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会員・会友員のテクスト 富川リュウの太気拳修行記

秋だっぺよ

五体不満足

 相手の表情がよく読めている。自分の中心で相手の中心を捕らえている。ジリッジリッと間合いを詰め、相手が動き出すのを待つ。バンッ!ガチャガチャ!! 手と前腕が交叉する。その一瞬に流れ弾を喰らう。

 殴り合っちゃダメなんだよ。打てるときに行く。そうじゃないときはパッと離れる。自分も殴れるけど相手にも殴られる、そんな間合いにいたんじゃ駄目なの。師の叱責が飛ぶ。

 月曜は仕事を休み病院へ。火曜水曜はまだ五体不満足のまま出勤。木曜金曜は後遺症の残ったまま仕事をする。そんな社会人失格な一週間だった。

イタイ思い

 中心をさ、ズラすんだよね。I先輩が言う。相手の中心を捕らえることは大事なんだけどね、自分の中心を捕らえられちゃいけないんだ。そのためにはさ、虚の自分を相手に捕らえさせておくって言うか、ここに居るようでそこには居ないっていう体の動きっていうか状態?それを作ってさ、相手に捕らえられたと思ったらパッと変わる。そしてまたパッと変わる。それを繰り返すんだよね。

 組手はさ、イタイ思いをしないと強くならないんだよな。傍らで、皆と雑談をしていた師の独り言のような呟きが聞こえた。

それじゃ違うんだよ

 雲の上を歩いているような這い。宇宙遊泳のような這い。そんな這いが出来てきていたが、心のどこかに何かが違うんじゃないのかな、という思いがあった。それじゃ違うんだよ。聴こうとしていた矢先、先手を打たれて言われてしまった。こうだろ、ここでこうなるだろ。それでこうなるんだよ。今までとはまるで違う体の使い方。ソケイ部を吸い込んだままでの這い。しかしこの這い、尻の落とし処に工夫が要りそうだ。

枯葉打ち

 秋は紅葉、そして枯れ落ち葉の季節でもある。公園で立禅をしているとハラリ、またハラリと枯葉が落ちてくる。目の使い方、全体をボワンを見ながらも、その一点への集中も必要だ。枯葉を視界の中に捕らえながら身体を緩めておいて、枯葉が着地するその瞬間に身体を震わせる。打拳を打つ感覚で。

雨しずく打ち

 公園によくある屋根がついてて中にベンチが作りつけであるやつ。壁はないんだけどとりあえず雨露はしのげる。あれってなんていうか知ってます? 東屋(あずまや)って言うそうです。その東屋で立禅をしているとね。雨がポタポタと落ちてくるのがよくわかるんです。軒先(のきさき)のところから。それって当然、枯葉より落ちる速度が速いんで、いい稽古になるんですよね。目の使い方と反射神経と体の振動の。

恐い顔

 先生、あの人って○○拳法4段ですよ。顔も恐いし。それにあの人もガタイがでかくて顔が怖くて○○空手2段なんですよ。なんか見てるだけでビビっちゃいますよね。

 社会人の常識としてさ。相手の目を見て話しをしなさいっていうのがあるだろ。それは人が人とコミュニケーションをとるときの大事な要素なんだよな。でもさ、組手は違うじゃん。顔見なきゃいいじゃん。組手のときに相手の顔なんか見ちゃいねぇよ。俺は。

カクテル・レインボー

 ハラと背中がさ、緩んでこないと。締まるべきところが締まらないんだよな。それは逆もしかりで、締まるべきところが締まっていないと、緩むべきところも充分に緩みきらないんだよな・・・。

 最近やっとハラと背中が緩んできた富リュウに天野先生が追打ちを掛ける。締めるところはヒザ。正確に言うとヒザから踵に至る脛のライン。これが締まってきて初めて使い物になるというのだ。しかしここで問題がひとつ。「締まる」ってどんな感触なのか? それが「リキむ」というのとは違うっていうことだけは察しがつく。しかし「締まる」は未知の世界。成ってみなければ分らない。

  それはある朝、唐突にやってきた。ヒザ下に締まりがでたのだ。リキみではなく締まり。そしてハラと背中から上はゆったりと緩んでいる状態。それはまるで体の中にエネルギーの層があって下の方は濃度が濃く、ヒザからソケイ部にかけてグラデーションが掛かり、上の方には濃度の薄いエネルギーが入っている、そんな感じ。例えて言うならレインボーマンじゃなくて、カクテルのレインボー。濃度の濃いお酒から順に入れていって7層がきれいに色分けされているやつ。あんな感じかな。

ものの見方・目の使い方

 カクテル・レインボーが体の中に出来ると、気分の作り方も同じようにすればいいんだろうな、ということが自然に理解できた。ある部分を締めておいて、ある部分を緩めておく、そのメリハリが重要。これが出来てきて、目の使い方がはっきりとした。

説明違い・説明不足・説明不要

  実は富リュウ、4年前からダンスも習っている。ダンスの先生達も個性豊か。そして教え方も千差万別である。M先生は中々の理論家。説明のしかたも丁寧だ。しかしある時そのM先生が言った「ヒジを前に出しちゃダメよ」これは上体を右にひねる時の動きだ。つまりは胸が完全に右を向いていなければならないのだが、どうもこのひねりが上手くいかず手だけが出ていたようだ。そして「ヒジを前に出しちゃダメよ」という指摘は間違いだ。正確に言えば「ヒジだけを前に出しちゃダメよ」もしくは「ヒジも前に出すのよ」となる。どうも体を使うことの得意な人達は、言葉を使うことが苦手のようだ。あるいは感覚的な人達や芸術家気質の人達にも、言葉を使うことが苦手な傾向にあるように思える。

 この点、J先生は解りやすい「違う。見てて、こう」それしか言わない。完全な感覚人間で、言葉で説明したり、表現することを放棄してしまっている。
しかしまだまだ上がいる。外国人のR先生「パンパンパン・パ・パンパンパン。オーケー?」これしか言わない。もうここまで行くと、見て盗むしかない。

 しかし天野先生も教えることに関しては、言葉に限界を感じているようだ。「もう説明するのが面倒臭くなっちゃってさ、いいから黙って立ってろって、言いたくなっちゃうこともあるんだよな」って、そんなことをふともらしたことがある。

これでいいのだ!

  立禅や這いを習い始めた頃に、良く見聞きしていた説明がある。低い姿勢での立禅や這いは、足腰の筋力を鍛えるためのものではない、という説明だ。
ヒザ下の締まりを模索していて気づいたことがある。前述の説明は、間違いなのではないかということ。つまり「低い姿勢での立禅や這いは、足腰の筋力を鍛えるためだけのものではない」あるいは「低い姿勢での立禅や這いは、足腰の筋力を鍛えるためのものでもあるが、他にもっと重要な要素を含んでいる」というのが正解なのではないだろうか?

  こう考えていくと、ほかにも思い当たる節がいっぱいある。推手の時にはこうしなさい。組手の時にはこうしなさい。それらをふるいにかけて見えてきたものがある。

  ひとつひとつの経過は省くとしよう。結論は7:3で立って居るっていうこと。これに尽きる。7:3を軸に身体をうねるように使い、這いを組み立てる。7:3に立って身体をうねらせながら、時に上体や頭をオフセットさせて推手と組手に応用する。――これでいいのだ! byバカボンのパパ。

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平成18年・夏でごわす

力が弱く、どんくさ

 富リュウは、スポーツが大の苦手・・・今年の春の章にそう書いた。スポーツが苦手とは、いったいどういうことかというと「力が弱く、どんくさい」ということ。高校生の頃、毎年のように体力測定が行なわれていたが、富リュウは、これが大嫌いであった。それは、何をやってもビリケツだから。まあビリケツは大袈裟にしても、クラス40人の内、30位以下40位までには必ず入っていた。走ったら遅い、飛んだら低い、反復横飛びはトロイ、踏み台昇降は心臓バコバコ。

 しかし何故か、今43歳の自分には妙な自信がある。それは、たぶん間違いなく高校生の頃より今の方が、体力測定データは良好であるということ――。走れば脱兎の如く、飛べばトランポリンの如く、反復横飛びはシャラポアを凌駕、踏み台昇降は馬の如し。

 しかーし「力があって、すばしっこい」とまではいかない。何故か。それは稽古が足りないからである。

 武道・武術の秘伝に迫る月刊誌「秘伝」の9月号によれば、太氣拳をすると運動神経が発達し「力があって、すばしっこい」状態となる、と書いてある。師である天野敏氏の記事である。あのー、それって聞いてないんですけど・・・ていうか、今初めて聞いたんですけどぉ・・・。なにを言いたいのかというと、あっ、これは騙されたなっていうこと。だって7年前にそれを聞いていたら、コンプレックスの固まりの富リュウは、絶対に太氣拳に入門しようとは思わなかったはず。そもそもが運動の苦手の人間に、これをやれば運動神経が良くなりますよって言われても、疑心暗鬼、魏志倭人伝ですから。

 さて、改めて天野先生に感謝。騙してくれてアリガトウ。お蔭様でここまで来れました!

まとまってる状態、動ける状態

 武道・武術の世界には「居着く」という言葉がある。これは、いつでもすばしっこく動けるためには、そこに「居着く」ことがあってはいけないよ、という戒めの言葉である。そこで「居着いている」というのがどういう状態なのか「居着いていない」というのがどういう状態なのか、を感じ取ることが必要となる。

 武道・武術の秘伝に迫る月刊誌「秘伝」8月号の99ページには、富リュウの勇姿ならぬ愚姿が出ている。写真にとると良く判るよな。天野先生が言う。自分でも良く判った。どの写真を見ても、そんな姿勢でいては、全く以って動き様がないではないか、といったありさまで、完全に居着いてしまっている。打たれた後の写真(D-03)は、特にひどい。まるで背中が固まっていて、そこから変化のしようがない。蹴ろうとしている時の写真(C-01)は、少しはマシ。そうだやればできるじゃないか、といった感じだ。

 立禅では自分のまとまっている状態を見つけて染み込ませる。但し、まとまっているだけでは使い物にならない。まとまっている状態で、尚且つ動ける状態、これを手に入れるための日々の精進である。

お腹ポッコリ、背中ぽってり、首やわらかく

 「内臓を楽にしておきなさい」天野先生から言われた。立禅のときの注意点だ。もう半年以上前のことだと思う・・・と今年の春の章に書いた。その時には、腹を楽にして力を抜いておく、と言われても、先生、力を抜くって(力を抜くと)お腹は、出るんですか引っ込むんですか? そんなの出るに決まってるだろ! と言われる始末・・・。そしてやっと最近になって、というか前述のあまりにひどい自分の写真を見せられて一念発起、フォームの改革に乗り出す。そしてあれやこれやの工夫の末、やっとこさ、時々だけど、お腹の楽な感じができそうな頃、また天野先生に言われた。「下っ腹をさ、ポコッと出すんだよ」あー出しちゃっていいんですか~。これには、居酒屋拳法談義(※)でも賛否両論。「中国拳法の達人はみんな下腹がポッコリとでている」「いやいやあれはカッコ悪い、ああいう風にだけはなりたくない」「下腹でなくてミゾオチのあたりを出しても同じ効果があるそうだ」等など・・・話は延々と続く。(※参加者は、太氣会2名、太氣拳S先生の弟子1名、太極拳I先生の弟子1名の計4名。不定期開催)

 そうは言っても背水の陣の富川リュウ。前門のトラ、肛門のイボ痔、もう時間がない。とりあえず師の言うとおりにやってみるまでの事である。

 そして、次第に変わっていった富リュウの立禅。下っ腹を出した分だけ、背中の下のほうを後へ押し出すようにする。首を柔らかくしておいて、変化に対応できるだけのマージンを確保。体のまわりの空気に身を任せるように。地球の大気層の一気圧の圧力を感じて、それに身を委ねるように・・・その勇姿は、武道・武術の秘伝に迫る月刊誌「秘伝」X月号にて、見られるかもしれません。

白いヘッドギヤ

 夏合宿を前に白いヘッドギヤを購入した。いつもは先生が持参してきてくださるものを着用しているのだが、ちゃんとした自分用のものを準備した方がいいと思ったからだ。東京の水道橋に買いに行ったのだが、なかなか顔にフィットするいいものが見つからない。唯一いいものがあったが、それはとても高価だったため躊躇していた。

 このヘッドギヤは亀田選手が練習の時に使っているのと同じ物。ボクシング用のフルフェイスだ。これなら目の辺りも保護できそうだし、視界もまずまずである。まぁ十年使えば一ヶ月あたり310円だからと思って購入を決めた。

 K公園での練習の際におニューのヘッドギヤを持参した。使用感を確かめるため、後輩のY君を捕まえて殴ってもらった。初めはノーガード、ノーディフェンスで殴らせる。衝撃と視界の確認のためだ。次はヘッドスリップだけで避けてみる。まだ足はあまり使わない。その次は、少しだけ足を使って手も使ってディフェンスする。こちらからの攻撃は無しである。

 この頃は、首をかなり柔らかく使えるようになっていたので、一発目の攻撃は避けられるようになっていた。しかし連打されると、二打目、三打目は貰ってしまう。まあ避けると同時に、こちらが打つようにすれば、そう打たれることはないだろうと、その時はタカをくくっていた。それが憂いをみる羽目になろうとは、つゆ知らずに・・・。

悔しい・悔しい・悔しい

 夏合宿での組手では、普段あまり顔を合わせることのない二人と対戦した。出来は散々。二人とも後輩なのに動きが格段に良くなっている。一方で自分はと言うと、悪くなっているはずはないのだが、まったくもってキレがない。落ち込む。

 終わってから、他の人達の組手を見る。見ているうちに悔しさが込み上げてくる。なんで俺は・・・。

 先生とも組手をした。何もできない自分にがっくし。先生と他の人達の組手を見る。先生はいつも全員の相手をされる。ここでふと気づく。体力もない、運動神経も鈍く格闘技センスもない自分にできることは何か。それは良く見ること。観察すること。見て盗むこと。よし、先生の姿を目に焼き付けよう!

