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メールQ&A 天野敏のテクスト

ランニングや筋トレは行わないのか

Q:
天野先生
先日はご指導頂き本当にありがとうございました。 自分は天野先生の「中年からはじめる本物の中国武術」のDVDを見て立禅を始めました。ひざを緩める、全身を緩めるとあったので、 立禅を組むと足が震え、体制がつまづいたように前に崩れる、足で耐えようとして気持ちが、足ばかりに行ってしまい、五感を開くという 気持ちの余裕、リラックスが出来ていないので、これでいいのだろうか?と思い質問させて頂きましたが、痛くない立ち方を見つけるまで よけいな事は考えずに続けてがんばろうと思います。

ここでまた質問させて頂きたいのですが、大氣拳とは体力に頼らない方法なんだなと解釈しましたが、稽古の一環としてランニングや空手の様に拳を鍛えたり、上半身の筋トレはいっさい行わないのでしょうか?
今は立禅しかわからないので教えて頂けないでしょうか?

北海道 YS

A:
確かに稽古をする時に体力に頼った稽古をしてもしょうがないと思います。
体力に頼った稽古は、当たり前ですが体力が衰えればそれでおしまい。
面白くもなんともありません。
しかし、体力に頼らないということと体力がなくても良い、ということとは別の問題です。
よく中国拳法に対する憧れに、体力がなくても強くなれそうだから、と言うパターンがありそうですが、 非力な人間が非力なまま強くなると言うのは、単なる幻想です。
そうあって欲しいと言うことと、そうであることとは別です。
何をやるにしても、それを支える体力は必要です。
僕は昔から筋肉トレーニングをやったことはありませんが、もし質問のYS君が非力な方ならやっても良いと思います。

「中年からはじめる本物の中国武術」で立禅については結構細かく書いてあるので分かると思いますが、 立禅を組むにしても、きちんと組めばそれこそ最初は5分立つのがやっとのはず。
それが続けることにより、徐々に足裏やふくらはぎ、腰や背中、肩の筋肉等もついてきます。
またそういった見える筋肉だけではなく、普段感じられない部分も鍛えられていきます。

無論筋肉が鍛えられればそれで十分と言うことではないですが、そういった効果も無視できません。

体力のある人間が体力に頼らない稽古をするのと、体力のない人間が体力に頼らない稽古をするのとどちらがいいか。
答えは自明でしょう。

ただし重いものを持ち上げればいいと言うのではなく、自分の身体を柔軟に動かせるような体力の育成を心がければいいと思います。
そういう意味ではランニングなどはいいと思います。
それから拳を鍛えることですが、コレはあまり意味ありません。
拳の強さを言うなら拳ダコを自慢するより、握力の方が大事ですから。

太気会 天野

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メールQ&A 天野敏のテクスト

足ががくがくして立禅が5分も出来ない

Q:
天野先生
立禅をはじめてから2週間ぐらいたとうとしていますが筋肉はついたのですが、体が熱くなるなどの変化はまだありません。

立禅のやり方が間違ってるのでしょうか?体に感じる感覚のままを受け入れればいいとQ&Aで読んだのでイメージの風船を抱くような イメージなどが出来ていないせいでしょうか?立禅の時間も足ががくがくして5分も連続で出来ていない状況です。時間が短いせいでしょうか? 体勢もくずれてもすぐに直して続ければいいのでしょうか? どうかアドバイスお願いします。

北海道YS

A:
さて、どういう風に答えればいいかちょっと迷います。
立禅を何故やるのか、その答えは光の当てかたによっていくらでもでてくると思います。
しかし、その全部には答えられませんから、的を絞って話します。

以前、5分も禅を組むと足が痛くなって筋肉痛になるという質問がありました。
これは当たり前のことです。腰を落とせば足に負担がある。なれないうちは筋肉もついていないから痛くなる。

では筋肉がついたら楽になるかと言うとそうでもない。
肩が痛くなったり、腰が痛くなったり、背中が張ったりする。ぜんぜん楽にならない。楽に組むと口で言うのは簡単だが、そうはいかない。

そうです、楽に組めない。ここが大事です。

それでも頑張って組む。一時間でも組んでみる。それを繰り返すことで身体が勝手に、つまり自分の思惑とは別に身体が楽を見つけようとする。
これが大事です。
頭が考えるより、身体が考えます。
そのために痛くても退屈でも我慢して組む。

痛いから痛くない立ち方を身体が見つけます。
手先足先の力ではなく、いわゆる体幹の力を見つけてくれます。
退屈だから退屈しない気持ちの置き方を見つけてくれます。
つまり今自分が知らないものを身体が見つけるということです。

稽古はまだ自分で見えないことを見ようとすること。
だから今の自分の考えなんていうのは、言ってみれば泳げない人が泳ぎかたを想像してるようなもの。
愚直と言う言葉がありますが、わからなくても愚直に稽古することしか先に進む道はないということです。
そしていつか泳げるようになったとき、ああ、あの時は何もわかってなかったな、と気が付くものです。

