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会員・会友員のテクスト 富川リュウの太気拳修行記

平成17年・春うらら(その2)

組手のできる身体になった

 お花見交流会の前、体の調子は上々であった。4週間ほど前から組手稽古も何度かしていたし、いい感じの仕上がり具合である。こう書くと当日は、並み居る敵をバッタバッタとなぎ倒し、アレヨアレヨという間に決勝進出!と思われがちだが、太氣拳の組手はそういうものではない。自分に出来ること、出来ないことをじっくりと確かめるために相手と向き合い、相手の胸を借りて、今後の課題を見つけ、次につなげる組手をする。

 前述のいい感じの仕上がり具合――その内状は、自分の体がやっと組手稽古のできる状態になったことを実感できていたということ。これは何も、相手のどんな攻撃に耐えられる超合金ボディが手に入ったわけではなく、太氣らしい、練れた重い身体――それが手に入ったのだ。組手をした後には、必ず何か新しい発見を得られる。そういう状態になっていた。正直なところ、お花見交流会の前、自分の組手のスキルはまだまだお粗末なものだという自覚は充分過ぎる程にあった。だが、一番の思いは「ああこれが始まりなんだな。今やっと組手稽古が始められそうだ」ということだった。

 この思いを裏付けてくれる出来事があった。交流会の日、鹿志村先生から「君は体が重いねぇ、かなり稽古しているね。すぐに上手くなるよ」とお褒めの言葉をいただいたのだ。とっても嬉しかった。と同時に「鹿志村先生、私だって、ここまでくるのに5年も掛かったんです・・・」という思いを飲み込んだ。鹿志村先生、天野先生が太氣拳を始められてから、実に20年が経っている。暗中模索の中の20年。それに比べれば、なんと恵まれた環境の5年間だったことだろう。天野先生には、本当に感謝、感謝である。

 交流会が終わると気持ちも一段落つき、稽古も一休み、と思いがちである。もちろん嫌な組手もしばらくやらなくて済むし。と思っていたのは去年までの私である。今年からの私は違います。気力充実させてガンガン対人稽古をやります。もちろん組手稽古も毎週やりますよ!

集中と拡散

 毎朝の立禅を始めて、もう4年になる。色々な変化と進化があったが、その内の一つは、集中力がついたこと。集中するというと何か眉間にしわを寄せて、しかめっ面をするようなイメージがあるが、それとは全然ちがう、集中と拡散が同時にあるような感覚である。組手で相手と向き合う。相手の中心に集中しながらも風のそよぎを感じている。無邪気に遊んでいる子供の声、犬達の吠え声までもが聞こえている。意識が集中と拡散の状態の中で、身体も収縮と膨張を繰り返す。――はずであったが、相手と手が触れた瞬間、体が固まり、周りの音も聞こえなくなる。天野先生からは、とにかく緩むこと、全てのリキミを完全に外して、脱力しきっていられるようにとアドバイスをもらう。そして鹿志村先生からは、「君はアゴが出るねぇ。打ちに行くときにアゴがでるから打拳に体重がのらないし、第一それじゃあ、貰ったときに効いちゃうよ」と助言をいただいた。

胸を張るとアゴが引ける?

 アゴを引くというと誰しもが、ボクサーのあのクラウチング・スタイルを思いだすだろう。私も何かそのような形をイメージしていたのかもしれない。しかし得られた状態は全く違っていた。鹿志村先生から助言をいただいた翌日、月曜日、立禅の中でそれを探ってみた。答えが無い。這いの中でも練りの中でも探ってみた。やはり答えがない。あきらめずに、探手の中でもそれを探ってみた。アゴを自然に引ける状態をさぐりながら、打って、サバいて、力を抜いて体に任せるように動いてみる――。すっとアゴが引けたそのとき、意外にも胸を張った姿勢であった。この状態が一番自然にアゴを引いていられたのだ。アゴの位置が変わるということは、首の状態が変わるということだ。火曜日、その首の位置を馴染ませるような感覚で、立禅、這い、練りを行った。水曜日、同じようにそれを繰り返しているうちに、今度は尻の股関節あたりに違和感が・・・。木曜日、初めは違和感だった尻の股関節が充実感に変ってきた。新しい良い位置に股関節がハマりそうなのだ。そして金曜日、股関節が完全にハマッタのだ。

 んんっとこれは、どこかで聞いたようなフレーズだ。思い起こせば2年前、H15年・初夏の章を振り返ってみると、そこには関節のハマッタ記念日が記されている。腰がハマッタ記念日、4月18日。首がハマッタ記念日、5月9日。股関節がハマッタ記念日、5月28日と。そしてそれに追記せねばなるまい、股関節がもう一度ハマッタ記念日をH17年4月8日と。

リストラされる骨達

 リストラというと「首切り」「人減らし」などのイメージがつきまとうが、本来の意味は、英語のリ・ストラクチャリング。「再構築・再構成」などという意味だ。

 今回、アゴを引くために胸を張って姿勢を変えた。そしてこの新しい首の位置とのバランスを取るために、尻の股関節のあたり所が、ちょいとズレたに違いない。つまり首の骨達がより良い位置に並び替えられ、それに伴って、尻の股関節の位置が微妙にズレ、より良い位置にハマッタのだ。これぞまさしく骨達のリ・ストラクチャリング。再構成である。

動体視力の向上

 さて、骨達がリストラされると何か良いことがあるのだろうか。アゴが引けて首が伸び、姿勢がよくなると、実に身長が5cmから10cmほど伸びたように感じられたのだ。まあ、これはあくまでも感覚的なものなので、実際には3mmかもしれないし、0.3mmかもしれない、あるいは全々伸びてはいないのかもしれない。それともう一つは、視界が開けたこと。これはちょっと表現しにくいのだが、なんとなく今までよりも眺めが良いのだ。そして動体視力の向上。いつもの公園で朝練している時に、またしてもカラスが頭上をかすめる。思わず低く姿勢を取り、カラスの横顔を見て取ると、その眼つき顔つきまでもが良く見えたのだ。

 そういえば天野先生は視力が低い。その低い視力でありながら、相手の動きはよく見えている。実は動体視力というのは、通常の視力とは異質のものなのではないだろうか。まあこの辺は、実際の組手において相手の動きや打拳が見えるようになったときに報告したいと思う。だってカラスの横顔が見えるって自慢げに言ったって、屁のツッパリにもなりませんから。

グレーゾーンを極める

 差し手からの引っ掛け、これは以前に天野先生から習ったことがある。でもしかし、今回、鹿志村先生から直々に手をとりながら教えていただいた時には、新しい着目点が見つかった。この動きを簡単に説明すると、上にある腕がグーを握って前に出て行き、同時に下にある腕がパーで手元に引かれてくる。これを交互に繰り返すのだ。始めは手元に戻ってきた手をグーに握り直し、前まで行ったらパーに切り替えるだけでも大変で、その内に逆の動作をしてしまったりする。握りのコントロールが上手く利かないのだ。でも繰り返し練習してコツをつかんでくると、グーの手とパーの手を間違わずに出来るようになってくる。

 ではここで何に気付いたのかというと、グーからパーに切り替えるその刹那に極意が潜んでいるということ。太氣拳の力は流れる、流れながら途切れない。強くなり弱くなり、螺旋を描いてうねっていく。グーからパーに切り替わるその瞬間、それが陰(黒)から陽(白)に切り替わるターニングポイント。その刹那、行って戻るだけではなく、重要な何かがある。このグレーゾーンを極めたい。

グーチョキバーで半拳ポン

 グーで殴るのか、パーで殴るのか。これは私にとって実に悩ましい問題であった。太氣の組手には「顔面は開掌、ボディは拳も可」という暗黙のルールがある。ところがこれが曲者で、顔面をパーで叩くとグーに握るまでに時間が掛かるし、グーでホディを殴った直後、顔面を攻撃するためにパーに切り替えるという作業が実に面倒というか、スムーズにできないのだ。ところが天野先生は、この辺のところを実に器用にやってのける。とても不思議に思っていた。それが今回、鹿志村先生からヒントをもらったことでスッキリしたのだ。

 鹿志村先生は、特別講習の中でこんな説明をされていた。「太氣拳の半拳は、意拳のそれよりも開き気味になる。テニスボールをもっているときくらいの手の形でほとんど握らない」とのこと。これでは指をいためそうだと誰しもが思うだろう。私も始めはそう思った。まだ説明の途中であったが、こっそりと後輩に耳打ちし、ちょっと叩いてみてもいい?ってこの手の形でそいつの背中や腹を打ってみた。嫌な先輩である。でも軽く打っても、効くという。オゥ、マィ、ガッ。マカロニ!さてさてこの後のことは、鹿志村先生の説明だったのか、自分で気がついたことなのか、記憶が定かではない。それくらい自然に、当たり前なことに思えるのである。開掌を使う際には手をパーに開ききるのではなく、バレーボールを持つくらいの形にする。

 この特別講習の直後、2、3人と組手をしたが、残念ながら私は、今聞いた話をすぐに実行できるほどの器用さを持ち合わせてはいなかったので、その確認作業は翌朝の自主練に持ち越された。この手の形で探手をする。手のひらはバレーボールからテニスボールまでの大きさで行き来する。実にいい感じだ。力の途切れを感じさせない。そしてそのまま開手で打ち、半拳で打つ!ドン・ピシャリであった。

 思うに、以前から天野先生からも同じような事は何度も言われていた。それを今回のことに当てはめてみるとこういうことになる。「グーを握るとさ、終わっちゃうんだよ。次に開くのにエネルギーが要るだろ。エネルギーが要るってことは、違う言い方をすると時間が掛かるんだよ。パーもおんなじ。開ききっちゃうと終わりなんだよ。開ききったものを緩めるのにまた時間が掛かる。だからバレーボールからテニスボールなんだよ」って。こう書いていて、このことも、もしかしたら天野先生から聞いた話なのか、自分で気付いたことなのかがあいまいに思えてくる。それくらい自然に、当たり前なことに思えるのである。

 けどよくあるよね。聞いた方も覚えていないけど、言った方も覚えてない事って、そうそう酔いどれ太氣拳。天野先生とお酒を飲むといい話をいっぱい聞けるんです。大抵は忘れちゃうんですけどね。でも潜在意識の中、奥深くにそれが眠っているのかもしれないよなぁ。あぁもったいないもったいない。。。

極意!忍者あるき

 昨年の冬の章で、這いの稽古で寄せ足に収縮を感じたと書いた。より正確に表現しようとすれば、腹の収縮感に寄せ足が吸い込まれると言ったところか。では差し出し足はどうなる?と考えてみた。答えは這いの動きから練りの動きへの変わり目、グレーゾーンから見出された。

 這いの差し出し足からの動き。
  ①軸足とその上にのっている上体はそのままで差し出し足だけを出して行き、
   適当な歩幅の位置で留める。この状態での荷重比率は10:0。
  ②上体を差し出し足の着地点に向けて移動させていく。半分まで行くと荷重比比
   率は5:5となる。
  ③上体は完全に差し出し足の上まで移動しきってる。しかしまだ、先程まで軸軸
   足だった足が後方に伸びている状態にある。このときの荷重比率は0:10。
 とここまでが這いの基本形。仮にこの方式をスタイルAとしておく。
 スタイルBでは、①→③の動きを行う。この動きに②は存在しない。ポイントは「第三部・夏の章・第三の歩法」を参照のこと。

 スタイルCでは、①も②もない。延々と③だけが繰り返される。つまり前足を差し出しながらそれが着地したときには、もうすでに上体がそこに乗っているのである。ポイントは「第五部・春の章・謎のトコトコ歩き」を参照くだされ。

 スタイルCの動きは、這いと言うよりも、もはや練りである。そしてこの体の使い方ができるようになってくると、実に理にかなっていることに気づかされる。それは、天野先生のいうところのジャンプした後の着地する時の姿勢だ。着地する時には、体全体をバネの様に使い、衝撃を和らげている。これを片足ずつでやってみると、まるで泥棒が「抜き足・差し足・忍び足・・・」と歩いているかのようになる。でも「泥棒あるき」じゃあなんかパッとしないんだよなぁ。そうだ仮面の忍者赤影!

 手裏剣、シュッシュッ・シュッシュッシュッ、赤影が行く~♪というわけで命名、これを「忍者あるき」と名づけよう!

