスがあった。そして時には速く、またある時にはゆっくりとやるように、と言われた。

 果たしていったいこれは何なのか?

 どうも動きがぎこちなく体に馴染まない。しかし答えを探す事も稽古のうち。それが太気拳の稽古というものだ。「動きがぎこちなく体に馴染まない」と感じているのであれば、「身体に馴染んでスムーズに動けること」をテーマにして反復練習すればいいのだ。

立禅レボリューション~関節ハマッテますか?~

 稽古のあとの雑談の合間に、「こう、だんだんやってるとさ、肩の関節がハマッテくるんだよな。まあ肩と言わず何処といわず、指や手首や肘、膝、全部の関節がハマッテくるんだよ……」師のそんな話を一年ほど前から小耳にはさんでいた。「ああた(あんた)関節ってもんはね、脱臼でもしてない限りはハマッテて当然じゃないのさ!」と耳元で常識の小悪魔が囁く。しかして師の言いたかった事は何なのだろうか……富リュウのこの身の上に、はたして関節のハマル日が訪れるのだろうか。「先生、僕でもいつかは関節ハマルんでしょうか?」「んー。富川はもうすぐだよ、あと3ヶ月くらいかな。ちゃんとハマルよ」そ、そ、そんなことを言われてしばらくして……ハ、ハマッタのです。腰が、首が、股関節が……。

 腰のハマッタ記念日:4月18日金曜日、大船にて。
 腰のハマッタ状況:這いの稽古をしているとき、左足への重心移動の際に腰が後ろに残り気味だった模様。その際、先生がサポートしてくださって、腰をそっと押してくれたその瞬間、ハマッタ。

 首のハマッタ記念日:5月9日金曜日、都内某所にて。
 首のハマッタ状況:立禅のあと揺りをしていると、どうも首の具合が悪く、どうしたものかと色々と工夫していて後輩の話しを思い出す。その後輩は、以前ある意拳の先生から「背骨が圧縮される感じ」と言われたけど意味がわかんなかったとのこと。頚椎を圧縮してみる。そしてハマッタ。

 股関節のハマッタ記念日:5月28日水曜日、朝の出勤時。
 股関節のハマッタ状況:朝の出勤時、歩道を歩いていると、尻の股関節あたりに違和感が……。歩きながら少々調整してみると、ハマッタ。

 さて、関節がハマルと何かいいことがあるのでしょうか。一言でいうと楽になります。腰がはまった時から、腰に負担がなく疲れない這いができるようになりました。立禅でハマッタ首の感覚を這いにも使ってみると、視点がよく定まって、なおかつ視界が広がったようにように感じました。またその中で、意識が目標物に絡みつくような感覚も出てきています。股関節がハマッテからは、半禅の際に足裏の真上に骨盤が乗るようになり、また背が伸びたようにも感じました。そして日常生活の中でも立っていることや歩いている時にとっても楽になりました。

進化する這い~面がよじれる~

 春先から天野先生に指導されている這いは、捩じる力で軸を保つ、自然な螺旋のねじれで姿勢を維持することがポイントです。左足一本で立つときに、左の肩と腰を自然に引いて、右の肩と腰がやや前へ出て行きます。しかしこれは楽ではあるのだけれど、どうも力が感じられない。そしてときに振らついてしまうのです。這いの極意はただ真直ぐに安定して立っていればよいのではなく、どの局面を切り取っても、そこから瞬時に前へ、あるいは後ろへ、素早く動ける状態であるはず。さればどうすればよいのだろうか。「先生、なんかふらついちゃうんですけど…」「もっと腰を落として、股関節の正面側(鼠径部)で吸い込むようにしてごらん」とのこと。なるほど確かに安定感がある。しかし何かが足りない…何かが…。そこで引いている左肩の付け根、つまり脇胸のあたりでも吸い込むようにしてみた。ってことは脇胸を引き込んでも肩はやや前にあるように。んーこれはいい感じだ。そこそこ安定感が出てきたぞ。

 そして一ヵ月後、それでも這いがいまいち安定しない。ふと「ヘソか?」という思いが脳裏をかすめる。左足で立つときに左腰を引いてヘソも左を向いていた。これを左腰(わき腹)を引きつつもヘソの意識だけを中心の目標物に向けておく。うん、これでバッチリ。なかなか安定感がある。

 ここでちょっとおさらい。左足一本で立つときに、左の肩と腰を自然に引いて、右の肩と腰がやや前へ出て行く姿勢が基本。だけど肩とヘソだけちょっと残す。つまり左のわき胸を引きつつも肩をやや前に残す。そして左の脇腹を引きつつもヘソの意識を中央に残す、という具合になる。

 この感覚がわかってくると体の面の使い方に応用が利くようになってきた。面というのは両肩から胸、腹、腰骨までの大きなスクエアな面のこと。この面をよじって使うことを覚えると、自分の身体の使い方に新しい可能性が見えてくる。

 私が思うに、これまでの稽古では、肩腰の一致を第一段階のテーマとしてやってきていた。腰と肩が一致して動くことで出る力を感じること。そのために肩と腰のつながりをしっかりと造り上げること。そして第二段階ではこの面をよじって使う。各部の繋がり合いがあることを前提に、各部の連携を感じながらそのスクエアな面をよじって使う。そういうことなんじゃないかな、と思う今日この頃なのです。

 ここへきて自分の体を不思議に思う事があります。太気拳をやっていて、初めは動かない稽古やゆっくりと動く稽古ばかりなんだけど、ある日ある時、急に速く動けるようになるのです。そのきっかけは、自分の軸が感じられた時だったり、関節がハマッタ時だったりします。「先生、なんかこうピタッとハマッて、固定された感じが得られた後に、速く動けたりするのって、なんか矛盾してるんてすけど、出来ちゃってるのって何でですか?

 自分でもなんか不思議なんですけど」「それはね、禅や這いでハマルってのは、好い所がわかるってことなんだよ。好い所ってのは、自分の姿勢の中心の好い所、そして自分の軸の好い所。だからそれが身につけば、動くって言うのは、打拳を打つにしても歩法で動くにしても一番効率のよい無駄のない動きが可能になるのさ。だから位置が固定されたと感じたあとに、すごくよく動けるようになってる自分を発見したりするんだよね」とのこと。なるほど・ザ・太気拳ワールド、である。

指差し歩きから打拳へ

 ボディの面をよじって使うことを覚えると、指差し歩きにある種のまとまりができてきた。そしてその意図する所が見えてきた。これはつまり打拳を打つ方向に身体全体のベクトルを調整していくものなのではないだろうか。右左右左と一歩一歩しっかりと重心移動させながら、指で中心を差す動作ができてくると、足の踏む力、前へ移動する力が指先に乗ってくる。そしてもうひとつ、一歩一歩の重心移動の際に肩から肘までをしっかりと返すこと。これができないことには打拳に重さがでてこない。つまり指差し歩きの意図する事は、一つには指先を使って力を出す方向をしっかりを身につけること。もう一つは身体の返しをキチンと肘まで伝えること。この二点なのではないだろうか。

 人の身体というものは、末端の方がよく動かせるようにできているらしい。いちばん器用に動かせるのは指と手(掌)。次は前腕、肘、二の腕、肩という順番だ。そして身体の基幹部である、胸、わき腹、腹、背中などに至っては、中々思うようには動かせないものだ。

 打拳を打つ師の姿を後ろから見ていると、肩甲骨や背中の細かい筋肉までもが小躍りするようにピクピク動いている。そして推手をしているときの師の脇腹や脇胸は、ダイナミックに躍動し、力強く動いている。ほほぉ~これは新発見じゃあ!そうとわかれば富リュウもこうしている場合じゃあない。さっそくそれを目指さねば。でもなんか、やっとスタート地点に立てたように感じる。いや待てよ、これは元に戻ったという意味じゃあない。これは新たなステージのスタート時点なのだ。「先生!第一ステージクリアしたので、第二ステージに入りまーす!」。

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平成14年・冬の章

組手の季節

 お花見で組手をやったのが、ついこの間のことのように思い出される。あの時はとっても緊張していた。始める前から心臓がバクバクしていた。立禅をしていても気もソゾロといった感じだったし、探手をやっていても動きが硬い感じがあった。そして組手が始まって、なんとかそれなりには動けたが、新たな課題も見つかった。足が前に出て行かない。下半身を残したまま手だけで打とうとするので、上体が流れて腰が引けたような姿勢になる。当然軸は崩れ、体の統合は失われ、打拳には力がのらず、防御も穴だらけとなっていた。

 季節は移りかわり、今は冬。あれから8ヶ月の月日を経て、富リュウはひとまわり成長した。11月に一度か二度、ライトな組手をする機会があったが、怖さを感じなくなっていた。もちろん格上の先輩と組手をやって、勝ててる訳ではないのだが、安心感というか、なんとも言葉では表現できないのだが、身体に任せるというか、姿勢さえ崩れなければなんとかなってしまう――という感覚がいつの間にか身に付いていた。

 そして12月15日、毎年恒例の忘年会組手が行われた。今回はとってもリラックスして組手ができた。体が自由に動く。普通の方々からは奇異に思われるだろうが、楽しい殴り合い――といった感じだ。何人かの先輩から「お前、強くなったな」と言葉をいただいた。素直に嬉しかった。「気負いなく、自由奔放な感じに動いていたのが印象的だったよ」とも言われた。

 組手って楽しいよな。いつも天野先生はそんなことを言っていた。以前の自分には、それがどういうことなのかがさっぱり分からなかったが、今回は自分でもちょっと楽しかった。きっと俺は強いんだぞと自慢したり、自分の強さを知らしめて優越感に浸るということではなく、もっと内側から湧き上がってくる自分という存在を確認し、それを表現するのが組手なのだと思う。だから組手って楽しいよな、ということになる。富リュウもその世界に一歩足を踏み入れてしまったようだ。「自己表現のための組手」それをもっと満喫してやりたい。

無重力の這い

 這いの稽古をしているときに天野先生がひとついいことを教えてくれた。「後ろから前へ重心を移していく際には、前足を引き上げるように使うんだよ」とのこと。それまでの自分のやり方は、前足にぐぅ~と乗って行くようにしていたので、足腰にけっこう負担を感じていた。

