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メールQ&A 天野敏のテクスト

立禅における腕の微動2

Q:
昨日、立禅の際のわずかな手の動きについて質問し、早速のお返事を頂いた者です。あまりに早いお返事と明晰なご説明についわかったつもりになり、先ほど「わかりました」とメールしてしまいました。
が、もう一度立禅をしてみると、やはりわかっていないことに気が付きました。
たびたびのご質問、申し訳ございません。

天野先生からは:
さて、腕の動きについて。
これは別にわざと動かしているわけではありません。
ジッと立っていると、肩や肘、あるいは手指と色々なところの関節の不具合が感じられてくるものです。
それを少しずつ動かしながら調整します。
ですから、このように動く、とかいうものはありません。
要は自分の各部分の不都合な部分を探し、具合の好い様に変えていく、という作業です。

というお答えを頂きました。私は、剣道をしており、行き詰まりを感じる中で太気拳のことを知りました。何冊の本を元に毎日、30分程度の立禅と、這いや練りを合わせて30分くらい行うようにして3カ月ほどになります。しかし、わかりやすさという点でも、先生の『太気拳の扉』と『太気拳完全戦闘理論』は素晴らしいですので、疑問が出たらそこからヒントを得るようにしております。

先生のHPを拝見すると、Q&Aの中で、腕に張りが出たり、ゴムのボールをはさんでいるように感じるというのは、関節の不具合が調整されてきたから、というご説明があったように記憶しております。このような感覚は、しばらく前から私も感じることがあります。最近は、練りをしていると腕が重く感じることもあり、『秘伝』の先生の記事を見て、「水飴のような感覚」のお話とかさなるのかな、と思いました。
それでも、やはり、この不具合の調整ということが難しいのですが、調整がうまくいき始めた時の感覚には他にどのようなものがあるのかをお教え頂けないでしょうか。

また、今、何冊かの本を見てみると、意拳では「微動する」というような記述があります(佐藤聖二先生の文章でも拝見しました)。これは,上下,左右,前後に微動するとのことなのですが、この目的はやはり不具合を調整することなのでしょうか。

お時間がおありの時で結構ですので、お答えを頂けませんでしょうか。

A:
○『調整がうまくいき始めた時の感覚には他にどのようなものがあるのか?』

うまく説明できませんが、腕が肩からぶら下がっているような感じ、とでも言えるかも知れません。
これで良い、と言うものではありませんから難しいですね。
ただ、ある程度整ってくると、見てすぐにわかります。
同じ様に立っているように見えても、内容のある立禅と、まとまる前のものとは全然違います。

○『上下,左右,前後に微動するとのことなのですが,この目的はやはり不具合を調整することなのでしょうか?』

微動、これは実に難しい質問です。色々な角度から考えることができます。
一番根本的なことから言うと、立禅は何のために組むか、という問いになります。
立禅を組むのは、ヒトの身体は普通の状態では整っていないものだ、という前提があるからです。
もちろんそんなことは無い、という人もいると思います。
それはそれでいいと思います。
しかし、私の理想と思う拳を実現しようとするには、ヒトの身体は不十分で整っていない。
だから整えるために禅を組む。
肩や腰を整える、各関節の落ち着きどころを探す。
探すから少し動く、わずかに動きながら探す。
これが前回の回答でした。

大きな意味では不具合を調整する、と言う事です。
しかしここではちょっと違う方向から見てみましょう。
禅の目的はひとつではありません。
「静の中に動を探る」ということがあります。
禅を組んでいて動こうとします。
前に行こうとしてやめます、後ろに動こうとしてやめます。
行こうとするのも戻ろうとするのも気持ちです。
その時、つまり気持ちが動こうとすると、それを止めようとする力を感じます。
だからやめるわけです。
その繰り返しが微動になります。

微動の原点は、この動こうとした時のそれを止めようとする力を感じるところから始まります。
つまり行こうとすると、戻そうという力を感じるのです。
前に行こうとして戻され後ろに下がろうとして押されるのです。
この微動が沢井先生の言われた独楽のような力かもしれません。
動こうとして準備ができるとそれを静止しようとする力を感じる、
で、別の方向に動こうとしてやめる、これを気持ちの速さで行う。