詰め将棋のような組手

 さて、組手における課題である。まずは春の章(その1)で書いた『ワンインチパス』の用法の実現。しかしこれは鹿志村先生が繰り返し言われていた「自分の中心を守って、相手の中心を攻める」という太氣拳の原理原則とは相反しているように思われる。なので、この辺を実際の組手をとおして検証していこうというのが第一の課題である。また打拳に関しては鹿志村先生の言う所の「相手に合わせる打拳」。ただやみくもに自分のペースで打つのではなく相手の状態に合わせて打つ。自分としては、それは何か「タイムラグ的」な要素を含んでのではないかと思っている。

 そう言えば天野先生は「組手っていうのはさ、詰め将棋のようにやるんだよ」とよく言われていた。三手四手先まで読んでいて無駄なく駒をすすめる。一手一手が必然で動く。そして、一挙手一挙動がそのまま攻防になっているような組手。そんな組手を実現させることが目標である。

気分は上々

 日曜の午後、岸根公園へ稽古に行っていた。激しい推手の稽古が終わると、もう体は、くたくたに疲れきっている。そしてあれも出来ないこれも出来てないと反省点ばかりが頭の中を駆け巡り、気分が落ち込んでいた。大体いつもそんな感じだった。

 「こんなんで俺ってほんとに強くなれるんだろうか」そんな逡巡とした思いをいだきながらも、もう頼るべき所は太氣しかないと喰らい付いていた。挫折の連続だった自分の人生には、もう後がない――。そんな執念のような思いが今の自分を作ってくれたのかもしれない。いつの頃だったろうか、稽古がそれほど辛くなくなったのは。4年目だったか5年目なのか。激しい推手をしても、それほど息も上がらないし、疲労感もほとんどない。そんな稽古ができるようになっていた。そしてここ最近特に思う事は、稽古の前も稽古の後も、実に気分が良いということだ。つまりは一日中、毎日が上機嫌なのだ。

 自分の稽古に確信が持てるようになってきている。今はまだ出来ていないことがあっても、この道を、師の照らす灯りのある道を歩いて行けば、確実にそこへ辿り着くことができるという確信である。だから、推手の稽古、組手の稽古をとおして新しい気づき、新しい発見があっただけで、楽しくてワクワクしてしまう。「またいい物見つけちゃったよ」と宝探しゲームを楽しむかのようだ。

 思い起こせば3年前、第三部、夏の章に書いた『メンタル・スランプ』頃は、軽いうつ病だったのかもしれない。その夏でスランプをやり過ごしたような書き方をしたが、実際の所は、その年の暮れ頃までは、その症状を引きずっていた。それはまるで自分が、先の見えない長く暗いトンネルの真っ只中に迷い込んでしまったような気分だった。

 人生、良い時もあれば悪い時もある。稽古をやっていると体も色々になるんだよ。腰を痛めて稽古を長期間休んでしまうと、天野先生はいつもそんな言葉で見舞ってくれた。寒かったら着る。疲れたら休む。それでいいじゃないか。そんな言葉も思い出される。人に与えられている才覚は、平等ではない。ある者は体力がありスポーツ万能。ある者は頭がいい。その両方を兼ね備える者もいるし、なにも無い様に感じでいる者もいる。だが与えられた人生、与えられた自分という素材をどう料理するかの選択肢は、おのおのに平等に与えられているのではないだろうか。

訂正・前寄り荷重の笹カマボコにささる膝

 前回の「春うらら」をリリースした翌週に、岸根公園の稽古に参加した時のことだ。天野先生から唐突に言われた。富リュウはさ、立禅のときの重心の置き方を勘違いしているようだね。体重はつま先よりに乗っててもさ、体全体の重心はカカトにあるんだよ。踵っていうのは、足に重いって漢字なの知ってるか?おまえは重心もつま先寄りにあから、そんな変な姿勢なんだよ。

 OH,MYGOD!

 なんてこったパンナコッタ。そ、そ、そんな重大な間違いを冒していたとは・・・。と言う訳で、皆さま大変失礼いたしました。正しくは、前より加重の笹かまぼこはそのままに、カカトに重心を落としてください。

 この日、それをやってみて一番に感じたことは、師である天野先生のフォームに似てきたな、ということだ。そして、なんとなくフワフワしていた自分の体がズンッと重くなると同時に、今まで取ろうとしてもなかなか取れなかった下半身と腹のリキミが取れてきたようである。

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平成16年・冬でござる

半禅の間違い

 どうも半禅の姿勢がしっくりしない。体にまとまりがなく「んーこれでいいのかなぁ」っていう感じだ。土曜の午後の稽古の後、天野先生に質問してみた。「先生、半禅がどうも上手くいかないですけど・・・」「どこが上手くいかないの?」「えーと、えーと…」「ただ漠然と上手くいかないって言われてもなぁ、それじゃあ答えようがないよ」「えーと、えーと、あの…足の裏はどうすれば良いのでしょうか?」「つま先寄りだよ。荷重のかけ方は。前足も後ろ足もね」「えっ!先生、後ろ足も前荷重なんですか!?」「そうだよ」「今まで踵(カカト)でやってました…」とヘコむ僕。

 先生によると、後ろ足は、前よりの前足底のあたりに重心を置くようにして、踵の方は、テニスボールをギュっと潰すように、あるいは枯れ葉をギュっと踏み締めるようにしなさいとのこと。踵は見た目には地面と接触していても構わないのだけれど、前荷重が基本であるとのこと。ただこれはあくまで基本の状態なので、変化を引き出す場合には、状況に応じて踵荷重になる場合も当然あって然るべきとのことである。

 「あーあ、今までずっと踵荷重でやってたよ~。まいったなぁ」と心の中で独り言を言いながらも、新しいオモチャを与えられた子供のようにちょっとワクワクしているもう一人の自分がいた。

前荷重でサクサク

 さて、翌日からは前荷重で立禅(正面)をする。まあこれはだいたい今までどうおりである。そして半禅。んんんっと、これは結構キツイ!前足はそっとつま先を着いているだけだから、ほとんどの荷重が後ろ足に掛かっている。――にもかかわらず、その後ろ足の前よりに荷重を…というのだからキツイのも当然である。先生の色々なアドバイスを思い出しながら工夫してみる。まずは正面の立禅に戻って、その感覚のまま半禅の向きに捻じっていく。足腰に負担が掛かっているのをどうにかせねば・・・。立禅で、腰をぶら下げるようにしてみる。そこから半禅に捻じっていく。まだまだ負担が軽減されない。筋力に頼らず、骨に沿って力を出すようにしてみる。少しは負担が減ったか…。そしてこの前荷重の状態を維持したまま、「這い」をやって「練り」をやる。そして「探手」。先週までの探手に比べるとサクサクと素速く動けているように感じる。早くも前荷重の効果が出始めたか!?

金曜の朝

 どんよりと曇った冬の朝、気分もどんよりとしている。眠い。週の終わりの金曜ともなると仕事の疲れも溜まってきているのか、体が重い。鉛のように重い。今までも、だいたいこういうパターンできていた。新しい体の使い方をはじめると、それが楽しくて色々と試してみたくなる。まあそればヨシとして、いけないのはリキミがあること。新しい体の使い方を始める時、どうしても力んでそれをやってしまうため、疲労がたまる。今回の場合は、前荷重。フクラハギがパンパンである。大腿部も疲労困憊。腰や背中の筋肉も張りまくっている。それでも、禅、這い、練り、探手と一通りの稽古をしてから会社へ向かった。

 6:30pm、やっと仕事が終わる。疲労感が体にまとわりついているが、なんとか稽古はできそうである。駅のホームでカレーライスをかっ込んで、大船へ向かう。冬の夜は寒い。そして暗い。立禅をする数人の人影がぼうっと薄明かりの中にたたずんでいる。先生の姿もある。着替えて準備体操をしていると先生が話し掛けてきた。「なんだか疲れたサラリーマンが歩いてくるなあって感じだったよ」「すいません。それ私です」となんだか訳のわからない会話。

 しばらく立禅、半禅をしたあとで、這いにうつる。先生から激が飛ぶ。「そんなに力んでいたんじゃあ体を壊しちゃうよ!もっと楽に。腕を楽に。腰もゆったりと」。足裏の前荷重を意識するあまり、フクラハギに力が入り、それで腕もガチガチになっていたようだ。「前腕はさ、ハエタタキでいいんだよ。らく~にして、ぶらぶら~にして」先生からのアドバイスはいつも的確だ。腰の状態はスキーのジャンプの飛び出す準備段階のようにと、身振り手振りを交えながら教えてくれた。

 「飛び出す前はさ、しゃがんでいるけど緩んでるんだよ。緩んでいるから飛び出す一瞬に力を集中できるんだよ。その感じで禅を組んで、這いをやってごらん」とのこと。あとはいくつか動物の話もされた。「はぁ~なるほどねぇ~。力まないでしゃがむっていうのは難しいようで意外と簡単なのかも。動物になっちゃえばいいんだな…。ただねぇ、この理性がじゃまをするのよねぇ。人間の。理性を捨てて、野生を取り戻せって言われてもね…」そんな迷いが頭をよぎる。

 この日の推手は、とにかく前腕の脱力を意識して行った。体を滑らかに柔らかく使えるように、猫や蛇の動きを思い浮かべながら…。

体に任せる

 「富リュウはさ、考えすぎなんだよ『良い姿勢っていうのはこういうものって』その頭でっかちな考えが、上達するのを阻んでいるんじゃないか?もっとさ、体に任せるの。体はさ、知っているんだよ。お前が頭であれこれ理屈で考えている以上のことを。それを信じてやらないとね」あまりのショックにグゥの音も出ない富川リュウ。稲妻が脳天直撃!私の全人格を否定されたような衝撃である。この日の推手はなにがなんだかわからない内に終わってしまった。まだ頭の中が混乱しているようだ。

猫のトコちゃん

 私がいつも朝練をしている公園には、トコちゃんという野良猫がいる。野良猫なので本当の名前は知らない。歩き方がトコトコしているからトコちゃん。私が勝手に付けた名前だ。性格はおとなしく、のんびり屋で、人懐っこい猫である。野良猫のくせに太っていて毛色の艶も良いので、きっと近所の誰かが毎日食べるものをあげているのだと思う。トコちゃんの動きは実に無駄が無い。動くときも止まるときも、まったく力んでいない。ときに鳩を見つけて飛び掛ろうと、お尻をムズムズさせてからダッシュするのだが、実に動きが滑らかである。まあこのハンティングはいつも失敗に終わるのだが、失敗してもあっけらかんとしている。

ホウショウ

 意拳には「ホウショウ」という言葉がある。どういう漢字を使うのかは忘れてしまったが「立禅の際には、放尿しているときのようにリラックスしている状態でありなさい」というような意味であったと記憶している。日本風に言うと、温泉に浸かったときに、思わず「うぅう~」と唸ってしまう、あの感じなのではないだろうか。「体に任せる立禅」それに取り組む中で、この「ホウショウ」のことを思い出した。自分は、ちょっとマジメ過ぎるのかもしれない。もうちょっといい加減でも良いのかもしれない。もっと肩の力を抜いて気軽にやってみてもよいのかも。そんなことを考えながら、這いや練りもやってみた今日の朝練でありました。

4サイクルエンジン

 土曜の稽古のあと天野先生が唐突に言う。「結局、車のエンジンと一緒なんだよな。吸入・圧縮・爆発・排気ってさ、それをやってるんだよ。体の使い方ってさ」達人様のおっしゃることは、時に意味不明である。たぶん「発力」に関しての先生なりの解釈なんだろうけど。だって全然わかんないんだもん。でも一応、記憶の隅には留めておいた。それが役に立つ日が、いつか来るかもしれないから。そしてその日は、さりげなく訪れた。富リュウ様の身の上にも…。

膨張と収縮

 前足荷重でやや踵を浮かせぎみにしていても、力まないで立禅や半禅が出来るようになってきた。天野先生に言われた「考えないで体に任せること」をどうやったらいいのかを良く考えた結果だ。這いも、できるだけ体に任せることだけを意識してリラックスしてやっていた。その時、スッと寄せ足が戻ってきた。まるで体の中に吸い込まれる様に。あっ!と思った。頭の中に電気が走った。この感じで練りもやってみよう!体が足を吸い込むような、足に体を引き込まれるような、そんな練りになっていた。新しい体の使い方だ。つまり、これは「収縮」しているだけだ。――ということはだ、要は「収縮」と「膨張」、このふたつをやっておけばいいんじゃないか、とういうことに気がついた。

 太気拳の組手では、いったいどういう体の使い方をすればよいのかが悩みの種だった。そして組手では何をすればよいのかということをずっと捜し求めていた。ここへ来て、自分なりのひとつの答えが出た。それが「収縮と膨張」だ。さっそく探手でこの感覚を試してみる。なかなかいい感じだ。

 さてここからは推察である。たぶんこの「収縮感」と「膨張感」、これを発展させて行くと、天野先生の言うところの「圧縮」と「爆発」になるのではないだろうか。つまり「収縮」を意識的に行うことで「圧縮」となり、「膨張」を一瞬で行うことにより「爆発」となる。一筋の光明が――見えた!