 毎朝の自主練で、さっそくこの這いを試してみた。前足を引き上げるように使いながら移動してみると、確かに足腰の負担が軽くなる。この這いを2度3度と繰り返す内に、新しい体の使いかたを発見した。名づけて「無重力の這い」。前足を引き上げながら、頭頂部も引き上げるように使うことで、よりいっそう軸が安定し、腰を落としていても筋力に負担がかからない這いができるようになった。これは今世紀最大の大発見!と言っても良いくらい私にとってはエポックメイキングなことだった。この状態を維持して探手をしてみると、これがなかなかいい具合で、まっすぐな姿勢のまま前進していける。ムフフフ、なんだか楽しくなってきたぞ……。

ぶらぶら立禅

 肘の位置が落ち着くべき所に落ち着いたようだ。肘の位置が決まると前腕がじゅうぶんに脱力できて、ふらふらとどこにでも行けそうな感じになる。それとは裏腹に二の腕が疲れてくるようになった。先生に聞くと「疲れないような位置を探せばいいんだよ」と言われるだろうと思い、しばらくは自分でそれを探していた。前腕を立ててみたり、横にしてみたり、色々と試してみるのだが、どれもかんばしくない。一月ほどやっても進展がなかったので、やっぱり聞いてみることにした。「手首の角度を工夫してみては」と意外な答えが返ってきて、なるほどそれには気づかなかった。手のひらをちょいと下向きに、あるいは内向きに、色々と試してみた。具合のいいところが見つかると、確かに二の腕の疲労は軽減された。

ボロボロ推手

 12月の15日の組み手の後、ちょっと腰を痛めて稽古を休んでしまった。年が明け1月に入ると、こんどは土日出勤が重なり、結局、まるまる一ヶ月間も稽古に参加できなかった。「でも自主練はやってるから、そこそこ行けるだろう」という希望的憶測とは裏腹に、推手はボロボロだった。軸が定まらず、足はタタラを踏み、息は上がりっぱなし。天野先生からは腹がガラ空きと言われ、ヒザ蹴りを何度も喰らった。やっぱり、対人稽古もしていないとダメなんですね……トホホ状態である。一ヶ月間、とりあえず一人稽古はしていたのに、それは全くの無駄だったのではないかと、ちょっと落ち込んでしまった。

 でもあくる日からはやっぱり自主練。もう日課となっている。先生に言われたガラ空きの腹……下に抑えつける力がないから、腹が空いちゃうんだよ……という言葉を思い出しながら、ではどうすれば……と考えながら禅を組む。答えはすぐにやってきた。頭を天に突き上げる感覚を以って肘で下に抑え、肘で下に抑える感覚を以って頭を天に突き上げる……コレだよコレ!

 芋づる式に出てきた二つのことに感謝、感激、雨あられ!

 特に自分にとっては、腹ガラ空きの矯正より、頭頂突き上げ感を手に入れたことが嬉しくてたまらない。やはり無駄ではなかったのだと思いたい、自主練だけの一ヶ月間を。きっとその間の蓄積があったからこそ、推手の次の日に、新たな体の使い方を手に入れられたのだと思うのです。

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平成14年・秋の章

Chapter SAT -おかあちゃんのためなら-

 川崎市中原区にあるその公園へは、私鉄電車で向かっていた。稽古は午後の2時からだというのに、もう2時30分だった。時間どおりに行こうと思いながらも、大抵こんな時間になってしまう。駅のホームで虫除けスプレーを振る。特に足首と襟首回りを念入りに。もうとっくに秋らしい陽気だというのに、今年はまだまだやぶ蚊が多くて参ってしまう。

 公園に着くと数人が立禅をしている。荷物を置いて、靴を履き替え、準備体操をする。それが終わって、皆のいる方へ歩み寄り、目礼する。師はいつものように軽く「おうっ」という感じでうなずいてくれる。

 正面を向いて立禅を始める。一月ほど前に師から与えられた課題は、踵重心と爪先重心の使い分けだ。爪先に重心があるときには、体全体が伸び上がろうとする。その力を確かめながら、体の中での力の拮抗を感じてみる。踵に重心があるときには、沈み込もうとする力がある。その力に諍いながら、体の中での力のせめぎ合いを味わう。しばらくそれをやったら、今度は左右でこれをやる。右は踵荷重で左は爪先荷重とする。こうすると腰から上が回転しようとする図太いトルクが感じられる。師はこれを柔道の投げ技に見立てて説明してくれた。同じことなのに、左が踵荷重で右が爪先荷重としてみると、今にも右のフックが爆発しそうな気配があるのが不思議だ。

 頃合いを見計らって半禅に移る。左右それぞれ色々なパターンでやってみる。爪先荷重、踵荷重。開く力、閉じる力、捩じる力。ひとり練習のときにの立禅は、大抵が20分くらい、長くても30分くらいしかやらない。でも皆と一緒だとそれが励みとなり、40分から60分位はできてしまう。もっとも師の目が光っているという緊張感が、一番のモチベーションであることは否めないが…。

 揺りをはじめる。近頃の揺りは何かが変だ。体がうねるじれったさが、何ともいえずもどかしい。これは一体何だと言うのか。じれったいけどもっとやっていたい。もどかしいからまだまだ続けたい――。そのうち時間があるときに、揺りだけを1時間くらいやってみたいものだ。

 這い。一本足を意識して行なう。師から首の角度を指摘され、もっと力を抜いてとアドバイスをもらう。ふと見ると、まだ一年目の弟子に、這いの足使いでの力を出す方向を説明している。自分が入会した頃の懐かしい思い出がよみがえる。はじめは上体を正面に向けたままで行なう。よじれようとする腰をそのままに、タメを意識しての這いだ。次には上体を自然によじらせながら、且つそこに行く力と戻る力を感じながら。

 ちょっとトイレ休憩。うがいもして気分を変える。次は歩法。今日はどの歩法をやろうか・・・やはり踵の返しか。ナンバ歩きから入る。綱をたぐって一直線に。次は、左右のレールにステップする。また綱をたぐって一直線にもどる。かなり腰や肩の動きにキレが出てきていて、ささやかな喜びを感じる。そして今日のテーマは、爪先荷重と踵荷重の使い分け。腰から上の捩じる力でフックを打つ。歩法と打拳が一体となる、はずなのだが、まだまだそんなに上手くはできない。

 三連打拳から五連打拳へ。これはかなり体に馴染んできている。ずいぶんとスムーズに繰り出せるので気分がいい。息が切れ、汗がしたたり落ちる。ちょっと一息。体を軽くほぐす。腕をぐるぐる廻し、屈伸をして腰を伸ばし、しばしの立禅・・・。次は何をやろうかと考えている。時計を見やると4時40分。大抵いつも5時頃には推手がはじまる。もう時間がない。よし、探手をやるぞ!

 とりあえず、手のオフェンス・ディフェンスは置いといて、足使いのレパートリィを確認する。電灯の鉄塔を相手に見立て、それに対峙する。斜めから入る方法はふたとおり。ひとつは、前足を外へずらして入るやり方。前輪駆動を意識して飛び込む。もうひとつは、後ろ足から動くやり方。横に動いてから順足で差す。そして後ろ足のスイッチを使って、相手を翻弄するつもりになって動いてみる。まだまだそこかしこに、ぎこちなさが残っている。

 よし、推手やろうか!師の号令が掛かる。事前に水分を補給する者、汗を拭く者、拳サポを着ける者。中にはすぐさま相手を見つけて、もう推手を始める者もいる。今日の課題は肘の張り、そして前腕で囲った空間を死守すること。丁寧に丁寧に推手を行なう。力をとぎらせないように、常に前腕の接触点で相手を抑えていること。雑な推手をする相手には、付き合わないように。手を伸ばし過ぎず、接触点の維持よりも空間の維持を優先させる。こうしておくと何処からどんな風に相手がきても、手がそれに反応してくれるし、姿勢も崩れない。だいぶ肘の張りを失わずにいられるようになってきた。今日は、まずまずの出来か。

 以前、師が言っていた言葉を思い出す。あんまり細かいことは、書いてもしようがないじゃないかと。確かに自分もそう思う。体で感じるということ、自らが体験するということ、そのときの自分の気持ち、それを文章にしたところで、一体どれほどその中身が伝わるというのか。書けば書くほどに、言葉で表現するということの、文章を駆使するということの、限界を思い知らされる。

 今週末もちゃんと稽古に参加できて幸せだった。明日の日曜は妻を誘って映画でも見に行こうか。あれやこれやの家族サービスも大切。妻の理解があるからこそ、拳法にも取り組めるというものだ。♪おかあちゃんのためなら、エーンヤ・コーラ。♪もひとつおまけに、エーンヤ・コーラ。なんだか急にコーラが飲みたくなってきた・・・。(おわり)

 炭酸は体に悪いから飲むなよ! 浅N先輩(怒)

Chapter SUN -縄のれん-

 今日は横浜市営地下鉄に乗って岸根公園へ向かっている。稽古は2時から始まりだというのに、もうすでに2時になってしまっている。またちょっと遅れてしまいそうだ。今日は虫除けスプレーはいらないだろう。ずいぶんと涼しい陽気になったものだ。それより長袖を着なくても大丈夫だろうか寒くはないだろうかと、心配性な僕なので臆病風に吹かれてしまう。

 公園に着くと数人が立禅している。荷物を置いて、靴を履き替え、軽く準備体操を。皆のいる方へ歩み寄り、軽く目礼する。師はいつものように、軽く「おうっ」という感じでうなずいてくれる。

 正面を向いて立禅を始める。ここの公園は緑が多く、すがすがしい気分になる。しばし無心に禅を組む。考える事も必要だが、ときには何も考えず、無念夢想の立禅をしよう・・・はたしてどれほどの時間が経ったのであろうか・・・ふと気がつくともう夕暮れ時だ―――というくらいに没頭して禅を組めるといいのに・・・。腕時計を覗いてみる。まだ10分しか経ってない。トホホ、である。

 揺りをはじめる。自分が水あめのプールにどっぷりと浸かっているように錯覚するほど、体の中に充実感がある。練に移る。師の指摘を思い出し、いつもそこかしこに力が継続してあることを認知させる。

 這い。今日は風が強いから、帆を張り前進と言った感じか。向かい風を感じてゆったりと歩み、ゆったりと後退する。自然の恵みに感謝。ふと傍らを見やると、師が探手をしている。ここのところ、師の進化には目覚しいものがある。以前とは、とっても何かが違っている。日進月歩に変わってきている。動きがダイナミックになり、それでいて繊細で緻密。溜めから一気に爆発。切れのある動き。軸にブレがない。一瞬の変化。停まっているように見えて居着かず、だからすぐに動き出せる。達人技か神技か。その旨、尋ねた事がある。なんか最近変わりましたね。上手くなっているというか、進化している感じですね。そうか、お前にも見えるようになったか。そうなんだよ。俺はいまでも進化してるんだよ。師は、おごらず気負わず、さらりと言ってのける。壮年期といえる年齢でありながら、それでも進化しつづけているという事。その師の背中を見つめ、あとに続く弟子達。いつの日か、師の実力に追いすがるのではなく、己の中に真価の玉を見つけられる。そんな日が来るのだろうか。

