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メールQ&A 天野敏のテクスト

立禅における偏差で統合失調症になるのか

Q:
HPをありがたく拝見させていただきました。ありがとうございます。
ここで質問なのですが。
立禅をすると偏差が危険だと伺いましたが。立禅のやり方を間違えますと。統合失調症になってしまうものなのですか?出来ればお返事おいただけると光栄です。

A:
メール拝見しました。
ええ、どういう風に答えていいのか戸惑います。
偏差が出る、とはどういう意味か解りません。
また、統合失調症になる、と言うことも聞いたことがありません。
たぶん、こういう事を言った人は立禅を何か神秘じみたことにしておきたい人でしょう。
禅を神秘化することで、それをやっている自分を権威じみたものにしていく。
何かとても貧しい発想です。

禅は自分と向かい合う一つの方法です。
自分自身と向かい合うことで、統合失調症になったり、おかしくなるなんて言うことがあるんでしょうか。
自分と向かい合うことができないほうが不健康なのでは、と思います。

心配しないで、じっくりと立禅を組んでください。

太気会 天野

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立禅における手の感覚、雑念、意念の必要性

Q:
久しぶりにメールします。以前も私の疑問に丁寧に答えていただき、今も一日15分は立禅、その後這いや練りを15分くらいずつを毎日続けております。最近、立禅の際、手と手のもわーとしたものでつながったような感触があることがあります。これも,先生がHPで以前ご説明されていた「神経が別のつながり方をするように」なり始めたということなのでしょうか。

また、長く立っていると雑念のようなものがいろいろ起こります。これではいけないのだろうけれども、意識はどういう状態がいいのだろうと思いいろいろな本を読んでみました。意拳では、様々なイメージを持つことが大切だと書かれたものがありました。一方で、韓氏意拳では意念を用いない、その形で立つまでの過程が大切と書いたものもあり、さらには気を回す感覚(周天)が大切、と書いたものもあり、結局わからなくなりました。

意念はやはり必要なのでしょうか? それとも「禅」という名のままに無念無想を目指すべきなのでしょうか? また、立禅→這い、練り→組み手と発展していく中で、意識というものはどのような状態であることが大切なのでしょうか。
お時間のおありの時に、お教え頂けないでしょうか。

A:
ご無沙汰しています。
立禅などがんばっているようですね。

>手と手のもわーとしたものでつながったような感触が

とありますが、だんだんそうなってくるものです。
身体のまとまりが出来てきつつある、と言うことだと思います。
意拳等で、意念などを言いますが、それは繋がりをつけるための補助的なものということで考えていいと思います。
太気拳でも、沢井先生から「樹を抱くように」と言われましたが、身体が繋がってくると本当に樹を抱いているような感じになってきます。
「樹を抱くように」禅を組む、ではなく、禅を組んでいるとそのうち「樹を抱くよう」な感じになってくる、と言うことだと思います。
意念というのはそのような誘導に過ぎません。
一般的には「意念」の言葉が独り歩きしているようです。
だから身体が繋がり、また形が整ってきたら結果的ににそういった感じになる、と理解していいと思います。
また、つながりが感じられてきたら、今度はそのつながりを弄ぶようにしてみるとまた別のつながりも見えてきます。
両手が繋がって感じられたら、それを引き伸ばしたり捻ったりして身体のほかの部分との関係を探るのです。
是非いろいろ工夫してみてください。

>また,長く立っていると雑念のようなものがいろいろ

雑念は人の証拠、無念無想などは言葉の上のことです。
人は生きている限り「無」にはなれません。
何故なら、他との関係を探って生きていくのが生き物だからです。
無になってしまったら、世界との関係が切れてしまします。
逆に大事なのは、身体を緩めて身体全体の感覚器官を開くようにすること。
見て聞いて身体全体で気配を探るようにすることです。
無念無想と言う言葉から連想される「無くす」ではなく逆に「全て」です。
いってみれば全ての感覚器官を開くことで、はじめて「無」が出てくるのかもしれません。

