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メールQ&A 天野敏のテクスト

高めの這と低めの這

Q:
這いをやるときに、意拳的な高めの這いをやったり、太気拳的な低めのをやったりしています。高めの這いをやるときは;前進するときに前足つま先で地面をつかむ(引き上げる)→それにつれて踵が沈んで膝が前に出る →それにつれて後ろ足の膝が引き寄せられる、という感じでやってますが、これで正しいのでしょうか。
また、個人的には、そういう感覚がけっこうしっくりくるのですが、ただ、それを腰を低くした状態でやろうとすると、なんかぎこちなくなってしまいます。低い状態(前屈み状態)だと、「つま先でつかむ」よう意識すると、逆に腰が浮いてしまうような変な感じになってしまいます。高い姿勢では得られる感覚が、低い姿勢のときには消えてしまうという感じです。あるいは、姿勢の違いで、意識の持ち方も変えるべきなのでしょうか。

A:高めの這いについては、それで良いでしょう。これは、別の表現を使うと前足で身体を引き込み、前脚に座り込むことになります。引き込むときには、足首・膝・腰が折りたたまれる感じです。
低い姿勢での這いで、ぎこちなくなるとのことですが、これは気分の問題ではないと思います。腰を低くしたときに、前かがみになりすぎ、腰の位置が重心線からずれているからです。人の身体は不思議なもんで、特に腰の力は重力が他動的に与えられていないと十分に機能しないようになっているようです。意拳でいうところの「上下の力が全ての基本」と言うのも、ここに由来していると思います。低い這いをやるときは、十分に姿勢に注意したほうがいいと思います。具体的には、頭の位置を少し引き、逆に腰を前に押し出すようにしてみると良いと思います。
それとこれは非常に重要な事ですが、前足を出したときに、前脚の側の股関節が閉じてしまっているのだと思います。この時、軸足の股関節が閉じ、前足の股関節が開くようになっていないと前足で身体を引き込む感覚はなくなってしまいます。さっきも言ったように、身体をひきつけると言う事は、前脚が縮むと言う事ですから、そのためには伸びていないと縮めない。伸びるはひらくであり、縮むは閉じると言うことですから当たり前と言うと当たり前の事です。
前足の感覚と言うきっかけがあるのですから、それを失わないと言う事を前提にして工夫して下さい。

太氣会 天野

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一人稽古のメニュー

Q:
ホ-ムペ-ジの完成を楽しみに待っておりました。
さて、1人で稽古(本などを参考に)している者ですが、どのような稽古をどの位行ったらよいかわかりません。1人で稽古する人用のメニュ-を教えていただけないでしょうか。

A:
一人稽古のメニューといってもあまりに漠然としていて,返事に困ります。
練習にマスタープランはありません。人それぞれの状態にあった練習のやり方を見つけること自体が目的だともいえるからです。練習をしながらその課題を見つけていくしかありません。
ただ,あえて必要なことを挙げれば,自身の身体の声を聞ける練習をじっくりやればそれで初期の練習としては,十分だと思います。
 自身の身体が語りかけてくる、という事を見つけられればそれがすべての出発点になります。
まず、そのためにはのんびりと「立禅」を組むことだと思います。何分禅を組めば,こういう成果が上がるというものではありません。練習を時間ではなく,中身に求めるようにしてください。
気持ちの良い練習を見つけて,それが何故,気持ちが良いのか考えながらやればいいと思います。
どこにお住まいだかわかりませんが,機会があれば,「太氣拳基礎講座」にでも来て貰えればと思います。

太氣会 天野

RE:
ご丁寧な返信ありがとうございました。私はM県のT市に住んでいる者で極真空手を15年間やってきて、一応黒帯をいただいた30男です。
昨年から空手は仕事の関係上辞めましたが、1人で稽古できる物はないかと思っていたところ太気拳の存在を知り、見よう見まねで少しづつ、立禅などを行っています。
年齢とともに衰えてしまう武道に疑問を抱いていた自分には、太気拳は非常に興味深いです。
今月号の月刊秘伝も読ませていただき、大変おもしろかったです。今後のご活躍を期待しております。