 ちょっとトイレ休憩。うがいもして気分を変え、屈伸をして腰を伸ばし、暫し佇む。次は何をやろうかと考えている。そうだ、セミナーの時の復習をやらなきゃ。

 まずは、差し手を絡めての順突き。逆手の差し手から入ってその手で相手の腕を絡めて引き寄せ、崩れた相手を順手で決める。これを歩を進めながら交互に行なっていく。差し手は全身が一本になっているように。絡めて引き寄せるときには、体勢が崩れないように。頭を足先へ載せること、肘の張りを意識することがコツ。

 それから虎歩を行なう。これもセミナーで教えてもらった。差し手を打ちながら、狭いスタンスでジグザグに歩を進めていく。踏み出す足でポッと踏み、寄せ足でコッと踏む。ポッコッポッコッポッコッポッコッ、ポッコッポッコッポッコッポッコッ・・・虎というよりはニワトリのようだ。見た目は悪くとも、歩を踏む力を全身に伝える意図がうかがえる。しばらくこれで毎日通勤しよかとも考えてみたが、変人扱いされると妻が可哀相なので止めておこう。

 よし、推手やろうか!師の号令が掛かる。いつもより少し時間が早いように感じつる。まだ4時半だ。もう少し虎歩の練習をしたかったが、時間切れとなってしまった。だったらもっと早く来いよ、と妖精が耳もとでささやく。気のせいか、木の精か。

 推手が始まった。今日の課題は立ち位置。常に一本で立っているか、ひざを閉じてから歩を進めているか、歩幅は広すぎないか、力を出す方向は、足先の向いている方向と一致しているか・・・。圧力のある先輩とがっぷりと組む時には、とにかく禅のフォームを維持することに専念する。これさえできていれば、体勢が崩れることはないし、手も効いてくれる。格下の者とあたる時には、足位置をいろいろと工夫してみる。正しく踏み変えが出来ると、力を入れなくても、相手が崩れるのがわかる。ただ、ときどき自分のスタンスが広すぎる場合があるので、これは改めねばと反省する。スタンスは狭く、自分の重心のある範囲にだけ置いておく。そんな師の言葉が思い起こされる。

 人影もまばらとなった夕暮れ時の公園に、たたずむ七人のサムライ達。上気した男達の裸体が揺れる。どの体も引き締まって美しい。師のがっしりとした体躯が、ひときわ存在感のあるオーラを放っている。どの顔も、誰かが何かを言ってくれるのを待っている。「ちょっと一杯、軽く行きませんか」と口火を切るN田君。いい出しっぺはいつもこいつだ。誰もやりたがらない役回りをいつも一手に引き受けてくれる。

 夕闇に そぞろに歩みて 縄のれん 今日はくぐるか くぐらんか。

いわずもがな、一杯で終わることなく盛り上がる酒宴。サムライ達の束の間の休息・・・。(おわり)

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平成14年・夏の章

立禅は心の支え

 このご時世、まわりを見渡しても、あまり明るいニュースは聞きません。朝夕の通勤電車の中では、みんな浮かない顔をしています。私の職場でも、あまり雰囲気は良くありません。長引く不況、新しい賃金システムの導入や早期退職制度などなど、これまでの価値観が急激に変化していく中で、誰しもが、毎日の生活の中に漠然とした不安を抱き、何か心の拠り所を求めているように思います

 私にとって、毎朝の立禅は心の支えとなっています。出勤前に立禅をすることで、気持ちがリフレッシュされ、充実した気分で出勤できます。もし、毎日の生活の中に朝の立禅の時間がなかったら、寝起きがとっても悪いことでしょう。朝起きて、「ああイヤだな、また仕事か…」という気分になると思います。でもいつの頃からか、「よし、今日も立禅やるぞ!」という気分で目覚めるようになりました。だから仕事も楽しくこなしてます――と言いたいところですが、もう一人も自分が「ホントかよ!」と突っ込みを入れています。まあ、それはともかく、毎朝の立禅が私の中で大きな存在となっていることだけは確かなようです

第三の歩法

 私の習った空手やボクシングなどでは、後ろ足で蹴る力を使って前へ進んで行くフットワークが一般的でした。これに対して太気拳では、股関節の開合を使って歩法を組み立てているようです。今まで天野先生に習った歩法は、大まかに言ってふたとおりのものがありました。ユニコーンの打拳の前足を引き上げる様に使う、あるいは前足を蹴り出すように使う歩法。そしてジグザグの加速歩法の後ろ足をシフトさせて使う歩法、そして今回ご紹介するのが、最近教えていただいた言わば第三の歩法です。後ろ足のシフトを使う歩法が後輪駆動とするならば、この第三の歩法は前輪駆動といえるでしょう。前足をふんばって、地面を引っ掻くようにして体を前へ運んで行きます。この歩法の使い方がよくわからないまま練習していると、天野先生に「なんかムーンウォークみたいだな」と冷やかされてしまいました。(ちなみにムーンウォークとは、マイケルジャクソンがダンスの中で時折使う、前に進んでいくような足使いをしながら、後方へ滑るように動いていくワザのことです。)

 色々な歩法の練習を繰り返していると、後輪駆動にしても、前輪駆動にしても、結局は開合の力を使っているといことが判ってきます。ただ、それが判っただけでは、出来たことにはならないし、出来たつもりでいても、後から考えると出来ていなかったんだな、と思い起こす事も多々あるのです。判ることと出来ることの違い。出来てると思うことと、出来ていないことに気付くことの違い・・・

 出来ていないことに気が付いた時にはじめて、次のステップへの階段が用意されるのです。そして、それが新たな課題となって、階段を一歩一歩登って行くように上達していく・・・そんな面白さが太気拳にはあるようです

太気の歩法は、大地のマッサージ?

 昨年の忘年会組手の感想で、「A先輩は小柄ながら素早い動きで相手を翻弄していた」というようなことを書きましたが、本当にA先輩の相手の懐へ飛び込む速さには、眼を見張るものがあります。これは推手の時にもそうなのですが、A先輩が動いていると、とてもスムーズに、自由自在で素早く、まるで滑るように、それでいて重さのある動きをしています。そしてその足元を観ていると、なにか地面をマッサージしているようにも観えてしまうのです

 自分が、歩法の基本稽古をするときにも時々、地面をマッサージするようなイメージでやってみます。足裏全体を使うようにして、地面をつかむようにしたり、あるいは地面を揉むように、叩くように、そしてさすったり、なでたり、こすったりしながら、大地との対話を楽しむのです。そして、大地と自分との関係がうまくいったときには、自分がスッと動けています。歩法というと力学的な説明になってしまいがちですが、こう考えると、なにかロマンチックな趣にもなってきますね。ここで、「太気拳にはロマンがある」とまとめてしまうのは、ちょっとこじつけ過ぎでしょうか

閉じる力で一本にまとめろ!

 天野先生から私の組手に対してのアドバイスがあった。「前へ出て行くときに足の開合、特に合わさる動き、閉じる力がないから、体がバラバラになるし、スッと前へ出て行けないんだよ」とのこと。また、推手などの歩法においても「一本にまとめて、そこから、引き裂く。閉じて、引き裂く、そして閉じる、という感じを意識して行なうように」とのことでした。またこの事について、先輩のI井さんが「ヒザから入って行くように意識して。ヒザで方向を決めるようにすると、体がまとまってくるよ」と教えてくれました

 今年の初めくらいから、揺りの動きの中で、上体だけでなく下半身にも開合が出来る様な感じがあったのだけれども、このアドバイスを受けて改めて気をつけてやってみると、「開」は出来ていたのだが、「合」は出来ていなかったことが判明した。そして「合」を意識して行なうと、また違った感覚が体の中にできてくる。そして、這いの稽古でも、軸足のヒザの内側への抑えと寄せ足のヒザ頭を意識して行なうようにしてみた。これを2、3日続けていると、自分の体の中の軸がより明確になってきているように感じられてきた。このときになって、這いで創っていくものが、自分の軸の正確さ、というか精密な針のように細い一本の軸にまとめていく作業なのではないか、と思い始めたのです

 正確な軸を創っていくためには、まず、自分の軸がどれだけずれているのかが把握できていなければなりません。逆に言うと、自分が把握できた分だけしか修正はできないということです。コマ送りの這いをやっていた頃の私は、腰を揺すってみなければ、頭の真下に腰があるのかどうかさえ判らずにいました。だんだんと感覚を鋭敏にしていって、この誤差が判るようになって、この誤差を修正して、そして最小にしていく・・・という作業が延々と続けられて行くのではないでしょうか

 天野先生が、脇腹のすじを痛めたときに面白いことを言っていました。「正確でない這いをやると、痛さで気が付かされるんだよ」と。そう、天野先生において今尚、誤差を修正し続けているのです・・・

システム・インテグレーション

 太気拳では、「体がまとまっている」という表現がよく使われる。前述の正確な軸の感じもそのひとつだし、それ以外にも手足の動き、上体と下肢の動きなど、様々な系統に対しての「まとまっている」ということのようだ

 「まとまっていない感じ」は、立禅の中では止まったままので、ちょっと判り難い。揺りや這いにおいては、「あっ、このときに自分はまとまっていないな」と判るときもある。推手では相手がいるので、もっと判り易い。先輩と推手していると、その部分に付け入られてしまう。後輩とやっている時には、「あっ、この姿勢ではいけないな」と感じることがある。天野先生は言う。「自分がまとまっていないな、と思えるだけで、感じられるだけで、じゅうぶん凄いことなんだよ・・・だってそれが判らない人達がほとんどなんだから」と

 自分でも、「まとまっている」ということがどういうことなのか、いまひとつよく判らない。きっとあるレベルにまで到達しないことには、その感じは判らないのかもしれない。あるいは、前述の正確な軸の感じと同じように、それが判った分だけしかまとめられないのかもしれない。一般の方々には、「まとまる」というよりは、「統一する、統合する」と表現した方が判りやすいかもしれない。しかし、何と何を統合しようと言うのか。あるいは何が何に統合されると言うのか。天野先生は、月刊誌・秘伝への寄稿の中で「部分と部分を、そして部分と全体を、さらには肉体と意識とを統合させる」と書いている。「それを含めての統合であり、統一であり、まとまっている」なのである。いまどきの言葉で言うならば、システム・インテグレーションといったところか