上下前後左右を意拳では六面といいます。
六面にこの微動を感じていれば動こうとした時にすぐに動き出せます。
何故なら動く準備ができているからです。
つまり上下前後左右に動く準備をしているのと同じだからです。
動けば時間が掛りますが、準備なら時間が掛りません。
普通は動こうとして準備して動きます。
ところが準備ができていればいつでもすぐに動き出せる、と言うわけです。
微動というのは動こうとして止められるからわずかな動きになるのです。

さて、此処で大事なのは止めようとする力とは何か、と言う事です。
動こうとするときにそれを止めようとする力。
動こうとする力は即ち運動エネルギーです。
正の方向に物が動こうとすれば、負の方向にも力が生まれます。
遠心力があれば求心力が生まれるのと同じです。
動くとするのを止めようとする位置エネルギーです。
それを感じる感性がヒトの身体に埋め込まれているということです。
それを六面に感じられるということはつまり、身体の軸がどの方向にもまとまっている、と言う事です。

どの方向にも身体がまとまっていて位置エネルギーを感じられる。
と言うことは、それが動いたときには大きな力が発生する、と言う事です。
位置エネルギーとは質量であり、質量が移動する距離と時間の関係が力ですから。
つまり、動きの速さと力を生み出す元が微動、と言う事です。
立禅の中のもうひとつの動的な部分が微動と言うわけです。
もちろん別の角度から見れば、他にも書きようがあると思いますが、とりあえずはこれをもって答えとさせてください。

太気会 天野

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立禅における腕の微動

Q:
初めてメール致します。私は、先生の『太気拳の扉』と『太気拳完全戦闘理論』をもとに独学している者です。難しいものを明晰な理論で説明されていることに驚いています。その中で生じた疑問が一つあるのですが。

DVDの中で先生やお弟子さん達は、立禅の際わずかに手を動かしているように見えます。これはなぜでしょうか?
また、動かすことがよい効果を上げるのであれば、どのような方法で動かすのがよいのでしょうか。
先生のDVDにもご本にも、立禅の最初に少し前後、もしくは左右に体を揺するというような記述がある他は、手を動かすことに関する解説がない(私の読み方が不足しているのかもしれません)ように思われるのですが、是非お教え頂けたらと思います。

A:
独学で太気拳の稽古をしているとの事。
大変だと思いますが、がんばってください。
きっと何時かやっていてよかったという日が来ると思います。

さて、腕の動きについて。
これは別にわざと動かしているわけではありません。
ジッと立っていると、肩や肘、あるいは手指と色々なところの関節の不具合が感じられてくるものです。
それを少しずつ動かしながら調整します。
ですから、このように動く、とかいうものはありません。
要は自分の各部分の不都合な部分を探し、具合の好い様に変えていく、という作業です。

禅はジッと立つといっても、ただ立てばいいものではなく、こういった身体の調整を不断に続けていく稽古です。
だから決して動いてはいけない、と言うものではありません。
ジッとしていて、具合の悪いところを探る稽古でもあるわけです。
特に肩や股関節は可動角度が広いかわりに、きっちりと収めるのがなかなか厄介な部分です。
だから結構もぞもぞ動かして居心地のいい具合を探ることがよくあるのです。
日常生活では、怪我などしない限り、身体の収まり具合など気にもしないと思いますが、武術ではとても重要です。
普通の人は自分の身体がきちっと収まっていないのに気がついていません。
それが禅を組むことで、顕在化してくるのです。
それを少しずつ直して身体をまとめていくのが第一歩であり、目標でもあります。
なんと言っても身体がまとまらなければ、拳法にはなりませんから。

禅を組むのは、自分の身体を探ることです。
自分の身体と正面から向かい合って、身体を知って初めて人と向かい合って相手のことがわかるようになるのです。
一人で稽古するのは大変だと思いますが、何かあればまたメールを頂ければ、と思います。
がんばってください。

太気会 天野

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意拳の這と太氣拳の這

Q:
意拳や太気拳に興味を持って天野先生の太気拳の扉も読ませてもらいました。そこで素人の質問で申し訳ないのですが質問があります。それは太気拳の這は腰を低くして行い、意拳の這は腰を高くして行うと言うことなんですが佐藤嘉道先生の拳聖澤井健一先生の中で這は組手の時に必要な柔軟な足腰にするために重心を低くして行わなければならないと言う事なんですが、これを考えると意拳の這は問題があると思ってしまうのですが、どうなんでしょうか?
腰が高い這でも太気拳と同じような効果は得られているのでしょうか??

