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会員・会友員のテクスト 会員Yの太氣拳日記

会員Yの入門記

 はじめまして、会員Yと申します。
 わたしは現時点でまだ太氣会入会から二年も経っていない若輩であり、到底修行記など書く資格もない太氣会最弱の末端会員です。ですから、これは修行記というより入門記です。
 先生や大先輩方の文章が一番参考になるのはもちろんですが、それだけでは入門を検討されている方にいささか敷居が高いかもしれませんし、あくまで参考用に、末端会員の乏しい経験を披瀝させて頂きます。

太氣拳以前

 太氣拳以前の自分について簡単に書かせていただきます。
 子供の頃は体操や水泳を習わされていましたが、親に無理やり通わされていたようなもので、本人としてはイヤでたまりませんでした。一人で本を読んでいる方が好きな暗い子供でした。
 今思えば軽いアスペルガー的なものだったのか、勉強だけはまるで答案が最初から書いているかのように不自由なくできたのですが、場の雰囲気が読めず、友達もうまく作ることができず、大体どこに行っても孤立していました。成長するに連れ、大分「人間」になってきましたが、相変わらず変人なところは変わっていません。
 そんなわけで、体を動かすこと自体は嫌いではなかったのですが、それ以前に学校に馴染むことができず、中学以降も部活なども熱心にはやりませんでした。
 大学生の時、友人に誘われて太極拳を始めました。
 太極拳といっても、中高年の方が中心に、地域のスポーツセンターなどで簡化太極拳などをやっているもので、まったくの健康体操です。それまでわたしは、武術にも格闘技にも全く興味がなく、太極拳というのは「中国のお年寄りがやっているラジオ体操」という認識だったのですが、実際そこでやっているのはラジオ体操的な太極拳でした。
 これくらいなら楽だし、運動不足解消に良いかな、と思って半年ほど続けていたのですが(ちなみに誘った友人はすぐ辞めました)、凝り性な性格のため、やっているうちに「この太極拳というのは一体なんなの? 『拳』とかついてるけど、もしかして拳法?」と疑問に思うようになりました。そこで練習している太極拳は、どう考えても「拳法」という感じはしません。
 武術・格闘技関係の本を色々と買ってきて、片っ端から読んでみると、どうも太極拳というのも元々は武術で、中国の武術にも色々な種類があるらしい、という、通り一遍の知識は付きました。太極拳というのは「内家拳」とかいうグループに属するもので、時間をかけて勁力なるものを養うらしいです。
 ものの本では、中国武術でも空手などと対等に戦える、というようなことが書いてあります。しかしわたしの習っていた太極拳で空手家やキックボクサーに立ち向かえば秒殺されるとしか思えないので、もうちょっと普通の中国武術というのを探してみることにしました。
 本で読んだ知識で、「内家拳」というのは随分高級そうで時間もかかるらしいので、自分はもっと普通っぽい「外家拳」的なものがいいな、と思いました。また、どうも中国武術や伝統武術の世界には、神秘がかっていて胡散臭いものが多く、変なところに行って壺でも売りつけられたらたまらない、と考えました。
 そこで近くにあった道場に見学に行ったのですが、そこでの練習は全然神秘的なところはなく、普通にサンドバッグを蹴ったりミットを打ったり、格闘技的なものでした。またそこの先生が、開口一番「気とかそういうのは、うちはないから」と仰ったのも好印象でした。
 そこの道場は、看板こそ中国武術を掲げているものの、伝統的な套路などはほとんどやらず、空手道場のように基本・移動・型(鍛錬型)・約束組手・自由組手・補強のような形式で練習しているものでした。実質的に競技散打のような内容でした。
 それまで格闘技などとはまったく無縁だった自分は、新しい世界の魅力にすっかりはまってしまい、三四年は通っていました。
 それまで、カンフーというのはジャッキー・チェンの映画のようにクルクル回って空中で何度も蹴るようなものかと思っていたのですが、当然ながら、現実にはそんな技は出てきません。旋風脚などの技も基本では練習するのですが、組手になると左ミドルを連打していたりして、ものすごく普通です。
 そうなってくると、次第に「では基本は一体なんのためにやっているのか」「伝統的な中国武術ではどういう練習をするのか」というのも気になってきました。
 そこで一時期、伝統派の中国武術団体と掛け持ちしたり、知り合いに伝統空手を習ったりもしていたのですが、あまりノリが合わず、長くは続きませんでした。
 今思うと、最初に入ったこの道場の練習は、「実際的」という意味では有効なのですが、裏を返すと特に軸もなく、指導者も流行の練習法などをホイホイ取り入れていて、地に足がついていないところがありました。それでもまったくの未経験者であった自分には良い経験となったのですが、体力がついて通り一遍の突き蹴りが出来るようになる以上のことはありませんでした。
 ただ一つ、その後の自分にとって重要な出会いだったのが、この道場は少し意拳と交流があり、初歩の初歩のようなことをちらっと教わったことです。
 站樁や摩擦歩などを形だけ教えて頂いたのですが、せいぜい手が暖かくなってぼわーんという感じで勝手に動く感じがする、という程度で、本当に触りだけやった程度です。当時はその価値も全然理解できず、「手が暖かくなったから何なの? そんなことよりミットでも蹴った方がええやん」と不遜なことを思っていました。