 と、ここまで書いてきて気が付いたことがある。この項の始めに「『まとまっていない感じ』は、立禅の中では止まったままので、ちょっと判り難い」と書いた。そう、立禅の中では、まとまっているのである。あるいは、自分の姿勢、自分の体をまとめるための作業が立禅なのではないだろうか。立禅では僅かに動く。大きく動いてしまっては判らないことを、僅かな動きの中で確認していく。ちょっと手を上げる・・・全身を協調させて手を上げるには、どこがどう動くのか。天野先生がヒントをくれる。「頭が下がって、手が上がるんだよ・・・」と。その感覚を確かめていく・・・手を下げる時にはどうなるのか・・・前へ出すときには・・・捩じるときには・・・。ちょっとだけ動いてみながら、全体を協調させるという感じを確かめていく・・・。この積み重ねが、自分の中の「まとまり」を育んでいるように思うのです

モチベーション

 やる気の出ない時もある・・・。そんな時、太気拳はことさら厳しい。何が厳しいのかというと自分で全てを組み立てなければならないことだ

 A先輩は実に稽古熱心である。土日と続けて稽古に参加しているとのこと。それに加えて、土曜は元住吉での稽古が終わってから養生館の練習に合流し、蹴りや寝技の研究もしているそうである。何故それだけの気持ちを保てるというのか。もう40代に入っているというのに・・・。A先輩が言う「体が動くうちに、やれることはやっておかないとね。今よりもっと年をとったら、太気しかできなくなるんだから。だからあえて今は、自分を追い込むような練習をしているんだよ」と

 さて、自分はどうか。先週は仕事が忙しかった。残業が多く、疲れてしまって、月曜から金曜まで一日も立禅をしなかった。そして今週は、ちょっとした嫌なことも重なって、仕事にもやる気が出ない。そんなこんなで、なんとなく太気拳の稽古にも熱が入らないし、集中できないでいる

 やる気を維持することは難しい。特に太気の稽古は、自主性に任されている部分が多いのでなおさらである。稽古の始まりもみんなが集まってから「ハイ、始まり!」ではないので、「ちょっと遅れて行こうか」と怠けたことを考えてしまったり、途中、立禅や這いの稽古に飽きてしまって、かといって息を上げる歩法や探手をするのもかったるくなってしまうことがある。かったるくなった気持ちをそのままにしておくのも自分だし、再び盛り上げていくのも自分である

 モチベーションを維持していくには、それなりのプランが必要だと思う。毎朝の自主練、週一の合同稽古、問題意識をもって、自分のテーマを持って、自分のメニューを組み立ててみる。立禅、体をまとめるということ、自分の廻りに力を置いておくとはどういうことなのかを探る。這い、閉じる力と引き裂く力、上体と下肢の協調とは何か。そんなことを意識しつつ、歩法、打拳、探手、そして推手に臨む。こんな感じか・・・

 テーマは常に変わる。先週の禅と今週の禅は違う。先週の這いと今週の這いも違う。そして来週は何をどうやるのかを考える。プランを練る。そうすることでモチベーションを維持していこうと考えている

 A先輩がなかなかいいことを言っていた。「継続するということも、才能なんだよね」と。そう、運動神経や体格、体力が優れていることも才能だけれども、それがなくても継続することが出来れば、太気拳は絶対強くなれる。そして「太気は裏切らない」というのもA先輩の名言である

メンタル・スランプ

 今年の夏は残暑が厳しい。なかなか気分が「元気ハツラツっ!!オロナミンCィ~!」と、のってこない。メンタルな部分では、スランプ状態が続いている。ただ、毎朝30~40分ほどの立禅や這いなどの自主練は、欠かさないようにしている。そして気持とは裏腹に、体の方は稽古をやった分だけ、手ごたえのある効果が感じられるのが不思議でならない。自分の腕が、体が、うずうずしていて、何をやっても反応してくる。とくに揺りや這い、練りの中での発見が多い。それはともかく、メンタル面でもはやいとこ「今日も一日、Vっと行こう~!」という感じになりたいものだ

力を失わずに動く

 私が毎朝自主練をしている地域にはカラスが多い。以前NHKの番組で見たのだが、都会のカラスはエサに苦労せず飽食の状態にあるので、ときに“遊び”をやるらしい。ある朝、私が這いをやっていると正面から一羽のカラスが頭上スレスレに飛んできた。これも彼にとっては遊びの一種なのか。普通の人なら驚くだろうが、私も太気拳士のはしくれ、そうは問屋が卸さない。這いの姿勢から、バッと体をかわす

 以前、天野先生から、這いの時に腕や肩に力が入っていると注意を受けたことがあった。「例えば、這いの最中に打拳を打ち込まれても、この両腕がパンパンと素早く動けるように、そんな楽で自由な感じにしておきなさい」これは、『第二部・夏の章 這いの完成形』からの抜粋なのですが、今回の件で「手だけではなく、足も・・・かな」との思いが頭をよぎったのです。また、半年くらい前から探手や推手のときに「もっと腰を落として」と天野先生に言われていて、はじめの頃は「こんなんじゃ、すぐに足がパンパンになっちゃうヨ。勘弁してよ~」というかんじだったけど、最近はなんとなくそれなりに出来るようになってきていた。そして今回カラスの襲撃に遭遇し、体をかわすよな動きを自分がしたときに、「そうか、這いの中で軸を作っていくことも大事だけれども、力を失わずに動くということはこういうことなのかな・・・」と気がついたのです

 その点をふまえ、再度這いをやってみます。両足に荷重が掛かっている時には、どちらか一方へギュッと一瞬で動けるか。軸足に対して遊足が出ている時には、バッと踏み換えて動けるか・・・。自分の場合には、右足を軸足にして左足を寄せ足している途中と差出し足している途中に、力が失われていてバッと踏み換えられない範囲があることが判明したのです。「うんうん、つまり力を失わずに動くっていうのは、こういうことなのネ」と、ひとり納得したのでした

力を途切らせない

 天野先生は「力を失わずに動く」ということを色々と表現を変えてアドバイスしてくれる。曰く、「いつも準備が出来ている」「いつでも力が出せる」などなど・・・。そして「力を途切らせない」というのもそのひとつである

 R先輩に推手のときに注意を受けた。「押されたときに棒立ちになっている」また「自分から発力した後に力が途切れている」と。そして「ヒザに溜めがないから、そうなってしまうんだよ」とのことであった

 しばらくはこの2つのキーワードが、私の課題となりそうだ。「力を失わずに動く」ということと「力を途切らせない」ということ。そしてこれを、立禅、這い、揺りの中だけではなく、対人稽古の推手の中で実現していくこと。まだまだ、長く厳しい道がここにはある。だけど、厳しいからといって、辛いわけではない。辛いからといって、楽しくないわけではない。厳しいことも辛いことも、積み上げていくことで、結果が出せる、太気は裏切らない・・・そう考えると、この厳しさも辛さも、みんな楽しく思えてくるのです。おお・・・やっと私もメンタル・スランプを脱出できそうです。「よっしゃっ!ファイトぉ!イッパ~ツ!!」となんだか急に、むやみやたらとハイになっている富川君でした・・・

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平成14年・春の章

通勤立禅電車

 ガタンガタ~ン、ガタンガタ~ン、ガタンガタ~ン・・・今日も朝のJR東海道線の上り電車は混み合っています。以前は、電車通勤することがとてもイヤで、「なんとか車通勤に替わりたいものだなぁ」と、いつもいつも考えていました。でも太気拳を始めてからは、そんな電車通勤もあまり苦にならなくなって、かえって今となっては「車通勤はもういいや、電車の方が楽しいんだよね」とさえ思っています。それは電車の中では毎日が立禅三昧だからです・・・といってしまうと少々大袈裟ですが、手の形や立ち方にはそれほどこだわらなくても、立禅の雰囲気は十分に味わえるものです。 

 たとえば吊革に片手でつかまっている時でも、足裏の重心の位置や腰の位置、首の角度と背骨がスッと伸びている感じなどを意識してみるだけでも、いい練習になります。また、混み合ってきて人から圧されたりした時には、軸の上下の力と胸肩の開合の力で、ぐっと踏ん張ってみます。ただ、これをあまりやりすぎると他人の迷惑になりますので、やりすぎには注意しましょう。 

 ところで皆さんはいつどこで立禅をしていますか。朝の公園、夜の公園、夜寝る前に自宅で、仕事をサボって会社のトイレで、などなど様々だと思いますが、私はやはり屋外で、緑の多い公園でやるのが一番気持ちが良くて好きなのです。特に朝は空気もすがすがしく、とてもリフレッシュできます。それから時間のある時には、夜の公園でもたまに練習します。太氣会で私と同期のО津さんは、電車の待ち時間にホームの端で立禅をするそうです。私にはそれほどの勇気は無いのですが、電車が比較的すいている時や新幹線で出張に出かけた時などには、電車の中で立禅をしたくなります。あの揺れ方がバランスを取る稽古をするのに、なかなか具合が良さそうだとは思いませんか?О津さんに勇気をちょっと分けてもらえたら、私もこんど試してみようと思っています。 

三連打拳の表裏のかえし

 昨年の秋口ぐらいから三連打拳の稽古を始めていた。左足が前で「順突き・逆突き・順突き」の三連打を繰り返し行ない、翻って今度は右足が前で「順突き・逆突き・順突き」の三連打を行なっていく。このときに難しいのは、順突きから逆突きに移る際の体の向きの入れ替えです。左足が前の場合には、順突きで上体が右を向いている所を逆突きの際には上体を左へ向けなければならない。天野先生の表現では、「体が右を向いたり左を向いたりする時には、紙の表と裏がピッピッと180度反転する感じ」とのこと。そしてそのために「逆突きに移る前の左足の踏み出しにコツがある」とのことでした。つまり「踏み出す足の足先の向きと足裏のあおりが、この体の表裏を180度ピッピッと反転させる為のスイッチングの役目を果たしている」と言うのです。 

レール歩きのナンバ打拳

 第二部・冬の章に書いた「なんば歩きで綱渡り」の稽古の次には、「なんば打拳」を習いました。同じように一直線上を進みながら半拳で綱をたぐるようにして進んでいきます。このときには、引き手を禅の形にすることと、上体の反転を意識することがポイントとなる。そしてこれがある程度私の体に馴染んできた頃を見計らって、天野先生は次のステップの稽古方法を教示されました。名付けて「レール歩きのナンバ打拳」。 

