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会員・会友員のテクスト 富川リュウの太気拳修行記

平成14年・夏の章

立禅は心の支え

 このご時世、まわりを見渡しても、あまり明るいニュースは聞きません。朝夕の通勤電車の中では、みんな浮かない顔をしています。私の職場でも、あまり雰囲気は良くありません。長引く不況、新しい賃金システムの導入や早期退職制度などなど、これまでの価値観が急激に変化していく中で、誰しもが、毎日の生活の中に漠然とした不安を抱き、何か心の拠り所を求めているように思います

 私にとって、毎朝の立禅は心の支えとなっています。出勤前に立禅をすることで、気持ちがリフレッシュされ、充実した気分で出勤できます。もし、毎日の生活の中に朝の立禅の時間がなかったら、寝起きがとっても悪いことでしょう。朝起きて、「ああイヤだな、また仕事か…」という気分になると思います。でもいつの頃からか、「よし、今日も立禅やるぞ!」という気分で目覚めるようになりました。だから仕事も楽しくこなしてます――と言いたいところですが、もう一人も自分が「ホントかよ!」と突っ込みを入れています。まあ、それはともかく、毎朝の立禅が私の中で大きな存在となっていることだけは確かなようです

第三の歩法

 私の習った空手やボクシングなどでは、後ろ足で蹴る力を使って前へ進んで行くフットワークが一般的でした。これに対して太気拳では、股関節の開合を使って歩法を組み立てているようです。今まで天野先生に習った歩法は、大まかに言ってふたとおりのものがありました。ユニコーンの打拳の前足を引き上げる様に使う、あるいは前足を蹴り出すように使う歩法。そしてジグザグの加速歩法の後ろ足をシフトさせて使う歩法、そして今回ご紹介するのが、最近教えていただいた言わば第三の歩法です。後ろ足のシフトを使う歩法が後輪駆動とするならば、この第三の歩法は前輪駆動といえるでしょう。前足をふんばって、地面を引っ掻くようにして体を前へ運んで行きます。この歩法の使い方がよくわからないまま練習していると、天野先生に「なんかムーンウォークみたいだな」と冷やかされてしまいました。(ちなみにムーンウォークとは、マイケルジャクソンがダンスの中で時折使う、前に進んでいくような足使いをしながら、後方へ滑るように動いていくワザのことです。)

 色々な歩法の練習を繰り返していると、後輪駆動にしても、前輪駆動にしても、結局は開合の力を使っているといことが判ってきます。ただ、それが判っただけでは、出来たことにはならないし、出来たつもりでいても、後から考えると出来ていなかったんだな、と思い起こす事も多々あるのです。判ることと出来ることの違い。出来てると思うことと、出来ていないことに気付くことの違い・・・

 出来ていないことに気が付いた時にはじめて、次のステップへの階段が用意されるのです。そして、それが新たな課題となって、階段を一歩一歩登って行くように上達していく・・・そんな面白さが太気拳にはあるようです

太気の歩法は、大地のマッサージ?

 昨年の忘年会組手の感想で、「A先輩は小柄ながら素早い動きで相手を翻弄していた」というようなことを書きましたが、本当にA先輩の相手の懐へ飛び込む速さには、眼を見張るものがあります。これは推手の時にもそうなのですが、A先輩が動いていると、とてもスムーズに、自由自在で素早く、まるで滑るように、それでいて重さのある動きをしています。そしてその足元を観ていると、なにか地面をマッサージしているようにも観えてしまうのです

 自分が、歩法の基本稽古をするときにも時々、地面をマッサージするようなイメージでやってみます。足裏全体を使うようにして、地面をつかむようにしたり、あるいは地面を揉むように、叩くように、そしてさすったり、なでたり、こすったりしながら、大地との対話を楽しむのです。そして、大地と自分との関係がうまくいったときには、自分がスッと動けています。歩法というと力学的な説明になってしまいがちですが、こう考えると、なにかロマンチックな趣にもなってきますね。ここで、「太気拳にはロマンがある」とまとめてしまうのは、ちょっとこじつけ過ぎでしょうか

閉じる力で一本にまとめろ!

 天野先生から私の組手に対してのアドバイスがあった。「前へ出て行くときに足の開合、特に合わさる動き、閉じる力がないから、体がバラバラになるし、スッと前へ出て行けないんだよ」とのこと。また、推手などの歩法においても「一本にまとめて、そこから、引き裂く。閉じて、引き裂く、そして閉じる、という感じを意識して行なうように」とのことでした。またこの事について、先輩のI井さんが「ヒザから入って行くように意識して。ヒザで方向を決めるようにすると、体がまとまってくるよ」と教えてくれました