忘年会組手

 あいにくの小雨のため、急遽場所が変更された。新宿にある島田先生の新しい道場だ。室内はおせじにも広いとはいえないが、雨に濡れることなはい。外はずいぶんと冷え込んでいたが、室内はゆるい暖房と拳士達の熱気で暑いほどであった。

 しばし各自、立禅や這いを行ってから、島田先生から数種類の練りのやり方の指導があった。どの練りも基本の動作に加えて、それを組手でどう使うかを具体的に説明していただいた。時間の都合上、それほど長時間ではなかったが、8種類ほどを教えていただいた。そしていよいよ組手の始まりだ。私は先輩のK崎さんと後輩のI野君と当たった。出来は、まあそこそこ。さすがに膨張と収縮などと考えてはいられなかったが、次に繋がる組手が出来たと思う。組手の後で、天野先生からアドバイスをいただいた。動きは結構良くなってきている。ただ、無理に行こうとしている。行けない時には無理に行かなくてもいい。行ける所を捜す、行ける所を作る工夫が必要だと。んー、なかなか難しい注文だ。

 場所を換えて忘年会が始まった。今年も青山にある島田先生のお店、青山一品の美味しい中華料理をいただきながらの酒宴である。いつもは、東京代々木、青山、横浜岸根公園、大船、川崎元住吉、横須賀等々に分かれての稽古なので、これだけのメンバーが一堂に会すのは珍しいことだ。みんな楽しそうに拳法談義に華を咲かせている。宴たけなわの午後8時、翌朝の早朝から出張に出かけなければならない私は、島田先生、天野先生に今年一年のお礼と年末のご挨拶をして、その宴をあとにした。

月曜の朝

 翌朝は、羽田発7:30amのフライトで山形庄内空港へと向かった。空港からはバスでT市へと向かう。仕事は12:30からなのでその前に昼食を摂るにしても、しばらくは時間がある。ホテルの公衆電話を使って、ノートパソコンに社用のメールを拾う。十数件のメールに目を通し、仕事は一旦切り上げた。

 ホテル近くの行きつけの児童公園に向かう。ここは広さもちょうど良く、樹木や芝生がきれいに生えている気持ちの良い公園だ。季節は冬、樹木の葉は枯れ落ち、風が冷たい。それでも空気が澄んでいて、快晴の空の青さが目に染みる。禅を組み、這いをする。しっかりと関節がはまっていて充実感がある。練りを少々。軽く探手をする。ふと時間が停まったような感覚に陥る。昨日の組手と飲み会が遠い昔のことのように思われる。再び立禅――。実に晴れ晴れとしたいい気分である。たいしたことをやった訳ではないけれど、何かを成し遂げたような満足感がある。至福感に満たされている。充実した一年だった。天野先生と仲間達に感謝――。

 さて、ラーメン喰って仕事に行くとするか!

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平成16年・秋ってさ

仮定、検討、結果検証フィードバック

 「テーマをもって稽古をしなさい」入門当時に天野先生からよく言われた言葉である。今日のあなたの稽古のテーマは何ですか?

 そんなことは聞かれなくてもちゃんとある。当たり前のいつもの習慣だ。時にはそれが「前腕の脱力」だったり、またある時には「ソケイ部の吸い込み」だったりする。もし「前腕の脱力」がテーマなら、「前腕の脱力」で禅を組み、「前腕の脱力」を意識して這いを行い、「前腕の脱力」だけを考えて練りをする。そして「前腕の脱力」で探手。

 この「修業記」を書いていて、いつも不安に思っていた事がある。それは「これでいいのだろうか?」という不安だ。「○○をやって○○になった。これはきっと○○にちがいない――」等ということを幾度となく書いてきた。果たして本当にそうなのだろうか?

 緒先輩や先生の目から見ると「それは逆だよ!」「それは勘違いなんじゃあないのぉ」っていうこともあるのではないだろうか。

 土曜の稽古の後、天野先生からとってもいい話があった。「毎日稽古するんだけどさ、結局稽古っていうのは、仮定して、検討して、結果を検証してフィードバックするってことなんだよな」って言うじゃない。つまりこういうことだ。テーマが「前腕の脱力」だったとする。自主練で、禅、這い、練り、と「前腕の脱力」を自分なりにやってみる。そして土曜日の対人稽古で、推手の中で使ってみる。そしてその中で「前腕の脱力」が生かされていれば、オーケー!ただし100点満点の正解はありえないので、問題点は自主練の中にフィードバックする。

 あるいはこういうことだ。テーマが「ソケイ部の吸い込み」だったとする。「ソケイ部の吸い込み」とは何なのかを、自主錬の禅、這い、練り、の中で探ってみる。そして土曜日の対人稽古で、推手の中で試してみる。その中で「体がなんだかバラバラだぁ」となったならば、残念!不正解です・・・で、フィードバックする。

 「あー良かった。間違いではなかったんだぁ」自分の今までの稽古のやり方に自信が沸いてきた。出てきた結果が正解/不正解ということには関係なく、稽古に対してそういう取り組み方をするっていう、そういうアプローチの仕方が大事なんだってこと。だからこの修業記に書いてきた事が、正解なのか不正解なのかが問題なのではなく、疑問を持って、取り組んで、結果を検証して、またそれでやってみると――それが大事ってことで、富リュウは偉い!誰もほめてくれないから、自分でほめちゃおっと。

「つみあげ」

 『第5部・夏なのだ』の章の<後ろ足もツッカエ棒>で、大腿骨→腸骨→仙骨→背骨が一列に繋ながって、股関節→仙蝶関節がいい感じでハマッタぞ!って書いたけど、この感覚の延長で半禅を行っていた。後ろ足の上に腰があり、腰の上に上体が乗り、そこに頭が乗っている。各関節がちょうどいい具合にはまり、それぞれの骨達が達磨落としのように積みあがっている感じだ。素直な感想は「曲がってて真っ直ぐ」だ。外から見ると、膝が曲がり、ソケイ部も引っ込んでいる。背中もわずかにS字を描いて湾曲している。どう見ても「曲がって」いる。でも自分の体の中の感覚としては、それがとっても「真っ直ぐ」な感じなのだ。これがいわゆる「軸」なのだろうか?

「つみあげ」と「ねじり」

 今、右足後ろの半禅の状態にいるとする。ここから這いがスタートする。右の腰骨がやや下がり、右足の上に全部の骨が積みあがっている。上体を左足(前足)の上に移動していく。左足に全体重が載る。この時点では左の腰骨はまだ上がったままなので、ちょっと振らついてしまう。どのタイミングで左の腰骨は下がってくれるのか?

 右足を後方から引き寄せる、軸足の脇をかすめる。軸足のくるぶしを右のくるぶしが追い越したその瞬間、左の腰骨がやっと下がってくれた。

 では、右足が後方にあって、左足で立っている時に、どうすれば振らつかないでいられるのだろうか。答えは「上体の捩じり」だった。上体を捩じっておくことで、腹筋、背筋、深層筋群がある種の内部応力を発生させ、全体を安定させてくれる。

 這いで移動していく時には、自分の体の中で「つみあげ」→「ねじり」→「つみあげ」→「ねじり」と意識的に変化を作っていくことが必要だ。つまり、ある時には「つみあげ」により体を安定させ、また別の時には「ねじり」によって体を安定させるのだ。

「つみあげ」と「つみあげ」?

 日常のさりげない会話の中から、とっても重要なヒントが得られる時もある。妻は若い頃、クラシックバレエを10年ほどやっていたそうだ。今ではもうその面影はないのだが・・・。それはともかく、妻が言うにはバレエでは普通に歩くという事はなく、股関節も開いて使うらしい。そしてとりたてて特徴的なことは、ボディのスクエアな面を常に保ったまま動くことを重視するのだという。だから片足で立っていて、跳んで、もう片方の足でポンッと立つ時には、その瞬間にもう安定していられるって話だ。

 ――ちょっと待てよ。ってことは俺が今やっている這い、「つみあげ」から「つみあげ」に行こうとすれば行けるんじゃないだろうか・・・。

 という訳で次の日からやっちゃいました。「つみあげ」から「つみあげ」の這いを。ポイントは、右足が後ろにある状態で左足に荷重が移っていくときに、左の骨盤が下がってくれるのかどうかってことです。そしてその答えは「やればできた」でした。どうってことなく、そうしようと思ったらそう出来ちゃいました。でもまだまだ話の続きがあるのです。「つみあげ」から「つみあげ」の這いになったら、「ねじり」は要らなくなったのかというと、そういう訳ではないのです。

 はじめる時には右足軸で「つみあげ8割、ねじり2割」、右足後方で左足に載った時には「つみあげ6割、ねじり4割」ってとこでしょうか?あるいは違う言い方をすると、どの態勢にあっても常に「つみあげ」の状態にしておいて、体の有り様に応じて「ねじり」のさじ加減が自動配分されるっていう感じかな。

「つみあげ」と「ねじり」と「踏み締め」

 新しい体の使い方を手に入れて、とってもゴキゲン気分でいた。足腰に負担がなく、スッと曲がってて真っ直ぐでいられる。そんな完璧な這いができている――はずでした。あの人に言われるまでは・・・。天野先生の登場である。「それじゃダメだよ!お前の這いは、こっちに立って(右)、こっちに立って(左)、ただ乗っかってるだけじゃないか!それじゃヤジロベエと一緒だよ!」

 ヤジロベエか・・・せめて竹トンボくらいにはなっていたかったのに・・・。「ちょっと考え違いをしていたみたいだな――。もっとちゃんと踏み締める!自分の足と腰で、地面をしっかりと踏み締める」先生からは、これ以外にも新しいアドバイスを幾つかいただいた。這いで進もうとする時に、禅の状態を維持しつつ進むのだが、それは禅の形を維持しようとするのではなく、禅の質を維持するようにとのこと。つまり上体が捩れていくときに、社交ダンスのように肘を張ったままなのではなく、上体の捩じりに伴って自然に腕の形も変化する。形は変化するんだけれども質はそのままってことみたい。

組手シーズン到来!