 それまでは、一直線上を進んでいた稽古方法から一転して、「外へステップしながらこれをやりなさい」とのことである。左へステップして右足を前へ送り、右の打拳を出す。右へステップして左足を前へ送り、左の打拳を出す。まるで電車のレールを交互に踏んでいくような感じです。 

 「おぉ!これはビックリおもしろい!」初めてこれをやった時の私の感想です。何がそんなにビックリだったのかというと、天野先生が常々言っていた「紙の表と裏がピッピッとなる」という感じが実感できたのです。「外へステップする時の足先の向きと足裏のあおり。そしてこれに乗じて上体がピッと反転する感じ」がはじめてわかりました。さらに元に戻って一直線上を進むなんば打拳を行なってみると、またまた体の中にさっきまでとは違う何かが・・・体は正に進化を感じています。 

エアベアリングの立禅

 「半禅の姿勢から前足に体重を移してごらん。そうするとどうなる」「今度は後ろ足に体重を移して・・・」この時に天野先生は、「体重の載っている足のつま先の方へ、上体が自然に向いていく」という体の反射を説明したかったようでした。ところが、私の体は最初、そうは動いてくれなかったのです。何か心にわだかまりがあるからなのでしょうか。ひねくれ者の私は、気持ちが素直でないから、体も素直ではないのでしょうか。「ふぅー」と深呼吸して、心と体のわだかまりを捨て、素直に自分の体の動きを見つめ、味わうようにしてみます。半禅の姿勢で体の軸だけを保ちながら、できるだけ足の筋肉や股関節をゆるゆるにしてみます。

 大型の産業用機械に使われる「エアベアリング」という部品があります。「ベアリング」とは軸受けのことで、シャフト(軸)が回転する際にその抵抗を減らす役目をします。通常は小さな玉が沢山入っていて、その玉が転がることよって摩擦抵抗を減らす、という原理になっています。そしてこの摩擦抵抗を極限まで小さくしたのがエアベアリングと言われる物で、ゲームセンターにあるエアーホッケーを思い浮かべていただくと、わかりやすいかと思います。エアーの噴出しで荷重を支えることで、回転抵抗を極小にしているのです。

 それはまるで尾底骨のあたりに「エアベアリング」があるような感じでした。左足が前の半禅の姿勢から、重心を右足に移していくと、右足先の向いている方向へ上体が「すぅー」と回って行きます。そして左足の方へ重心を移していくと、今度は上体が左足先の向いている方向に回って行くのです。まったく力はいりません。第二部・秋の章の「立禅の中の左右の力」で経験していたことも、本来は、力ではなくこの反射から導きだされるべきものだったようです。

 さてここで、私の中に積み上げられてきた感覚の中で、天野先生が数ヶ月前から言っていた「紙の表と裏がピッピッとなる感じ」ということに話がつながります。それは「足先の向き」と「足裏のあおり」がスイッチとなり、体に「エアベアリングの素直さ」があれば、体はそう動きたがっているのだから、あとはそっと筋力で後押ししてやれば、少ないエネルギーで素速く力強く動くことができる、ということです。そしてこの感覚をさらに積み上げていくことで、年を取って少々衰えても、筋力に頼らずに動ける体が手に入るのではないでしょうか。

コマ送りの這い

 腰を痛めてから、推手のときにいつも天野先生に注意される点は姿勢です。私の腰を気遣ってくれているようなのですが、とにかく姿勢にさえ気をつけていれば太気の練習で腰を痛めることはないようなのです。それはただまっすぐに立つことと天野先生は言います。前傾せずに、かといって胸を張りすぎず、腰を反らせない。首はまっすぐに・・・要するにこれは「立禅の姿勢」なのです。

 この感覚を体に覚えこませるには「這いの稽古」が役立ちました。第二部・夏の章で書いた「這いの完成形」の頃からは、バランスと力を抜くことに重点を置いていましたが、その天野先生のアドバイスと島田先生の腰がゆったり立禅がヒントになり、秘技!「コマ送りの這い」を編み出しました。(必殺技ではありません)

 両手を前に向けて掲げ、左足一本で立ち、右足を斜め前にそっと置きます。このときの重心はまだ10:0です。そしてちょっとだけ右足に重心を移し9:1とします。ここで自分を確認します。姿勢は真っ直ぐか、力んではいないか。そしてその確認のために、頭の位置はそのままでちょっと腰を揺すってみます。こうすることにより、余計な力みが抜けて、頭の真下に腰がなかった場合にはその修正もできます。これを重心が移動していく8:2、6:4、4:6、2:8と1:9の各ポジションで行なっていくのです。楽に行なうこと、姿勢を保つこと、この這いの目的はこの2点にあります。もちろんこの練習方法は、最終的には断続的なコマ送りではなく、連続的・継続的に姿勢とバランスを保ち続けることが理想形となります。

「こわばり」をはずして「ゆらぎ」をつくる

 この方法で這いを行なっているときに、幾つか気づいた点がありました。それまでの私は、片足でまっすぐに立ってバランスを取るのに、筋力を使って姿勢を保とうとしていて、体に「こわばり」がありました。そうしながらも、力みを抜いて抜いて・・・と、もがいていたように思います。

 「コマ送りの這い」で気がついたことは「コマ送り」する事が重要なのではなく、腰を揺すってみたことによって、「ゆらぎ」の中に姿勢を保ちバランスを取るコツを観たことにあります。きっと運動神経やバランス感覚が優れている方々は、当たり前にこれができているのではないかと思います。運動神経の鈍い私は、やっと今になって気づきました。でも天野先生に太気拳を習っていたからこそ、このことに気がつけたのだと思います。

揺りにはどんな意味が・・・

 「揺り」と呼ばれる動作には、どういう意味がこめられているのでしょうか。ただゆったりと、ゆらゆらと腕を動かしているだけなのでしょうか。私もはじめは「これは禅でこわばった体をほぐす為にやっているのかな」くらいにしか考えていませんでしたが、時々先生に「腕をただ動かしているだけじゃだめなんだよ」とか「もっと抵抗を感じて動かしてごらん」とか「水あめをこねるような感じで」とか言われていました。

 代表的な揺りの形を幾つかご紹介しましょう。全て半禅の姿勢で行ないます。

 1.両手のひら下向きにして腕を前方へ伸ばしていき、両手の平を下向きのまま腕を引い
   てくるように動かす。前腕が三角に動くイメージ。

 2.両手のひら下向きにして腕を前方へ伸ばしていき、両手の平を向かい合わせにして
   腕を引いてくるように動かす。指先は常に前方を指しているようにする。

 3.両腕を体側において、手のひらで前方へあおぐように動かす。ここでは全て手の動き
   のみを紹介しましたが、揺りを行なう際には、どの場合であっても、手だけではなく、
   足や体全体で開合の動きを作ることが要求されます。

 ある日の事、禅を組むときの手の形を工夫して、手のひらをくぼませてみたところ、「あっ!」と驚いた。禅の大木を抱えるような腕の形は、肘を張っていて、各関節が角張っているような形なのだが、なぜだか急に腕全体がまあるく感じられたのです。「うぅ~ん、こ、これは腕が、腕の感覚に何か異変が・・・」そう思いつつも、揺りの動作をはじめてみた。「あれっ!これが揺りや練りの腕使いなのかな!?」腕全体がしなるように、ゆったりと動いている様に感じられる。天野先生が言っていた「水あめをこねている感じ」「力んではいないけれど、いつでも力が出せるような感覚」とはこの事なのではないだろうか・・・。

練りは立禅の連続

 左右の腕を交互に廻す練りと呼ばれる動作があります。内廻しと外廻しがあり、はじめはその場で行い、徐々に歩法も合わせて行なうようにします。手のひらのクボミ、立禅のときの腕がまあるい感じから、揺りの感覚がわかってくると、練りがいかに難しく、その反面とても面白いということに気づかされます。以前、先輩の大関さんから「練りの動作は、禅の連続なんだよ」と聴いたことが思い出されました。たとえば内廻しの腕使いをしながら歩を進めているときに、「右手が上で左手が下」「右手が前で左手が手元」「左手が上で右手が下」どの局面においても、立禅の姿勢、争力、腕の張りなどなどが常に保たれていることが要求されます。

 それまでは、はじめの頃にやっていた揺りと同様に、練りの稽古も、ただ単に腕をぐるぐる廻しながら、なんとなく体をほぐすような感じでやっていたのですが、この時になってやっと「練りらしく」なってきたようでした。色々な腕使いを試してみると、どの形にあるときにも、常に禅の感覚を保っていられるようになるまでには、まだまだ時間が掛かりそうです。そうです。この時になって私は、やっとスタートラインにまで辿り着けたのです。そしてスタートラインに立った今、あとは前進あるのみです。

凹面鏡の意識で照準を合わせろ

 探手の稽古をしていた時に、天野先生からひとつアドバイスがあった。「自分の意識の照準を常に相手の中心に合わせておくように。相手の体の一部に目標を定め、その一点に向けて、左右の手の意識、左右の足の意識、そして頭部や腹部などの全身の意識が、その一点に集まっていくような気持ちでやってごらん」とのことであった。それはさながら、自分が大きな凹面鏡になったような気分でした。

 稽古の際には、まず目標物となりそうな木や鉄柱などを見つけ、適当な高さの所に黄色いビニールテープで印をつけた。そしてこれを相手に見立てて、そこへ全身の意識を向けながら、揺りや這いや練を行ないました。また推手の時にも、相手のノドを目標に定めて、自分から出る時にはそこを狙って発力し、相手が変化した時にもこの一点をのがさないように意識して行なうことが、当面の私のテーマとなりました。

のけぞりスウェイバック立禅

 いつもいいことばかりが続くとはかぎらない。落ち込んだり、やる気がしなかったり、憂鬱になったりすることもあるものです。立禅をすれば、カラスに威嚇され、子供には指差され、女子高生にはクスクス笑いをされてしまう。革靴を砂埃で白く汚しながら、ダブルにあつらえたズボンのすそに砂屑をため、卸したてのYシャツをクシャクシャにしながら打拳を打ち込み探手をやる。

 そして汗まみれのほてった顔で出勤すれば、同僚にはいぶかしがられる。「朝っぱらからこんな事をやっていて、いったい何になるんだろう・・・。何で俺はこんな事をやっているのか・・・」そんなふうに考えてしまう日もあるものです。

