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会員・会友員のテクスト 富川リュウの太気拳修行記

平成20年・春の章

ロケットパンチ

3月13日水曜日、昨年の夏合宿のときのビデオをまた見ていた。そして天野先生の手の使い方、その動きから、もうひとつ新しい発見があった。天野先生の腕の使い方、それは手のひらを相手に向けてはいるが、手先には意識が集中していない。前腕の内側、ヒジの近く、その辺に意識が集まっているようだ。その部分で相手を捕らえ、その部分で相手を抑え、その部分で打拳を打っているように見える。

翌朝の立禅ではまず、前腕内側の接触中心(平成13年・夏の章参照)の感覚を再確認することから始めた。その部分に繊毛が生えていて、風のそよぎさえも、そこの感覚で捕らえられるように…。そして次に探手で打拳を放ってみた。腕内中心(前腕内側の接触中心の略)がスイッチで、このスイッチが押されると前腕の骨がその方向に沿って飛び出していくような要領で…。これはまるで、昔見た漫画、マジンガーZのロケットパンチのような感覚だ。

感覚が意識に吸い込まれる時

3月16日の日曜日、岸根での稽古の際に、注意を受けた。組手で相手に入っていくときに、両手を拡げながら前に出るクセがあるそうだ。だから両手を狭くしておきなさいとのこと。

翌朝の立禅ではまず、前腕内側の接触中心(平成13年・夏の章参照)を狭くすることから始めた。左右の腕内中心(前腕内側の接触中心の略)を底辺とし、相手のノドを頂点とする綺麗な二等辺三角形が出来上がる。立禅からゆっくりと揺りに移る。二つの腕で囲った領域が横長にはならないように。前後に細長い楕円になるように揺りをしてみる。次に這い。這いでは、左右の腕内中心が前後には動くが、左右には全くぶれないようにしてみる。そして最後に探手で打拳を放ってみる。相手のノドを意識しておいて、ふたつの腕内中心には感覚がある。この二等辺三角形で、感覚が意識に吸い込まれていくように打つのだ。

感覚だけの世界

二等辺三角形を保つ這いの際には、頭の位置が両手の中と外とを行き来する。その際、目線は軽く相手の周りを泳がせるような流し目で、意識だけを相手のノドに集中させておく。つまりここでは、目線の中心と意識の中心とを分離させておくことが必要になる。

何日か、目線の中心と意識の中心を分離させるように禅を組んでみてわかったことがある。それは、目線の中心と意識の中心を分離させることは無理だ、ということだ。ならばどうする? 

二等辺三角形を保つ這いの際には、目線は軽く相手の周りを泳がせるような流し目で、全体をボワンと見て、相手のノドだけを感覚で捕らえておく。つまりここでは、何かと何かを分離させるということは必要無く、単に視界の中の「あぁ、この辺に相手のノドがあるなぁ」くらいの感覚でいれば良い。相手のノドを感覚としてとらえ、ふたつの腕内中心にも感覚がある。この二等辺三角形で、感覚が感覚に吸い込まれていくように打つ? 否、感覚だけの世界では、もはや時間も距離も存在しない。ただ「ここ」に在るだけ。ただ「そこ」に在るだけ。そして同時に「ここ」は「そこ」に在る。

気分は良いか

3月22日土曜日、桜のつぼみはずいぶんと膨らみ始めていたが、ひどく寒い日で、風が強く、花粉症泣かせの日和だった。そのせいかどうか、その日の稽古には3人しか参加者が集まらず、先生を入れて4人。しかも、うち一名はアバラを痛めていて、推手も組手も出来ないという。そういう訳でこの日は、組手は無く推手のみであった。

久しぶりに天野先生と推手をした。やっと直ったと思っていた右肩の位置に文句を言われ、胸全体が開けっぴろげになるたびにゲキを飛ばされた。まだまだ何かが足りないようだ。ここの所、成長著しい組手も出来ず残念な気持ちと、せっかくの推手にも駄目出しばかりだったので、あまり気分の良くない稽古日だった。

染み込ませるもの

翌々日の月曜日、朝の立禅ではまず、右肩の位置を調整することからはじめた。しかしそれはすぐに、二本の腕の内側全体を見廻すこと替わり、やがて喉や胸の在り様を見直すことへと変遷した。その結果、先週までの姿勢に比べてこのようになった。①胸を張らない ②アゴがやや前に出て、頭部全体もやや前に ③腕内中心で相手を抑えるのではなく自分の空間を包む。包んでそれにのっかる。

立禅の効能と効果には、「良い姿勢、良い状態を探り、見つけ出す」という一面と「その良い状態を染み込ませ、定着させる」という一面がある。今回の一件で、自分はあまり良くない姿勢、あまり良くない状態を染み込ませていたということが判明した。だからそれが推手の時にも出るし、組手の時にも出る。胸を開けっぴろげてしまう悪い癖だ。

自分の空間を包む

自分の空間を包む感覚ができてくると、立禅の両腕に包容力がついてくる。それまでの力の方向は、外へ向かっていくだけだったが、包容力がつくことで外にあるものを取り込む、取り込んで引き付けてから次のアクションに移る、という動きが自然にできるようになった。これを相手の腕に対して行なう。相手の腕をたぐり寄せるようにとは、天野先生の説明だが、まさにそれが、やっとできるようになった。

量子の飛び交う空間

良い状態で禅を組んでいると両腕の中に何かが飛び交っているような錯覚に陥る。それは、漁師なのか猟師なのか量子なのか。仮にそれが量子だとして、その量子が飛び交っている状態を保って居たいと思う。こうなると二つの腕内中心と相手を結ぶ二等辺三角形は、もはや意味を持たなくなる。自分の空間に量子を保ち、相手の量子の薄い部分、相手の空間の裂け目を見つけて打てばよいだけのことだ。そんな空想に耽る。

今年の花見

4年前、平成16年の春の花見で、はじめて佐藤聖二先生率いる拳学研究会と交流会をもった。そして次の年、平成17年の春には、拳学研究会に加え島田先生の気功会と鹿志村先生の中道会が参加、史上初の四団体の交流が実現した。それが今年で4回目になるという。

個性溢れる4人の先生たち。それを継承するお弟子さん達の組み手を見ていると、それぞれの流派なりの組手スタイルがある。それを見ていてふと気付いたことがあった。太気拳の稽古をするということは、三つの巴をまとめていく事なのではないかと。ベースには太気拳の理念、稽古体系があって、教えてくれる先生、見本としての先生がいる。そのベースに則って、初めは先生の物真似から入る。しかし、だんだんと自分にちょうど良い位置、ちょうどよい姿勢、動き易いやり方を見つけていって、それを自分だけのオリジナルにたどり着くまでやり続ける。

この部分はどんなに名人にも教えられないし、どんなに教えかたが上手い人でも教えられない。なぜならそれが個人に起因するものだから。そして誰からも教えてもらえないのであれば、自分で見つけるしかない。だからそれをやり続けて見つけた先人が、佐藤先生であり、島田先生であり、鹿志村先生であり、天野先生なのだ。誰しも結果だけを見て、あの先生は天才肌だからとか、組手センスが抜群だからと言うが、膨大な稽古量をこなすことと、その稽古の内容を吟味する厳しい目がなければ、大成はしなかったはずだ。

自分は、この花見交流会に3年ぶりに参加した。久しぶりにお会いした鹿志村先生や佐藤先生から、たくさんの素晴らしいアドバイスをいただけたが、今回一番自分が感じたことは、「自分の体からの声にもっと耳を傾けよう。そして自分の体がどうなりたいのかをもっと感じてあげよう」ということであった。