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会員・会友員のテクスト 富川リュウの太気拳修行記

平成16年・春めいて

逃げる右肩

 組手の時に、手を前に出しすぎてしまうことをやめるのが、今の私の最大の課題だ。その原因はいくつか考えられる。ひとつめは気がせいて手だけが前に行き、体が残ってしまうから。もうひとつは顔を打たれるのが怖いから手だけを前に出してしまう。そしてあとは「打つ」ことにこだわっているから。打とう打とういう気持ちから手だけを前に押しやり、自分で自分のフォームを崩してしまう。

 ようく考えよ~♪姿勢は大事だよ~。今一度、自分の禅と這いを見直してみる。立禅ではちゃんと肘が自分の周りに着いている。這いでは、右足に乗るときに左肘が自分の周りにあって、指関節、手首、肘、肩、肩甲骨まではギュッとはまっていく感じだ。左足に乗るときには、右肘がちゃんと自分の周りに・・・アレッ無い!

 肩が逃げていく。肘も離れていく。まあ何と言うことでしょう!

際立つスケートの刃

 「足裏にスケートの刃の感覚をもて」これはかの有名なクラーク博士ではなく、天野敏氏の言葉である。一般的にフットワークを要求されるスポーツでは、初心者に対してカカトを少しだけ浮かせて、前足底の部分だけで立っているようにと指導することが多い。太氣拳ではちょっと違う。もちろんそういう使い方もするが、もっと精細に、つま先のみ、カカトのみ、内側荷重、外側荷重、といった使い方をする。要はケース・バイ・ケースで、それぞれを使い分けるってことだ。

 そのヒントとして先生が言われたのが前述の「スケートの刃の感覚」である。足の裏に一本の線を引く。足裏全体が地面に接していても常にその線を意識しておく。その刃で踏ん張り、それに沿って力を出す。禅、這い、練り、そして推手で、この感覚を磨いていく。そうするとだんだん体の動きにキレができてくる。

右きき上手

 私の私の彼は~♪♪左ききぃ~と、昔のアイドル歌手が歌っていた。あれはたしか麻丘めぐみの謡だったか・・・?

 唐突に先生が言う。「右利きにはさ、右利きの利点があるんだよな」と。これは別に、右利きと左利きのどちらが有利なのか?という話ではなく、何故人間は両利きではなく、左右どちらかが利き手、利き足になっているのか?という問い掛けである。先生曰く「両利きだったらさ、あっと思った時にどっちの手足を出せばいいのか、咄嗟に判断がつかないじゃない。だから人間はさ、必ずどちらかが利き手・利き足になってるんだよ」って。有線から麻丘めぐみの歌が流れると、先生のこの言葉を思い出す。

 子供の頃、ひ弱だった私はテレビアニメのアタックNo1を見て、左右両利きに憧れたものだ。利き腕である右腕の筋力も貧弱だったので「両利きだと友達に自慢できるかな」などと思い、一時は左手で箸を持ったり字を書いたりと、無駄な努力に励んでいた。

 半禅には左右差がある。右足が軸足の時には、左足と左手が前になる。たいてい、新しい課題に取り組もうとしたときに、はじめにその課題が上手く行くようになるのは、この右軸足の半禅である。右足のほうが利き足なので筋力もあり、左に比べると器用に動かせてコントロールが効くからだ。逆に左の半禅では、なかなか新しいことに馴染むのに時間が掛かる。

 一方で利き手・利き足がデメリットとなることもある。去年の夏頃だったであろうか、推手の際に天野先生から「その貧相な右手をなんとかしろ!」と何度も注意されていた。左手では、相手の圧力を全身で受け止めるような体の使い方が出来ているのに、右手では、それが出来ないでいた。右手は腕力があって器用に動かせてしまうので、どうしても手だけで対処しようとしてしまうようで、その癖がなかなか抜けないでいた。

 「禅では出来てるんだよ。這いでも練りでも、手だけじゃなく、全身のまとまった力が手に乗るようになっているじゃないか。なんでそれが推手できないんだ!無いものを出せないのはみっともないことじゃない。でもね、あるものを出さないのはみっともないことなの。だから「貧相」なんだよ」―――その貧相な右手を解消するには結構な時間を費やしたような気がする。そしてこんなときには不器用で弱っちい左手が、右手の先生となる。左手が前の半禅を組み、自分の体に問い掛ける。「左手はどんな感じ?左肩や背中はどうなってる?下半身との協調は?」それをしっかり確認してから、右手を前に半禅。「ハイ、右手クン、左手先生の真似をしてくださいね・・・」

前足はつっかえ棒?