>立禅→這い,練り→組み手と発展していく中で、意識というものはどのような状態であることが

意識は、上に書いたような感じを守ります。
禅の感覚を失わずに練り・這い・組手をやればいいだけです。
と言ってもこれがなかなかですが。
意識や体の状態を含めてどんな風にすればいいのか、を探すための立禅です。
だから立禅で見つかったものがあったら、それを失わずにどうすれば這いが出来るか。
またどうすればその感触を失わずに練りや対人練習が出来るか、です。
いって見れば、立禅はマスターモデルです。
禅を生かす、とはその感覚を失わずにいる工夫をすることです。
動くと感覚が逃げてしまいがちですが、それを如何に逃がさないかが稽古です。

稽古をしていると、判らない事が洪水のようにやってきます。
判らないことだらけです。
判らないことの面白さは、傍から見て訳知り顔の人間にはそれこそ判らない世界です。
もっともっと判らないことを探してください、そうして少しでも先に進んで行きましょう。

太気会 天野

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独学でも上達できるか

Q:
初めてメールさせて頂きます。私は、先生に太気拳の扉を読ませてもらい、独学で立禅と這をやっている者です。
それで日々、練習をするたびに独学でやっても立禅など上達できるのだろうか?などと考えています。
独学でやっても効果は表れるのでしょうか?お答え頂ければ幸いです、よろしくお願いします。

A:
メール拝見しました。

立禅や這いは、自分自身を探るためのものです。
あるいは探るための手がかりです。
禅や這いを通して自分の中にあるもうひとつのものを見つけていきます。
そういう意味では、私と一緒に稽古している弟子たちも、独習です。
立禅でも、こういう立ち方でいいんだろうか?這いの時はこれでいいんだろうか?と悩むものです。
悩まないものには答えは現れてきません。
そのときそのときに、答えは出てくるものです。
その積み重ねが稽古です。
立禅をやったことの無い人間は、立つことが難しいとすら思いません。
ですから疑問が出てきたら、それが進歩です。
疑問が無いところに前進はありません。

具体的に疑問が出てきたらまたメールいただければ、と思います。

太気会 天野

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内家拳では筋肉をつけてはいけないのか

Q:
はじめてメールさせて頂きます。
私は腹部の手術を受けた後、医者に腹筋を鍛えるようにいわれたのですが、内家拳では筋肉をつけてはいけないのは本当なのですか?
腹圧が下がってしまい 特に這いが大変辛いです。
太気拳を続けていきたいので天野老師のアドバイスをよろしくお願いします。

A:
お腹にメスを入れたとの事。
とても大変でしたね。

さて文中に
>内家拳では筋肉をつけてはいけないのでは・・・
とありますが、正直そんな話は聞いた事がありません。

なんと言っても人は骨格を筋肉・腱等を利用して動かす事で活動します。
だから同じ動きなら筋繊維や腱が強靭な方が良いに決まっています。
太気拳でもそうですが、稽古は結構きついものです(勿論、楽にやろうとすれば幾らでも出来ますが)。
身体が虚弱な人間は別にして、普通であれば稽古の中で必要な筋肉などをつけていくものです。
また、それが一番合理的で調和の取れる身体の育て方だとおもます。
ただ、もともと虚弱であればある程度の筋肉トレーニングは必要かもしれません。
また、質問にあるように手術の後などで、明確に筋肉が落ちているのであれば、ある程度の筋肉トレーニングは当然必要だと思います。
特に腹筋が落ちるという事は、腹筋だけでなく当然背筋等の体幹部を保持する力が落ちているわけですし、当然肺活量など基本的なものが落ちている可能性もあります。
太気拳では腹・腰の安定した力はとても重要です。
と言う事で、ある程度の筋肉トレーニングは必要だと思います。

ここからは蛇足ですが、質問にあった「筋肉をつけてはいけない」というような誤解は何処から来るのでしょう。
多分それは、練習のときに「身体を緩める事が大事だ」という事を素人考えで考え違いしているのだと思います。
身体をなぜ緩めるのか?・・・それは必要とされる一瞬に(打つであれ逃げるであれ)、身体全体を調和のうちに爆発的に緊張させるためです。
緩んでいるからこそ一瞬の緊張が引き出せるのです。
つまり爆発的な緊張の為にこそ緩めるのです。
緩んでいる状態から瞬間的なテンションの転換、それが変化であり、速度であり。力です。
爆発的な緊張とは、神経・筋肉を含めたものです。
当然その時には筋繊維が強いほうがいいのは言うまでもありません。
ただ、一般的に考えられるように、腕や胸・肩などを鍛えても特に爆発力が上がる、と言うものではありません。
重いものを持ち上げるのなら、これで良いのですが武術の力とはそう言うものではないからです。
これは一度体験してみればすぐ判ります。
という事であまり筋肉トレーニングは勧めないのです。
また多くの場合筋肉トレーニングは、身体全体の調和とは逆の方向を向き、部分を専門的に鍛えると言う事が多いからです。