 そんな気分のまま立禅をすると、前かがみのうなだれた姿勢になってしまい、首がスッと立ちません。「ああそうだ。天野先生は確か『目の前の風景を抱え込んでしまうように』と言っていたな・・・」そう思い、スッとまっすぐに立ってみる。なかなかいい感じ――と思ったのもつかの間、またすぐにうなだれてしまう。やはり落ち込んでいる時には、なかなか立禅の気分には入っていけないものだ。「えぇい!ままよ!もう、まっすぐをとうり越して、のけぞってしまえ!」っとその時「おっっと、この感じは・・・んん・・新しい発見が!」それはまるで天野先生が組手のときにやるスウェイバックのフォームのようだったのです!この感じで半禅を組む、這いをやる、探手をやる。「楽しい!嬉しい!」さっきまでの憂鬱は何処へやら。「あぁそうか、俺は楽しいから立禅をやっていたんだ。太気拳が好きだから毎朝練習していたんだ!」そんな当たり前のことに気が付いたのでした。

 自分の体の中に新しいつながりを発見したときには、とてもワクワクします。今まで出来なかったことが出来るようになる――私はこの感覚が大好きなのです。まるで押入れの奥にしまってあった本の間から1万円札を見つけたような驚き。ジグソーパズルで行き詰まっていた時に、新しく見つけたひとつのピースをきっかけに、その一画がどんどん埋め尽くされていく気持ち良さ――そんな感動が大好きです。「他人は他人。私が楽しいと感じていることをいちいち解ってもらう必要は無い。自分は自分であれば良い」そんな思いが頭をよぎる、春うららかな雨のち晴れの日の出来事でした。

菜々子とお花見

 「春は桜がきれいね」耳元で菜々子が囁く。「うん、そうだね」と僕・・・ふと目が覚めた。「夢か・・・」傍らで妻のY子が寝息をたてていた。「あぁ、これが松嶋菜々子だったらなぁ」そんな思いで床を抜け出す。今日は太氣会の花見と組手のある日だ。菜々子の言うとうり、春は桜の花が美しい。今年は例年になく開花が早く、4月の第一日曜にはもう葉桜となっていた。それでも花見は楽しいものだ。ただその前に組手がある。

 太気拳の組手は、素手素面で行われることで有名だが、あまり一般的ではないこのスタイルは、鼻血が出たり、口の中が切れたりで、凄惨で、非人道的な印象を持つ方々も少なからずいるようだ。でもしかし、天野先生に言わせると「グローブやスーパーセーフをつけてやる組手っていうのは、野蛮な行為だよな」ということになる。つまりグローブでもスーパーセーフでも、打撃をもらうと脳や首に直接ダメージがくると言うのだ。それに引替え、素手素面であれば、顔面がある程度の衝撃を吸収するので、切傷などの外傷はあっても、脳や首にはほとんどダメージはないとのことである。

 さて、太氣会でも組手はいつも素手素面で行なわれる。この場合に問題となるのが、平手の掌打を使うのか、拳で殴ってもよいのか、ということである。まず第一に、打つ側が打ちやすいかどうかということがある。私の理解では、フック系は掌打、ストレート系は拳を使うのがやり易いかなと思っていたのだが、大関さんが言うには、遠間の距離では掌打、近間では拳のほうが打ちやすいとのことである。

 そして相手側への配慮もある程度は必要だ。「拳を使う場合には、相手へのダメージを減らすために強く握らずに、半握りもしくは半拳の様にして、威力を加減するように」とのこと。また、「掌打にしても蹴りを使う場合にしてもそうであるが、組手というのは潰し合いをしている訳ではなく、あくまで日頃の研鑚の成果を検証する場であるということを忘れないように」とのことであった。

緊張の面持ちで・・・

 朝まで降り続いていた雨も上がり、太気拳士たちが三々五々と集まってくる。皆それぞれに準備体操をして、立禅や這いなどの個人練習に入っていく。いつもの稽古風景だ。ただ、心なしか皆一様にそわそわしているように見受けられる。やはり組手となると緊張するものだ。もちろん私もその内の一人だ。家を出て、バスに乗った時から、急に心臓がバクバクしてきていた。立禅をし始めると少しは落ち着いてきたが、それでもまだ緊張している。

 自分は今回の組手稽古に臨んで、三つのテーマを考えていた。1.正しい姿勢を常に維持しておくこと。2.目付けは広角レンズのように、体の意識は凹面鏡のようにして相手を捕えておくこと。3.スウェイバックの動作を試してみること。ただ、この緊張した面持ちでは、普段どうりに動くことすらままならない。3月のKさんとのスパーのときのような、ぜんぜん体が動かないことだけは、何としても避けたい。メインのテーマは、急きょ変更!とにかく、おおらかに気持ちをもって、大きく、伸びやかに、そしてこまめに動くこと。姿勢だけは保っておいて・・・。

 歩法の稽古の後、探手をしながらこの気持ちを作っていく。体を大きく使って、伸びやかに、動いていく・・・。

 しばらくすると、いつものように推手がはじまった。皆それぞれに相手を見つけ、二人一組となる。そして少々早めに推手は終了。10分ほどの休憩タイムをはさんで、いよいよ組手稽古がスタートです。

いよいよ組手の始まりだ!

 今回は太気気功会の島田先生は仕事の都合で遅れていらしたのですが、お弟子さんのBさんとM井さんがきていました。天野先生が指名する形で組手の組み合わせが決められましたが、私は、気功会のBさん、M井さん、そして同期のО津さん、後輩のN津君、そして天野先生と、合計5回の組手をやりました。

 Bさんとは、昨年12月の忘年会組手のときに初対面でしたが、その時にどんな組手をするのかを見ていたし「これ位なら私の方が・・・」と失礼ながら少々軽く考えていたのですが、いざ始まってみると、ほとんど私の方が一方的にやられっぱなしでした。そんな中でも、自分が何発か頭部に打撃をもらったときに、姿勢を崩すことなく、ひるまずにいられた事が、唯一良かった点かもしれません。

 第二部・番外編において、グローブ打撃サークルのKさんをご紹介しましたが、実はM井さんはこのKさんと、1年程前にワンマッチ形式の試合で当たったことがあって、その時に判定勝ちをしているのです。また、M井さんはN拳の経験者で、太気拳歴はそれほど長くはないのですが、忘年会組手の時に見たとうり、かなりの強豪であることは承知の上でした。そして思ったとうり、私の方が軽くあしらわれてしまったといった感じの組手でした。とくにN拳特有の一発一発の重い前蹴りや打拳が印象的でした。

 同期のО津さんとは、普段から推手でも手を合わせる機会が少なからずあり、その感触からもこちらの方に分があると思っていたのですが、先制で左眼に一発くらってしまい、涙目になって片眼が半分見えないままでの組手となってしまいました。ただ、片眼が不自由になっても、おじけづくことなく、気迫で相手に挑んでいけたことが、自分でも少しは自信につながったと思います。

 N津君はまだ入ったばかりの後輩です。もちろん私の方が優位に立って当然で、こちらが一方的に打拳を当てて行けました。ただ、終わってから考えたことは、「足を留めて打ち合わないこと。歩きながら進みながら打てるようにすること。そのためには、ただ打拳を当てるだけではなく、相手の体勢を崩してから打拳を入れる工夫や、足腰の重さを突進力としてつなげることが、今後の課題だな」と思いました。

 天野先生との組手は短い時間でしたが、先生の懐(ふところ)の中で遊ばれているようで、私が打とうと思った瞬間、もうそこにはいないといった感じで、最後はボディへ一発くらってお終いでしたが、その打拳の突進力とまっすぐ入ってくる速さには、尋常でないものを感じました。

 先輩達の組手の中で、とりわけ参考になったのは、R先輩とK崎先輩の組手でした。私の目標は、R先輩のように突進力があって、重みのある組手が出来るようになることです。K崎先輩に対して一方的に、押し込んで行き、相手を崩してしまう。崩してしまった後は、もう打拳を打ち込まずとも、優劣がはっきりしているような状況ができている。それくらいのレベルにまでは登りつめていきたいと思っています。

 そのためには何が必要なのだろうか。まっすぐに入って行く速さと突進力のためには、足腰の粘りを這いで作り、体の変化を歩法で探る、そして発力練習。そしてもうひとつ、これが一番難しいと言うか、まだぼんやりとしたイメージでしかないのですが、ただやみくもにまっすぐ入って行くのではなく、R先輩のように相手を崩してから入っていく、あるいは天野先生のように、相手の崩れる一瞬を見逃さずに変化しながら入っていく。この辺の感触をつかまえたいのです。

 最近、天野先生によく言われることがあります。それは、「推手の時に自分の禅の姿勢を保っておくこと。また禅の力が常にそこにあること。そして意識を途切れさせずに、果たしてその瞬間の姿勢は、禅であると言えるのか否か。禅であるとは言えない姿勢になっていることがないのかどうか。そのフィードバックを繊細に、こまめに行なっていくように」というような言葉です。

 組手上達へのヒントは、たぶんこの言葉の中に隠されているのではないか、と思うのです・・・。

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会員・会友員のテクスト 富川リュウの太気拳修行記

富川リュウの太気拳修業記・第2部・番外編

これまでの第一部、第二部では、立禅、這い、歩法、推手という、自分で作った枠組みにこだわりすぎていて、ディフェンス技術や組手やスパーリングに関する記述が、少々こぼれ落ちてしまいました。この番外編では、そのあたりの部分を少々さかのぼって、書き進めてみようと思います。

【 序 】茶帯レベルの実力か?