 低い禅をやっているとかなり足腰に負担が掛かる。当然のことながら、はじめは右足を軸にしたほうが良く出来る。そんな低い禅が左右ともに板についてきた頃、天野先生から指摘を受ける。「前足の膝がつま先より前に出てちゃいけないよ。自分の目でつま先が見えるくらいにしておかないと。前足はつっかえ棒みたいな感じ。踵は着かないで、つま先だけを地面に着けて、後ろから押されたときにグッと踏ん張れるようにしてごらん」「そ、そうですか・・」戸惑いを隠しきれない富川リュウ。やっと低い禅が板についてきて良い気分でいたのに・・・たしかに今までは低さにこだわるあまりに、前足もかなり曲がっていた。そして踵も地面に着いていた。それをまた修正しなきゃ。

 それでもこの頃は一週間で成果が出る。日曜の稽古で先生に指摘されたり、新しいメニューを指示されて、毎朝の自主練5日間で体がそれを覚えてくれる。月曜の立禅は居心地が悪い。火曜には右の半禅ができてくる。木曜あたりには左も出来てくる。そして当然、この体の使い方を這いや練りにも応用していく。

 ときに、左が右の先生となり、右が左の先生となることが、短い周期でやってくる。前足のつま先で地面をポワントする(※)と、そのさりげなさとは裏腹に前足のハムストリングスがヒクヒクしてくる。そしてこれをうまく引き出してやると前足が舵(カジ)兼スターターとなり体を前へ運んでくれるようになる。こうなるまでに5日間、ある時は右の方がよく出来て、またある時は左のほうが良く出来る。そんなこんなを繰る返すうち、左右ともに出来るようになっちゃうってえあん梅だ。

 右は左を助け、左は右を補う。右には右の得手があり、左には左の良さがある。男と女、陰と陽、プラスとマイナス、表と裏。ものごとは表裏一体。身を以って森羅万象の真理に目覚めた富川リュウであった。

 (※)ポワント=POINTのフランス語読み。バレエやダンスなどで足先で床を指差すしぐさのこと。

腰だけで歩く

 低い禅の延長で低い這いをやってみると、これがまた足腰にキツイ。「足で動こうとするからキツイんだよ。腰だよ、腰だけで歩くんだよ」先生が見本を見せてくれる。なるほど姿勢は十分に低く重い感じではあるが、同時にスムーズで力みがまるで無い。そうっと真似してみる。「それじゃダメだよ。体重が移動していない。首がずっとまん中にあるじゃないか。ちゃんと一歩一歩、右足に乗る。左足に乗る!」

謎のトコトコ歩き

 「よしそれじゃこれをやってごらん」這いの稽古もそこそこに、練りの稽古を指示された。両手をぐるぐる廻しながら腰だけで歩いて、前進後退を繰り返す。そしてどんどん速度を速めていく。「もっと速く!」先生の激が飛ぶ。これは練りのトコトコバージョンである。名づけて「謎のトコトコ歩き!」何故なら動きがとっても怪しいのだ。

 日が西に傾く黄昏時、拳士たちの影がぼうっと長くなる。先生は日に背を向けて、俺の影を見ろと弟子たちを促す。首の位置がよくわかる。先生の影は、一歩一歩で頭の位置が右へ左へと移動している。ところが私の影は、足を踏んでも頭の位置はまん中のまま。これじゃあいかんと、頭を一生懸命左右に振ると目が回る。「振るんじゃなくて、軸は真っ直ぐで平行移動するんだよ」そうは言われても、これはなかなか難しい。さて明日の月曜から特訓だ。金曜までに出来るかな?

ミモフタモナイ

 3月に入るといよいよ春めいてきて、桜の開花予想などがニュースになる。今年はまた開花が一段と早まって、3月末にはもう満開の見ごろを迎えるらしい。去年より早い4月4日が太氣会の花見の予定日であるが、その時にはもう桜が散ってしまっているのではないかと心配になる。「でも先生は花が無くても飲めればいいんですよね」などと悪態をつくと「そんなミモフタモナイことを言うなよ」と切り返される。

 手元の辞書によると、[身も蓋もない=言葉が露骨すぎて憂いも含みもないこと]とある。なるほどこれは、いつもの私の悪い癖。時に、気づかないうちに露骨な言葉で人を傷つけてしまう。まあ先生は心もタフだからそんなことはないだろうけど、世の中にはそうじゃない人も多いようで、私の心ない言葉に傷つき、去っていった数々の女性達・・・あの頃は私も若かった・・・などと感傷にひたっている場合ではない。組手なのだ、もうすぐ。

