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メールQ&A 天野敏のテクスト

立禅以外の練習もすべきか

Q:
天野先生、初めてメールさせて頂きます。
私は、福岡の博多でカラテをやっております、33歳の男です。
天野先生や太気拳の先生方のビデオや著書を拝見させて頂き、立禅を2年半程続けております。
最近では、出来るだけ踵を上げて30分程、出来る様になりました。
以前では恥ずかしながら、キレ易い性格というか、気に入らない事があると物に当たる癖があったのですが、最近では仕事でもカラテでも落ち着いて対処出来る様になり、立禅に出会えた事、太気拳に出会えた事に感謝しております。
さて、質問なんですが技という物は、太気拳において、『立禅』『這い』『練り』等…全ての要素が一つになった物だと読んだ事があり、そう解釈しました…
と言いつつ、立禅しかやれて無いのが現状である私が聞ける立場では無いのですが、組手においてカウンターを稽古するには、やはり全ての事をやった方が良いのでしょうか?
ぶしつけな質問で申し訳ありませんがヒントを頂きたいと思いメールを書きました。
どうか宜しくお願いします。

A:
立禅と言うのは不思議なものだな、と思います。
何かをやって何かがわかる、というのは判る気がします。
ところが、何もやらずにいることでわかることがある、というのが立禅。
のんびり立っていることで、身体の方が教えてくれるような気がします。
焦りは無用。
焦って判ろうとしても、何をわかればいいのかが判らないものです。
だから、身体がいつか教えてくれるまでのんびり立つしかないんです。
そんな立禅がひょっとすると切れやすい?せいかくをかえつつあるのかもしれませんね。

さて、稽古に関してですが、これはもちろん立禅だけでなくほかの稽古も必要です。
立禅は静的なところで様々なことに気付かせてくれます。
それはじっと立っているから身体も安定し、気持ちも安定しているからです。
言ってみれば静的だからこそ感じられることです。
そして武術として大事な事は、動いてもそのいい状態を失わない、と言うことです。
最初は静的なところでしか保てなかったものを動きながらも失わずにいられるようになること。
そして次には対人というストレスの中でも保ち続けること。
そうなって初めて立禅が武術に活きはじめるのだと思います。
特にカウンターがどうと言う訳ではなく、どのように動いても身体が安定していれば、想うとおりに動けるものだと思います。
言ってみれば、立禅はそれぞれのレベルでの理想的な状態。
その理想を、動いてもあるいは対人練習でも失わない事。
だから立禅のみでなく、他の稽古もやってみてください。
2年半続けているとの事、きっとこれから新しいことがいっぱい見えてくると想います。

がんばってください。

何時の日か、一緒に稽古できると良いですね。

太気会 天野

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大腰筋を鍛える練習とは

Q:
天野先生の著作「太気拳の扉」の中で能楽師の安田登氏と対談をされていましたが、その中で天野先生の動きは大腰筋が使われている。とありましたが太気拳の練習方法の中で大腰筋を鍛える練習はどれになるのでしょうか?? 個人的には立禅、這いの練習で大腰筋が使われる様になるのではないかと思っているのですが。
A:
メール拝見しました。 最近大腰筋とか深層筋とかそう言った形で武術を理解しようと言う人が多いようです。しかし、そのような方法で理解しようとするとますます武術から遠ざかってしまうと思います。 何故と言って武術は理解ではないからです。もし理解と言う言葉が出てくるとすれば、それはなにものかを自分の中に作り上げた時に初めて出てくるものだと思います。ただし、その時も決して部分ではなく自分という存在の把握と言う感じだと思います。部分の筋肉をどう使う、等ではなく身体全体をどのようにして一つにしていくか、という事が先ず一番の基本にあるからです。 質問にある大腰筋に関してもそうです。大腰筋はどの稽古でも必要です。いや、稽古の時に使わない筋肉などはないでしょう。この稽古でここを鍛えてなどと言うものではありません。全てを満遍なく使うという事が身体全体を使うという事ですから。日常生活で人は十分に身体を調和させて使う事が出来ないのが普通です。だから質問のように部分をどう使うか、と言う疑問が出てくるのだと思います。しかし、太気拳の稽古はそう言った普通から脱却するためのものです。何故と言って、普通の感性からは普通の強さしか出てこないからです。多分ある程度太気をやった人間は部分をどうするかと言った発想はなくなっていると思います。部分にこだわるのではなく、身体全体を大きな一つのものとして把握することを要求されているのが太気拳だからです。

太気会 天野

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練と防御

Q:
前に太気拳と意拳の這いの違いについて質問したものです。この前は分かりやすい回答有り難うございました。
今回も質問があるのですが、お願い致します。それは「練り」についてなんですが、練りによって攻撃や防御が自由に出来ると言う事ですが、それは練りと言った普遍的な動作の中に武術的な動作が含まれている事から、それによって防御しようと体が動いた時には、例えば今まで習ったことの無い防御方法でも自然に武術的な動作が出来ており対処できている、と言う事で間違い無いのでしょうか?単純な質問で申し訳ありません。