 私の武歴?については、「プロフィール」の部分で記述しており、部分的に繰り返しとなりますが、もう少しだけ詳しく述べさせてください。

 29才の時に始めた格闘技の経歴は、最初に少林寺拳法を1年ほど、それから極真空手を2年、大道塾、骨法はともに1年未満、その後、キックボクシングを2年ほどやりました。また合気道やボクシングジムにも少しだけ行っていました。太氣会に入会する時点においての私の格闘技歴は、途中のブランクの期間を除くと、「6年と少々」といった所でしょうか。

 大道塾や極真会館では、8級や7級の青帯を取得するにとどまり、その後、合同稽古形式のキックボクシングジムに、週に1回~2回のペースで2年程通っていました。このジムでは、練習が楽しく、自分の実力もずいぶんと伸びたように記憶しています。 このジムを辞める時点における私の実力レベルは、色々な尺度がありますので、一概には言えないのですが、“極真会館の茶帯レベル(2級程度)”と言ったところではないかと思っています。極真会館を例にとり、たいへん恐縮なのですが、フルコン系では最大手であり、競技人口も相当数いらっしゃいますので、「ひとつの尺度として判りやすいかな」と思い、この様な表現をさせていただきました。

 極真会館では、早い人なら2年程で2級の茶帯にまでなれるようですが、この茶帯から、初段(黒帯)までの道のりが、ひじょうに長く、厳しいようです。組手では、黒帯の先輩達にガンガンと鍛えられるし、若手の後輩達もどんどん育ってきて、心理的にも肉体的にもかなりしんどいように見聞きしています。そしてキックを辞める頃の私がまさにそんな状況でした。いつもの練習メンバーの中では、かなり上位の数人に入るのだけれど、もっと上のプロやプロ候補生達とのスパーリングにはついていくことができずに、その辺で辞めてしまったのです。年齢を理由にはしたくないのですが、ケガや故障が直りにくくなり、スタミナもつかずに、2級の茶帯レベルでそのジムを後にした、という形でした。 (この後の太気拳への入門の経緯は、「第一部の(自序2)」の部分をご参照ください)

 さて、太気拳に入門して一年目の私は、ある意味で組手やスパーリング、突き、蹴りといったものを封印していました。(格好良過ぎかな?)それは太気拳の動きが、それまでに慣れ親しんできたものとは、全く異質であると感じていたからです。そして二年目に入ってから、太気拳での初めての組手稽古を経験し、その後は、Kさんとのスパーリング稽古会、夏合宿でのグローブ組手などを経て、現在に至っています。

 次の章からは、私がどのようにしてスパーリングや組手に取組んでいたのかを書いてみようと思います。

【平成12年・夏】網を張って迎え撃て

 一年目の割と早い時期に、ストレート系のパンチに対しての太気拳での防御技術のひとつを天野先生に教えてもらいました。この方法は両腕の手首から肘にかけて、ほぼ正方形の形に網が張ってあるようなイメージをもって、手首がこめかみよりやや高い位置になるようにして構える、というものです。ただ、実際には網はないので、相手のストレートパンチに対しては、“交叉法”を使って、「絡めとる」という感じで防御を行ないます。そして相手のパンチを正面で受けることを避けて、接触した瞬間に絡めとりながら外にずらし、同時に顔面を反対方向へずらすようにするのです。こうする事によって、より的確に相手のパンチを防御することが可能となります。

 キックボクシングをやっていた頃、元はフルコン空手を習っていた経緯から、蹴り技に頼りがちとなり、顔面パンチの防御が、最後まで苦手なままでした。フック系のパンチに対しては、アームブロックを教わって、「少しは出来るかな」という感じだったのですが、ストレート系のパンチに対しては、パリングや片手を前方へ伸ばしてもう一方の手でブロックするやり方や、スウェーの技術なども教わってはいたのですが、そのジムを辞める頃にもまだ、ストレート系のパンチは捌ききれないというか、恐怖心が拭いきれずにいました。しかしこれは、パンチのみのスパーリングの回数をもっと増やして、ある程度ボコボコに殴られながら、痛い思いもして、殴られることに慣れていくという経験も必要だったのではないかと、後になって考えたりもするのです。

 さて、前述の“網を張って迎え撃つ”防御のやり方ですが、実際にこれは、ストレート系のパンチに対してひじょうに有効でした。この方法だけで、ほとんどのストレート系のパンチを捌けてしまうので、かなり気持ちに余裕ができたように思いました。

 しかしこのままでは、フック系のパンチに対しては対応出来ないようで、今度はフック恐怖症になってしまう、という逆転現象が起こり、またそれまではさほどもらったことの無かったミドルキック等にも苦しめられるようになってしまったのです。

 太気拳では、パンチや蹴りの防御のためにブロックをするという思想を持ち合わせていません。だとしたら、どのようにしてフック系のパンチや、廻し蹴りや、ローキックを防御しようと言うのでしょうか。私自身、この辺のところが一番苦労した点でもありました。何せ、それまで培ってきたブロック技術を、全て否定しなければならなかったのですから・・・・。

【平成13年・春・その1】太気の構えはボディがら空き?

 太気拳に入門する以前に、雑誌や書籍において、太気拳や意拳の組手の構えを見たときに、「こんなに脇が空いていて良いいのだろうか?」と不思議に思っていました。メジャーな現代格闘技である空手やキックをべ―スにして考えると、そういう構えでは、アゴやテンプルのガードが甘いし、ミドルキックも入りやすいのではないだろうかと、疑念を抱いていました。

 私が見た本にどういう写真が載っていたかというと、それはまさに半禅と同じフォームで、手だけが拳に握られていました。また拳にグローブを着けている写真もあったように記憶しています。

 そして私が太気拳に入門後、先生に教わり、身につけた構えも、ほぼそれと同じフォームでした。但しひとつの局面を切り取れば――という条件付きとなります。なぜなら太気拳の構えは、同じ形でそのままでいることは無く、常に手足をぐるぐると、あるいはゆらゆらと動かし続けているからです。そして脇が空いているように見える、その肘と腰骨の間には、見えない意識という糸が幾重にも張り巡らされていて、「脇が空いているように見えても、実際には空いていない」――というのです。

 そうは言っても、それは言葉の綾かもしれないし、本当にそうなのかもしれませんが、要は、相手のミドルキックを全くもらうことが無ければ、それで良し。もらってしまえば、意識の糸もへったくれもないのです。

【平成13年・春・その2】防具付き組手練習会

 二年目の春の花見のときに行なわれた、私にとっては初めての太気拳での組手稽古のあと、インターネットのホームページを通じて、横浜近くで打撃系格闘技のサークル活動をしているKさんという人と知り合いになり、そのサークルの方へ月に一回程度の割合で、参加するようになりました。

 Kさんは、30代の会社員ですが、幼少の頃から剣道等に親しみ、高校、大学時代は少林寺拳法部に所属し、卒業後は会社勤めの傍ら、キックボクシングのジムにも通いづめ、新空手の黒帯を持ち、多種多様な試合・大会での経験も豊富な実力者です。

 彼の活動は、他流派への出稽古や他の空手サークルへも波及し、スポーツチャンバラ等もかじっていて、自称「単なる武道オタク」とのことなのですが、私の印象では「闘うサラリーマン格闘家」という風貌に見受けられるのです。

 この打撃系格闘技のサークルでのスパーリングは、フルコンルールでやったり、ヘッドギヤとグローブを着けての顔面有りもやる、という感じで行なわれているのですが、私がKさんと初めてお会いして、その練習会に参加させていただいたのは、確か5月の連休の時ではなかったかと記憶しています。

【平成13年・春・その3】防具の死角

 さて、そんなKさんとのスパーリングですが、ほんとうに私の方が胸を借りるという感じで、結構やられっぱなしでした。最初は、素面で16オンスのグローブを着けてスパーをしていたのですが、Kさんが野球のキャッチャ―のような面の防具(MW社製)を2ヶ持ってきていて、私もそういうのを使ったことが無く、まあ何事も経験と思って、それを着けてやってみたのですが、はじめから「防具をつけると視界が狭くなり、その防具に慣れていない人は不利だよ」とは言われていたのですが、いざスパーリングを始めてみると、蹴り足は見えないし、横も見えないし、ほんとうに前の限られたスペースしか見えないな・・・と思った瞬間、右フックをもらい、目の前が真っ白になって、ダウンを喫してしまいました。その後、私がこの面を二度と着けなかったのは言うまでもありません・・・

 とはいっても、私がフックをもらった事を、防具の死角のせいにばかりはできません。なぜなら、そのあとの防具無しでのスパーでも、何度となくKさんの左右のフックの餌食となっていたからです。前述の“網を張って迎え撃つ”防御のやり方で、ストレート系のパンチは捌けていたのですが、フック系のパンチは、本当に泣きたくなるほどにもらってばかりいました。

【平成13年・初夏】それでも脇があいている

 5月と6月の練習会では、大体そんな感じの、フックでやられてしまうというような内容が多かった様に思います。そして7月の練習会の際には、極めつけにキツーイ左ミドルキックを一発お見舞いされ、またもや右アバラを負傷してしまいました。後で、他のメンバーに聞いたところによると、じつはこの左ミドルはKさんの得意技だったのです。

 さすがにこれには、フルコン空手時代、キックボクシングをやっていた頃を通じて、廻し蹴りをもらってアバラをいためた事が一度も無かった私は、かなりショックを受けました。「やはり、太気拳では脇が甘いのだろうか・・・」と思ったりもしたのですが、太気拳をはじめてまだ一年半にも満たない者が、「太気拳が、どうのこうの――」と言うのは、おこがましい限りですし、早い話、自分自身が未熟者なのです。左様、私の場合「脇が空いているように見えて、ほんとうに空いていた」――と言うまでことなのです。

【平成13年・夏・その1】歩法が命

 この練習会の後はいつも、「これは、何とかせねば・・・」と反省する事しきりで、先輩や先生にもアドバイスを求めたり、自分なりに自主錬の立禅や探手のなかで色々と趣向を凝らしてみました。

 A先輩からは、「あれっと思った時には止まってしまわずに、とにかく動いて動いて」ということを。R先輩からは、「相手の間合いで闘わない、相手のペースには付き合わないで・・」ということを。そして天野先生からは、「まず歩法において、相手と向き合った際に、相手のパンチと蹴りの射程範囲(間合い)に対して、そこを出たり入ったりするような歩法」と「射程範囲のもっと外から一気に攻め込むような歩法」をアドバイスしていただきました。また「中途半端な間合いにボォ―と立ち止まっていないこと」「立禅の時には特に肘と腰骨が繋がっているような感覚を作っていくように」とのアドバイスもいただきました。

 しかしこれは、実は毎週の稽古の中での推手のときに私の欠点として、いつも先生に指摘されている点でした。推手のときでさえ脇が空いてしまっているのですから、スパーリングの際にそこを蹴られてしまうのは、当たり前の話です。

 このころから、毎日の朝練の中に探手(シャドーボクシングのようなもの)を取り入れました。最初の頃は“練り”のような動きの“推手の探手”といった感じで、防御を主に意識して行なっていました。相手からの攻撃を想定し、フックはどう避けようとか、廻し蹴りにはこう・・等々といろいろと工夫しながらやってみました。

 そして8月の鎌倉打撃練習会、Kさんとのスパーでは足(歩法)を使うことによって、大きなダメージははもらわない様になっていました。とりあえず第一ステップとしては、“たいへん良くできました”と自分を褒めてあげたくなりました。出稽古の際には、誰も自分の組手内容や課題に対しのアドバイスをしてはくれませんので、“反省点は反省する。良くできた時は自分を褒めてあげる”ということも、このときに学びました。