ちょっと蛇足が長くなりましたが(だから蛇足ですけど)、そういう訳ですから、素人考えに惑わされず、補助的に身体を鍛えながら太気拳の稽古をがんばってください。

太気会 天野

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立禅における腕の微動2

Q:
昨日、立禅の際のわずかな手の動きについて質問し、早速のお返事を頂いた者です。あまりに早いお返事と明晰なご説明についわかったつもりになり、先ほど「わかりました」とメールしてしまいました。
が、もう一度立禅をしてみると、やはりわかっていないことに気が付きました。
たびたびのご質問、申し訳ございません。

天野先生からは:
さて、腕の動きについて。
これは別にわざと動かしているわけではありません。
ジッと立っていると、肩や肘、あるいは手指と色々なところの関節の不具合が感じられてくるものです。
それを少しずつ動かしながら調整します。
ですから、このように動く、とかいうものはありません。
要は自分の各部分の不都合な部分を探し、具合の好い様に変えていく、という作業です。

というお答えを頂きました。私は、剣道をしており、行き詰まりを感じる中で太気拳のことを知りました。何冊の本を元に毎日、30分程度の立禅と、這いや練りを合わせて30分くらい行うようにして3カ月ほどになります。しかし、わかりやすさという点でも、先生の『太気拳の扉』と『太気拳完全戦闘理論』は素晴らしいですので、疑問が出たらそこからヒントを得るようにしております。

先生のHPを拝見すると、Q&Aの中で、腕に張りが出たり、ゴムのボールをはさんでいるように感じるというのは、関節の不具合が調整されてきたから、というご説明があったように記憶しております。このような感覚は、しばらく前から私も感じることがあります。最近は、練りをしていると腕が重く感じることもあり、『秘伝』の先生の記事を見て、「水飴のような感覚」のお話とかさなるのかな、と思いました。
それでも、やはり、この不具合の調整ということが難しいのですが、調整がうまくいき始めた時の感覚には他にどのようなものがあるのかをお教え頂けないでしょうか。

また、今、何冊かの本を見てみると、意拳では「微動する」というような記述があります(佐藤聖二先生の文章でも拝見しました)。これは,上下,左右,前後に微動するとのことなのですが、この目的はやはり不具合を調整することなのでしょうか。

お時間がおありの時で結構ですので、お答えを頂けませんでしょうか。

A:
○『調整がうまくいき始めた時の感覚には他にどのようなものがあるのか?』

うまく説明できませんが、腕が肩からぶら下がっているような感じ、とでも言えるかも知れません。
これで良い、と言うものではありませんから難しいですね。
ただ、ある程度整ってくると、見てすぐにわかります。
同じ様に立っているように見えても、内容のある立禅と、まとまる前のものとは全然違います。

○『上下,左右,前後に微動するとのことなのですが,この目的はやはり不具合を調整することなのでしょうか?』

微動、これは実に難しい質問です。色々な角度から考えることができます。
一番根本的なことから言うと、立禅は何のために組むか、という問いになります。
立禅を組むのは、ヒトの身体は普通の状態では整っていないものだ、という前提があるからです。
もちろんそんなことは無い、という人もいると思います。
それはそれでいいと思います。
しかし、私の理想と思う拳を実現しようとするには、ヒトの身体は不十分で整っていない。
だから整えるために禅を組む。
肩や腰を整える、各関節の落ち着きどころを探す。
探すから少し動く、わずかに動きながら探す。
これが前回の回答でした。