A:
練りについての質問ですが、まあ練りに限らずいろいろな意味があると思いますので、一つの見方という事で答えてみたいと思います。

まず、練の一番大事な部分に身体をまとめると言うことがあります。
身体をまとめるという意味がある、と言うことはその前提にみんな身体がまとまっていないと言う認識があります。
実はこれはとても大事なことです。
みんな自分の体がまとまっていないと言う認識がないからです。
太気会に新しい人が入ってくる時、まず自分の身体がまとまっていないということに気がついてもらうことが一番大事だと思っています。
そこから全てが始まります。
歩くと言うことも含めて身体がばらばらなのが普通です。
そこで練りを通じてまとまりのあるからだの動きを作っていくわけです。
つまり動いていく時の「動力定型」とも言うべきものです。
言ってみれば、身体の動きの手順整備とも言うべきものです。
上半身と下半身の協調は言うに及ばず、右手と左手あるいは右足と左足といったものさえ十分でなのが普通です。
それを練りを通じて整備していくわけです。
体がまとまるということは動きがスムースにいくということも含め、動きの中に力があると言うことです。
これができれば、速さは別にして動けば技になるものです。
いろいろな武術の型を見たりすることもありますが、還元すれば太気拳の練りに大体収まってしまう気がします。
動きの質を変えていくと言う作業が練りの一番大事な部分です。

練りの動きが身についてきたら、次に必要なことはその動きに意味を与えてやることです。
それは推手や組み手で発見することもあるし、私が教えることもあります。
そのように意味を与えられた動きが、「技」と一般に言われているものになるわけです。
与えられる意味はそれが必要とされる状況によって違ってきます。
だから時には拳法に、また時には剣に、あるいは武術の枠組みを離れて、様々なスポーツにも生きていくものだと思います。
私も運動好きで、いろいろなスポーツをやってきましたが「もし昔から太気拳を知っていたら、もっとスポーツが上手くなったのに」と思うことがあります。

質問の中に「防御方法」と言う言葉がありますが、どんな方法もその前提になる身体のまとまりがなければ、やはりそれは「絵に描いた餅」になってしまうのでは、と思います。
あせらず、じっくりと自分の動きを作り出すことができるようにがんばってください。

太気会 天野

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立禅で気持よくなる

Q:
先日は、大変わかりやすい、そして明確なご回答を頂きまして、ありがとうございます。
「両手が繋がって感じられたら、それを引き伸ばしたり捻ったりして身体のほかの部分との関係を探るのです。是非いろいろ工夫してみてください。」という先生のお言葉をもとに立禅中に、両手を左右や斜めに引き伸ばしたりしてみました。手と手はゴムを引き伸ばすような感触があるのですが、同時に膝も腕と同じように動きます。
練りの動作と共通するものを感じました。

ところで、最近立禅を長くしていると、最初は足が痛かったり腕の付け根が痛かったりするのですが、時々気持ちがいいというか、そのような気分になり、立禅を終えた後、すっきりした気分になることがあります。これも、一般的なことなのでしょうか。

A:
メールから一生懸命に稽古している感じが伝わってきます。
メールでは言葉だけでしか使うことができませんが、それでも稽古で感触が変わってきているのが伝わってきて、とてもうれしいと思います。

さて、「腕の動きにつれて膝が動く」とありますが、その通りです。腕が動けば膝が動きます。
勿論膝だけでなくほかのところも動きたがります。
それが身体の繋がり、と言うものです。
身体全部がそれぞれに関連を持って動く。
どこも単独に動くのではなく、身体全体が一つの動きに呼応していく。
太気拳の動きはそういうものだと思います。
それが進んでいけば、気持ちが動けば身体が動き、身体が動けば気持ちが動く、と言うふうになるものです。
ますますがんばってください。

それから立禅のあとにすっきりとした気持ちになる、とありますが、そうです、その通りだと思います。
禅を組んでいる時は足が痛かったり、腕が痛かったりすることもありますが、それを乗り越えると実にすっきりとした気持ちになるものです。
禅の楽しみでもあります。
武術の稽古、と言うだけでなく、楽しみとしての立禅も良いと思います。

太気会 天野

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立禅における偏差で統合失調症になるのか

Q:
HPをありがたく拝見させていただきました。ありがとうございます。
ここで質問なのですが。
立禅をすると偏差が危険だと伺いましたが。立禅のやり方を間違えますと。統合失調症になってしまうものなのですか?出来ればお返事おいただけると光栄です。