A:
さて、なかなか簡単には答えられない質問です。
太気拳も意拳も源は同じですから練習の格好も同じはず、がどうもそうではないぞ、というのが大方の感じ方かと思います。
特に立禅や這い等は太気拳が低く意拳は高めではないか、という印象があると思います。
この違いはどこから来たのかは私はわかりません。文革とかいろいろな原因はあると思いますが、それを調べるのは私の任ではありません。

ただ、言える事は腰は低くも、また高くも柔軟に動かなくてはならないこと。低いだけではなく、高低の変化がなければならないと言うことです。いくら腰が低くても低いだけでは不十分です。
確かに腰の高い這いばかりでは、柔軟な動きを引き出せるはずはありません。
太気拳のみではなく意拳にも腰を落としての練習は多くあります。
重心を落とし、足ではなく腰で這えるようにするのが大事だと思います。
また腰が低ければいいというものでもないと思います。自分にあった、あるいはしっくりと来るところを見つけるのも練習からです、そしてそれは意外と低いものです。

あせらず、自分を育てるつもりで練習してみてください。

太気会 天野

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我流の立禅は危険か

Q:
小生ささやかに剣道教室をつづけているものです。立禅をはじめたいのですが、危険だから我流でやるの反対だといわれました。禅病に落ちるとのことです。
ご意見を賜りたいのですが。また、よい指導書があればおしえてください。

A:
立禅に関してのご質問ですが、我流でいいのかということ。

立禅は正直に言って我流しかありません。
私の立禅も我流といえば我流。
確かに先生に概略は教えて貰いましたが、そこから得たものは自分でつかみ出したものばかりです。
教えられるものがあるとしても、それは形ときっかけだけです。
立っていて何となく何かになるのではなく、これでいいのか、これでいいのかという疑問の末です。
立禅はどう組めばいいのか、と言う疑問に正解は無いと思います。
疑問の積み重ねがいつか何かを生み出していくのです。

よっぽどの馬鹿げた思い込み(立禅を組んでいると突然悟りが開けるとか)が無ければ、危険なんてこれぽっちもありません。
禅病というのは、思い込みでこうなって欲しいという事にからめとられているだけです。
虚心坦懐、ただ立ってみてください。
その時初めてどう立てばいいのか、疑問が湧いてきます。
その疑問と向き合うことが立禅です。

それからよい指導書は、との事。
これはまあ、私の本でも読んで入門書としてください。
とにかく、立禅は組んでみるところからしか始まりません。

しばらく組んでみて、どうしても聞いてみたい、という事が出てきたらまたメールをいただければ、と思います。

太気会 天野

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這の体重移動と骨盤

Q:
はじめまして。私は先生の挑戦講座のビデオを見ながら独学でして いる学生です。

質問なのですが、這いを行っているときに、後ろ足を引き付ける時は後ろ足側の骨盤を上げるつもりでやっているのですが、前に足を出して、体重移動 の際に前側の骨盤をあげることによって後ろ足で地面を蹴る(踏む)感じで体を前に送るようにして体重を前足に乗せたほうがいいのか、後ろ足の骨盤を上げて体を前に沈み込む(すでに前足は地面についているけど、前足で踏み込む感じ)ようにして体重を前足に乗せたほうがいいのか、どちらがいいのでしょうか。
文章がわかりにくい と思いますが、これが理解できないと先に進めない気がしますのでご返答お待ちして おります。

A:
>> 後ろ足を引き付ける時は後ろ足側の骨盤を上げるつもりでやっているのですが

前足に重心が移っているのならそれで良いと思います。

>> 前に足を出して、体重移動の際に前側の骨盤をあげることによって後ろ足で
>> 地面を蹴る(踏む)感じで体を前に送るようにして体重を前足に乗せたほうが
>> いいのか

それで良いと思います。
どちらにしても骨盤はシーソーのようなものですが、意識は引き上げるような感じのほうが良いようです。
引き上げる力で踏み込む力を引き出すようにしないと、身体が浮いてしまいます。

>> 後ろ足の骨盤を上げて
後ろ足の骨盤を上げるように意識するのは、後退する時です。

>> 理解できないと先に進めない気がしますのでご返答お待ちしております。
大切な事は悩む事、そして正解がないことを知る事です。
試行錯誤が成長の糧です。
理解できなくても先に進めないと思っても、悩んでいればいつか伸びていくものです。