 それから色々あり、この道場からは足が遠のいてしまい、しばらく自己流の練習程度しかしていなかったのですが、また気まぐれで別の団体に所属することになりました。
 南の方の中国武術系をルーツにしながらも、アメリカで発展した武術で、知名度だけはそれなりにあるものです。
 この団体を選んだのは、中国武術に愛着はあるものの、もっと格闘技的に体系だったものがやりたい、と考えていたからです。アメリカ経由のものなら、ある程度の検証は経ているはずですし、変な神秘がかったことはなく、最悪でも体力程度はつくだろう、ということです。また、中国の南の方の武術に興味を持っていた、というのもあります。なんとなく空手に近い感じがして、パッと見た感じも強そうです。自分は割と蹴りが好きなのですが、高い蹴りが目立つのもカッコイイと思いました。
 世の中広いですから、高級な武術というのも存在するのでしょうし、もしかすると手も触れないで相手を吹っ飛ばすような不思議な技を使う達人もいるのかもしれませんが、自分にはどうせできないだろうから関係ない、と考えました。100人やって1人が身に付けるような高級な技があるとしても、どう考えても自分は残りの99人の方です。大体、そんな神通力みたいなものでやっつけないでも、普通に歩いていって殴った方が早いし、その方がカッコイイです。
 実際、その団体での練習はミットワークなどを中心にした格闘技的なもので、技術的にもボクシングやサバットの影響を受けています。練習もアメリカンな明るいノリで、音楽をかけながらノリノリでやっていました。
 しかし、色々な事情から大きく居住地を移ることになり、生活環境もガラッと変わったことから、また武術・格闘技とは離れてしまいます。
 その後も体を動かすことは続けており、短期間だけ団体に所属することもあったのですが、仕事が非常に忙しかったこともあり、長続きしませんでした。「もう人を殴ったり蹴ったりすることはやめよう」と、ダンスをやっていたこともあります。
 あまり社交的な性格ではないので、団体練習にはなかなか馴染めないのですが、その分一人で黙々と練習するのは苦にならず、公園や自宅で自己流の運動をしたりしていました。

自己流の立禅

 ある頃からエアロビ的なエクササイズにハマり、毎日3時間くらい筋トレとエアロビ的トレーニングをしていたところ、体が重くなって全然疲れがとれなくなりました。ダイエット的な理由で食事を制限していたのも一因かと思います。
 「もう年だし、もう少し体に優しいものをやった方がいいのかも」と思い、ふと昔習った意拳の站樁をやってみました。
 どうせやるのだから、と、色々意拳・太氣拳関係の本を読んだり、当時関心を持っていた体操などの練習と組み合わせ、自分なりに研究してみました。
 すると、大昔にやらされていた時とは違い、不思議な感覚が次々と湧き出てきたのです。
 手については誰でも割とすぐ分かると思うのですが、この時感じたのは、膝の周りが粘っこい液体で覆われているようなもので、腰から下が引っ張られるように勝手に動く、というものでした。
 この感覚が分かると、スイスイと滑るようにすごいスピードで自在に動くことができます。体の中に重いスライムのような物質があり、それが動くことで、残りの部分が勝手に連れて行かれるような感じです。格闘技をあれだけ練習していた時にはできなかったことが、疲れ果てて突っ立っていたらできたのです。
 今思えば至って低レベルのものだったのですが、当時は「これはすごい!」と驚き、まるで超能力か何かに目覚めたようで、「自分は天才なんじゃないか」と有頂天になりました(笑)。
 とにかく、こんなすごいものなら本格的にやってみなくてはいけない、と、いくつか検討した結果、天野先生の団体に入らせて頂くことにしました。