A:
メール拝見しました。
ええ、どういう風に答えていいのか戸惑います。
偏差が出る、とはどういう意味か解りません。
また、統合失調症になる、と言うことも聞いたことがありません。
たぶん、こういう事を言った人は立禅を何か神秘じみたことにしておきたい人でしょう。
禅を神秘化することで、それをやっている自分を権威じみたものにしていく。
何かとても貧しい発想です。

禅は自分と向かい合う一つの方法です。
自分自身と向かい合うことで、統合失調症になったり、おかしくなるなんて言うことがあるんでしょうか。
自分と向かい合うことができないほうが不健康なのでは、と思います。

心配しないで、じっくりと立禅を組んでください。

太気会 天野

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立禅における手の感覚、雑念、意念の必要性

Q:
久しぶりにメールします。以前も私の疑問に丁寧に答えていただき、今も一日15分は立禅、その後這いや練りを15分くらいずつを毎日続けております。最近、立禅の際、手と手のもわーとしたものでつながったような感触があることがあります。これも,先生がHPで以前ご説明されていた「神経が別のつながり方をするように」なり始めたということなのでしょうか。

また、長く立っていると雑念のようなものがいろいろ起こります。これではいけないのだろうけれども、意識はどういう状態がいいのだろうと思いいろいろな本を読んでみました。意拳では、様々なイメージを持つことが大切だと書かれたものがありました。一方で、韓氏意拳では意念を用いない、その形で立つまでの過程が大切と書いたものもあり、さらには気を回す感覚(周天)が大切、と書いたものもあり、結局わからなくなりました。

意念はやはり必要なのでしょうか? それとも「禅」という名のままに無念無想を目指すべきなのでしょうか? また、立禅→這い、練り→組み手と発展していく中で、意識というものはどのような状態であることが大切なのでしょうか。
お時間のおありの時に、お教え頂けないでしょうか。

A:
ご無沙汰しています。
立禅などがんばっているようですね。

>手と手のもわーとしたものでつながったような感触が

とありますが、だんだんそうなってくるものです。
身体のまとまりが出来てきつつある、と言うことだと思います。
意拳等で、意念などを言いますが、それは繋がりをつけるための補助的なものということで考えていいと思います。
太気拳でも、沢井先生から「樹を抱くように」と言われましたが、身体が繋がってくると本当に樹を抱いているような感じになってきます。
「樹を抱くように」禅を組む、ではなく、禅を組んでいるとそのうち「樹を抱くよう」な感じになってくる、と言うことだと思います。
意念というのはそのような誘導に過ぎません。
一般的には「意念」の言葉が独り歩きしているようです。
だから身体が繋がり、また形が整ってきたら結果的ににそういった感じになる、と理解していいと思います。
また、つながりが感じられてきたら、今度はそのつながりを弄ぶようにしてみるとまた別のつながりも見えてきます。
両手が繋がって感じられたら、それを引き伸ばしたり捻ったりして身体のほかの部分との関係を探るのです。
是非いろいろ工夫してみてください。

>また,長く立っていると雑念のようなものがいろいろ

雑念は人の証拠、無念無想などは言葉の上のことです。
人は生きている限り「無」にはなれません。
何故なら、他との関係を探って生きていくのが生き物だからです。
無になってしまったら、世界との関係が切れてしまします。
逆に大事なのは、身体を緩めて身体全体の感覚器官を開くようにすること。
見て聞いて身体全体で気配を探るようにすることです。
無念無想と言う言葉から連想される「無くす」ではなく逆に「全て」です。
いってみれば全ての感覚器官を開くことで、はじめて「無」が出てくるのかもしれません。

>立禅→這い,練り→組み手と発展していく中で、意識というものはどのような状態であることが

意識は、上に書いたような感じを守ります。
禅の感覚を失わずに練り・這い・組手をやればいいだけです。
と言ってもこれがなかなかですが。
意識や体の状態を含めてどんな風にすればいいのか、を探すための立禅です。
だから立禅で見つかったものがあったら、それを失わずにどうすれば這いが出来るか。
またどうすればその感触を失わずに練りや対人練習が出来るか、です。
いって見れば、立禅はマスターモデルです。
禅を生かす、とはその感覚を失わずにいる工夫をすることです。
動くと感覚が逃げてしまいがちですが、それを如何に逃がさないかが稽古です。

稽古をしていると、判らない事が洪水のようにやってきます。
判らないことだらけです。
判らないことの面白さは、傍から見て訳知り顔の人間にはそれこそ判らない世界です。
もっともっと判らないことを探してください、そうして少しでも先に進んで行きましょう。

太気会 天野

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独学でも上達できるか

Q:
初めてメールさせて頂きます。私は、先生に太気拳の扉を読ませてもらい、独学で立禅と這をやっている者です。
それで日々、練習をするたびに独学でやっても立禅など上達できるのだろうか?などと考えています。
独学でやっても効果は表れるのでしょうか?お答え頂ければ幸いです、よろしくお願いします。