A:
極真会で15年,黒帯とのこと。随分頑張られたと思います。
30歳も半ばを超えると,体力的なことと絡み,拳の質を考えるようになります。体力に任せた拳から,体力を超える拳への転換です。みんなここで苦しみます。私もまったく同じでした。いや,今も少し展望が出てきたとはいえ,まったく同じです。弟子の100キロ,120キロの動きをどうコントロールするか,工夫を続ける事こそ武術だと思います。これでいい、と思ったとき武術は消えてしまうと思います。頑張ってください。

練習の具体的な目標をひとつ挙げておきます。
感覚的なことです。空手のけりでローキックを思い出してください。それも,きちっとミートしたけりです。
立禅の中で身体を緩め,その状態を再現してみるのです。イメージの問題ではなく,身体全体の緊張を思い出して再現してみるのです。
特に,首の後ろから背,そしてわき腹を含めた下腹部の緊張。これらをわずかに緊張させ,次に緩める。蹴りの動作で,身体の充実した感覚を引き出すのではなく,静的な状態で身体を見つめ,コントロールし,同じ感覚を引き出してみてください。それによって,その充実した状態を惹き起こすものの本質を探す。それが探り当てられれば,ゆっくりした動きの中でもそれが失わわれないようにする。
これを目標にして練習してみれば,必ず何かが見えてくると思います。そして,今度はそれが何かを必死に考えてみてください。
拳は,決して一人だけでは育てられません。雑誌の中で,島田先生の言ったとおりです。然し,たった一人で苦しむことを抜きにしては,やはり,拳は育ちません。拳は,一人一人の中で育つそれぞれの命だと思います。
一番になるより,自分にしかできない「拳」を育てあげたいものです。
いつか,お会いできるといいですね。

太氣会 天野

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座った状態での稽古

Q:
ご無沙汰しております。会友員のDです。(中略)自分は膝の靭帯を断裂してしまってしまい、満足な稽古が出来ない状態ですが、座った状態で出来る稽古法について何かアドバイスしていただければ幸いです。座った状態で上半身は立禅の形ををし、立った状態をイメージしながらやるようにしています。膝を安静にしながらも、今後につながる稽古法を探し出したいと思っております。
お忙しいところ申し訳ありませんが御指導の程宜しくお願い致します。

A:
座っての練習のやり方は、いくらでもあります。ここでは的を幾つかに絞って書きます。
まず、課題の選定です。
  1)骨盤の傾斜による力を明確にする。
  2)背骨の力を感じ取り、上下の力に転換する。
とりあえず、この2点に焦点を合わせて書きたいと思います。

「骨盤の傾斜による力を明確にする」ために
まず、椅子は固めのものにします。長く座っていると、お尻が痛くなるようなやつです。学校の椅子を思い出せばいいと思います。あまり深く腰掛けず、上体は立禅の形を守ります。左右のお尻の骨が椅子に押し付けられるのが感じられると思います。その圧力が左右均等になっているのを確認してから、ゆっくり、右側の骨盤を引き上げるようにします。上体は、ゆっくりと右に傾きます。ある程度傾いたら、今度は、逆に左に骨盤を引き上げるようにします。左右の傾きが逆になります。
この左右の切り替えを最初はゆっくりと、そして慣れてきたら、時に急激に行います。ゆっくりと切り替えているときは、椅子はぎしぎしとなり、急激に切り替えたときは、がたんと大きな音がするような感じです。このとき、腰の筋肉と上体(特にわき腹)の緊張が感じられると思います。この感じを十分に味わってください。この左右の切り替えが、まるで両脇の壁に肩がぶつかり、跳ね返るように感じられればいいと思います。
この感覚は、立っているより、座っているほうが見つけやすいと思います。この力は、そのまま素早い歩法の変化や発力を生み出します。
太氣拳では、一番基礎になる力です。

「背骨の力を感じ取り、上下の力に転換する」ために
腰のかけ方は、上記と同様にする。上体も同じ。ただ、少し背骨を緩め加減にする。若干猫背と行ったら言いすぎですが。その状態で、頭の上に重いものが載っているとイメージする。背骨を伸ばすようにして、頭上の重いものを持ち上げる。ゆっくりと持ち上げ、ゆっくりと下ろす。
これに慣れたら、今度はゆっくりと下ろし、急激に持ち上げるようにする。急激な変化のために、頭上のものは持ち上がる閑がなく、背骨の伸張する力は、座っている椅子にぶつかり、椅子を下にたたきつける。
また、今度はゆっくりと持ち上げ、急激に引き落とす。頭上のものは、落ちる閑がなく、逆に、引き落とす力で椅子から腰が引き剥がされるようになる。
これは、組み手などの際の上下の変化の原動力であると共に、瞬間的な質量の変化を利用した発力を生み出す源のひとつです。