なぜ太氣会を選んだのか

 (意拳ではなく)太氣拳を選んだのは、なんとなくイメージで太氣拳は荒っぽくて硬派な感じがして、組手志向のような印象があったからです。もちろん、実際のところは意拳でも太氣拳でも団体・指導者によるのでしょうから、単なるイメージです。素手素面の組手というのは恐ろしかったのですが、実際に打ち合うことなくただ立禅だけやっているような練習には抵抗がありました(組手だけやっていても仕方ない、ということも今は理解しているつもりですが)。
 その中で天野先生を選んだのは、著書の『組手再入門』に感銘を受けたことが第一です。
 一般の武術・格闘技書とはまったく切り口が違い、「こんな教えを若い時に受けていれば!」と眼から鱗がおちるような気がしました。
 ただ、どこの世界にも口だけは達者な人というのがいますし、本を読んだだけではなんとも分かりません。文章は素晴らしいですが、もしかしてただ文才のあるだけの人かもしれませんし(仮にそうだとしても、個人的には「文学の分かる人」を大変尊敬するので、それだけでも価値があるのですが)、ゴーストライターが書いているのかもしれません。そこで映像なども見てみたのですが、ただならぬものを感じはするものの、今度はこっちに見る目が備わっていません。
 よく天野先生が「人間は自分の体を通してしか人の動きなんか見られないんだ」というようなことをおっしゃいますが、自分のレベルを大きく越えるような動きというのは、いくら見たって本質が分かるわけがありません。天野先生曰く、「金メダルのヤツがどれだけ凄いか分かっているのは、銀メダルのヤツだ、他のはただ見て『すげー』とか言ってるだけだ」ということです。
 そこで、最終的に決め手になったのは、顔です
 冗談のようですが、わたしは人を見る時、迷ったら最終的に顔を見た印象で直観的に決めています。
 別にイケメンを選ぶ、という意味ではありません(天野先生はハンサムな方だとは思いますが・・)。顔形というのは、もって生まれた造形というのはあるものの、二十年三十年と生きていれば、それまでの生き方や姿勢というものがおのずと表れてくるものだと思います。もちろん、100%ではありませんが、中身だって100%なんて分からないのですから、一緒のことです。
 天野先生は「心と身体を一致させる」「区別なんてのは人間の作ったものだ」というようなことをおっしゃいますが、内面と外面というのも、所詮は人間が作った概念上の区別であって、実体はひとつのものです。同じものの別の側面が出たに過ぎません。
 大体、何でも外面を取り繕うのは本質を改善するより簡単なものです。その簡単な外面もロクに出来ない人間が、中身だけは素晴らしい、などということは滅多にあるものではないでしょう(逆に外面は良くても中身はダメ、ということは結構あるかもしれません)。
 ですから、顔(や外見の印象)の良い人を選んでおけば、絶対ではないにせよ割と「アタリ」の確率は高いと思います。仮に中身が悪くても、少なくとも顔だけは良いですから、外も中も悪いよりはいくらかマシでしょう(笑)。
 というわけで、いくつかの候補の中からパッと見て一番(自分にとって)良い感じがした天野先生の門を叩くことに決めました。
 ちなみに、顔だけではなく、服装でも天野先生は好印象でした。変に中国服を着たりもっともらしい格好をすることなく、また袴で足の動きを隠すようなこともなく、Tシャツに短パンですべてをさらけ出しています。またちょい悪オヤジ風でセンスもなかなかです。服装というのは、「外面」の中でも一番簡単に変えられるものですから、そこに全然気が配れないような人では中身も推して知るべし、だと思います。自分は日本の伝統武術のようにやたら服装やらシキタリにうるさいところは苦手なので、天野先生のカジュアルなスタイルには惹かれました。