【平成13年・夏・その2】かわしてばかりで不甲斐ない

 9月の練習会でも、私のディフェンス技術は冴え渡り??、大きなダメージははもらうことなく、スパーをこなすことができましたが、もう自分を褒めることはできません。「いつまでもこんな逃げてばかりいるような事をしていてはいけない・・・」と反省する事しきりです。

 スパーリングや試合において、相手からの攻撃をかわしてばかりいるのでは、逃げてばかりいる事と内容的には何ら変わるものではありません。やはり自分の方から有効な攻撃を出さないことには、「消極的」「判定負け」と思われるのは当然のことで、とにかく内容的には話になりません。本当に不甲斐なく、悔しくて悔しくてしかたがなかったのを今でもはっきりと覚えています。

 次の日から、毎朝の自主練の時の探手では、それまで防御を中心に行なってのを、攻撃をメインに、動きの中でパンチや蹴りをどんどん織り込んでいき、体になじませる様な作業を行いました。朝練の中のほんの10分ほどの時間ですが、大汗をかきながら、「パンチ、動いて、パンチ、かわして、連打、動いて・・・」と相手をイメージしながらやるようにしています。

【平成13年・夏・その3】無我夢中のグローブ組手

 話は前後するのですが、8月には太氣会恒例の夏合宿が行なわれました。

 この年の9月に、太気拳・意拳交流ということで、北京の姚承栄先生のところへのツアーが予定されていました。そして、北京ではグローブを着けた組手稽古も行なわれているとの事で、いつもは素手ばかりでやっている我々も、少しは慣れておいたほうが良いだろうということで、8月の夏合宿のときにはグローブを着けての組手稽古を何度か行ないました。

 天野先生は、常々「推手で勝てない人には、組手でもかなわないよ」と言われていたのですが、このことに私は少々疑問を持っていました。「たとえ推手で押し負けてしまうような相手であっても、パンチとキックの応酬になれば自分だってそれなりには行けるだろう」という自負心があったのです。

 そしてこの夏合宿でのグローブ組手で、そんな私の考えが浅はかであった事を思い知らされました。先輩のAさんやRさんとの組手では、広い体育館の壁際まで押込まれボコボコにされましたが、これはまあ当然というか、たぶんこうなるだろうなという予想はしていたのですが、少しだけ先輩の奥Dさんとはもっとこちらが優位に立てるだろうと思っていたのです。

 奥Dさんは私より2年程先輩ですが、格闘技歴はほとんど無く、奥Dさん自身もパンチやキックの応酬にはあまり自信がなさそうな感じだったのですが、いざ私と立ち会うと、その迫力というか、突進力がものすごく、私のパンチも何発が入ったようでしたが、全体的に見て完全に私の方が完全に押されっぱなしでした。

 いつもの稽古の中での推手では、確かに私は奥Dさんに押されてはいましたが、AさんやRさんほどにその格差を見せつけられる事はなく「これくらいだったら組手になれば俺の方が強いだろう」などと高をくくっていたのですが、これが大きな間違いだったことに、このとき初めて気付かされました。

 「先生!質問があります。何故ですか?何故推手で勝ててると組手でも勝ててしますのでしょうか? 私には大いなる謎なのです」と聞いてみたかったのですが、この年の秋頃から、自分でも自分の推手に自信が持てるようになってきて、なんとなくその答えが見えてきたようなのです・・・。

 (しかしながら、この後、米国における同時多発テロの影響で、北京行きのツアーは中止となってしまいました。)

 

【平成13年・秋】攻撃の穴を攻められまたもやダウン

 10月の練習会においては、積極的に自分から攻めていくように心がけました。ところがこれが裏目に出て、返り討ちにされてしまったのです。いったい何処がいけなかったのでしょうか。攻撃後の穴に的確に返されていたように思います。たぶん攻撃の後の自分の体勢が崩れていて、相手から攻めまくられたときにパニクって、固まってしまった所をボコボコにされたのではないかと思います。A先輩に言われた「あれっと思った時には止まってしまわずに、とにかく動いて動いて・・」という言葉が脳裏をかすめました。

 まあ、なんでもそうですが、そう簡単に急にスパーが強くなるということはないものです。やはり回数というか、経験の数を踏まないことには、上達しようもありません。とにかく一喜一憂せずに、コツコツと楽しみながらやって行くことが、大切なのではないでしょうか。「また今度、がんばろぉーっと。」急に楽天家になってしまう、現金者の富川君でした。

【平成13年・秋・冬】腰痛再発で、しばらくお休み

 10月の後半からは推手にちょっと手応えを感じ始めていたのですが、腰を痛めてしまい、11月12月は休養の日々でした。1月になってやっと稽古に復帰して、しばらくのブランクのせいで衰えていないかと心配でしたが、そこそこに推手もできました。1月2月でかなり腰の具合も回復してきていたので、3月くらいからはKさんとのスパーリング稽古会に参加しよう思っていました。

【平成14年・初春・その1】グローブ立禅で見た夢

 グローブをつけて立禅?・・・これは、昨年の夏合宿の時にA先輩に教えてもらいました。普段は素手の推手や組手をしているので、グローブでのスパーに備える為には、グローブをつけての立禅で感覚を確かめておく、ということでした。

 Kさんとのスパーに備えて、私も少々グローブ立禅などをやってみようかな、と思い立ち、16オンスのグローブをこっそりカバンの中に忍ばせ出勤し、妻には残業と偽って夕方の公園でひとり練習をやりました。グローブを着けて、はじめは立禅、半禅を。そして這いから練へ。最後は探手。感覚を確かめるように体を動かしてみました。「んん、これなら行ける!」なんかその気になってきています。Kさんとのスパーが楽しみです。

 ふだんはひょうきんでお茶目なKさんも、スパーリングとなると人が変わったように怖い人になる。私はKさんの目が怖い。スパーリングで立ち会うとその目がこちらを見つめている。そしてじりじりと間合いを詰めてくる。「冷静になって、歩法を使って、全体を見るように・・・」自分に言い聞かせる。とその刹那、Kさんのストレートが飛んでくる。ボンボン!私のオデコにクリーンヒット。コンビネーションで左ミドル。もろに右脇腹にもらうが、何とか見えてはいたので致命傷は免れる。恐怖心は目の前の視野を狭くしてしまうようだ。いつもは出来ている相手の全体をとらえる眼が、出来ない・・・。Kさんの目、掲げられたグローブ、そこだけに視線が固まってしまい、それでいてストレートはもらってしまう。「情けない・・・悔しい・・・」そんな思いだけが残った。

 自分ではもう少しまともなスパーが出来るように思い込んでいただけに、終わった後は“がっくし”であった。グローブ立禅で、すっかり夢の国の住人になってしまっていたようでした。

【平成14年・初春・その2】広角レンズのように

 そうはいっても、悔しい悔しいばかりでは先が無い。問題点は何なのか。何をやるべきなのか。考える。稽古する。Kさんを見据え、禅を組み、這いを行なう。探手もやる。目線をもう少し上を見る様にしてみたらどうだろうか・・・。相手の肩越しに、ちょっと向こうを見るような感じで・・・。電車の中で目の前に立った人や、道を歩く時に前を歩いている人の肩越しに少し向こうを見るようにしながら、相手の頭の先から足の先までを視野の中に捕えてみる。ちゃんと足先までが見えている。「うん、これはなかなかいい」と思い、数日間これを続けてみた。あと、目はカッと見開くよりは、うす目のようにしてみてはどうか・・・等々と考えてもみた。ふと、スパーの様子を思い出す。「あっ、これはやっぱり使えない・・・スパーで相手が構えているときには、肩のところにはグローブがある・・・ダメだ・・・。でもそれなら、もう少し上を見るようにしてみては・・・ちょっと上すぎるようだな・・・」そして結局、「どこを見るというよりは、全体像を捕えられるように、広角レンズのような気持ちでやってみよう」ということに落ち着いた。

【平成14年・初春・その3】半禅、またの名を技撃椿

 Kさんとのスパーの様子をちくいち天野先生に報告していたわけではないのだが、たまたまなのか、「探手のときの構えを半禅の姿勢にしてごらん」とアドバイスがあった。今までは相手に正対して、あまり半身にならずに構えていたのだが、半禅の姿勢で構えて、足先が相手に向くようにすると、ちょうどその足の上に手がきて、その手で顔が半分隠れる。意拳では、半禅のことを「技撃椿(ぎげきとう)」という。これはすなわち「組手のときには、こう構えるんだよ」と言っているのと同じことだ。今までは手を廻すことに気を取られすぎていて、半身になることを忘れていた。ここで再び半禅のフォームの有効性を思い起こす。次のスパーまで、あと一週間しかない。なんとかこのフォームを体になじませて、使えるようにしてから臨みたい。「妻にはまた、残業で遅くなると言い訳をしなくては・・・」という思いが頭をよぎる。

【平成14年・初春・その4】無理を承知でグローブスパー

 体調が悪い。ふくらはぎと太ももがパンパンだ。体の芯に疲労感が張り付いている。完全にオーバーワークだ。土曜日はマッサージに行き、足の筋肉は少しはほぐれた様だが、一日休んでも疲労感が全く抜けない。困ったものだ。そうはいっても今日はKさんとのスパーの日。無理は承知で出かけてみた。体が重い。足が動いていない。惨敗だ・・・。仮に体調が万全であったとしても、たかだか1週間や2週間の付け焼刃では、まだまだかなう相手ではない。自分の実力が少々あがってきたときに、相手の本当の強さが判るというときがある。太気の推手でもそうだが、グローブスパーでもそれは同じことのようだ。きのうまでは何とか乗り越えられそうだと思っていた山が、ふもとまでくると実は一朝一夕には乗り越えられないものだと気づく。

 反省点は、いろいろとあった。攻撃のその刹那を感じ取ること。一瞬を見切る勘と、紙一重でかわす勇気。そのどれもが相手のほうが私より一枚も二枚も上手であった。というよりも私には何も出来ていなかった。

 はたしてKさんを越えられる日が来るのだろうか。それは1年先かもしれないし3年先かもしれないし、10年経っても無理かもしれない。だとしたら何の為に稽古するのだろうか・・・。焦ってはいけない。やり続けること。継続する意思、信念。それこそが大切なのではないだろうか。2年目の終りにあたり、やっとこのことに気がついた。