膝が治ったら、上記の練習を、両足で地面をしっかりと掴んでやってください。きっと両方が一緒に出てくると思います。

膝をいためての練習は、肉体的なものだけでなく、精神的にもイライラすることと思います。しかし、ここで書いたことは、却って、座っているほうが感じやすいかもしれません。拳で大切なことは、部分に頼らないことです。故障した時こそ、今まで見えなかった事が見えてきて、全体が繋がるかもしれません。

頑張ってください。

太氣会 天野

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なぜ練習時間が長いのか

Q:
中国拳法に興味がありこのホームページにたどり着きました。
練習時間のことでお聞きしたいことがあります。普通、道場での練習時間というのは短くて一時間、長くても二時間ぐらいだと思うのですが、大気会では三時間~四時間とあります。
どうしてこれほど時間が長いのでしょうか。体力的に劣る人(私を含む)にはつらいと思うのですが。よろしければ理由をお教え下さい。

A:
質問の件、よくわかります。
3~4時間のわたる練習と聞いて、確かに、一般的には長いと思います。多分、練習に対する考え方、捉え方がまったく違っているのだと思います。
質問者の方が言っている練習は、一定のメニューがあり、それを時間内にこなす。そして、時には、そこに新しいものを加える、と言ったものではないかと思います。
太氣会の練習は、そういったものとはちょっと違います。練習の意味は、一定量をこなすことにあるのではなく、練習を通して質的な転換を経験することです。
太氣拳の練習に似ているものを強いてあげれば、楽器の練習があります。楽器の練習は、一定の時間練習すれば、それでよいというものではないと思います。純粋に技術的な問題は、それである程度高めることができても、音楽的な感性の問題はそうは行きません。此処をこう弾いたらどうか、此処はこうではどうか、そんな煩悶が楽器の練習を音楽にしていくのだと思います。両方の質を高めてこその練習だと思います。
太氣会での練習では、全体が一緒になって、同じことをやるということはありません。一人一人がそれぞれの課題を持って、別々のことをやっています。時には、技術的なことを煮詰め、身体を苛めることがあり、時には、静かに自身の中に沈潜して感性に問い掛け、煩悶します。こうした事があって、拳法が借り物の技術の集積ではなく、自分の拳になります。
皆、その時の体調や、課題に応じて、自分で練習内容を組み立てます。体力が無ければ、それに応じた練習を組み立て、身体が動きたくなれば、そういった練習に切り替える。太氣拳は、個性を育て、光らせる拳法だと思っています。常に全員に同じ動きを強制するような練習は貧しいと思います。
こういった疑問は、かなり多いと思います。そして、この疑問の基にあるのは、拳法が身体的な技術であり、その訓練が、肉体の訓練を意味する、と言う考え方です。しかし、拳法は、決して身体的なもののみを意味するのではありません。拳法は、人の生み出す非常に優れた営みのひとつです。身体と精神がお互いに干渉しあい、感応し、やがて一つになり、そこで初めて見えてくる世界があります。そこが「武」の出発点だと思います。
先ほど、楽器の練習を例に出しました。楽器の作り出す「音」が音楽になるのは、そこに感性の働きがあるからです。拳法も同じです。訓練した技術が生きるのは、「技術」が「感性」と一体になった時だけです。「思ったときには動いている。」「思わず動く。」-こう言った気持ちと身体の一致こそ求めるものだと思います。
楽器の例で言えば、ゆっくりと、考えながら曲想を練っていれば時間はあっという間に過ぎます。太氣拳の練習も、時に激しく、時にのんびりと拳に向き合っていれば、あっという間の3~4時間です。
※もっとも、練習に遅れてくるものも結構いるのが現状です。(苦笑)

太氣会 天野敏

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立禅で肩が痛くなる

Q:
どうもはじめまして。貴会のHPをいつも楽しく拝見しております。

立禅について質問がございます。
私は現在35才。太氣拳を含めて武道の経験はありません。
最近、天野先生のビデオ「太気拳挑戦講座VOL.1」を購入し、立禅をはじめたところであります。