太氣会入会

 初日の練習日は、かなり緊張して赴きました。
 太氣拳は荒っぽいイメージがあるし、初日にボコボコにされて帰ったら、うちの人になんて言い訳しよう、と考えながら電車に乗っていました。普通に考えて、いきなりボコボコか、半年くらい名前も覚えてもらえないか、どっちかだろうなぁ、と思っていました。
 しかしお目にかかった天野先生は随分優しい印象で、初日は簡単な立禅のやり方を丁寧に教えて下さいました。実際、天野先生は、稽古の時以外はすごく「優しいおじさん」で、ひょうきんで話も面白い方です(稽古の時は、たまにものすごい怖いことがあり、もうわたしは二週間分くらい寿命が縮んだ気がしますが・・)。ちなみに、この日はまだ他に習っていなかったため、二時間半ずっと立ちっぱなしで正直ちょっと辛かったのですが、ここでへこたれたら速攻ナメられる!と思って必死で立っていました。
 後から分かったことですが、太氣会のメンバーの方は皆優しくちゃんとした人たちで(変わった人は自分も含めて多いですが)、半年間無視される、というようなこともありませんでした。いきなり組手でボコボコにさせられることもありません。もちろん、経験者が希望すればすぐ組手もできますが、武術的にはあまり意味のある練習にはならないかと思います。
 この日に天野先生がされたのは、「英語を勉強しようという時、観光旅行に行くなら会話集などを買うだろう。しかし本格的に身につけようというなら、そんな間に合わせの本は買わない。きちんとした辞書を買って腰を据えて勉強するものだ」というお話でした。つまり太氣拳の稽古というのは、後者のもので、技や枝葉を求めているならお門違いですよ、ということです。
 ちなみに、初日に参加者全員の方から自己紹介して頂いたのですが、この日の練習は夜だったため顔が全然見えず、わたしの乏しい記憶力では一気に何人も覚えることもできないため、名前を覚えないのは自分の方、という結果になりました。

「感覚」について

 太氣会に入って意外だったのは、天野先生も会員の方も、「感覚」の話をほとんどされない、ということです。
 また、天野先生は、やたら感覚を協調する神秘がかった言説を嫌っていらっしゃると思います。実際、口だけの人というのは世の中に沢山いらっしゃいますし、わたし自身、胡散臭い壺商人みたいなのは大嫌いですから、ある程度理解できるつもりです。
 ただ、この感覚は大変独特で不思議なもので、確実に存在するものです。普通の人には全然通じませんが、太氣会に入ればやっとこの話題を共有できる、と思っていたのに、誰も口にしません。タブーのような雰囲気すらあります。
 次第に理解するようになったのは、感覚は非常に大切ではあるものの、言葉にしてみたところで人によって違うものですし、変に言葉にすると言葉に呑まれてしまう、ということです。天野先生はこうしたことを大変警戒されているようで、必要以上に専門用語を使ったり、言葉にしすぎてしまうことを避けているようです。あくまで自分の言葉でお話されるよう、努めていらっしゃるように見受けられます。
 また、これは自分の考えですが、感覚というのはロッククライミングをする時につかむ岩とか出っ張りのようなものだと思っています。この出っ張りには、文字通り命がかかっているので、絶対に掴んで離さず、よく味あわないといけませんが、別に最終目的ではありません。目指すのはあくまで頂上です。出っ張りがいかに大切だとしても、そこにぶら下がっているだけではどうにもなりません。よく味わったら、次の出っ張りに進まないといけませんし、場合によってはちょっと戻って登り直すことだってあるでしょう。また、登るルートには様々なものがありますから、自分の掴んでいる出っ張りについて「すごいイイ岩なんだよ!」などと熱く語ったとしても、別のルートから登っている人には全然関係ない話です。この出っ張りは自分だけのものなのですから、自分の中で大切にして、自分のルートで着実に登っていくことが大事なのだと思います。

