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会員・会友員のテクスト 富川リュウの太気拳修行記

平成19年・新春だべさ

気功法経験者M木先輩

 M木さんは、太気会の中でも、変わった経歴の持ち主である。気功法を何年か修行されていて、気とは何かを探求するために太気拳を始められたという。私より2年ほど先輩になるのだろうか。私が入った当初から老練な推手をされていて、そのジットリとした重い力が、この五十絡みのオッサンの一体どこから出てくるのだろうかと、失礼ながら不思議に思っていたものだ。

 しかし当時は、あまりM木さんのことを快良く思ってはいなかった。確かに推手は強いのだが、当時の私の目には、中心を守る意識が低いように見えていたし、養生班ということで、ほとんど組手をされていなかったからだ。

 そのM木さんが、数年前から組手を始め、あれよあれよという間に強くなっていった。初めは、純粋な驚きとともに、ウソだろ!と思っていたが、年を重ねるごとにその強さに確実性が増してきている。もうすでに五十五歳を過ぎようとしているにもかかわらずだ。

 ここ最近の私の苦悩ぶりは、皆さまご承知のとおりであるが、ちょうど昨年度の冬の章<クリスマスプレゼント>の日、12月23日にお話を聞く機会があった。とは言ってもほとんど毎週のように飲み会では一緒だったので、いつでも話は聞けたはずなのだが、たまたまその日は天野先生が欠席だったことと、今までは自分からM木さんに組手についてのアドバイスを聞こうとはしていなかった、というだけのことである。

 素直に聞く態度を示すと、誰でもが快くアドバイスをくれる。そんな風通しの良さも太気会のいい所かもしれない。

耐える立禅

 今までの自分の立禅は下半身重視でやっていた。ちょっとして肩や腕が疲れてくると、足腰の姿勢、状態はそのままで、腕を下げ、肩をぐるぐる廻したりして、上半身だけの休憩を図っていた。しかしM木先輩のアドバイスでは、そこで耐える、そこで待つ、とにかく待つ。辛い部分が楽になって、辛い部分が平気になってくるまで、そのままの姿勢、そのままの形を保ったままで、待つ。そして一時間ほどは動かずに禅だけで立っている。そういうアドバイスであった。

 さっそく翌日からは、そのアドバイスを参考にして朝の稽古に取り組んでみた。しかし一時間まるまるは、さすがに辛い。それに這いもやりたいし、練りもやりたい。まあそこは自分なりにアレンジして――ということで稽古を組み立てた。

 まずはとにかく、上げた腕を一回も下げないようにしてみようと考えた。そして立禅と這いに長く時間を掛けるように…。言うなれば、上半身、特に腕と肩の重視の立禅である。はじめは長時間もつように、腰はそれほど低くせずにスタートさせた。辛くなって来たら、棒立ちになり、下半身だけを休ませてあげる。腕は絶対に下ろさない。そのまま半禅も時々やりながら、腕と肩の疲労の軽減を促す。そんな感じで35分ほど経った。かなり腕と肩が辛い状況であったが、せっかく35分我慢したのだから、あと5分だけは、と思い頑張った。そうすると不思議なことに腕を下ろしてしまうのが勿体ないような感覚に陥ったのだ。なので、そのまま這いに突入。10分ほど這いをやり、まだまだ手を上げたまま、練りにも突入。両手右廻し、両手左廻し、内廻し、外廻し、と10分ほど行い、最後に探手を5分だけ。もうこんなに腕を休めていないのだから、打拳なんか打てるのかなぁ、と不安に感じていたのだが、意外にもその腕で、ポン、ポンッと、軽々と打ち出すことができて、なんだか朝から得をしたような気分になった。そして、そんな稽古を年末に4日間ほどやって、昨年の自主練習は幕を閉じた。

気の柱を抱えて

 正月休みの間は太気の稽古もなく、暇だったので、武道・武術の秘伝に迫る月刊誌「秘伝」の古い記事などを読み返していた。そのなかで目に付いたのはやはり、ありき日の澤井先生のお姿。その立禅の姿勢、這いのフォームから、感銘を受け、今まで上に挙げていた手を前に出してみようと思いたった。耐える立禅で、やや上に挙げていた手を前に伸ばし、円く何かを抱えるようにしてみる。昨年末の交流会での島田先生の説明も思い出した。各関節の角々がなくなるように円くなっているイメージで両腕を差し出すように、という解説だった。

 ふと、太い樹を抱えているような感覚が出てきた。それは今まで本や何かで立禅の説明をされるときに良く見聞きしていたものだが、初めての体験だった、しかし自分の感覚で言うと、樹を抱えているというよりは、気の柱、何か透明な円筒状のものを抱えているような感覚であった。しかし残念な事に、次の日になるとその感覚は小さくなり、その次の日にはもうほとんど無くなってしまっていた。それが戻ってくる日がいつかくるのだろうか…と少々心細くなった。

あからさまな駄目出し

 金曜の夜の稽古に参加した時の事。禅、這いをやって、そのまま腕を下げずに練りに移る。両手右廻し、両手左廻し、内廻し、外廻し、それから探手。ワイパーの手のまま、ズンズンと歩いていき、時折、打拳を放ってみる。そう悪くはない感じだったが、つかつかと歩み寄る黒い影が。「そんな練りじゃ駄目なんだよ。そんな状態じゃ、速く打てないだろ!爆発するように打てなきゃ駄目なんだ。爆発するためには緩んでなきゃ駄目なんだよ!」あーあ、少しは褒めてくれてもいいじゃないか。ここ一、二週間の間に、ずいぶんと進化していると思うんだけどな…と心の中で独り言をつぶやいた。

出っ腹出っ尻体型

 トミリュウは、出っ腹出っ尻体型。痩せ型なのだが下腹部が出ていて、背中の下のほうが反っていて、骨盤の角度がきつい。そして這いや推手の時に、その背中の下の方を「ここを緩めろ」と何度も先生に注意されていた。たぶんこの頃は、立禅では、そこそこ良い姿勢を作れているのだろうが、いざ動く段階になると、どうしても元々の自分の悪い癖に戻ってしまうようだ。

 前述の金曜の稽古の翌日、ダンススタジオの鏡に映る自分の姿に愕然とした。もっとカッコイイと思っていたのだが、かなりカッコ悪かった。腹が出ていて背中が反っている。もともと腹を緩めるようにしていたつもりだったので、腹が出ていること自体にはそれ程抵抗は無かったのだが、問題はそこが全く動いていなかった、ということ。腹を緩めているつもりでいて、その実、膨らんでいるだけで動きがない、つまり固まって、居着いている状態だったのだ。あーあ、これじゃあ意味がない。腹が動いてくれなきゃ何をやっても意味がない。ショック!ショック!ショック!鏡に映る自分の姿にトリプル・ショック!だった。

お腹主導で動く

 月曜からの朝稽古で腹をよじって使ってみた。まずは立禅、そして半禅で。次第に脇腹のアバラの下と骨盤の間が引き剥がされるように動いてくる。そしてミゾオチのすぐ脇辺りも動き出した。これで這いも行なう。お腹を折って使うような感覚が出てきた。

 火曜になると、お腹を引っ込める事で、骨盤の角度を緩くできることに気づいた。そして、その姿勢で立禅をすると、腕の中に気の柱の感覚が戻ってきた。水、木、金と、それを馴染ませるように稽古していたが、探手では、腹で沈むようにすると、打拳が速く出せることに気づいた。ヒザで沈んで、手を打ち出すのではなく、初めに腹がキュッと動いて、それにつられてヒザが沈み、手が打ち出されていく感覚だ。

発展途上

 今年1月の第一週目は、雨で稽古ができなかった。そして、二週目の組手の出来は3点。この時にケガをしたので、三週目は推手のみで、組手は無し。四週目の1月27日の土曜日、これが1月最後の対人稽古の日で、15点の組手ができた。何を基準に、と聞かれても困るのだが、まあ自己基準・自己採点ということでご了承いただきたい。

 この日の天野先生からのアドバイスは「ヒジに力を」ということ。ハンド、前腕には力を入れないで、力はヒジにあるように、ということを這いの稽古の時に注意された。また、後ろ足のヒザを緩めて、そのヒザで相手に狙いをつけているように、とのこと。そしてもうひとつ、目の焦点の合っていない所に、神経を集中させておく、注意を向けておく、ということも言われた。

 稽古の後の飲み会の席では、またM木先輩から良いヒントをいただいた。腹を使うことは間違いではないのだけれども、それを故意に使ってはだめで、それすらも委ねて、身体に任せて、ということだった。

鏡の中の自分

 翌日、自宅にて、風呂上りに自分の下腹部を見て、あら、ここの部分も動いてないじゃないか、と気づいた。上腹部のあたりは、だいぶ良く動くようになってきていたが、下腹部のあたりがまるで動いていなかった。動かないということは、使えていないということ。まだ体の中にこんな部分があったなんて、そんな勿体ないことをしていたなんて、と自分の身体のことながら新鮮な不思議さを感じていた。

贅沢なメニュー

 翌月曜からのメニューは、盛りだくさん。まるで和洋折衷のバイキング料理のようだ。まずは「ヒジに力を」そして「下腹部を使って、なんだけども、故意には使わない」また「目の焦点の合っていない所に、神経を集中させておく」ということ。これはその他のことをやりながら同時進行で取り組めそうだ。あとは「後ろ足のヒザの向きとそれを緩めておくということ。あまりにメニューが多いので、これは後回しにするしかないか。テンコ盛りにお皿に料理を取りすぎて残してしまうのは、あまり上品とは言えないからね。

 初めに正面の立禅で、ヒジから脇、脇から胸の辺りの感覚を強めるために、腕で囲んだ円い空間の手前側の濃度をあげるように意識してみた。そして反対に、ヒジから先、前腕から手首、手首からハンドまでの感覚を消していく。半禅でも同じようにして、それから揺りを少々。揺りでは、下腹部を吸い込むように使ってみる。初めは故意にギュギュッと動かして、いい感じに動き始めた所で、次第に身体に任せるようにしてみる。足の付け根のソケイ部から約3cm上、下腹部の脇の辺りが、新たな胎動を始めた。

ワイパーではいかんのだ!カーテンを操れ

 火曜、水曜と、日が経つにつれ、這いや練りに大きな変化があった。ヒジまでの意識を強めると、明らかにハンドと前腕の感覚が良くなる。そして元のやり方に戻ってしまったときには、逆にハンドと前腕の感覚が鈍くなる。特に両手廻しの練りをしていると、この違いがよくわかる。今までのやり方だと、前腕はただの棒にすぎず、ワイパーのように虚しく往復運動を繰り返しているだけで、雨だれは顔に当たってしまっている。しかし、ヒジまでの意識を強めると、二本の前腕の周りに幕ができ、まるでそこに見えないカーテンが引かれていて、自分の顔には雨だれが届かない感覚になる。

ヒトデ人間

 ヒトデは英語でスターフィッシュという。☆の形をしているからだそうだ。前述の状態は、自分がヒトデ人間になったような錯覚を生む。☆の両脇が自分のヒジまでで、その外に前腕とハンドがちょんとオマケで着いている。☆の下二本は自分のヒザまでで、その端にスネとフットが着いている。そして☆全体、つまりはヒジ、ヒザまでが、ヒトデのような一体の柔らかい固まりで、それがうねるように動き、力を出し、変化を作り出す。

モヤっとした手応え

 一週間の自主練で、よっしゃ!とグッとくる手応えがあったときには、たいてい土曜日の推手や組手で先生から駄目だしを喰らう。逆に、モヤっとした手応えのときの方が、その成果が報われることが多い。何度も何度も試行錯誤を繰り返し、蓄積された7年間分のデータ。そのデータから得られた結論だ。

組手が怖い

 相手が強い先輩でも、それほど怖いとは思わない。ケガをするのは嫌だけど、それも怖いとは思わない。組手で息があがって疲れてしまうのも、それほど怖いとは思わない。それでは組手の何が怖いのかというと「成果が出ていないこと」これに尽きる。

 一週間の自主練で、確実に身体は変化している。明らかに、それまでとは違う身体になっている。しかし、それが組手に活きてこない。それが、組手に活かされない稽古だったと突きつけられるほど辛いものはない。だから先生が「じゃ組手!」と言って、「じゃ次、君!」と言われたときには、もう怖くて怖くてしかたがない。何も進化していなかったらどうしよう。全然成果が上がってなかったらどうしよう。そんなことばかりを考えてしまう。

 火曜の夜の稽古のあと、そんな気持ちを打ち明けると、先生はあっけらかんとこう言った。それをフィードバックしてさ、組手の役に立つ自主練を組み立てりゃいいじゃん。あとさ、身体を練ってさ、できた素材を活かす方法を見つけるんだね。いくら良い発明をしても、商品化させないと、投資した研究費用を回収できないじゃん、それと一緒だよ、って。

 とりあえずこれからは、毎週金曜の朝の自主練の最後に、次の日の組手のテーマを決めることにした。2月2日の金曜日、決めたテーマは「ヒジまでの空間を守る」ということ。明日はこれで組手をやろう!