天野先生の説明はわかりやすく、足の感覚については立禅を組んでみて理解できるところがありました。

ただ、腕についてなのですが、1分、2分くらいで肩が痛くなって耐えられなくなります。
私、元来より体が緊張しやすいせいか、柔軟性に乏しく肩関節も回すとボキボキ音が鳴るくらい硬いのです。

立禅を組んでいると、よく腕がしびれてくるという話は聞いたことがあります。
貴会のHPでも、天野先生が「練習は時間に求めるのではなく中身」「自分の身体の声を聞く練習」云々とおっしゃっていることからも辛抱して立禅を組むのはおかしいのではないかという思いと、肩が痛くなるのも通過点であるという思いが交錯しております。
どう思われますでしょうか。深く考え過ぎでしょうか。

ビデオを見たり「秘伝」を読んでの実践で、いわゆる自己流なのですが、これから太気拳を深めて行けたらと思います。
こんな質問でも答えていただけましたら幸いです。

貴会の今後益々の御発展を御祈り申し上げます。

A:
深く考えすぎでしょうか、とのこと。
深く考えてください。じっくりと何故立つのかを考えてください。答えはその悩みからしか生まれません。

拳は教わるものではなく、見つけるものだと思います。

さて、肩の痛みに関して。
痛みは我慢してください。ただし、ただ我慢するのではなく、どうすれば痛くなくなるのか工夫してください。
腕を肩で支えると肩が痛みます。腕は頭で支えるようにするのです。
頭を上に突き上げるようににし、その反作用で肩を下に押し付けるようにします。
ちょうど腋の下に風船をはさんでいるような感じです。
この感じがつかめたとき、肩関節がしっくりと納まり、力を得ることができます。
『肩を下に押し付ける』これも上下の力です。

この場合の肩の感じは、跳び箱を思い浮かべるといいかもしれません。
跳び箱を飛び越えるとき、腕ではなく肩を下に押し付けるようにし、全身は上に伸び上がります。
この感じが似ているかもしれません。全身の伸び上がる力が肩を下に押し付ける。
このとき肩は全身の力と呼応し、腕を支えます。工夫してみてください。

身体の声を聞く。
聞こえてくるまで時間がかかります。じっと待つしかありません。
私は最近立禅の意味をこう考えます。
何故じっと立つのか。これは人がじっと立てないことに気がつくためだ、と。
人は生きるものです。生きて、動き、活動するのが人です。ではどのように動くか。
それが、動かずにいると観えてくるのだと思います。

一人での練習は大変だと思います。
挫折しそうにもなると思います。
でも、最初に書いたとおり、拳は見つけるものです。
見つけてもらうものではありません。

頑張ってください。
いつか機会があったら一緒に練習しましょう。

太氣会 天野敏

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会友員制度について

Q:
こんにちは。
先日、太気拳Q&Aにて質問させていただきました兵庫県のKと申します。

貴会の会員制度についてお尋ねします。
天野先生のビデオ「太気拳挑戦講座VOL.1」の中で、一番最後に遠隔地等で直接指導が受けられない人のための会友員制度?があると紹介されていたように思うのですが。詳細について教えていただければ幸いです。

よろしくお願いします。

A:
太氣会では、2001年6月より会友員制度を設けています。これは、地域的あるいは他の関係で恒常的に練習に参加できないが、太氣拳をやってみたいという人を対象にしたものです。
現在の会友員はほとんどが『太気拳基礎講座』の経験者ですが、これは単に会友員制度をオープンにしていなかったからです。

地方の人は、出張の機会を利用したり、1ヶ月あるいは2ヶ月に一度出稽古をしたりと、制度を利用しているようです。また、ビデオなどで独習している人はスクーリングのような感じで考えてもいいと思います

会友員制度については当会ご案内をご覧下さい

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何故意念を持って立つのか

Q:
 こんにちは。静岡県に住んでいる学生です。
 元々太気拳に興味があり天野先生のビデオも拝見しました。本やネットも使って随分調べたのですがどうしても分からないことがありました。それは太気拳の基礎中の基礎である「立禅」という練習です。意念をもって立つ。一体どういう意味があるんだろう?という疑問が残りました。
 幸いにも太気拳経験者の方に質問できる機会があったのですが「全身の筋肉を強調させるため」とか「神経を鍛える」などの目的だとお聞きしました。
 何故意念を持って立つことでそういった効果があるのでしょうか?
 こんなことをお聞きすると「道場に通え」と思われるでしょうが都合上、道場に通えるようになるのは随分先になりそうなのです。道場に通えるようになるまで独習するつもりなので、お教え願えないでしょうか?
 よろしくお願いします。

