カテゴリー
会員・会友員のテクスト 富川リュウの太気拳修行記

平成20年・初夏の章

日曜セミナー

4月27日の日曜日、久しぶりにセミナーに参加した。このセミナーは天野先生が毎月一回主催しているもので、会員は無料、会友員は一回につき5千円で参加できる。時間は午前10時半から午後5時まで。途中昼休みが1時間半入るが、それで約5時間の充実したセミナーだ。

今回の内容は、ハラの捩じれる感覚を重視。この感覚が一番分かりやすい様にと、座った姿勢からセミナーが始められた。説明が這いに移ると、今度は腰をすべらせるように、とのこと。最近、這いに自信を持っていた富リュウだが、先生に指摘され、それは違うと。それでも勘所をすばやく捉え、先生の云わんとしている処を体現する。もう出来ました。先生は、不服そうにしながら(今日のところは)まあそんなもんか、といった表情をつくる。

セミナー中の昼休みのランチタイムに、大先輩のA野さんからアドバイスをいただく。とにかく力を抜いて禅を組めと。富リュウに書いてあるような部分的な繋がりに一喜一憂することは勘違いだと。何も感じないでいるように力を抜き去って立ち続けてこそ、得るべきものが出てくると。

セミナーの後、K村さんから4月上旬に行なわれた花見の時のビデオをいただく。薄価500円也。これが今回最大のトピックス! 大きな変化をもたらす起爆剤となった。

花見ビデオ

いつもは大抵、早い時間に呼ばれ、組手をするので、けっこう気楽に他の人の組手も見ていられるし、再度の呼び出しにも(体も気持ちもほぐれているので)リラックスしていられた。しかし今回は違った。待てど暮らせど、自分の番が回ってこない。最終的に、ほとんどシンガリで呼ばれた。それまでかなり緊張して待っていたようで、他の人の組手を見ていたにもかかわらず、ほとんど記憶に残っていない。ダビングしていただいたビデオを見始めて、まずそう思った。

去年の夏合宿のときのビデオを見たときには、他の人の欠点はすぐに判り、自分の欠点は全く判らなかった。そしてそれが見えてきたのはかなり経ってから、約半年間の猶予を経てからのことだった。今回は全く逆。はじめに長々と他の人の組手を見ていたが、どの人もこの人も良い点ばかりが目に入る。そしてやっと自分にお鉢が回ってきた。おぉ、思っていたよりなかなかいいじゃん。というのが初めの印象。で、すぐに欠点がわかった。これだけ直せば、かなりいいじゃん。て言うくらいにあからさまな欠点。それは頭が下がっていること。特に自分の方から仕掛けて行くときに、前へ出て行くときに頭が下がっている。見事に下がっている。ほとんど90度に下がっている。

原因は色々あると推測した。過重を前に移動させるときに前ノメリに頭を下げないと前に出て行かれないから、ただ単に怖いから、等々…。そして、その対策案としては、傾向の逆倒しを行なう。のけぞって入る、腰を滑らせて入る、等々…。しかし工夫をこらした推察と対策案は、次の日の立禅で、立ち始めて3分で覆った。

頭をハラの上にのせる

なんだ、立禅の姿勢ですでに、頭が前すぎるじゃないか。組手で頭が下がってしまうことの原因は、こんな単純なことだった…。

その後の一週間でだんだんと新しい頭の位置を身体に馴染ませていった。今までよりはかなり後の位置。少しずつ調整していくと、頭がハラのうえに乗っかるように感じる位置があった。これには前述のA野さんのアドバイスがとても役に立った。頭や首をどうにかしようとするのではなく、ただ乗っかっていて力が入らない、リキミの無い位置を模索することで、その位置を得られたからだ。さらに頭がハラに乗っかったことで、腰を滑らせる這いが自然にスムースに行なえるようになっていた。今までは軸足を緩め、腰を滑らせようとしても首の部分でロックが掛かり、全体が前に移動して行けなかったようである。

重さは下? 意識は上?

どの本だったか忘れたが、太氣拳の本だったか、何か武術の本だったのか?しかし一般的によく言われていることである。それが、そこには絵入りで載っていた。武術の構え・太氣拳の立禅などは、意識と重さを腹・腰に据え、地に張り付くように立つ。そしてバレエ・ダンスなどの場合には、意識と重さを頭頂から天に向ける。そんな説明がされていて、なるほどと納得できていた。しかしここへ来て、それを覆す事態が我が身に引き起こされていて、ただいま混乱の真っ最中である。

ムネを持ち上げろ!