頑張ってください。

太気会 天野

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上下の力の感じ方

Q:
こんにちは。先生のビデオを見て立禅をはじめた学生です。
質問なのですが、上下の力を感じるとき(体を沈めこむとき)に、おヘソの下あたりに力を入れると、体が沈み込めて、背中が広がるような気がするのですが、まちがいでしょうか。
もしよろしければ、上下の力の感じ方、正しいやり方などあれば教えていただけないでしょうか。
よろしくおねがいします。

A:
さて困りました。
上下の力の正しい感じ方、と言う質問。

こういった質問をする気持は非常によく分かります。
正しい方法、正しい形、正しい力の出し方ーーー。
私自身こういった疑問を実に何回も考えて来ました。
正しい立禅はどういうものか、半禅は、練りは、推手は、、組手は。
これでいいのか、これでいいのか、この繰り返しで時が経ってきた気がします。
でもそれを繰り返しているうちに、いつの間にか少しづつ方向が定まって来たのでした。

武術をやっていて正しいと言うことはあるんだろうか、と私はいつも考えます。
より良い、と言うことはあります。
しかし、正しいということは無いのでは、と思います。
いやむしろそれを探そうと必死になって努力し続ける事が武術の修行だと思います。
もし、これが正しいんだ、と言う先生が居たら会ってみたいものです。
きっとその人はもう武術を終っているんだと思います。

また逆に、これは明確に違う、と言う詐欺のようなものもあります。
それを初学者が見極めるのは難しいのかもしれません。
先生の言っている事とやっている事が一致しているかどうかを見極めるように注意してください。

さて、あなたがこれで良いんだろうか、と自分の感覚に疑問を持ち始めたこと、これはとても大事なことです。
これこそが武術の「入り口」に辿り着いた事の証明です。
多くの人はその疑問も持たずに形ばかりを求めます。
形にのみ気を使って、自分の内部の感覚に無頓着です。
これではどんなに練習しても何にもなりません、ただ練習がうまくなるだけです。

残念ながら今回の質問に明確に答えることはできません。
しかし、立禅の姿を見れば、その感じているところは大体見て取れます。
一度立禅をやっている所を見れば、幾らでも助言できるのですが。
ただ、上下の力に限らずですが、力は感じていれば良いので、力んで力を入れることは避けた方が良いでしょう。
メールからの印象では、がんばって独習しているようです。
多分それほどずれた練習はしていないと思います。

稽古をしていると「こんな感じでいいのかな」と言うのが感じられてきます。
そしてまたしばらくすると「これで良いんだろうか」と言う疑問がでてきます。
この繰り返しがあなたを少しづつ変えて行くのです。

私もこの繰り返しです。
今もその試行錯誤を繰り返しています。
トライ&エラーの連続。
トライをできる人間で居続けたいものです。
そしてエラーから学べる人間で居たいものです。

太気会 天野

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どうしたら寸剄や発剄を打てるか

Q:
久しぶりにメールさせていただきます。
立禅、這い、基本的な練りをビデオを 見ながら稽古にはげみ約二年近くなります。立禅も最近は平均で30分くらい、這いも15分ぐらい出来るようになりました。フルコンタクト系の空手をやってますが、最近組手で自分ではまったく意識してないのですが、 差手みたいな捌き方が急に出て来たり、低い姿勢 からでも以前よりスムースに動けるようにはなりました。また自分の制空圏内に入ってきた打拳はなんとなくかわせるようには成長しました。
ただ私自身身体がそんなに大きくなく、パワーの部分ではいつも圧倒されてしまいます。天野先生のような発力や寸剄が出来ればと悔しい思いをいつもします。相手に密着して近距離からの打撃は格闘技においてはとても重要だと思います。
どのようにしたら寸剄や発剄を打てるようになりますか??
ぶしつけな質問で申し訳御座いません。

A:
久しぶりのメール、拝見しました。
一人での禅や這いの稽古、大変だと思います。がんばってください。
しかし、稽古をやって少しでもその成果を感じられるのは本当にうれしいことです。
何を覚えたとか言うことではなく、少しずつ自分の身体の可能性が広がっていく喜びです。

さて、メールにある発力に関してですが、これはなんともメールでは難しい。
弟子なども手を取ってでもなかなかわからないようです。
しかし、かといって発力が何か特別な技術だというのではありません。
また、なにか特別に凄い事だとも思いません、所詮は人にできることです。
要は身体の調和の問題です。
多分、ほとんどの人は、打撃というと腕で打つと思っています。
が、そうではなく身体全体のしなりとか緊張のテンションの変化とか、そう言った事のほうが重要です。
発力といっても、要は力、そして力とは質量とその移動距離と時間の関係の中にあるものです。
大事なことは、自分の身体を質量としてまとめる瞬間を作り上げることです。
それが発力の瞬間だと思っています。

