サクセスストーリーはどこに
11月12日の日曜日、岸根公園での稽古で五体不満足となった。その時から、組手について色々と自分なりに考えるようになった。後の経過は秋の章で書いたが、最後は、これでいいのだ!byバカボンのパパ――ということで締めくくられている。
この修業記を書いていて、いつもいつも思っていることがある。それはサクセスストーリーを書きたいっていうこと。これこれこんな風にしたら、こんなんなっちゃったさー! どうだほら凄いだろぉー! ってな感じ。しかし現実には、それほど思い通りにうまく事は運ばない。工夫してみたことが裏目に出たり、手ごたえを感じていたことが的外れだったり、そんなことばっかりで嫌になってしまう。
秋の章を書いたその後に、富リュウに襲い掛かった数々の苦難。自らの太気拳人生に大きな壁が立ちはだかる。そしてストーリーは巨大スペクタクル冒険活劇の様相を呈す。 果たしてこの壁を、乗り越えることができるのか富リュウ! 頑張れ富リュウ! 負けるな富リュウ! って自分のことなんだけどね。
散歩の組手
ケガをした翌週と翌々週は一人稽古と推手だけにして、組手はやらなかった。なので3週間ぶりの組手。今日は何かができそうな予感がする。12月2日、その日は暖かく小春日和を思わせた。吹き抜ける風が、これから起こるささやかな幸せを祝福してくれているようだ。よし、サクセスストーリーの序文は出来た。あとはこの予感を現実のものにするだけだ。
何も出来なかった。全く何も出来ていなかった。ケガをしなかったことだけが、ささやかな幸せか。否、幸せ感などどこにも無い。在るのは、挫折感と屈辱感と無力感だけだ。組手の最中、ああするように、こうするように、と先生からアドバイスをもらっただろうか、あまりよく覚えていない。二人ほどと組手をやっただろうか、それすらもあまりよく覚えていない。先生、組手…。私の組手…、何がいけないんでしょうか? 着替えを済ませてから、ためらいがちに尋ねてみた。富リュウはさ、基本的にやるべきことを勘違いしてるんだよな。組手をやってないんだよ。皆は組手をやってるのに、お前一人だけ、ウォーキングしちゃってるんだよ。
「基本的にやるべきことを勘違いしている」「組手をやってない」「ウォーキングをしている」 ずっと前に聞いたことがある。散歩しているように組手をしなさいと。散歩しているようなリラックスした気分で組手をしなさいと。しかしそれは、散歩をしているように「組手を」しなさいであって、散歩をしているように「散歩を」しなさい、ではない。あぁ、なのに俺は、リラックスすることばかりに捕われ過ぎて、ほんとに散歩そのものをしていたとは…。なんて馬鹿なんだ俺は。なんという大馬鹿者なんだ、俺は!
辞表提出・もう太気やめます
本当に、自分には向いていないのではないだろうか。自分には格闘技や武術、組手などといったものに、全く適性がないのではないだろうか。あるいは自分には他に何か向いている、適性のあるものがあるのではないだろうか。打ちひしがれた想いの中で、いろいろな考えが浮かんでは消え、浮かんでは消え、浮かんではまた、消えていく。もう辞めます――言うのは簡単だ。もし言うのが難しいと感じるならば、そのまま居なくなればよいだけのことだ。考えが逡巡する。
辞めたくない理由はひとつだけ。この富リュウの修業記を書いている。書き続けている。もう7年も。そして何ひとつとして成果が出ていない、結果が出ていない。今やめてしまうと格好がつかない。体裁が悪い。辞めたい理由もひとつだけ。強くなれない。組手ができるようにならない。そして後輩に追い越されている。格好が悪い。体裁が悪い。
さてここで問題がふたつ。後輩に追い越されていることが、辞める理由として適切かどうか、ということがひとつ。もうひとつは、全ての理由が、格好が悪い、体裁が悪いということに帰結しているということ。あまりに動機が不純で空いた口が塞がらないではないか。