A:
 返事が遅れて申し訳ありませんでした。
 実は、返事の仕様がなくて困っていました。
 しかし、考えて見るとこの質問は、じっくりと考える意味のあることに思えてきました。

 まず、質問に対する答えは簡単で単純です。
 なぜ立禅を組むのか。答えは立禅が何であるかを知るためです。
 意念に関しては、気にしなくても、意念のほうから寄ってくるものです。
 いまでも私が立禅をするのは、立禅を知りたいからです。
 立禅の本当の意味を知り、感じたいからです。
 これが答えです。

 しかし、今回の質問で私が一番問題に感じたのは、質問の影に見え隠れする、ある種の錯覚です。
 それは、疑問に対する答えがあらかじめ何処かに用意されていると思っていることです。
 それは何処にもありません。勿論,本にもネットにもです。
 もしあるとすれば、それは自分自身の中にしかありません。
 だから立禅で自分に向き合うのです。
 自分と正面から向き合えるのは自分だけです。
 拳は自分のなかにしかありません。

 また、立つ前に疑問をもって考え込むのは無意味です。
 まず立ってみて、なぜ立つのかはそれから疑問をもつ事柄です。
 立禅を初めて組めば、なぜ組むかより、どう組むかが一番の問題になります。
 すっきりと立つのがどれほど難しいか。すっきりと、のびやかに立てれば、答えは自ずと出てきます。
 要するに、立禅をまともに組むことが出来ればいいだけの話です。
 拳を研究するのにマニュアルはありません。マニュアルとは、情報です。
 拳は情報ではありません。聞いて理解するものではなく、感じて染み込ませるものです。
 知っていたって出来なければ意味がないのが拳です。
 わかっただけでは出来ないのが人です。

 立禅とは何か、なぜ組むのか。
 私なりの考えはあります。しかし、その意味が判るのは、あなたが私の地平にきた時です。
 まず、禅を組んで、どのように組むのが禅なのか、を本当に考えて、苦しむことから始めてください。
 苦しむことで初めて、本当に答えを希求することが出来ます。
 肩が痛いのをどう乗り越えるか。足が辛いのはどうすればいいか、背中は、首は。
 そしていつか、必ず答えのほうで立ちあがってきます。

 いまは情報の世の中です。それは間違いありません。
 拳を分析して数字や記号に置き換え、情報にしようとする人間もいます。
 情報は判ることが出来ます。しかし、感じることも、出来るようになることもありません。
 情報には肉体が決定的にないのです。知識は増えても感性は変わりません。
 所詮、拳にとっては無用のものです。

 拳は、情報や分析ではなく、自分を生きることだと思います。
 そのためには自分を見つけなくてはなりません。
 だから立禅なのだと思います。

太氣会 天野

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左右の禅の感覚が違う

Q:こちらは夏まっさかりですが、夜は比較的快適で、練習にいい天候が続いています。また、今回、初めて気がつきましたが、蚊がいません。6月に入り、雨期シーズンとなると、出てくるのだと思いますが、現在はまったく、刺されることがありません。ただ、日中は暑すぎて練習にはなりません。
相変わらず、右前の半禅がおかしくて困っております。左前ほど、力が感じられません。
何となく、体のゆがみに起因しているような気がしています。左右の足の長さがずいぶんと違う(前に日本でマッサージ師に指摘され、簡単な矯正をしてもらったこともありましたが・・・)ためなのでしょうか、まず骨盤が安定できません。左腕の力も足を右を前に丁字に構えると、何となく感覚が違うので、V字になってしまいます。また、丁字の時には左ひざにかなり負担がかかり、長く持ちません。ただ、左前の半禅ではこれがありません。このため、左前で感じている感覚をそのまま逆でもできるようにと、いろいろ頑張ってみますが、どうしてもうまくいきません。
這いをやっても同様です。左足を前に右足を引き寄せ、さらに前に進む過程、特に、右足が左足と平行に並び、いよいよ前に踏み出す瞬間、力が消えてしまいます。
低い姿勢での這いだと、左右とも同様の感覚が保てているような気がするのですが。
半禅、這いともに、改善しません。なぜなのでしょうか。
もしかしたら、左右の禅の感覚が違うというのは、サイトの質問コーナー向けかもしれません。よろしければ、コーナーで回答を願えないでしょうか。