それから、身体が熱くなるとありますが、そんなことに拘ることは全く必要ありません。
また風船のイメージもよく言われますが、それは何年もすれば自然に感じられるもの。
感じられた時に、ああこれか、と思えばいいだけです。結果としてそう感じるものだ、と思っていればそれで十分です。

立禅を組み始めて2週間とのこと。
立禅を組むなんて簡単なことだ、とみんな思います。
でもたった2週間で、どう立って良いのか分からなくなるほど、立つということは難しいという事。
僕もこんな感じで立てばいいのかな、と思い始めたのはつい最近。
結果をあわてて求めすぎない事。
誰でもすぐ分かることなら、やっても大した価値はないって言うこともあるから、のんびり長いスパンでものを考えて稽古していってください。

自分と向き合う稽古をすれば、稽古は裏切ることはないから。

太気会 天野

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メールQ&A 天野敏のテクスト

立禅の際の呼吸について

Q:
天野先生,初めてメールさせていただきます。

私は空手を始めて13年経ちます。
このごろやっと基本や約束組手で力みが取れてきたなと感じられるようになってきたのですが,自由組手となるとだめです。結局,心と体の一体感がつかめていないのだと思います。

心と体の一致させる方法として呼吸が大事で,それに気を乗せるというか合わせるということが少しずつ分かってきましたので,三戦で鍛錬しています。三戦によって気も養成できるのですが,空手には内家拳ほど詳しい気の養成方法が確立されていないように感じます。

そこで,2年ほど前より先生の著書やDVDを教科書として,立禅に取り組んでいます。現在,立禅をしていると下半身と腕,胸に奇妙な感覚が表れ始めています。

天野先生に教えていただきたいことがあるのですが,立禅の際の呼吸についてです。呼吸の仕方について,腹式呼吸なのか逆式呼吸なのか,座禅のように息を吐ききっていっぱいまで吸い込むのか,それとも自然に任せるのか,その他呼吸をする際の注意点などを教えいただけると嬉しい限りです。

武の世界では修行年数13年なんて鼻たれ小僧ですが,技の質を高める気持ちを持って励んでいきたいと思います。どうかよろしくお願いいたします。

A:
空手を13年との事、いろいろな事がわかってくると同時に自分の限界も感じてくる頃だと思います。負けないでがんばってください。

さて、今回の質問は呼吸についてですが、それ以外にも他の人にも共通の問題があるのではと思うので、これを機会に書いてみようと思います。

まず最初に呼吸について。呼吸には腹式と胸式があります。
と言うか、二つあるように考えられています。確かに腹式と胸式に分けて呼吸をする事が出来ますが、それは単にできるというだけで、自然な呼吸と言うのはその両方を併せ持っているものです。
呼吸は不思議なもので、意識しないでも自然にしますが、止めたり或いは深呼吸をしたりと意図的にコントロールする事が出来ます。
簡単に言えば呼吸筋は随意筋と言うことでしょう。逆に言えば随意筋だからコントロールできる。だからどちらか良いほうにすればよい。と考えるのかもしれません。
ところが武術と言う事で考えれば、正直に言って、そんなことに神経を遣う必要はない、或いは暇はないと言うのが正直なところだ。そんなことに気をつけることより、他に気にしなければいけないことが人と向かい合ったら山ほどある。幾ら腹式呼吸がいいからといって、それを気にしながらでは約束組み手さえ出来ません。
だから、そんなこと呼吸に気をつけるよりも自然な呼吸でいることのほうが大事です。つまり、自然に任せる、或いはどんな時でも自然な呼吸でいられるようにする事が稽古です。

よく腹式呼吸をする事で、気持ちを落ち着かせると言う人がいます。それはそれで間違いではないと思います。
なぜなら、緊張したり興奮したりすると、肩や背中が緊張します。そうなると腹筋が動かなくなり、結果的に胸式呼吸になりがちだからです。
図式的に言えば、気持ちが緊張する、身体が硬くなる、背も腹も緊張する、だから呼吸が胸式になる、場合によっては呼吸も止まる。それに対する処方として腹式呼吸を意識する事で背や腹の緊張をほぐし、ひいては身体を緩め、気持ちの平静を取り戻す。
気持ちで起こった緊張を身体から解きほぐす、と言うこと。簡単に言えば風邪を引いたときに薬を飲む、その薬が腹式呼吸。
だからそう言う意味では腹式も覚えておいたほうがいいと思います。入学試験の会場で上がってしまった、などという時は有効かもしれません。
ただ武術で言えば、もっと大事な事があります。何かと言うと、事にあたった時にも当たり前な自然な呼吸でいる事。つまり過緊張にならず自然な気持ちと身体でいる事です。
呼吸は気持ちが乱れれば、乱れるものです。つまり呼吸は気持ちの結果。だから大事なのは乱れない気持ちを育てることのほうが呼吸をいじる事よりもっともっと大事と言うです。