 そこに神気を見た。芸術的な動きというよりも、それ自身がまさに芸術。そして自由さ。自分を解放しているような奔放さ。足の角度。前に行こうとしている時には、足裏が後ろの空気を蹴るような角度になる。背中の状態。常にやわらかく、躍動感がある。

 悔しい・悔しい・悔しい・・・この悔しさをバネに・・・跳躍だ!

夏の甲子園

 野球はあまり見ない。妻がテレビをつけていたのでたまたま見ていただけのこと。捕手の仕事はたいへんだ。飛んできた球を捕らなければならないだけでなく、それを的確な所へ投げなければならない。そして投げるべき場所は状況により変化する。もちろんピッチャーもキャッチャーもバッターもたいへん。やるべきことがいっぱいある。みんな運動神経がいいよなぁー。当たり前か。

 早稲田の斎藤佑樹投手。とても優秀なピッチャーだ。なんであんなに速い球を正確にストライクゾーンに投げられるのだろうか、不思議でならない。ふと昨日の悔しさが込み上げてくる。そこにアップになった斎藤投手の投球シーンが。思いっきり振りかぶって首がのけぞり、そのまま頭から落ちて行って、投げきる直前に首が元に戻っていた。この首の戻るスピードがピカイチである。ハンカチ王子よ、ありがとう。素敵なプレゼントを。

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平成18年・春だよね

Footの上の三角定規

 ここ最近の最大のトピックスはヒザ位置が定まったこと。そしてヒザ位置を固めることで、わき腹と上体がスムーズにダイナミックに動くようになったこと。

 半禅での説明がわかりやすいかもしれない。後ろ足のヒザの向きが、足先の向きと一致しているだろうか? 大抵の人がFootの向きに対して、ヒザの向きが内側に入っているのではないだろうか。その方が手ごたえがあるし、グッときて具合がいい。でもこれは間違い。私にも何度かチャンスはあったのだが、それを改善する機会が伸び伸びにされていた。今年に入って天野先生から貴重なアドバイスをいただく「いつでもカカトを踏めるようにしていなさい」そう。天野先生はいつも伝え方に工夫をこらしてくださる。こいつには何と言えば伝わるだろうかと、常日頃から考えてくれているようだ。

 半禅でも這いでも、その場その位置その状態から、フンっとカカトを踏んでダッシュできるような状態にいなければならない。そのためには足先の向きとヒザの向きが、常に一致していなければならない。そしてこの踏ん張れる状態、自分にとってのFootとヒザ頭の一致するポイントを探すのに約2ヶ月かかった。

 蛇足ながら、日本刀を例に出そう。棒で人を殴ろうとすれば、どの角度で当たってもそれなりに衝撃が相手に伝わる。しかし日本刀で相手を切ろうとするならば、刃のついてる方を相手に当て、さらにそのままの角度で刀を引ききることが必然となる。この必然が、Footとヒザ頭の位置関係にもあてはまる。

 自分の場合、始めに思っていたよりもちょっと外側にピタっとハマル位置があった。自分がO脚だということを考えると(これは推測であるが)O脚の場合にはやや外側、X脚の場合にはやや内側にそのポイントがあるのかもしれない。

手が足にのる

 腰と肩の一致、手と足の繋がり。それが大事なポイントだという事は入門当初から何度も聞かされていた。そしてそういうふうに稽古もしていた。7年目に入る今年になって、ヒザ位置が定まったことにより、手と足が繋がっている感覚が出てきている。

 半禅をすると、膝頭の少し上の大腿部あたりにハンドが乗っかっている不思議な感覚がある。右膝の上に右ハンドが、左膝の上に左ハンドが乗かっている感じだ。このままナンバ歩きをしてみると、操り人形のように、右手が右足を、左手が左足を引き上げてくれる。いやあるいは右足が右手を押上げ、左足が左手を押し上げているのかもしれない。「糸」で繋がっているというよりは「棒」で繋がっている感覚だ。

 開掌を前に向ける半禅。これは上級者の禅であるが、このフォームはそのまま組手構えに使える。ただし、少々の工夫が必要となる。右膝の上に右ハンドが、左膝の上に左ハンドが乗っている状態では、相手に向かって正面が空きすぎている。後ろの手をもう少々前に持ってこなければならない。そのため工夫。――各々の健闘を祈る。

ウンチク自慢

 体の部位を言い表わすとき、日本語の方が便利な場合と英語の方が便利な場合がある。一般的に日本語は全体をあいまいに言い表わし、英語は各部位を単独で明確に言い表わすという傾向がある。日本語で「手」と言った場合、それば「手のひら」の部位とも思えるし、肩から先の「腕全体」とも受け取れる。「足」もまたしかり。もちろん例外もある。日本語には、「掌(てのひら)」や「手の甲」「足の甲」などの細かい表現もある。また英語でも「Back」の様に背中から腰までの全体を言い表す言葉もある。ちなみに「指」を英語でいうと「Finger」であるが、足の指は「Finger」とは言わない。これは「Toe(トウ)」となる。

 さて前述の「ハンド」と「フット」であるが、英語の方が的を射た表現をしているのでそうしてみた。つまり手首から先が「ハンド」で、くるぶしから先が「フット」なのである。といわけで、富リュウのウンチク自慢はこれでおしまい。

しげみ探手

 昨年の夏頃の話。木の枝を相手の腕に見立てて、その脇に頭を突っ込んで、また引き抜くというような稽古をしていた。そしてその枝を自分の腕で払いながら打拳を打ち込むような動きも何度も稽古した。

 今年の春、出張先での話。その公園には適当な枝振りの木がなく、しかたなく葉の生い茂った木を選んでみた。葉のついている部分はちょうど自分のノドの高さあたりにある。やや腰を落としその枝葉の下に入る。枝葉全体を下からゴチョゴチョと軽くイライながら少し動いてみる。何をかわすと言うでもなく、どこを打つと言うでもなく…。そして期待に反して大きな収穫があった。昨年暮から組手の稽古も次第に多くなってきていたが、この茂み探手、組手の感覚にとても似ていたのである。組手の攻防は、こうきたらこうかわし、こうなったときにはこの手でこう打つ、と思いがちであるが、実際にはゴチョゴチョとなってパッとした一瞬に打つ――といった感じになる。この感覚にとても似ていたのだ。

内臓がポテっと

 「内臓を楽にしておきなさい」天野先生から言われた。立禅のときの注意点だ。もう半年以上前のことだと思う。人の体は骨と筋肉からできている。これが構造物だ。そしてその構造物の中に、内臓という内容物が詰まっている。人は体を使って何かをしようとするときに、筋骨ばかりに気をとられがちであるが、内蔵の存在を無視してしまえば、自分の体というものを50%、いや30%くらいしか把握していないことになるのではないか。太気拳では体全体をまとまって使っていくように訓練していく。その中で体側部にある脇腹や脇胸、下腹部、胸の開合…そういった部分を自分でコントロールして動かせるようにして、それに手足を繋げていく…という作業を黙々と続ける。そんな中での「内臓を楽にしておきなさい」というアドバイスである。腹部の下には骨盤がある。そしてこの骨盤は、下は大腿骨とつながり足を支え、上は背骨とつながっているという大きな役割があるが、それとは別に内臓の受け皿となってことを忘れてはいけない。この骨盤の上に、内臓がポテっとのっているように、そして喉からは胃袋がぶら下がっているような感じ。そういう楽な感じに身体を整えておきなさい。そんなアドバイスであった。

U.L.B.=UpperLungBreath

 「呼吸を楽にしておきなさい」天野先生から言われた。立禅のときの注意点だ。もう半年以上前のことだと思う。空手などの武道系では、気合とともに拳を打ち出す。この呼吸法は、突き蹴りのタイミングと吐く息の関連性を覚えるためには、非常に効果的である。ボクシング等では、あの独特の「シーシー」というの息の吐き方がある。こちらは連打向き?といえるかもしれない。どちらにも利点がある。しかし欠点は、と聞かれると「?」である。よくわからない。

 それでは、太気拳ではどうかというと、どちらとも違う呼吸の使い方をする。しかし初心者の内は、ただただ「呼吸を楽に」「普通に呼吸していなさい」ということだけである。ちなみここでいう初心者とは、私的には3年~6年くらいかなと考えている。そして太気拳独特の呼吸法とは如何に!? それは秘伝なので伏せておきましょう。知りたい人は直接天野先生に聞いてみてちょ。

 さて前置きが長くなったが、打拳を打って前へ出ようとする時に、どうしても上体が前かがみに流れてしまうので、これを防ぐために胸を張った姿勢を工夫していて、そしてそれプラス、内臓を楽に呼吸を楽にしておく状態を模索していて、ふと気づいたことがある。それは、肺も内臓だったのだ、ということ。では肺を、肺の形を、あるいは肺の有り様を工夫して、それを姿勢の維持に使えはしないものかと。そこでヒラメイタのが、「U.L.B=UpperLungBreath」である。これは富リュウお得意の造語。Upperは上部、Lungは肺、Breathは息もしくは呼吸、という意味。つまり肺の上部で呼吸するということだ。そしてこの「上部」には3つの意味が含まれている。まず一つ目は、肺の上部を使うという事。そして二つ目は、肺を上部に引き伸ばすように使うという事。

 まず普通に正面向きに普通の立禅に構える。そして大きく息を吸って肺の上の方を膨らませ、また吐く。この深呼吸を何度か繰り返す。膨らんだ時の肺の状態が体に馴染んできたら、今まで前に膨らんでいた肺を、上方に膨らむように意識してみる。こうすると肺の容積が大きくなった様な感じになるはずだ。しかし同時にここで、首がボディにめり込み、肩が上がってしまうように感じると思う。これを少しずつ調整して、肺の膨らみの上に首がのるように、肩が楽なままで居られるように、体に馴染じませていく。ここまで出来たら、Upperの三つ目の意味が重要となる。それは、膨らませた肺の中の息の「上ずみ」だけで呼吸するということ。上ずみだけを吐き、その減った分だけを吸う。息を漏らすように吐き、フッと吸う。組手や推手で前に出て行くときに、このU.L.B呼吸法を使って、息を吸いながら前へ出て行くようにしてみると、これがなかなか具合が良い。胸を張った姿勢のまま、ズンズン前へと出て行けるのです。

良い姿勢という呪縛

 良い姿勢って何だと思う? 唐突に天野先生が尋ねる。胸を張りすぎる富リュウのフォームを見ていた先生からの問いかけだ。「これが良い姿勢だ!って思い込んでちゃいけないんだよ。そんなものは嘘っぱちだよ」「身体が知っているんだよ。良い姿勢は。身体が成りたいように成ってあげなさい。頭で考えずに」――アドバイスはこれだけ。あとは自分で考える。いや考えないで身体に任せる。でも、考えないと任せようもないし・・・。

 日本の古武術や各種武道では、背筋を伸ばした姿勢が特徴的で、ボクシングのクラウチングスタイルや各種スポーツの姿勢とは異なっている。そしてそこに何か秘密めいた神業や秘技・秘伝といったものに繋がっているように思っていた。しかし敢えて天野先生は言う。サッカーのゴールキーパーのようにしていなさいと。バレーボールもしかり。バスケットも一緒。もし参考にするなら、そのフォームを参考にしなさいと、おっしゃる。あー困った。富リュウはスポーツが大の苦手。中学一年の時のバスケット部では補欠だったし、1年で辞めちゃったし、そもそもがスポーツできない自分に挫折して、神秘の中国武術の世界に足を踏み入れたのに、よりによってまたまたスポーツに戻ってきちまったとは。なんてこった!