 さて、秋も深まりそろそろ組手シーズンの到来です。12月には、どんな組手が展開されるのでしょうか。今これを書いているのは10月末なのですが、実は先週の土曜日に、ちょっくら組手の稽古もあったのです。推手の時間を少し削って。そして富リュウの組手の出来栄えはと言うと、ムフフ・・・って。この話は、次回冬の章でのお楽しみってことで取っておきましょうね。これから12月に向け、たぶん毎週のように組手が行われることと思います。それがちょっと楽しみな今日この頃なのです。

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平成16年・夏なのだ

夏でも立禅、公園で

 今年の夏は、また一段と暑い。家の奥さんに「このクソ暑いのによく公園でなんか練習ができるわねぇ」と半ば呆れ顔で言われる。そして「40才過ぎてるサラリーマンでそんなことやってる人って居ないわよ」なんて。「そうは言っても、野球やサッカーやテニスなんかやってる人達はいるんじゃあないのかなぁ」などと生返事をする。

 実は、私が太気拳をはじめようとしていた時の一番の心配事は、素手素面の組手ではなく、冬は寒くて、夏は暑い中で稽古しなければならないということであった。「ほんとに大丈夫かなぁ。ちゃんと続けられるんだろうか・・・」はじめの一年は戦々恐々であった。それでも一年二年と経つうちに、自然と気にしなくなっていた。

 そして今年も、この猛暑の中、やっぱり公園の木の下で禅を組み、這いに興じる。なんとも充実した至福のときだ。夏バテ・・・それは私にとっては、もう死語も同然。暑さ寒さを乗り越えて、もう「矢でも鉄砲でも、持って来やがれぇ~」ってな気分。――でも雨が降ったら稽古はお休みします・・・濡れるのイヤだから。

質的変換

 質的変換――って言っても、感じたことのない人には何のことやらさっぱり・・・でしょうね。長いこと立禅をやっていると、だんだんと自分のフォームが変化していく――と言った方が一般的には判り易いんだろうけど、実感としては、質的に変化したことの方が先に来て、フォームはその結果として変わったかなって、いうくらいなもの。まあ普通の人が見たら、質的変換前のフォームと変換後のフォームは、同じに見えちゃうかもしれないんですけどね。

 ここでひとつだけ補足しておくけど、質的変換って、一回あったらオッケー!ってもんではないですから。もちろん一年に2回あったから、あんたは偉い!ってもんでもないです。もし毎日、立禅やってるとしたなら、1日にひとつ、少なくても3日にひとつくらいは、新しいモノが見つかるでしょう。これが私が言う処の「質的変換」です。それを見つける前の自分と、見つけちゃった後の自分とは、もう同じ自分ではないんです。んーこの違い、わかるかなぁ~わかんねぇだろうなぁ~(これって70年代の古い流行語のフレーズなんです)

低い半禅

 昨年の暮れの頃からだったか、天野先生から、かなり低い姿勢での立禅を指導されていた。自分なりに工夫したつもりではあったのだが「逆だよそれじゃ!」と言われてしまった。何が逆なのかというと、骨盤の傾き方。半禅で姿勢を低くして行くと、それまで7:3だった荷重バランスが、9:1か10:0くらいになってくる。そしてこの時、軸足の負担はピークに達するのだが、軸足になっている方の骨盤が上がってる方がどうも楽だったのでそうしていた。正しくは逆。骨盤は軸足のある側にやや下がる。先生からは「はじめは時間は短くてもいいから、とにかくその姿勢でやるように」と言われていたんだけど、日に日にそれが当たり前になってきて、二ヶ月も経つ頃にはそれなりに長時間やっても平気になっていた。

浮きあがる前足

 そしてある時不思議なことが起きた。フッと前の足が浮いたのである!

 そもそも10:0くらいのバランスで立っているので、始めから前足は浮いているといば浮いているのだが、それがまるで反重力装置でも装着したかのようにふわっと浮き上がって・・・それで何?なんか役に立つの?って聞かれなくても答えちゃいますけど、蹴り!蹴りが出来出来なんです!軸足は充分に安定しているし、遊足は軽軽なんでパンパンっって、すんごく蹴れるようになっちゃって、嬉しくなっちゃいました!

テニスボールを踏みしめて

 10:0の半禅で軸足の感じが定まって、いい気分でいたんだけれど、天野先生からは前足の踵の使い方と前足側の腰骨周りに指摘を受けた。確かにそれまでは、10:0なので前足もその腰骨周りにも力も何も無く、言うなれば「虚」の状態になっていた。先生はそれを見抜いていて、そこに力を!と言いたかったに違いない。まずひとつは前足の踵でテニスボールをギュッと踏んでいて、その反発力で押し返されるような感じで・・・とのこと。そして腰骨周りは僅かな緊張を・・・。

秘伝中の秘伝・反重力装置オン!

 そんな半禅を組んでいると、ふとある推論が浮かんだ。10:0の半禅の前足踵にテニスボールを挟んでおくと、前足が浮き上がりそうになって、それを抑え付けているような感覚が出来てくる。そして抑え付けているんだけれど、浮き上がろうと反発してくる。そうするとこれは10:0ではなく、10:-2と言った感じになって、自分の体重がその分軽くなっちゃったような・・・。んーなんて嬉しいダイエット効果!ってそういうことじゃあない!

 つまり私の推論はこういうことである。仮に自分の体重が60kgだとしよう。半禅で10:0で立つようにすると、後ろ足には60kg掛かっている。しかし前足を前述のように引き上げるように使うと、それが12kg分、自分の体を浮き上がらせてくれる。ウソみたいだけど本当にそうなんだって!

それをやると軸足の負担が減るんだから!ここまでが自分で感じていること。そしてここからは推論なんだけど、もしその前足が-60kg分の浮力?を発生することが出来たなら、実質上、自分の体重はゼロってことになるじゃない!そうするともうこれはリニアモーターカー状態さ!ちょっとの力ですっ飛んでいくような速さが出ちゃうんじゃないでしょうか?

 そういえば佐藤聖二先生がこんなことを言ってたんです。「中国のある意拳の先生と立ち合いをした時に、膝を抜いて飛び出してくるから、どうにも対応しようのない速さがでてるんだよ」って。どうよ、富リュウの推論もあながち的外れでは無さそうでしょ。

調査依頼、半禅と這いとの取っ掛かりについて

 這いは禅の連続って言われてるけど、本当にそうなの?そんな疑問から、こんなことをやってみました・・・。荷重バランス10:0の半禅の姿勢から、次第に前足に荷重を移して行き、前足10で後ろ足0で、立ってみる。2、3日これを続けてると、んー、大腿骨→腸骨→仙骨→背骨といい感じに繋ながって、股関節→仙蝶関節がいい感じでハマッタぞ!!!

後ろ足もツッカエ棒?

 股関節→仙蝶関節がいい感じでハマッタのに気を良くして、半禅から前足方向へ後ろ足をツッカエ棒にして2、3歩進んでみる。そして向きを替えて(足を替えて)同じく2歩3歩・・・ん~なかなかいい感じにハマッテいる。今まであった腰のあたりの筋肉の負担感がまるで無くなっている。と、つかつかと歩み寄る怪しい影、天野先生の登場だ。「前の腰!そこをしっかりさせて!」・・・と言われるままに色々と工夫してみる・・・。先生も、ひねるんじゃなくて・・・とか、もっとこういう風に!とか色々と指導してくださる・・・。さてさて今度はどうなることやら、楽しみです。

推手、そして推手

 ここ2、3ヶ月で自分の推手は大きく変化した。やろうとしていたことは二つだけ。片足で立つ、そして前足に乗る。とにかく前に乗る。思いっきり乗る。充分に乗る。乗り切る。それに合わせて上体を真っ直ぐに落としていく、相手に寄りかかるのではなく、ソケイ部で吸い込んでちょっとだけ前傾させて。そして一歩を踏み出すときに次の一歩を腰で打つように前へ出て行く。考えていたことはこれだけ。それだけでずいぶん違う推手になってきた。

組手、やっぱり組手

 ここまでサクサクと軽快に動いていたキーボードを叩く指のスピードが、いきなり失速する。まるで牛の歩みだ。「組手」のことを書こうとするといつもそうだ。何故書きにくいのか・・・。

 ひとつには、その成果が目覚しいものではないということ。禅、這い、推手での稽古の手ごたえは、あるいは成果は、よく感じる。それに引き換え、組手ってやつはどうもよくわからない。もう少し時間が掛かるのかもしれないし、もっと回数をこなしたほうがよいのかもしれない。その時は「良く出来た」つもりでも、後からビデオを見ると全然だったり、その時に「あんまり良くないなあ」と思っても、人からは良かったよ、と言われることもたまにある。組手の最中は非日常的な精神状態にあって、何がどうなったのか、細かい事は覚えていない。相手にもらったダメージは体が覚えているのだが、相手を殴った記憶がほとんどない。でも組手が終わって「○○さんの蹴りが効きましたよ~」と話しかけると「富リュウさんの打拳を2、3発いいのもらっちゃいましたよ~」と言われ「えっ!」となる事もある。そういえば殴った私の手も痛い。もしかしたらこの非日常的な精神状態の中でも、冷静に何が起きているのかを覚えていられるようになることが、組手のスキルが、ある一定のレベルに達した事の目安なのかもしれない。

 ふたつめは、太気拳の組手が何をしようとしているのかが、わからないということ。殴る、蹴る、それをやっているのだが、どうも何かが違うようだ。新入りさんにはいい状態を保てても、各上の先輩には崩されっぱなし。はじめて1年2年の後輩でも、若くて元気のある奴には何発か貰ってしまうこともよくある。今年の夏の太氣会の合宿のテーマ、天野先生が示されたそれは「いかに殴らずに終わらせるか」ということであった。優先順位の一番目は、相手の突き蹴りを貰わないと言う事。それをかいくぐって相手の懐に入り込む。そしてこの時、入り込むと同時に相手を崩す。そして打てるなら打つし、相手がすっ転んでいれば、それまでだ。どうも既存の格闘技の経験やテレビ等の映像からの刷り込みで、突き蹴りを「当てる」ということを第一優先にしてしまいがちであるが、この辺からしてどうも違っているようだ。

 今日からの私の稽古のテーマ。その一つ目は、天野先生に言われたこと。「殴らないで終わらせる組手」をいかにして実現させるか。そして二つ目は、大関さんに言われたこと。「相手を良く見る」「相手の頭と肘、膝を常に自分の視界に捕らえておくこと」この二つに決定です!

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平成16年・春めいて

逃げる右肩

 組手の時に、手を前に出しすぎてしまうことをやめるのが、今の私の最大の課題だ。その原因はいくつか考えられる。ひとつめは気がせいて手だけが前に行き、体が残ってしまうから。もうひとつは顔を打たれるのが怖いから手だけを前に出してしまう。そしてあとは「打つ」ことにこだわっているから。打とう打とういう気持ちから手だけを前に押しやり、自分で自分のフォームを崩してしまう。

 ようく考えよ~♪姿勢は大事だよ~。今一度、自分の禅と這いを見直してみる。立禅ではちゃんと肘が自分の周りに着いている。這いでは、右足に乗るときに左肘が自分の周りにあって、指関節、手首、肘、肩、肩甲骨まではギュッとはまっていく感じだ。左足に乗るときには、右肘がちゃんと自分の周りに・・・アレッ無い!

 肩が逃げていく。肘も離れていく。まあ何と言うことでしょう!

際立つスケートの刃

 「足裏にスケートの刃の感覚をもて」これはかの有名なクラーク博士ではなく、天野敏氏の言葉である。一般的にフットワークを要求されるスポーツでは、初心者に対してカカトを少しだけ浮かせて、前足底の部分だけで立っているようにと指導することが多い。太氣拳ではちょっと違う。もちろんそういう使い方もするが、もっと精細に、つま先のみ、カカトのみ、内側荷重、外側荷重、といった使い方をする。要はケース・バイ・ケースで、それぞれを使い分けるってことだ。

 そのヒントとして先生が言われたのが前述の「スケートの刃の感覚」である。足の裏に一本の線を引く。足裏全体が地面に接していても常にその線を意識しておく。その刃で踏ん張り、それに沿って力を出す。禅、這い、練り、そして推手で、この感覚を磨いていく。そうするとだんだん体の動きにキレができてくる。

右きき上手

 私の私の彼は~♪♪左ききぃ~と、昔のアイドル歌手が歌っていた。あれはたしか麻丘めぐみの謡だったか・・・?