大きな意味では不具合を調整する、と言う事です。
しかしここではちょっと違う方向から見てみましょう。
禅の目的はひとつではありません。
「静の中に動を探る」ということがあります。
禅を組んでいて動こうとします。
前に行こうとしてやめます、後ろに動こうとしてやめます。
行こうとするのも戻ろうとするのも気持ちです。
その時、つまり気持ちが動こうとすると、それを止めようとする力を感じます。
だからやめるわけです。
その繰り返しが微動になります。

微動の原点は、この動こうとした時のそれを止めようとする力を感じるところから始まります。
つまり行こうとすると、戻そうという力を感じるのです。
前に行こうとして戻され後ろに下がろうとして押されるのです。
この微動が沢井先生の言われた独楽のような力かもしれません。
動こうとして準備ができるとそれを静止しようとする力を感じる、
で、別の方向に動こうとしてやめる、これを気持ちの速さで行う。

上下前後左右を意拳では六面といいます。
六面にこの微動を感じていれば動こうとした時にすぐに動き出せます。
何故なら動く準備ができているからです。
つまり上下前後左右に動く準備をしているのと同じだからです。
動けば時間が掛りますが、準備なら時間が掛りません。
普通は動こうとして準備して動きます。
ところが準備ができていればいつでもすぐに動き出せる、と言うわけです。
微動というのは動こうとして止められるからわずかな動きになるのです。

さて、此処で大事なのは止めようとする力とは何か、と言う事です。
動こうとするときにそれを止めようとする力。
動こうとする力は即ち運動エネルギーです。
正の方向に物が動こうとすれば、負の方向にも力が生まれます。
遠心力があれば求心力が生まれるのと同じです。
動くとするのを止めようとする位置エネルギーです。
それを感じる感性がヒトの身体に埋め込まれているということです。
それを六面に感じられるということはつまり、身体の軸がどの方向にもまとまっている、と言う事です。

どの方向にも身体がまとまっていて位置エネルギーを感じられる。
と言うことは、それが動いたときには大きな力が発生する、と言う事です。
位置エネルギーとは質量であり、質量が移動する距離と時間の関係が力ですから。
つまり、動きの速さと力を生み出す元が微動、と言う事です。
立禅の中のもうひとつの動的な部分が微動と言うわけです。
もちろん別の角度から見れば、他にも書きようがあると思いますが、とりあえずはこれをもって答えとさせてください。

太気会 天野

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立禅における腕の微動

Q:
初めてメール致します。私は、先生の『太気拳の扉』と『太気拳完全戦闘理論』をもとに独学している者です。難しいものを明晰な理論で説明されていることに驚いています。その中で生じた疑問が一つあるのですが。

DVDの中で先生やお弟子さん達は、立禅の際わずかに手を動かしているように見えます。これはなぜでしょうか?
また、動かすことがよい効果を上げるのであれば、どのような方法で動かすのがよいのでしょうか。
先生のDVDにもご本にも、立禅の最初に少し前後、もしくは左右に体を揺するというような記述がある他は、手を動かすことに関する解説がない(私の読み方が不足しているのかもしれません)ように思われるのですが、是非お教え頂けたらと思います。

A:
独学で太気拳の稽古をしているとの事。
大変だと思いますが、がんばってください。
きっと何時かやっていてよかったという日が来ると思います。

さて、腕の動きについて。
これは別にわざと動かしているわけではありません。
ジッと立っていると、肩や肘、あるいは手指と色々なところの関節の不具合が感じられてくるものです。
それを少しずつ動かしながら調整します。
ですから、このように動く、とかいうものはありません。
要は自分の各部分の不都合な部分を探し、具合の好い様に変えていく、という作業です。

禅はジッと立つといっても、ただ立てばいいものではなく、こういった身体の調整を不断に続けていく稽古です。
だから決して動いてはいけない、と言うものではありません。
ジッとしていて、具合の悪いところを探る稽古でもあるわけです。
特に肩や股関節は可動角度が広いかわりに、きっちりと収めるのがなかなか厄介な部分です。
だから結構もぞもぞ動かして居心地のいい具合を探ることがよくあるのです。
日常生活では、怪我などしない限り、身体の収まり具合など気にもしないと思いますが、武術ではとても重要です。
普通の人は自分の身体がきちっと収まっていないのに気がついていません。
それが禅を組むことで、顕在化してくるのです。
それを少しずつ直して身体をまとめていくのが第一歩であり、目標でもあります。
なんと言っても身体がまとまらなければ、拳法にはなりませんから。