花見はおあずけ

 今年の花見はとても豪華版。鹿志村先生率いる中道会、佐藤先生の拳学研究会、島田先生の気功会、そして我が太気会と豪勢に勢ぞろいでした。でも富リュウはこの花見には行けませんでした。残念・・・。

良く見るという思い込み

 「明日のジョー」「がんばれ元気」ボクシング漫画からの影響は大きい。あこがれのヒーロー達。成りたくても成れなかった強い者達への憧れ・・・。ほのかな哀愁とともに記憶の片隅に刷り込まれている色々な情報。経験ではなく、情報。動体視力が重要。よく見ること。そしてよける。そして打つ――。

 えっ違うの? よく見ちゃいけないんすか? 天野先生は言う。全体をボワンと見なさいと。見ているようで見ていない。そういう目の使い方を立禅で身体に覚えさせ、組手では見ないで、パッと反応して動きなさいと。見ると考えるから、考えるとタイムラグができて遅くなるんだよって。

 たまたま見ていたテレビ番組に格闘技ゲームを得意とするゲーマー達の対戦番組があった。対するは盲目のアメリカ人少年。格闘技ゲームが大好きだと言う。家族の絆に支えられ、新しいゲームは、姉の手助けを借りてマスターするのだと言う。そして彼は、全てのキャラクターの攻撃パターンを音で覚えているというのだ。結果、日本のそうそうたる名人達はことごとく撃沈。盲目のアメリカ人少年が優勝した。

 光速は一秒あたり約30万km、音速は一秒あたり約0.3km。光が音よりも速いことは誰しもが知っている物理の常識である。しかし澤井先生が言ったという。光よりも速いものがあると。それは人の「思い」すなわち「意」であると。そして天野先生が言ったのは「見ると考える。だから遅くなる」

 毎朝の自主練の中で気が付いたことは、どうも人間は進化の過程で見ることと考えることを脳の中でくっつけてしまったらしいということ。そして今しなければならないことは、脳の中で見ることと考えることを切り離すという作業。つまりは先祖がえりして、原始人、類人猿、あるいは猿に戻ってしまえばいいってこと。さて富リュウ、とりあえずは片目をつむって探手でもしてみますか。

何も無い組手

 「何でこんなことをしているんだろ」「これって奇妙だよな」「全くの静寂」太気拳の組手を見ていて、いつもそう思う。ボクシングでも空手でも、あるいは柔道の試合でも、様々な音や声が飛び交っている。本人達の気合い、掛け声。そりゃ~、えいさっ。セコンドや仲間からのアドバイス、声援。ガードを上げて! 効いてる効いてる! よしそこだ! 行け~! 等など。 太気拳の組手にあるのは、先生の声「始め」と「止め」だけ。仲間からの声援はない。ただ淡々と殴り合いが行なわれている。この組手の様子はまるで、インドの山奥で人知れず瞑想にふける導師の様。そして富リュウは、いつになったらレインボーマンに変身できるのでしょうか。

成功体験からの刷り込み

 前へ前へ! 打たれてもいい、とにかく前へ出るんだ! 空手を習っていた頃、組手のたびにそう言われ続けていた。それがなかなかできなくて辞めていった人達もたくさんいた。自分は、8級、7級の頃、意外にもそれが出来ていて、少々得意げになっていた。その成功体験は「ああ、これで俺も空手というあこがれの世界に、足を踏み入れることができたんだ」という満足感と充実感、そういうほのかな快感物質とともに脳の奥に記憶されている。その思いは、今の組手スタイルのベースになっていて、それが太気の上達の邪魔をしている。天野先生は言う。「嫌だと思ったら行っちゃいけないんだよ。嫌だと思ったら逃げちゃえよ。行けると思ったときに行けばいいんだから」「気持ちと身体を引き裂くな」「気持ちが動いて体が動く。体が動けば気持ちも動く。そういうふうに稽古をしなさい」

 その成功体験は捨てなければならない。過去の自分。過去の美しかった自分と決別するのは辛いものだ。自分が作った幻想が、自分をそこに留まらせる呪縛となっているなんて、こんな不条理なことがあってよいものか。師は言う、人間とは不条理なものなんだよと。

 刷り込まれた成功体験がある。色々な思い込みもある。そして、自分をがんじがらめにしている呪縛――。さあ今、解き放たれる時がきた。目覚めるんだ、ダッシュ・ワン!

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平成17年・冬の拳

空間の意識

 10月28日、大船での稽古が終わった後、「だいぶ自分の空間が出来てきたよね」と天野先生から言われた。正直なところまだ「自分の空間」という感覚はなかったのだが、確かに推手で相手をコントロールするイメージはできつつある。

 翌朝の自主練でのこと――。この公園は通りに面していて、その向こうには運河が横たわり、運河の向こうには、遊歩道とそれに沿ってビル群がある。ちょうど自分の目の前に7本のラインが横たわっているような位置関係だ。公園の一番奥まった位置に立つと、目の前に5メートル程のスペースがある。その先に公園の茂みに沿って木々が横一列に並んでいて、その先が歩道、車道、そしてまた歩道、そして運河、遊歩道、ビル群…といった具合だ。

 いつものように禅を組む。手が肩の前、そして顔の前にある半禅だ。遠くのビル群の隙間に車が行き交う。遊歩道を犬を連れて歩いている老夫婦。運河には時折、作業船や大学生が漕ぐボードが通る。車道を勢い良く走り抜けるバイクや自転車。歩道には出勤途中のOL、小学生達…。いつもの風景だ。ただひとつだけ、いつもの風景との違いを見つけてしまった。それは自分の手――。その瞬間、全ての空間が手中に収まった。

 見えていたのは「Here,There,Overthere」「こことあそこともっと向こう」である。そして「ここ」とは、つまり「我」である。「我、彼、あれ」これをもっと細分化すると「我、我の手、彼、それ、あれ」となる。そしてこの時初めて「ああ、この手までが『我』なんだな」と感じられ、「自分の空間」という感覚に目覚めたのです。

「つみあげ」と「ねじり」

 ちょうど一年前の秋、這いの中に「つみあげ」と「ねじり」の状態を発見した。簡単に説明すると、右足を軸にして立ち、左足を前に出している状態では、右の腰骨がやや下がり、大たい骨が股関節に刺さり、蝶骨が仙蝶関節にはまり、そこから脊椎が上へ伸びていく状態を見ることができる。腹の感覚で言うと、ボディのセンターを引き上げるとともにヘソが軸足側にシフトしている状態。これが私の言うところの「つみあげ」である。つぎに上体を次第に左足の上に移して行って完全に左足の上まで移動し終わると、右足が後方に残された姿勢となる。このとき腰、肩が自然に捩じれ、上体が左足の上にまとまってのっかっている。これが私の言うところの「ねじり」である。

 初心者の頃は、「つみあげ」の位置を見つけるまでに時間が掛かり、「ねじり」では良い感じにまとまっているように思っていた。しばらく経つと逆に「つみあげ」はしっくりとくるのだが、「ねじり」の状態に「フワッと感」と見出すのが難しいことに気付く。

逆ねじりの這い

 10月23日のセミナーにおいて、天野先生から新しい体の使い方を教わった。半禅の状態で身体を逆に捩じり、ナンバで順突きを出すというものだ。

 要領としてはだいたいこんな感じ。まず右足を軸にして立つ。右斜め前を向いている上体を左回転にひねる。この時に前足のソケイ部を吸い込むように使うのがポイント。次に前足の上に上体を移動させながら左手で順突きを出す。

 翌朝の自主トレで、この感覚を確かめながら這いをやってみて発見したことがある。普通の這いと逆の動きでも、それが成立してしまうのだ。どう言うことかというと、まず右軸足のままで、左前足の付け根を引寄せるようにしながら、上体を左回転に捩じって「ねじり」の形になる。この時にリラックスして形がまとまっていることが大事。そして顔の前にきた右手前腕と顔との間には、30cm程の空間が保たれ、相手の打拳を受けられる状態にあることも大事。手の平は相手に向けておいた方が感覚をつかみやすい。次に上体を開きながら前足に移動していって「つみあげ」となる。ここまでで一区切り。そしてそこから、後ろ足を引き寄せながら「ねじり」に切り替えていく。そしてまた前足に移動しながら「つみあげ」へ。

四種類の這い

 逆捩じりの這いを参考に、4種類の這いが出来上がる。簡単に記号で示そう。

 重心が後ろ足にある状態をAとして、重心が前足にある状態をBとする。
 「つみあげ(ナンバ)」を1番として、「捩じり」を2番とする。

 (イ) A1→B2→A1→B2 これが普通の這い
 (ロ) A2→B1→A2→B1 これは逆ねじりの這い
 (ハ) A1→B1→A1→B1 これはバレエっぽい動きになる。
 (二) A2→B2→A2→B2 これはかなり太気拳っぽい動きになる。

 一年前の秋の章中で、「つみあげ」の中にも「ねじり」があり、「ねじり」の中にも「つみあげ」がある状態と書いた。今になってやっと、その感覚がつかめた。

肩を外す這い

 肩がハマル位置が見つかると、今度はそれを「いつどこでどのように外すのか」ということが気になり始める。まずは這い。軸足にのっていくときに外側の肩を緩めて外す。肩というよりは肩甲骨といった方が分かりやすいかもしれない。前足にのってそのまま上体が外側へ流れていく感じだ。3日程これをやって飽きたので今度は反対をやってみた。内側の肩甲骨を緩めてやる。前へ流れていく感じで。そしてこれも3日程で飽きたので両方の肩甲骨を緩めてみた。自分の両腕で抱えた空間をホワッと相手に差し出すように。次第に腕先の動きを小さくしていって、前腕はほとんど動かさずに肩甲骨だけでこれをやる。背中がホワッと緩む感じだ。

骨盤を緩める這い

 11月19日、土曜日の稽古にて天野先生から指摘される。「立禅はずいぶんと良くなったけど、這いはまだまだだな。硬すぎるよ」と言われた。そして「頭と足の間に腰を捻じ込むように」とのこと。確かに肩と背中の上のほうは緩んでいたが、腰周りにはまだまだ緊張が残っていた。「頭と足の間に腰を捻じ込む」ようにもやってはみたが、余計にリキミが出てしまう。困ったものだ。あわてないあわてない一休み一休み。とんち坊主、一休さんの登場だ。ならば蝶骨を外そうではないか!

 骨盤には大きく分けて3つの骨がある。真中にあるのが仙骨。両脇にあるのが蝶骨である。そしてそのつなぎ目が、仙蝶関節。西洋医学の世界ではこの関節は動かないというのが定説であるが、少数派の学者の中には、わずかだがそれは動いているという者もいる。ちなみに頭蓋骨に割れ目があるのは周知のとおりだが、これが動いていることを知らない人は多いようである――。

 とりあえず、それが動くのか動かないのか、ということは置いておく。要はイメージである。肩甲骨を緩めた要領で、はじめは外側の仙蝶関節を緩めて動きを作る。身体に馴染んできたところで、今度は逆。内側の仙蝶関節を緩める。次は骨盤全体を拡げるような感じで。次第に動きを身体に馴染ませていく。

 この這いのあと、練りをやってみたら、さあ大変。「頭と足の間に腰を捻じ込む感じ」になっていたではあ~りませんか!

ソケイ部で吸い込む這い

 「頭と足の間に腰を捻じ込む感じ」を這いの中でも感じられないものかと、ちょっと工夫をしてみました。軸足に乗っていって最後、グンっとオケツを前へ突き出して、文字どおり捻じ込んでみたのです。このとき軸足のソケイ部は伸びきっていて真っ直ぐ。でもなんだか尻が収まるべき所に収まったようで気持ちがいい。それでもう一工夫。ここでソケイ部が伸びているということは。次は吸い込めばいい。吸い込んで、伸ばす。吸い込んで、伸ばす。これは言わずと知れた太気の原理原則、上げたら下げるのココロじゃ。

動きを身体に馴染ませる

 身体に馴染むっていうのはすごいことなんだなあ、と思ったのです。「ソケイ部で吸い込む這い」を何日間かやっていたときのことです。

 これって最初は、軸足のソケイ部を思いっきり吸い込むと、顔と上体が外側を向いてしまうんだけど、少し身体に馴染んできてから、今度は顔は正面のままでやるようにしていたんです。はじめの頃は、ちょっと無理があったんだけど、何日か経つと、ふっと力が抜けて顔が正面を通り越して内側まで向くようになったんです。それがあまりにも自然にできたもんだから、天野先生の言う「身体に任せるんだよ」ってこういうことなんだなって、プチ感動でした。

這いはただのエクササイズ?

 「ソケイ部で吸い込む這い」をしていると、「これってかなり深層筋群を使ってるんだろうな」っていう感覚があるのです。深層筋群っていうのは内臓達と一緒で、意識してコントロールできないものだから、アクセスが大変。リキまないで手ごたえが無いくらいが正解みたい。

 話は変わるけど、這いの完成形ってあるんでしょうか? 最近思ったのは、這いは、ただのエクササイズの一種なのではないかということ。「ソケイ部で吸い込む這い」をしていると、どうしてもそれが組手に直結しているとは思えない。そもそもが動きがのろいし、カッコも良くない。だけれどもこのあと、練りをすると明らかに動きが違っているんです。腹がニョロニョロと左右に動いて、手や足が、腹から動かされているという感覚が毎日更新されているのです。

這いがすなわち打拳なのだ

 前述の記載とは、真逆のこと。這いの形がまとまってくると、それがそのまま打拳なんだなって思うこともある。軸足に乗りながら後手が前へ伸びていくと、スピードは無いが体重の乗った重い打拳になっている。さてさてどちらが真実なのやら、それが問題です。

手を立てて顔も立てる

 組手についてのアドバイスをもらった。「両手の掌を常に相手に向けておくように」とのこと。「掌を立てておくことで首も立っているようになるから、そうすれば顔も下を向かないようになる」って。

 まず取り組んだのは立禅での手の状態の確認。それまでは、自分の方に向けていた開掌を相手に向けて立ててみる。なんだか肩のあたりに重苦しいストレスが。これを次第に取り払っていく作業が数週間続く。

手を抜く

 組手本番の当日、その日も新しい発見があった。「両手の掌を相手に向けておく立禅」していて、ふと気が付いたのは、腕をぐるぐる廻してリキミを無くすのではなく、関節が伸びる方向にリキミを外すということ。ついこの間、自分で書いたことなのに、もう忘れていた。危ない危ない。

 幽体離脱をしたことはないけれど、そんな感じで自分の指先からほわーと中身が抜けていくような感じ。そして次第にそれを手掌まで、前腕まで、肘まで、肩まで・・・と拡げていく。自分の指先からもう一人の自分の腕が抜けていくような感じで。

肘位置が違ってた?