マニラ 源

A:元気で練習しているようですね。
こちらも夏前で練習はとても気持ちがいい日が続きます。
蚊が出始まるまでしばらくは気持ちのいい練習が出来そうです。

さて,問題は多分2つあると思います。
一つは後ろ足の重心の掛けかたの問題。
もう一つは前足側のわき腹の緊張の問題。

後ろ足(この場合は左足)に掛かっている重心が外側に行き過ぎていないでしょうか。
つまり,足の裏の外側に掛かりすぎると太ももにばかり負担が掛かりすぎます。
親指の内側にも,重心が均等に掛かるようにして,腿の内側と膝裏も緊張を引き出せれば楽に立てるはずです。

もう一つは前足側(ここでは右側)の脇腹の緊張がないのではと思います。
右足をひきつける時には緊張は自然に引き出されているようです。
それが右足を前に押し出す時に失われているのではと思います。
右足をひきつけ,次にその踵が左足の親指の付け根まで来るまで待つ。
次に,初めて右足の指先をねじるようにして外に向ける。
大事なのはこのときです。
このときに十分に脇腹の捻れるような感触を引き出す。
そしてそれをうしなわない様にして這いを続けるのです。
腰に力を感じるのは股関節だけでなく,状態に応じた腹筋の緊張が重要です。

そして観察して欲しいのは,この二つの問題とも足の指の力加減と密接に関係しているところです。

上半身と下半身を結びつける腹筋の役目はとても大きいものがあります。
昔から腹・腰と言うにはここに由来します。

日本から離れての練習は大変だと思います。
しかし,一人での練習の積み重ねがいつか大きな力になります。
また一緒に練習できる日を楽しみにしています。

太氣会 天野

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天野敏のテクスト 閑話休題

太気拳ノート―1

前後の力、六面力、或いは静的な力について。

立禅を何故組むのか、と言う疑問については答えは幾通りにもある。
簡単に言えば、立禅から色々なものを引き出すことが出来るからだが、その中でも大事なものの 一つに静的な力を引き出す、或いは感じ取ると言う事が上げられる。
静的な力は、意拳的に言えば六面力であり、上下前後左右に力を感じると言う事だ。
六面に力を得る、と言うことは自分の周囲360度と重力に抗する力を得る事であるが、 上下の力が大元にあり、その変化形として前後左右の力があると考えた方がわかりやすい。

静的な力と言うのは動こうとする力ではなく「動くまい 動かされまい」とする力だ。
そういう意味では受動的なところから引き出される力と言える。
これを感じ取るには、立禅を組んでいる最中に前から胸を軽く押してもらう。或いは後ろから押してもらう。 また左右から軽く押してもらう。
それらを間断なく前後左右を入れ替えながらそれらの力に抗する方法を探る事から見つけることが出来る。
力を入れ替える時間は徐々に短くしていく事で、前から押されても、押し返すだけでなく後ろも押さえ、 左から押されても右を押さえる、といったように同時に前後左右に力を得る事が出来るようになる。

柔道などの組み技系の経験者なら誰でも知っていることだが、組んだ瞬間に相手の重さを感じる。 これが言ってみれば六面力に近い。引いても引けず、押しても押せずと言う感じだ。そこに居る強さ、 とでも言えば良いかもしれない。あるいは動かされない存在感、とでも言うか。技術以前のそのヒトのあり方だ。 だから表題に書いたように「静的な力」と言うわけだ。

具体的なイメージで言えば、前後に関しては立ち幅跳びで前に飛び出そうとした瞬間の力感が一番近い 感じがする。或いは後ろに飛ぼうとした感じでもよい。両足が前後に揃っている場合、引き出される力は 第一に身体全体が前後に震動するような力で、これは幅跳びの時の身体の運用を考えれば想像に難くない。