 そして翌日。2月の第一週目の組手の出来は、20点。まずまずの成果であったが、商品化には、まだまだ時間が掛かりそうだ。

ミクロコスモス

 妻の古い友人にM田さんという山男がいる。彼は山歩きが大好きで、世界中を旅してきた。ヨーロッパはもとより、アフリカ、インド、パキスタン、等など。そして山好き高じてカナダに住み着き、ペンション経営の傍ら、トレッキングガイドをしている。地元カナダでのガイドもするし、時にはエベレストやキリマンジャロへも足を伸ばす。その彼があるとき、こんなことを言ったそうだ。「自分のお気に入りの場所や、自分を癒してくれるような町、あるいは自分がいつもワクワクしていられるような所が、世界中を旅していれば、どこかに見つかるだろうと思っていたけれど、そんな所はどこにもなくて、結局はどこに居ても、自分の心づもりひとつなんだなって最近気付いたんだよね」と。そしてその時、子供のように微笑んだ彼は、もう50歳を過ぎていたそうだ。

 みんなどこかに幸せを捜し求めている。ある者はファッションに、ある者はグルメに、そしてある者は世界のどこかに。そして宇宙の果てまで行きさえすれば、夢のような世界があるのではないか、と夢想したりもする。

 人の体は、小宇宙に例えられることがある。太陽の周りに惑星が集まり太陽系を形作り、それらがいくつか集まって銀河系を形作っている。そしてそんな銀河が他にもいっぱいあるという。その構造は、核の周りに電子をもつ原子の構造にも似ている。人の体も生命体であり、構造物である。その神秘の全容は、現代科学を以ってしても未だに解明されていない。

 さて、トミリュウは毎日旅に出ている。こう言ってしまうと、まるで毎日、会社に遊び行っているように聞こえてしまうが、そうではない。毎朝の出勤前の1時間だけ、自分の体の中の小宇宙を旅しているのだ。未知との遭遇。まさにその言葉がしっくりくる。毎日が発見の連続で、アハ!という感動や、ピコンッ!という閃きがある。時にモヤモヤ感が残ったり、すっきりしゃっきりしないことがあったりするが、それも旅の楽しみのうちだ。永遠の旅人。その名は、富川リュウ。そして明日の旅人は…、あなたかもしれません。

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第七部・冬だべさ

サクセスストーリーはどこに

 11月12日の日曜日、岸根公園での稽古で五体不満足となった。その時から、組手について色々と自分なりに考えるようになった。後の経過は秋の章で書いたが、最後は、これでいいのだ!byバカボンのパパ――ということで締めくくられている。

 この修業記を書いていて、いつもいつも思っていることがある。それはサクセスストーリーを書きたいっていうこと。これこれこんな風にしたら、こんなんなっちゃったさー! どうだほら凄いだろぉー! ってな感じ。しかし現実には、それほど思い通りにうまく事は運ばない。工夫してみたことが裏目に出たり、手ごたえを感じていたことが的外れだったり、そんなことばっかりで嫌になってしまう。

 秋の章を書いたその後に、富リュウに襲い掛かった数々の苦難。自らの太気拳人生に大きな壁が立ちはだかる。そしてストーリーは巨大スペクタクル冒険活劇の様相を呈す。 果たしてこの壁を、乗り越えることができるのか富リュウ! 頑張れ富リュウ! 負けるな富リュウ! って自分のことなんだけどね。

散歩の組手

 ケガをした翌週と翌々週は一人稽古と推手だけにして、組手はやらなかった。なので3週間ぶりの組手。今日は何かができそうな予感がする。12月2日、その日は暖かく小春日和を思わせた。吹き抜ける風が、これから起こるささやかな幸せを祝福してくれているようだ。よし、サクセスストーリーの序文は出来た。あとはこの予感を現実のものにするだけだ。

 何も出来なかった。全く何も出来ていなかった。ケガをしなかったことだけが、ささやかな幸せか。否、幸せ感などどこにも無い。在るのは、挫折感と屈辱感と無力感だけだ。組手の最中、ああするように、こうするように、と先生からアドバイスをもらっただろうか、あまりよく覚えていない。二人ほどと組手をやっただろうか、それすらもあまりよく覚えていない。先生、組手…。私の組手…、何がいけないんでしょうか? 着替えを済ませてから、ためらいがちに尋ねてみた。富リュウはさ、基本的にやるべきことを勘違いしてるんだよな。組手をやってないんだよ。皆は組手をやってるのに、お前一人だけ、ウォーキングしちゃってるんだよ。
 「基本的にやるべきことを勘違いしている」「組手をやってない」「ウォーキングをしている」 ずっと前に聞いたことがある。散歩しているように組手をしなさいと。散歩しているようなリラックスした気分で組手をしなさいと。しかしそれは、散歩をしているように「組手を」しなさいであって、散歩をしているように「散歩を」しなさい、ではない。あぁ、なのに俺は、リラックスすることばかりに捕われ過ぎて、ほんとに散歩そのものをしていたとは…。なんて馬鹿なんだ俺は。なんという大馬鹿者なんだ、俺は!

辞表提出・もう太気やめます

 本当に、自分には向いていないのではないだろうか。自分には格闘技や武術、組手などといったものに、全く適性がないのではないだろうか。あるいは自分には他に何か向いている、適性のあるものがあるのではないだろうか。打ちひしがれた想いの中で、いろいろな考えが浮かんでは消え、浮かんでは消え、浮かんではまた、消えていく。もう辞めます――言うのは簡単だ。もし言うのが難しいと感じるならば、そのまま居なくなればよいだけのことだ。考えが逡巡する。

 辞めたくない理由はひとつだけ。この富リュウの修業記を書いている。書き続けている。もう7年も。そして何ひとつとして成果が出ていない、結果が出ていない。今やめてしまうと格好がつかない。体裁が悪い。辞めたい理由もひとつだけ。強くなれない。組手ができるようにならない。そして後輩に追い越されている。格好が悪い。体裁が悪い。
 さてここで問題がふたつ。後輩に追い越されていることが、辞める理由として適切かどうか、ということがひとつ。もうひとつは、全ての理由が、格好が悪い、体裁が悪いということに帰結しているということ。あまりに動機が不純で空いた口が塞がらないではないか。

 辞めることは簡単なこと…。ならば、いつでも辞められるということではないか。辞めることが簡単な事で、いつでも辞めることが出来るとすれば、それでは別に今、今ここで辞めなくてもいいのではないか。ならば、辞めるまでは続けよう。そう考えた。そして、続けるからにはちゃんと強くなろう。ちゃんと強くなって、後に続く者達に模範を示せるまでになれるかどうかは分からないが、少なくともこれくらいやれば、これくらいにはなれるという一つの道筋だけでも指し示してあげられるように…そう思い直した。

ピンチすなわちチャンスなり

 日曜日の昼下がり。いつもの風景。LサイズのブラックコーヒーとSサイズのミルクティー。向かい合って座る。なじみの喫茶店。妻のY子とのひとときは、ほっとする時間であり、有意義な時間でもある。そしてとりとめのない会話は、時に魂を震わせ、大地に響く。

「基本的にやるべきことを勘違いしている」「お前はウォーキングをしているんだよ」って先生に言われちゃってさー。落ち込んでいる富リュウに、優しくY子が微笑みかける。ピンチ・ピンチ・チャンス・チャンス・ラン・ラン・ラン♪ ピンチすなわちチャンスなのよ――そんな話が始まりだった。何がキッカケだったのだろうか。思い出せない。しかしその何気ない会話の中で、突如として強烈な衝撃が脳天を貫き、何かが音をたててガラガラと崩れ落ちていった。頭の上にあった壁板。それが邪魔で伸び上がれないでいた。しかしてそれは、自分が作った壁板だった。こうあるべきという思い込み。それが砕けて散っていった。

 自分が作った壁板。思い込みという壁板。今まで正しいと思い込んでいたことは間違いで、今まで価値があると思って握り締めていたものは、ただのガラクタだった。

 新しい価値観、新しいものの見方――。

 場の雰囲気を読む。人の有り様を捉える。流れに身を任せる。それが大事。あとは格好付けないこと。格好いい振りをして、クールにキメて、冷静さを装って。そんなことには何も意味がないということ。

 格好悪くても、鼻水たらしても、汚物にまみれても。歯を喰いしばって、石にかじり付いてでも、砂を噛む思いをしても。しゃかりきになって、必死の形相で立ち向かっていく。そう言うなりふり構わぬひたむきさが大事。

 今日から再スタートを切る。強くなるための練習をする。そう決めた。そして、ちゃんと強くなろうと決心した。

肉食獣の立禅

 今までは、どちらかとういと草食獣的な立禅をしていた。まわりをぼぅーと見ていて何かにビクッと反応できるような感じで。これはこれで間違いではないのだろうけど、12月10日の交流会を見据え、今度は肉食獣のような気分を作ってみた。目の前を通りかかる人、車、猫やカラス、木々の揺らぎ、そういったものに反応し、うおぅ!と襲い掛かっていくような気分と体勢、姿勢で立禅を組んでみる。なにか闘争心が湧いてきて、いい感じに仕上がりそうだ。

ちら見チェック

 全体をぼうっと見るように、と言われ。そうしてみると駄目で、今度は相手をよく見るようにと言われ。よく見るとやっぱり駄目で、相手の目を見ているから自分の目を打たれるんだと言われ。それじゃあいったいどうしたらいいのって。もう少し、もう少しで眼の使い方がわかりそうなのにもどかしい。

 視界の拡がり。左右上下に大きく見て取る。それに足りないものは何? それは前後の奥行き、遠いものと近いものを見るときの目の使い方の違い「ちら見チェック」だ! 木のすぐ近くに立ってみる。1メートルほどの距離か。自分の手を通して木の脇を通り過ぎ遠くの景色を見る。次の瞬間、木に目の焦点を合わせ、またパッと遠くを見る。木に目の焦点を合わせるときに、上のほうを見たり枝のほうを見たり下のほうを見たり、視線を上下左右前後に振り分けて、相手を舐めまわすような感じで見る。うん、これはなかなか使えそうだ。

パペマペ打ち

 ちら見チェックの眼の使い方はそのままで、その木に向かって這いをやってみる。この時、引き手の手が寝てしまっているのに気が付いた。ああこれじゃあ駄目だなあ。どうしても引き手の甲を立てているとリキミがでやすいので、寝かして誤魔化してしまっているようだ。これではいかん。さてどうする?

 ウシくーん、カエルくーん。ウシとカエルの着ぐるみを両手に被せた黒子の芸人が一人。パペット・マペットの登場だ。まあウシとカエルだと弱そうだから、右手にライオン、左手にトラの着ぐるみを被せよう。これが相手に狙いを付けていて、飛び掛ってガブッと噛み付くイメージだ。こんなお馬鹿な想像でも意外と役に立つものだ。打ち終わってから引ったくってくる素速い引き手が自然にできた。「パペマペ打ち」とは、なかなか良いネーミングではないか。

ワイパーの練りから

 組手に必要な最小限の動き。それは何だろうか。トコトコ歩き。低い姿勢で、狭い歩幅で、トコトコ歩く。お腹を緩めておく事が肝心。もちろん体重が十分に片足ずつに行き来することも。そして高く掲げた前腕が緩く前後に平行移動する。そこからもう少し、左右の動きをちょっとだけ加えてみる。顔をガードできるように。前腕は平行移動し、まるでバスのワイパーのように動く。ここから一気に伸び上がる。片手片足を大きく天に突き上げ、一瞬でトコトコ歩きに戻る。この伸びを次第に前に向け、打拳にしていく。パッと伸び、パッと縮まる。延々とこの動きだけを繰り返す…。

男泣き

 交流会の日、12月10日。太気会の面々と気功会の方々が久々の再会をはたす。初めはいつものようにおのおのが自由練習。富リュウも肉食獣の立禅のあと、パペマペで這いをやり、ワイパーの練りからの打ち込みで自分の動きをたしかめる。もちろん、ちら見チェックの眼の使い方も意識して。そうこうするうちに集合がかかり、島田先生から立禅と練りについての説明がある。なかなか参考になる良い説明だった。

 組手が始まる。最初は太気会同士、気功会同士で組手をして、その様子を見たうえで組み合わせを決めて交流組手をやる、という運びとなった。太気会同士の組手が5組ほど終わってから、富リュウにも声がかかる。N山さんとの対戦だ。

 全く何もできずに、また涙目になって僅かな時間で終了。後は片目で皆の組手をただただ眺めていただけ。飲み会にも参加できず、すごすごと帰る。横浜の自宅へ。何も役に立っていない。肉食獣の立禅も、ちら見チェックも、パペマペ打ちも、ワイパーの練りも。この一週間の苦労が水の泡。涙で流れてダラリンコしゃん。幸いにも妻のY子は出張のため不在。トイレに籠もって独り言をつぶやく。叫びたくなる衝動を抑えながら。なんで俺だけが。なんで駄目なんだ。なんで俺だけが、何が駄目なんだ。なんで俺だけが。何をどうしろと言うのだ。くっそっ~! 嗚咽が漏れ、悔し涙が流れる。

天啓

 お前は身の程知らずだ。自分の身の程を知れ。逃げるな、嘘をつくな、虚勢を張るな。それが一番みっともない。臆病者なら臆病者の組手をすればいい。自分らしくない人、自分じゃない人になろうとするな。己を知れ。臆病者なのに勇敢なふりをするな。臆病者なら、それはそれでいい。まず、それを認めろ。その上で出来ることをやればいい。

 組手ではお見合いをしていては駄目。だけど突進して行くのも駄目。行けるときには行く。引くときには引く。相手の様子を伺うことが大事。相手の出方を観察する。相手を見くびらず、自分を過大評価しない。欲張らない組手をしなさい。恐いんだったら泣きそうな顔で組手をやってもいいじゃないか。

さらなる工夫

 妻と会社の連中には「ものもらい」ということで言い通した。「ばい菌が入っちゃったみたいでさ」と誤魔化してやり過ごした。

 今、自分の組手に必要なものを優先順位をつけて自分用に整理して再構築していく。そして、それを踏まえたうえでの禅や這いや練を工夫していく。

 立禅は島田先生のアドバイスを参考にしてみる。草食獣でも肉食獣でもなく、ただただボゥーと立ち尽くす。気持ち良さを感じながら。上体は全くの虚で、細胞の間を風が吹き抜けていくように。あとは、遠くの音を、遠くの聴こえない音を聴こうとするように。

 眼の使い方は、もとに戻す。全体をボワンと見るように。しかし通りかかる人がいれば、ちゃんと顔の表情も観ておく。しかし何も考えない。なんだやればできるじゃないか。あるものをあるがままに観るということが。

 立ち方は、狭く。トコトコ歩きのワイパーの練りは間違いではないと思う。そして狭いスタンスで居るなら、真ん中に立っていてもいいではないか、と思う。片足に立っていなくても、その状態が常に緩んでいて、どちらかにパッと動ける状態であるならば、それで良いのではないか。

 そして探手では組手を意識して、とにかく反応して動けるかということ。相手に反応できるような状態で居る。そして反応して動く。それだけでいい。

歯医者復活戦

 元々そういう性格なんです。いつも肩に力が入っていて、何かをしようとすると、すぐに緊張するし。そういう緊張気質な性格なんです。でもね、その日の朝、駅から公園まで歩いている途中で、フッとそれに気づいた瞬間、抜けたんです肩の力が。確かにその瞬間、今までとは違った感じになったんですよ。

 そいで、その二日後が歯医者での検診の日だったんですけど、わかっちゃったんですよ。何がって、背中の力の抜き方が。その歯医者には年に一度しか行かないんだけど、一回の時間が1時間から1時間半くらいでとっても長くって、以前は治療の後、すっごく疲れてたんだけど、去年くらいから、あんまり疲れなくなってて。それが今回は治療台がリクライニングしたその瞬間、コツが見えたんです。疲れないためのコツが。背中に当たっている硬いボードの上で、肩甲骨を緩めて、その下の方も緩めて、腰も緩めて、とにかく背中全体を緩めるようにしてみてたら、あーら不思議。治療後も、ちっとも疲れてなんかいないんですよ。あーあ、今までは疲れちゃってて、とっても損してたなーって。これまでの私の人生って、いったい何だったんでしょう?