さて、質問の最初にあった自由組み手と約束組み手の距離感です。
多くに場合この二つは全く別のものです。約束組み手は約束です。だからできる、当たり前です。
相手がこう来たらこう動こう、と思ってタイミングを合わせてやる。ところが自由組み手はそうはいかない。こう来るかもしれないし、来ないかもしれない。そんな状況の中で、約束組み手の内容が生きるか、と考えてみると良くわかる。
皆約束組み手の技術や技を自由組み手に生かそうと考える、其処が大きな間違い。では何が大事なのか。

質問の最初に約束なら力みが取れる、しかし自由組み手ではそういかない。と書いてあります。此処に実は答えがあります。
つまり約束組み手で得られる事は、力みを取れば何かが出来る、と言うことを知ることです。
決してこう来たらこうと言う技術ではない。そんな技なんて言うものは、力みや緊張がなければその場に応じて出てくるものだし、そうでなければいけない。組み手の中で複雑な事なんかできるわけがない。
だから何かをやろうとするのではなく、何でもできるような力みの取れた状態で相手と向かい合う。これが出来れば十分。組み手では出来ない事はどんなにがんばってやろうとしても出来ない。だからせめて出来る事をやり切れる状態に自分を置いて、自分がなにをやるか楽しむような気持ちでやること。

出来ない事を出来るように努力する事は大事だけど、組み手のときは出来る事しか出来ない。そう腹をくくって自然な気持ちで向かい合う、それしかないと思います。組み手でうまくやる必要なんて全然ないからです。上手くいかないからこそ次の課題が出てくるもんです。

太気会 天野

大変多忙の毎日を送られているにもかかわらず,面識もない自分に身に余るほどの親切丁寧なご指導を賜り,心より感謝申し上げます。
先生のお言葉を読んだ後,武道はすべてにおいて気持ちが一番重要であることが分かりました。このことは良く耳にする言葉ですが,自分が今まで持っていた気持ちというのは,相手に気位負けしないようにするある意味緊張の連続の意識の持ち方でした。そうではなくて,自然な状態を保つ気持ちがいかに大切なのかということに気付きました。そういえば,何気なしに立っているか細い木々もちょっとやそっとの力ではびくともしませんね。
私は,自然な心の状態を身につけるための呼吸法が,いつのまにか腹式か胸式かという形にとらわれていました。また,組手においては力を抜いてと,耳にたこができるくらい聞かされているのに,打とう,受けよう,蹴ろうという形に意識が行っていました。当然,先生のおっしゃるとおり,息は上がり,体に余分な力が入っている状態です。空手を覚えた手の頃は,移動稽古のとき,何も考えずに足を一歩踏み出していたのに,今は思うような一歩が出せない状況です。言われてみればそうかということが,実際になかなかできないのがこの世界なのですね。自分の体なのに,思うように動かせないことを痛感しています。
「約束組手の本質は,力まなければ何かができることを知ること」・・・天野先生のこのお言葉は,行き詰っていた私に明確な方向性を示してくれました。こうきたらこうする言い換えれば,何かをしなければならないという行動をとる今までの自分から,何かができるつまり,無意識に何が出るか分からないが何らかの動作ががひょいと出てくるこれからの自分を目指すということです。当然これからの稽古での意識の置き方も変わってきます。なんだか,再び空手が楽しくなってきました。私の空手がこの先どのようなものになっていくのかわくわくします。
天野先生,本当にありがとうございました。先生のおかげで形にとらわれていた過ちに気付き,何が大切なのかが分かりました。後は,実行です。励んでいきたいと思います。先生ご自身と太気会の益々の御活躍をお祈りいたしまして,お礼の言葉とさせていただきます。

質問者 N

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メールQ&A 天野敏のテクスト

立禅の精神面での効果

Q:
久しぶりにメール致します。
太気拳の扉』と先生のDVDを見ながら、立禅や這いを稽古しています。
成人してから剣道を始めたのですが、特に足捌きなどによい効果が出ているように感じています。一方、試合などになると途端に動きが固くなるのです。
立禅を中心とした稽古は、長く続ければ精神的な面での効果も期待できるのでしょうか。

福岡 N

A:
メール拝見しました。

剣道においての足捌きに良い効果が出ているとの事。
脚に神経が行き渡り、身体全体のまとまりが出てきているのでしょう。
これからも続けてください。

さて、精神的な面の効果と言うことですが、これも稽古では大事です。
正直に言って、人のやる事は全て気持ちがやらせるもの。
気持ちがうわずれば動きもうわずります。
そうなっては、対人練習で力を引き出せません。
稽古場では力を出せても、いざという時に持っているものが出てこないということになります。
これは弟子達の稽古を見ていても良くあります。
彼らを見ていて感じるのは、身体の問題と言うよりむしろ気持ちの問題を感じる事の方が多いくらいです。

