Footの上の三角定規
ここ最近の最大のトピックスはヒザ位置が定まったこと。そしてヒザ位置を固めることで、わき腹と上体がスムーズにダイナミックに動くようになったこと。
半禅での説明がわかりやすいかもしれない。後ろ足のヒザの向きが、足先の向きと一致しているだろうか? 大抵の人がFootの向きに対して、ヒザの向きが内側に入っているのではないだろうか。その方が手ごたえがあるし、グッときて具合がいい。でもこれは間違い。私にも何度かチャンスはあったのだが、それを改善する機会が伸び伸びにされていた。今年に入って天野先生から貴重なアドバイスをいただく「いつでもカカトを踏めるようにしていなさい」そう。天野先生はいつも伝え方に工夫をこらしてくださる。こいつには何と言えば伝わるだろうかと、常日頃から考えてくれているようだ。
半禅でも這いでも、その場その位置その状態から、フンっとカカトを踏んでダッシュできるような状態にいなければならない。そのためには足先の向きとヒザの向きが、常に一致していなければならない。そしてこの踏ん張れる状態、自分にとってのFootとヒザ頭の一致するポイントを探すのに約2ヶ月かかった。
蛇足ながら、日本刀を例に出そう。棒で人を殴ろうとすれば、どの角度で当たってもそれなりに衝撃が相手に伝わる。しかし日本刀で相手を切ろうとするならば、刃のついてる方を相手に当て、さらにそのままの角度で刀を引ききることが必然となる。この必然が、Footとヒザ頭の位置関係にもあてはまる。
自分の場合、始めに思っていたよりもちょっと外側にピタっとハマル位置があった。自分がO脚だということを考えると(これは推測であるが)O脚の場合にはやや外側、X脚の場合にはやや内側にそのポイントがあるのかもしれない。
手が足にのる
腰と肩の一致、手と足の繋がり。それが大事なポイントだという事は入門当初から何度も聞かされていた。そしてそういうふうに稽古もしていた。7年目に入る今年になって、ヒザ位置が定まったことにより、手と足が繋がっている感覚が出てきている。
半禅をすると、膝頭の少し上の大腿部あたりにハンドが乗っかっている不思議な感覚がある。右膝の上に右ハンドが、左膝の上に左ハンドが乗かっている感じだ。このままナンバ歩きをしてみると、操り人形のように、右手が右足を、左手が左足を引き上げてくれる。いやあるいは右足が右手を押上げ、左足が左手を押し上げているのかもしれない。「糸」で繋がっているというよりは「棒」で繋がっている感覚だ。
開掌を前に向ける半禅。これは上級者の禅であるが、このフォームはそのまま組手構えに使える。ただし、少々の工夫が必要となる。右膝の上に右ハンドが、左膝の上に左ハンドが乗っている状態では、相手に向かって正面が空きすぎている。後ろの手をもう少々前に持ってこなければならない。そのため工夫。――各々の健闘を祈る。
ウンチク自慢
体の部位を言い表わすとき、日本語の方が便利な場合と英語の方が便利な場合がある。一般的に日本語は全体をあいまいに言い表わし、英語は各部位を単独で明確に言い表わすという傾向がある。日本語で「手」と言った場合、それば「手のひら」の部位とも思えるし、肩から先の「腕全体」とも受け取れる。「足」もまたしかり。もちろん例外もある。日本語には、「掌(てのひら)」や「手の甲」「足の甲」などの細かい表現もある。また英語でも「Back」の様に背中から腰までの全体を言い表す言葉もある。ちなみに「指」を英語でいうと「Finger」であるが、足の指は「Finger」とは言わない。これは「Toe(トウ)」となる。
さて前述の「ハンド」と「フット」であるが、英語の方が的を射た表現をしているのでそうしてみた。つまり手首から先が「ハンド」で、くるぶしから先が「フット」なのである。といわけで、富リュウのウンチク自慢はこれでおしまい。
しげみ探手
昨年の夏頃の話。木の枝を相手の腕に見立てて、その脇に頭を突っ込んで、また引き抜くというような稽古をしていた。そしてその枝を自分の腕で払いながら打拳を打ち込むような動きも何度も稽古した。
今年の春、出張先での話。その公園には適当な枝振りの木がなく、しかたなく葉の生い茂った木を選んでみた。葉のついている部分はちょうど自分のノドの高さあたりにある。やや腰を落としその枝葉の下に入る。枝葉全体を下からゴチョゴチョと軽くイライながら少し動いてみる。何をかわすと言うでもなく、どこを打つと言うでもなく…。そして期待に反して大きな収穫があった。昨年暮から組手の稽古も次第に多くなってきていたが、この茂み探手、組手の感覚にとても似ていたのである。組手の攻防は、こうきたらこうかわし、こうなったときにはこの手でこう打つ、と思いがちであるが、実際にはゴチョゴチョとなってパッとした一瞬に打つ――といった感じになる。この感覚にとても似ていたのだ。
内臓がポテっと