 島田先生が何種類かの練りの指導をされたときに、私の背後にいた天野先生から、肘の位置を直された。もっと真横だったみたい。そして胸を窪ませないようにとのこと。そういえば以前、天野先生が言ってたっけ。「人間の腕は横についているんだよって」そんなこと言われなくても、自分だって人間なんだから分かってるはずなんだけど、立禅のときや組手構えのときって、何だか妙に肘を前に持っていきたくなるんだよね。なんでだろ?

年忘れ・組手大会

 さてさて組手です。気功会との交流組手です。自分も3名ほどと組手をやりましたが、全く以っていいとこ無しでした。ここ一ヶ月くらいで3回くらいは組手の稽古もやってたし、その中で3回とも少しずつは良くなってきてたんだけど、今回はいいとこ無しでした。

 出来ていないことは、良く見ること・反応すること・弾けるように動くこと、等など・・・挙げればきりがありません。まあ、強いて良かった点を挙げれば、リラックスしていたことと恐怖心を感じなかったこと・・・くらいかな。

忘年会

 忘年会でのトピックスは、気功会からの参加者の中に富リュウの読者がいたということ。KさんはT山県に住んでいる。そして、月に一度は指導を受けるため長距離バスに乗って上京するというなかなかの努力家でいらっしゃる。

 はてさて、T山県といえば私も出張でたびたび訪れたことがある。そして、なんという奇遇なのでしょうか。Kさんの勤め先は、私がお邪魔していたユーザー先だったのです!

 しかも同じ工場内の同じエリア、すぐ目と鼻の先で仕事をしていたというのです。これは偶然なのか必然なのか、二人で顔を見合わせビックリでした。

 それはそうとKさん、立禅や這いのやり方で悩んだときには、何かいいヒントはないものかと、富リュウの修業記を読んでみるとのこと。なんとも嬉しいことを言ってくださるじゃあないですか。そんなこと言ってもらうと、この修業記を書いていて良かったなと私もとっても励みになるのです。

次へのアプローチ

 組手についての反省点で頭がいっぱいだ。「何が何でも自分の組手を上達させねば」とか「○○さんのようにするには、どうしたいいのだろうか」という、支離滅裂思考夢想を繰返す。しかし一晩明けて、たどり着いた結論は「まあ、やりたいことがあるって、それだけですばらしいことじゃないか」ということである。

 サラリーマン稼業も楽ではない。給与のためとはいえ、自分のエネルギー、自分の時間のほとんどを会社のために費やしている。日々の家庭生活も大変だ。色々な煩わしいことがたくさんある。やらなくてはならないこと。片付けや世話。義理や義務、等々・・・。

それに引き換え、この課題はいったい何か? なんと楽しい課題なのか。乗り越えるべき壁がある。出来ないことが出来るようになるという喜び。こんな遊びを生活の一部としてもっている自分を誇らしく思っても良いのではないか。

 そう腹をくくると、いいアイデアも浮かんでくる。次へのアプローチ。自分の個性、資質、性格を踏まえた上での組手スタイルの構築。「あれをこうして、これをああして、あれがこうだからこうこうこう」と、いっぱいいっぱい良いアイデアが浮かんでくる。ああ早く練習がしたい。身体がムズムズしている富川リュウ。もうすぐ43歳の冬でございます。

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平成17年・秋っぽい

糸引く両足

最近、練りが変ってきた。両足の間に膜があるように感じる。というとムササビの飛膜のようなものと想像されるかもしれないが、それとはちょっと違う。水飴のようなネバネバしたものが両足の間に糸を引いているような感覚。それをもっとさわやかにさりげなくしたような感覚。ってとこかな。

手は顔の前、手は相手に向けて、手は肩の前

組手では「どちらか一方の手が必ず自分の顔の前にあるように」とのこと。数年前に言われた。組手では「手のヒラを相手に向けておくように」とのこと。半年前に言われた。そして、やや広めに取っていた立禅のときの両手の幅を「もう少し狭く、肩の前に」と言われた。数ヶ月前に。両手の位置を肩の前のままに這いに移る。練りをする。探手をする。――手は、顔の前?肩の前?どっちだぁ??

腰を伸ばして

あーあ、やれやれ。両手を高く揚げ、伸びをする。書き物稼業によくある仕草だ。そんな風に腰が伸びた。半禅でモトクロスをしていたときのことだ。

天野先生から「下半身はバネのように上半身は一定の高さで」と言われ、強烈なデコボコ路の衝撃をストロークの長いサスペンションで受け止めるモトクロスバイクの動きを思い浮べた。半禅の上体をそのままに下半身だけをちょっと沈めてみる。するとどうでしょう。わき腹が伸び、新たな感覚が。

軸足側のわき腹を伸ばしたまま這いに移る。前側の腰骨を引き上げることも忘れずに。そして次第に引き伸ばしと引き上げを融合させ。渾然一体となった動きをつくっていく。よどみ無く、スムーズに動きだす。腰、肚、そして身体全部が。感動の一瞬だ。

似たようなことが書いてあった。『第六部・春の章上げたら下げる』、そして『梅雨の季節濃ゆい4分30秒』に。一歩一歩、近づいている。未来へ。

二つの条件を満たす

よどみ無くスムーズに動く腰肚を手に入れた時、やっと外廻しの練りがスムーズにできるようになっていた。そして内廻しの練り。腰、腹、胸、肩が、自然によじれた時、手がすっとそこへきた。顔の前にあるけど、肩の前にもある。その手を見て、ビックリ。手が顔の前にあり肩の前にもある。その二つの条件が満たされた瞬間だ。

手の位置を微調整

推手では「自分の空間を守るように」「相手の中心を捕らえる」「力を出せる形を維持して」そして「背中の力を抜いて」と言われ続けて早3ヶ月。それらを融合させるようにと、もがき悶える中で、ある解を見出した。

一人稽古では、いい感じのまとまりのある練りが出来るようになってきている。ところが推手では、そう易々とはいかない。相手がいるからだ。相手もサルモノヒッカクモノという程に、押したり引いたり、スカシたりイナシたりしながら動きまわる。そう相手は動いているのである。動いていると言うことは、状況が刻一刻、刻二刻、刻三刻、と刻々と変化するのだ。では、その変化を如何にして克服するのかということが問題となる。見出した解は、緩んでいること、そして手の位置を常に微調整し続けるということ。これをやっていると自分の一番いい形、自分が一番力を出せる状態を常にキープできる――はずだ。

立ち位置を微調整

――のはずだったのだが、今ひとつである。時々ひっつまってしまうのだ。何がひっつまるのかというと「姿勢が」である。言い換えると「首が、背骨が、全体が」なのだ。要は良い状態には居られなくなる。

色々なメンバーと推手をする。何年も先輩の方々、ほぼ同期の人達、後輩の奴ら、あ~んど天野先生とである。相手のスキルによってやり方を変える。テーマ、課題は同でもやり方は変える。先生からはヒントをもらう。格上の先輩には胸を借りる。同期とも自分の課題を見失わないように。そして後輩には、自分で居つづけることを確認させてもらっている。そして見つけた第二の答えは、立ち位置を微調整するということだ。

この旨、天野先生に尋ねてみた。「先生、立ち位置を微調整する感覚を見つけたんですけど、これでいいんでしょうか?」と。「んー、立ち位置というよりは、姿勢だな。常にいい姿勢を維持するように微調整するんだよ。そしてそのためのセンサーが手。だから手も、もっと緩んでいないとね」とのこと。

禅に立ち戻る。いい姿勢とは何か。緩んでいて、いい姿勢とはどんな感じなのか。ちょっと揺れてみる。揺らいでみる。ほわっとしてしっかりしている感覚。雲の上にいるような、在って無いような、在るんだけど消えているような感覚。新しい気持ちで立禅と向き合ってみる。

お腹ぶるぶる発力

天野先生から新しい発力の方法を教わった。立禅の状態から両手をつかまれる。お腹をブルブルと振るわせて、この両腕を振りほどく、というか振り切るといった感じだ。相手の手はいとも簡単にはずれる。次に相手なしでやってみる。これが意外と難しい。相手につかんでもらっているときには、それを振りほどく動きがたやすいのに、何もないところでこれをやろうとすると出来ないのだ。何度か試してみたが無理だ。隣にいるM島先輩も先生にこれを教わって試していたが、やっぱり出来ないようだ。

いい考えが浮かんだ。試してみる価値はある。どうせダメ元なんだし。腕で囲んだ領域にある白いモヤ。ソケイ部からも渦のように出ている白いモヤ、膝までの領域を包み込んでいる。この空間に満ちている白いモヤを一瞬にしてリンゴ位のおおきさにギュッと圧縮する感覚で身体を震わせてみる。フンッ!――できた。お腹の贅肉がブルンっと一瞬にして左右に震えた。毎日、節制せずにビールを飲みつづけていた甲斐がある。贅肉バンザイ!贅肉さまさまである。

お腹が痛い

「先生、おなかが痛いんですけど・・・」授業中、手を挙げてそんなことを言いだす子がいると、「おっ、便所行ってこい、便所」って、出すものを出せば腹痛は治るという安易な考えがまかり通っていたようだ。昔は。

「先生、僕もおなか痛いんですけど」前述の『お腹ぶるぶる発力』をするとお腹の中の内臓がよじれて痛くなってしまうのだ。「んーそうか。俺は痛くないよ」先生の答えは最近そっけない。「まあ自分で工夫してなんとかせぃ」ということなんだと思う。

翌朝、禅、這い、練り、推手のシャドー、と一通りのメニューを平らげた後、「お腹ぶるぶる発力」をやる。やはりお腹が痛い。ならどうする。体を緩める。腹を緩める。そして、よじれを全体に分散させる。お腹をブルブルさせるときに各部が少しずつよじれるようにしてみる。なんかいい感じだ。

太気拳の打ち方・その1

ここである仮説が思い浮かんだ。順序だてて説明しよう!

①正面を向いている立禅の姿勢から腕の形をそのままに、上体だけを左右に振る。肘打ちを繰り出すように。力を入れれば入れるほどスピードが出ず、疲れるだけなのがお解かりいただけるだろうか。
②次に、同じ動きを上体がclockの時に同時に、足裏をズッてclock-uの方向に動かす。この上半身と下半身が逆方向に回転するツイストの動きを小刻みに数回繰り返してみる。前述の①の動きよりもリキまずに速く動かせたのではないだろうか。ただし力が相殺されてしまうので、肘打ちの威力はあまりなさそうである。
③さて次はなかなか難しぃぞなもし。上体がclockの時に、お腹がclock-uで、下半身がclockの方向に動かす。出来たかな?そして次第にブルブルの動きを小さな振動に変えていく。お腹が左右に微動する小刻みな動きを肘打ちや打拳に繋げていく。これが富リュウの考える『太気拳の打ち方・その1』であります。

太気拳の打ち方・その2

ずっと前に天野先生に聞いたことがある。前方発力の際に「一瞬だけ『こうしちゃいけないよ』っていう形になるんだよ」って。禅、這い、練り、全てを通して、太気拳ではまとまっている体、まとまったまま動ける体を創っていく。そして前述の『こうしちゃいけないよ』の意味は、この逆。まとまっていない状態のことである。

探手で打ちに行く。打っている瞬間、体がまとまっていない。何かが違う。そこが一番大事なのに。相手に当たった瞬間に体がまとまっていないと軽い打拳しか打てないのに。前方発力の説明をされていた天野先生の姿を思い出す。『こうしちゃいけないよ』の形は、発力の直前にあった。ならば、打ちに出る直前がこの状態であるはずだ。そして打っている瞬間に『まとまっている』の形をもってくればいい。

ゆっくりと練をする。外廻しの練りだ。次第に探手になっていく。相手を見立てて…。組手のシャドー。ふっと肩甲骨をハズす。右の肩。それをハメルと同時に打つ。パンッ!『太気拳の打ち方・その2』の完成です。

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平成17年・残暑お見舞い

左肩もはまってナイト

 前回、肩がハマッタ旨の報告をした。しかし実は、それって右の肩だけだったのです。そして右肩のハマリ具合は、なにかじんわりと、少しずつ少しずつやってきたのですが、今回、左の肩がハマッタのです。それが唐突に!記念日は平成17年8月12日。広島県H市S町の駅前公園での早朝の立禅のときでありました。