 唐突に先生が言う。「右利きにはさ、右利きの利点があるんだよな」と。これは別に、右利きと左利きのどちらが有利なのか?という話ではなく、何故人間は両利きではなく、左右どちらかが利き手、利き足になっているのか?という問い掛けである。先生曰く「両利きだったらさ、あっと思った時にどっちの手足を出せばいいのか、咄嗟に判断がつかないじゃない。だから人間はさ、必ずどちらかが利き手・利き足になってるんだよ」って。有線から麻丘めぐみの歌が流れると、先生のこの言葉を思い出す。

 子供の頃、ひ弱だった私はテレビアニメのアタックNo1を見て、左右両利きに憧れたものだ。利き腕である右腕の筋力も貧弱だったので「両利きだと友達に自慢できるかな」などと思い、一時は左手で箸を持ったり字を書いたりと、無駄な努力に励んでいた。

 半禅には左右差がある。右足が軸足の時には、左足と左手が前になる。たいてい、新しい課題に取り組もうとしたときに、はじめにその課題が上手く行くようになるのは、この右軸足の半禅である。右足のほうが利き足なので筋力もあり、左に比べると器用に動かせてコントロールが効くからだ。逆に左の半禅では、なかなか新しいことに馴染むのに時間が掛かる。

 一方で利き手・利き足がデメリットとなることもある。去年の夏頃だったであろうか、推手の際に天野先生から「その貧相な右手をなんとかしろ!」と何度も注意されていた。左手では、相手の圧力を全身で受け止めるような体の使い方が出来ているのに、右手では、それが出来ないでいた。右手は腕力があって器用に動かせてしまうので、どうしても手だけで対処しようとしてしまうようで、その癖がなかなか抜けないでいた。

 「禅では出来てるんだよ。這いでも練りでも、手だけじゃなく、全身のまとまった力が手に乗るようになっているじゃないか。なんでそれが推手できないんだ!無いものを出せないのはみっともないことじゃない。でもね、あるものを出さないのはみっともないことなの。だから「貧相」なんだよ」―――その貧相な右手を解消するには結構な時間を費やしたような気がする。そしてこんなときには不器用で弱っちい左手が、右手の先生となる。左手が前の半禅を組み、自分の体に問い掛ける。「左手はどんな感じ?左肩や背中はどうなってる?下半身との協調は?」それをしっかり確認してから、右手を前に半禅。「ハイ、右手クン、左手先生の真似をしてくださいね・・・」

前足はつっかえ棒?

 低い禅をやっているとかなり足腰に負担が掛かる。当然のことながら、はじめは右足を軸にしたほうが良く出来る。そんな低い禅が左右ともに板についてきた頃、天野先生から指摘を受ける。「前足の膝がつま先より前に出てちゃいけないよ。自分の目でつま先が見えるくらいにしておかないと。前足はつっかえ棒みたいな感じ。踵は着かないで、つま先だけを地面に着けて、後ろから押されたときにグッと踏ん張れるようにしてごらん」「そ、そうですか・・」戸惑いを隠しきれない富川リュウ。やっと低い禅が板についてきて良い気分でいたのに・・・たしかに今までは低さにこだわるあまりに、前足もかなり曲がっていた。そして踵も地面に着いていた。それをまた修正しなきゃ。

 それでもこの頃は一週間で成果が出る。日曜の稽古で先生に指摘されたり、新しいメニューを指示されて、毎朝の自主練5日間で体がそれを覚えてくれる。月曜の立禅は居心地が悪い。火曜には右の半禅ができてくる。木曜あたりには左も出来てくる。そして当然、この体の使い方を這いや練りにも応用していく。

 ときに、左が右の先生となり、右が左の先生となることが、短い周期でやってくる。前足のつま先で地面をポワントする(※)と、そのさりげなさとは裏腹に前足のハムストリングスがヒクヒクしてくる。そしてこれをうまく引き出してやると前足が舵(カジ)兼スターターとなり体を前へ運んでくれるようになる。こうなるまでに5日間、ある時は右の方がよく出来て、またある時は左のほうが良く出来る。そんなこんなを繰る返すうち、左右ともに出来るようになっちゃうってえあん梅だ。

 右は左を助け、左は右を補う。右には右の得手があり、左には左の良さがある。男と女、陰と陽、プラスとマイナス、表と裏。ものごとは表裏一体。身を以って森羅万象の真理に目覚めた富川リュウであった。

 (※)ポワント=POINTのフランス語読み。バレエやダンスなどで足先で床を指差すしぐさのこと。

腰だけで歩く

 低い禅の延長で低い這いをやってみると、これがまた足腰にキツイ。「足で動こうとするからキツイんだよ。腰だよ、腰だけで歩くんだよ」先生が見本を見せてくれる。なるほど姿勢は十分に低く重い感じではあるが、同時にスムーズで力みがまるで無い。そうっと真似してみる。「それじゃダメだよ。体重が移動していない。首がずっとまん中にあるじゃないか。ちゃんと一歩一歩、右足に乗る。左足に乗る!」

謎のトコトコ歩き

 「よしそれじゃこれをやってごらん」這いの稽古もそこそこに、練りの稽古を指示された。両手をぐるぐる廻しながら腰だけで歩いて、前進後退を繰り返す。そしてどんどん速度を速めていく。「もっと速く!」先生の激が飛ぶ。これは練りのトコトコバージョンである。名づけて「謎のトコトコ歩き!」何故なら動きがとっても怪しいのだ。

 日が西に傾く黄昏時、拳士たちの影がぼうっと長くなる。先生は日に背を向けて、俺の影を見ろと弟子たちを促す。首の位置がよくわかる。先生の影は、一歩一歩で頭の位置が右へ左へと移動している。ところが私の影は、足を踏んでも頭の位置はまん中のまま。これじゃあいかんと、頭を一生懸命左右に振ると目が回る。「振るんじゃなくて、軸は真っ直ぐで平行移動するんだよ」そうは言われても、これはなかなか難しい。さて明日の月曜から特訓だ。金曜までに出来るかな?

ミモフタモナイ

 3月に入るといよいよ春めいてきて、桜の開花予想などがニュースになる。今年はまた開花が一段と早まって、3月末にはもう満開の見ごろを迎えるらしい。去年より早い4月4日が太氣会の花見の予定日であるが、その時にはもう桜が散ってしまっているのではないかと心配になる。「でも先生は花が無くても飲めればいいんですよね」などと悪態をつくと「そんなミモフタモナイことを言うなよ」と切り返される。

 手元の辞書によると、[身も蓋もない=言葉が露骨すぎて憂いも含みもないこと]とある。なるほどこれは、いつもの私の悪い癖。時に、気づかないうちに露骨な言葉で人を傷つけてしまう。まあ先生は心もタフだからそんなことはないだろうけど、世の中にはそうじゃない人も多いようで、私の心ない言葉に傷つき、去っていった数々の女性達・・・あの頃は私も若かった・・・などと感傷にひたっている場合ではない。組手なのだ、もうすぐ。

探手はバッチリ

 ここのところの進歩には目覚しいものがある。一週間でかなり身体が変わってくるのが実感できる。探手(※)の仕上がりはバッチリである。探手で激しく動き回っても肘を自分の周りに置いておけるようになってきた。大きく打ち込むときにも手だけではなく、身体ごと前へ持っていけるようになった。

 自分なりに分析してみると、探手が変わった事には三つの要因が思い当たる。ひとつは肩甲骨がよく動くようになってきたこと。これにより、肘の動きが小さな範囲であっても前腕に圧力が乗るようになってきた。二つ目はトコトコ歩きの要点である、体重移動が片足ずつに乗るようになってきたから。そして三つ目はトコトコ歩きを繰り返す事で肚とそ頚部に柔らかさができてきたこと。そんなこんなで探手の仕上がりはバッチリである。しかし一抹の不安が残る。花見の組手の前前日まで、2週間も出張していたし、その前の週も稽古に行けなかったので、まるまる3週間も対人稽古をしていないのだ。

 4月2日金曜日の最終便で羽田へ降り立つ。ややお疲れモードである。4月3日土曜日、元住吉の稽古に1時間ほど参加。推手をやって体の感覚を取り戻す。「ずっと練習に出てなかった割には、身体が良くまとまっていたね」と先生に言われ嬉しくなる。出張先でも毎朝稽古していた甲斐があったというものだ。さて4月4日は花見で組手で、しかも今回は佐藤聖二先生ひきいる拳学研究会との交流会も兼ねている・・・。古くからの先輩達はずっと以前に拳学研究会の方々と手合わせしたことがあるようだが、私は佐藤先生に会うもの初めて。はてさてどうなってしまうのでしょうか?

 (※)探手(たんしゅ)とはボクシングの練習でいうところのシャドウボクシングに相当するもので、架空の相手を想定して攻撃や防御の動き行うものです(この修業記を初めから読んでいない方のために補足しました)

太気拳拳学研究会

 「ずいぶんいっぱいいるな~」15分ほど遅れて岸根公園に到着すると、立禅を組む怪しい人影がいつもより多い多い。ざっと数えても40人近くいる。佐藤先生の姿を見つけ、さっそく挨拶に行く。にこやかに「よろしくお願いします」と頭を下げられる佐藤先生。その丁寧さに、こちらの方が恐縮してしまう。

 準備体操をして、立禅や這いなどを行い30分ほどが経った頃であろうか、天野先生から「集まって!」と号令がかかり、それぞれの紹介がおこなわれた。そして、まずはお互いに見知らぬ相手と推手をしましょうとのこと。自分は胸を貸していただくつもりで出来るだけ先輩を思われる方々と組むようにと心掛けた。そんな中、僭越ながら佐藤先生とも推手をしていただける機会に恵まれ、とても光栄であった。佐藤先生との推手では、一旦ちょっとでも崩されると立て直す隙を与えずに一気に発力に持っていかれる。そしてあっという間にすっとばされてしまった。天野先生とはまた何かが違い、その強さと怖さが印象的でありました。

今後の課題

 自分の組手は、まずまずの出来であった。とりあえず今もっているパフォーマンスは出せたと思う。それに何より楽しんで組手をできたのが良かったと思う。でもなんとなく「このままでいいのだろうか」という、もやもやした感じが心の中に漂っている。自分の稽古の方向性は間違ってはいないと思う。前回よりも進歩はしている。だけど、どうも後手に回って守っているだけのようにも感じる・・・。

 花見の席で、A野先輩がいいアドバイスをくださった。「富リュウもいい線までできてるよ・・・。ただ一発の怖さがないとね・・・それがあるのとないのとでは大違いだからさ。リーチを生かしてポーンて自分の得意なのを出せるようにしてみたらどうかな。これをもらうとヤバイって、相手に思わせる怖さがないとね」って。心の中のもやもやがスーっと晴れていくような的確なアドバイスであった。「そうだよ、それが足りないんだよ!今の自分には――」

 拳学研究会の方々との交流を通して、また違った角度から自分の拳法を見直すことができました。そしてなにより太気拳を志すこんなに多くの仲間達がいることを嬉しく感じました。今回お相手くださった拳学研究会の皆様には、この場をお借りして御礼を申し上げたいと思います。ありがとうございました。そしてまた、胸を貸してください。お願いします!

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平成15年・暖冬みたい

組手は怖いか楽しいか?

 今年はずいぶんと暖冬のような気がする。それでも11月も下旬にさしかかるとやっと冬らしく冷え込んできた。こうなってくると世間はもう年末商戦の雰囲気だ。デパートや商店街では早くもクリスマスソングが流れ、あわただしさにいっそうの拍車をかける。年末の喧騒の中にワサワサと飲み込まれていく人々。そんなことはどこ吹く風と、ひとり静かに禅を組む。心がゆったりと落ち着いて、身体が静かに整ってくる。これで二日酔いさえなければ最高なのだが・・・。昨日は飲みすぎてしまった。いかんいかん。

 忘年会組み手に向け、ふだんは推手が対人稽古のメインとなるが、ここのところ何回かは組み手の稽古も行われている。以前ほどに怖さは感じなくなっているが、どうも身体の動きが鈍い。馴れ、といえば馴れなのだろうけれども、威圧感のある相手には踏み込んで入っていくことができないし、格下の相手には、相手のどこを打てばよいのかが判らない。先生、前に出て行けないんですけど・・・私が情けない質問をする。

 師からのアドバイスは、頭を沈めてうねるようにジグザグに入っていく。もうひとつは膝の角度。これが深く取れていれば、一歩の踏み込みが大きく出せるとのこと。そして禅のときのように、腕も脚も、身体全体をリラックスした状態に保っておくこと。これが一番大事。あとは来たら避ければいいし、空いていれば打てばいい。――そうは言っても、言うは易く、行うは難し。

 それでもだんだんと足が動くようになってきた。あとはそれにどう気持ちを載せていくのかが問題である。あと一歩前に出る勇気、それさえあれば・・・。「勇気?そんなものは要らないよ。俺だって怖いよ、そんなもん。正面から突っ込んでいくなんてさ。怖くてそんなことできないよ。だから横へ廻ってさ、いい所から攻撃するんだよ。5分と5分じゃあ、やらない。8/2か、悪くても7/3くらいでやらないとね」んーなるほど。勇気・・・じゃないんだ・・・。組手のたびに、目尻に青タンを作り、頭にコブを作っている。それでも組み手は楽しいと思えるようになってきた。禅も這いも推手も、そのためにやっているのだから。

