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会員・会友員のテクスト 富川リュウの太気拳修行記

平成20年・新春

勘違いの組手

 平成20年は波乱の幕開けだった。年初から「おまえは組手に対して何か勘違いをしている。大きな勘違いだ」と指摘され、1月の3週目の稽古で眼に怪我を負い翌週の稽古を休み、2月の一週目の稽古でアバラを痛め翌週の稽古を休む。組手の内容に工夫を凝らす以前に気持ちの方が落ち込んで、このままでいいのか、何が間違いなんだ、と自問自答し続ける苦悩の日々が続いた。

 眼に怪我をした時は、三日三晩寝続けていたので考える時間はあり余るほどあった。初め、この状況では辞めるのか辞めないのかは50/50だな、と思っていた。そして時間が経つにつれ次第に、もう辞めた方が良いのだろうという気になっていた。しばらくはスーパーセーフを着けて稽古をし、2~3ヶ月で芽が出ないようなら見切りを着けようと、そう考えをまとめていた。それが、目が開いて周りのものが普通に見えるようになるにつれ、このままじゃ終われないよ~、今の自分から組手を取ったら何が残るんだぁ!という強い思いがふつふつと湧き上がってきた。考えれば考えるほど今の自分にはそれが、組手に挑戦しつづけることが、重要な使命であり、必然の宿命である――そう思えてならなかった。

組手構えの矛盾・その1

 天野先生の指導する太気拳の組手の構えには矛盾がある。両手のひらを相手向け自分の顔の前に置き、手のひらと前腕に張りがあること。この手で防御し、打拳を放つ。しかし手のひらを内側にして腕で丸く囲っている半禅の形から、手のひらを相手の方に向けるだけで、前腕のみならず肩のあたりまで「張り」を通り越して「リキミ」が出てきてしまう。しかし師は言う。出来ないことを出来るようにするのが稽古であって、出来ることを何度繰り返していても意味がないと。

 いつもいつも組手で注意される点がある。頭から突っ込んで行っている。両手が開けっぴろげで胸元全開で突っ込んで行っている。俺が注意していることを何一つやろうとしていないじゃないか、と。しかし、やろうとしていないのではなく、出来ないのである。師は言う。出来ないには、出来ないなりの理由がある。それを探しなさいと。

 怪我や絶望や悔しさを乗り越えて、真剣にその理由を探してみると、なるほど太気拳には道理がある。半禅→這い→組手。これで全てが完結しているようだ。組手ができないのは構えができていないから、構えができていないということは、間違った半禅をしているから。単純に言ってしまうと「組手構え=半禅」なのである。意拳では半禅のことを「矛盾椿」という。つまりこれは、矛盾していることを実現させるという、とてつもなく尊大な計画なのである。

未開の大地

 数年前にアバラを痛めた時には、始めのうちの自覚症状は、鈍い疼きのような感覚で、それほど強い痛みではなかった。そして数日後、手近にあった大きなダンボールをサンドバッグ代わりにして、ボンっボンっといい気になって叩いていて、何度目かの左フックを打った瞬間にピキッとアバラが音をたてて折れた――。しかし整形外科での実際の診断は軟骨骨折。しかも折れたというよりはヒビが入ったという程度のものであった。たぶん、初めはただの打撲で小さな亀裂があるかないかの程度だったものが、ダンボールを強く打ったことによる衝撃で、ヒビというレベルになったということらしい。

 そして今回も全く一緒だった。初めの痛みは、鈍く疼いている程度。そして数日後のある晩、天野先生の古い秘伝の記事を読み返し、打拳についての講釈に従って空打ちを数回。それでピキっといった。

 翌朝の自主練の稽古で、多くのことを会得した。はじめは打たれているときの状況。アバラが卵の殻のように固くなっているので衝撃に耐えられずダメージを受けるという推測から、ゆで卵の白身の表面のように柔らかくしておけばよいのではないかという発想がでた。そして次に昨晩のあの事件から、ダンボールではなく空打ちをしただけでピキッとなるということは、それは正しい打ち方だと。そして打たれる場合と打つ場合の両方にアバラの柔らかい状態は重要で、打つときにはアバラを引き伸ばすようにして打つ。

