カテゴリー
会員・会友員のテクスト 会員Yの太氣拳日記

亀とガメラ

 今まで基本的にしょうもないエピソードや個人的な心構え的なことだけ書いてきましたが、ほんのちょっとだけ自分なりの身体論というか、武術そのもののことも書いてみようと思います。当然ながら、信用して良い内容ではありません。わたしは太氣会の中でも年数が浅く、下から数えた方が早い実力しかない者ですから、そんなペーペーの理論などがアテになるわけがありません。
 特にわたしは思い込みが激しく、時々練習中に電撃のような閃きに襲われて「わたしは天才じゃないのか」と思うことがあるのですが、一週間も経つと黒歴史になっています。夜中に書いたラブレターみたいなものです。
 それにしても、弱い人の書いた武術論というのは、実用的には役に立ちませんが、読み物としてはちょっと新しくて面白いかもしれませんね。貧乏な人が書いた「お金持ちになる方法」みたいです。

素人が最強?

 太氣拳を学んでおられる方は、武術や格闘技をよく知らない友人などに「太氣拳ってどんな技やるの?」などと聞かれて困った経験はないでしょうか。
 澤井先生はそういう時に立禅を見せた、というような話を聞いたことがありますが、下々の小市民たるわたしなどは、到底そんな度胸のあることは出来ず、テキトーにニヘラァと笑ってごまかすしかありません。空手や他の中国武術のような型があればとりあえずそれを見せることも出来ますし、少林寺の人なら立関節でもやってみせたら素人は誤魔化せると思うのですが、太氣拳にはそういう分かりやい「技っぽいもの」が全然ありません。
 それこそ意拳・太氣拳が真髄むき出したる所以である、というようなことは、実際に練習されている方には明々白々なわけですが(別に「見せるもの」がある武術がダメという意味ではありません、むしろ正直ちょっとうらやましいです)、そんなことは一般の人には通じません。澤井先生は「技なんか最後の三日でいい」とおっしゃったそうですが、普通の人は武術といったら「ちょっとしたコツ」みたいので手首の関節を捻ったりするような話だと思っているので、そんな高級な話は通じません。ちなみに、三日だと流石にちょっとキツイかと思うのですが・・。
 でも、ここには本当に大事な要素が隠されています。
 以前に天野先生が「武術なんか才能だ」ということを書かれていました。身も蓋もない話ですが、要するに「ちょっと技なんか練習するより、元からはしっこいヤツの方がずっと強い」というお話です。こう言ってしまうと、正にその武術を練習しているわたしたちとしては実にションボリしてしまうのですが、意拳・太氣拳でアプローチしようとしているのは、この「はしっこいヤツ」の「はしっこさ」源のようなものかと思うのです。
 「技やって見せて!」と言われて「いや、技とか特にないので」と答えたら、一般の方には「なんや、それなら素人やないか」と言われてしまうかもしれませんが、素人で強い人が一番強いのです。
 素人が格闘技者より強い、という意味ではありません。素人のままでかつ強いような人の持っているその「強さ」こそが、最も本質的だ、という意味です。実際、そういうナチュラルに強い人というのは存在します。格闘技や他のスポーツをやってこられた方なら、今までの人生で何人か見たことがある筈です。
 素人の段階で弱い人間が、突き蹴りや技を覚えて体を鍛えても、それはそれなりに強くはなります。ですが、実際にやってみれば分かることですが、二三年もするとそうやって身につけられる強さは飽和してしまって、そこから先へはなかなか進めなくなります。そうこうしているうちに若くて元気な人が後からやってきてあれよあれよという間に敵わなくなる、というのはよくある話です。
 意拳・太氣拳でやろうとしているのは、素人のままで強いような人の持っている「はしっこさ」みたいなものへのアプローチで、ここが変わると、本当にすべてが変わっていきます。しかも二三年程度では打ち止めになりません。逆に言うと時間がかかるのですが、かける時間だけの値打ちのあるものです。
 こう書くと何とも抽象的で、「そんなもんホンマにあるんかいな」と思われても仕方がないのですが、わたし自身の経験から言っても、何か自分の体の中に隠されていた秘密機能を発見するようなドラスティックな変わり方をします。わたしはよく夢で、自分の住んでいる家に知らない部屋があった、というようなのをよく見るのですが、丁度そんな感じです。もうかれこれウン十年だかこの体を使ってきたのに、そんな機能がついてるなんて知らなかった、みたいな感じです。
 で、最後に蛇足ですが、上で「二三年で打ち止め」などとネガティヴなことを書いてしまった一般的な練習ですが、わたし個人としては、これもそんなに馬鹿にしたものではないと思っています。天野先生なら鼻で笑うかもしれませんが、こうした一般的な練習は、確かに誰でも短時間である程度まで強くなります。最初のうちなら、それほど精緻な訓練をしなくても、根性で頑張るだけで上達するものです。限界があるのは確かですが、それはそれで無意味なものではありませんし、特に若いうちは大いにやってよろしいことかと思います。澤井先生は他の武道で黒帯になるまで弟子にとらなかったと聞きますが(単にふるい落としのためかも分かりませんが)、逆に言えばそれくらいはやっても全然問題ないし、むしろ意拳・太氣拳にとってもプラスになるのではないかと思っています。武術系には時々、一般的な格闘技や筋力トレーニングをやたら馬鹿にする人がいますが、格闘技者は本当に強いですし、格闘技と武術には確実にクロスオーバーする部分がありますから、変な癖やこだわりで凝り固まってしまわなければ、武術でも必ず活きる方向にもっていけると思います。