左右に関しては、親指を中心にした足首の外旋する力が水平方向の力の基本になる。それに加えて、 身体全体が上に伸び上がろうとする力が突き当たって下に向かう感じだ。

どちらにしても、常に前後左右上下に抵抗感・圧力感を感じるところから始まる。

この力がもっとも基本になり、動く稽古は、その抵抗感や圧力感をを失わずに動く事が課題となる。
 その意味で、静的な力を感じ取れないところでの動的な稽古は、何のことは無い、ただの運動になるということだ。

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天野敏のテクスト 閑話休題

あっという間に年末

あっという間に年末。今年は何となく落ち着かない一年と言う感じだった。落ち着かない、と言うのは今年中に 片付けようと思ったものが予定通りに行かなかったというのが理由。幾つかあるが、雑誌に連載していた「組み手 再入門」の書籍化が来春に持ち越しになってしまった事。後から製作したビデオの一巻目が年内に発売されたにも かかわらず、原稿の出来ていた書籍化が遅れた。責任はもちろん私にある。校正や書き直しの部分を先延ばしにし たからに他ならない。

さて、それに対して片付けられた事の幾つか。「組み手再入門」の映像化。組み手に関して色々書いて、それが 空念仏じゃしょうがないから、と言うところ。組み手の実際を見てもらってイメージを作る事が出来ればと思って の映像化。連載あるいは書籍と突きあわせて貰えれば、文章より伝わるだろうと考えての事だが、果たしてどうか。 今年の夏合宿での弟子を相手にした組み手やスタジオでの組み手を7~8回、それらを例にとってポイントの指摘及び整理。 正直に言うと、他の武術やスポーツ格闘技の組み手の映像と横並びで比べてみるとその違いがハッキリする。が、 まさかそれを自分のビデオでするわけにもいかず、ちょっと残念。太気拳と言うか、あるいは私の組み手がと言うべきか、 普通の人にとってはとても異質な感じだろうな、と言うのが感想。まあ、判る人が判ればいいでしょう。

それともう一つ出来たのがE-BOOK「中年から始める本物の中国武術」、とりあえず第一部の「立禅」を完成。 太気拳の入門書的な作り、これもテキストとDVDのセット。テキストが原稿用紙70枚余りと一時間の映像。立禅につ いては正直言ってこれでも不十分だが、キリがないのでそこそこに収めた。文章だけだと歯がゆいし、映像だけだと言い 忘れや抜け落ちるところがあるので、両方で相互補完と言う感じ。「中年の~」と銘打ったのは別に中年じゃないといけ ない、と言うわけではない。私がもう中年だから、エールを送る意味でつけた題名。また、今回立禅だけの章にしたのは、 太気拳だけでなく、ほかの武術や健康のためにと言う問い合わせがよく来るため。色々な所で立禅に似た稽古法を指導し ている所もあるようだが、そう言うところの経験者から漏れ聞くと、結構いい加減だったりする。別に私だけが正しいと 思っているわけではないが、書くべき事は書いておこうと言うところ。この後、半禅や這い、そして練りや他の稽古も書き、 同時に映像化のつもりだが、何時になるかはまだ不明。なんと言っても「立禅」の章でほぼ一年掛かり。ライフワークなんて 気取るつもりはないが、どうなるか・・・。

さて、最大の落ち着かない理由は十分に遊べなかった事。遊べないといっても遊んではいる。要は思うように遊べな かったという事。今年は年明けから波がなくて、十分にサーフィンが出来なかった。それに加えて夏の台風直撃で地形が 変り、波の質が落ちた。じゃあ、と言うんで今度は釣りを始めたが、もちろん思うように釣れない。今日は休みで、実は 釣りに行ったがバラシ。知り合いが80センチの平目を釣ったとか、誰それが70センチのスズキを釣ったとか言うがこちら には来ない。このふた月の釣果は、40センチのイナダ一匹・15センチのスズキの子供・同サイズのメッキ鯵。まあ、魚に してみれば私に釣られるなんて言うのは、交通事故にあうようなもの。めったにあることではない。で、モチベーション が落ちて、もういいかなんて思ってると、眼の前で他の人が大物を釣ったりする。じゃあ、この竿にも掛かっていいん じゃないの、何で掛かってくれないの、と生殺しの蛇のようで日々落ち着かない。

「遊びをせんとや生まれけん」じゃあないが、せいぜい正月は落ち着いて遊びたいもの。そのためには祝いの膳に 自分の釣った魚を、なんて初夢でも見ることが出来ればよしとするか・・・。