辞めることは簡単なこと…。ならば、いつでも辞められるということではないか。辞めることが簡単な事で、いつでも辞めることが出来るとすれば、それでは別に今、今ここで辞めなくてもいいのではないか。ならば、辞めるまでは続けよう。そう考えた。そして、続けるからにはちゃんと強くなろう。ちゃんと強くなって、後に続く者達に模範を示せるまでになれるかどうかは分からないが、少なくともこれくらいやれば、これくらいにはなれるという一つの道筋だけでも指し示してあげられるように…そう思い直した。
ピンチすなわちチャンスなり
日曜日の昼下がり。いつもの風景。LサイズのブラックコーヒーとSサイズのミルクティー。向かい合って座る。なじみの喫茶店。妻のY子とのひとときは、ほっとする時間であり、有意義な時間でもある。そしてとりとめのない会話は、時に魂を震わせ、大地に響く。
「基本的にやるべきことを勘違いしている」「お前はウォーキングをしているんだよ」って先生に言われちゃってさー。落ち込んでいる富リュウに、優しくY子が微笑みかける。ピンチ・ピンチ・チャンス・チャンス・ラン・ラン・ラン♪ ピンチすなわちチャンスなのよ――そんな話が始まりだった。何がキッカケだったのだろうか。思い出せない。しかしその何気ない会話の中で、突如として強烈な衝撃が脳天を貫き、何かが音をたててガラガラと崩れ落ちていった。頭の上にあった壁板。それが邪魔で伸び上がれないでいた。しかしてそれは、自分が作った壁板だった。こうあるべきという思い込み。それが砕けて散っていった。
自分が作った壁板。思い込みという壁板。今まで正しいと思い込んでいたことは間違いで、今まで価値があると思って握り締めていたものは、ただのガラクタだった。
新しい価値観、新しいものの見方――。
場の雰囲気を読む。人の有り様を捉える。流れに身を任せる。それが大事。あとは格好付けないこと。格好いい振りをして、クールにキメて、冷静さを装って。そんなことには何も意味がないということ。
格好悪くても、鼻水たらしても、汚物にまみれても。歯を喰いしばって、石にかじり付いてでも、砂を噛む思いをしても。しゃかりきになって、必死の形相で立ち向かっていく。そう言うなりふり構わぬひたむきさが大事。
今日から再スタートを切る。強くなるための練習をする。そう決めた。そして、ちゃんと強くなろうと決心した。
肉食獣の立禅
今までは、どちらかとういと草食獣的な立禅をしていた。まわりをぼぅーと見ていて何かにビクッと反応できるような感じで。これはこれで間違いではないのだろうけど、12月10日の交流会を見据え、今度は肉食獣のような気分を作ってみた。目の前を通りかかる人、車、猫やカラス、木々の揺らぎ、そういったものに反応し、うおぅ!と襲い掛かっていくような気分と体勢、姿勢で立禅を組んでみる。なにか闘争心が湧いてきて、いい感じに仕上がりそうだ。
ちら見チェック
全体をぼうっと見るように、と言われ。そうしてみると駄目で、今度は相手をよく見るようにと言われ。よく見るとやっぱり駄目で、相手の目を見ているから自分の目を打たれるんだと言われ。それじゃあいったいどうしたらいいのって。もう少し、もう少しで眼の使い方がわかりそうなのにもどかしい。
視界の拡がり。左右上下に大きく見て取る。それに足りないものは何? それは前後の奥行き、遠いものと近いものを見るときの目の使い方の違い「ちら見チェック」だ! 木のすぐ近くに立ってみる。1メートルほどの距離か。自分の手を通して木の脇を通り過ぎ遠くの景色を見る。次の瞬間、木に目の焦点を合わせ、またパッと遠くを見る。木に目の焦点を合わせるときに、上のほうを見たり枝のほうを見たり下のほうを見たり、視線を上下左右前後に振り分けて、相手を舐めまわすような感じで見る。うん、これはなかなか使えそうだ。
パペマペ打ち
ちら見チェックの眼の使い方はそのままで、その木に向かって這いをやってみる。この時、引き手の手が寝てしまっているのに気が付いた。ああこれじゃあ駄目だなあ。どうしても引き手の甲を立てているとリキミがでやすいので、寝かして誤魔化してしまっているようだ。これではいかん。さてどうする?
