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メールQ&A 天野敏のテクスト

意念は澤井先生の教えの中にあったのか

Q:
久しぶりにメールさせて頂きます。 先日は丁寧な回答本当にありがとうございました!

私は空手の練習と共に天野先生の本を読みながら独学で太気拳の立禅などをやっているのですが天野先生の言う通り立禅のさいにイメージを持つ事で非常にバランスが安定し参考になっています。
そこで気になったのですがこの立禅のイメージ(意念)と言うのは澤井先生の教えの中に元からあった教えなのでしょうか?
それとも天野先生の本の中の、あらすじにある様に意拳と交流を持つ様になって天野先生自身の独学によって考えついたのでしょうか??

何度も質問ばかりして申し訳ありません

A:
意念ということに関して言えば、立禅のときに「樹を抱くように」と言われたのは、よく本に書かれているのと同様です。 ただ、個別の基本的な稽古に関してこのような意念を持つように、などというのは覚えはありません。

ただよく言われたのは、君たちの稽古にはまだ気持ちが入っていない、と言われたのはよく覚えています。 要は形だけの稽古しかしていない、と言う風な言われかただったと今は思っています。
しかし、実際の組み手の指導や技の指導のときはそれこそイメージを伝えようと言う事に重点が置かれていたように思います。

拳法は神経と身体の運動です。それを伝えようとすればそこにイメージが介在するのは当たり前。イメージの介在しない形は単なる死んだ形で伝える必要も無いものです。何か確固としたものを身体に取り込むとき、そこに必ず固有の「重み付け」あるいは「価値付け」とも言うものが形成されるのだと思います。そこで生まれるのがイメージであり、意念です。つまり何かに意味を見出せばそこにイメージあるいは意念が発生する、と言うわけです。そういう意味ではイメージを引き出せないものは意味のないもの、とも言い換えられます。

中国の意拳が紹介された影響でしょうか、何か意念という言葉が独り歩き。何か特別な高級食材のような扱われ方しているのを見ると、不思議な感じです。なんといっても当たり前にあるものだからです。

太気会 天野