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会員・会友員のテクスト 富川リュウの太気拳修行記

平成19年・夏だよね

首の曲がり具合と頭位置

 半禅での頭位置、これにはずいぶんと苦労させられている。立禅でさえ、アゴの引き具合、あるいは首の力の入れ具合に、すっきりとした解答が得られていないのだから、当たり前といえば当たり前の話だが。

 右足が軸足で後にある場合を考えてみよう。去年までの半禅での頭位置は、右の後へ引かれていた。その方が正面位置のまま引くよりも、より大きく後へ退げられるからだ。今年に入って2月くらいから、左の前の位置になった。これは天野先生による後手からの打拳を幻の右ストレートで終わらせないためのアドバイスを受けての賜物だ。半禅の姿勢から、右打拳を打ち出して上体が左足に載る。この感じのままで手だけを引いてやると重さのある打拳を一挙動で出せるようになる。そうすると半禅の頭位置は、自然に左前の位置になったのだ。そしてそれが4月に入ると、まぁ色々とあって、左の後ろへ来るようになった。この位置だと肩でアゴを守れるようになり、なかなか具合が良い。

姿勢が良ければそれだけで…

 4月の末、岸根での組手の時に天野先生に言われた。お前は姿勢が悪いんだよ。そしてトミリュウはこう言った。姿勢だけは良いつもりでいたんですけどね。馬鹿野郎、姿勢が出来ちゃえばそれだけなんだよ。姿勢が全てなの――。その静かな呟くような何気ない一言が、今の自分の姿勢の至らなさを思い知るだけに留まらず、後に大きくトミリュウを変えていくことになる。

 5月に入って、ハラで見る感覚と言うものが少し感じられるようになってきた。たぶん半禅で頭位置が定まった事で、背中、腹、腰、内臓などが、より良い位置へ動き始めているのだと思う。

自分を見失わないということ

 5月19日土曜日、組手が少し良く出来た。ハラで見る感覚のおかげかもしれない。天野先生からは自分を見失わないということを言われた。打たれたっていいんだよ。打たれてもパニクらなければ、お前は、打たれてアワワどうしよう。それに打たれる前からアワワどうしようになっちゃってるんだよ。アワワどうしようの状態っていうのは、身体が動かない状態なの。だから全然反応できない――。打たれてもパニクらないでいろよ。それだけでいいんだから。そのための稽古を禅の中でやってるんだからな。

 この手の話は、もう半年も前から繰り返し聞いていた。いつもいつもトミリュウの組手は、このことを言われ続けていた。

 次の日、日曜日の夕暮れ時、いっぱい遊んでいっぱい踊って、心地よい疲れにつつまれて、四ツ谷の街を歩いていた。その時、あるインスピレーションがすぅーと頭の中に入ってきた。殴られてもそのままにしていりゃいいんだ…。コトバにしてしまえば同じこと。同じ意味。でもその瞬間、その意味が、やるべきことの意図が、なぜ必要なのか、何でそれなのか、何のためなのか、全てが一瞬にして繋がって腑に落ちた。

 次の日、月曜の朝、禅、這いをやった後、探手を長めにやった。いつもとは違う探手。打拳を放つのではなく、自分をぶってみる。平手を張る。グーで殴る。相撲取りが自分の頬を張り、気合を入れるように。そしてムエタイの選手のように、自分で自分に殴られた衝撃を動揺を振り払うようにニヤッと笑ってみる。初めは殴られてリラックスするまでに若干のタイムラグがあったが、それを繰り返す内に、だんだんと殴られた直後もそのままで居られるようになってきた。しかしながら、朝の公園でサラリーマン風の居で立ちの男がこんなことをしていたら、気がふれているとしか思われないだろうが、そんなことは全く気にならなかった。それよりも顔に青タンが出来ていないかどうかが心配だったのだが、たいしたことはなく、支障なく昼間の業務も遂行できた。めでたしめでたしである。しかし、翌朝にはアゴやコメカミに軽い打撲の痛みが。今日はボコボコリーマンはやめておこう――と思った。

BIGコミックオリジナルISSUE

5月19日土曜日、もうひとつ、天野先生から良いアドバイスをいただいた。コピーしきれない処は、オリジナルを創るんだよ。そんな話だった。

 先生に習う。先生の真似をする。しかし、先生のように上手くは出来ない。それは当たり前で、先生と自分とは、体格も違えば、性格も違う。気質も違えば、生きてきた過程も違う。違ってて当たり前。であれば同じようにしても、同じことが出来るようになるとは限らない。そのコピーしきれない部分、その部分だけは、自分のオリジナルを創るしかない。自分にしかできないもの、自分にしかわからないもの、自分が、より自分らしくなるためのもの。それは自分が、自分自身で見つけ出すしかないもの。だから、難しい。そう成るのが難しい、そうするのが難しいのではなく、それを見つけ出すことが難しい。だから、オモシロイ。そんな内容であった。