ウシくーん、カエルくーん。ウシとカエルの着ぐるみを両手に被せた黒子の芸人が一人。パペット・マペットの登場だ。まあウシとカエルだと弱そうだから、右手にライオン、左手にトラの着ぐるみを被せよう。これが相手に狙いを付けていて、飛び掛ってガブッと噛み付くイメージだ。こんなお馬鹿な想像でも意外と役に立つものだ。打ち終わってから引ったくってくる素速い引き手が自然にできた。「パペマペ打ち」とは、なかなか良いネーミングではないか。
ワイパーの練りから
組手に必要な最小限の動き。それは何だろうか。トコトコ歩き。低い姿勢で、狭い歩幅で、トコトコ歩く。お腹を緩めておく事が肝心。もちろん体重が十分に片足ずつに行き来することも。そして高く掲げた前腕が緩く前後に平行移動する。そこからもう少し、左右の動きをちょっとだけ加えてみる。顔をガードできるように。前腕は平行移動し、まるでバスのワイパーのように動く。ここから一気に伸び上がる。片手片足を大きく天に突き上げ、一瞬でトコトコ歩きに戻る。この伸びを次第に前に向け、打拳にしていく。パッと伸び、パッと縮まる。延々とこの動きだけを繰り返す…。
男泣き
交流会の日、12月10日。太気会の面々と気功会の方々が久々の再会をはたす。初めはいつものようにおのおのが自由練習。富リュウも肉食獣の立禅のあと、パペマペで這いをやり、ワイパーの練りからの打ち込みで自分の動きをたしかめる。もちろん、ちら見チェックの眼の使い方も意識して。そうこうするうちに集合がかかり、島田先生から立禅と練りについての説明がある。なかなか参考になる良い説明だった。
組手が始まる。最初は太気会同士、気功会同士で組手をして、その様子を見たうえで組み合わせを決めて交流組手をやる、という運びとなった。太気会同士の組手が5組ほど終わってから、富リュウにも声がかかる。N山さんとの対戦だ。
全く何もできずに、また涙目になって僅かな時間で終了。後は片目で皆の組手をただただ眺めていただけ。飲み会にも参加できず、すごすごと帰る。横浜の自宅へ。何も役に立っていない。肉食獣の立禅も、ちら見チェックも、パペマペ打ちも、ワイパーの練りも。この一週間の苦労が水の泡。涙で流れてダラリンコしゃん。幸いにも妻のY子は出張のため不在。トイレに籠もって独り言をつぶやく。叫びたくなる衝動を抑えながら。なんで俺だけが。なんで駄目なんだ。なんで俺だけが、何が駄目なんだ。なんで俺だけが。何をどうしろと言うのだ。くっそっ~! 嗚咽が漏れ、悔し涙が流れる。
天啓
お前は身の程知らずだ。自分の身の程を知れ。逃げるな、嘘をつくな、虚勢を張るな。それが一番みっともない。臆病者なら臆病者の組手をすればいい。自分らしくない人、自分じゃない人になろうとするな。己を知れ。臆病者なのに勇敢なふりをするな。臆病者なら、それはそれでいい。まず、それを認めろ。その上で出来ることをやればいい。
組手ではお見合いをしていては駄目。だけど突進して行くのも駄目。行けるときには行く。引くときには引く。相手の様子を伺うことが大事。相手の出方を観察する。相手を見くびらず、自分を過大評価しない。欲張らない組手をしなさい。恐いんだったら泣きそうな顔で組手をやってもいいじゃないか。
さらなる工夫
妻と会社の連中には「ものもらい」ということで言い通した。「ばい菌が入っちゃったみたいでさ」と誤魔化してやり過ごした。
今、自分の組手に必要なものを優先順位をつけて自分用に整理して再構築していく。そして、それを踏まえたうえでの禅や這いや練を工夫していく。
立禅は島田先生のアドバイスを参考にしてみる。草食獣でも肉食獣でもなく、ただただボゥーと立ち尽くす。気持ち良さを感じながら。上体は全くの虚で、細胞の間を風が吹き抜けていくように。あとは、遠くの音を、遠くの聴こえない音を聴こうとするように。
眼の使い方は、もとに戻す。全体をボワンと見るように。しかし通りかかる人がいれば、ちゃんと顔の表情も観ておく。しかし何も考えない。なんだやればできるじゃないか。あるものをあるがままに観るということが。