「内臓を楽にしておきなさい」天野先生から言われた。立禅のときの注意点だ。もう半年以上前のことだと思う。人の体は骨と筋肉からできている。これが構造物だ。そしてその構造物の中に、内臓という内容物が詰まっている。人は体を使って何かをしようとするときに、筋骨ばかりに気をとられがちであるが、内蔵の存在を無視してしまえば、自分の体というものを50%、いや30%くらいしか把握していないことになるのではないか。太気拳では体全体をまとまって使っていくように訓練していく。その中で体側部にある脇腹や脇胸、下腹部、胸の開合…そういった部分を自分でコントロールして動かせるようにして、それに手足を繋げていく…という作業を黙々と続ける。そんな中での「内臓を楽にしておきなさい」というアドバイスである。腹部の下には骨盤がある。そしてこの骨盤は、下は大腿骨とつながり足を支え、上は背骨とつながっているという大きな役割があるが、それとは別に内臓の受け皿となってことを忘れてはいけない。この骨盤の上に、内臓がポテっとのっているように、そして喉からは胃袋がぶら下がっているような感じ。そういう楽な感じに身体を整えておきなさい。そんなアドバイスであった。
U.L.B.=UpperLungBreath
「呼吸を楽にしておきなさい」天野先生から言われた。立禅のときの注意点だ。もう半年以上前のことだと思う。空手などの武道系では、気合とともに拳を打ち出す。この呼吸法は、突き蹴りのタイミングと吐く息の関連性を覚えるためには、非常に効果的である。ボクシング等では、あの独特の「シーシー」というの息の吐き方がある。こちらは連打向き?といえるかもしれない。どちらにも利点がある。しかし欠点は、と聞かれると「?」である。よくわからない。
それでは、太気拳ではどうかというと、どちらとも違う呼吸の使い方をする。しかし初心者の内は、ただただ「呼吸を楽に」「普通に呼吸していなさい」ということだけである。ちなみここでいう初心者とは、私的には3年~6年くらいかなと考えている。そして太気拳独特の呼吸法とは如何に!? それは秘伝なので伏せておきましょう。知りたい人は直接天野先生に聞いてみてちょ。
さて前置きが長くなったが、打拳を打って前へ出ようとする時に、どうしても上体が前かがみに流れてしまうので、これを防ぐために胸を張った姿勢を工夫していて、そしてそれプラス、内臓を楽に呼吸を楽にしておく状態を模索していて、ふと気づいたことがある。それは、肺も内臓だったのだ、ということ。では肺を、肺の形を、あるいは肺の有り様を工夫して、それを姿勢の維持に使えはしないものかと。そこでヒラメイタのが、「U.L.B=UpperLungBreath」である。これは富リュウお得意の造語。Upperは上部、Lungは肺、Breathは息もしくは呼吸、という意味。つまり肺の上部で呼吸するということだ。そしてこの「上部」には3つの意味が含まれている。まず一つ目は、肺の上部を使うという事。そして二つ目は、肺を上部に引き伸ばすように使うという事。
まず普通に正面向きに普通の立禅に構える。そして大きく息を吸って肺の上の方を膨らませ、また吐く。この深呼吸を何度か繰り返す。膨らんだ時の肺の状態が体に馴染んできたら、今まで前に膨らんでいた肺を、上方に膨らむように意識してみる。こうすると肺の容積が大きくなった様な感じになるはずだ。しかし同時にここで、首がボディにめり込み、肩が上がってしまうように感じると思う。これを少しずつ調整して、肺の膨らみの上に首がのるように、肩が楽なままで居られるように、体に馴染じませていく。ここまで出来たら、Upperの三つ目の意味が重要となる。それは、膨らませた肺の中の息の「上ずみ」だけで呼吸するということ。上ずみだけを吐き、その減った分だけを吸う。息を漏らすように吐き、フッと吸う。組手や推手で前に出て行くときに、このU.L.B呼吸法を使って、息を吸いながら前へ出て行くようにしてみると、これがなかなか具合が良い。胸を張った姿勢のまま、ズンズン前へと出て行けるのです。
良い姿勢という呪縛
良い姿勢って何だと思う? 唐突に天野先生が尋ねる。胸を張りすぎる富リュウのフォームを見ていた先生からの問いかけだ。「これが良い姿勢だ!って思い込んでちゃいけないんだよ。そんなものは嘘っぱちだよ」「身体が知っているんだよ。良い姿勢は。身体が成りたいように成ってあげなさい。頭で考えずに」――アドバイスはこれだけ。あとは自分で考える。いや考えないで身体に任せる。でも、考えないと任せようもないし・・・。
日本の古武術や各種武道では、背筋を伸ばした姿勢が特徴的で、ボクシングのクラウチングスタイルや各種スポーツの姿勢とは異なっている。そしてそこに何か秘密めいた神業や秘技・秘伝といったものに繋がっているように思っていた。しかし敢えて天野先生は言う。サッカーのゴールキーパーのようにしていなさいと。バレーボールもしかり。バスケットも一緒。もし参考にするなら、そのフォームを参考にしなさいと、おっしゃる。あー困った。富リュウはスポーツが大の苦手。中学一年の時のバスケット部では補欠だったし、1年で辞めちゃったし、そもそもがスポーツできない自分に挫折して、神秘の中国武術の世界に足を踏み入れたのに、よりによってまたまたスポーツに戻ってきちまったとは。なんてこった!