感覚を開く、聞き耳立禅

 島田先生に教えていただいた聞き耳立禅。以前にも澤井先生の本で読んだことがあったし、ここ最近、天野先生からも折に触れ言われていた。しかし今までは見ることばかりに気を取られ、ないがしろにしていた。というより全くやろうともしていなかった。

 まずは聞くことに集中して立禅を組む。音か?音を聞くのか? 相手の動く音?足音?衣擦れの音を聞き分けるのか? そんなことを考えながら毎朝続けていたが、聞くということが何なのか、いまひとつピンと来ない。

 そんな朝練を一週間ほど経た後、元住での稽古。稽古が終わってから、天野先生に質問してみた。あの、質問があるんですけど、聞き耳たてて立禅をしていて、それが、組手にどう役に立つのでしょうか?と。そんなことは考えなくていい!何も考えないで立禅を組むの。と一刀両断。思ったとおりの返答だった。しかし次の瞬間、意外な答えが返ってきた。感覚を開くんだよ。聞くって言うのはさ、ものの例えでもあって、確かに遠くの音を聴くようにはするんだけど、それだけじゃなくて、皮膚感覚、肌感覚、そういったものを全部開いていくの。 ――よし、いいことを聞いた。ならば明日からの一週間、そんな聴き方と感じ方で立禅を組んでみよう!

懸垂から振り子拳

 いつも立禅をしている都内の外れにある児童公園。時たまそこに訪れる太めのジョギングオヤジ。私のすぐ脇にある子供用の滑り台のパイプにぶら下がり、懸垂をしていく。私はちょっといぶかしげな表情を浮かべ、オヤジから少し離れて距離を取り、立禅や這いを続ける。それはいつもの光景だった。にも拘らずその日は何かが違っていた。ぶら下がってからしばしの時間が…。オヤジの巨体が揺れる。振り子のように。

 あっ!と良いアイデアが浮かんだ。トコトコ歩きでワイパーの練りをする際に、上体は、お腹の緩みとともに左右に平行移動していくのだが、平行移動では、スムーズさに欠け、スピードを出しにくい。何かこう、振り子っぽい動きができたなら、もっとスムーズにもっと滑らかに動けるのではないか、そう考えてみた。無理にガシガシ動かすのではなく、行ったら自然に戻ってくるように。ものは試しにそんな練をしてみると、お腹の中で何かがグルグル回りだした。これって何よ?

お腹の中で何かがグルグル回ってる

 翌朝になると、立禅のときにも、お腹の中で何かがグルグル回っている感じがあった。最初、丹田が回っているのかと思ったが、どうも丹田の周りを何かが回っているような感覚だ。それが内臓なのか気なのか体液なのかチャクラなのか判らないが、もしかしたら、ただの気のせいなのかも知れないし、勘違いなのかも知れない。しかし半禅で、それを右回しや左回しに方向を変えたり、ゆっくり回してみたり速回しにしてみたりすると、これがなかなか面白いのだ。

カッパもどき

 そのまま立禅を続けていると、ふと頭の上にカッパのお皿のような感覚が。それは下から上に身体を突き上げようとして、頭を抑えられているような感覚でもあるし、頭頂部がピリピリするような感覚でもある。それを感じながら体の中心を振り子のように揺すっていると、ふぅーと体の芯に空洞ができた。頭頂部から会陰部にかけて、サランラップの芯のような空洞感が出てきたのだ。いや、この空洞感、よくよく観ていくとサランラップの芯ほど真っ直ぐではないようで、うねりを伴って微妙に曲がっている。太さも所々で違っている。これを便宜上「空軸」と名づけよう。

神から借りたもの

 そのままの感覚で這いをやり始めたのと、目の前を傘を持った老夫婦が通りかかったのが、ほぼ同時のタイミングだった。その瞬間、あっ俺も何か持っている、そう思った。しかし持っていたのは傘ではなく自分の腕だけだった。そのとき一瞬だけだったが、空軸が自分の本体となり、手足を含む体全体が持ち物、あるいは道具、あるいは借り物。そんな感覚になった。

クリスマスプレゼント

 運命の日、12月23日。この日は自分にとって今年最後の稽古日でもあり、今年最後の組手の日でもある。立禅を長めにやりたかったので、午後2時前には元住の公園に到着した。耳を澄まして体を緩めて空軸を感じて。じっくりと禅を組む。這いの中では、練りをやっているように、お腹の中をグルグル廻す。練りでは逆に、手の動きを最小限にして振り子の感覚で身体の芯をゆすっていく。そして探手。ワイパーの練りでトコトコ歩き、そして反応して動く、反応して一打放つ。反応できる状態に空軸を保ち、耳を澄まして相手の動きを良く観て観察し、反応して動く、反応して一打放つ。それだけを繰り返す。

 推手が始まった。空軸を保つことと、聞き耳を立てることに専念する。もちろん肌感覚、皮膚感覚も全開にして。フッと相手の動きの兆しが観えた様な気がした。 

 さて組手である。相手は、後輩のK村さんとK川さん、そして10日の交流会でも手合わせいただいた元K空手黒帯のN山さん。顔が下を向かないように、それだけを気をつけた。後は自分の稽古の成果を出すだけだ。反応して動く、反応して一打放つ。それだけのことをやる。

 ああ、やっと様になってきた。先生にも「ちょっと良かったね」と言葉をいただいた。自己評価は10点。もちろん100点満点の10点である。しかし価値ある10点である。なんせ今までの組手は、どれもこれも0点だったのだから。これは本当に自分にとってのクリスマスプレゼントだ。2日早いクリスマスプレゼント。神様ありがとう。そして仲間の皆、ありがとう。

天才バカボン

 思えば五体不満足の組手(11月12日)から6週間、これまでの7年間で一番濃度の濃い稽古ができたと思う。時間的にはいつもと変わらない稽古量が、5倍から6倍ほどに本当に質の濃い稽古だった。それまでは目先のことや手先のことで、何かたったひとつ見つけるたびに嬉々として悦に入っていたようだ。本質を見ようとしていなかったし、全体として捉えようとしていなかった。何よりも目標がはっきりしていなかった。だから小さな発見の楽しさで満足していたのだと思う。

 しかしこれからは違う。ちゃんと目標をもった。だから、そのためにやるべきことを吟味して行く。その都度、目標に沿うようにやるべきことを明確にして行く。そういう取り組み方をしていく。――これでいいのだ!by天才バカボンのパパ

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秋だっぺよ

五体不満足

 相手の表情がよく読めている。自分の中心で相手の中心を捕らえている。ジリッジリッと間合いを詰め、相手が動き出すのを待つ。バンッ!ガチャガチャ!! 手と前腕が交叉する。その一瞬に流れ弾を喰らう。

 殴り合っちゃダメなんだよ。打てるときに行く。そうじゃないときはパッと離れる。自分も殴れるけど相手にも殴られる、そんな間合いにいたんじゃ駄目なの。師の叱責が飛ぶ。

 月曜は仕事を休み病院へ。火曜水曜はまだ五体不満足のまま出勤。木曜金曜は後遺症の残ったまま仕事をする。そんな社会人失格な一週間だった。

イタイ思い

 中心をさ、ズラすんだよね。I先輩が言う。相手の中心を捕らえることは大事なんだけどね、自分の中心を捕らえられちゃいけないんだ。そのためにはさ、虚の自分を相手に捕らえさせておくって言うか、ここに居るようでそこには居ないっていう体の動きっていうか状態?それを作ってさ、相手に捕らえられたと思ったらパッと変わる。そしてまたパッと変わる。それを繰り返すんだよね。

 組手はさ、イタイ思いをしないと強くならないんだよな。傍らで、皆と雑談をしていた師の独り言のような呟きが聞こえた。

それじゃ違うんだよ

 雲の上を歩いているような這い。宇宙遊泳のような這い。そんな這いが出来てきていたが、心のどこかに何かが違うんじゃないのかな、という思いがあった。それじゃ違うんだよ。聴こうとしていた矢先、先手を打たれて言われてしまった。こうだろ、ここでこうなるだろ。それでこうなるんだよ。今までとはまるで違う体の使い方。ソケイ部を吸い込んだままでの這い。しかしこの這い、尻の落とし処に工夫が要りそうだ。

枯葉打ち

 秋は紅葉、そして枯れ落ち葉の季節でもある。公園で立禅をしているとハラリ、またハラリと枯葉が落ちてくる。目の使い方、全体をボワンを見ながらも、その一点への集中も必要だ。枯葉を視界の中に捕らえながら身体を緩めておいて、枯葉が着地するその瞬間に身体を震わせる。打拳を打つ感覚で。

雨しずく打ち

 公園によくある屋根がついてて中にベンチが作りつけであるやつ。壁はないんだけどとりあえず雨露はしのげる。あれってなんていうか知ってます? 東屋(あずまや)って言うそうです。その東屋で立禅をしているとね。雨がポタポタと落ちてくるのがよくわかるんです。軒先(のきさき)のところから。それって当然、枯葉より落ちる速度が速いんで、いい稽古になるんですよね。目の使い方と反射神経と体の振動の。

恐い顔

 先生、あの人って○○拳法4段ですよ。顔も恐いし。それにあの人もガタイがでかくて顔が怖くて○○空手2段なんですよ。なんか見てるだけでビビっちゃいますよね。

 社会人の常識としてさ。相手の目を見て話しをしなさいっていうのがあるだろ。それは人が人とコミュニケーションをとるときの大事な要素なんだよな。でもさ、組手は違うじゃん。顔見なきゃいいじゃん。組手のときに相手の顔なんか見ちゃいねぇよ。俺は。

カクテル・レインボー

 ハラと背中がさ、緩んでこないと。締まるべきところが締まらないんだよな。それは逆もしかりで、締まるべきところが締まっていないと、緩むべきところも充分に緩みきらないんだよな・・・。

 最近やっとハラと背中が緩んできた富リュウに天野先生が追打ちを掛ける。締めるところはヒザ。正確に言うとヒザから踵に至る脛のライン。これが締まってきて初めて使い物になるというのだ。しかしここで問題がひとつ。「締まる」ってどんな感触なのか? それが「リキむ」というのとは違うっていうことだけは察しがつく。しかし「締まる」は未知の世界。成ってみなければ分らない。

  それはある朝、唐突にやってきた。ヒザ下に締まりがでたのだ。リキみではなく締まり。そしてハラと背中から上はゆったりと緩んでいる状態。それはまるで体の中にエネルギーの層があって下の方は濃度が濃く、ヒザからソケイ部にかけてグラデーションが掛かり、上の方には濃度の薄いエネルギーが入っている、そんな感じ。例えて言うならレインボーマンじゃなくて、カクテルのレインボー。濃度の濃いお酒から順に入れていって7層がきれいに色分けされているやつ。あんな感じかな。

ものの見方・目の使い方

 カクテル・レインボーが体の中に出来ると、気分の作り方も同じようにすればいいんだろうな、ということが自然に理解できた。ある部分を締めておいて、ある部分を緩めておく、そのメリハリが重要。これが出来てきて、目の使い方がはっきりとした。

説明違い・説明不足・説明不要

  実は富リュウ、4年前からダンスも習っている。ダンスの先生達も個性豊か。そして教え方も千差万別である。M先生は中々の理論家。説明のしかたも丁寧だ。しかしある時そのM先生が言った「ヒジを前に出しちゃダメよ」これは上体を右にひねる時の動きだ。つまりは胸が完全に右を向いていなければならないのだが、どうもこのひねりが上手くいかず手だけが出ていたようだ。そして「ヒジを前に出しちゃダメよ」という指摘は間違いだ。正確に言えば「ヒジだけを前に出しちゃダメよ」もしくは「ヒジも前に出すのよ」となる。どうも体を使うことの得意な人達は、言葉を使うことが苦手のようだ。あるいは感覚的な人達や芸術家気質の人達にも、言葉を使うことが苦手な傾向にあるように思える。

 この点、J先生は解りやすい「違う。見てて、こう」それしか言わない。完全な感覚人間で、言葉で説明したり、表現することを放棄してしまっている。
しかしまだまだ上がいる。外国人のR先生「パンパンパン・パ・パンパンパン。オーケー?」これしか言わない。もうここまで行くと、見て盗むしかない。

 しかし天野先生も教えることに関しては、言葉に限界を感じているようだ。「もう説明するのが面倒臭くなっちゃってさ、いいから黙って立ってろって、言いたくなっちゃうこともあるんだよな」って、そんなことをふともらしたことがある。

これでいいのだ!

  立禅や這いを習い始めた頃に、良く見聞きしていた説明がある。低い姿勢での立禅や這いは、足腰の筋力を鍛えるためのものではない、という説明だ。
ヒザ下の締まりを模索していて気づいたことがある。前述の説明は、間違いなのではないかということ。つまり「低い姿勢での立禅や這いは、足腰の筋力を鍛えるためだけのものではない」あるいは「低い姿勢での立禅や這いは、足腰の筋力を鍛えるためのものでもあるが、他にもっと重要な要素を含んでいる」というのが正解なのではないだろうか?