立ち方は、狭く。トコトコ歩きのワイパーの練りは間違いではないと思う。そして狭いスタンスで居るなら、真ん中に立っていてもいいではないか、と思う。片足に立っていなくても、その状態が常に緩んでいて、どちらかにパッと動ける状態であるならば、それで良いのではないか。
そして探手では組手を意識して、とにかく反応して動けるかということ。相手に反応できるような状態で居る。そして反応して動く。それだけでいい。
歯医者復活戦
元々そういう性格なんです。いつも肩に力が入っていて、何かをしようとすると、すぐに緊張するし。そういう緊張気質な性格なんです。でもね、その日の朝、駅から公園まで歩いている途中で、フッとそれに気づいた瞬間、抜けたんです肩の力が。確かにその瞬間、今までとは違った感じになったんですよ。
そいで、その二日後が歯医者での検診の日だったんですけど、わかっちゃったんですよ。何がって、背中の力の抜き方が。その歯医者には年に一度しか行かないんだけど、一回の時間が1時間から1時間半くらいでとっても長くって、以前は治療の後、すっごく疲れてたんだけど、去年くらいから、あんまり疲れなくなってて。それが今回は治療台がリクライニングしたその瞬間、コツが見えたんです。疲れないためのコツが。背中に当たっている硬いボードの上で、肩甲骨を緩めて、その下の方も緩めて、腰も緩めて、とにかく背中全体を緩めるようにしてみてたら、あーら不思議。治療後も、ちっとも疲れてなんかいないんですよ。あーあ、今までは疲れちゃってて、とっても損してたなーって。これまでの私の人生って、いったい何だったんでしょう?
感覚を開く、聞き耳立禅
島田先生に教えていただいた聞き耳立禅。以前にも澤井先生の本で読んだことがあったし、ここ最近、天野先生からも折に触れ言われていた。しかし今までは見ることばかりに気を取られ、ないがしろにしていた。というより全くやろうともしていなかった。
まずは聞くことに集中して立禅を組む。音か?音を聞くのか? 相手の動く音?足音?衣擦れの音を聞き分けるのか? そんなことを考えながら毎朝続けていたが、聞くということが何なのか、いまひとつピンと来ない。
そんな朝練を一週間ほど経た後、元住での稽古。稽古が終わってから、天野先生に質問してみた。あの、質問があるんですけど、聞き耳たてて立禅をしていて、それが、組手にどう役に立つのでしょうか?と。そんなことは考えなくていい!何も考えないで立禅を組むの。と一刀両断。思ったとおりの返答だった。しかし次の瞬間、意外な答えが返ってきた。感覚を開くんだよ。聞くって言うのはさ、ものの例えでもあって、確かに遠くの音を聴くようにはするんだけど、それだけじゃなくて、皮膚感覚、肌感覚、そういったものを全部開いていくの。 ――よし、いいことを聞いた。ならば明日からの一週間、そんな聴き方と感じ方で立禅を組んでみよう!
懸垂から振り子拳
いつも立禅をしている都内の外れにある児童公園。時たまそこに訪れる太めのジョギングオヤジ。私のすぐ脇にある子供用の滑り台のパイプにぶら下がり、懸垂をしていく。私はちょっといぶかしげな表情を浮かべ、オヤジから少し離れて距離を取り、立禅や這いを続ける。それはいつもの光景だった。にも拘らずその日は何かが違っていた。ぶら下がってからしばしの時間が…。オヤジの巨体が揺れる。振り子のように。
あっ!と良いアイデアが浮かんだ。トコトコ歩きでワイパーの練りをする際に、上体は、お腹の緩みとともに左右に平行移動していくのだが、平行移動では、スムーズさに欠け、スピードを出しにくい。何かこう、振り子っぽい動きができたなら、もっとスムーズにもっと滑らかに動けるのではないか、そう考えてみた。無理にガシガシ動かすのではなく、行ったら自然に戻ってくるように。ものは試しにそんな練をしてみると、お腹の中で何かがグルグル回りだした。これって何よ?