夏のセミ

 H市S町の駅前公園には木がいっぱいあって、そこにセミがわんさかいる。たまに自分の手の届く高さにいる奴もいるので、そっと捕まえようとしてみる。ぶぶぶぶ!突然暴れ出したセミにビックリして手を離してしまう。今度はそっと一本の指だけで、木に押し付けるようにしながら抑え付け、動けない様にしてから二本の指でセミの体を挟んでみた。おみごと!セミは富リュウの手中に納まる。手を離してやるとぶぶぶぶ~と、また元気に飛んで行った。

 ふと見ると別のセミが電灯の鉄塔にゴンッゴンッっと何度も何度も激突している。たぶん目が利かないので、体当たりしながら確かめるように、キラキラしているこれは何かと、留まってやろうか否かと思案中なのだろう。しばらくして諦めたらしく、すぐ脇にある樹木に留まった。今度は一度で留まった。キラキラはなくても馴染みの木肌はゴツゴツしていてつかまりやすかったのだろう。

 夏合宿でのM島先輩の組手を思い出す。さざ波のように押し寄せる両腕。岩間に寄せてはかえす水しぶきのような軽ろやかな打拳。両腕はセンサーであり、触覚のような物と以前、天野先生から聞いたことがある。そうか、初めから綺麗に極めようとしなくてもいいんだ・・・。と言うよりは、初めから綺麗に極めようとはせずに、攻めながら守りながら様子を見て感触を確かめて、ずっとずっとそれをやり続けて、打てる時がきたら打てばいいのか――。

首のはじまり

 先生は何を基準にアドバイスをくれるのだろうか。「首はこう」と言われてから、首の位置と全体のバランスがすっきりと良くなったので聞いてみた。だってそんなに大変身しちゃうようなアドバイスだったら1年前か2年前にしてくれよって思うでしょ。先生の答えは単純。「ん、首の具合が悪そうにしてたからね」ってただそれだけ。

肘ぢから腕ぢから

 肩がハマッテしまうと腕に自信がつく。推手の時にその角度、その位置のままで相手を持っていくことができる。肘に力が出るポイントが判ってきたからこそ出来る芸当である。ところが先生からの評価はNG。腕の力で押し込んでいたんじゃダメだよって。「腕はただの接点にすぎないから、そこに全体の力を載せるようにしないと」なんて、難しいことをおっしゃるのだ。ハマッタ肩を生かすには今ひとつ工夫が要りそうである。

腕に中に入る体

 朝練のなかで昨日の先生の言葉を思い起こす。肩はハマッタ。後はどうする――。内廻しの練りから少し推手のイメージでゆっくりと動いてみる。ハマル方向、ユルム方向。前へ前へと前進して相手を押し込んで行く。腕の力ではなく、全体の力を・・と考えながら。ふと腕の中に体がグッと入り込んだ。おっーーーと、これは動く人間油圧シリンダーのようだ!

 その感覚がわかって、また立禅に戻ってみた。腕の中に体をぶつけるようにして少しだけ身体を揺すってみる。んんんっこれだなー。先生の伝えたかったことは!この感覚で這いと練りも試してみた。ヨッシャ!開眼じゃ!

変わった推手

 推手での、もうひとつのアドバイスは、力のまとまった所を探すということ。力がまとまって出せる形、体の状態。それを見つけて、それが常に途切れないようにしていなさいとのことである。腕の力を抜いてゆったりと練りの気持ちで推手をする。相手がどう出ようがお構いなしだ。前腕がすっといい位置にくる。リキミが無く自然な状態だ。ちょっと前まではこんなことは出来なかった。相手の力の方向が逸れていたので、よくアドバイスしたものだ。そして天野先生に叱られた。「人のことはいいんだから。自分の事をしなさい」と。

 今になってようやくその意図がわかる。相手が上手くやってくれて自分も上手く出来るうちは初心者と何も変わりはしない。相手がどうであれ、自分のいい位置に持ってこられるようにならないと、本当の意味で出来ているとは言えないのだ。

 このほんの僅かな違い。この僅かな塩梅のさじ加減が解るのに、随分と永い時間を費やしたものだ。それくらいツカミどころのない、それくらいさりげない進化である。

 「今はまだ過渡期なんだから大事に大事に推手をしなさい」最後にそんなことを言われた。――まだ過渡期か。だいぶ良くなってきていると思ったのに・・・。いつになれば円熟期と言われるのだろうか。5年先なのか10年先なのか?まだまだ若い富川リュウ。42才と8ヶ月の青春の時である。

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平成17年・夏だらだら

肩がはまってナイト

 折につけ、関節がハマッタ旨の報告をしてきた。首、腰、股関節、等々・・・。しかし肝心の肩関節にはついては未報告であった。ずっと前に天野先生から聞いたことがある。「人の体の中ではさ、肩関節が一番可動域が広いんだよ。だから肩がいい位置に収まるまでには時間が掛かるんだよな」と。

 いつの頃だったろうか、丹田のあたりに原子炉のようなエネルギー体を感じるようになってきたのは・・・。それが何なのかは分からないし、いまのところは推手にも組手にも役に立っているようには思えないのだが、その感覚は日々極々僅かずつではあるが存在感を増しつつある。そして最近、右肩にも似たような感覚が・・・。これは原子炉のサブタンクか補助エンジンか?私はけっして腕も太くはないし、肩の筋肉もそれほど付いている訳ではない。にもかかわらず最近、右肩に心地良い「じれったさ」を感じている。そう、プロトニウムの強烈な核分裂が生み出す爆発しそうな「じれったさ」である。これが、肩がハマッタということなのか?それともその兆し(キザシ)だけか? いずれにしろ「良い肩の状態」がひとつだけ見つかった。

組手について分かったこと

 この夏、けっしてだらだらと過ごしていた訳ではないのだが、5月の腰痛発生を引きずっていたことや、田舎への里帰りや、仕事関係で出張が増えてきたこと等々で、合同稽古への参加が月2回ペースになっていた。そんな中で、久々に組手をやった。結果は散々・・・。前へ横へ後ろへと足は良く動くのだが、相手を捕らえて打つことができないし、ガラ空きの顔面へ何発ももらってしまった。体が(手が?)全く反応していない。

 組手について分かったこと、その1は、「組手が上手く強くなるためには、組手をするしかない」ということである。一人稽古だけで悦に入っていては、何の役にも立たないし、それで、達人・名人になったような気分になっていたのでは、ただの「気分だけ名人」と嘲笑されるだけである。

 そして組手について分かったこと、その2は、「先生の言うとおりにしているだけではダメ」ということ。誤解をして欲しくないのは、決して天野先生の指導方法やアドバイスが良くないという意味ではない。私の知る限り、天野先生は自身の実力もピカイチで、尚且つ指導者としての最高の資質を併せ持つ稀有な存在である。では、その先生を以ってしても「先生の言うとおりにしているだけではダメ」とは、どう言うことかというと、先生は神様ではない。超能力者でも魔法使いでもない。生身の人間である。そして私も同様、生身の人間。であれば、テレパシーで交信することは叶わず。ましてやチチンプイプイと魔法とかけてもらえるわけでもない。教える方は、自身の頭で考え、自身の体をとおして教えている。そして教えられる身である私にも、自分の頭と自分の体がある。このギャップを埋める必要がある。要は、自分用のオリジナル、オリジナルになるための工夫が必要なのだ。

肩がゆるんでナイト

 組手のあと、頭の中で考えていたことは「自分の組手には気迫が足りないのではないか」ということであった。リラックスすること、緩むことにばかり気をとられていて、打ちに行く気迫、闘うという気概が足りないのではないかと・・・。この旨、帰りの電車の中で天野先生に聞いてみた。「そうだよ、それは必要だよ」とつれない返事。否定はしないもののなにかを言いたげな・・・。「まあそのうち気付くだろう」とでも思っているかのようである。

 さて、「組手が上手く強くなるためには、組手をするしかない」とは言っても、毎日組手ができるわけではないので、自主練をする。あの日の組手を思い浮かべながら軽く動いてみる。練りのような探手のような緩い動き、ゆっくりとした動きで・・・さばいて打つ、よけて打つ。。。っと、肩が固まっている自分に気がついた。こんな肩をしていては、反応しようがないではないか!

 打てるはずもない!立禅で見つけた「良い肩の状態」とは真逆の「固まった肩の状態」になっていた。なんてこったパンナコッタ。「良い肩の状態」とは言い換えると「使える肩の状態」。つまり「固まった肩の状態」とは「使えない肩の状態」ということになる。なんのことはない、組手についてのアドバイスで天野先生が一番強調していたのが、緩むことである。固まらないこと、とも言っていた。自分では緩むことは出来ているつもりでいた。でも違った。違う緩み方があったのだ。

ハマッテ緩んで、緩んでハマッテ

 「使えない肩の状態」にいたことに気付いて、それを払拭するために再度稽古を組み立てていく。とは言っても、やることは同じ「立禅、這い、練り、探手」これだけである。肩の関節がハマル所とユルム所、その狭間を行き来する。禅の中で、這いの中で、練りの中で。そして探手。打ったその直後、固まりやすい。相手の打拳を受けた直後、固まりやすい。傾向がわかれば、対策を練る。練る。練る。練って練って、見えてきたものがある。

 「リラックスして緩んでいるように」そう言われて、いつも肩をぐるぐるまわしていた。動きに柔らかさが出るように意識して・・・。でも練って練って出てきた答えは違っていた。緩むのは、廻す方向にではなく伸ばす方向になのだ。これは、肩関節がハマル方向を見つけた人にしか理解不能なことだけれども、このハマル方向とは真逆に伸ばすのだ。これが緩む方向。やっと「緩む」の意味がわかりました。そして何故、澤井先生の首が亀のように引っ込んだのかの秘密も・・・。これでやっと枕を高くして寝られます。なんせ、頚椎が緩んでいないことには枕を高くはできませんから。

ミミズ拳法

 「ひとつの真理に気が付くと、それが全てに応用可能なことに気付く。そして真理の方から近づいてくる。いずれ、全ての真理が明らかになるであろう(by富川リュウ)」。

 はっはっはっ。調子に乗って格言などを作ってしまいました。

 肩関節のハマル緩むが分かってくると、それを全身の関節に応用してみたくなる。
 足首、膝、股関節、腰椎、脊椎、頚椎。
 全部をハメル、全部を緩める、そしてまた全部をハメル。
 部分だけをハメル、部分だけを緩める、そしてまた部分だけをハメル。
 下の方だけハメ、上の方は緩めておく、そして上の方をハメ、下の方を緩める。
 下から上へ、そして上から下へ。使い方は自由自在。
 ハメ具合は、デジタル的と言うよりは、アナログ的な方が良さそうだ。ハマリ具合と緩み具合がグラデーションをつけながら行き来する。イメージ的にはミミズのような動きだ。名付けて、ミミズ拳法!しかしこの拳法、名前が弱そうなところが難点である。(笑)

太もも探手

 半年ほど前に天野先生から前蹴りを受ける際の姿勢について教わった。太ももに両手をつける。この腰の高さ、この懐の深さがあれば、前蹴りはもらわないとのことだ。それを思い出し、その姿勢で探手のように動いてみる。天野先生の組手をイメージしながら相手の打拳をヘッドスリップでかわす。こう動きながら「哺乳類は背骨の方向にしか力を出せないんだよ」という天野先生の言葉も思い出した。蛇のように頭をくねらせながら前へ前へと動いていく。相手の拳に巻きついていくような感覚で。木の枝を相手の腕に見立てて、その脇に頭を突っ込んで、また引き抜くという動きも試してみた。なかなかいい感じだ。腹がよくよじれて体全体のまとまりも言うことなしだ。ヨシ、これで次回の組手はやってみよう!めちゃめちゃイケてる俺を見せてやるぜぃ!

夏合宿

 メンバーは、そのほとんどが20代、30代のサラリーマン達。仕事の疲れもたまっているだろうに。夏バテぎみの人もいるだろうに。所帯をもって妻子ある身の者もいるだろうに。はてさて何を好き好んで、この暑い最中に小学校の体育館に集まって拳法の稽古なんかをするんでしょうか?

 浜辺には、目にも眩しいビキニ姿のオネ―チャン達が楽しそうに戯れているというのに。太気拳に対する熱意、信念、情熱、そんな言葉が脳裏をかすめる。でも、ただ単に他にすることが無い人や、ただ単においしいビールを飲みたいだけっていう人もいるかもしれない。でもまあいいじゃないですか、それもありってことで。ちなみに私の場合は、これまでの朝練の成果を組手で実証するために参加しています。もちろん強くなった暁には太ももむちむちオネ―チャン達にモテモテになるっていう下心はありありですが。

 浜辺のオネ―チャン達の太ももはさておき、自分の太もも探手の成果は如何に?結果は・・・無残な屍。海の藻屑。もずくの酢の物。A先輩からは「お前だけだよ、前回より悪い組手になっているのは」と言われる始末。「頭を振って入るのはいいんだけどな、頭を下げちゃうと足が動かなくなるんだよ。ヘッドスリップは手が間に合わなかったときの保険で使うくらいなつもりじゃないとね」とのアドバイス。その後、天野先生と組手をしていただいて、ちょっとだけいい感覚が戻ってきた。以前意識していた「自分の手で相手の出を抑える」ということを思い出したのだ。自分なりの工夫が裏目に出て、やっぱり先生が教えてくれたことが正しかったということだ。正直な話「先生の言うとおりにしているだけではダメ」なのか「先生の言うとおりにしているだけで良い」のかが分からなくなってきた――富川リュウ、悩める42才の夏である。

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平成17年・梅雨の季節

推論・腰痛の原因は何?