  こう考えていくと、ほかにも思い当たる節がいっぱいある。推手の時にはこうしなさい。組手の時にはこうしなさい。それらをふるいにかけて見えてきたものがある。

  ひとつひとつの経過は省くとしよう。結論は7:3で立って居るっていうこと。これに尽きる。7:3を軸に身体をうねるように使い、這いを組み立てる。7:3に立って身体をうねらせながら、時に上体や頭をオフセットさせて推手と組手に応用する。――これでいいのだ! byバカボンのパパ。

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平成18年・夏でごわす

力が弱く、どんくさ

 富リュウは、スポーツが大の苦手・・・今年の春の章にそう書いた。スポーツが苦手とは、いったいどういうことかというと「力が弱く、どんくさい」ということ。高校生の頃、毎年のように体力測定が行なわれていたが、富リュウは、これが大嫌いであった。それは、何をやってもビリケツだから。まあビリケツは大袈裟にしても、クラス40人の内、30位以下40位までには必ず入っていた。走ったら遅い、飛んだら低い、反復横飛びはトロイ、踏み台昇降は心臓バコバコ。

 しかし何故か、今43歳の自分には妙な自信がある。それは、たぶん間違いなく高校生の頃より今の方が、体力測定データは良好であるということ――。走れば脱兎の如く、飛べばトランポリンの如く、反復横飛びはシャラポアを凌駕、踏み台昇降は馬の如し。

 しかーし「力があって、すばしっこい」とまではいかない。何故か。それは稽古が足りないからである。

 武道・武術の秘伝に迫る月刊誌「秘伝」の9月号によれば、太氣拳をすると運動神経が発達し「力があって、すばしっこい」状態となる、と書いてある。師である天野敏氏の記事である。あのー、それって聞いてないんですけど・・・ていうか、今初めて聞いたんですけどぉ・・・。なにを言いたいのかというと、あっ、これは騙されたなっていうこと。だって7年前にそれを聞いていたら、コンプレックスの固まりの富リュウは、絶対に太氣拳に入門しようとは思わなかったはず。そもそもが運動の苦手の人間に、これをやれば運動神経が良くなりますよって言われても、疑心暗鬼、魏志倭人伝ですから。

 さて、改めて天野先生に感謝。騙してくれてアリガトウ。お蔭様でここまで来れました!

まとまってる状態、動ける状態

 武道・武術の世界には「居着く」という言葉がある。これは、いつでもすばしっこく動けるためには、そこに「居着く」ことがあってはいけないよ、という戒めの言葉である。そこで「居着いている」というのがどういう状態なのか「居着いていない」というのがどういう状態なのか、を感じ取ることが必要となる。

 武道・武術の秘伝に迫る月刊誌「秘伝」8月号の99ページには、富リュウの勇姿ならぬ愚姿が出ている。写真にとると良く判るよな。天野先生が言う。自分でも良く判った。どの写真を見ても、そんな姿勢でいては、全く以って動き様がないではないか、といったありさまで、完全に居着いてしまっている。打たれた後の写真(D-03)は、特にひどい。まるで背中が固まっていて、そこから変化のしようがない。蹴ろうとしている時の写真(C-01)は、少しはマシ。そうだやればできるじゃないか、といった感じだ。

 立禅では自分のまとまっている状態を見つけて染み込ませる。但し、まとまっているだけでは使い物にならない。まとまっている状態で、尚且つ動ける状態、これを手に入れるための日々の精進である。

お腹ポッコリ、背中ぽってり、首やわらかく

 「内臓を楽にしておきなさい」天野先生から言われた。立禅のときの注意点だ。もう半年以上前のことだと思う・・・と今年の春の章に書いた。その時には、腹を楽にして力を抜いておく、と言われても、先生、力を抜くって(力を抜くと)お腹は、出るんですか引っ込むんですか? そんなの出るに決まってるだろ! と言われる始末・・・。そしてやっと最近になって、というか前述のあまりにひどい自分の写真を見せられて一念発起、フォームの改革に乗り出す。そしてあれやこれやの工夫の末、やっとこさ、時々だけど、お腹の楽な感じができそうな頃、また天野先生に言われた。「下っ腹をさ、ポコッと出すんだよ」あー出しちゃっていいんですか~。これには、居酒屋拳法談義(※)でも賛否両論。「中国拳法の達人はみんな下腹がポッコリとでている」「いやいやあれはカッコ悪い、ああいう風にだけはなりたくない」「下腹でなくてミゾオチのあたりを出しても同じ効果があるそうだ」等など・・・話は延々と続く。(※参加者は、太氣会2名、太氣拳S先生の弟子1名、太極拳I先生の弟子1名の計4名。不定期開催)

 そうは言っても背水の陣の富川リュウ。前門のトラ、肛門のイボ痔、もう時間がない。とりあえず師の言うとおりにやってみるまでの事である。

 そして、次第に変わっていった富リュウの立禅。下っ腹を出した分だけ、背中の下のほうを後へ押し出すようにする。首を柔らかくしておいて、変化に対応できるだけのマージンを確保。体のまわりの空気に身を任せるように。地球の大気層の一気圧の圧力を感じて、それに身を委ねるように・・・その勇姿は、武道・武術の秘伝に迫る月刊誌「秘伝」X月号にて、見られるかもしれません。

白いヘッドギヤ

 夏合宿を前に白いヘッドギヤを購入した。いつもは先生が持参してきてくださるものを着用しているのだが、ちゃんとした自分用のものを準備した方がいいと思ったからだ。東京の水道橋に買いに行ったのだが、なかなか顔にフィットするいいものが見つからない。唯一いいものがあったが、それはとても高価だったため躊躇していた。

 このヘッドギヤは亀田選手が練習の時に使っているのと同じ物。ボクシング用のフルフェイスだ。これなら目の辺りも保護できそうだし、視界もまずまずである。まぁ十年使えば一ヶ月あたり310円だからと思って購入を決めた。

 K公園での練習の際におニューのヘッドギヤを持参した。使用感を確かめるため、後輩のY君を捕まえて殴ってもらった。初めはノーガード、ノーディフェンスで殴らせる。衝撃と視界の確認のためだ。次はヘッドスリップだけで避けてみる。まだ足はあまり使わない。その次は、少しだけ足を使って手も使ってディフェンスする。こちらからの攻撃は無しである。

 この頃は、首をかなり柔らかく使えるようになっていたので、一発目の攻撃は避けられるようになっていた。しかし連打されると、二打目、三打目は貰ってしまう。まあ避けると同時に、こちらが打つようにすれば、そう打たれることはないだろうと、その時はタカをくくっていた。それが憂いをみる羽目になろうとは、つゆ知らずに・・・。

悔しい・悔しい・悔しい

 夏合宿での組手では、普段あまり顔を合わせることのない二人と対戦した。出来は散々。二人とも後輩なのに動きが格段に良くなっている。一方で自分はと言うと、悪くなっているはずはないのだが、まったくもってキレがない。落ち込む。

 終わってから、他の人達の組手を見る。見ているうちに悔しさが込み上げてくる。なんで俺は・・・。

 先生とも組手をした。何もできない自分にがっくし。先生と他の人達の組手を見る。先生はいつも全員の相手をされる。ここでふと気づく。体力もない、運動神経も鈍く格闘技センスもない自分にできることは何か。それは良く見ること。観察すること。見て盗むこと。よし、先生の姿を目に焼き付けよう!

 そこに神気を見た。芸術的な動きというよりも、それ自身がまさに芸術。そして自由さ。自分を解放しているような奔放さ。足の角度。前に行こうとしている時には、足裏が後ろの空気を蹴るような角度になる。背中の状態。常にやわらかく、躍動感がある。

 悔しい・悔しい・悔しい・・・この悔しさをバネに・・・跳躍だ!

夏の甲子園

 野球はあまり見ない。妻がテレビをつけていたのでたまたま見ていただけのこと。捕手の仕事はたいへんだ。飛んできた球を捕らなければならないだけでなく、それを的確な所へ投げなければならない。そして投げるべき場所は状況により変化する。もちろんピッチャーもキャッチャーもバッターもたいへん。やるべきことがいっぱいある。みんな運動神経がいいよなぁー。当たり前か。

 早稲田の斎藤佑樹投手。とても優秀なピッチャーだ。なんであんなに速い球を正確にストライクゾーンに投げられるのだろうか、不思議でならない。ふと昨日の悔しさが込み上げてくる。そこにアップになった斎藤投手の投球シーンが。思いっきり振りかぶって首がのけぞり、そのまま頭から落ちて行って、投げきる直前に首が元に戻っていた。この首の戻るスピードがピカイチである。ハンカチ王子よ、ありがとう。素敵なプレゼントを。

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平成18年・春だよね

Footの上の三角定規

 ここ最近の最大のトピックスはヒザ位置が定まったこと。そしてヒザ位置を固めることで、わき腹と上体がスムーズにダイナミックに動くようになったこと。

 半禅での説明がわかりやすいかもしれない。後ろ足のヒザの向きが、足先の向きと一致しているだろうか? 大抵の人がFootの向きに対して、ヒザの向きが内側に入っているのではないだろうか。その方が手ごたえがあるし、グッときて具合がいい。でもこれは間違い。私にも何度かチャンスはあったのだが、それを改善する機会が伸び伸びにされていた。今年に入って天野先生から貴重なアドバイスをいただく「いつでもカカトを踏めるようにしていなさい」そう。天野先生はいつも伝え方に工夫をこらしてくださる。こいつには何と言えば伝わるだろうかと、常日頃から考えてくれているようだ。

 半禅でも這いでも、その場その位置その状態から、フンっとカカトを踏んでダッシュできるような状態にいなければならない。そのためには足先の向きとヒザの向きが、常に一致していなければならない。そしてこの踏ん張れる状態、自分にとってのFootとヒザ頭の一致するポイントを探すのに約2ヶ月かかった。

 蛇足ながら、日本刀を例に出そう。棒で人を殴ろうとすれば、どの角度で当たってもそれなりに衝撃が相手に伝わる。しかし日本刀で相手を切ろうとするならば、刃のついてる方を相手に当て、さらにそのままの角度で刀を引ききることが必然となる。この必然が、Footとヒザ頭の位置関係にもあてはまる。

 自分の場合、始めに思っていたよりもちょっと外側にピタっとハマル位置があった。自分がO脚だということを考えると(これは推測であるが)O脚の場合にはやや外側、X脚の場合にはやや内側にそのポイントがあるのかもしれない。

手が足にのる

 腰と肩の一致、手と足の繋がり。それが大事なポイントだという事は入門当初から何度も聞かされていた。そしてそういうふうに稽古もしていた。7年目に入る今年になって、ヒザ位置が定まったことにより、手と足が繋がっている感覚が出てきている。

 半禅をすると、膝頭の少し上の大腿部あたりにハンドが乗っかっている不思議な感覚がある。右膝の上に右ハンドが、左膝の上に左ハンドが乗かっている感じだ。このままナンバ歩きをしてみると、操り人形のように、右手が右足を、左手が左足を引き上げてくれる。いやあるいは右足が右手を押上げ、左足が左手を押し上げているのかもしれない。「糸」で繋がっているというよりは「棒」で繋がっている感覚だ。

 開掌を前に向ける半禅。これは上級者の禅であるが、このフォームはそのまま組手構えに使える。ただし、少々の工夫が必要となる。右膝の上に右ハンドが、左膝の上に左ハンドが乗っている状態では、相手に向かって正面が空きすぎている。後ろの手をもう少々前に持ってこなければならない。そのため工夫。――各々の健闘を祈る。

ウンチク自慢

 体の部位を言い表わすとき、日本語の方が便利な場合と英語の方が便利な場合がある。一般的に日本語は全体をあいまいに言い表わし、英語は各部位を単独で明確に言い表わすという傾向がある。日本語で「手」と言った場合、それば「手のひら」の部位とも思えるし、肩から先の「腕全体」とも受け取れる。「足」もまたしかり。もちろん例外もある。日本語には、「掌(てのひら)」や「手の甲」「足の甲」などの細かい表現もある。また英語でも「Back」の様に背中から腰までの全体を言い表す言葉もある。ちなみに「指」を英語でいうと「Finger」であるが、足の指は「Finger」とは言わない。これは「Toe(トウ)」となる。

 さて前述の「ハンド」と「フット」であるが、英語の方が的を射た表現をしているのでそうしてみた。つまり手首から先が「ハンド」で、くるぶしから先が「フット」なのである。といわけで、富リュウのウンチク自慢はこれでおしまい。

しげみ探手

 昨年の夏頃の話。木の枝を相手の腕に見立てて、その脇に頭を突っ込んで、また引き抜くというような稽古をしていた。そしてその枝を自分の腕で払いながら打拳を打ち込むような動きも何度も稽古した。

 今年の春、出張先での話。その公園には適当な枝振りの木がなく、しかたなく葉の生い茂った木を選んでみた。葉のついている部分はちょうど自分のノドの高さあたりにある。やや腰を落としその枝葉の下に入る。枝葉全体を下からゴチョゴチョと軽くイライながら少し動いてみる。何をかわすと言うでもなく、どこを打つと言うでもなく…。そして期待に反して大きな収穫があった。昨年暮から組手の稽古も次第に多くなってきていたが、この茂み探手、組手の感覚にとても似ていたのである。組手の攻防は、こうきたらこうかわし、こうなったときにはこの手でこう打つ、と思いがちであるが、実際にはゴチョゴチョとなってパッとした一瞬に打つ――といった感じになる。この感覚にとても似ていたのだ。