お腹の中で何かがグルグル回ってる
翌朝になると、立禅のときにも、お腹の中で何かがグルグル回っている感じがあった。最初、丹田が回っているのかと思ったが、どうも丹田の周りを何かが回っているような感覚だ。それが内臓なのか気なのか体液なのかチャクラなのか判らないが、もしかしたら、ただの気のせいなのかも知れないし、勘違いなのかも知れない。しかし半禅で、それを右回しや左回しに方向を変えたり、ゆっくり回してみたり速回しにしてみたりすると、これがなかなか面白いのだ。
カッパもどき
そのまま立禅を続けていると、ふと頭の上にカッパのお皿のような感覚が。それは下から上に身体を突き上げようとして、頭を抑えられているような感覚でもあるし、頭頂部がピリピリするような感覚でもある。それを感じながら体の中心を振り子のように揺すっていると、ふぅーと体の芯に空洞ができた。頭頂部から会陰部にかけて、サランラップの芯のような空洞感が出てきたのだ。いや、この空洞感、よくよく観ていくとサランラップの芯ほど真っ直ぐではないようで、うねりを伴って微妙に曲がっている。太さも所々で違っている。これを便宜上「空軸」と名づけよう。
神から借りたもの
そのままの感覚で這いをやり始めたのと、目の前を傘を持った老夫婦が通りかかったのが、ほぼ同時のタイミングだった。その瞬間、あっ俺も何か持っている、そう思った。しかし持っていたのは傘ではなく自分の腕だけだった。そのとき一瞬だけだったが、空軸が自分の本体となり、手足を含む体全体が持ち物、あるいは道具、あるいは借り物。そんな感覚になった。
クリスマスプレゼント
運命の日、12月23日。この日は自分にとって今年最後の稽古日でもあり、今年最後の組手の日でもある。立禅を長めにやりたかったので、午後2時前には元住の公園に到着した。耳を澄まして体を緩めて空軸を感じて。じっくりと禅を組む。這いの中では、練りをやっているように、お腹の中をグルグル廻す。練りでは逆に、手の動きを最小限にして振り子の感覚で身体の芯をゆすっていく。そして探手。ワイパーの練りでトコトコ歩き、そして反応して動く、反応して一打放つ。反応できる状態に空軸を保ち、耳を澄まして相手の動きを良く観て観察し、反応して動く、反応して一打放つ。それだけを繰り返す。
推手が始まった。空軸を保つことと、聞き耳を立てることに専念する。もちろん肌感覚、皮膚感覚も全開にして。フッと相手の動きの兆しが観えた様な気がした。
さて組手である。相手は、後輩のK村さんとK川さん、そして10日の交流会でも手合わせいただいた元K空手黒帯のN山さん。顔が下を向かないように、それだけを気をつけた。後は自分の稽古の成果を出すだけだ。反応して動く、反応して一打放つ。それだけのことをやる。
ああ、やっと様になってきた。先生にも「ちょっと良かったね」と言葉をいただいた。自己評価は10点。もちろん100点満点の10点である。しかし価値ある10点である。なんせ今までの組手は、どれもこれも0点だったのだから。これは本当に自分にとってのクリスマスプレゼントだ。2日早いクリスマスプレゼント。神様ありがとう。そして仲間の皆、ありがとう。
天才バカボン
思えば五体不満足の組手(11月12日)から6週間、これまでの7年間で一番濃度の濃い稽古ができたと思う。時間的にはいつもと変わらない稽古量が、5倍から6倍ほどに本当に質の濃い稽古だった。それまでは目先のことや手先のことで、何かたったひとつ見つけるたびに嬉々として悦に入っていたようだ。本質を見ようとしていなかったし、全体として捉えようとしていなかった。何よりも目標がはっきりしていなかった。だから小さな発見の楽しさで満足していたのだと思う。
しかしこれからは違う。ちゃんと目標をもった。だから、そのためにやるべきことを吟味して行く。その都度、目標に沿うようにやるべきことを明確にして行く。そういう取り組み方をしていく。――これでいいのだ!by天才バカボンのパパ