動物と怪獣

 「素人のままで強い」といえば、動物です。
 獣的な強さというのは、一般的に言っても武術の核心の一つなのではないかと思いますし、実際、割りとよく言われる表現です。
 ただ、そう言ってしまうとまた何とも抽象的ですし、山ごもりして獣のような暮らしをしたら強くなるかというと、別にそんなこともないでしょう(多分)。「獣的な強さ」というのが抽象的になってしまうのは、わたしたちの見る動物というのは、あくまで人間の目で見た人間ならざるものとしての動物だからです。つまり、外からのイメージでしか動物を捉えられていないからです。
 ですから、本当の動物、内からの動物ということを理解しようとすると、もうちょっと違うイメージが必要になるように思います。
 そういう時、わたしが思い浮かべるのは怪獣です。怪しい獣と書いて怪獣。これはもう、怪しいです。
 太氣拳の稽古をしていると、時々自分が怪獣になったような気分になります。もう、大きい木とか丸ごと引っこ抜いて投げつけてしまうような気分です。もちろん、実際に木を引っこ抜くことは出来ないので、気分の問題なのですが、本当にそれくらいの勢いで、「覇気」が足元から登ってきて髪の毛が逆立つような「ガオーッ」という気分になります。これは本当に不思議な体験で、やってみないと分からないものかと思いますが、やれば「これが覇気というものかっ!」と実感できます。
 怪獣というのは怪しい獣ですから、もう話なんか全然通じません。
 シャブ中のヤクザなんかより、もっと全然話が通じません。
 ゴジラがガーッとか言いながら新幹線を掴んで投げたりしていましたが、あの時ゴジラは、掴んでいるのが新幹線だとか、そこに人間が乗っているとか、そんなことは全然考えていなかったと思います。自分が何をやっているのかも分かっていません。もう何だか分からないけれど、掴んで投げちゃうのです。
 この自分でも何をやっているのやら分からないような話の通じない感じ、これが怪獣です。
 実際、太氣拳の先輩方の中には怪獣っぽい感じの人が何人かいらっしゃいますが、実名をあげるとしばかれそうなので伏せておきます。