内臓がポテっと

 「内臓を楽にしておきなさい」天野先生から言われた。立禅のときの注意点だ。もう半年以上前のことだと思う。人の体は骨と筋肉からできている。これが構造物だ。そしてその構造物の中に、内臓という内容物が詰まっている。人は体を使って何かをしようとするときに、筋骨ばかりに気をとられがちであるが、内蔵の存在を無視してしまえば、自分の体というものを50%、いや30%くらいしか把握していないことになるのではないか。太気拳では体全体をまとまって使っていくように訓練していく。その中で体側部にある脇腹や脇胸、下腹部、胸の開合…そういった部分を自分でコントロールして動かせるようにして、それに手足を繋げていく…という作業を黙々と続ける。そんな中での「内臓を楽にしておきなさい」というアドバイスである。腹部の下には骨盤がある。そしてこの骨盤は、下は大腿骨とつながり足を支え、上は背骨とつながっているという大きな役割があるが、それとは別に内臓の受け皿となってことを忘れてはいけない。この骨盤の上に、内臓がポテっとのっているように、そして喉からは胃袋がぶら下がっているような感じ。そういう楽な感じに身体を整えておきなさい。そんなアドバイスであった。

U.L.B.=UpperLungBreath

 「呼吸を楽にしておきなさい」天野先生から言われた。立禅のときの注意点だ。もう半年以上前のことだと思う。空手などの武道系では、気合とともに拳を打ち出す。この呼吸法は、突き蹴りのタイミングと吐く息の関連性を覚えるためには、非常に効果的である。ボクシング等では、あの独特の「シーシー」というの息の吐き方がある。こちらは連打向き?といえるかもしれない。どちらにも利点がある。しかし欠点は、と聞かれると「?」である。よくわからない。

 それでは、太気拳ではどうかというと、どちらとも違う呼吸の使い方をする。しかし初心者の内は、ただただ「呼吸を楽に」「普通に呼吸していなさい」ということだけである。ちなみここでいう初心者とは、私的には3年~6年くらいかなと考えている。そして太気拳独特の呼吸法とは如何に!? それは秘伝なので伏せておきましょう。知りたい人は直接天野先生に聞いてみてちょ。

 さて前置きが長くなったが、打拳を打って前へ出ようとする時に、どうしても上体が前かがみに流れてしまうので、これを防ぐために胸を張った姿勢を工夫していて、そしてそれプラス、内臓を楽に呼吸を楽にしておく状態を模索していて、ふと気づいたことがある。それは、肺も内臓だったのだ、ということ。では肺を、肺の形を、あるいは肺の有り様を工夫して、それを姿勢の維持に使えはしないものかと。そこでヒラメイタのが、「U.L.B=UpperLungBreath」である。これは富リュウお得意の造語。Upperは上部、Lungは肺、Breathは息もしくは呼吸、という意味。つまり肺の上部で呼吸するということだ。そしてこの「上部」には3つの意味が含まれている。まず一つ目は、肺の上部を使うという事。そして二つ目は、肺を上部に引き伸ばすように使うという事。

 まず普通に正面向きに普通の立禅に構える。そして大きく息を吸って肺の上の方を膨らませ、また吐く。この深呼吸を何度か繰り返す。膨らんだ時の肺の状態が体に馴染んできたら、今まで前に膨らんでいた肺を、上方に膨らむように意識してみる。こうすると肺の容積が大きくなった様な感じになるはずだ。しかし同時にここで、首がボディにめり込み、肩が上がってしまうように感じると思う。これを少しずつ調整して、肺の膨らみの上に首がのるように、肩が楽なままで居られるように、体に馴染じませていく。ここまで出来たら、Upperの三つ目の意味が重要となる。それは、膨らませた肺の中の息の「上ずみ」だけで呼吸するということ。上ずみだけを吐き、その減った分だけを吸う。息を漏らすように吐き、フッと吸う。組手や推手で前に出て行くときに、このU.L.B呼吸法を使って、息を吸いながら前へ出て行くようにしてみると、これがなかなか具合が良い。胸を張った姿勢のまま、ズンズン前へと出て行けるのです。

良い姿勢という呪縛

 良い姿勢って何だと思う? 唐突に天野先生が尋ねる。胸を張りすぎる富リュウのフォームを見ていた先生からの問いかけだ。「これが良い姿勢だ!って思い込んでちゃいけないんだよ。そんなものは嘘っぱちだよ」「身体が知っているんだよ。良い姿勢は。身体が成りたいように成ってあげなさい。頭で考えずに」――アドバイスはこれだけ。あとは自分で考える。いや考えないで身体に任せる。でも、考えないと任せようもないし・・・。

 日本の古武術や各種武道では、背筋を伸ばした姿勢が特徴的で、ボクシングのクラウチングスタイルや各種スポーツの姿勢とは異なっている。そしてそこに何か秘密めいた神業や秘技・秘伝といったものに繋がっているように思っていた。しかし敢えて天野先生は言う。サッカーのゴールキーパーのようにしていなさいと。バレーボールもしかり。バスケットも一緒。もし参考にするなら、そのフォームを参考にしなさいと、おっしゃる。あー困った。富リュウはスポーツが大の苦手。中学一年の時のバスケット部では補欠だったし、1年で辞めちゃったし、そもそもがスポーツできない自分に挫折して、神秘の中国武術の世界に足を踏み入れたのに、よりによってまたまたスポーツに戻ってきちまったとは。なんてこった!

花見はおあずけ

 今年の花見はとても豪華版。鹿志村先生率いる中道会、佐藤先生の拳学研究会、島田先生の気功会、そして我が太気会と豪勢に勢ぞろいでした。でも富リュウはこの花見には行けませんでした。残念・・・。

良く見るという思い込み

 「明日のジョー」「がんばれ元気」ボクシング漫画からの影響は大きい。あこがれのヒーロー達。成りたくても成れなかった強い者達への憧れ・・・。ほのかな哀愁とともに記憶の片隅に刷り込まれている色々な情報。経験ではなく、情報。動体視力が重要。よく見ること。そしてよける。そして打つ――。

 えっ違うの? よく見ちゃいけないんすか? 天野先生は言う。全体をボワンと見なさいと。見ているようで見ていない。そういう目の使い方を立禅で身体に覚えさせ、組手では見ないで、パッと反応して動きなさいと。見ると考えるから、考えるとタイムラグができて遅くなるんだよって。

 たまたま見ていたテレビ番組に格闘技ゲームを得意とするゲーマー達の対戦番組があった。対するは盲目のアメリカ人少年。格闘技ゲームが大好きだと言う。家族の絆に支えられ、新しいゲームは、姉の手助けを借りてマスターするのだと言う。そして彼は、全てのキャラクターの攻撃パターンを音で覚えているというのだ。結果、日本のそうそうたる名人達はことごとく撃沈。盲目のアメリカ人少年が優勝した。

 光速は一秒あたり約30万km、音速は一秒あたり約0.3km。光が音よりも速いことは誰しもが知っている物理の常識である。しかし澤井先生が言ったという。光よりも速いものがあると。それは人の「思い」すなわち「意」であると。そして天野先生が言ったのは「見ると考える。だから遅くなる」

 毎朝の自主練の中で気が付いたことは、どうも人間は進化の過程で見ることと考えることを脳の中でくっつけてしまったらしいということ。そして今しなければならないことは、脳の中で見ることと考えることを切り離すという作業。つまりは先祖がえりして、原始人、類人猿、あるいは猿に戻ってしまえばいいってこと。さて富リュウ、とりあえずは片目をつむって探手でもしてみますか。

何も無い組手

 「何でこんなことをしているんだろ」「これって奇妙だよな」「全くの静寂」太気拳の組手を見ていて、いつもそう思う。ボクシングでも空手でも、あるいは柔道の試合でも、様々な音や声が飛び交っている。本人達の気合い、掛け声。そりゃ~、えいさっ。セコンドや仲間からのアドバイス、声援。ガードを上げて! 効いてる効いてる! よしそこだ! 行け~! 等など。 太気拳の組手にあるのは、先生の声「始め」と「止め」だけ。仲間からの声援はない。ただ淡々と殴り合いが行なわれている。この組手の様子はまるで、インドの山奥で人知れず瞑想にふける導師の様。そして富リュウは、いつになったらレインボーマンに変身できるのでしょうか。

成功体験からの刷り込み

 前へ前へ! 打たれてもいい、とにかく前へ出るんだ! 空手を習っていた頃、組手のたびにそう言われ続けていた。それがなかなかできなくて辞めていった人達もたくさんいた。自分は、8級、7級の頃、意外にもそれが出来ていて、少々得意げになっていた。その成功体験は「ああ、これで俺も空手というあこがれの世界に、足を踏み入れることができたんだ」という満足感と充実感、そういうほのかな快感物質とともに脳の奥に記憶されている。その思いは、今の組手スタイルのベースになっていて、それが太気の上達の邪魔をしている。天野先生は言う。「嫌だと思ったら行っちゃいけないんだよ。嫌だと思ったら逃げちゃえよ。行けると思ったときに行けばいいんだから」「気持ちと身体を引き裂くな」「気持ちが動いて体が動く。体が動けば気持ちも動く。そういうふうに稽古をしなさい」

 その成功体験は捨てなければならない。過去の自分。過去の美しかった自分と決別するのは辛いものだ。自分が作った幻想が、自分をそこに留まらせる呪縛となっているなんて、こんな不条理なことがあってよいものか。師は言う、人間とは不条理なものなんだよと。

 刷り込まれた成功体験がある。色々な思い込みもある。そして、自分をがんじがらめにしている呪縛――。さあ今、解き放たれる時がきた。目覚めるんだ、ダッシュ・ワン!

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平成17年・冬の拳

空間の意識

 10月28日、大船での稽古が終わった後、「だいぶ自分の空間が出来てきたよね」と天野先生から言われた。正直なところまだ「自分の空間」という感覚はなかったのだが、確かに推手で相手をコントロールするイメージはできつつある。

 翌朝の自主練でのこと――。この公園は通りに面していて、その向こうには運河が横たわり、運河の向こうには、遊歩道とそれに沿ってビル群がある。ちょうど自分の目の前に7本のラインが横たわっているような位置関係だ。公園の一番奥まった位置に立つと、目の前に5メートル程のスペースがある。その先に公園の茂みに沿って木々が横一列に並んでいて、その先が歩道、車道、そしてまた歩道、そして運河、遊歩道、ビル群…といった具合だ。

 いつものように禅を組む。手が肩の前、そして顔の前にある半禅だ。遠くのビル群の隙間に車が行き交う。遊歩道を犬を連れて歩いている老夫婦。運河には時折、作業船や大学生が漕ぐボードが通る。車道を勢い良く走り抜けるバイクや自転車。歩道には出勤途中のOL、小学生達…。いつもの風景だ。ただひとつだけ、いつもの風景との違いを見つけてしまった。それは自分の手――。その瞬間、全ての空間が手中に収まった。

 見えていたのは「Here,There,Overthere」「こことあそこともっと向こう」である。そして「ここ」とは、つまり「我」である。「我、彼、あれ」これをもっと細分化すると「我、我の手、彼、それ、あれ」となる。そしてこの時初めて「ああ、この手までが『我』なんだな」と感じられ、「自分の空間」という感覚に目覚めたのです。

「つみあげ」と「ねじり」

 ちょうど一年前の秋、這いの中に「つみあげ」と「ねじり」の状態を発見した。簡単に説明すると、右足を軸にして立ち、左足を前に出している状態では、右の腰骨がやや下がり、大たい骨が股関節に刺さり、蝶骨が仙蝶関節にはまり、そこから脊椎が上へ伸びていく状態を見ることができる。腹の感覚で言うと、ボディのセンターを引き上げるとともにヘソが軸足側にシフトしている状態。これが私の言うところの「つみあげ」である。つぎに上体を次第に左足の上に移して行って完全に左足の上まで移動し終わると、右足が後方に残された姿勢となる。このとき腰、肩が自然に捩じれ、上体が左足の上にまとまってのっかっている。これが私の言うところの「ねじり」である。

 初心者の頃は、「つみあげ」の位置を見つけるまでに時間が掛かり、「ねじり」では良い感じにまとまっているように思っていた。しばらく経つと逆に「つみあげ」はしっくりとくるのだが、「ねじり」の状態に「フワッと感」と見出すのが難しいことに気付く。

逆ねじりの這い

 10月23日のセミナーにおいて、天野先生から新しい体の使い方を教わった。半禅の状態で身体を逆に捩じり、ナンバで順突きを出すというものだ。

 要領としてはだいたいこんな感じ。まず右足を軸にして立つ。右斜め前を向いている上体を左回転にひねる。この時に前足のソケイ部を吸い込むように使うのがポイント。次に前足の上に上体を移動させながら左手で順突きを出す。

 翌朝の自主トレで、この感覚を確かめながら這いをやってみて発見したことがある。普通の這いと逆の動きでも、それが成立してしまうのだ。どう言うことかというと、まず右軸足のままで、左前足の付け根を引寄せるようにしながら、上体を左回転に捩じって「ねじり」の形になる。この時にリラックスして形がまとまっていることが大事。そして顔の前にきた右手前腕と顔との間には、30cm程の空間が保たれ、相手の打拳を受けられる状態にあることも大事。手の平は相手に向けておいた方が感覚をつかみやすい。次に上体を開きながら前足に移動していって「つみあげ」となる。ここまでで一区切り。そしてそこから、後ろ足を引き寄せながら「ねじり」に切り替えていく。そしてまた前足に移動しながら「つみあげ」へ。

四種類の這い

 逆捩じりの這いを参考に、4種類の這いが出来上がる。簡単に記号で示そう。

 重心が後ろ足にある状態をAとして、重心が前足にある状態をBとする。
 「つみあげ(ナンバ)」を1番として、「捩じり」を2番とする。

 (イ) A1→B2→A1→B2 これが普通の這い
 (ロ) A2→B1→A2→B1 これは逆ねじりの這い
 (ハ) A1→B1→A1→B1 これはバレエっぽい動きになる。
 (二) A2→B2→A2→B2 これはかなり太気拳っぽい動きになる。

 一年前の秋の章中で、「つみあげ」の中にも「ねじり」があり、「ねじり」の中にも「つみあげ」がある状態と書いた。今になってやっと、その感覚がつかめた。

肩を外す這い

 肩がハマル位置が見つかると、今度はそれを「いつどこでどのように外すのか」ということが気になり始める。まずは這い。軸足にのっていくときに外側の肩を緩めて外す。肩というよりは肩甲骨といった方が分かりやすいかもしれない。前足にのってそのまま上体が外側へ流れていく感じだ。3日程これをやって飽きたので今度は反対をやってみた。内側の肩甲骨を緩めてやる。前へ流れていく感じで。そしてこれも3日程で飽きたので両方の肩甲骨を緩めてみた。自分の両腕で抱えた空間をホワッと相手に差し出すように。次第に腕先の動きを小さくしていって、前腕はほとんど動かさずに肩甲骨だけでこれをやる。背中がホワッと緩む感じだ。

骨盤を緩める這い

 11月19日、土曜日の稽古にて天野先生から指摘される。「立禅はずいぶんと良くなったけど、這いはまだまだだな。硬すぎるよ」と言われた。そして「頭と足の間に腰を捻じ込むように」とのこと。確かに肩と背中の上のほうは緩んでいたが、腰周りにはまだまだ緊張が残っていた。「頭と足の間に腰を捻じ込む」ようにもやってはみたが、余計にリキミが出てしまう。困ったものだ。あわてないあわてない一休み一休み。とんち坊主、一休さんの登場だ。ならば蝶骨を外そうではないか!