禅を組むのは、自分の身体を探ることです。
自分の身体と正面から向かい合って、身体を知って初めて人と向かい合って相手のことがわかるようになるのです。
一人で稽古するのは大変だと思いますが、何かあればまたメールを頂ければ、と思います。
がんばってください。

太気会 天野

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意拳の這と太氣拳の這

Q:
意拳や太気拳に興味を持って天野先生の太気拳の扉も読ませてもらいました。そこで素人の質問で申し訳ないのですが質問があります。それは太気拳の這は腰を低くして行い、意拳の這は腰を高くして行うと言うことなんですが佐藤嘉道先生の拳聖澤井健一先生の中で這は組手の時に必要な柔軟な足腰にするために重心を低くして行わなければならないと言う事なんですが、これを考えると意拳の這は問題があると思ってしまうのですが、どうなんでしょうか?
腰が高い這でも太気拳と同じような効果は得られているのでしょうか??

A:
さて、なかなか簡単には答えられない質問です。
太気拳も意拳も源は同じですから練習の格好も同じはず、がどうもそうではないぞ、というのが大方の感じ方かと思います。
特に立禅や這い等は太気拳が低く意拳は高めではないか、という印象があると思います。
この違いはどこから来たのかは私はわかりません。文革とかいろいろな原因はあると思いますが、それを調べるのは私の任ではありません。

ただ、言える事は腰は低くも、また高くも柔軟に動かなくてはならないこと。低いだけではなく、高低の変化がなければならないと言うことです。いくら腰が低くても低いだけでは不十分です。
確かに腰の高い這いばかりでは、柔軟な動きを引き出せるはずはありません。
太気拳のみではなく意拳にも腰を落としての練習は多くあります。
重心を落とし、足ではなく腰で這えるようにするのが大事だと思います。
また腰が低ければいいというものでもないと思います。自分にあった、あるいはしっくりと来るところを見つけるのも練習からです、そしてそれは意外と低いものです。

あせらず、自分を育てるつもりで練習してみてください。

太気会 天野

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我流の立禅は危険か

Q:
小生ささやかに剣道教室をつづけているものです。立禅をはじめたいのですが、危険だから我流でやるの反対だといわれました。禅病に落ちるとのことです。
ご意見を賜りたいのですが。また、よい指導書があればおしえてください。

A:
立禅に関してのご質問ですが、我流でいいのかということ。

立禅は正直に言って我流しかありません。
私の立禅も我流といえば我流。
確かに先生に概略は教えて貰いましたが、そこから得たものは自分でつかみ出したものばかりです。
教えられるものがあるとしても、それは形ときっかけだけです。
立っていて何となく何かになるのではなく、これでいいのか、これでいいのかという疑問の末です。
立禅はどう組めばいいのか、と言う疑問に正解は無いと思います。
疑問の積み重ねがいつか何かを生み出していくのです。

よっぽどの馬鹿げた思い込み(立禅を組んでいると突然悟りが開けるとか)が無ければ、危険なんてこれぽっちもありません。
禅病というのは、思い込みでこうなって欲しいという事にからめとられているだけです。
虚心坦懐、ただ立ってみてください。
その時初めてどう立てばいいのか、疑問が湧いてきます。
その疑問と向き合うことが立禅です。

それからよい指導書は、との事。
これはまあ、私の本でも読んで入門書としてください。
とにかく、立禅は組んでみるところからしか始まりません。

しばらく組んでみて、どうしても聞いてみたい、という事が出てきたらまたメールをいただければ、と思います。

太気会 天野

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這の体重移動と骨盤

Q:
はじめまして。私は先生の挑戦講座のビデオを見ながら独学でして いる学生です。

質問なのですが、這いを行っているときに、後ろ足を引き付ける時は後ろ足側の骨盤を上げるつもりでやっているのですが、前に足を出して、体重移動 の際に前側の骨盤をあげることによって後ろ足で地面を蹴る(踏む)感じで体を前に送るようにして体重を前足に乗せたほうがいいのか、後ろ足の骨盤を上げて体を前に沈み込む(すでに前足は地面についているけど、前足で踏み込む感じ)ようにして体重を前足に乗せたほうがいいのか、どちらがいいのでしょうか。
文章がわかりにくい と思いますが、これが理解できないと先に進めない気がしますのでご返答お待ちして おります。