逆捩じりの半禅

 5月の下旬から6月の上旬にかけて、逆ねじりの半禅に取り組んでいた。右足が軸足で後にある場合を考えてみよう。普通の半禅では右手が後ろにあり、左手は前方にやや高めに位置している。これを逆に捩じるのだ。足腰の位置はそのままで、左手をやや後へ引いて、右手が前へ出てやや高めの位置にくる。この半禅で気付かされたことはテンコ盛り。これを使って這いや練りをしていくと、体が一旦グダグダにほだされて、また新たなまとまりに収束していくような、脱皮とサナギを繰り返すような毎日だった。

腰かけ替える這い

 腰かけ替えるように這いをしなさい。ずいぶん前に天野先生に聞いた。秘伝の雑誌にも出ていた。でもそれは出来なかったし、出来ないから意味もわからなかった。それがその日、急に出来るようになった。

 6月9日の土曜日、逆捩じりの半禅をしていると、つかつかと天野先生が歩み寄り、手はこう、とトミリュウの姿勢を直された。当然、通常の位置にである。しかし解説付き。手はこう。こういう力が働いているから、手はこう。こうはならない。それは力が出きったときの状態で、こういう力が内在している所に意味がある。それが半禅。

 こういう力と言うのは前足を引き上げる力。それが内在されていて、やや前手が高くなる。ここで立禅に対してのテーマが二つ持ち上がる。ひとつは「内在する力」ということ。もうひとつは「引き上げようとする力をどこへ持っていくのか」ということ。

 週が明けて、月火水と引き上げる方向を探ってみた。月曜は上へ引き上げる。火曜は引き上げる力を借りながらも腰を真っ直ぐ後へ引いてみた。そして水曜には、前足を引き上げる力で腰を後ろ下方向へと引いてみた。後ろの椅子に座り込むように。この繋がり、この感覚がわかると軸足が沈み込みながら体が前に運ばれていくような這いが出来るようになった。そして初めて腰かけ替えるように這いができた。

リキまないで力のある状態

 この週(6月11日の週)は、同時にもうひとつのことにも取り組んでいた。「内在する力」ということについてだ。以前から立禅の重さは置物の重さではダメだ、と言われていた。また脱力して緩むことが大事、と言ってみても、当然緩んでいるだけではいけない訳で、そのなんたるかを見つけ出す必要があった。

 自分の言葉でいうと「リキまないで力のある状態」「緩んでいて力のある状態」「緩んでいて力の出せる状態」この感覚を磨いていくと「身体が緩んでいて気持ちが張っている状態」に近づいてきた。これはまた「変化に対して“うろたえない”状態」でもある。

叱咤叱責

 叱咤激励というコトバは良く聞く。叱りつけ励ます。学園もののドラマなんかではおなじみのシーンだ。叱咤叱責、こちらの方はあまりイメージが良くない。叱りつけ責める、詰め寄る。そんなイメージがある。6月16日の土曜日、その日の稽古は、叱咤叱責から始まった。もちろんトミリュウに対しての叱咤叱責である。

 今のお前の気持ちではな、体が2mで100キロになったってダメ。急に運動神経がよくなったとしてもダメ。それじゃ組手にならないよ。いつまで経っても組手が出来るようにはならない。何を変えなきゃいけないのか、よ~く考えろ! そのままじゃダメだ。

 這いをやりながら、しかし今日の自分は違う。軸足を縮めながら前へ出られるようになっている。練りをやりながら、ほらこの動きの良さを見てごらん、きっと組手でも…。そう心の中で反論していた。しかし、勘違いはトミリュウの方で、正しかったのは天野先生の方。組手は全くいいとこなし。何かが根本的に間違っている。何かが決定的に欠落している。

 ほんわかとハラの中にかすかな感触が。前々回の5月19日土曜日には、組手が少し良く出来た。しかし前回と今回は全く以っていいとこ無し。その違いは何か。ハラ。ハラで相手を見るという感覚。それを忘れていた。太気拳の組手構えは、両手を前に出して腹を引く形をとる。しかしここで腹部が凹んでいると腰が引けているのと同じ状態になってしまう。だから、両手を前に出して腹は引くのだが、下腹部は出っ張らせておくことが必要になる。たぶんこれで行けるはず。

出っ腹を相手に向けろ!

 翌週の月曜からは、腹を出す練習をした。立禅でも、這いでも、練りでも、とにかく腹を出す。しかし腹といっても、腹全体ではなく下腹部のみ。ズボンのベルトを内側から押し広げるように腹圧を高めていく。そして出っ張らせた下腹部で相手の中心を捕らえておくようにする。顔は背けても、下腹部は相手の中心に向かっているような身体を作っていく。探手では、ハラで相手に狙いをつけている感じで動いてみる。不思議なことにこれをやると、今までよりも眼が良く見えるようになってきた。

盲目の雄鶏

 眼が良く見えるようになってきたという感覚は、組手をしてみると、さらに明確になっていた。今までは、相手のどこを打てば良いのかも分からなかったのが、その日は、相手のヘッドギヤの継ぎ目まで良く見えていた。何のことはない、自分の場合、腰が引けて腹が引けることで、全くの盲目となり、組手をやっていたのだ。まさに今までは開きメクラの組手、ボコボコにされて当然だったのだ。