5月の3日と4日にタンゴウィークのワークショップに参加した。今回は、アルゼンチンからとても有名な先生が来ていらしたので、拳法の稽古をさぼって参加してしまった。そのワークショップ、それぞれのコマにメニューはあるものの、その先生の指導は、ほとんど姿勢と歩きだけであった。特にヒザは曲げないようにと、しつこく繰り返して言っていた。(ちなみにヒザを曲げるようにと、指導するアルゼンチンの先生もいる) その先生、つかつかとトミーの所へ歩み寄り、あばらを両手でムンズと掴み、グイッと引き上げると、KEEP ITといってその場を立ち去った。

今までもタンゴの指導で、そういった教え方をされることもあったが、腰腹重視の武術家志向のトミーとしては、それはちょっと違うんじゃないか?と思っていた。しかし今回、自分が頭を後へ移動させたことで、その姿勢が、ムネを膨らませて持ち上げている姿勢が、ピタッときた。その方が楽だし、そのまま動いても疲れない。これってもしかしたら、太氣拳の組手にも使えるかも…。淡い期待が、ほのかにトミーの胸を膨らませた。

吸いながら打つ

次の日から、吸いながら打ってみた。そして息を吸いながら前に進み出てみた。今までとは違う感覚だ。しばらくするとそれほどムネを膨らませ、息を吸い込まなくても、同じような感覚と姿勢を維持したままで動けるようなっていた。

特記事項なし

ここしばらく、毎日の朝練のメモ書きが短い。特に記録すべき内容が無いからだ。頭の位置を直してからは、○○が伸びた。ただそれだけが記されている。

5月13日、脇腹が伸びた。
5月14日、アキレスが伸びた。
5月16日、脇腹がまた少し伸びた。
5月20日、足の指が広がった。
5月23日、首が伸びた。
そして次の日の特記事項は尾底骨。半禅で、尾底骨に杭が打ち込まれたような感覚ができ、ピタッーときた。そして出っ腹出っ尻体形が解消されていた。

身体を透明化し、思いをゼロ化する

特記事項のない間、身体が透明化するようなイメージで立禅や這いに取り組んでいた。そしてある時、思うこと、考えることについても組手の際には何も無い方が良いのではないかとの仮定を立て、その様に立禅や這いを行なっていた。

モグラの眼で見る

ロシア人の量子学者ヴァジム・ゼランド氏の著書「リアリティ・トランサーフィン」という本を読んだ。この中に「モグラの眼で見る」という話が出てくる。これはどういうことかと云うと――。

生まれながらに目の見えない人は「見える」という体験をしたことがないので、本当の意味での「見える」という感覚を理解できない。たぶん他人には「見える」という感覚があって、自分には「見える」という感覚がないのだろう…という理解に留まり、体験を伴った理解には及ばない。

モグラさんは、人生のほとんどを地中で過ごしている。モグラさんにとっての世界は、嗅覚と聴覚と触覚で認識できることが全てだ。モグラさんに、太陽とはどういうものか、森とはどういうものか、バラは赤く、ヒマワリは黄色、ということを(仮に言葉を理解できるとしても)どんなに説明しても理解不能であろう。

太気拳法を続けていると時々、自分の中から未知のものが出てくる感覚がある。今まで経験したことのないものが出てきたとき、初めて「体の使い方とはこういうもんだ」という思い込みに囚われていた自分に気づかされる。

天野先生の組手を見ていると、あるいは相手をしていただくと「先生は超能力者ではないか」といつも思ってしまう。先生はそれを否定されるが、明らかに我々とは見えている世界が違うようだ。あるいは感じている世界といってもいいかもしれない。それはシックスセンスのゾーンに属している感覚なのかもしれない。ただ相手を見るというよりは、何かを感じ取るセンス。その未知のゾーンに足を踏み入れていく。これがつまり「モグラの眼で見る」ということだ。

組手の手応え

6月28日、久しぶりに組手をした。前述の「身体を透明化し、思いをゼロ化する」と「モグラの眼で見る」の感覚を試してみたが、あまり成果は無かった。その時の結果を踏まえ、自分なりに工夫を凝らし臨んだ7月6日、少しは組手が良くなっていた。しかし、またまた次の課題が噴出…。結局、これの繰り返しなんだな、と思った。でも今は、自分の組手に確かな手応えを感じている。回を重ねるごとに、新たな問題は出てくるものの、確実に内容が良くなって来ている。毎回、何某かの進歩を感じられている。一足飛びにスーパーマンになれることはないだろうが、日々の積み重ねが、自分を「ただの普通人」から「ちょっと上質な普通人」へと向かわせてくれていることは確かなようだ。