 骨盤には大きく分けて3つの骨がある。真中にあるのが仙骨。両脇にあるのが蝶骨である。そしてそのつなぎ目が、仙蝶関節。西洋医学の世界ではこの関節は動かないというのが定説であるが、少数派の学者の中には、わずかだがそれは動いているという者もいる。ちなみに頭蓋骨に割れ目があるのは周知のとおりだが、これが動いていることを知らない人は多いようである――。

 とりあえず、それが動くのか動かないのか、ということは置いておく。要はイメージである。肩甲骨を緩めた要領で、はじめは外側の仙蝶関節を緩めて動きを作る。身体に馴染んできたところで、今度は逆。内側の仙蝶関節を緩める。次は骨盤全体を拡げるような感じで。次第に動きを身体に馴染ませていく。

 この這いのあと、練りをやってみたら、さあ大変。「頭と足の間に腰を捻じ込む感じ」になっていたではあ~りませんか!

ソケイ部で吸い込む這い

 「頭と足の間に腰を捻じ込む感じ」を這いの中でも感じられないものかと、ちょっと工夫をしてみました。軸足に乗っていって最後、グンっとオケツを前へ突き出して、文字どおり捻じ込んでみたのです。このとき軸足のソケイ部は伸びきっていて真っ直ぐ。でもなんだか尻が収まるべき所に収まったようで気持ちがいい。それでもう一工夫。ここでソケイ部が伸びているということは。次は吸い込めばいい。吸い込んで、伸ばす。吸い込んで、伸ばす。これは言わずと知れた太気の原理原則、上げたら下げるのココロじゃ。

動きを身体に馴染ませる

 身体に馴染むっていうのはすごいことなんだなあ、と思ったのです。「ソケイ部で吸い込む這い」を何日間かやっていたときのことです。

 これって最初は、軸足のソケイ部を思いっきり吸い込むと、顔と上体が外側を向いてしまうんだけど、少し身体に馴染んできてから、今度は顔は正面のままでやるようにしていたんです。はじめの頃は、ちょっと無理があったんだけど、何日か経つと、ふっと力が抜けて顔が正面を通り越して内側まで向くようになったんです。それがあまりにも自然にできたもんだから、天野先生の言う「身体に任せるんだよ」ってこういうことなんだなって、プチ感動でした。

這いはただのエクササイズ?

 「ソケイ部で吸い込む這い」をしていると、「これってかなり深層筋群を使ってるんだろうな」っていう感覚があるのです。深層筋群っていうのは内臓達と一緒で、意識してコントロールできないものだから、アクセスが大変。リキまないで手ごたえが無いくらいが正解みたい。

 話は変わるけど、這いの完成形ってあるんでしょうか? 最近思ったのは、這いは、ただのエクササイズの一種なのではないかということ。「ソケイ部で吸い込む這い」をしていると、どうしてもそれが組手に直結しているとは思えない。そもそもが動きがのろいし、カッコも良くない。だけれどもこのあと、練りをすると明らかに動きが違っているんです。腹がニョロニョロと左右に動いて、手や足が、腹から動かされているという感覚が毎日更新されているのです。

這いがすなわち打拳なのだ

 前述の記載とは、真逆のこと。這いの形がまとまってくると、それがそのまま打拳なんだなって思うこともある。軸足に乗りながら後手が前へ伸びていくと、スピードは無いが体重の乗った重い打拳になっている。さてさてどちらが真実なのやら、それが問題です。

手を立てて顔も立てる

 組手についてのアドバイスをもらった。「両手の掌を常に相手に向けておくように」とのこと。「掌を立てておくことで首も立っているようになるから、そうすれば顔も下を向かないようになる」って。

 まず取り組んだのは立禅での手の状態の確認。それまでは、自分の方に向けていた開掌を相手に向けて立ててみる。なんだか肩のあたりに重苦しいストレスが。これを次第に取り払っていく作業が数週間続く。

手を抜く

 組手本番の当日、その日も新しい発見があった。「両手の掌を相手に向けておく立禅」していて、ふと気が付いたのは、腕をぐるぐる廻してリキミを無くすのではなく、関節が伸びる方向にリキミを外すということ。ついこの間、自分で書いたことなのに、もう忘れていた。危ない危ない。

 幽体離脱をしたことはないけれど、そんな感じで自分の指先からほわーと中身が抜けていくような感じ。そして次第にそれを手掌まで、前腕まで、肘まで、肩まで・・・と拡げていく。自分の指先からもう一人の自分の腕が抜けていくような感じで。

肘位置が違ってた?

 島田先生が何種類かの練りの指導をされたときに、私の背後にいた天野先生から、肘の位置を直された。もっと真横だったみたい。そして胸を窪ませないようにとのこと。そういえば以前、天野先生が言ってたっけ。「人間の腕は横についているんだよって」そんなこと言われなくても、自分だって人間なんだから分かってるはずなんだけど、立禅のときや組手構えのときって、何だか妙に肘を前に持っていきたくなるんだよね。なんでだろ?

年忘れ・組手大会

 さてさて組手です。気功会との交流組手です。自分も3名ほどと組手をやりましたが、全く以っていいとこ無しでした。ここ一ヶ月くらいで3回くらいは組手の稽古もやってたし、その中で3回とも少しずつは良くなってきてたんだけど、今回はいいとこ無しでした。

 出来ていないことは、良く見ること・反応すること・弾けるように動くこと、等など・・・挙げればきりがありません。まあ、強いて良かった点を挙げれば、リラックスしていたことと恐怖心を感じなかったこと・・・くらいかな。

忘年会

 忘年会でのトピックスは、気功会からの参加者の中に富リュウの読者がいたということ。KさんはT山県に住んでいる。そして、月に一度は指導を受けるため長距離バスに乗って上京するというなかなかの努力家でいらっしゃる。

 はてさて、T山県といえば私も出張でたびたび訪れたことがある。そして、なんという奇遇なのでしょうか。Kさんの勤め先は、私がお邪魔していたユーザー先だったのです!

 しかも同じ工場内の同じエリア、すぐ目と鼻の先で仕事をしていたというのです。これは偶然なのか必然なのか、二人で顔を見合わせビックリでした。

 それはそうとKさん、立禅や這いのやり方で悩んだときには、何かいいヒントはないものかと、富リュウの修業記を読んでみるとのこと。なんとも嬉しいことを言ってくださるじゃあないですか。そんなこと言ってもらうと、この修業記を書いていて良かったなと私もとっても励みになるのです。

次へのアプローチ

 組手についての反省点で頭がいっぱいだ。「何が何でも自分の組手を上達させねば」とか「○○さんのようにするには、どうしたいいのだろうか」という、支離滅裂思考夢想を繰返す。しかし一晩明けて、たどり着いた結論は「まあ、やりたいことがあるって、それだけですばらしいことじゃないか」ということである。

 サラリーマン稼業も楽ではない。給与のためとはいえ、自分のエネルギー、自分の時間のほとんどを会社のために費やしている。日々の家庭生活も大変だ。色々な煩わしいことがたくさんある。やらなくてはならないこと。片付けや世話。義理や義務、等々・・・。

それに引き換え、この課題はいったい何か? なんと楽しい課題なのか。乗り越えるべき壁がある。出来ないことが出来るようになるという喜び。こんな遊びを生活の一部としてもっている自分を誇らしく思っても良いのではないか。

 そう腹をくくると、いいアイデアも浮かんでくる。次へのアプローチ。自分の個性、資質、性格を踏まえた上での組手スタイルの構築。「あれをこうして、これをああして、あれがこうだからこうこうこう」と、いっぱいいっぱい良いアイデアが浮かんでくる。ああ早く練習がしたい。身体がムズムズしている富川リュウ。もうすぐ43歳の冬でございます。

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平成17年・秋っぽい

糸引く両足

最近、練りが変ってきた。両足の間に膜があるように感じる。というとムササビの飛膜のようなものと想像されるかもしれないが、それとはちょっと違う。水飴のようなネバネバしたものが両足の間に糸を引いているような感覚。それをもっとさわやかにさりげなくしたような感覚。ってとこかな。

手は顔の前、手は相手に向けて、手は肩の前

組手では「どちらか一方の手が必ず自分の顔の前にあるように」とのこと。数年前に言われた。組手では「手のヒラを相手に向けておくように」とのこと。半年前に言われた。そして、やや広めに取っていた立禅のときの両手の幅を「もう少し狭く、肩の前に」と言われた。数ヶ月前に。両手の位置を肩の前のままに這いに移る。練りをする。探手をする。――手は、顔の前?肩の前?どっちだぁ??

腰を伸ばして

あーあ、やれやれ。両手を高く揚げ、伸びをする。書き物稼業によくある仕草だ。そんな風に腰が伸びた。半禅でモトクロスをしていたときのことだ。

天野先生から「下半身はバネのように上半身は一定の高さで」と言われ、強烈なデコボコ路の衝撃をストロークの長いサスペンションで受け止めるモトクロスバイクの動きを思い浮べた。半禅の上体をそのままに下半身だけをちょっと沈めてみる。するとどうでしょう。わき腹が伸び、新たな感覚が。

軸足側のわき腹を伸ばしたまま這いに移る。前側の腰骨を引き上げることも忘れずに。そして次第に引き伸ばしと引き上げを融合させ。渾然一体となった動きをつくっていく。よどみ無く、スムーズに動きだす。腰、肚、そして身体全部が。感動の一瞬だ。

似たようなことが書いてあった。『第六部・春の章上げたら下げる』、そして『梅雨の季節濃ゆい4分30秒』に。一歩一歩、近づいている。未来へ。

二つの条件を満たす

よどみ無くスムーズに動く腰肚を手に入れた時、やっと外廻しの練りがスムーズにできるようになっていた。そして内廻しの練り。腰、腹、胸、肩が、自然によじれた時、手がすっとそこへきた。顔の前にあるけど、肩の前にもある。その手を見て、ビックリ。手が顔の前にあり肩の前にもある。その二つの条件が満たされた瞬間だ。

手の位置を微調整

推手では「自分の空間を守るように」「相手の中心を捕らえる」「力を出せる形を維持して」そして「背中の力を抜いて」と言われ続けて早3ヶ月。それらを融合させるようにと、もがき悶える中で、ある解を見出した。

一人稽古では、いい感じのまとまりのある練りが出来るようになってきている。ところが推手では、そう易々とはいかない。相手がいるからだ。相手もサルモノヒッカクモノという程に、押したり引いたり、スカシたりイナシたりしながら動きまわる。そう相手は動いているのである。動いていると言うことは、状況が刻一刻、刻二刻、刻三刻、と刻々と変化するのだ。では、その変化を如何にして克服するのかということが問題となる。見出した解は、緩んでいること、そして手の位置を常に微調整し続けるということ。これをやっていると自分の一番いい形、自分が一番力を出せる状態を常にキープできる――はずだ。

立ち位置を微調整

――のはずだったのだが、今ひとつである。時々ひっつまってしまうのだ。何がひっつまるのかというと「姿勢が」である。言い換えると「首が、背骨が、全体が」なのだ。要は良い状態には居られなくなる。

色々なメンバーと推手をする。何年も先輩の方々、ほぼ同期の人達、後輩の奴ら、あ~んど天野先生とである。相手のスキルによってやり方を変える。テーマ、課題は同でもやり方は変える。先生からはヒントをもらう。格上の先輩には胸を借りる。同期とも自分の課題を見失わないように。そして後輩には、自分で居つづけることを確認させてもらっている。そして見つけた第二の答えは、立ち位置を微調整するということだ。

この旨、天野先生に尋ねてみた。「先生、立ち位置を微調整する感覚を見つけたんですけど、これでいいんでしょうか?」と。「んー、立ち位置というよりは、姿勢だな。常にいい姿勢を維持するように微調整するんだよ。そしてそのためのセンサーが手。だから手も、もっと緩んでいないとね」とのこと。

禅に立ち戻る。いい姿勢とは何か。緩んでいて、いい姿勢とはどんな感じなのか。ちょっと揺れてみる。揺らいでみる。ほわっとしてしっかりしている感覚。雲の上にいるような、在って無いような、在るんだけど消えているような感覚。新しい気持ちで立禅と向き合ってみる。

お腹ぶるぶる発力

天野先生から新しい発力の方法を教わった。立禅の状態から両手をつかまれる。お腹をブルブルと振るわせて、この両腕を振りほどく、というか振り切るといった感じだ。相手の手はいとも簡単にはずれる。次に相手なしでやってみる。これが意外と難しい。相手につかんでもらっているときには、それを振りほどく動きがたやすいのに、何もないところでこれをやろうとすると出来ないのだ。何度か試してみたが無理だ。隣にいるM島先輩も先生にこれを教わって試していたが、やっぱり出来ないようだ。

いい考えが浮かんだ。試してみる価値はある。どうせダメ元なんだし。腕で囲んだ領域にある白いモヤ。ソケイ部からも渦のように出ている白いモヤ、膝までの領域を包み込んでいる。この空間に満ちている白いモヤを一瞬にしてリンゴ位のおおきさにギュッと圧縮する感覚で身体を震わせてみる。フンッ!――できた。お腹の贅肉がブルンっと一瞬にして左右に震えた。毎日、節制せずにビールを飲みつづけていた甲斐がある。贅肉バンザイ!贅肉さまさまである。

お腹が痛い

「先生、おなかが痛いんですけど・・・」授業中、手を挙げてそんなことを言いだす子がいると、「おっ、便所行ってこい、便所」って、出すものを出せば腹痛は治るという安易な考えがまかり通っていたようだ。昔は。

「先生、僕もおなか痛いんですけど」前述の『お腹ぶるぶる発力』をするとお腹の中の内臓がよじれて痛くなってしまうのだ。「んーそうか。俺は痛くないよ」先生の答えは最近そっけない。「まあ自分で工夫してなんとかせぃ」ということなんだと思う。

翌朝、禅、這い、練り、推手のシャドー、と一通りのメニューを平らげた後、「お腹ぶるぶる発力」をやる。やはりお腹が痛い。ならどうする。体を緩める。腹を緩める。そして、よじれを全体に分散させる。お腹をブルブルさせるときに各部が少しずつよじれるようにしてみる。なんかいい感じだ。

太気拳の打ち方・その1

ここである仮説が思い浮かんだ。順序だてて説明しよう!