 この推測に基づいて立禅や這いの稽古を見直していく。今まではアバラの領域を全く動かしていなかったことに青ざめる。そして自分の体のなかにこれほど大きな未開の大地があったとは、という驚愕の思い。肺を包んでいる大きなアバラ骨達、この領域を全て使い切ることが出来るなら、体の自由度は今までとは見違えるほどに洗練されるに違いない。

弓を引いている状態

 前述のピキッとなった次の日、アバラを緩めることのほかに、あと2つ良いことを見つけた。天野先生からは半禅、すなわち組手の構えの体勢とは、下半身がキュッと締まっていて上体は緩んでいる状態。弓を引ききっていて、それを放てば、いつでも打拳を飛ばせるような体勢、という説明を受けていた。

 初めの頃その下半身の締まっているという感じが、大腿部から下腹部にかけた辺りがキュッと締まっているのだと思い込んでいたが、そのやり方では良い結果が得られていなかった。その日は何故か足の指で地面を掴むという話を思い出し、足の小指を意識してみた。それまで足裏では、前荷重やカカト荷重など、内側のみを意識していたので、これに小指が加わることで足裏全体が吸盤のように地面に吸い付くようになった。そしてそれが出来てしまうと不思議と、ヒザ周りや大腿部など、足全体のリキミが取れていて、下腹部は、それまでよりゆったりと構えていられるようになった。

照準を合わせる

 アバラの領域を柔らかく使うことと、足の小指を意識したことで、組手構えでの全体のバランスが整ったようだ。両手のひらを相手に向け、自分の顔の前に置くように構えると、手や前腕に程よい張りは残したまま、腕や肩にはリキミがなくなっている。

 探手をしながら、いつも天野先生に注意されている点をひとつひとつチェックしていく。そのままの位置から打てるか、打ったらすぐに戻しているか、戻した時にちゃんと顔の前に手があるか。ここで、手の位置に自分なりの解釈が出てきた。漠然と顔の前というよりも、目の前に置くようにした方がいい感じだ。右目の下に右手を、左目の下に左手を置くように意識してみる。そして手の指の間から相手の目標点としての顔と邪魔者としての手を覗き見ておく。ここで天野先生がよく打拳の打ち方をライフル銃で相手に狙いをつけるような説明をされていたことを思い出し、ライフルでの照準の合わせ方をちょっとネットで調べてみた。「照門の中心に照星の先端をおく。標的の中心に照星の先端をおく。目の焦点は照星に。標的はぼやける」とある。子供のころ、安物のおもちゃのピストルで遊んでいたことを思い出す。照星や照門を一生懸命標的に合わせて、銀の玉でマッチ箱に狙いをつけていたことを。

犬掻きとクロール

 組手をやっていると、人の欠点はよくわかるものだが、自分の欠点はさっぱり見えない。それは、撮影されたビデオを見ても同じだ。あの人は打ちに出るときに腰が伸びているとか、この人は前に出るときに頭がさがっているとか。しかし自分の姿は「ん、なかなかよく頑張っているなぁ」くらいにしか見えない。

 久しぶりに去年の夏合宿のときのビデオを見てみた。はじめは天野先生の組手に着目してみようと思っていたのだが、どうも自分の組手が気になってしかたがない。そこには白いヘッドギヤを着けて、両手をグルグルと意味もなく振り回す犬掻きをしているような自分がいた。胸周りのアバラが硬いため体の中に甲冑を着込んでいるかのような動きになっている。だから正面がガラ空きである。体の使い方が変わったことで、はじめて過去の自分の欠点が見えてきた。ちゃんと両手と一緒に肩や胸や胴も動かすようにして、クロールをするような組手をやろう。そう思った。

組手構えの矛盾・その2

 一、アバラの領域を柔らかく使う。

 二、足の指で掴むことで、弓を引いている状態に下半身を保つ

 三、手は目の前に置き、相手に照準を合わせるように

 2月6日の朝練でこの3つのことに気がついた。そして矛盾椿が自分の体になじんできている。2月の17日と23日、組手に進化がみえ始めている。天野先生の言っていることが、少しずつではあるが着実にできるようになってきている。一歩一歩、階段を上がって行くように上達を感じられるのが嬉しい。