亀とガメラ

 これはつい最近気付いたことなのですが、亀をイメージするとなかなか良い具合になります。
 推手で思うような動きができず、先輩方の動きをよくよく観察して、真似をしようとしているうちに、「これは亀さんや!」と気付いたのです。
 亀というのは、背中に大きな甲羅を背負っていて、手足も短くてリーチなんて全然ありません。甲羅を背負っているから、甲羅ごと動くしかありません。ちょっと甲羅を外してジャブを打ったりとかは出来ません。
 特に太氣会最古参のA先輩が、亀っぽいように感じたのですが、このA先輩と推手をしていると、何か仕掛ける度に先輩の手が勝手にわたしの顔にやってきます。それも狙って打ったとかカウンターとかいった風ではなく、ただ出していた手がうっかり当たってしまったような、自動追尾的な感じがあるのです。この自動追尾感というのは、A先輩に限らず、太氣会の強い先輩方は大抵持っています(個人的には、体格的なこともあり特にこのA先輩とT先輩を観察しており、この二人は格別亀です。ミドリガメです)。A先輩自身も「俺は何もやっていない、お前が勝手に突っ込んでくる」と仰り、「お前はバタバタ動きすぎだ」「両手が連動していない」とよく注意されています。
 自分が亀だと思うと、甲羅があるから自由にもならず、片手で器用に打つなどということは出来ません。仕方がないので、両手両足が繋がったようにオイショオイショと動くしかありません。これは一見不自由なのですが、やってみると良い感じに両手が連動してきて、体が開かなくなります。
 亀さんは不器用で遅いですから、ウサギさんのようにピョンピョン素早く仕掛けたり出来ません。地道にやるしかないです。でも、亀を守って甲羅を大事にオイショオイショとやっていると、そのうち相手が勝手に崩れてくれて、上手いこと中に入ることができる・・・こともあります(笑)。相手がもっと亀だとやっぱりやられますが。
 自分から仕掛けず、自分自身を保っているうちに自動で相手に入っていく感じは、ウサギと亀の競争にも似ています。ピョンピョン素早く動くことは出来ませんが、最後は勝つのです。アキレスと亀でも良いです。遅いのに早い。おぉ、なんだか秘伝っぽいじゃないですか。
 おまけに「亀は万年」ですから、縁起も大変よろしいです。
 この亀のことをトチ狂って天野先生にお話してみたところ、「もうちょっと手が長い方がいいけどな、カッパじゃないか」と言われました。でもカッパだと、ほぼ人間型で、イメージ的に手足がひょろ長くて器用すぎる感じがします。フリッカーとか打ってきそうです。ここで言う亀は、もう少し甲羅が大きくて不器用なのです。頭にお皿も乗っていませんし、キュウリも食べません。
 人型だとしても、亀仙人みたいな感じです。そう言えば、悟空とクリリンも甲羅を背負って稽古していましたし、これはもう、亀は強さの秘訣に違いありません。
 そう思ってみると、太氣拳の強い人達は、皆んなどこか亀っぽいです。忍者タートルズです。
 もちろん、一人ひとり個性があって、違いはあります。亀だってミドリガメとかゾウガメとか色んなのがいますから、亀なりにバリエーションがあるのは当然です。でも、亀は亀です。皆んな甲羅を背負っています。
 亀とは言っても、直立二足歩行なので、本物のリアル亀とはちょっと違います。二本脚で立ち上がって、少し前傾で腰を落とした感じです。
 そう考えると、一番ズバリなのはガメラだ、ということに気づきました。ガメラも二本脚で立って、腰が落ちた感じです。ガメラの腰がどの辺なのかよく分かりませんが、見るからに安定している感じです。
 しかもガメラなら怪獣です。怪獣のイメージと亀のイメージを兼ね備えたガメラは、体の捉え方としてベストなように思います。
 これは素晴らしい発想のように思うので、わたしが先生だったら秘伝にして、一升瓶持ってきた弟子にしか教えないのですが、先生ではないのでここに書いてしまいます。ガメラです、ガメラ。モスラじゃダメですよ。
 しかしよく考えてみると、ガメラというのは無茶苦茶な怪獣ですね。「亀を大きくして戦わせてみよう」とか、普通はちょっと思いつかないです。ガメラの発案者は一体何を考えていたのでしょうか。
 それにしても、やればやるほど亀っぽくなっていく武術というのは、正直、あんまりカッコ良くないですね。女性会員が増えない訳です。