徹夜のお仕事

 装置が壊れた。私のお仕事は、産業用の装置の修理。今回の故障はやっかいだった。一箇所が直ると、また別の所が壊れる。こんなことを延々と10日間もやっていた。そして後半には、徹夜作業を2回もした。装置が止まってしまうと製品が流れなくなってしまうので、工場の担当者も必死だ。火曜日に徹夜、朝方1時間だけ会議室のソファーで仮眠を取り、水曜日はそのまま夜11時まで仕事。終夜で検査ランニングをすることになり、なんとか帰宅を許される。ランニングの結果がNGで、木曜日も朝9時から仕事。そしてまたまた徹夜。金曜の朝になって、なんとか生産できる状態になり、午前中の打合わせのあと、やっと開放された。午後は帰宅して爆睡――。

 修理が始まって第二週目、なんでこんなに辛い目に逢うんだろうと、恨み節のひとつも出そうになったけど、頭を切り替えて「これも拳法の修行のうちだ」と考えてみた。R田先輩の言葉を思い出す。一晩中でもやっていられるような組手が理想なんだよね・・・。師の言葉も脳裏をかすめる。やれることをやればいいんだよ。やれないことをしようとするから、無理が出る――。そうか、組手やってるつもりで仕事しよう。そう思い立ち、実行した。嫌なことや不安な気持ち打ち消して、無心になり、肩の力を抜いて、目の前のやるべきことをひとつずつ淡々とこなしていった。――それから数日後、2度の徹夜をくぐり抜け、不思議とそれほど疲れてなかった。以前の自分には考えられないことだ。体力に自信がなく、神経質で几帳面。ハンで捺したような規則正しい毎日が好きな自分。それでも今は、こんな状況にも耐えられるようになった。体力面でも、精神面でも、ずいぶん大きく成長したと思う。太気拳のおかげだ。

 そしてこの試練から得られたものも大きかった。力を抜くこと、手は抜かないで、もっと力を抜くこと。それが脱力の極意。どんな作業も公園の散歩と思い。気を煩わせないこと。気は使うけど、気を煩わせない。ココロ晴れやかに朗らかに、無心になること。よし、明日からの探手、組手は、こんな感じでやってみよっと。

 かくしてこれが富川流、拳法/仕事/拳法の3段活用フードバッグ技法である。拳法やって、仕事も拳法のつもりでやって、そこで得られたことをまた拳法に生かすだ。

 あーあ、その真剣さが仕事にも生かされればねぇ・・・。妻が嘆く。

本番前日

 組手という非常事態の中でいかに正気を保つか。無心に「ボワン」となって師に挑む。すうっと師の半拳が僕の鼻先に当たる。「先生、全然見えなかったんですけど・・・何が悪いんでしょう?」「意識の切り替えが出来てないな」と一言。あっそっか。「ボワン」があって「カッ!」があって、その両方を使い分ければいいのかな・・・。あるいは「カッ!」の状態でリラックスしているような・・・。

島田道男先生の教え

 代々木公園に集まって、組手に入る前に通常の稽古が行われる。気功会のメンバーもあちこちに見られ、それぞれに禅を組んだり、這いをやったり、ひさびさの再会に立ち話に興じる者もいる。島田先生が来た。練りをやっていると。「ダメだよ!そんなんじゃ」とゲキを飛ばされた。この先生は見た目も怖いが、指導も怖い。それでも色々とアドバイスをいただいた。「押されても動かないようなどっしりとした禅じゃないとダメだ」「肩を前に出すな」「手の力を抜いて」。最近、肚が出来てきてるなと思っていた僕に「肚が全然出来てないよ。(自分の肚を指して)ココが全然ない!」と言われたのは、かなりショックだった。ううっ・・・禅と練り、またやり直しだ・・・。と思った矢先、天野先生の「あと10分したら始めま~す!」の掛け声。年の瀬の日曜日、公園の片隅で殴り合う変な大人達。きっとまわりの人達には、そう見えたに違いない。

 今回の組手は、気功会のM井さんとキー坊(鉄拳タフ)の気合の入りようが凄かった。なんでも気功会に殴りこみに行くっていうレスが2チャンネルにあったそうで、島田先生も楽しみにしていたそうだけど、結局、誰も来なかったようで・・・。その気合の矛先が太氣会のメンバーに向けられちゃったってこと?

 気功会M井さんと太氣会のR田さんの組手では、「何やってんだお前ら!」と天野先生に頭をはたかれ、島田先生にも「そんな力んでちゃあ、ダメだよ。力を抜け!」とたしなめられてた。力と技がぶつかり合う壮絶な組手に見えたけど、島田先生に言わせると「ダメだ、そんな力はいってるんじゃ、ハイ、終わり」って。組手が終わってからM井さんに「お疲れ様です。今日は気合が入ってましたねー」と声をかけると、「いやー全然疲れてないんですよ。ちょっと気合が入りすぎて、空回りしちゃったな・・・」なんて言ってました。

 そしてそんな上級者達の組手とは裏腹に僕の組手はしょぼかった・・・。なんか僕って、ちゃんとした組手が出来るようになるんだろうか・・・。島田先生の一言で落ち込んで、またまた組手で落ち込んで、んーこれはもう、酒を浴びるほど飲むしかない!っと忘年会に突入したのでありました。

どこでもドアはどこにある?

 それにしてもみんな強くなっていてびっくりです。O津さんも、K屋さんも、K木くんも、K屋くんも・・・みんなKだな。とにかくその上達振りは目を見張るばかりです。毎朝立禅組んでる富リュウが落ち込むのもわかってもらえるでしょ。もう後輩にケツ叩かれて、イヤーンばかぁ!と言いたくなっちゃいますよ。

 一週間後、稽古の後の飲み会で天野先生の話を聞く機会があって、O津さんやK屋くんのことをずいぶんと褒めてました。「K屋なんかはさ、前の日まではすぐ横向いちゃってたんだけど、本番当日はちゃんとやってたよ。あいつの中で扉をひとつ開けちゃったんだよな。その扉を開けるとさ、新しい世界に入っちゃうんだよね。太気拳は」「せ、先生、やっぱり僕の組手って、しょぼかったですよね・・・」「富リュウも良かったよ。とりあえず自分の持てるもんは出せてたじゃない。それができれば十分でさ、あとは次の日から足りないものを補っていくような稽古をすればいいんだから・・・」と思いがけずのお褒めのお言葉・・・。ウルウルと嬉し涙にむせび泣く富リュウ。はてさて僕の扉はどこにある?

 ドラえもんにたのんでみようかどこでもドア

 未来の自分が見えるかも。←これって短歌になってます?

 そういえば、前から不思議に思っていたんだけど、天野先生の本、タイトルが「太氣拳の扉」――つまりそういう意味だったのね。

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会員・会友員のテクスト 富川リュウの太気拳修行記

平成15年・秋桜の季節

いつも答えはやってくる

 答えが見つかった時、いつも思うことがある。だったら先生、このことを初めから言ってくれればいいのに……その方が楽だし、その方が早いじゃない。でもこうも思う。そのプロセスに意義があるのかな、とも。

 人は安易に解答を求めすぎる。そしてそれは、たったひとつだと信じている。でもきっとそれは違うんだと思う。聞いてすぐに解ったことは、本当には理解できていない。しかもそれは、たくさんある答え中のひとつに過ぎない。その人にとっては正しい答えであっても、それがそのまま自分に当てはまる訳ではない。もちろん当てはまる場合も、たまにはあるんだけど。

 先生からは色々言われる。動き方を指示されることもある。こういうのをやりなさい。抽象的なアドバイスを受ける場合もある。雲の上を歩くようにしなさい。何を信じて太気拳をやっているのだろうか。以前はぼんやりとしていたものが、今ははっきりとわかっている。それはいつも答えは自分の中に在るということ。ときに搾り出すように。ときに滲み出すように。ときに湧き出すように。必ず答えはやってくる。培うこと、それが私の太気拳だ。

一本の線が見えてくる

 体の中に一本の線が見えてくる。それは立つための軸であり、動くための方向。そんなことを言っていた。そしてそれをずっと探していた。立禅のなかで、這いのなかで、探手のなかで、推手のなかで……。おぼろげに、それらしきものが体の中に育ってきている。養育費はただ。

肚のもやもや

 鼠径部で吸込むようにするとさ、肚のあたりにもやもやするものができてね、それが脚とかわき腹とか体を動かしてくれるんだよね。そいで、あとこれ(指差し歩きのフォーム)これができてればそうそうやられないよ。そんなことを先生が言う。早く私も、そう言えるようになりたいものだ。低い姿勢の立禅や這いをすると、足腰が張ってくる。そこで、もっと力を抜いてやってみる。鼠径部で吸い込むように立ち、肚は出っ張るでもなく、引っ込めるでもなく。しかしヒクヒクする感じ……。これって何?

頭で手を抑える

 首で肩を作る。頭から肘までが一体となる感じ。頭で手を抑える。手に頭が乗っていく。立禅と這いと練りと探手でこれをやる。動きが大きく早くなるほどにリキミが出てくる。肚は常に軟らかくヒクヒクさせておく。リラックスして一瞬の緊張を引き出す。打拳に頭を乗せる。上体が流れる、いかんいかん。足の踏み位置を重視。足が踏んでそこに頭が載っていてそれを打拳につなげる。ってことは自分のまわりだけに手を置いておくってことかしら? タン、ハツ、カシラ、レバーはたれで。

レクチャー

肚のもやもや?上半身と下半身を継なげる?脚の力を手に伝える?9月と10月は、わき腹、肚、内もも、このへんの連携を重点的に稽古していた。それはざっとこんな感じだ。

 立禅と半禅において、
 頭を突き上げて肘を引き落とす。
 咽のゴックンの感じを肚の真上に持ってくる。
 右上腕の内側(脇の下)と右わき腹(A)の充足感を味わう
 左上腕の内側(脇の下)と左わき腹(B)の充足感を味わう
 右の内ももの意識=C
 左の内ももの意識=D
 肚をカスガイとしてAとDを継ないでいく
 肚をカスガイとしてBとCを継ないでいく
 肚をカスガイとしてAとCを継ないでいく
 肚をカスガイとしてBとDを継ないでいく

這いでも同じようにやる。
 肚をカスガイとしてAとDが継ながっていて、BとCが継ながっている感じで這いをする。
 次は、 
 肚をカスガイとしてAとCが継ながっていて、BとDが継ながっている感じで這いをする。

練りも同じようにやってみる。
 肚をカスガイとしてAとDが継ながっていて、BとCが継ながっている感じで練りをする。
 次は、
 肚をカスガイとしてAとCが継ながっていて、BとDが継ながっている感じで練りをする。
 最後には、
 咽と肚だけ意識しておくと、肚を中心として自然にABCDが連携して動いてくれるように
 していく。

まあ、文章にすると長ったらしくなっちゃうけど、絵に描いてみると意外と単純。自分の身体でやってみると、そんなに難しい事ではない。やっぱり型(やり方)が重要なのではなくて、要はそのとき自分の体がどう感じているかってこと。あとは、継ながる感覚を自分の中から滲み出させるための工夫を皆さんもやってみてください。おわり。

毎日違う自分になる

最近では毎日新しい発見がある。毎日違う自分になっている。外見の変化は目に見えないかもしれない。まわりの人には気づかれないことかもしれない。でも自分の中は確かに変化している。これってとっても素敵なことだと思う。

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平成15年・初夏のたわむれ

謎の指差し歩き

 「できることをやっていてもしょうがないんだよ!」師の叱責がとぶ。“なんば歩きで綱渡り”をやっていたときのことだ。師の言葉がつづく。「できてることを何十回、何百回やったって意味がないんだよ。自分に足りないものは何かということをよく考えて、それをしっかりと見つめて、それを乗り越えていくことが、太気拳の稽古なんだって、俺は思うんだけどな」と。どうも人間とは弱いもので、できるようになったことに固執しがちだ。それを繰り返す事で悦に入ってしまう。しかして師はその甘えをいっさい許さない。できるようになったことを褒める前に次の課題を示される。そして次はこれをやりなさいと、“謎の指差し歩き”を指示された。

 “謎の指差し歩き”なるものは、それまで一度も見たことのない動きだった。だまってやってはみたものの、それが何を意図しているのかがさっぱりわからない。だから私にとっては“謎の”〇○○なのだ。何もわからないまま見よう見まねでそれをやっていると、そこかしこで「肩をしっかり返して!」「もっと指で中心を差すように!」「最短距離を三角に動かして!」「もっと腰を落として!」とアドバイスがあった。そして時には速く、またある時にはゆっくりとやるように、と言われた。

 果たしていったいこれは何なのか?