では、気持ちの問題に対してどう対処するか。

と言うことですが、実は太気拳の稽古は最初からその問題に答えを用意しているような気がしてなりません。

それは立禅です。

立禅をどの様に組むか、です。
気持ちに関しては立禅を組んでいる時のような気分で人に対する、と言うことが大事です。
では、その時はどの様な気分か、と聞かれても説明できません。
ただ、どの様にして人と向かい合ってもそのストレスを乗り越えられるような気分を作るか、については話す事は出来ます。

立禅のときの注意点です。

大事な事は、遠くを見ますが見ることにとらわれずに五感を開く事です。
遠くを見てもそれに捉われずに、聞くこと、つまり遠くの音を聞くようにしたりします。

あるいは背後の気配に気を配る事も大事です。
そうする事で眼の前の事ではなく、全体に向かって気持ちを開くような感じになります。

その感じを失わずに人に向かいます。
立禅を組んでいると、何かボーっとした気持ちになります。
その気持ちこそが実はとても大事なのです。
その気分を事に及んでも失わない事です。

人と向かい合っても、立禅を組んでいる時の茫洋とした気分でいるようにすること。
それがとても大事な事です。
もちろん這いの時も同じ気分です。
簡単に出来る事ではありませんが、一人のときにそういった気分になる事が出来れば、人と向かい合っても出来るはずです。
緊張する場面でも自分を失わずにいること、これがどれだけ大事な事か判るのは自分を失ってしまった経験のある人だけです。

立禅を生かすという事があります。
稽古していると意識しなくても何となくそうなってくる、と言う事もあります。
しかし、それだけでは不十分です。
人と向かい合っても意識的に気分を立禅のときのようにもっていく事。
そう言う風にしてください。

ともすると気持ちや気分、あるいは精神的なことを忘れてからだの事にばかり気が行ってしまう人が多いようです。
その意味では、気持ちの面に眼が向くとの事。
とても大事な事に気がついたね、といった気がします。
武術はこれを乗り越えないと見えてきません。

僕がこう来たらこうするといった技術論が嫌いなのは、この気持ちの問題を無視しているからです。
この気持ちの問題こそが、武術をやっていて乗り超えなければいけない大きな壁だからです。
気持ちがあって初めて身体が動くものです。
太気拳をやっていて面白いな、と思うのは問題が出てくると初めて答えが稽古の中にある、と気がつくことです。
当たり前ですが、問題意識がなければ答えも出てきません。
これからは気持ちの問題も含めて、立禅や這いを剣道に生かしてください。

太気会 天野

いつもながらわかりやすいお答えを頂きまして、ありがとうございます。

剣道の書籍も何冊も読みましたが、禅の言葉など高尚なお話が多く、 逆に難しいものが多いように思われます。 しかし、先生のお話は、具体的で 言葉も簡単な表現なのでわかりやすいと感じます。虚飾がなく、実体験に基 づいたことだけだからなのでしょう。

足は、以前はぎこちなく動いて打った後ばたばたする感じでしたが、 立禅を中心とした稽古を取り入れるようになって 、2年くらいした頃、気が つくとスムーズに動けるようになり、足が軽く感じるようになっていました。

もう3年近く続けていますが、最近は、立禅の時に先生のぼーっとする 感じと周りの空気が少し重くなったような感じが する時があります。地稽古 (組手)の時にもそんな感じの時もあり、そんな時には考えるより先に打て ていた、という ことがあります。とても、気持ちのよい瞬間です。ただ、いつもとはいかず、また試合や審査となると足が何を踏んでいるにも かわからず、 気がつくと行ってはいけないところで、夢中で出て行って打たれるとなって しまいます。

先生のご助言を参考にして、立禅の状態をいろんな場所で保てること を稽古の目標にしたいと思います。これも剣道の 言葉でいえば、「平常心」 とか「剣道の日常化」という言葉で表されることになるのでしょうが、先生 のお話は具体的なので、目標と しても明確に設定できるのがすばらしいと思います。ありがとうございました。

福岡 N

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メールQ&A 天野敏のテクスト

立禅で足裏が痛くなる、骨盤と重心

Q:
 初めまして、私は他武術の修行をしている者ですが、鍛錬や全身の協調を養うために立禅をやっております。天野先生の著書「太気拳の扉」を拝読していますが、質問が二つございます。
 ひとつは、足裏で地面をつかむ感覚で立禅を15分ほどしていると、他の部位はなんともないのに足裏(特に土踏まず)が痛くなることです。これはやり方が間違っているのか、それとも単に鍛え方がたりないのでしょうか?
 もうひとつは、先生の著書において「骨盤の左右の傾斜および交叉伸展反射」の際「右側の骨盤を引き上げるようにするが、足裏が地についているので左側の骨盤がさがり重心が右側に移る」とゆう部分です。この場合骨盤の下がった方に重心がいかないように、引き上げようとする方の筋肉を緊張させて重心を移すとゆう、やや強引な(?)方法をしていますが、正しいやり方なのでしょうか?無駄に力んでいるのではと疑問を持っております。
 著書の読み込みが足りないのかもしれませんが、お答え頂ければ幸いです。