意志と反応

 亀のことを書いていて、天野先生が「意志と反応は同居しない」というようなことを書かれていたのを思い出しました。
 自動追尾だけれどカウンターではない、というのは、カウンターというのは意志のものだからです。カウンターは意志に対して意志で後の先を取る技術です。これはこれで大変素晴らしいもので、尊敬に値する技術だと思いますが、意志と意志というのは鉛筆の先っぽと先っぽを合わせるような感じで、点と点がぴったり合うタイミング芸なくして成り立ちません。これは限られた状況を除くと大変難しいことで、神経のすり減ることです。
 一方で自動追尾というのは、体の状態から出てくるものです。歩いていてうっかりぶつかって「あ、ごめんなさい」というような、意図せずして勝手に当たってしまう感じです。これは意志よりも速く、一度状態が出来てしまえば後は点と点を合わせるような芸は必要ありません。アクシデントが起こるのを待っている感じです。
 そうは言っても、この状態を作るのが簡単ではないので、やはり職人芸の一種であることに変わりはないのですし、時間もかかるのですが、根本的に性質が異なることではないかと思います。

「今は」

 と、尤もらしいことを書いてみましたが、最初にお断りした通り一介の練習者の言うことなどアテになりませんし、わたし自身も来月になったら違うことを言っていそうな気がします。
 理論や言葉による説明には「気持ちが納得する」効果があります。理論が分かったところで理論通りに体を動かせるかどうかは別問題ではあるのですが、「気持ちが納得する」だけでも意味はあります。天野先生がどこかで「素直であることが上達の秘訣」といったことを書かれていましたが、気持ちが納得すれば、心も素直になります。頭ごなしに言われれば誰しも心が頑なになるものです。納得しないでも先生の仰ることには総て「押忍」という、まっさらな心の持ち主であれば、別に納得など要らないかもしれませんが、わたしのように心がネジ曲がった人間は、納得できないとなかなか素直になれないものです。筋の通った分かりやすい話というのは(たとえその理論通りにことが運ばなかったとしても)、人の心を素直にして、物事を受け入れて習得しやすくする効果があります。
 一方で、理論というのはあくまで仮説の積み重ね、ただの言葉ですから、絶対視してしまうと大変危険です。先生だって、自分のやっていることを100%言葉にしたりは出来ないのですから、まして下々の者が自分を説得するために考えだしたオレオレ理論など、「そういう考えもある」程度に流しておかなければ、かえって頭も体も固くなって自然な上達を妨げることになりかねません。
 身体論や武術の世界には、明晰判明で武術オタ心を満たす理論を掲げる方がいらっしゃいますが、どんな理論も話半分程度に聞いておいた方が身のためです。特に「日本人はこうだけれど、西洋人はこう」みたいな紋切型の単細胞な発想は警戒しないと危ないです。東洋と西洋とか、そんな単純に物事切り分けられる訳がありません。「じゃあモーリタニア人はどう動くんや」とかツッコミどころ満載です。伸筋と屈筋とか、骨盤前傾と後傾とか、怪しげなものが沢山あります。世の中も生き物の体ももっとややこしいもので、神様の作ったものを人の言葉でスッパリ切り分けようなどというのがおこがましいです。
 太氣会最強の一人M先輩が、ある時こんな話をされていました。「考えるのは良いけれど、どんな考えも『今は』を付けないとダメだ」。つまり、練習の過程で自分なりの仮説を立て、しばらくそれに沿って稽古してみることは有効だけれど、あくまで暫定的なもので、「今は○○と考えて○○してみる」くらいに思っておかないといけない、ということです。この心構えはとても大切だと思います。
 尤も、その時M先輩は既に結構酔っ払っていたので、そんなことを仰ったのは覚えていない気もしますが・・。