残念ですが、言葉ではこんな抽象的な答えしかできません。
もどかしくはありますが、ここら辺が言葉の限界。
いくら言葉を尽くして原理を解明しても、そんな事が何の役に立たないのが武術。
しかし、やっていくことでしか、答えは出ませんが、やっていけばいつか答えてくれるのが武術だと思っています。
一人での練習は苦労もあると思います。
あきらめなければ、いつか陽が昇ると信じてがんばってください。

太気会 天野

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伝統空手と太氣拳

Q:
天野先生
太気拳のホームページを拝見致しました。

私は以前より健康と護身のため武術に関心がありますが経験はありません。
若者が強い格闘技は年老いてから護身もできず健康でもないと感じて調べた結果、先生の太気拳と日本の伝統空手に至りました。
そこで先生に質問があります。

1. 先生は日本の伝統空手のご経験後なぜそれを続けず中国武術である太気拳に転向されたのですか。
個人的には、もし中国武術も伝統空手も健康と護身に有効であれば日本発祥のものがより日本人に合っている気がします。太気拳または中国武術の長所をお教え下さい。

2. 先生の本「太気拳の扉」は読んですぐ立禅などを試せるように書かれておりますか。
書籍は現在私が住んでいる海外からも購入可能なので、もしそうであればすぐ取り寄せて試してみたいと思います。

A:
武術や格闘技の経験が無いとの事ですが、かえってとても素直な質問だな、と思いました。

まず、何故僕が太気拳を始めたのか、ですが、これはとても単純です。
それは沢井先生に私の知っている世界と異質の世界を感じたからです。

僕が空手を始めたのは28歳、理由はもちろん強くなりたかったからです。
みんなより少しでも強くなりたかったから、結構一生懸命練習しました。
そして、大会でもある程度に成績を上げられるようになりました。
しかし、その時に思いました。
強さを評価するのに、大会での成績しかないのはおかしくは無いだろうか、と。
別の言い方をするなら、良い成績を上げても、強くなったとは全然感じられなかったのです。
打ち方や蹴り方を覚えて、それを使って組手で相手を倒した。
ただそれだけ、と言う感じでした。
自分が何にも変わっていないのは自分が一番知っていました。
かといって、実際の組手をやらない武術には興味はまるでもてません。
その時に出会ったのが沢井先生であり、太気拳だったわけです。
沢井先生と太気拳に新しい、そして自分の知らない世界があることを教えてもらったわけです。
以上が僕が太気拳を始めたきっかけです。

それから質問の中に、中国武術や伝統空手が健康と護身に有効、とありましたが、これは一概にYESとは言えません。
有効なものもあれば、そうでないものも一杯あると思います。
僕もあまり知りませんが、色々な武術があります。
それを一括りには出来ませんから。

そして、太気拳の長所と言うことですが、これはまあ、言ってみれば自然と言うことでしょう。
当たり前のことを当たり前にできるようにしていこうと言うのが太気拳だと思います。

それから、「太気拳の扉」についてですが、読んですぐ出来るように、とは考えて書いたつもりです。
しかし、言葉はあくまで言葉ですから、正しく伝わる事もあれば、読んで勘違いすることもあるかもしれません。
本を書いておいて、こんな事を言うのも変ですが、武術は言葉では伝わりません。
伝わるのは、身体で感じて初めて伝わるのだと思います。
だから、「太気拳の扉」を読むだけでなく、実際に禅を組んだりして身体で感じてみてください。
その上でないと、言葉を吟味する事も出来ないと思いますから。

太気会 天野

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ボールを抱えているような感覚、立禅の時間

Q:
以前質問させて頂きましたKです。
現在、基礎講座No1を見ながら日々「立禅」に励んでおります。
そこで、最近じっと15分くらい立ち続けていると両腕を閉じようと内側へ静かに閉じようとするのですが、両腕の間に大きなゴムのボールを抱えているような妙な感覚があります。これはもしかしたら肩、腕がまだ力んでるのでしょうか??
もう少しリラックスした方が良いのでしょうか?
それと通常何分くらい「立禅」を行えば良いのでしょうか??