A:
メール拝見しました。
本を頼りの稽古は大変だと思います。
こういったメールを頂くと、正しく伝えるという事の難しさを痛感します。

先ず最初の土踏まずが痛くなるということ。
多分力の入れすぎだと思います。
地面を軽くつかむ感じで、強くつかむ必要はありません。
あるいはつかむ感覚が感じられるだけで十分です。
肝心なのは足の指の感覚、足首や膝そして股関節の感覚を目覚めさせる事が出来ればいいと思います。
そしてそれをどんな時でも持続させる事です。

さて、次の骨盤に関してです。

ですがその前に一言いっておきます。

質問文にあった正しい・正しくないというのは評価です。
必要なのは評価ではなく、自分が何かを感じ取ってそれを生かそうとすることです。
そう言う意味では、質問の方は感じているけれども活かしかたが分からない、と言うことでしょう。
その意味で言ってみれば正しい悩み方をしていると思います。

疑問に思う、という事が稽古するということです。
でももし僕が、それが正しい、といったらもう疑問を持たないでしょうか。
正しいと言われたけど、本当にそうだろうか、何で正しいんだろうか、と思わないでしょうか。

たぶん、疑問に思うでしょう。

つまり、正しい・正しくない、間違っている、間違っていない、の答えを永遠に求め続けるのが稽古というものかもしれません。
稽古するという事は様々な事を発見するという事ですが、発見するということが実は次の疑問の出発点になって行きます。

人に正しいといわれたから、そう疑問も持たずに稽古する。
多分、そんな人なら他の武術をやっていて、あえて立禅など組まないと思います。

さて、骨盤の件です。
大事なのは動く、つまり重心の転換をどんな力で行うのか、です。
ほとんどの人は脚で動くと思っていますが、それだけではありません。
勿論脚や腰の力も使いますが、同時に骨盤の傾斜する力を生かすことで力強い変化に通じていくのです。
骨盤が傾斜すれば自然に片方は引きあがり、逆は踏み込むようになります。
そんな当たり前のことを、当たり前に自分の動きにしていけばいいのです。
最初は意識的に、そしてそのうちに当たり前に骨盤の力を活かしながら動けるようになります。

骨盤を傾斜させる力は腹の力です。
それを感じていく事が大事。
その力を感じたら、それを生かして動く事を工夫すればいいわけです。
腹の力を使うと、上体の変化が引き出されます。
そこからまた発見があると思います。
これもまた、大事なのはその感覚を持続させる事です。

立禅は形ではなく、そこで得られた感覚を動いても動かなくても失わないでいることです。
そうすれば、その質は失われない訳です。
そしてその質をブラッシュ・アップするのが日々の稽古です。

ですから、本の内容どおりではなく、あるいは形を真似しようとしないで、自分のスタイルを作るように稽古してください。
本の内容はあくまで僕自身のものにすぎません。
真似しようとすると、強引な事もしてしまいがちです。
武術はあくまで自分自身の中にあります。
現れ方はそれぞれの形、違いがあって当然です。
自分の身体の中で起こっている事を伝える事は本当に難しい、そう思います。
これは質問している当人も同じだと思います。
いつも歯がゆいものを感じます。
そんな思いで、立禅に関してだけの映像とテキストを製作中です。

勿論、先々は他の内容にも触れていきたいと思いますが、とりあえずは立禅だけで一時間くらいの内容になるはずです。
それが出来上がったら、それも参考にしてもらえればと思います。

太気会 天野

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これが「上下に力」なのか

Q:
天野先生、初めてメールさせていただきます。
私は日本拳法の経験がある39才の男です。
最近年令の影響で、体力の衰えを感じ始めており、仕事で道場にも通えず、武道から遠ざかり気味でした。
天野先生の著作「太気拳の扉」を購入したのがきっかけで、立禅を見よう見まねで1週間程、1日15分やってみたところ、体の感覚が違う事に気がついたので、質問させていただけないかとメールした次第です。

立禅で、腰を普段より押し出し気味に真直ぐに立てようとしていると、尾てい骨と股関節、両側の腰骨あたりに力が入り硬く緊張している違和感を感じました。
この違和感を抜けないかともぞもぞしてみました(楽な姿勢を探せと著作にあったからです)。
3日目くらいに緊張が無くなり、尾てい骨が下に、膝に向かってグ-ンと引っ張られるような感じが出て、また背中の下から膝上にかけてからっぽになった様な感覚がありました。更に足が重くなり足裏が地面に刺さるような感じも。
この状態で顎を引くと背骨が上下に引っ張られる感じがあります。
太気拳で言われている上下の力と言うのはこのような状態を言うのでしょうか?
また歩く時にこの尾てい骨の感じを意識すると腰が軽く、しかし足は重い感覚があり、歩こうと思うとこれまでより楽に速く歩けます。変な言い方ですが、思うだけで勝手に足が動いている感じがあり「なんで?いいのかこんなことしてて?」ととまどったりすることもあります。