 今年の初めくらいから、揺りの動きの中で、上体だけでなく下半身にも開合が出来る様な感じがあったのだけれども、このアドバイスを受けて改めて気をつけてやってみると、「開」は出来ていたのだが、「合」は出来ていなかったことが判明した。そして「合」を意識して行なうと、また違った感覚が体の中にできてくる。そして、這いの稽古でも、軸足のヒザの内側への抑えと寄せ足のヒザ頭を意識して行なうようにしてみた。これを2、3日続けていると、自分の体の中の軸がより明確になってきているように感じられてきた。このときになって、這いで創っていくものが、自分の軸の正確さ、というか精密な針のように細い一本の軸にまとめていく作業なのではないか、と思い始めたのです

 正確な軸を創っていくためには、まず、自分の軸がどれだけずれているのかが把握できていなければなりません。逆に言うと、自分が把握できた分だけしか修正はできないということです。コマ送りの這いをやっていた頃の私は、腰を揺すってみなければ、頭の真下に腰があるのかどうかさえ判らずにいました。だんだんと感覚を鋭敏にしていって、この誤差が判るようになって、この誤差を修正して、そして最小にしていく・・・という作業が延々と続けられて行くのではないでしょうか

 天野先生が、脇腹のすじを痛めたときに面白いことを言っていました。「正確でない這いをやると、痛さで気が付かされるんだよ」と。そう、天野先生において今尚、誤差を修正し続けているのです・・・

システム・インテグレーション

 太気拳では、「体がまとまっている」という表現がよく使われる。前述の正確な軸の感じもそのひとつだし、それ以外にも手足の動き、上体と下肢の動きなど、様々な系統に対しての「まとまっている」ということのようだ

 「まとまっていない感じ」は、立禅の中では止まったままので、ちょっと判り難い。揺りや這いにおいては、「あっ、このときに自分はまとまっていないな」と判るときもある。推手では相手がいるので、もっと判り易い。先輩と推手していると、その部分に付け入られてしまう。後輩とやっている時には、「あっ、この姿勢ではいけないな」と感じることがある。天野先生は言う。「自分がまとまっていないな、と思えるだけで、感じられるだけで、じゅうぶん凄いことなんだよ・・・だってそれが判らない人達がほとんどなんだから」と

 自分でも、「まとまっている」ということがどういうことなのか、いまひとつよく判らない。きっとあるレベルにまで到達しないことには、その感じは判らないのかもしれない。あるいは、前述の正確な軸の感じと同じように、それが判った分だけしかまとめられないのかもしれない。一般の方々には、「まとまる」というよりは、「統一する、統合する」と表現した方が判りやすいかもしれない。しかし、何と何を統合しようと言うのか。あるいは何が何に統合されると言うのか。天野先生は、月刊誌・秘伝への寄稿の中で「部分と部分を、そして部分と全体を、さらには肉体と意識とを統合させる」と書いている。「それを含めての統合であり、統一であり、まとまっている」なのである。いまどきの言葉で言うならば、システム・インテグレーションといったところか

 と、ここまで書いてきて気が付いたことがある。この項の始めに「『まとまっていない感じ』は、立禅の中では止まったままので、ちょっと判り難い」と書いた。そう、立禅の中では、まとまっているのである。あるいは、自分の姿勢、自分の体をまとめるための作業が立禅なのではないだろうか。立禅では僅かに動く。大きく動いてしまっては判らないことを、僅かな動きの中で確認していく。ちょっと手を上げる・・・全身を協調させて手を上げるには、どこがどう動くのか。天野先生がヒントをくれる。「頭が下がって、手が上がるんだよ・・・」と。その感覚を確かめていく・・・手を下げる時にはどうなるのか・・・前へ出すときには・・・捩じるときには・・・。ちょっとだけ動いてみながら、全体を協調させるという感じを確かめていく・・・。この積み重ねが、自分の中の「まとまり」を育んでいるように思うのです

モチベーション

 やる気の出ない時もある・・・。そんな時、太気拳はことさら厳しい。何が厳しいのかというと自分で全てを組み立てなければならないことだ

 A先輩は実に稽古熱心である。土日と続けて稽古に参加しているとのこと。それに加えて、土曜は元住吉での稽古が終わってから養生館の練習に合流し、蹴りや寝技の研究もしているそうである。何故それだけの気持ちを保てるというのか。もう40代に入っているというのに・・・。A先輩が言う「体が動くうちに、やれることはやっておかないとね。今よりもっと年をとったら、太気しかできなくなるんだから。だからあえて今は、自分を追い込むような練習をしているんだよ」と

 さて、自分はどうか。先週は仕事が忙しかった。残業が多く、疲れてしまって、月曜から金曜まで一日も立禅をしなかった。そして今週は、ちょっとした嫌なことも重なって、仕事にもやる気が出ない。そんなこんなで、なんとなく太気拳の稽古にも熱が入らないし、集中できないでいる

 やる気を維持することは難しい。特に太気の稽古は、自主性に任されている部分が多いのでなおさらである。稽古の始まりもみんなが集まってから「ハイ、始まり!」ではないので、「ちょっと遅れて行こうか」と怠けたことを考えてしまったり、途中、立禅や這いの稽古に飽きてしまって、かといって息を上げる歩法や探手をするのもかったるくなってしまうことがある。かったるくなった気持ちをそのままにしておくのも自分だし、再び盛り上げていくのも自分である