 上に書いたように、最初に感覚が出てきた時、わたしは有頂天になっていました。そういう人は結構いらっしゃるのではないかと思います(わたしだけでしょうか・・)。
 でもこれは、100のうちの1とか0.1とかが分かっただけで、それまで0だったから違いに驚いた、というだけの話です。
 天野先生がよく「ないものを見つけろ」「できるやり方でやるな」とおっしゃいますが、大切なのは残りの99です。しかもこれは、まだ「ない」ものなのですから、自分の身体の中にないものを見つける、という、大変逆説的で難しい作業をしなければなりません。1とか2で小躍りしている場合ではなかったのです。
 1とか2でも最初は本当にびっくりしますから、ついその「1」に振り回されて、そこで止まってしまいがちかと思います。でも実際は、1や2程度ではまだまだ全然使えたものではありません。そんなことは、推手や組手をしてみればすぐ分かります。
 わたしは最初に「1」が出た時、「今ならスーパーダンサーになれるんじゃないか」と思って踊ってみたのですが、鏡で見たら全然大したことなかったです。推手をしたら、あんまり自分が弱いのでびっくりしました。そういう脳天気な人が多いので、天野先生は口を酸っぱくして「ないものを見つけろ」と仰るのでしょう。
 その後の練習で、流石に1が2か3くらいにはなっているかと期待したいのですが、所詮は底辺も底辺、ほんの僅かなことを垣間見たに過ぎません。江頭2:50の名言に「生まれたときから目が見えない人に、空の青さを伝えるとき何て言えばいいんだ?こんな簡単なことさえ言葉に出来ない俺は芸人失格だよ」というのがありますが、「ないものを見つける」には、目の見えない人が空の青さを求めるような作業を根気よく続けていかなければならないのでしょう。

 感覚ということについて、身の程をわきまえずもう少しだけ書いてみます。
 時々、太氣拳・意拳を「イメージ拳法」のように形容し、感覚をイメージのように語っているものを見かけますが、個人的にはこれは疑問です。イメージ・意念は感覚を誘導する上で有効だと思いますが、感覚さえあればイメージなんてあってもなくても良いのではないでしょうか(さらに言えば、その感覚もロッククライミングの出っ張りの筈です)。
 この意念のことを「イメージトレーニング」のイメージのように考え、太氣拳・意拳はイメージトレーニングを行っている、みたいな言い方がされていることもありますが、これもおかしい気がします。イメージトレーニングというのは、例えばシュートが決まった瞬間とか、プレゼンが成功している風景とか、「望む状態」「実現したいこと」をイメージして、そこに心身の状態を持っていく、というものでしょう。対して意念では、例えば「地面を指した手がどんどん伸びて地面にズブズブと刺さっていく」といったものがありますが、ダルシムじゃあるまいし、実現したら化け物です。あくまで感覚を誘導するための手段に過ぎない筈です。
 そして感覚というものは、一度分かれば(その分かった範囲に限っては)「なんとなくそんな感じ」といったアヤフヤなものではなく、カラスが黒いくらい間違えようのないものだと思います。
 島田道男先生がDVDの中で、「禅は高い椅子の上に座っているように、とかいうけれど、そうじゃなくて、椅子があるんだよ!!」と仰っています。いや、もちろん椅子はないのですが、「座ってる感じ」とかそんなフワフワしたものではなく、椅子的な何かが自分の外にある、それがハッキリ分かる、ということをお話されているのだと思います。
 実際はもちろん、宇宙のパワーか何かが本当に外にあるのではなく、神経上の信号か何かなのでしょう。その辺は学者ではないので分かりませんし、天野先生も特に興味もないかと思います。ただ、それを言ったら、普通にものを見るのだって、感じているのは信号であって、対象のもの自体ではありません。一般には知られていないだけで、自然なものなのだと思います。
 天野先生は「正座をした後で足が痺れる、ということを知らない人がいたら、最初に痺れた時はびっくりするだろうが、慣れてしまえば普通のことで、自然なものだ」と仰っています。正座の後で宇宙のパワーが足に宿る、とか言ってる人がいたら頭がおかしいでしょう。