①正面を向いている立禅の姿勢から腕の形をそのままに、上体だけを左右に振る。肘打ちを繰り出すように。力を入れれば入れるほどスピードが出ず、疲れるだけなのがお解かりいただけるだろうか。
②次に、同じ動きを上体がclockの時に同時に、足裏をズッてclock-uの方向に動かす。この上半身と下半身が逆方向に回転するツイストの動きを小刻みに数回繰り返してみる。前述の①の動きよりもリキまずに速く動かせたのではないだろうか。ただし力が相殺されてしまうので、肘打ちの威力はあまりなさそうである。
③さて次はなかなか難しぃぞなもし。上体がclockの時に、お腹がclock-uで、下半身がclockの方向に動かす。出来たかな?そして次第にブルブルの動きを小さな振動に変えていく。お腹が左右に微動する小刻みな動きを肘打ちや打拳に繋げていく。これが富リュウの考える『太気拳の打ち方・その1』であります。

太気拳の打ち方・その2

ずっと前に天野先生に聞いたことがある。前方発力の際に「一瞬だけ『こうしちゃいけないよ』っていう形になるんだよ」って。禅、這い、練り、全てを通して、太気拳ではまとまっている体、まとまったまま動ける体を創っていく。そして前述の『こうしちゃいけないよ』の意味は、この逆。まとまっていない状態のことである。

探手で打ちに行く。打っている瞬間、体がまとまっていない。何かが違う。そこが一番大事なのに。相手に当たった瞬間に体がまとまっていないと軽い打拳しか打てないのに。前方発力の説明をされていた天野先生の姿を思い出す。『こうしちゃいけないよ』の形は、発力の直前にあった。ならば、打ちに出る直前がこの状態であるはずだ。そして打っている瞬間に『まとまっている』の形をもってくればいい。

ゆっくりと練をする。外廻しの練りだ。次第に探手になっていく。相手を見立てて…。組手のシャドー。ふっと肩甲骨をハズす。右の肩。それをハメルと同時に打つ。パンッ!『太気拳の打ち方・その2』の完成です。

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平成17年・残暑お見舞い

左肩もはまってナイト

 前回、肩がハマッタ旨の報告をした。しかし実は、それって右の肩だけだったのです。そして右肩のハマリ具合は、なにかじんわりと、少しずつ少しずつやってきたのですが、今回、左の肩がハマッタのです。それが唐突に!記念日は平成17年8月12日。広島県H市S町の駅前公園での早朝の立禅のときでありました。

夏のセミ

 H市S町の駅前公園には木がいっぱいあって、そこにセミがわんさかいる。たまに自分の手の届く高さにいる奴もいるので、そっと捕まえようとしてみる。ぶぶぶぶ!突然暴れ出したセミにビックリして手を離してしまう。今度はそっと一本の指だけで、木に押し付けるようにしながら抑え付け、動けない様にしてから二本の指でセミの体を挟んでみた。おみごと!セミは富リュウの手中に納まる。手を離してやるとぶぶぶぶ~と、また元気に飛んで行った。

 ふと見ると別のセミが電灯の鉄塔にゴンッゴンッっと何度も何度も激突している。たぶん目が利かないので、体当たりしながら確かめるように、キラキラしているこれは何かと、留まってやろうか否かと思案中なのだろう。しばらくして諦めたらしく、すぐ脇にある樹木に留まった。今度は一度で留まった。キラキラはなくても馴染みの木肌はゴツゴツしていてつかまりやすかったのだろう。

 夏合宿でのM島先輩の組手を思い出す。さざ波のように押し寄せる両腕。岩間に寄せてはかえす水しぶきのような軽ろやかな打拳。両腕はセンサーであり、触覚のような物と以前、天野先生から聞いたことがある。そうか、初めから綺麗に極めようとしなくてもいいんだ・・・。と言うよりは、初めから綺麗に極めようとはせずに、攻めながら守りながら様子を見て感触を確かめて、ずっとずっとそれをやり続けて、打てる時がきたら打てばいいのか――。

首のはじまり

 先生は何を基準にアドバイスをくれるのだろうか。「首はこう」と言われてから、首の位置と全体のバランスがすっきりと良くなったので聞いてみた。だってそんなに大変身しちゃうようなアドバイスだったら1年前か2年前にしてくれよって思うでしょ。先生の答えは単純。「ん、首の具合が悪そうにしてたからね」ってただそれだけ。

肘ぢから腕ぢから

 肩がハマッテしまうと腕に自信がつく。推手の時にその角度、その位置のままで相手を持っていくことができる。肘に力が出るポイントが判ってきたからこそ出来る芸当である。ところが先生からの評価はNG。腕の力で押し込んでいたんじゃダメだよって。「腕はただの接点にすぎないから、そこに全体の力を載せるようにしないと」なんて、難しいことをおっしゃるのだ。ハマッタ肩を生かすには今ひとつ工夫が要りそうである。

腕に中に入る体

 朝練のなかで昨日の先生の言葉を思い起こす。肩はハマッタ。後はどうする――。内廻しの練りから少し推手のイメージでゆっくりと動いてみる。ハマル方向、ユルム方向。前へ前へと前進して相手を押し込んで行く。腕の力ではなく、全体の力を・・と考えながら。ふと腕の中に体がグッと入り込んだ。おっーーーと、これは動く人間油圧シリンダーのようだ!

 その感覚がわかって、また立禅に戻ってみた。腕の中に体をぶつけるようにして少しだけ身体を揺すってみる。んんんっこれだなー。先生の伝えたかったことは!この感覚で這いと練りも試してみた。ヨッシャ!開眼じゃ!

変わった推手

 推手での、もうひとつのアドバイスは、力のまとまった所を探すということ。力がまとまって出せる形、体の状態。それを見つけて、それが常に途切れないようにしていなさいとのことである。腕の力を抜いてゆったりと練りの気持ちで推手をする。相手がどう出ようがお構いなしだ。前腕がすっといい位置にくる。リキミが無く自然な状態だ。ちょっと前まではこんなことは出来なかった。相手の力の方向が逸れていたので、よくアドバイスしたものだ。そして天野先生に叱られた。「人のことはいいんだから。自分の事をしなさい」と。

 今になってようやくその意図がわかる。相手が上手くやってくれて自分も上手く出来るうちは初心者と何も変わりはしない。相手がどうであれ、自分のいい位置に持ってこられるようにならないと、本当の意味で出来ているとは言えないのだ。

 このほんの僅かな違い。この僅かな塩梅のさじ加減が解るのに、随分と永い時間を費やしたものだ。それくらいツカミどころのない、それくらいさりげない進化である。

 「今はまだ過渡期なんだから大事に大事に推手をしなさい」最後にそんなことを言われた。――まだ過渡期か。だいぶ良くなってきていると思ったのに・・・。いつになれば円熟期と言われるのだろうか。5年先なのか10年先なのか?まだまだ若い富川リュウ。42才と8ヶ月の青春の時である。

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平成17年・夏だらだら

肩がはまってナイト

 折につけ、関節がハマッタ旨の報告をしてきた。首、腰、股関節、等々・・・。しかし肝心の肩関節にはついては未報告であった。ずっと前に天野先生から聞いたことがある。「人の体の中ではさ、肩関節が一番可動域が広いんだよ。だから肩がいい位置に収まるまでには時間が掛かるんだよな」と。

 いつの頃だったろうか、丹田のあたりに原子炉のようなエネルギー体を感じるようになってきたのは・・・。それが何なのかは分からないし、いまのところは推手にも組手にも役に立っているようには思えないのだが、その感覚は日々極々僅かずつではあるが存在感を増しつつある。そして最近、右肩にも似たような感覚が・・・。これは原子炉のサブタンクか補助エンジンか?私はけっして腕も太くはないし、肩の筋肉もそれほど付いている訳ではない。にもかかわらず最近、右肩に心地良い「じれったさ」を感じている。そう、プロトニウムの強烈な核分裂が生み出す爆発しそうな「じれったさ」である。これが、肩がハマッタということなのか?それともその兆し(キザシ)だけか? いずれにしろ「良い肩の状態」がひとつだけ見つかった。

組手について分かったこと

 この夏、けっしてだらだらと過ごしていた訳ではないのだが、5月の腰痛発生を引きずっていたことや、田舎への里帰りや、仕事関係で出張が増えてきたこと等々で、合同稽古への参加が月2回ペースになっていた。そんな中で、久々に組手をやった。結果は散々・・・。前へ横へ後ろへと足は良く動くのだが、相手を捕らえて打つことができないし、ガラ空きの顔面へ何発ももらってしまった。体が(手が?)全く反応していない。

 組手について分かったこと、その1は、「組手が上手く強くなるためには、組手をするしかない」ということである。一人稽古だけで悦に入っていては、何の役にも立たないし、それで、達人・名人になったような気分になっていたのでは、ただの「気分だけ名人」と嘲笑されるだけである。

 そして組手について分かったこと、その2は、「先生の言うとおりにしているだけではダメ」ということ。誤解をして欲しくないのは、決して天野先生の指導方法やアドバイスが良くないという意味ではない。私の知る限り、天野先生は自身の実力もピカイチで、尚且つ指導者としての最高の資質を併せ持つ稀有な存在である。では、その先生を以ってしても「先生の言うとおりにしているだけではダメ」とは、どう言うことかというと、先生は神様ではない。超能力者でも魔法使いでもない。生身の人間である。そして私も同様、生身の人間。であれば、テレパシーで交信することは叶わず。ましてやチチンプイプイと魔法とかけてもらえるわけでもない。教える方は、自身の頭で考え、自身の体をとおして教えている。そして教えられる身である私にも、自分の頭と自分の体がある。このギャップを埋める必要がある。要は、自分用のオリジナル、オリジナルになるための工夫が必要なのだ。

肩がゆるんでナイト

 組手のあと、頭の中で考えていたことは「自分の組手には気迫が足りないのではないか」ということであった。リラックスすること、緩むことにばかり気をとられていて、打ちに行く気迫、闘うという気概が足りないのではないかと・・・。この旨、帰りの電車の中で天野先生に聞いてみた。「そうだよ、それは必要だよ」とつれない返事。否定はしないもののなにかを言いたげな・・・。「まあそのうち気付くだろう」とでも思っているかのようである。

 さて、「組手が上手く強くなるためには、組手をするしかない」とは言っても、毎日組手ができるわけではないので、自主練をする。あの日の組手を思い浮かべながら軽く動いてみる。練りのような探手のような緩い動き、ゆっくりとした動きで・・・さばいて打つ、よけて打つ。。。っと、肩が固まっている自分に気がついた。こんな肩をしていては、反応しようがないではないか!

 打てるはずもない!立禅で見つけた「良い肩の状態」とは真逆の「固まった肩の状態」になっていた。なんてこったパンナコッタ。「良い肩の状態」とは言い換えると「使える肩の状態」。つまり「固まった肩の状態」とは「使えない肩の状態」ということになる。なんのことはない、組手についてのアドバイスで天野先生が一番強調していたのが、緩むことである。固まらないこと、とも言っていた。自分では緩むことは出来ているつもりでいた。でも違った。違う緩み方があったのだ。

ハマッテ緩んで、緩んでハマッテ

 「使えない肩の状態」にいたことに気付いて、それを払拭するために再度稽古を組み立てていく。とは言っても、やることは同じ「立禅、這い、練り、探手」これだけである。肩の関節がハマル所とユルム所、その狭間を行き来する。禅の中で、這いの中で、練りの中で。そして探手。打ったその直後、固まりやすい。相手の打拳を受けた直後、固まりやすい。傾向がわかれば、対策を練る。練る。練る。練って練って、見えてきたものがある。

 「リラックスして緩んでいるように」そう言われて、いつも肩をぐるぐるまわしていた。動きに柔らかさが出るように意識して・・・。でも練って練って出てきた答えは違っていた。緩むのは、廻す方向にではなく伸ばす方向になのだ。これは、肩関節がハマル方向を見つけた人にしか理解不能なことだけれども、このハマル方向とは真逆に伸ばすのだ。これが緩む方向。やっと「緩む」の意味がわかりました。そして何故、澤井先生の首が亀のように引っ込んだのかの秘密も・・・。これでやっと枕を高くして寝られます。なんせ、頚椎が緩んでいないことには枕を高くはできませんから。

ミミズ拳法

 「ひとつの真理に気が付くと、それが全てに応用可能なことに気付く。そして真理の方から近づいてくる。いずれ、全ての真理が明らかになるであろう(by富川リュウ)」。

 はっはっはっ。調子に乗って格言などを作ってしまいました。

 肩関節のハマル緩むが分かってくると、それを全身の関節に応用してみたくなる。
 足首、膝、股関節、腰椎、脊椎、頚椎。
 全部をハメル、全部を緩める、そしてまた全部をハメル。
 部分だけをハメル、部分だけを緩める、そしてまた部分だけをハメル。
 下の方だけハメ、上の方は緩めておく、そして上の方をハメ、下の方を緩める。
 下から上へ、そして上から下へ。使い方は自由自在。
 ハメ具合は、デジタル的と言うよりは、アナログ的な方が良さそうだ。ハマリ具合と緩み具合がグラデーションをつけながら行き来する。イメージ的にはミミズのような動きだ。名付けて、ミミズ拳法!しかしこの拳法、名前が弱そうなところが難点である。(笑)

太もも探手

 半年ほど前に天野先生から前蹴りを受ける際の姿勢について教わった。太ももに両手をつける。この腰の高さ、この懐の深さがあれば、前蹴りはもらわないとのことだ。それを思い出し、その姿勢で探手のように動いてみる。天野先生の組手をイメージしながら相手の打拳をヘッドスリップでかわす。こう動きながら「哺乳類は背骨の方向にしか力を出せないんだよ」という天野先生の言葉も思い出した。蛇のように頭をくねらせながら前へ前へと動いていく。相手の拳に巻きついていくような感覚で。木の枝を相手の腕に見立てて、その脇に頭を突っ込んで、また引き抜くという動きも試してみた。なかなかいい感じだ。腹がよくよじれて体全体のまとまりも言うことなしだ。ヨシ、これで次回の組手はやってみよう!めちゃめちゃイケてる俺を見せてやるぜぃ!