 どうも動きがぎこちなく体に馴染まない。しかし答えを探す事も稽古のうち。それが太気拳の稽古というものだ。「動きがぎこちなく体に馴染まない」と感じているのであれば、「身体に馴染んでスムーズに動けること」をテーマにして反復練習すればいいのだ。

立禅レボリューション~関節ハマッテますか?~

 稽古のあとの雑談の合間に、「こう、だんだんやってるとさ、肩の関節がハマッテくるんだよな。まあ肩と言わず何処といわず、指や手首や肘、膝、全部の関節がハマッテくるんだよ……」師のそんな話を一年ほど前から小耳にはさんでいた。「ああた(あんた)関節ってもんはね、脱臼でもしてない限りはハマッテて当然じゃないのさ!」と耳元で常識の小悪魔が囁く。しかして師の言いたかった事は何なのだろうか……富リュウのこの身の上に、はたして関節のハマル日が訪れるのだろうか。「先生、僕でもいつかは関節ハマルんでしょうか?」「んー。富川はもうすぐだよ、あと3ヶ月くらいかな。ちゃんとハマルよ」そ、そ、そんなことを言われてしばらくして……ハ、ハマッタのです。腰が、首が、股関節が……。

 腰のハマッタ記念日:4月18日金曜日、大船にて。
 腰のハマッタ状況:這いの稽古をしているとき、左足への重心移動の際に腰が後ろに残り気味だった模様。その際、先生がサポートしてくださって、腰をそっと押してくれたその瞬間、ハマッタ。

 首のハマッタ記念日:5月9日金曜日、都内某所にて。
 首のハマッタ状況:立禅のあと揺りをしていると、どうも首の具合が悪く、どうしたものかと色々と工夫していて後輩の話しを思い出す。その後輩は、以前ある意拳の先生から「背骨が圧縮される感じ」と言われたけど意味がわかんなかったとのこと。頚椎を圧縮してみる。そしてハマッタ。

 股関節のハマッタ記念日:5月28日水曜日、朝の出勤時。
 股関節のハマッタ状況:朝の出勤時、歩道を歩いていると、尻の股関節あたりに違和感が……。歩きながら少々調整してみると、ハマッタ。

 さて、関節がハマルと何かいいことがあるのでしょうか。一言でいうと楽になります。腰がはまった時から、腰に負担がなく疲れない這いができるようになりました。立禅でハマッタ首の感覚を這いにも使ってみると、視点がよく定まって、なおかつ視界が広がったようにように感じました。またその中で、意識が目標物に絡みつくような感覚も出てきています。股関節がハマッテからは、半禅の際に足裏の真上に骨盤が乗るようになり、また背が伸びたようにも感じました。そして日常生活の中でも立っていることや歩いている時にとっても楽になりました。

進化する這い~面がよじれる~

 春先から天野先生に指導されている這いは、捩じる力で軸を保つ、自然な螺旋のねじれで姿勢を維持することがポイントです。左足一本で立つときに、左の肩と腰を自然に引いて、右の肩と腰がやや前へ出て行きます。しかしこれは楽ではあるのだけれど、どうも力が感じられない。そしてときに振らついてしまうのです。這いの極意はただ真直ぐに安定して立っていればよいのではなく、どの局面を切り取っても、そこから瞬時に前へ、あるいは後ろへ、素早く動ける状態であるはず。さればどうすればよいのだろうか。「先生、なんかふらついちゃうんですけど…」「もっと腰を落として、股関節の正面側(鼠径部)で吸い込むようにしてごらん」とのこと。なるほど確かに安定感がある。しかし何かが足りない…何かが…。そこで引いている左肩の付け根、つまり脇胸のあたりでも吸い込むようにしてみた。ってことは脇胸を引き込んでも肩はやや前にあるように。んーこれはいい感じだ。そこそこ安定感が出てきたぞ。

 そして一ヵ月後、それでも這いがいまいち安定しない。ふと「ヘソか?」という思いが脳裏をかすめる。左足で立つときに左腰を引いてヘソも左を向いていた。これを左腰(わき腹)を引きつつもヘソの意識だけを中心の目標物に向けておく。うん、これでバッチリ。なかなか安定感がある。

 ここでちょっとおさらい。左足一本で立つときに、左の肩と腰を自然に引いて、右の肩と腰がやや前へ出て行く姿勢が基本。だけど肩とヘソだけちょっと残す。つまり左のわき胸を引きつつも肩をやや前に残す。そして左の脇腹を引きつつもヘソの意識を中央に残す、という具合になる。

 この感覚がわかってくると体の面の使い方に応用が利くようになってきた。面というのは両肩から胸、腹、腰骨までの大きなスクエアな面のこと。この面をよじって使うことを覚えると、自分の身体の使い方に新しい可能性が見えてくる。

 私が思うに、これまでの稽古では、肩腰の一致を第一段階のテーマとしてやってきていた。腰と肩が一致して動くことで出る力を感じること。そのために肩と腰のつながりをしっかりと造り上げること。そして第二段階ではこの面をよじって使う。各部の繋がり合いがあることを前提に、各部の連携を感じながらそのスクエアな面をよじって使う。そういうことなんじゃないかな、と思う今日この頃なのです。

 ここへきて自分の体を不思議に思う事があります。太気拳をやっていて、初めは動かない稽古やゆっくりと動く稽古ばかりなんだけど、ある日ある時、急に速く動けるようになるのです。そのきっかけは、自分の軸が感じられた時だったり、関節がハマッタ時だったりします。「先生、なんかこうピタッとハマッて、固定された感じが得られた後に、速く動けたりするのって、なんか矛盾してるんてすけど、出来ちゃってるのって何でですか?

 自分でもなんか不思議なんですけど」「それはね、禅や這いでハマルってのは、好い所がわかるってことなんだよ。好い所ってのは、自分の姿勢の中心の好い所、そして自分の軸の好い所。だからそれが身につけば、動くって言うのは、打拳を打つにしても歩法で動くにしても一番効率のよい無駄のない動きが可能になるのさ。だから位置が固定されたと感じたあとに、すごくよく動けるようになってる自分を発見したりするんだよね」とのこと。なるほど・ザ・太気拳ワールド、である。

指差し歩きから打拳へ

 ボディの面をよじって使うことを覚えると、指差し歩きにある種のまとまりができてきた。そしてその意図する所が見えてきた。これはつまり打拳を打つ方向に身体全体のベクトルを調整していくものなのではないだろうか。右左右左と一歩一歩しっかりと重心移動させながら、指で中心を差す動作ができてくると、足の踏む力、前へ移動する力が指先に乗ってくる。そしてもうひとつ、一歩一歩の重心移動の際に肩から肘までをしっかりと返すこと。これができないことには打拳に重さがでてこない。つまり指差し歩きの意図する事は、一つには指先を使って力を出す方向をしっかりを身につけること。もう一つは身体の返しをキチンと肘まで伝えること。この二点なのではないだろうか。

 人の身体というものは、末端の方がよく動かせるようにできているらしい。いちばん器用に動かせるのは指と手(掌)。次は前腕、肘、二の腕、肩という順番だ。そして身体の基幹部である、胸、わき腹、腹、背中などに至っては、中々思うようには動かせないものだ。

 打拳を打つ師の姿を後ろから見ていると、肩甲骨や背中の細かい筋肉までもが小躍りするようにピクピク動いている。そして推手をしているときの師の脇腹や脇胸は、ダイナミックに躍動し、力強く動いている。ほほぉ~これは新発見じゃあ!そうとわかれば富リュウもこうしている場合じゃあない。さっそくそれを目指さねば。でもなんか、やっとスタート地点に立てたように感じる。いや待てよ、これは元に戻ったという意味じゃあない。これは新たなステージのスタート時点なのだ。「先生!第一ステージクリアしたので、第二ステージに入りまーす!」。

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平成14年・冬の章

組手の季節

 お花見で組手をやったのが、ついこの間のことのように思い出される。あの時はとっても緊張していた。始める前から心臓がバクバクしていた。立禅をしていても気もソゾロといった感じだったし、探手をやっていても動きが硬い感じがあった。そして組手が始まって、なんとかそれなりには動けたが、新たな課題も見つかった。足が前に出て行かない。下半身を残したまま手だけで打とうとするので、上体が流れて腰が引けたような姿勢になる。当然軸は崩れ、体の統合は失われ、打拳には力がのらず、防御も穴だらけとなっていた。

 季節は移りかわり、今は冬。あれから8ヶ月の月日を経て、富リュウはひとまわり成長した。11月に一度か二度、ライトな組手をする機会があったが、怖さを感じなくなっていた。もちろん格上の先輩と組手をやって、勝ててる訳ではないのだが、安心感というか、なんとも言葉では表現できないのだが、身体に任せるというか、姿勢さえ崩れなければなんとかなってしまう――という感覚がいつの間にか身に付いていた。

 そして12月15日、毎年恒例の忘年会組手が行われた。今回はとってもリラックスして組手ができた。体が自由に動く。普通の方々からは奇異に思われるだろうが、楽しい殴り合い――といった感じだ。何人かの先輩から「お前、強くなったな」と言葉をいただいた。素直に嬉しかった。「気負いなく、自由奔放な感じに動いていたのが印象的だったよ」とも言われた。

 組手って楽しいよな。いつも天野先生はそんなことを言っていた。以前の自分には、それがどういうことなのかがさっぱり分からなかったが、今回は自分でもちょっと楽しかった。きっと俺は強いんだぞと自慢したり、自分の強さを知らしめて優越感に浸るということではなく、もっと内側から湧き上がってくる自分という存在を確認し、それを表現するのが組手なのだと思う。だから組手って楽しいよな、ということになる。富リュウもその世界に一歩足を踏み入れてしまったようだ。「自己表現のための組手」それをもっと満喫してやりたい。

無重力の這い

 這いの稽古をしているときに天野先生がひとついいことを教えてくれた。「後ろから前へ重心を移していく際には、前足を引き上げるように使うんだよ」とのこと。それまでの自分のやり方は、前足にぐぅ~と乗って行くようにしていたので、足腰にけっこう負担を感じていた。

 毎朝の自主練で、さっそくこの這いを試してみた。前足を引き上げるように使いながら移動してみると、確かに足腰の負担が軽くなる。この這いを2度3度と繰り返す内に、新しい体の使いかたを発見した。名づけて「無重力の這い」。前足を引き上げながら、頭頂部も引き上げるように使うことで、よりいっそう軸が安定し、腰を落としていても筋力に負担がかからない這いができるようになった。これは今世紀最大の大発見!と言っても良いくらい私にとってはエポックメイキングなことだった。この状態を維持して探手をしてみると、これがなかなかいい具合で、まっすぐな姿勢のまま前進していける。ムフフフ、なんだか楽しくなってきたぞ……。

ぶらぶら立禅

 肘の位置が落ち着くべき所に落ち着いたようだ。肘の位置が決まると前腕がじゅうぶんに脱力できて、ふらふらとどこにでも行けそうな感じになる。それとは裏腹に二の腕が疲れてくるようになった。先生に聞くと「疲れないような位置を探せばいいんだよ」と言われるだろうと思い、しばらくは自分でそれを探していた。前腕を立ててみたり、横にしてみたり、色々と試してみるのだが、どれもかんばしくない。一月ほどやっても進展がなかったので、やっぱり聞いてみることにした。「手首の角度を工夫してみては」と意外な答えが返ってきて、なるほどそれには気づかなかった。手のひらをちょいと下向きに、あるいは内向きに、色々と試してみた。具合のいいところが見つかると、確かに二の腕の疲労は軽減された。

ボロボロ推手

 12月の15日の組み手の後、ちょっと腰を痛めて稽古を休んでしまった。年が明け1月に入ると、こんどは土日出勤が重なり、結局、まるまる一ヶ月間も稽古に参加できなかった。「でも自主練はやってるから、そこそこ行けるだろう」という希望的憶測とは裏腹に、推手はボロボロだった。軸が定まらず、足はタタラを踏み、息は上がりっぱなし。天野先生からは腹がガラ空きと言われ、ヒザ蹴りを何度も喰らった。やっぱり、対人稽古もしていないとダメなんですね……トホホ状態である。一ヶ月間、とりあえず一人稽古はしていたのに、それは全くの無駄だったのではないかと、ちょっと落ち込んでしまった。

 でもあくる日からはやっぱり自主練。もう日課となっている。先生に言われたガラ空きの腹……下に抑えつける力がないから、腹が空いちゃうんだよ……という言葉を思い出しながら、ではどうすれば……と考えながら禅を組む。答えはすぐにやってきた。頭を天に突き上げる感覚を以って肘で下に抑え、肘で下に抑える感覚を以って頭を天に突き上げる……コレだよコレ!