花見はおあずけ
今年の花見はとても豪華版。鹿志村先生率いる中道会、佐藤先生の拳学研究会、島田先生の気功会、そして我が太気会と豪勢に勢ぞろいでした。でも富リュウはこの花見には行けませんでした。残念・・・。
良く見るという思い込み
「明日のジョー」「がんばれ元気」ボクシング漫画からの影響は大きい。あこがれのヒーロー達。成りたくても成れなかった強い者達への憧れ・・・。ほのかな哀愁とともに記憶の片隅に刷り込まれている色々な情報。経験ではなく、情報。動体視力が重要。よく見ること。そしてよける。そして打つ――。
えっ違うの? よく見ちゃいけないんすか? 天野先生は言う。全体をボワンと見なさいと。見ているようで見ていない。そういう目の使い方を立禅で身体に覚えさせ、組手では見ないで、パッと反応して動きなさいと。見ると考えるから、考えるとタイムラグができて遅くなるんだよって。
たまたま見ていたテレビ番組に格闘技ゲームを得意とするゲーマー達の対戦番組があった。対するは盲目のアメリカ人少年。格闘技ゲームが大好きだと言う。家族の絆に支えられ、新しいゲームは、姉の手助けを借りてマスターするのだと言う。そして彼は、全てのキャラクターの攻撃パターンを音で覚えているというのだ。結果、日本のそうそうたる名人達はことごとく撃沈。盲目のアメリカ人少年が優勝した。
光速は一秒あたり約30万km、音速は一秒あたり約0.3km。光が音よりも速いことは誰しもが知っている物理の常識である。しかし澤井先生が言ったという。光よりも速いものがあると。それは人の「思い」すなわち「意」であると。そして天野先生が言ったのは「見ると考える。だから遅くなる」
毎朝の自主練の中で気が付いたことは、どうも人間は進化の過程で見ることと考えることを脳の中でくっつけてしまったらしいということ。そして今しなければならないことは、脳の中で見ることと考えることを切り離すという作業。つまりは先祖がえりして、原始人、類人猿、あるいは猿に戻ってしまえばいいってこと。さて富リュウ、とりあえずは片目をつむって探手でもしてみますか。
何も無い組手
「何でこんなことをしているんだろ」「これって奇妙だよな」「全くの静寂」太気拳の組手を見ていて、いつもそう思う。ボクシングでも空手でも、あるいは柔道の試合でも、様々な音や声が飛び交っている。本人達の気合い、掛け声。そりゃ~、えいさっ。セコンドや仲間からのアドバイス、声援。ガードを上げて! 効いてる効いてる! よしそこだ! 行け~! 等など。 太気拳の組手にあるのは、先生の声「始め」と「止め」だけ。仲間からの声援はない。ただ淡々と殴り合いが行なわれている。この組手の様子はまるで、インドの山奥で人知れず瞑想にふける導師の様。そして富リュウは、いつになったらレインボーマンに変身できるのでしょうか。
成功体験からの刷り込み
前へ前へ! 打たれてもいい、とにかく前へ出るんだ! 空手を習っていた頃、組手のたびにそう言われ続けていた。それがなかなかできなくて辞めていった人達もたくさんいた。自分は、8級、7級の頃、意外にもそれが出来ていて、少々得意げになっていた。その成功体験は「ああ、これで俺も空手というあこがれの世界に、足を踏み入れることができたんだ」という満足感と充実感、そういうほのかな快感物質とともに脳の奥に記憶されている。その思いは、今の組手スタイルのベースになっていて、それが太気の上達の邪魔をしている。天野先生は言う。「嫌だと思ったら行っちゃいけないんだよ。嫌だと思ったら逃げちゃえよ。行けると思ったときに行けばいいんだから」「気持ちと身体を引き裂くな」「気持ちが動いて体が動く。体が動けば気持ちも動く。そういうふうに稽古をしなさい」
その成功体験は捨てなければならない。過去の自分。過去の美しかった自分と決別するのは辛いものだ。自分が作った幻想が、自分をそこに留まらせる呪縛となっているなんて、こんな不条理なことがあってよいものか。師は言う、人間とは不条理なものなんだよと。
刷り込まれた成功体験がある。色々な思い込みもある。そして、自分をがんじがらめにしている呪縛――。さあ今、解き放たれる時がきた。目覚めるんだ、ダッシュ・ワン!