 東京にも大地震が来る日が近いと言う。地震が起こるメカニズムは、マントルに引き込まれ続けている地盤が、あるときピキっと元に戻るからだと言われている。

 私はまた腰痛になった。私の腰痛のメカニズムは、なんだかこれに似ているように思えてならない。治癒の過程において、痛む部分がだんだんと拡散して行って、それで、いい感じに回復してくるからだ。

 私の推論はこうである。私の場合、腰のある部分が動いていない。にもかかわらず毎日運動するもんだから、周りのあれやこれやが無理をしてそれを補おうとする。だからそこに疲労が溜まる。そしてそれが限界に来たときにピキっとなる。

 ――ということはだ。動かない部分をなくせば良いのだよ、キミぃ!と天の声が教えてくれた。

差出し足の謎~1分30秒~

 この日の指導は2分30秒。始めは這いについての1分30秒である。「こうだろ。この足が必ずここを通って、こういう向きに出て行く。鎌で草を刈るようにな。そうそう。足で動かない。腰で足を運ぶんだよ(以下、身振り手振り省略)」

 ここの所、這いや練りでの後ろ足の動きに重きを置いて稽古をしていた。半禅の足使いとは逆の形。軸足にのって後ろに片足が残っている形。島田先生が組手のときによく見せるフォームだ。この虚になりがちな後ろ足に意識が入るようになると、今度は差出し足の方が、みょーに寂しーい、悲しーい、虚しーい感じなのに気づく。ただ足だけを出しているのである。充実感が無い。

 鎌で草を刈るように差出し足を出す――これは入門当初から教えられていた。もう5年も前の話だ。いまさらジローである。しかしことあるごとに天野先生は、これを言ってくれる。自分でもそれは謎であった。天野先生が澤井先生の動きについて説明する時、狭い歩幅でトコトコトコっとした感じに動いて見せてくれる。この動きを指導され、稽古していた時期もあった。しかしこのトコトコ歩きはそれほど寄せ足をしていない。その辺に矛盾を感じていたのだ。

ヨコ方向の力が無い~1分00秒~

 そして引き続いては、練りについての1分00秒。練りの極意は忍者歩きと見つけたり!とご満悦に内廻し練り励んでいた富リュウに近づく怪しい影。「だめだよ。それじゃ。ヨコの力が何も無いじゃないか!こうだろ。こっちの手がこう。肘がこうなるんだよ。違う違う。お前のそれじゃ、ここが何もないじゃないか。うんぬんかんぬん・・・(以下、身振り手振り省略)」

 確かに、忍者歩きはタテ方向の動きのみを強調しすぎている。これはこれで間違いではないのだろうが、次の段階として、ヨコ方向の力も必要だということだろうか。イヤ、待てよ。タテがあって、ヨコも必要だと言うことは、全部要るってことだよな。つまりどの方向に対しても腰肚を使って動けるようになれよと、そういうことでしょ。天才は忘れた頃に十を知る。間違いない!

5種の練りを織り交ぜて~2分00秒~

 その日の指導は実技が2分00秒、講義が4時間と?分。始めは練りについての2分00秒である。5種の練りを混ぜこぜにする。「こうだろ。これがこうなって、こうだろ。それがこうだから、これがこうなって、こうなるんだよ。な!」

 (注記)この「な!」とは「これの練習をしなさい」という意味である。それはそうと、これだけでは内容が意味不明なので解説しよう!先生が言われた5種の練りとは、両手交互に内回し、両手交互に外回し、両手同時に右回し、両手同時に左回し、そして差し手からの引っ掛けの動きである。この5種類をつぎつぎと継なげながら前述の説明をされたのだ。先生が言いたかったことは、これら5種の練りをよどみなくスムーズに紡ぐようにつなげてやってみなさいよと、そしてどれも質的には同じなんだということを身を以って感じられるようになりなさいよと、そういう意図だと受け取った。

講義――YRTにおいて

 場所をYRTに代え、講義が始まる。お疲れのカンパイの後、あれやこれやの楽しいお話。終わりの頃はあまり記憶が定かでないので、講義時間は4時間?分である。特筆すべきは、天野先生の言われたゲシュタルト崩壊の話、カエルは動くものしか見えないという話、等々。ふむふむ、これは役に立ちそうである。

 ゲシュタルト崩壊とは、既存の定義づけが崩れてしまうことをいう。例えば、ひらがなの「つ」という字を見ていて、普段はなにげなく「ツ」と読むための文字なんだなと認識しているが、ふとしたときに「つ」という形態が奇妙な、ただの線に思えてきて、何故それを「ツ」と読むのか、そもそも誰がこれを「ツ」であると定義づけしたのだろうか。などなどと、考えてしまうこと。これがゲシュタルト崩壊である。

 「立禅をしてるとさ、時々そうなるんだよな。木とか草とか建物とか。なんかフッと不思議にそれらが何でもないものに思えてくる瞬間ってあるじゃない」って言うじゃない!確かに自分もそうかもしれない。ふむふむなるほど・・・とその時は思ったのだが、一晩空けてシラフになると、で、それがいったい何の役に立つっていうのさ!突っ込みを入れるタイミングを逸していた自分にがっかりんこである。

超濃ゆい4分30秒

 「差出し足の謎」「ヨコ方向の力が無い」「5種の練りを織り交ぜて」のトータル・アドバイスタイムは合計で4分30秒である。たったの4分30秒。しかし超濃ゆい4分30秒であった。

 きっかけが何だったのかは覚えていない。朝の自主練で半禅から這いに移ろうとしていたときのことだ。半禅の軸足側の腰を真逆に上げてみたくなった。なんだかそうするとまだ完治しているとはいえない腰の違和感にストレッチ的な気持ちよさが得られると思ったからだ。いつもは軸足側にやや下がっている骨盤、それをぎゅううっと引き上げてみた。もう45度も傾いているぞと言わんばかりに・・・。そして這いに移る。腹がよじれる。腹のよじれで、差し出し足が自然に差し出された。コレダ!

 腰の傾きは見た目の結果であって、それを創り出しているものは腹のよじれ。腹をよじって使うことで骨盤の傾きを引き出し、それによって差出し足が動かされる。あるいは引き戻される。

 「5種の練りを織り交ぜて」の稽古に移る。内回しの練りでは、腹のよじれも馴染んできて、いい感じに仕上がってきた。しかし外回しの練りには何故か充実感が無い。そして疑問符のついたまま推手のシャドーに移る。あの時の○○さんはこう動いていたよなぁ。あの時、先生にはこう言われたんだよなぁ。あいつのあの動きはムカツクんだよな!等々とシミュレーションしながら動き回り、ムカツク相手に向かって、発力の動きを試してみる。そうそうこの発力の動きが中途半端だから、あいつを納得させることが出来ないんだよ。試行錯誤しながら色々な動きを試してみる。そしてここで素敵なプレゼントがひとつ。新しいオモチャを自分で見つけてしまった。それは、内回しの練りで手の動きを逆に使ってみるというものだ。通常の内回しの練りでは右足が出るときに右手の方が出て行く。これを逆に右足が出るときに左手の方を出してみるのだ。まったく体に馴染まないこの体の使い方。ただこのオモチャを遊びきった時に、新たな世界が拓けるという確信に似た予感がしているのだ・・・。

ゲシュタルト崩壊

 剣道には「遠山目付け」という言葉があるらしい。目のつけ処が遠山の金さんのようだ。極真空手を習っていた頃、ローキックの対処法として似たような目付けを習った。相手をボワンと見る。あるいはもう一人後ろに居る誰かを想定してそこに目の焦点を合わせる。そうすることによって相手の肩口の辺りと足先の動きの両方を同時に視野の中に捕えて見ることが出来るようになる。2週間ほど練習すれば、誰でも簡単にできるようになることだ。

 さて、先生の言われた立禅においてのゲシュタルト崩壊である。いつもの朝練の立禅でボワンとした気分で景色を眺めてみる。なるほどこれがゲシュタルト崩壊か・・・と。こんなもんか。翌日、朝練の公園へ向かう道すがら、歩道にタムロする小さな羽虫の群れが目に入りそうになる。それを避け、頭を右に左に振る。ふと3日前の記憶がよみがえる。カエルは動くものしか見えないという話だ。葉にハエが止まっている。それが飛び立とうとしたその刹那、かたわらにじっとたたずんでいた蛙の口から飛び出してきた舌がハエを捕らえる。コンマ何秒の早業。というような話だったと思う。ピコン!頭の上の裸電球が光った!

 立禅をはじめる。左右に行き交う車、バイク、歩く人、自転車に乗った人、時折り飛び交うカラス、揺れる柳の枝葉、風になびく雑草たち・・・。動くものだけが見える。まるでスクリーンの中の風景のように。意味を持たず。存在の気配さえ感じさせずに。ただ右手から左手へ。左手から右手へ。そしてあちらからこちらへ・・・。不思議と奥行きはあまり感じさせない。それは一枚の絵のようだからか。奥から手前に移動してくるもの。それはただの上下左右の動きに置き換えられている。

 朝練を終え会社へ向かう道すがら、すれ違う人達を観察する。いや、その人達を観察するのではなく、自分がその人達をどう見ていたのかということの検証である。結果、実に多くの身勝手な、思考、判断、想像に満ち溢れていたことを発見した。自分はこんなにも色々なことを考えていたのか・・・という驚愕。主には人の表情、容姿に関することが多い。ああこの人は今日も眠そうだなとか。こいつはバカそうだなとか。結構かわいいんだからもっと綺麗なスカートはけばいいのに・・・等々。思考は尽きることが無い。

 そういえば組手のときも色々と考えている。ああきたらこうとか。こうきたらああとか・・・。こいつは強そうだとか、怖そうだとか。色々色々・・・。それって必要なんだろうか。そんなことを考えながら会社へ向かった。

抑える必要のある手、抑える必要の無い手

 さてここからは、このゲシュタルト崩壊をどのように組手に生かすのかということの推論である。ということなどを書いてみようと思ってはみたが、最近あまり、というかほとんど対人稽古をしていない。季節は梅雨。当然、雨の日が多い。また腰の状態も本調子とは言えず、だましだましといった感じだ。こんなテイタラクなのに、組手とは○○である、等々と口先太氣拳を気取ったところで、シラケ鳥が南の空へ飛んで行くだけである。やめておこう。

 キーワードは「抑える必要のある手と抑える必要の無い手」あとは「相手の手に自分の手を合わせていく」ということだ。これだけをここに記しておく。

 さて、それではレンタルビデオ屋へいって「マトリックス」を借りてきて、イメージトレーニングに励むとするか!あ、明日は妻が外出・・・。ということは、○ッチビデオもついでに借りちゃおうかなー。戦うことに疲れた戦士には、たまには息抜きも必要だし・・・。「何ニヤケてんのよ!またエッチなこと考えてるんでしょ」と突っ込みを入れる妻に驚愕。おまえはサトリかサトエリか!

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平成17年・春うらら(その2)

組手のできる身体になった

 お花見交流会の前、体の調子は上々であった。4週間ほど前から組手稽古も何度かしていたし、いい感じの仕上がり具合である。こう書くと当日は、並み居る敵をバッタバッタとなぎ倒し、アレヨアレヨという間に決勝進出!と思われがちだが、太氣拳の組手はそういうものではない。自分に出来ること、出来ないことをじっくりと確かめるために相手と向き合い、相手の胸を借りて、今後の課題を見つけ、次につなげる組手をする。

 前述のいい感じの仕上がり具合――その内状は、自分の体がやっと組手稽古のできる状態になったことを実感できていたということ。これは何も、相手のどんな攻撃に耐えられる超合金ボディが手に入ったわけではなく、太氣らしい、練れた重い身体――それが手に入ったのだ。組手をした後には、必ず何か新しい発見を得られる。そういう状態になっていた。正直なところ、お花見交流会の前、自分の組手のスキルはまだまだお粗末なものだという自覚は充分過ぎる程にあった。だが、一番の思いは「ああこれが始まりなんだな。今やっと組手稽古が始められそうだ」ということだった。

 この思いを裏付けてくれる出来事があった。交流会の日、鹿志村先生から「君は体が重いねぇ、かなり稽古しているね。すぐに上手くなるよ」とお褒めの言葉をいただいたのだ。とっても嬉しかった。と同時に「鹿志村先生、私だって、ここまでくるのに5年も掛かったんです・・・」という思いを飲み込んだ。鹿志村先生、天野先生が太氣拳を始められてから、実に20年が経っている。暗中模索の中の20年。それに比べれば、なんと恵まれた環境の5年間だったことだろう。天野先生には、本当に感謝、感謝である。

 交流会が終わると気持ちも一段落つき、稽古も一休み、と思いがちである。もちろん嫌な組手もしばらくやらなくて済むし。と思っていたのは去年までの私である。今年からの私は違います。気力充実させてガンガン対人稽古をやります。もちろん組手稽古も毎週やりますよ!

