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会員・会友員のテクスト 富川リュウの太気拳修行記

秋だっぺよ

五体不満足

 相手の表情がよく読めている。自分の中心で相手の中心を捕らえている。ジリッジリッと間合いを詰め、相手が動き出すのを待つ。バンッ!ガチャガチャ!! 手と前腕が交叉する。その一瞬に流れ弾を喰らう。

 殴り合っちゃダメなんだよ。打てるときに行く。そうじゃないときはパッと離れる。自分も殴れるけど相手にも殴られる、そんな間合いにいたんじゃ駄目なの。師の叱責が飛ぶ。

 月曜は仕事を休み病院へ。火曜水曜はまだ五体不満足のまま出勤。木曜金曜は後遺症の残ったまま仕事をする。そんな社会人失格な一週間だった。

イタイ思い

 中心をさ、ズラすんだよね。I先輩が言う。相手の中心を捕らえることは大事なんだけどね、自分の中心を捕らえられちゃいけないんだ。そのためにはさ、虚の自分を相手に捕らえさせておくって言うか、ここに居るようでそこには居ないっていう体の動きっていうか状態?それを作ってさ、相手に捕らえられたと思ったらパッと変わる。そしてまたパッと変わる。それを繰り返すんだよね。

 組手はさ、イタイ思いをしないと強くならないんだよな。傍らで、皆と雑談をしていた師の独り言のような呟きが聞こえた。

それじゃ違うんだよ

 雲の上を歩いているような這い。宇宙遊泳のような這い。そんな這いが出来てきていたが、心のどこかに何かが違うんじゃないのかな、という思いがあった。それじゃ違うんだよ。聴こうとしていた矢先、先手を打たれて言われてしまった。こうだろ、ここでこうなるだろ。それでこうなるんだよ。今までとはまるで違う体の使い方。ソケイ部を吸い込んだままでの這い。しかしこの這い、尻の落とし処に工夫が要りそうだ。

枯葉打ち

 秋は紅葉、そして枯れ落ち葉の季節でもある。公園で立禅をしているとハラリ、またハラリと枯葉が落ちてくる。目の使い方、全体をボワンを見ながらも、その一点への集中も必要だ。枯葉を視界の中に捕らえながら身体を緩めておいて、枯葉が着地するその瞬間に身体を震わせる。打拳を打つ感覚で。

雨しずく打ち

 公園によくある屋根がついてて中にベンチが作りつけであるやつ。壁はないんだけどとりあえず雨露はしのげる。あれってなんていうか知ってます? 東屋(あずまや)って言うそうです。その東屋で立禅をしているとね。雨がポタポタと落ちてくるのがよくわかるんです。軒先(のきさき)のところから。それって当然、枯葉より落ちる速度が速いんで、いい稽古になるんですよね。目の使い方と反射神経と体の振動の。

恐い顔

 先生、あの人って○○拳法4段ですよ。顔も恐いし。それにあの人もガタイがでかくて顔が怖くて○○空手2段なんですよ。なんか見てるだけでビビっちゃいますよね。

 社会人の常識としてさ。相手の目を見て話しをしなさいっていうのがあるだろ。それは人が人とコミュニケーションをとるときの大事な要素なんだよな。でもさ、組手は違うじゃん。顔見なきゃいいじゃん。組手のときに相手の顔なんか見ちゃいねぇよ。俺は。

カクテル・レインボー

 ハラと背中がさ、緩んでこないと。締まるべきところが締まらないんだよな。それは逆もしかりで、締まるべきところが締まっていないと、緩むべきところも充分に緩みきらないんだよな・・・。

 最近やっとハラと背中が緩んできた富リュウに天野先生が追打ちを掛ける。締めるところはヒザ。正確に言うとヒザから踵に至る脛のライン。これが締まってきて初めて使い物になるというのだ。しかしここで問題がひとつ。「締まる」ってどんな感触なのか? それが「リキむ」というのとは違うっていうことだけは察しがつく。しかし「締まる」は未知の世界。成ってみなければ分らない。

  それはある朝、唐突にやってきた。ヒザ下に締まりがでたのだ。リキみではなく締まり。そしてハラと背中から上はゆったりと緩んでいる状態。それはまるで体の中にエネルギーの層があって下の方は濃度が濃く、ヒザからソケイ部にかけてグラデーションが掛かり、上の方には濃度の薄いエネルギーが入っている、そんな感じ。例えて言うならレインボーマンじゃなくて、カクテルのレインボー。濃度の濃いお酒から順に入れていって7層がきれいに色分けされているやつ。あんな感じかな。

ものの見方・目の使い方

 カクテル・レインボーが体の中に出来ると、気分の作り方も同じようにすればいいんだろうな、ということが自然に理解できた。ある部分を締めておいて、ある部分を緩めておく、そのメリハリが重要。これが出来てきて、目の使い方がはっきりとした。

説明違い・説明不足・説明不要

  実は富リュウ、4年前からダンスも習っている。ダンスの先生達も個性豊か。そして教え方も千差万別である。M先生は中々の理論家。説明のしかたも丁寧だ。しかしある時そのM先生が言った「ヒジを前に出しちゃダメよ」これは上体を右にひねる時の動きだ。つまりは胸が完全に右を向いていなければならないのだが、どうもこのひねりが上手くいかず手だけが出ていたようだ。そして「ヒジを前に出しちゃダメよ」という指摘は間違いだ。正確に言えば「ヒジだけを前に出しちゃダメよ」もしくは「ヒジも前に出すのよ」となる。どうも体を使うことの得意な人達は、言葉を使うことが苦手のようだ。あるいは感覚的な人達や芸術家気質の人達にも、言葉を使うことが苦手な傾向にあるように思える。

 この点、J先生は解りやすい「違う。見てて、こう」それしか言わない。完全な感覚人間で、言葉で説明したり、表現することを放棄してしまっている。
しかしまだまだ上がいる。外国人のR先生「パンパンパン・パ・パンパンパン。オーケー?」これしか言わない。もうここまで行くと、見て盗むしかない。

 しかし天野先生も教えることに関しては、言葉に限界を感じているようだ。「もう説明するのが面倒臭くなっちゃってさ、いいから黙って立ってろって、言いたくなっちゃうこともあるんだよな」って、そんなことをふともらしたことがある。

これでいいのだ!

  立禅や這いを習い始めた頃に、良く見聞きしていた説明がある。低い姿勢での立禅や這いは、足腰の筋力を鍛えるためのものではない、という説明だ。
ヒザ下の締まりを模索していて気づいたことがある。前述の説明は、間違いなのではないかということ。つまり「低い姿勢での立禅や這いは、足腰の筋力を鍛えるためだけのものではない」あるいは「低い姿勢での立禅や這いは、足腰の筋力を鍛えるためのものでもあるが、他にもっと重要な要素を含んでいる」というのが正解なのではないだろうか?

  こう考えていくと、ほかにも思い当たる節がいっぱいある。推手の時にはこうしなさい。組手の時にはこうしなさい。それらをふるいにかけて見えてきたものがある。

  ひとつひとつの経過は省くとしよう。結論は7:3で立って居るっていうこと。これに尽きる。7:3を軸に身体をうねるように使い、這いを組み立てる。7:3に立って身体をうねらせながら、時に上体や頭をオフセットさせて推手と組手に応用する。――これでいいのだ! byバカボンのパパ。