言葉にしてしまう危うさ

 入会当初は、入会前にあれこれと武術書などを漁っていたこともあって、自分は随分頭でっかちになっていたと思います。
 練習している時も、「この時股関節が外旋し、右体側が伸びる方向に動いているから・・」などと、機械的なことを考えていました。
 しかしこうした考えというのは、仮に物理的に正しいものだったとしても、武術的にはあまり役に立ちません。
 よく天野先生が「自転車に乗れるようになりたかったら、自転車に乗ればいい。乗れるようになっちまえば関係ねぇんだ」とおっしゃいますが、自転車が倒れずに走れる理由を力学的に説明されたところで、自転車には乗れません。逆に、自転車に乗っているほとんどの人は、なぜ自分が乗れているのかなど説明できないでしょう。もちろん、この力学的説明などもお話それ自体としては楽しいのですが(個人的には好きです)、それはそれ、これはこれ、武術とは別の問題です。
 最近では、言葉の上でどうだというかいうことは、ほとんど考えなくなりました。
 いや、考えてはしまうのですが、言葉で考えるのは最初の三歩くらいで、後はなるべく身体に任せるようにしています。当然、パッとできるものではありませんが、考えたってどのみちできないのですから、中の小人が何か見つけてきてくれるまで黙って稽古していれば良いのです。
 天野先生曰く、「感覚に嘘はない。そこに名前をつけるところからおかしくなってくる」。
 名前を付けるというのは、整理したり人に教えたりする上では便利なものです。ただ、整理というのは、要するに頭で作った概念上の秩序に従って並べるだけです。もしかすると、(犬猫小鳥神様の感じる)「本当の世界」は、そんな秩序では全然できていないのかもしれません(できていない、と個人的には信じています)。
 大体、わたしはO型で「一山いくら」みたいな大雑把な人間なので、そんな人間が整理などしたところで、冷蔵庫にメガネが入っているようなトンチンカンなことをするのが関の山です。また幸いなことに、あと百年くらいは人に教える予定もありません。だから自分にとっては名前なんて無用の長物ですから、せいぜい「ぼわーん」とか「ぎゅー」とか呼ぶくらいで済ませることにしています。
 ちなみに、太氣会最強の一人M先輩は、後方発力(たぶん)のことを「引っ張るやつ」と呼んでいて、わたしもずっと「引っ張るやつ」として親しんでいました。この先輩は、推手や組手では本当に化け物のようですが、普段はどことなく可愛らしくて子供のような一面があります(すいません!)。そういう素朴なところが、強さの秘密なのではないかと思います。

 思い出しついでに「言葉」について書いておくと、太氣拳の用語は大和言葉が多く、響きが美しいです。「練り」とか「這い」とか言われると、いかにも「あぁ、練るんだなぁ」という感じがします。これが「摩擦歩!」とか「モーザーブー!」とか言われると、なんだかサンドペーパーみたいで大変なことになりそうです(意拳の専門家の方、ごめんなさい)。もちろん、それはただ単にわたしが日本語話者だからですが、多くの日本語話者にとっては同じようにスッと胸に落ちるのではないでしょうか。澤井先生は言葉のセンスが美しい方だったのだと思います。
 個人的には「探手」も「さぐりて」という読みだったらもっと良かったと思います。すごく、探ってる感じです。立禅も「立つやつ」とか呼ぶと、幼稚園児みたいで可愛いのではないでしょうか。天野先生に怒鳴られそうですが。

「身体の使い方」より「わたしの使い方」

 ある時、練習中に天野先生がわたしのそばにいらして、別のまだ歴の浅い会員の方を指して、「なにかぎこちないと思わねぇか? なぜだと思う?」とおっしゃいました。その時わたしは、小賢しく身体操作上の間違いのようなことをモゴモゴ言った気がするのですが、天野先生の答えはこうでした。「自分の身体を信じてねぇんだ。身体の使い方とか、そんなことを考えてるんだ」。
 「身体の使い方」というのは、武術でもダンスでも実践者なら誰もが考えることですが、それを頭でごちゃごちゃ考えても、大した成果は上がりません。
 そもそも「わたし」が「身体」を使う、という発想がおこがましいです。むしろ「身体」が「わたし」を使っている、くらいに考えるべきではないでしょうか。だから研究すべきなのは、「身体の使い方」よりはむしろ「わたしの使い方」というか、「わたしをどこに置いておくか」ということなのかと思っています。
 大体「わたし」はピーピーうるさくて役に立たないので、どこかに座らせて大人しくさせておかないといけません。駅のトイレなどだと、赤ちゃんを座らせておくベビーチェアが付いている個室がありますが、あんな場所を心の中に作って、そこに「わたし」を乗せて置いてる間に用を足さないといけません。
 実際、自分の場合、うまく動いている時は、身体がリモコンで動かされているようで、自分の意識は首の後ろ辺りの操縦席で眺めているような感じがします。まぁ、それが組手や推手でいつもできるなら苦労はないわけで、大抵は途中で赤ちゃんがトイレの床に落っこちるのですが。
 頭で考えると、大体動作が「わざとらしく」なります。武術でもダンスでもお芝居でも、パッと見て「わざとらしい」感じがする時はダメなものです。自分は時々鏡を見ながら練習して「わざとらしい」印象がないか確かめるようにしています。