初心者的な質問ですいません。文面だけですが、何か間違っていそうであれば御指摘お願い申し上げます。
どうぞ宜しくお願いします。

A:
メール拝見しました。
立禅をやっていると実にいろいろな感覚が出てきます。
たつという単純なことを、実はないがしろにしてきたということがよく判ります。
そこで静かに立っていると今まで見えなかったことが見えてきます。

質問では「上下の力」という事でしたが、それは何の事はないただの整理の際の名前にすぎません。
身体の繋がりは実に複雑怪奇。
実は言葉に出来ることではないと思っています。
ただ、ある瞬間にある状態になったときに、ああ、これがそうか、とひらめく時があります。
その時のために、私はいろいろ書いているつもりです。
形ではなく、内部の感覚を文章にするという事は実に難しく、書く事はできてもそれを共有することは至難の業。
ただ大事な事は身体から出てきたものに嘘はない、という事です。
もしここで私が「それが上下の力です」等と言ったら、「ああ、これが上下に力と言うものか」で終ってしまいます。
身体から出てきた感覚を育てて、次々に発見を続けていくことが稽古と言うことです。

感覚に名前をつけて何かを共有した安心感を持ちたいと言うのは十分わかります。
しかし、自分の身体の主は自分自身です。
一つ一つに名前をつけることなんかありません。
名前をつけると他の可能性が手から零れ落ちます。
一つの感覚を手蔓に、もっともっと探してみてください。
自分の身体という宇宙を探検するつもりで禅を組んでいけば、もっと色々な事を見つけていくことが出来ます。

実際に見つけた感覚をもって、動くことが出来れば動きが変っていくのも事実。
そういった工夫もいつの間にか、自分を育てて行きます。
それを楽しみにこれからも稽古して行ってください。

それから39歳との事ですが、武術はそこからです。
体力が落ちて、とありますが、まさにそれが原点。
体力に任せていくらやっても、体力が落ちればそれで終わり。
体力がなくなって出来ないのは、体力がなくては出来ないことばかりやっているからです。
みんなそう思っているようですが、そこからこそが出発点。
なんといっても、強くなるという事は、弱い人間が強いものに勝つということ。
やっと弱くなって、武術に向かい合えると言うものです。

変な話、体力が落ちて良かったねって事もあるかもしれません。
何故なら、体力に頼らない、という事を知ることが出来るからです。

太気会 天野

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立禅や這の腰の高さ

Q:
先日は丁寧にご指導いただきありがとうございました。
あたりまえのことですがまったくの独学と指導していただいた「違い」を明確に感じ取れたと思います。
先生のDVDを購入いたしました。私のように実際の指導が多く受けられない者にとっては絶対必要で、わかりやすい内容に驚きました。(それにしても先生の動きはとても人間技とは思えません)
代々木公園で先生に指導いただいたゆっくりとした体重移動(這?)の動きは理屈ではわかりましたが、
どうにもピンとこなかったのですがDVDを参考にその動きをやっていたところ体が理解してきました。体をリラックスさせて中心線を崩さないように移動すると、体が勝手にあのように(タコのような)なるということが実感できました。
私が武道を習う根拠は普通の爺さんになりたくないという信念からで、死ぬ間際まで空を飛んでいたいという夢を実現するための基礎です。
一瞬の自然の変化に対応するための感や、足腰の強化、体の柔軟性は空を安全に飛ぶためには絶対不可欠です。DVDや本(残念ながら先生の本は見つけられず、拳聖澤井健一先生という本を購入致しました)で知る限り太気拳はそのすべてをカバーし、それ以上のものを引き出すものだと感じました。
ゆっくりですが、ずっと続けて行きたいと思っておりますのでご指導のほどよろしくお願いいたします。

*本を読んだ限りでは立禅や這は腰の低さが強調されて低いほどよいようなイメージを持ちますが、実際低ければ動きが制限されるように思います。練習ではつらくてもなるべく低くして、慣れることによって動けるようになるのが良いのか、またはある程度楽な程度(動きやすい)で練習するのが良いのか、と思いながら楽な(動ける)位置を探したり、ぐっと低くしてみたりしておりますが、実際はどのような感じが良いのでしょうか?