集中と拡散

 毎朝の立禅を始めて、もう4年になる。色々な変化と進化があったが、その内の一つは、集中力がついたこと。集中するというと何か眉間にしわを寄せて、しかめっ面をするようなイメージがあるが、それとは全然ちがう、集中と拡散が同時にあるような感覚である。組手で相手と向き合う。相手の中心に集中しながらも風のそよぎを感じている。無邪気に遊んでいる子供の声、犬達の吠え声までもが聞こえている。意識が集中と拡散の状態の中で、身体も収縮と膨張を繰り返す。――はずであったが、相手と手が触れた瞬間、体が固まり、周りの音も聞こえなくなる。天野先生からは、とにかく緩むこと、全てのリキミを完全に外して、脱力しきっていられるようにとアドバイスをもらう。そして鹿志村先生からは、「君はアゴが出るねぇ。打ちに行くときにアゴがでるから打拳に体重がのらないし、第一それじゃあ、貰ったときに効いちゃうよ」と助言をいただいた。

胸を張るとアゴが引ける?

 アゴを引くというと誰しもが、ボクサーのあのクラウチング・スタイルを思いだすだろう。私も何かそのような形をイメージしていたのかもしれない。しかし得られた状態は全く違っていた。鹿志村先生から助言をいただいた翌日、月曜日、立禅の中でそれを探ってみた。答えが無い。這いの中でも練りの中でも探ってみた。やはり答えがない。あきらめずに、探手の中でもそれを探ってみた。アゴを自然に引ける状態をさぐりながら、打って、サバいて、力を抜いて体に任せるように動いてみる――。すっとアゴが引けたそのとき、意外にも胸を張った姿勢であった。この状態が一番自然にアゴを引いていられたのだ。アゴの位置が変わるということは、首の状態が変わるということだ。火曜日、その首の位置を馴染ませるような感覚で、立禅、這い、練りを行った。水曜日、同じようにそれを繰り返しているうちに、今度は尻の股関節あたりに違和感が・・・。木曜日、初めは違和感だった尻の股関節が充実感に変ってきた。新しい良い位置に股関節がハマりそうなのだ。そして金曜日、股関節が完全にハマッタのだ。

 んんっとこれは、どこかで聞いたようなフレーズだ。思い起こせば2年前、H15年・初夏の章を振り返ってみると、そこには関節のハマッタ記念日が記されている。腰がハマッタ記念日、4月18日。首がハマッタ記念日、5月9日。股関節がハマッタ記念日、5月28日と。そしてそれに追記せねばなるまい、股関節がもう一度ハマッタ記念日をH17年4月8日と。

リストラされる骨達

 リストラというと「首切り」「人減らし」などのイメージがつきまとうが、本来の意味は、英語のリ・ストラクチャリング。「再構築・再構成」などという意味だ。

 今回、アゴを引くために胸を張って姿勢を変えた。そしてこの新しい首の位置とのバランスを取るために、尻の股関節のあたり所が、ちょいとズレたに違いない。つまり首の骨達がより良い位置に並び替えられ、それに伴って、尻の股関節の位置が微妙にズレ、より良い位置にハマッタのだ。これぞまさしく骨達のリ・ストラクチャリング。再構成である。

動体視力の向上

 さて、骨達がリストラされると何か良いことがあるのだろうか。アゴが引けて首が伸び、姿勢がよくなると、実に身長が5cmから10cmほど伸びたように感じられたのだ。まあ、これはあくまでも感覚的なものなので、実際には3mmかもしれないし、0.3mmかもしれない、あるいは全々伸びてはいないのかもしれない。それともう一つは、視界が開けたこと。これはちょっと表現しにくいのだが、なんとなく今までよりも眺めが良いのだ。そして動体視力の向上。いつもの公園で朝練している時に、またしてもカラスが頭上をかすめる。思わず低く姿勢を取り、カラスの横顔を見て取ると、その眼つき顔つきまでもが良く見えたのだ。

 そういえば天野先生は視力が低い。その低い視力でありながら、相手の動きはよく見えている。実は動体視力というのは、通常の視力とは異質のものなのではないだろうか。まあこの辺は、実際の組手において相手の動きや打拳が見えるようになったときに報告したいと思う。だってカラスの横顔が見えるって自慢げに言ったって、屁のツッパリにもなりませんから。

グレーゾーンを極める

 差し手からの引っ掛け、これは以前に天野先生から習ったことがある。でもしかし、今回、鹿志村先生から直々に手をとりながら教えていただいた時には、新しい着目点が見つかった。この動きを簡単に説明すると、上にある腕がグーを握って前に出て行き、同時に下にある腕がパーで手元に引かれてくる。これを交互に繰り返すのだ。始めは手元に戻ってきた手をグーに握り直し、前まで行ったらパーに切り替えるだけでも大変で、その内に逆の動作をしてしまったりする。握りのコントロールが上手く利かないのだ。でも繰り返し練習してコツをつかんでくると、グーの手とパーの手を間違わずに出来るようになってくる。

 ではここで何に気付いたのかというと、グーからパーに切り替えるその刹那に極意が潜んでいるということ。太氣拳の力は流れる、流れながら途切れない。強くなり弱くなり、螺旋を描いてうねっていく。グーからパーに切り替わるその瞬間、それが陰(黒)から陽(白)に切り替わるターニングポイント。その刹那、行って戻るだけではなく、重要な何かがある。このグレーゾーンを極めたい。

グーチョキバーで半拳ポン

 グーで殴るのか、パーで殴るのか。これは私にとって実に悩ましい問題であった。太氣の組手には「顔面は開掌、ボディは拳も可」という暗黙のルールがある。ところがこれが曲者で、顔面をパーで叩くとグーに握るまでに時間が掛かるし、グーでホディを殴った直後、顔面を攻撃するためにパーに切り替えるという作業が実に面倒というか、スムーズにできないのだ。ところが天野先生は、この辺のところを実に器用にやってのける。とても不思議に思っていた。それが今回、鹿志村先生からヒントをもらったことでスッキリしたのだ。

 鹿志村先生は、特別講習の中でこんな説明をされていた。「太氣拳の半拳は、意拳のそれよりも開き気味になる。テニスボールをもっているときくらいの手の形でほとんど握らない」とのこと。これでは指をいためそうだと誰しもが思うだろう。私も始めはそう思った。まだ説明の途中であったが、こっそりと後輩に耳打ちし、ちょっと叩いてみてもいい?ってこの手の形でそいつの背中や腹を打ってみた。嫌な先輩である。でも軽く打っても、効くという。オゥ、マィ、ガッ。マカロニ!さてさてこの後のことは、鹿志村先生の説明だったのか、自分で気がついたことなのか、記憶が定かではない。それくらい自然に、当たり前なことに思えるのである。開掌を使う際には手をパーに開ききるのではなく、バレーボールを持つくらいの形にする。

 この特別講習の直後、2、3人と組手をしたが、残念ながら私は、今聞いた話をすぐに実行できるほどの器用さを持ち合わせてはいなかったので、その確認作業は翌朝の自主練に持ち越された。この手の形で探手をする。手のひらはバレーボールからテニスボールまでの大きさで行き来する。実にいい感じだ。力の途切れを感じさせない。そしてそのまま開手で打ち、半拳で打つ!ドン・ピシャリであった。

 思うに、以前から天野先生からも同じような事は何度も言われていた。それを今回のことに当てはめてみるとこういうことになる。「グーを握るとさ、終わっちゃうんだよ。次に開くのにエネルギーが要るだろ。エネルギーが要るってことは、違う言い方をすると時間が掛かるんだよ。パーもおんなじ。開ききっちゃうと終わりなんだよ。開ききったものを緩めるのにまた時間が掛かる。だからバレーボールからテニスボールなんだよ」って。こう書いていて、このことも、もしかしたら天野先生から聞いた話なのか、自分で気付いたことなのかがあいまいに思えてくる。それくらい自然に、当たり前なことに思えるのである。

 けどよくあるよね。聞いた方も覚えていないけど、言った方も覚えてない事って、そうそう酔いどれ太氣拳。天野先生とお酒を飲むといい話をいっぱい聞けるんです。大抵は忘れちゃうんですけどね。でも潜在意識の中、奥深くにそれが眠っているのかもしれないよなぁ。あぁもったいないもったいない。。。

極意!忍者あるき

 昨年の冬の章で、這いの稽古で寄せ足に収縮を感じたと書いた。より正確に表現しようとすれば、腹の収縮感に寄せ足が吸い込まれると言ったところか。では差し出し足はどうなる?と考えてみた。答えは這いの動きから練りの動きへの変わり目、グレーゾーンから見出された。

 這いの差し出し足からの動き。
  ①軸足とその上にのっている上体はそのままで差し出し足だけを出して行き、
   適当な歩幅の位置で留める。この状態での荷重比率は10:0。
  ②上体を差し出し足の着地点に向けて移動させていく。半分まで行くと荷重比比
   率は5:5となる。
  ③上体は完全に差し出し足の上まで移動しきってる。しかしまだ、先程まで軸軸
   足だった足が後方に伸びている状態にある。このときの荷重比率は0:10。
 とここまでが這いの基本形。仮にこの方式をスタイルAとしておく。
 スタイルBでは、①→③の動きを行う。この動きに②は存在しない。ポイントは「第三部・夏の章・第三の歩法」を参照のこと。

 スタイルCでは、①も②もない。延々と③だけが繰り返される。つまり前足を差し出しながらそれが着地したときには、もうすでに上体がそこに乗っているのである。ポイントは「第五部・春の章・謎のトコトコ歩き」を参照くだされ。

 スタイルCの動きは、這いと言うよりも、もはや練りである。そしてこの体の使い方ができるようになってくると、実に理にかなっていることに気づかされる。それは、天野先生のいうところのジャンプした後の着地する時の姿勢だ。着地する時には、体全体をバネの様に使い、衝撃を和らげている。これを片足ずつでやってみると、まるで泥棒が「抜き足・差し足・忍び足・・・」と歩いているかのようになる。でも「泥棒あるき」じゃあなんかパッとしないんだよなぁ。そうだ仮面の忍者赤影!

 手裏剣、シュッシュッ・シュッシュッシュッ、赤影が行く~♪というわけで命名、これを「忍者あるき」と名づけよう!

詰め将棋のような組手

 さて、組手における課題である。まずは春の章(その1)で書いた『ワンインチパス』の用法の実現。しかしこれは鹿志村先生が繰り返し言われていた「自分の中心を守って、相手の中心を攻める」という太氣拳の原理原則とは相反しているように思われる。なので、この辺を実際の組手をとおして検証していこうというのが第一の課題である。また打拳に関しては鹿志村先生の言う所の「相手に合わせる打拳」。ただやみくもに自分のペースで打つのではなく相手の状態に合わせて打つ。自分としては、それは何か「タイムラグ的」な要素を含んでのではないかと思っている。

 そう言えば天野先生は「組手っていうのはさ、詰め将棋のようにやるんだよ」とよく言われていた。三手四手先まで読んでいて無駄なく駒をすすめる。一手一手が必然で動く。そして、一挙手一挙動がそのまま攻防になっているような組手。そんな組手を実現させることが目標である。

気分は上々

 日曜の午後、岸根公園へ稽古に行っていた。激しい推手の稽古が終わると、もう体は、くたくたに疲れきっている。そしてあれも出来ないこれも出来てないと反省点ばかりが頭の中を駆け巡り、気分が落ち込んでいた。大体いつもそんな感じだった。

 「こんなんで俺ってほんとに強くなれるんだろうか」そんな逡巡とした思いをいだきながらも、もう頼るべき所は太氣しかないと喰らい付いていた。挫折の連続だった自分の人生には、もう後がない――。そんな執念のような思いが今の自分を作ってくれたのかもしれない。いつの頃だったろうか、稽古がそれほど辛くなくなったのは。4年目だったか5年目なのか。激しい推手をしても、それほど息も上がらないし、疲労感もほとんどない。そんな稽古ができるようになっていた。そしてここ最近特に思う事は、稽古の前も稽古の後も、実に気分が良いということだ。つまりは一日中、毎日が上機嫌なのだ。

 自分の稽古に確信が持てるようになってきている。今はまだ出来ていないことがあっても、この道を、師の照らす灯りのある道を歩いて行けば、確実にそこへ辿り着くことができるという確信である。だから、推手の稽古、組手の稽古をとおして新しい気づき、新しい発見があっただけで、楽しくてワクワクしてしまう。「またいい物見つけちゃったよ」と宝探しゲームを楽しむかのようだ。

 思い起こせば3年前、第三部、夏の章に書いた『メンタル・スランプ』頃は、軽いうつ病だったのかもしれない。その夏でスランプをやり過ごしたような書き方をしたが、実際の所は、その年の暮れ頃までは、その症状を引きずっていた。それはまるで自分が、先の見えない長く暗いトンネルの真っ只中に迷い込んでしまったような気分だった。

 人生、良い時もあれば悪い時もある。稽古をやっていると体も色々になるんだよ。腰を痛めて稽古を長期間休んでしまうと、天野先生はいつもそんな言葉で見舞ってくれた。寒かったら着る。疲れたら休む。それでいいじゃないか。そんな言葉も思い出される。人に与えられている才覚は、平等ではない。ある者は体力がありスポーツ万能。ある者は頭がいい。その両方を兼ね備える者もいるし、なにも無い様に感じでいる者もいる。だが与えられた人生、与えられた自分という素材をどう料理するかの選択肢は、おのおのに平等に与えられているのではないだろうか。

訂正・前寄り荷重の笹カマボコにささる膝

 前回の「春うらら」をリリースした翌週に、岸根公園の稽古に参加した時のことだ。天野先生から唐突に言われた。富リュウはさ、立禅のときの重心の置き方を勘違いしているようだね。体重はつま先よりに乗っててもさ、体全体の重心はカカトにあるんだよ。踵っていうのは、足に重いって漢字なの知ってるか?おまえは重心もつま先寄りにあから、そんな変な姿勢なんだよ。

 OH,MYGOD!