 一度天野先生に「頭で考えるな、どうせ大したモン入ってないんだろ!」と言われたことがあります。まぁ実際、わたしの頭など入っていても小鳥と印鑑くらいですし、むしろ何も入っていない方が良いと思います。わたしの場合、割と小賢しい子供時代を過ごしたこともあって、ある年齢に達してからはなるべくアホになるように心がけてきたのですが、太氣拳のお陰でいよいよ立派なアホになれてきた気がします。さくらももこのマンガに「バカでも優しい方がいい」というのがありますが、本当にバカでも優しい方がいいと思います。いや、これはちょっと違う話ですが・・。
 正直、最近は、天野先生や先輩がお話になっていても、話の言葉を聞くというより、お話されている時の空気や所作のようなものを感じて真似るようにしています。自分が日本語の分からない外国人だとか、言葉の分からない犬猫になったような気分でいます。
 実際、犬猫小鳥の方が人間より余程身体が動くのですから、犬猫小鳥のやり方の方が優秀なのだと思っています。算数とかはちょっと出来ないですが・・。

バラバラの身体

 また、わたしが感銘を受けた天野先生のセリフに「手とか足とか、そんなものはねぇんだ!」というのがあります。
 言葉だけだと、メチャクチャです。幸いなことに、わたしには手も足もありますから。
 その真意は、「ここから先が手」とか「足」とかいった区別というものは、人間が頭で考えた概念上の区別であって、「本当の身体」そのものではない、ということかと思います。犬や猫にとっての身体イメージは、おそらく一つの「かたまり」であって、その「かたまり」が全体として動くから、小さい身体で物凄い力を出すことが出来るのでしょう。
 人間の場合、それが部分によってバラバラになっています。なまじ頭が良いので、区別して考えてしまい、内側のつながりというものをおろそかにしてしまうのでしょう。また、日常生活ではそれで用が足りるから、というのもあります。
 ジャック・ラカンという精神分析学者の鏡像段階論という理論があります。これは本当は非常に複雑なお話なので、大幅にはしょってお話しますと、人間は自分の統合された身体イメージ像というのを、「鏡像」、つまり鏡の中の像から獲得する、というものです。
 実際には、物理的な鏡というより、言葉の海、つまり父母や他の人間達の語らいのなかにある、一つの(呼びかけられる)「名」としての自分、ということです。
 つまり、人間にとっての統一的な「自分」は、外から見たものとして先取される、ということです。それまでの人間は、部分部分に分かれて蠢く臓器の集合に過ぎません。それがイメージによって外から統合される、ということは、逆に言うと、中からのつながりというのは疎かにされている、ということです。
 全然違う世界の話を軽々しくつなげるのは慎まなければいけませんが、太氣拳の稽古をしていると、このことをよく思い出します。
 犬や猫は言葉も分からないし鏡像も理解しませんから、「自分」というものを内側からつなげて作っているのです。
 天野先生が「嫌がる猫を無理やり抱いた時に、猫が身を捩らせて脱出するときの力」という言い方をされていますが、内側からつながっているから、あんな物凄い力が出せるのです。
 対して人間は、自分ではつながっているつもりでも、それはイメージだけの話で、実は中はバラバラのままです。バラバラなのに、自分で気づいていないのです。
 太氣拳の稽古は、これをつないでいくものですが、そのためには、まずつながっていないことを自覚しないといけません。「ない」ものを探す、というのは、こういう意味でもあります。