会友員 I

A:
I 君へ
>普通の爺さんになりたくないという信念からで、死ぬ間際まで空を飛んでいたいという夢を実現するため

はは、僕も全く同じです。
僕の同年代でも、もう既に半分死んでるようなのもいます。
死ぬまで生きていると言う実感を持っていたい。
最後のときに、よく生きたな~って言いたいと思っています。
よく生きてよく死にたいものです。

さて、腰の高さと言う質問。
これは低ければ良いと言うものでもありません。
だからと言って高くてもよいというものでも無い。
大切なのは脚ではなく腰で立つと言う感覚を見つけること。
腰を落としても膝を緩められなければいけません。
立禅は文字通り立って組む禅ですが、感覚的には座っている感じです。
腰を落とすと膝が緊張しますが、それを出来るだけ緩められるようにします。
そうするためにはいろいろバランスや身体の調整が必要です。
それをじっくり探すのが立禅です。
スキーのジャンプの選手の感じ。
そうそう、九十九里の生まれで子供の頃は当たり前にサーフィンをやっていたって言うことですから例にとります。
大波のとき、テイクオフしてボトムターンと言う時の、思いっきり腰と全身でボードを蹴りこむ感じに似ています。
腰の弾力と言うか、全身の弾力と言うか、そんな感じをつかむことが大事だと思います。
脚ではなく、全身で立ち上がり、縮みこむと言う感じです。
それを感じながら姿勢を保ちます。
両膝はお互いに反発し引き合うような感じです。
下半身はきちっとしていますが、上半身、特に腹や背は緩むような感じを見つけていくのが大事だと思います。
下半身は常にバネのような弾力を持ちながら、上半身はリラックスして変化への対応を担う準備を整える、という事でしょうか。
上半身が動けば、すぐに下半身が弾力で応じられるようにしていきます。
バネのような感覚、これを見つけるように立禅を組むと良いと思います。

文章ではなかなか上手く説明できず、もどかしい限りですが、次の機会もあります。
一杯疑問を溜め込んできてください。
稽古すればするほど疑問がたまります。
それを解決するのが稽古ですが、一緒に稽古することで簡単に解決できることもありますから。
次回の稽古を楽しみにしています。

太気会 天野

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イメージとリラックス

Q:
ごぶさたしております。8月に基礎講座でお世話になったTです。
最近更新されたQ&Aに「意念」についてありましたので私にも質問させてください。

8月の基礎講座では、天野先生に力が入りすぎていることを指摘していただき、自分ではまったく気づいていなかったので、勉強になりました。
その後、力を抜くことを心がけ立禅を組んでいますが、以前にあった「風船を抱えるような抵抗感」がイメ-ジできず、イメ-ジしようとすると以前のように力が入っている状態になってしまいます。
イメ-ジは意識せずに当面はリラックスを念頭においた立禅の方がよいのでしょうか?(リラックスした方が 気持ちよく禅が組めますが・・・)
リラックスした立禅をしていると自然に抵抗感が意識しなくても生まれてくるのでしょうか?

以上、よろしくお願いいたします。

A:
「風船を抱く」と言う意念というものがあって、その為に風船を抱くと言うイメージを持つ。イメージが出てこないと、あるいは感じられないと禅の組み方が悪いのでは、と思ってしまうようです。
以前も書いたことがあると思いますが、意念やイメージは力を抜いて立つことで自然に感じられてくるものです。
意念は思い込むことではなく、身体の中のつながりが作り出してくれるもののような気がしています。
のんびりと力を抜いていれば、そのうちに感じられてくるはずです。いや、感じられなければ別にそれで構わないです。
身体を自然な状態に置くことを見つけ、その状態をキープしていく。組み手や推手でもそれを守っていく事が必要です。
立禅などで風船や樹を抱く意念というものが先験的にあって、それを感じられなければいけない、と言うものではなく、人それぞれで違った感覚が出てくればそれで十分です。何かが感じられれば良いのです。
なんか妙な感じ、で十分。
なんと言ってもヒトの感覚はそのヒトの生まれた文化や環境によって違うわけですから。

太気会 天野

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日常生活の中での稽古

Q:
今回2度目のメールをさせていただきます。以前上下の力について質問させていただいきました。海外生活のため太氣拳の練習は一人でやっているので、ご返答はまさに千金に値する物でした。あれから少しずつですが先生の言われた事が身体で解ってきたのか、動く時にグンッと大きな力を感じるようになってきました。

さて、今回も一つ質問をさせていただきたいのですが、最近私は、乗り物を待つ時や何らかの事情で立ち続けなければならない時に、極力立禅の要領で立って少しでも時間を有効に使うようにしていますが、人中で立つ時には、膝をゆるめたり、特に腕を身体から離したりという事はなかなか出来ないのですが、”外見上の正しい立禅”が出来ない練習というのは逆に悪影響がありうるのでしょうか。

太氣拳の練習はほぼ毎日1時間位ずつやっているのですが、武術の姿勢は私生活にも活かすべき、あるいはどっちの姿勢も同じという事はよく耳にします。立禅で大事なのは外見でなく内面だとは思うのですが、ただ、そういった膝が伸びきったり、腕が体側に自然に垂れていたりした外見上練習の姿勢でない私生活の姿勢のせいで逆に影響を及ぼさないか、あるいは無意味でないか少し心配です。ひょっとしたら練習以外のときは、練習の結果として出てくる姿勢でいればいいのではないかと。