A:
①両腕の間に大きなゴムのボールを抱えているような妙な感覚があります。

これは、別に問題ではありません。
むしろそういうようになるものです。
きっと、関節がきちっと嵌まり込み始めているのだと思います。
形が定まって来始めているという事でしょう。
そのうち、膝にも同じような感じが出てきます。
力が入っているのではなく、抜けてきているからだと思います。

②通常何分くらい「立禅」を行えば良いのでしょうか??

これはよく聞かれる質問ですが、何時も答えに困ります。
神宮で太気拳を始めた頃、沢井先生には毎日15分は立て、と言われました。これを目安にしていいと思います。
しかし、問題は時間の長さではなく、中身です。勉強をいくらやっても頭に入らなければ、何にもならないのと一緒です。

自分で練習していても、時によって立禅の時間は変わります。
10分の時もあれば、30分、40分と組む時もあります。
その時の気分しだいともいえます。

最初に質問のように、色々な感覚が出てくるのを楽しむような気持ちでやっていいと思います。

太気会 天野

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上下の力について

Q:
はじめてこのコーナーを利用させていただきます。私は海外で生活しているのですが、日本を発つ直前に天野先生の本とビデオを購入し、それを参考に一人でさびしく稽古をしています。日本にいた時は通っていた空手道場で意拳の稽古をする機会がたまにあり、ほとんど進歩せず「こんな感じかな?」という程度でしたが自分なりに考えたり、雑誌の特集などを参考にやっていました。
今は天野先生の説明のわかりやすさにとても感激して新たな気持ちで取り組んでいます。そんな中、それぞれ説明の仕方は違うけれど同じ事を言っているのか、という発見の喜びがある反面、どうしても疑問に思うこともあります。

今までは上下の力とは身体の伸び縮みを繰り返す事であり、攻撃を受ける時は身体を縮め、攻撃をする(突く等)時は身体を伸ばすのだという知識でいたのでそういう練習を繰り返してきました。たとえば試力歩法の時にも腰を中心に伸び縮みを繰り返しながら歩いていました。今回先生のビデオを拝見させていただいて、練り歩きの時や、相手に腕をつかませてコントロールする時に縮んだまま(重い体を作ったまま)前後に動いているというように私なりに理解したのですが、相手に力を伝える時に伸びる等と動作をわけずに、つねに重い体を作ったまま動くようにするべきなのでしょうか。

ビデオのNO.4は購入出来なかったのでもしその中にヒントが隠されていたら申し訳ありませんが、お時間ございましたらアドバイスお願いいたします。

A:
質問の件ですが、まず大きな間違いがあると思います。
それは「上下の力」に関してです。
意拳で言う「上下の力」とは、動きを意味するものではありません。
身体の上下動や攻防の動きを示すものでもありません。
「上下の力」とは、動き以前の身体の質を言います。
技術とか言う以前の質です。
どのような状態を保って動かなければならないかと言う時の質です。
たいていの場合誰でもそうですが、自分の身体をあるがままに受け入れて動いたり、蹴ったり、打ったりしています。
そのような状態では、「拳法にならない」と言うのがまず出発点です。
あるがままの身体の状態でいくら努力をしても、自分より、若く、力がある者をコントロールする事は出来るはずがありません。
当たり前です、何故なら、相手も同じだからです。
質が同じなら、若く、筋力に恵まれ、元気の良い人間に勝てる道理がありません。
ですから、まず身体の質を変えることが必要であり、その一番基本となるのが「上下の力」です。

「上下の力」とは、いってみれば、ヒトの身体全体をキュッとまとめて一つにしているような状態です。
言ってみれば、全身の関節がしっかりと緊結されているような状態です。
もちろんこれは、力を入れているのとも違います。
この状態を見つけ、失わないで、どんな時にも動ききるのが、拳法の最低限の要求であり、目的でもあります。
身体が伸びていても縮んでいても、また打つ時も避ける時もです。
文中に「重い体」とありましたが、この力が失われなければ、伸びていても縮んでいても十分に重い体でいられます。
そういった意味で、この「上下の力」は拳法を拳法たらしめるとも言えます。
拳法では、脚ではなく腹と腰で動く事が必要ですが、「上下の力」がなければその力も生まれません。

残念ながら、これは、「上下の力」のあるヒトに触れることでしか感じられないと思います。
また、逆に触れればすぐに納得できる事だと思います。

質問の答えになっているかどうか分かりませんが、少なくとも言葉で答えられるのはここまでです。
何時か、手を触れられる時が来ればいいのですが。

太気会 天野