 芋づる式に出てきた二つのことに感謝、感激、雨あられ!

 特に自分にとっては、腹ガラ空きの矯正より、頭頂突き上げ感を手に入れたことが嬉しくてたまらない。やはり無駄ではなかったのだと思いたい、自主練だけの一ヶ月間を。きっとその間の蓄積があったからこそ、推手の次の日に、新たな体の使い方を手に入れられたのだと思うのです。

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平成14年・秋の章

Chapter SAT -おかあちゃんのためなら-

 川崎市中原区にあるその公園へは、私鉄電車で向かっていた。稽古は午後の2時からだというのに、もう2時30分だった。時間どおりに行こうと思いながらも、大抵こんな時間になってしまう。駅のホームで虫除けスプレーを振る。特に足首と襟首回りを念入りに。もうとっくに秋らしい陽気だというのに、今年はまだまだやぶ蚊が多くて参ってしまう。

 公園に着くと数人が立禅をしている。荷物を置いて、靴を履き替え、準備体操をする。それが終わって、皆のいる方へ歩み寄り、目礼する。師はいつものように軽く「おうっ」という感じでうなずいてくれる。

 正面を向いて立禅を始める。一月ほど前に師から与えられた課題は、踵重心と爪先重心の使い分けだ。爪先に重心があるときには、体全体が伸び上がろうとする。その力を確かめながら、体の中での力の拮抗を感じてみる。踵に重心があるときには、沈み込もうとする力がある。その力に諍いながら、体の中での力のせめぎ合いを味わう。しばらくそれをやったら、今度は左右でこれをやる。右は踵荷重で左は爪先荷重とする。こうすると腰から上が回転しようとする図太いトルクが感じられる。師はこれを柔道の投げ技に見立てて説明してくれた。同じことなのに、左が踵荷重で右が爪先荷重としてみると、今にも右のフックが爆発しそうな気配があるのが不思議だ。

 頃合いを見計らって半禅に移る。左右それぞれ色々なパターンでやってみる。爪先荷重、踵荷重。開く力、閉じる力、捩じる力。ひとり練習のときにの立禅は、大抵が20分くらい、長くても30分くらいしかやらない。でも皆と一緒だとそれが励みとなり、40分から60分位はできてしまう。もっとも師の目が光っているという緊張感が、一番のモチベーションであることは否めないが…。

 揺りをはじめる。近頃の揺りは何かが変だ。体がうねるじれったさが、何ともいえずもどかしい。これは一体何だと言うのか。じれったいけどもっとやっていたい。もどかしいからまだまだ続けたい――。そのうち時間があるときに、揺りだけを1時間くらいやってみたいものだ。

 這い。一本足を意識して行なう。師から首の角度を指摘され、もっと力を抜いてとアドバイスをもらう。ふと見ると、まだ一年目の弟子に、這いの足使いでの力を出す方向を説明している。自分が入会した頃の懐かしい思い出がよみがえる。はじめは上体を正面に向けたままで行なう。よじれようとする腰をそのままに、タメを意識しての這いだ。次には上体を自然によじらせながら、且つそこに行く力と戻る力を感じながら。

 ちょっとトイレ休憩。うがいもして気分を変える。次は歩法。今日はどの歩法をやろうか・・・やはり踵の返しか。ナンバ歩きから入る。綱をたぐって一直線に。次は、左右のレールにステップする。また綱をたぐって一直線にもどる。かなり腰や肩の動きにキレが出てきていて、ささやかな喜びを感じる。そして今日のテーマは、爪先荷重と踵荷重の使い分け。腰から上の捩じる力でフックを打つ。歩法と打拳が一体となる、はずなのだが、まだまだそんなに上手くはできない。

 三連打拳から五連打拳へ。これはかなり体に馴染んできている。ずいぶんとスムーズに繰り出せるので気分がいい。息が切れ、汗がしたたり落ちる。ちょっと一息。体を軽くほぐす。腕をぐるぐる廻し、屈伸をして腰を伸ばし、しばしの立禅・・・。次は何をやろうかと考えている。時計を見やると4時40分。大抵いつも5時頃には推手がはじまる。もう時間がない。よし、探手をやるぞ!

 とりあえず、手のオフェンス・ディフェンスは置いといて、足使いのレパートリィを確認する。電灯の鉄塔を相手に見立て、それに対峙する。斜めから入る方法はふたとおり。ひとつは、前足を外へずらして入るやり方。前輪駆動を意識して飛び込む。もうひとつは、後ろ足から動くやり方。横に動いてから順足で差す。そして後ろ足のスイッチを使って、相手を翻弄するつもりになって動いてみる。まだまだそこかしこに、ぎこちなさが残っている。

 よし、推手やろうか!師の号令が掛かる。事前に水分を補給する者、汗を拭く者、拳サポを着ける者。中にはすぐさま相手を見つけて、もう推手を始める者もいる。今日の課題は肘の張り、そして前腕で囲った空間を死守すること。丁寧に丁寧に推手を行なう。力をとぎらせないように、常に前腕の接触点で相手を抑えていること。雑な推手をする相手には、付き合わないように。手を伸ばし過ぎず、接触点の維持よりも空間の維持を優先させる。こうしておくと何処からどんな風に相手がきても、手がそれに反応してくれるし、姿勢も崩れない。だいぶ肘の張りを失わずにいられるようになってきた。今日は、まずまずの出来か。

 以前、師が言っていた言葉を思い出す。あんまり細かいことは、書いてもしようがないじゃないかと。確かに自分もそう思う。体で感じるということ、自らが体験するということ、そのときの自分の気持ち、それを文章にしたところで、一体どれほどその中身が伝わるというのか。書けば書くほどに、言葉で表現するということの、文章を駆使するということの、限界を思い知らされる。

 今週末もちゃんと稽古に参加できて幸せだった。明日の日曜は妻を誘って映画でも見に行こうか。あれやこれやの家族サービスも大切。妻の理解があるからこそ、拳法にも取り組めるというものだ。♪おかあちゃんのためなら、エーンヤ・コーラ。♪もひとつおまけに、エーンヤ・コーラ。なんだか急にコーラが飲みたくなってきた・・・。(おわり)

 炭酸は体に悪いから飲むなよ! 浅N先輩(怒)

Chapter SUN -縄のれん-

 今日は横浜市営地下鉄に乗って岸根公園へ向かっている。稽古は2時から始まりだというのに、もうすでに2時になってしまっている。またちょっと遅れてしまいそうだ。今日は虫除けスプレーはいらないだろう。ずいぶんと涼しい陽気になったものだ。それより長袖を着なくても大丈夫だろうか寒くはないだろうかと、心配性な僕なので臆病風に吹かれてしまう。

 公園に着くと数人が立禅している。荷物を置いて、靴を履き替え、軽く準備体操を。皆のいる方へ歩み寄り、軽く目礼する。師はいつものように、軽く「おうっ」という感じでうなずいてくれる。

 正面を向いて立禅を始める。ここの公園は緑が多く、すがすがしい気分になる。しばし無心に禅を組む。考える事も必要だが、ときには何も考えず、無念夢想の立禅をしよう・・・はたしてどれほどの時間が経ったのであろうか・・・ふと気がつくともう夕暮れ時だ―――というくらいに没頭して禅を組めるといいのに・・・。腕時計を覗いてみる。まだ10分しか経ってない。トホホ、である。

 揺りをはじめる。自分が水あめのプールにどっぷりと浸かっているように錯覚するほど、体の中に充実感がある。練に移る。師の指摘を思い出し、いつもそこかしこに力が継続してあることを認知させる。

 這い。今日は風が強いから、帆を張り前進と言った感じか。向かい風を感じてゆったりと歩み、ゆったりと後退する。自然の恵みに感謝。ふと傍らを見やると、師が探手をしている。ここのところ、師の進化には目覚しいものがある。以前とは、とっても何かが違っている。日進月歩に変わってきている。動きがダイナミックになり、それでいて繊細で緻密。溜めから一気に爆発。切れのある動き。軸にブレがない。一瞬の変化。停まっているように見えて居着かず、だからすぐに動き出せる。達人技か神技か。その旨、尋ねた事がある。なんか最近変わりましたね。上手くなっているというか、進化している感じですね。そうか、お前にも見えるようになったか。そうなんだよ。俺はいまでも進化してるんだよ。師は、おごらず気負わず、さらりと言ってのける。壮年期といえる年齢でありながら、それでも進化しつづけているという事。その師の背中を見つめ、あとに続く弟子達。いつの日か、師の実力に追いすがるのではなく、己の中に真価の玉を見つけられる。そんな日が来るのだろうか。

 ちょっとトイレ休憩。うがいもして気分を変え、屈伸をして腰を伸ばし、暫し佇む。次は何をやろうかと考えている。そうだ、セミナーの時の復習をやらなきゃ。

 まずは、差し手を絡めての順突き。逆手の差し手から入ってその手で相手の腕を絡めて引き寄せ、崩れた相手を順手で決める。これを歩を進めながら交互に行なっていく。差し手は全身が一本になっているように。絡めて引き寄せるときには、体勢が崩れないように。頭を足先へ載せること、肘の張りを意識することがコツ。

 それから虎歩を行なう。これもセミナーで教えてもらった。差し手を打ちながら、狭いスタンスでジグザグに歩を進めていく。踏み出す足でポッと踏み、寄せ足でコッと踏む。ポッコッポッコッポッコッポッコッ、ポッコッポッコッポッコッポッコッ・・・虎というよりはニワトリのようだ。見た目は悪くとも、歩を踏む力を全身に伝える意図がうかがえる。しばらくこれで毎日通勤しよかとも考えてみたが、変人扱いされると妻が可哀相なので止めておこう。

 よし、推手やろうか!師の号令が掛かる。いつもより少し時間が早いように感じつる。まだ4時半だ。もう少し虎歩の練習をしたかったが、時間切れとなってしまった。だったらもっと早く来いよ、と妖精が耳もとでささやく。気のせいか、木の精か。

 推手が始まった。今日の課題は立ち位置。常に一本で立っているか、ひざを閉じてから歩を進めているか、歩幅は広すぎないか、力を出す方向は、足先の向いている方向と一致しているか・・・。圧力のある先輩とがっぷりと組む時には、とにかく禅のフォームを維持することに専念する。これさえできていれば、体勢が崩れることはないし、手も効いてくれる。格下の者とあたる時には、足位置をいろいろと工夫してみる。正しく踏み変えが出来ると、力を入れなくても、相手が崩れるのがわかる。ただ、ときどき自分のスタンスが広すぎる場合があるので、これは改めねばと反省する。スタンスは狭く、自分の重心のある範囲にだけ置いておく。そんな師の言葉が思い起こされる。

 人影もまばらとなった夕暮れ時の公園に、たたずむ七人のサムライ達。上気した男達の裸体が揺れる。どの体も引き締まって美しい。師のがっしりとした体躯が、ひときわ存在感のあるオーラを放っている。どの顔も、誰かが何かを言ってくれるのを待っている。「ちょっと一杯、軽く行きませんか」と口火を切るN田君。いい出しっぺはいつもこいつだ。誰もやりたがらない役回りをいつも一手に引き受けてくれる。

 夕闇に そぞろに歩みて 縄のれん 今日はくぐるか くぐらんか。

いわずもがな、一杯で終わることなく盛り上がる酒宴。サムライ達の束の間の休息・・・。(おわり)