Q:
昨日、立禅の際のわずかな手の動きについて質問し、早速のお返事を頂いた者です。あまりに早いお返事と明晰なご説明についわかったつもりになり、先ほど「わかりました」とメールしてしまいました。
が、もう一度立禅をしてみると、やはりわかっていないことに気が付きました。
たびたびのご質問、申し訳ございません。
天野先生からは:
さて、腕の動きについて。
これは別にわざと動かしているわけではありません。
ジッと立っていると、肩や肘、あるいは手指と色々なところの関節の不具合が感じられてくるものです。
それを少しずつ動かしながら調整します。
ですから、このように動く、とかいうものはありません。
要は自分の各部分の不都合な部分を探し、具合の好い様に変えていく、という作業です。
というお答えを頂きました。私は、剣道をしており、行き詰まりを感じる中で太気拳のことを知りました。何冊の本を元に毎日、30分程度の立禅と、這いや練りを合わせて30分くらい行うようにして3カ月ほどになります。しかし、わかりやすさという点でも、先生の『太気拳の扉』と『太気拳完全戦闘理論』は素晴らしいですので、疑問が出たらそこからヒントを得るようにしております。
先生のHPを拝見すると、Q&Aの中で、腕に張りが出たり、ゴムのボールをはさんでいるように感じるというのは、関節の不具合が調整されてきたから、というご説明があったように記憶しております。このような感覚は、しばらく前から私も感じることがあります。最近は、練りをしていると腕が重く感じることもあり、『秘伝』の先生の記事を見て、「水飴のような感覚」のお話とかさなるのかな、と思いました。
それでも、やはり、この不具合の調整ということが難しいのですが、調整がうまくいき始めた時の感覚には他にどのようなものがあるのかをお教え頂けないでしょうか。
また、今、何冊かの本を見てみると、意拳では「微動する」というような記述があります(佐藤聖二先生の文章でも拝見しました)。これは,上下,左右,前後に微動するとのことなのですが、この目的はやはり不具合を調整することなのでしょうか。
お時間がおありの時で結構ですので、お答えを頂けませんでしょうか。
A:
○『調整がうまくいき始めた時の感覚には他にどのようなものがあるのか?』
うまく説明できませんが、腕が肩からぶら下がっているような感じ、とでも言えるかも知れません。
これで良い、と言うものではありませんから難しいですね。
ただ、ある程度整ってくると、見てすぐにわかります。
同じ様に立っているように見えても、内容のある立禅と、まとまる前のものとは全然違います。
○『上下,左右,前後に微動するとのことなのですが,この目的はやはり不具合を調整することなのでしょうか?』
微動、これは実に難しい質問です。色々な角度から考えることができます。
一番根本的なことから言うと、立禅は何のために組むか、という問いになります。
立禅を組むのは、ヒトの身体は普通の状態では整っていないものだ、という前提があるからです。
もちろんそんなことは無い、という人もいると思います。
それはそれでいいと思います。
しかし、私の理想と思う拳を実現しようとするには、ヒトの身体は不十分で整っていない。
だから整えるために禅を組む。
肩や腰を整える、各関節の落ち着きどころを探す。
探すから少し動く、わずかに動きながら探す。
これが前回の回答でした。
大きな意味では不具合を調整する、と言う事です。
しかしここではちょっと違う方向から見てみましょう。
禅の目的はひとつではありません。
「静の中に動を探る」ということがあります。
禅を組んでいて動こうとします。
前に行こうとしてやめます、後ろに動こうとしてやめます。
行こうとするのも戻ろうとするのも気持ちです。
その時、つまり気持ちが動こうとすると、それを止めようとする力を感じます。
だからやめるわけです。
その繰り返しが微動になります。
微動の原点は、この動こうとした時のそれを止めようとする力を感じるところから始まります。
つまり行こうとすると、戻そうという力を感じるのです。
前に行こうとして戻され後ろに下がろうとして押されるのです。
この微動が沢井先生の言われた独楽のような力かもしれません。
動こうとして準備ができるとそれを静止しようとする力を感じる、
で、別の方向に動こうとしてやめる、これを気持ちの速さで行う。
上下前後左右を意拳では六面といいます。
六面にこの微動を感じていれば動こうとした時にすぐに動き出せます。
何故なら動く準備ができているからです。
つまり上下前後左右に動く準備をしているのと同じだからです。
動けば時間が掛りますが、準備なら時間が掛りません。
普通は動こうとして準備して動きます。
ところが準備ができていればいつでもすぐに動き出せる、と言うわけです。
微動というのは動こうとして止められるからわずかな動きになるのです。
さて、此処で大事なのは止めようとする力とは何か、と言う事です。
動こうとするときにそれを止めようとする力。
動こうとする力は即ち運動エネルギーです。
正の方向に物が動こうとすれば、負の方向にも力が生まれます。
遠心力があれば求心力が生まれるのと同じです。
動くとするのを止めようとする位置エネルギーです。
それを感じる感性がヒトの身体に埋め込まれているということです。
それを六面に感じられるということはつまり、身体の軸がどの方向にもまとまっている、と言う事です。
どの方向にも身体がまとまっていて位置エネルギーを感じられる。
と言うことは、それが動いたときには大きな力が発生する、と言う事です。
位置エネルギーとは質量であり、質量が移動する距離と時間の関係が力ですから。
つまり、動きの速さと力を生み出す元が微動、と言う事です。
立禅の中のもうひとつの動的な部分が微動と言うわけです。
もちろん別の角度から見れば、他にも書きようがあると思いますが、とりあえずはこれをもって答えとさせてください。
太気会 天野