夏合宿

 メンバーは、そのほとんどが20代、30代のサラリーマン達。仕事の疲れもたまっているだろうに。夏バテぎみの人もいるだろうに。所帯をもって妻子ある身の者もいるだろうに。はてさて何を好き好んで、この暑い最中に小学校の体育館に集まって拳法の稽古なんかをするんでしょうか?

 浜辺には、目にも眩しいビキニ姿のオネ―チャン達が楽しそうに戯れているというのに。太気拳に対する熱意、信念、情熱、そんな言葉が脳裏をかすめる。でも、ただ単に他にすることが無い人や、ただ単においしいビールを飲みたいだけっていう人もいるかもしれない。でもまあいいじゃないですか、それもありってことで。ちなみに私の場合は、これまでの朝練の成果を組手で実証するために参加しています。もちろん強くなった暁には太ももむちむちオネ―チャン達にモテモテになるっていう下心はありありですが。

 浜辺のオネ―チャン達の太ももはさておき、自分の太もも探手の成果は如何に?結果は・・・無残な屍。海の藻屑。もずくの酢の物。A先輩からは「お前だけだよ、前回より悪い組手になっているのは」と言われる始末。「頭を振って入るのはいいんだけどな、頭を下げちゃうと足が動かなくなるんだよ。ヘッドスリップは手が間に合わなかったときの保険で使うくらいなつもりじゃないとね」とのアドバイス。その後、天野先生と組手をしていただいて、ちょっとだけいい感覚が戻ってきた。以前意識していた「自分の手で相手の出を抑える」ということを思い出したのだ。自分なりの工夫が裏目に出て、やっぱり先生が教えてくれたことが正しかったということだ。正直な話「先生の言うとおりにしているだけではダメ」なのか「先生の言うとおりにしているだけで良い」のかが分からなくなってきた――富川リュウ、悩める42才の夏である。

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会員・会友員のテクスト 富川リュウの太気拳修行記

平成17年・梅雨の季節

推論・腰痛の原因は何?

 東京にも大地震が来る日が近いと言う。地震が起こるメカニズムは、マントルに引き込まれ続けている地盤が、あるときピキっと元に戻るからだと言われている。

 私はまた腰痛になった。私の腰痛のメカニズムは、なんだかこれに似ているように思えてならない。治癒の過程において、痛む部分がだんだんと拡散して行って、それで、いい感じに回復してくるからだ。

 私の推論はこうである。私の場合、腰のある部分が動いていない。にもかかわらず毎日運動するもんだから、周りのあれやこれやが無理をしてそれを補おうとする。だからそこに疲労が溜まる。そしてそれが限界に来たときにピキっとなる。

 ――ということはだ。動かない部分をなくせば良いのだよ、キミぃ!と天の声が教えてくれた。

差出し足の謎~1分30秒~

 この日の指導は2分30秒。始めは這いについての1分30秒である。「こうだろ。この足が必ずここを通って、こういう向きに出て行く。鎌で草を刈るようにな。そうそう。足で動かない。腰で足を運ぶんだよ(以下、身振り手振り省略)」

 ここの所、這いや練りでの後ろ足の動きに重きを置いて稽古をしていた。半禅の足使いとは逆の形。軸足にのって後ろに片足が残っている形。島田先生が組手のときによく見せるフォームだ。この虚になりがちな後ろ足に意識が入るようになると、今度は差出し足の方が、みょーに寂しーい、悲しーい、虚しーい感じなのに気づく。ただ足だけを出しているのである。充実感が無い。

 鎌で草を刈るように差出し足を出す――これは入門当初から教えられていた。もう5年も前の話だ。いまさらジローである。しかしことあるごとに天野先生は、これを言ってくれる。自分でもそれは謎であった。天野先生が澤井先生の動きについて説明する時、狭い歩幅でトコトコトコっとした感じに動いて見せてくれる。この動きを指導され、稽古していた時期もあった。しかしこのトコトコ歩きはそれほど寄せ足をしていない。その辺に矛盾を感じていたのだ。

ヨコ方向の力が無い~1分00秒~

 そして引き続いては、練りについての1分00秒。練りの極意は忍者歩きと見つけたり!とご満悦に内廻し練り励んでいた富リュウに近づく怪しい影。「だめだよ。それじゃ。ヨコの力が何も無いじゃないか!こうだろ。こっちの手がこう。肘がこうなるんだよ。違う違う。お前のそれじゃ、ここが何もないじゃないか。うんぬんかんぬん・・・(以下、身振り手振り省略)」

 確かに、忍者歩きはタテ方向の動きのみを強調しすぎている。これはこれで間違いではないのだろうが、次の段階として、ヨコ方向の力も必要だということだろうか。イヤ、待てよ。タテがあって、ヨコも必要だと言うことは、全部要るってことだよな。つまりどの方向に対しても腰肚を使って動けるようになれよと、そういうことでしょ。天才は忘れた頃に十を知る。間違いない!

5種の練りを織り交ぜて~2分00秒~

 その日の指導は実技が2分00秒、講義が4時間と?分。始めは練りについての2分00秒である。5種の練りを混ぜこぜにする。「こうだろ。これがこうなって、こうだろ。それがこうだから、これがこうなって、こうなるんだよ。な!」

 (注記)この「な!」とは「これの練習をしなさい」という意味である。それはそうと、これだけでは内容が意味不明なので解説しよう!先生が言われた5種の練りとは、両手交互に内回し、両手交互に外回し、両手同時に右回し、両手同時に左回し、そして差し手からの引っ掛けの動きである。この5種類をつぎつぎと継なげながら前述の説明をされたのだ。先生が言いたかったことは、これら5種の練りをよどみなくスムーズに紡ぐようにつなげてやってみなさいよと、そしてどれも質的には同じなんだということを身を以って感じられるようになりなさいよと、そういう意図だと受け取った。

講義――YRTにおいて

 場所をYRTに代え、講義が始まる。お疲れのカンパイの後、あれやこれやの楽しいお話。終わりの頃はあまり記憶が定かでないので、講義時間は4時間?分である。特筆すべきは、天野先生の言われたゲシュタルト崩壊の話、カエルは動くものしか見えないという話、等々。ふむふむ、これは役に立ちそうである。

 ゲシュタルト崩壊とは、既存の定義づけが崩れてしまうことをいう。例えば、ひらがなの「つ」という字を見ていて、普段はなにげなく「ツ」と読むための文字なんだなと認識しているが、ふとしたときに「つ」という形態が奇妙な、ただの線に思えてきて、何故それを「ツ」と読むのか、そもそも誰がこれを「ツ」であると定義づけしたのだろうか。などなどと、考えてしまうこと。これがゲシュタルト崩壊である。

 「立禅をしてるとさ、時々そうなるんだよな。木とか草とか建物とか。なんかフッと不思議にそれらが何でもないものに思えてくる瞬間ってあるじゃない」って言うじゃない!確かに自分もそうかもしれない。ふむふむなるほど・・・とその時は思ったのだが、一晩空けてシラフになると、で、それがいったい何の役に立つっていうのさ!突っ込みを入れるタイミングを逸していた自分にがっかりんこである。

超濃ゆい4分30秒

 「差出し足の謎」「ヨコ方向の力が無い」「5種の練りを織り交ぜて」のトータル・アドバイスタイムは合計で4分30秒である。たったの4分30秒。しかし超濃ゆい4分30秒であった。

 きっかけが何だったのかは覚えていない。朝の自主練で半禅から這いに移ろうとしていたときのことだ。半禅の軸足側の腰を真逆に上げてみたくなった。なんだかそうするとまだ完治しているとはいえない腰の違和感にストレッチ的な気持ちよさが得られると思ったからだ。いつもは軸足側にやや下がっている骨盤、それをぎゅううっと引き上げてみた。もう45度も傾いているぞと言わんばかりに・・・。そして這いに移る。腹がよじれる。腹のよじれで、差し出し足が自然に差し出された。コレダ!

 腰の傾きは見た目の結果であって、それを創り出しているものは腹のよじれ。腹をよじって使うことで骨盤の傾きを引き出し、それによって差出し足が動かされる。あるいは引き戻される。

 「5種の練りを織り交ぜて」の稽古に移る。内回しの練りでは、腹のよじれも馴染んできて、いい感じに仕上がってきた。しかし外回しの練りには何故か充実感が無い。そして疑問符のついたまま推手のシャドーに移る。あの時の○○さんはこう動いていたよなぁ。あの時、先生にはこう言われたんだよなぁ。あいつのあの動きはムカツクんだよな!等々とシミュレーションしながら動き回り、ムカツク相手に向かって、発力の動きを試してみる。そうそうこの発力の動きが中途半端だから、あいつを納得させることが出来ないんだよ。試行錯誤しながら色々な動きを試してみる。そしてここで素敵なプレゼントがひとつ。新しいオモチャを自分で見つけてしまった。それは、内回しの練りで手の動きを逆に使ってみるというものだ。通常の内回しの練りでは右足が出るときに右手の方が出て行く。これを逆に右足が出るときに左手の方を出してみるのだ。まったく体に馴染まないこの体の使い方。ただこのオモチャを遊びきった時に、新たな世界が拓けるという確信に似た予感がしているのだ・・・。

ゲシュタルト崩壊

 剣道には「遠山目付け」という言葉があるらしい。目のつけ処が遠山の金さんのようだ。極真空手を習っていた頃、ローキックの対処法として似たような目付けを習った。相手をボワンと見る。あるいはもう一人後ろに居る誰かを想定してそこに目の焦点を合わせる。そうすることによって相手の肩口の辺りと足先の動きの両方を同時に視野の中に捕えて見ることが出来るようになる。2週間ほど練習すれば、誰でも簡単にできるようになることだ。

 さて、先生の言われた立禅においてのゲシュタルト崩壊である。いつもの朝練の立禅でボワンとした気分で景色を眺めてみる。なるほどこれがゲシュタルト崩壊か・・・と。こんなもんか。翌日、朝練の公園へ向かう道すがら、歩道にタムロする小さな羽虫の群れが目に入りそうになる。それを避け、頭を右に左に振る。ふと3日前の記憶がよみがえる。カエルは動くものしか見えないという話だ。葉にハエが止まっている。それが飛び立とうとしたその刹那、かたわらにじっとたたずんでいた蛙の口から飛び出してきた舌がハエを捕らえる。コンマ何秒の早業。というような話だったと思う。ピコン!頭の上の裸電球が光った!

 立禅をはじめる。左右に行き交う車、バイク、歩く人、自転車に乗った人、時折り飛び交うカラス、揺れる柳の枝葉、風になびく雑草たち・・・。動くものだけが見える。まるでスクリーンの中の風景のように。意味を持たず。存在の気配さえ感じさせずに。ただ右手から左手へ。左手から右手へ。そしてあちらからこちらへ・・・。不思議と奥行きはあまり感じさせない。それは一枚の絵のようだからか。奥から手前に移動してくるもの。それはただの上下左右の動きに置き換えられている。

 朝練を終え会社へ向かう道すがら、すれ違う人達を観察する。いや、その人達を観察するのではなく、自分がその人達をどう見ていたのかということの検証である。結果、実に多くの身勝手な、思考、判断、想像に満ち溢れていたことを発見した。自分はこんなにも色々なことを考えていたのか・・・という驚愕。主には人の表情、容姿に関することが多い。ああこの人は今日も眠そうだなとか。こいつはバカそうだなとか。結構かわいいんだからもっと綺麗なスカートはけばいいのに・・・等々。思考は尽きることが無い。

 そういえば組手のときも色々と考えている。ああきたらこうとか。こうきたらああとか・・・。こいつは強そうだとか、怖そうだとか。色々色々・・・。それって必要なんだろうか。そんなことを考えながら会社へ向かった。

抑える必要のある手、抑える必要の無い手

 さてここからは、このゲシュタルト崩壊をどのように組手に生かすのかということの推論である。ということなどを書いてみようと思ってはみたが、最近あまり、というかほとんど対人稽古をしていない。季節は梅雨。当然、雨の日が多い。また腰の状態も本調子とは言えず、だましだましといった感じだ。こんなテイタラクなのに、組手とは○○である、等々と口先太氣拳を気取ったところで、シラケ鳥が南の空へ飛んで行くだけである。やめておこう。

 キーワードは「抑える必要のある手と抑える必要の無い手」あとは「相手の手に自分の手を合わせていく」ということだ。これだけをここに記しておく。

 さて、それではレンタルビデオ屋へいって「マトリックス」を借りてきて、イメージトレーニングに励むとするか!あ、明日は妻が外出・・・。ということは、○ッチビデオもついでに借りちゃおうかなー。戦うことに疲れた戦士には、たまには息抜きも必要だし・・・。「何ニヤケてんのよ!またエッチなこと考えてるんでしょ」と突っ込みを入れる妻に驚愕。おまえはサトリかサトエリか!