 モチベーションを維持していくには、それなりのプランが必要だと思う。毎朝の自主練、週一の合同稽古、問題意識をもって、自分のテーマを持って、自分のメニューを組み立ててみる。立禅、体をまとめるということ、自分の廻りに力を置いておくとはどういうことなのかを探る。這い、閉じる力と引き裂く力、上体と下肢の協調とは何か。そんなことを意識しつつ、歩法、打拳、探手、そして推手に臨む。こんな感じか・・・

 テーマは常に変わる。先週の禅と今週の禅は違う。先週の這いと今週の這いも違う。そして来週は何をどうやるのかを考える。プランを練る。そうすることでモチベーションを維持していこうと考えている

 A先輩がなかなかいいことを言っていた。「継続するということも、才能なんだよね」と。そう、運動神経や体格、体力が優れていることも才能だけれども、それがなくても継続することが出来れば、太気拳は絶対強くなれる。そして「太気は裏切らない」というのもA先輩の名言である

メンタル・スランプ

 今年の夏は残暑が厳しい。なかなか気分が「元気ハツラツっ!!オロナミンCィ~!」と、のってこない。メンタルな部分では、スランプ状態が続いている。ただ、毎朝30~40分ほどの立禅や這いなどの自主練は、欠かさないようにしている。そして気持とは裏腹に、体の方は稽古をやった分だけ、手ごたえのある効果が感じられるのが不思議でならない。自分の腕が、体が、うずうずしていて、何をやっても反応してくる。とくに揺りや這い、練りの中での発見が多い。それはともかく、メンタル面でもはやいとこ「今日も一日、Vっと行こう~!」という感じになりたいものだ

力を失わずに動く

 私が毎朝自主練をしている地域にはカラスが多い。以前NHKの番組で見たのだが、都会のカラスはエサに苦労せず飽食の状態にあるので、ときに“遊び”をやるらしい。ある朝、私が這いをやっていると正面から一羽のカラスが頭上スレスレに飛んできた。これも彼にとっては遊びの一種なのか。普通の人なら驚くだろうが、私も太気拳士のはしくれ、そうは問屋が卸さない。這いの姿勢から、バッと体をかわす

 以前、天野先生から、這いの時に腕や肩に力が入っていると注意を受けたことがあった。「例えば、這いの最中に打拳を打ち込まれても、この両腕がパンパンと素早く動けるように、そんな楽で自由な感じにしておきなさい」これは、『第二部・夏の章 這いの完成形』からの抜粋なのですが、今回の件で「手だけではなく、足も・・・かな」との思いが頭をよぎったのです。また、半年くらい前から探手や推手のときに「もっと腰を落として」と天野先生に言われていて、はじめの頃は「こんなんじゃ、すぐに足がパンパンになっちゃうヨ。勘弁してよ~」というかんじだったけど、最近はなんとなくそれなりに出来るようになってきていた。そして今回カラスの襲撃に遭遇し、体をかわすよな動きを自分がしたときに、「そうか、這いの中で軸を作っていくことも大事だけれども、力を失わずに動くということはこういうことなのかな・・・」と気がついたのです

 その点をふまえ、再度這いをやってみます。両足に荷重が掛かっている時には、どちらか一方へギュッと一瞬で動けるか。軸足に対して遊足が出ている時には、バッと踏み換えて動けるか・・・。自分の場合には、右足を軸足にして左足を寄せ足している途中と差出し足している途中に、力が失われていてバッと踏み換えられない範囲があることが判明したのです。「うんうん、つまり力を失わずに動くっていうのは、こういうことなのネ」と、ひとり納得したのでした

力を途切らせない

 天野先生は「力を失わずに動く」ということを色々と表現を変えてアドバイスしてくれる。曰く、「いつも準備が出来ている」「いつでも力が出せる」などなど・・・。そして「力を途切らせない」というのもそのひとつである

 R先輩に推手のときに注意を受けた。「押されたときに棒立ちになっている」また「自分から発力した後に力が途切れている」と。そして「ヒザに溜めがないから、そうなってしまうんだよ」とのことであった

 しばらくはこの2つのキーワードが、私の課題となりそうだ。「力を失わずに動く」ということと「力を途切らせない」ということ。そしてこれを、立禅、這い、揺りの中だけではなく、対人稽古の推手の中で実現していくこと。まだまだ、長く厳しい道がここにはある。だけど、厳しいからといって、辛いわけではない。辛いからといって、楽しくないわけではない。厳しいことも辛いことも、積み上げていくことで、結果が出せる、太気は裏切らない・・・そう考えると、この厳しさも辛さも、みんな楽しく思えてくるのです。おお・・・やっと私もメンタル・スランプを脱出できそうです。「よっしゃっ!ファイトぉ!イッパ~ツ!!」となんだか急に、むやみやたらとハイになっている富川君でした・・・