以前、他の方の質問で椅子に座った練習法が紹介されていましたが、もし街中で普通に直立して立っている時、あるいは歩く時など意識出来ることがあればアドバイスいただけますでしょうか。宜しくお願いします。

A:
本やビデオを参考にしての稽古はいろいろ大変だと思いますが、がんばってください。

さて、日常生活での生かし方、と言う事。
難しいですね、いや日常生活に生かす事が難しいのではなく、メールでの返事が難しい、と言う事です。
ただ、自分の経験からすると、もちろん通常の稽古でいろいろ発見する事も多いですが、実は電車の中だとか、あるいは唯立っている時だとか、そんなときに発見があったりした経験はそれこそ山ほどあります。
弟子たちと話していてもやはりそのようです。
電車のつり革につかまっている時に、腕の力の方向を見つけたり、それこそ上下の力の確認が出来たりと、様々のようです。

電車の中などでは、もちろん腕を前に出して、等は出来ません。
しかし、立禅と同じような感じでたつことは出来ます。
脚の指で軽く地面をつかむようにし、膝をそうとは見えない程度(ズボンのたるみvの範囲内)に曲げてみる。
これだけで、つり革に頼らなくても転ぶ気遣いは無くなります。
その上で、揺れた瞬間に頭で天井を押さえるようにしてみます。
そうするとますます安定してくるものです。
そんな時は腕を自然に下げ、わきの下にわずかに隙間を空ける程度でいいでしょう。

また歩くときですが、急いでいるときは出来ませんが、のんびり散歩、と言ったようなときは、それこそ雲の上で雲を踏みぬかないように歩いてみるのもいいでしょう。
膝を軟らかくし、骨盤を意識できるようになると思います。
骨盤を意識できるようになると、次にいわゆる腹の動きが見えてきます。
日常生活でも出来る事はたくさんあるものです。
いろいろ工夫してみてください。

それから、「外見上の正しい立禅」と言う言葉がありましたが、注意点はもちろん形に関してになります。
しかし、目的は形を作るためにあるのではなく、身体の内部のまとまりを作るためのものですから立禅の形が作れないときは、それはそれで気にしないでやっていいと思います。
また、内面と言う言葉がありましたが、まず大事な事は自分の身体と向かい合うこと。

そしてその上で、自分の周りの環境にも注意を向けていられるような状態を作る事です。

自分の中にこもりきらず、また逆にまわりに引きずられる事もない、と言った事でしょうか。
実は立禅のこんな感覚は、組み手などの時の感覚とまったく同じです。
相手に惑わされず、自分を見失わない。
ここら辺が太気拳の非常に具体的なところです。
立禅がなにやら抽象的な精神養成ではなく、そのまま組み手などの時の心の持ち方を教えてくれるわけです。

海外での生活、様々なストレスもあると思います。
太気拳が何かの役に立っていると思うと嬉しい気がします。

太気会 天野

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メールQ&A 天野敏のテクスト

意念は澤井先生の教えの中にあったのか

Q:
久しぶりにメールさせて頂きます。 先日は丁寧な回答本当にありがとうございました!

私は空手の練習と共に天野先生の本を読みながら独学で太気拳の立禅などをやっているのですが天野先生の言う通り立禅のさいにイメージを持つ事で非常にバランスが安定し参考になっています。
そこで気になったのですがこの立禅のイメージ(意念)と言うのは澤井先生の教えの中に元からあった教えなのでしょうか?
それとも天野先生の本の中の、あらすじにある様に意拳と交流を持つ様になって天野先生自身の独学によって考えついたのでしょうか??

何度も質問ばかりして申し訳ありません

A:
意念ということに関して言えば、立禅のときに「樹を抱くように」と言われたのは、よく本に書かれているのと同様です。 ただ、個別の基本的な稽古に関してこのような意念を持つように、などというのは覚えはありません。

ただよく言われたのは、君たちの稽古にはまだ気持ちが入っていない、と言われたのはよく覚えています。 要は形だけの稽古しかしていない、と言う風な言われかただったと今は思っています。
しかし、実際の組み手の指導や技の指導のときはそれこそイメージを伝えようと言う事に重点が置かれていたように思います。

拳法は神経と身体の運動です。それを伝えようとすればそこにイメージが介在するのは当たり前。イメージの介在しない形は単なる死んだ形で伝える必要も無いものです。何か確固としたものを身体に取り込むとき、そこに必ず固有の「重み付け」あるいは「価値付け」とも言うものが形成されるのだと思います。そこで生まれるのがイメージであり、意念です。つまり何かに意味を見出せばそこにイメージあるいは意念が発生する、と言うわけです。そういう意味ではイメージを引き出せないものは意味のないもの、とも言い換えられます。

中国の意拳が紹介された影響でしょうか、何か意念という言葉が独り歩き。何か特別な高級食材のような扱われ方しているのを見ると、不思議な感じです。なんといっても当たり前にあるものだからです。

太気会 天野