カテゴリー
メールQ&A 天野敏のテクスト

なぜ練習時間が長いのか

Q:
中国拳法に興味がありこのホームページにたどり着きました。
練習時間のことでお聞きしたいことがあります。普通、道場での練習時間というのは短くて一時間、長くても二時間ぐらいだと思うのですが、大気会では三時間~四時間とあります。
どうしてこれほど時間が長いのでしょうか。体力的に劣る人(私を含む)にはつらいと思うのですが。よろしければ理由をお教え下さい。

A:
質問の件、よくわかります。
3~4時間のわたる練習と聞いて、確かに、一般的には長いと思います。多分、練習に対する考え方、捉え方がまったく違っているのだと思います。
質問者の方が言っている練習は、一定のメニューがあり、それを時間内にこなす。そして、時には、そこに新しいものを加える、と言ったものではないかと思います。
太氣会の練習は、そういったものとはちょっと違います。練習の意味は、一定量をこなすことにあるのではなく、練習を通して質的な転換を経験することです。
太氣拳の練習に似ているものを強いてあげれば、楽器の練習があります。楽器の練習は、一定の時間練習すれば、それでよいというものではないと思います。純粋に技術的な問題は、それである程度高めることができても、音楽的な感性の問題はそうは行きません。此処をこう弾いたらどうか、此処はこうではどうか、そんな煩悶が楽器の練習を音楽にしていくのだと思います。両方の質を高めてこその練習だと思います。
太氣会での練習では、全体が一緒になって、同じことをやるということはありません。一人一人がそれぞれの課題を持って、別々のことをやっています。時には、技術的なことを煮詰め、身体を苛めることがあり、時には、静かに自身の中に沈潜して感性に問い掛け、煩悶します。こうした事があって、拳法が借り物の技術の集積ではなく、自分の拳になります。
皆、その時の体調や、課題に応じて、自分で練習内容を組み立てます。体力が無ければ、それに応じた練習を組み立て、身体が動きたくなれば、そういった練習に切り替える。太氣拳は、個性を育て、光らせる拳法だと思っています。常に全員に同じ動きを強制するような練習は貧しいと思います。
こういった疑問は、かなり多いと思います。そして、この疑問の基にあるのは、拳法が身体的な技術であり、その訓練が、肉体の訓練を意味する、と言う考え方です。しかし、拳法は、決して身体的なもののみを意味するのではありません。拳法は、人の生み出す非常に優れた営みのひとつです。身体と精神がお互いに干渉しあい、感応し、やがて一つになり、そこで初めて見えてくる世界があります。そこが「武」の出発点だと思います。
先ほど、楽器の練習を例に出しました。楽器の作り出す「音」が音楽になるのは、そこに感性の働きがあるからです。拳法も同じです。訓練した技術が生きるのは、「技術」が「感性」と一体になった時だけです。「思ったときには動いている。」「思わず動く。」-こう言った気持ちと身体の一致こそ求めるものだと思います。
楽器の例で言えば、ゆっくりと、考えながら曲想を練っていれば時間はあっという間に過ぎます。太氣拳の練習も、時に激しく、時にのんびりと拳に向き合っていれば、あっという間の3~4時間です。
※もっとも、練習に遅れてくるものも結構いるのが現状です。(苦笑)

太氣会 天野敏