「俺は矛盾したことを言うぞ!」

 もう一つ、印象に残っている天野先生のセリフをあげると、「俺は矛盾したことを言うぞ!」というのがあります。
 これはある意味、当たり前のことです。武術に限らず、芸事の先生の言葉というのは、表面的には矛盾していることがよくあるものです。なぜなら、先生というのは見ている風景が違うからです。
 円錐形を真上から見ている人は「円だ」と言い、真横から見ている人は「二等辺三角形だ」と言うかもしれません。どちらも嘘ではありませんが、部分的なもので、そこだけ取れば矛盾しています。
 円錐形であれば「円錐形です」と言えばよいので話は足りるのですが、武術や芸事では、その「対象」は言葉にできるものではありません。直接に名指すことができないので「(上から見れば)円だ」「(横から見れば)二等辺三角形だ」というような断片的なことを言うより他にないのです。
 弟子はその(矛盾した)言葉を聞いて、その矛盾が止揚される場所を探さないといけません。円錐形の全体が見渡せる場所はどこなのか、を探求しないといけないのです(どんな分野でも、先生の言葉通り、字面通りのことしか受け取れず、手取り足取り教えて貰おうという人が時々いますが、そういう人が上達することはないと思います。質問というのも最後の手段で、基本的には「自分が最後の一人になってもやる」という意識がないと何事も身につかないし、天野先生ご自身もそういう意識で修行されてきたかと想像しています)。
 ここまでは普通なのですが、天野先生がユニークなのは、わざわざ自分で「俺は矛盾したことを言うぞ!」と宣言することです。普通、先生はそんなことは言いません。ムッツリしてただ矛盾したことを言うのです。
 おそらくですが、天野先生の中には、武術家として非常に「普通じゃない」部分がある一方で、三人のお子さんを育てたお父さんであり、サーファーであり、常識人であり、といった「普通」の部分もあるのでしょう。そこで「普通じゃない」部分が禅問答のような言葉を発するのですが、「普通」の部分もちゃんと生きていて、ツッコミを入れてしまうのではないでしょうか(よく考えると五十過ぎてからサーファーデビューする人は普通じゃない気もしますが)。
 武術家や芸術家は、極めようと思ったらどうしたって「普通じゃない」ことになると思うのですが、頭の先から爪先まで「普通じゃない」一色の奇人になる方と、「普通」な部分とバランスをとる方がいらっしゃると思います。別に大変人がいけないというわけではありませんが、個人的には、両方の側面があってバランスがとれている人の方が尊敬できます。
 こういうところも、天野先生の魅力の一つだと思います。

小鳥に助けられて

 武術そのものではなく、太氣会の練習ということでは、個人的に一番救われたのは、練習場所です。
 太氣会の練習は、基本的にすべて屋外で、公園などで行っています。
 その練習場所のいくつかが、緑豊かな公園で、大変に居心地が良いのです(そうでもない場所もありますが)。
 あまり社交性のない自分は、狭い部屋に押し込められて対人稽古ばかりやったりしていると、段々鬱々としてきていまうことがあるのですが、太氣拳の稽古はほとんどが一人で、しかも屋外です。夏は暑く、冬は寒く、時には禅を組んでいる身体に雪が積もっていくこともありますが、それでもこの稽古方法は大変に解放されます。
 自分は野鳥が好きで、よく野鳥観察に出かけるのですが、公園で禅を組んでいると、視線は動かさないまま鳴き声だけで「あそこにシジュウカラ、こっちにコゲラ」などと3Dの鳥空間が出来てきます。禅を組んでいる時に「周囲の音を聞け」という教えがありますが、小鳥のお陰で、放っといても意識が全体に広がるような感じになります。天野先生や先輩方に大変にお世話になっているのはもちろんですが、加えて、練習場所の環境と小鳥に随分助けられていると思います。
 こうした環境がなければ、根性のない自分には続けていけなかったかもしれません。

 具体的な身体操作や技術的なことについては、日々発見の連続です。語りたいことは山ほどありますが、言った先から陳腐化するのは目に見えていますし、何よりわたしのような底辺が語ったところで何の値打ちもありませんから、自分の中に収めておきます。
 天野先生や先輩方の前では、まだゴミクズのようにレベルの低い自分ではありますが、先生や先輩方、周囲の理解、小鳥と神様のお導きに助けて頂いて、細々やっていきたいと思っています。今後共何卒よろしくお願い申し上げます。