 なんてこったパンナコッタ。そ、そ、そんな重大な間違いを冒していたとは・・・。と言う訳で、皆さま大変失礼いたしました。正しくは、前より加重の笹かまぼこはそのままに、カカトに重心を落としてください。

 この日、それをやってみて一番に感じたことは、師である天野先生のフォームに似てきたな、ということだ。そして、なんとなくフワフワしていた自分の体がズンッと重くなると同時に、今まで取ろうとしてもなかなか取れなかった下半身と腹のリキミが取れてきたようである。

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平成16年・冬でござる

半禅の間違い

 どうも半禅の姿勢がしっくりしない。体にまとまりがなく「んーこれでいいのかなぁ」っていう感じだ。土曜の午後の稽古の後、天野先生に質問してみた。「先生、半禅がどうも上手くいかないですけど・・・」「どこが上手くいかないの?」「えーと、えーと…」「ただ漠然と上手くいかないって言われてもなぁ、それじゃあ答えようがないよ」「えーと、えーと、あの…足の裏はどうすれば良いのでしょうか?」「つま先寄りだよ。荷重のかけ方は。前足も後ろ足もね」「えっ!先生、後ろ足も前荷重なんですか!?」「そうだよ」「今まで踵(カカト)でやってました…」とヘコむ僕。

 先生によると、後ろ足は、前よりの前足底のあたりに重心を置くようにして、踵の方は、テニスボールをギュっと潰すように、あるいは枯れ葉をギュっと踏み締めるようにしなさいとのこと。踵は見た目には地面と接触していても構わないのだけれど、前荷重が基本であるとのこと。ただこれはあくまで基本の状態なので、変化を引き出す場合には、状況に応じて踵荷重になる場合も当然あって然るべきとのことである。

 「あーあ、今までずっと踵荷重でやってたよ~。まいったなぁ」と心の中で独り言を言いながらも、新しいオモチャを与えられた子供のようにちょっとワクワクしているもう一人の自分がいた。

前荷重でサクサク

 さて、翌日からは前荷重で立禅(正面)をする。まあこれはだいたい今までどうおりである。そして半禅。んんんっと、これは結構キツイ!前足はそっとつま先を着いているだけだから、ほとんどの荷重が後ろ足に掛かっている。――にもかかわらず、その後ろ足の前よりに荷重を…というのだからキツイのも当然である。先生の色々なアドバイスを思い出しながら工夫してみる。まずは正面の立禅に戻って、その感覚のまま半禅の向きに捻じっていく。足腰に負担が掛かっているのをどうにかせねば・・・。立禅で、腰をぶら下げるようにしてみる。そこから半禅に捻じっていく。まだまだ負担が軽減されない。筋力に頼らず、骨に沿って力を出すようにしてみる。少しは負担が減ったか…。そしてこの前荷重の状態を維持したまま、「這い」をやって「練り」をやる。そして「探手」。先週までの探手に比べるとサクサクと素速く動けているように感じる。早くも前荷重の効果が出始めたか!?

金曜の朝

 どんよりと曇った冬の朝、気分もどんよりとしている。眠い。週の終わりの金曜ともなると仕事の疲れも溜まってきているのか、体が重い。鉛のように重い。今までも、だいたいこういうパターンできていた。新しい体の使い方をはじめると、それが楽しくて色々と試してみたくなる。まあそればヨシとして、いけないのはリキミがあること。新しい体の使い方を始める時、どうしても力んでそれをやってしまうため、疲労がたまる。今回の場合は、前荷重。フクラハギがパンパンである。大腿部も疲労困憊。腰や背中の筋肉も張りまくっている。それでも、禅、這い、練り、探手と一通りの稽古をしてから会社へ向かった。

 6:30pm、やっと仕事が終わる。疲労感が体にまとわりついているが、なんとか稽古はできそうである。駅のホームでカレーライスをかっ込んで、大船へ向かう。冬の夜は寒い。そして暗い。立禅をする数人の人影がぼうっと薄明かりの中にたたずんでいる。先生の姿もある。着替えて準備体操をしていると先生が話し掛けてきた。「なんだか疲れたサラリーマンが歩いてくるなあって感じだったよ」「すいません。それ私です」となんだか訳のわからない会話。

 しばらく立禅、半禅をしたあとで、這いにうつる。先生から激が飛ぶ。「そんなに力んでいたんじゃあ体を壊しちゃうよ!もっと楽に。腕を楽に。腰もゆったりと」。足裏の前荷重を意識するあまり、フクラハギに力が入り、それで腕もガチガチになっていたようだ。「前腕はさ、ハエタタキでいいんだよ。らく~にして、ぶらぶら~にして」先生からのアドバイスはいつも的確だ。腰の状態はスキーのジャンプの飛び出す準備段階のようにと、身振り手振りを交えながら教えてくれた。

 「飛び出す前はさ、しゃがんでいるけど緩んでるんだよ。緩んでいるから飛び出す一瞬に力を集中できるんだよ。その感じで禅を組んで、這いをやってごらん」とのこと。あとはいくつか動物の話もされた。「はぁ~なるほどねぇ~。力まないでしゃがむっていうのは難しいようで意外と簡単なのかも。動物になっちゃえばいいんだな…。ただねぇ、この理性がじゃまをするのよねぇ。人間の。理性を捨てて、野生を取り戻せって言われてもね…」そんな迷いが頭をよぎる。

 この日の推手は、とにかく前腕の脱力を意識して行った。体を滑らかに柔らかく使えるように、猫や蛇の動きを思い浮かべながら…。

体に任せる

 「富リュウはさ、考えすぎなんだよ『良い姿勢っていうのはこういうものって』その頭でっかちな考えが、上達するのを阻んでいるんじゃないか?もっとさ、体に任せるの。体はさ、知っているんだよ。お前が頭であれこれ理屈で考えている以上のことを。それを信じてやらないとね」あまりのショックにグゥの音も出ない富川リュウ。稲妻が脳天直撃!私の全人格を否定されたような衝撃である。この日の推手はなにがなんだかわからない内に終わってしまった。まだ頭の中が混乱しているようだ。

猫のトコちゃん

 私がいつも朝練をしている公園には、トコちゃんという野良猫がいる。野良猫なので本当の名前は知らない。歩き方がトコトコしているからトコちゃん。私が勝手に付けた名前だ。性格はおとなしく、のんびり屋で、人懐っこい猫である。野良猫のくせに太っていて毛色の艶も良いので、きっと近所の誰かが毎日食べるものをあげているのだと思う。トコちゃんの動きは実に無駄が無い。動くときも止まるときも、まったく力んでいない。ときに鳩を見つけて飛び掛ろうと、お尻をムズムズさせてからダッシュするのだが、実に動きが滑らかである。まあこのハンティングはいつも失敗に終わるのだが、失敗してもあっけらかんとしている。

ホウショウ

 意拳には「ホウショウ」という言葉がある。どういう漢字を使うのかは忘れてしまったが「立禅の際には、放尿しているときのようにリラックスしている状態でありなさい」というような意味であったと記憶している。日本風に言うと、温泉に浸かったときに、思わず「うぅう~」と唸ってしまう、あの感じなのではないだろうか。「体に任せる立禅」それに取り組む中で、この「ホウショウ」のことを思い出した。自分は、ちょっとマジメ過ぎるのかもしれない。もうちょっといい加減でも良いのかもしれない。もっと肩の力を抜いて気軽にやってみてもよいのかも。そんなことを考えながら、這いや練りもやってみた今日の朝練でありました。

4サイクルエンジン

 土曜の稽古のあと天野先生が唐突に言う。「結局、車のエンジンと一緒なんだよな。吸入・圧縮・爆発・排気ってさ、それをやってるんだよ。体の使い方ってさ」達人様のおっしゃることは、時に意味不明である。たぶん「発力」に関しての先生なりの解釈なんだろうけど。だって全然わかんないんだもん。でも一応、記憶の隅には留めておいた。それが役に立つ日が、いつか来るかもしれないから。そしてその日は、さりげなく訪れた。富リュウ様の身の上にも…。

膨張と収縮

 前足荷重でやや踵を浮かせぎみにしていても、力まないで立禅や半禅が出来るようになってきた。天野先生に言われた「考えないで体に任せること」をどうやったらいいのかを良く考えた結果だ。這いも、できるだけ体に任せることだけを意識してリラックスしてやっていた。その時、スッと寄せ足が戻ってきた。まるで体の中に吸い込まれる様に。あっ!と思った。頭の中に電気が走った。この感じで練りもやってみよう!体が足を吸い込むような、足に体を引き込まれるような、そんな練りになっていた。新しい体の使い方だ。つまり、これは「収縮」しているだけだ。――ということはだ、要は「収縮」と「膨張」、このふたつをやっておけばいいんじゃないか、とういうことに気がついた。

 太気拳の組手では、いったいどういう体の使い方をすればよいのかが悩みの種だった。そして組手では何をすればよいのかということをずっと捜し求めていた。ここへ来て、自分なりのひとつの答えが出た。それが「収縮と膨張」だ。さっそく探手でこの感覚を試してみる。なかなかいい感じだ。

 さてここからは推察である。たぶんこの「収縮感」と「膨張感」、これを発展させて行くと、天野先生の言うところの「圧縮」と「爆発」になるのではないだろうか。つまり「収縮」を意識的に行うことで「圧縮」となり、「膨張」を一瞬で行うことにより「爆発」となる。一筋の光明が――見えた!

忘年会組手

 あいにくの小雨のため、急遽場所が変更された。新宿にある島田先生の新しい道場だ。室内はおせじにも広いとはいえないが、雨に濡れることなはい。外はずいぶんと冷え込んでいたが、室内はゆるい暖房と拳士達の熱気で暑いほどであった。

 しばし各自、立禅や這いを行ってから、島田先生から数種類の練りのやり方の指導があった。どの練りも基本の動作に加えて、それを組手でどう使うかを具体的に説明していただいた。時間の都合上、それほど長時間ではなかったが、8種類ほどを教えていただいた。そしていよいよ組手の始まりだ。私は先輩のK崎さんと後輩のI野君と当たった。出来は、まあそこそこ。さすがに膨張と収縮などと考えてはいられなかったが、次に繋がる組手が出来たと思う。組手の後で、天野先生からアドバイスをいただいた。動きは結構良くなってきている。ただ、無理に行こうとしている。行けない時には無理に行かなくてもいい。行ける所を捜す、行ける所を作る工夫が必要だと。んー、なかなか難しい注文だ。

 場所を換えて忘年会が始まった。今年も青山にある島田先生のお店、青山一品の美味しい中華料理をいただきながらの酒宴である。いつもは、東京代々木、青山、横浜岸根公園、大船、川崎元住吉、横須賀等々に分かれての稽古なので、これだけのメンバーが一堂に会すのは珍しいことだ。みんな楽しそうに拳法談義に華を咲かせている。宴たけなわの午後8時、翌朝の早朝から出張に出かけなければならない私は、島田先生、天野先生に今年一年のお礼と年末のご挨拶をして、その宴をあとにした。

月曜の朝

 翌朝は、羽田発7:30amのフライトで山形庄内空港へと向かった。空港からはバスでT市へと向かう。仕事は12:30からなのでその前に昼食を摂るにしても、しばらくは時間がある。ホテルの公衆電話を使って、ノートパソコンに社用のメールを拾う。十数件のメールに目を通し、仕事は一旦切り上げた。

 ホテル近くの行きつけの児童公園に向かう。ここは広さもちょうど良く、樹木や芝生がきれいに生えている気持ちの良い公園だ。季節は冬、樹木の葉は枯れ落ち、風が冷たい。それでも空気が澄んでいて、快晴の空の青さが目に染みる。禅を組み、這いをする。しっかりと関節がはまっていて充実感がある。練りを少々。軽く探手をする。ふと時間が停まったような感覚に陥る。昨日の組手と飲み会が遠い昔のことのように思われる。再び立禅――。実に晴れ晴れとしたいい気分である。たいしたことをやった訳ではないけれど、何かを成し遂げたような満足感がある。至福感に満たされている。充実した一年だった。天野先生と仲間達に感謝――。

 さて、ラーメン喰って仕事に行くとするか!