探手はバッチリ

 ここのところの進歩には目覚しいものがある。一週間でかなり身体が変わってくるのが実感できる。探手(※)の仕上がりはバッチリである。探手で激しく動き回っても肘を自分の周りに置いておけるようになってきた。大きく打ち込むときにも手だけではなく、身体ごと前へ持っていけるようになった。

 自分なりに分析してみると、探手が変わった事には三つの要因が思い当たる。ひとつは肩甲骨がよく動くようになってきたこと。これにより、肘の動きが小さな範囲であっても前腕に圧力が乗るようになってきた。二つ目はトコトコ歩きの要点である、体重移動が片足ずつに乗るようになってきたから。そして三つ目はトコトコ歩きを繰り返す事で肚とそ頚部に柔らかさができてきたこと。そんなこんなで探手の仕上がりはバッチリである。しかし一抹の不安が残る。花見の組手の前前日まで、2週間も出張していたし、その前の週も稽古に行けなかったので、まるまる3週間も対人稽古をしていないのだ。

 4月2日金曜日の最終便で羽田へ降り立つ。ややお疲れモードである。4月3日土曜日、元住吉の稽古に1時間ほど参加。推手をやって体の感覚を取り戻す。「ずっと練習に出てなかった割には、身体が良くまとまっていたね」と先生に言われ嬉しくなる。出張先でも毎朝稽古していた甲斐があったというものだ。さて4月4日は花見で組手で、しかも今回は佐藤聖二先生ひきいる拳学研究会との交流会も兼ねている・・・。古くからの先輩達はずっと以前に拳学研究会の方々と手合わせしたことがあるようだが、私は佐藤先生に会うもの初めて。はてさてどうなってしまうのでしょうか?

 (※)探手(たんしゅ)とはボクシングの練習でいうところのシャドウボクシングに相当するもので、架空の相手を想定して攻撃や防御の動き行うものです(この修業記を初めから読んでいない方のために補足しました)

太気拳拳学研究会

 「ずいぶんいっぱいいるな~」15分ほど遅れて岸根公園に到着すると、立禅を組む怪しい人影がいつもより多い多い。ざっと数えても40人近くいる。佐藤先生の姿を見つけ、さっそく挨拶に行く。にこやかに「よろしくお願いします」と頭を下げられる佐藤先生。その丁寧さに、こちらの方が恐縮してしまう。

 準備体操をして、立禅や這いなどを行い30分ほどが経った頃であろうか、天野先生から「集まって!」と号令がかかり、それぞれの紹介がおこなわれた。そして、まずはお互いに見知らぬ相手と推手をしましょうとのこと。自分は胸を貸していただくつもりで出来るだけ先輩を思われる方々と組むようにと心掛けた。そんな中、僭越ながら佐藤先生とも推手をしていただける機会に恵まれ、とても光栄であった。佐藤先生との推手では、一旦ちょっとでも崩されると立て直す隙を与えずに一気に発力に持っていかれる。そしてあっという間にすっとばされてしまった。天野先生とはまた何かが違い、その強さと怖さが印象的でありました。

今後の課題

 自分の組手は、まずまずの出来であった。とりあえず今もっているパフォーマンスは出せたと思う。それに何より楽しんで組手をできたのが良かったと思う。でもなんとなく「このままでいいのだろうか」という、もやもやした感じが心の中に漂っている。自分の稽古の方向性は間違ってはいないと思う。前回よりも進歩はしている。だけど、どうも後手に回って守っているだけのようにも感じる・・・。

 花見の席で、A野先輩がいいアドバイスをくださった。「富リュウもいい線までできてるよ・・・。ただ一発の怖さがないとね・・・それがあるのとないのとでは大違いだからさ。リーチを生かしてポーンて自分の得意なのを出せるようにしてみたらどうかな。これをもらうとヤバイって、相手に思わせる怖さがないとね」って。心の中のもやもやがスーっと晴れていくような的確なアドバイスであった。「そうだよ、それが足りないんだよ!今の自分には――」

 拳学研究会の方々との交流を通して、また違った角度から自分の拳法を見直すことができました。そしてなにより太気拳を志すこんなに多くの仲間達がいることを嬉しく感じました。今回お相手くださった拳学研究会の皆様には、この場をお借りして御礼を申し上げたいと思います。ありがとうございました。そしてまた、胸を貸してください。お願いします!