 6月23日の土曜日、いつも一方的に攻め込まれているT長さんとの組手で、何気なく出した左手が相手の顔面を捕らえていた。左ストレートが当たった瞬間だ。相手もキョトンとしていたが、ビックリしたのはこちらも同じ。いや相手以上に自分の方が、一瞬、エエッ!っと驚いていた。腹の状態ひとつで、姿勢だけで、こんなに眼の見え方、体の動き方が違うなんて! 驚愕の一瞬だった。

 そのあとの組手の展開は、あまりの“出来の良さ”にうろたえてしまい、自分で自分を見失ってしまった。右膝の内側、ちょうど骨と骨の継ぎ目の部分に、強烈なローを的確にヒットされダウン。しばらく立てなくなってしまった。しかし、この日は大きな収穫があった。そして次に何をすべきかも、もう分かっている。たぶん、それで行けるはず。

ノドを見るの?

 6月16日の組手稽古の際に、目付けについてのアドバイスがあった。天野先生は「これは自分のやり方だから、皆に当てはまるかどうかは判らないけど…」と前置きされてから、それを説明してくれた。相手のノドのあたりを見るように、そこを凝視するのではなく、そこを中心として全体を見るように、とのこと。しかしこの後、自分の組手の番が回ってくると、そのやり方は自分には合わないことがわかった。やはり自分にあったオリジナルのやり方を探さねば。

 それで前述の腹で見るやり方。そして目線は相手の軸を意識しつつも遠くを見るようにしてみた。しかし、6月23日の組手で得られた結果は、腹を出して相手を捉え、腹で見る感覚は正解であり、遠くに目線を置くやり方は間違いだった。

相手の軸を挟む

 相手の軸を意識しているだけではダメだ。ハラで相手の中心を捉えているのだから、頭で相手の軸を上から抑えるようにして、挟んでみてはどうか。そんな感覚で立禅を組み、這いをして、練りをやる。ついでに両手は相手の脇を下から上へ斜めからすくい上げるような方向性をもたせてみた。7月7日の推手の稽古では、これがなかなか良い効果を発揮。イケテル感じになってきた。

 しかし7月21日の組手の稽古では、これが裏目にでた。相手の軸を挟もうとするあまり、前に出るときに頭が下がってしまうのだ。このことを天野先生から何度も注意された。結果、自分の両腕が相手の両脇を差す感覚は正解であり、自分の頭で相手の軸を挟むやり方は間違いだった。

自分の軸を抑える

 相手の軸を挟んでいるやり方ではダメだ。では、自分の軸を自分の頭で抑えるようにしてみてはどうか。そんな感覚で立禅を組み、這いをして、練りをやる。ついでにハラの感覚も相手に向けることを残しつつ、自分であり続けるように意識してみた。7月28日の組手の稽古では、これがなかなか良い効果を発揮。イケテル感じになってきた。

 しかしこの日は、天野先生から自分の推手に対してのダメだしがあった。腕が上がって脇が空いてしまうのだ。ヒジを下に引き落とす力が足りないのだという。結果、自分の軸を自分の頭で抑える感覚は正解であり、自分の両腕が相手の両脇を差す感覚は間違いだった。朝令暮改というやつだ。

 翌週の月曜日からヒジを引き落とす力を模索する。不思議なことに二の腕を肩にハメル方向に力を入れることで、これが実現できた。そしてこの感覚から自分の骨の芯にビンッと張った力があるようになってきた。

力を入れるべきか抜くべきか、それが問題だ

 初めの頃は、とにかく力を抜くように立禅や這いなどの稽古に取り組んでいた。それで、打拳を打つ時にだけ力を入れるのだと思っていた。しかし今回、骨の芯に力を入れるやり方がわかると、力は常にずっと入れたままで、打つ時にだけ抜くのではないか、という考えに変った。

 しかしこの考えは2日で覆される。打つ時に力を抜いてしまうと、その後の集中力が途切れてしまうのだ。だから常に力を入れておいて、打つときにも力を入れておいて、打ったあとも力を入れておく。ただその力の入れ具合を20%から80%の間で波打たせるようにしてみる。

夏合宿

 今年の夏合宿は伊豆の修善寺で行なわれた。トミリュウは今年も土曜日(8/4)のみの日帰り参加。それでも午前2時間、午後3時間の汗だくの5時間稽古だ。天野先生から、いつもはあまり聞くことのない足裏の荷重の位置などの細かい点の説明を受ける。また組み手の際の相手の間合いへの入り方などの指導もあった。

 この日の組手は、昨年の夏合宿ほどに悲惨ではなかったが、それでも課題が残った。細かい部分部分では先生の説明が理解でき、体もそれなりに動くようにはなってきている。しかし、それがほとんど組手に反映されていない。これが、ここ最近の最大の問題点。だが、その原因がやっと明確になりつつある。一つ目は、まだ姿勢に修正すべき部分が残っているということ。いつも緩んでいられるような状態、位置、角度に、もう、ちょっとちょっとの工夫の余地がありそうだ。二つ目は、気持ちが飲み込まれてしまうことで、身体にコワバリを誘発させているのではないかということ。姿勢と気持ち、これがこれからの一番の課題である。