A:
>> 後ろ足を引き付ける時は後ろ足側の骨盤を上げるつもりでやっているのですが

前足に重心が移っているのならそれで良いと思います。

>> 前に足を出して、体重移動の際に前側の骨盤をあげることによって後ろ足で
>> 地面を蹴る(踏む)感じで体を前に送るようにして体重を前足に乗せたほうが
>> いいのか

それで良いと思います。
どちらにしても骨盤はシーソーのようなものですが、意識は引き上げるような感じのほうが良いようです。
引き上げる力で踏み込む力を引き出すようにしないと、身体が浮いてしまいます。

>> 後ろ足の骨盤を上げて
後ろ足の骨盤を上げるように意識するのは、後退する時です。

>> 理解できないと先に進めない気がしますのでご返答お待ちしております。
大切な事は悩む事、そして正解がないことを知る事です。
試行錯誤が成長の糧です。
理解できなくても先に進めないと思っても、悩んでいればいつか伸びていくものです。

頑張ってください。

太気会 天野

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上下の力の感じ方

Q:
こんにちは。先生のビデオを見て立禅をはじめた学生です。
質問なのですが、上下の力を感じるとき(体を沈めこむとき)に、おヘソの下あたりに力を入れると、体が沈み込めて、背中が広がるような気がするのですが、まちがいでしょうか。
もしよろしければ、上下の力の感じ方、正しいやり方などあれば教えていただけないでしょうか。
よろしくおねがいします。

A:
さて困りました。
上下の力の正しい感じ方、と言う質問。

こういった質問をする気持は非常によく分かります。
正しい方法、正しい形、正しい力の出し方ーーー。
私自身こういった疑問を実に何回も考えて来ました。
正しい立禅はどういうものか、半禅は、練りは、推手は、、組手は。
これでいいのか、これでいいのか、この繰り返しで時が経ってきた気がします。
でもそれを繰り返しているうちに、いつの間にか少しづつ方向が定まって来たのでした。

武術をやっていて正しいと言うことはあるんだろうか、と私はいつも考えます。
より良い、と言うことはあります。
しかし、正しいということは無いのでは、と思います。
いやむしろそれを探そうと必死になって努力し続ける事が武術の修行だと思います。
もし、これが正しいんだ、と言う先生が居たら会ってみたいものです。
きっとその人はもう武術を終っているんだと思います。

また逆に、これは明確に違う、と言う詐欺のようなものもあります。
それを初学者が見極めるのは難しいのかもしれません。
先生の言っている事とやっている事が一致しているかどうかを見極めるように注意してください。

さて、あなたがこれで良いんだろうか、と自分の感覚に疑問を持ち始めたこと、これはとても大事なことです。
これこそが武術の「入り口」に辿り着いた事の証明です。
多くの人はその疑問も持たずに形ばかりを求めます。
形にのみ気を使って、自分の内部の感覚に無頓着です。
これではどんなに練習しても何にもなりません、ただ練習がうまくなるだけです。

残念ながら今回の質問に明確に答えることはできません。
しかし、立禅の姿を見れば、その感じているところは大体見て取れます。
一度立禅をやっている所を見れば、幾らでも助言できるのですが。
ただ、上下の力に限らずですが、力は感じていれば良いので、力んで力を入れることは避けた方が良いでしょう。
メールからの印象では、がんばって独習しているようです。
多分それほどずれた練習はしていないと思います。

稽古をしていると「こんな感じでいいのかな」と言うのが感じられてきます。
そしてまたしばらくすると「これで良いんだろうか」と言う疑問がでてきます。
この繰り返しがあなたを少しづつ変えて行くのです。

私もこの繰り返しです。
今もその試行錯誤を繰り返しています。
トライ&エラーの連続。
トライをできる人間で居続けたいものです。
そしてエラーから学べる人間で居たいものです。

太気会 天野