A:
メール拝見しました。

立禅や這いは、自分自身を探るためのものです。
あるいは探るための手がかりです。
禅や這いを通して自分の中にあるもうひとつのものを見つけていきます。
そういう意味では、私と一緒に稽古している弟子たちも、独習です。
立禅でも、こういう立ち方でいいんだろうか?這いの時はこれでいいんだろうか?と悩むものです。
悩まないものには答えは現れてきません。
そのときそのときに、答えは出てくるものです。
その積み重ねが稽古です。
立禅をやったことの無い人間は、立つことが難しいとすら思いません。
ですから疑問が出てきたら、それが進歩です。
疑問が無いところに前進はありません。

具体的に疑問が出てきたらまたメールいただければ、と思います。

太気会 天野

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内家拳では筋肉をつけてはいけないのか

Q:
はじめてメールさせて頂きます。
私は腹部の手術を受けた後、医者に腹筋を鍛えるようにいわれたのですが、内家拳では筋肉をつけてはいけないのは本当なのですか?
腹圧が下がってしまい 特に這いが大変辛いです。
太気拳を続けていきたいので天野老師のアドバイスをよろしくお願いします。

A:
お腹にメスを入れたとの事。
とても大変でしたね。

さて文中に
>内家拳では筋肉をつけてはいけないのでは・・・
とありますが、正直そんな話は聞いた事がありません。

なんと言っても人は骨格を筋肉・腱等を利用して動かす事で活動します。
だから同じ動きなら筋繊維や腱が強靭な方が良いに決まっています。
太気拳でもそうですが、稽古は結構きついものです(勿論、楽にやろうとすれば幾らでも出来ますが)。
身体が虚弱な人間は別にして、普通であれば稽古の中で必要な筋肉などをつけていくものです。
また、それが一番合理的で調和の取れる身体の育て方だとおもます。
ただ、もともと虚弱であればある程度の筋肉トレーニングは必要かもしれません。
また、質問にあるように手術の後などで、明確に筋肉が落ちているのであれば、ある程度の筋肉トレーニングは当然必要だと思います。
特に腹筋が落ちるという事は、腹筋だけでなく当然背筋等の体幹部を保持する力が落ちているわけですし、当然肺活量など基本的なものが落ちている可能性もあります。
太気拳では腹・腰の安定した力はとても重要です。
と言う事で、ある程度の筋肉トレーニングは必要だと思います。

ここからは蛇足ですが、質問にあった「筋肉をつけてはいけない」というような誤解は何処から来るのでしょう。
多分それは、練習のときに「身体を緩める事が大事だ」という事を素人考えで考え違いしているのだと思います。
身体をなぜ緩めるのか?・・・それは必要とされる一瞬に(打つであれ逃げるであれ)、身体全体を調和のうちに爆発的に緊張させるためです。
緩んでいるからこそ一瞬の緊張が引き出せるのです。
つまり爆発的な緊張の為にこそ緩めるのです。
緩んでいる状態から瞬間的なテンションの転換、それが変化であり、速度であり。力です。
爆発的な緊張とは、神経・筋肉を含めたものです。
当然その時には筋繊維が強いほうがいいのは言うまでもありません。
ただ、一般的に考えられるように、腕や胸・肩などを鍛えても特に爆発力が上がる、と言うものではありません。
重いものを持ち上げるのなら、これで良いのですが武術の力とはそう言うものではないからです。
これは一度体験してみればすぐ判ります。
という事であまり筋肉トレーニングは勧めないのです。
また多くの場合筋肉トレーニングは、身体全体の調和とは逆の方向を向き、部分を専門的に鍛えると言う事が多いからです。

ちょっと蛇足が長くなりましたが(だから蛇足ですけど)、そういう訳ですから、素人考えに惑わされず、補助的に身体を鍛えながら太気拳の稽古をがんばってください。

太気会 天野

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立禅における腕の微動2

Q:
昨日、立禅の際のわずかな手の動きについて質問し、早速のお返事を頂いた者です。あまりに早いお返事と明晰なご説明についわかったつもりになり、先ほど「わかりました」とメールしてしまいました。
が、もう一度立禅をしてみると、やはりわかっていないことに気が付きました。
たびたびのご質問、申し訳ございません。

天野先生からは:
さて、腕の動きについて。
これは別にわざと動かしているわけではありません。
ジッと立っていると、肩や肘、あるいは手指と色々なところの関節の不具合が感じられてくるものです。
それを少しずつ動かしながら調整します。
ですから、このように動く、とかいうものはありません。
要は自分の各部分の不都合な部分を探し、具合の好い様に変えていく、という作業です。

というお答えを頂きました。私は、剣道をしており、行き詰まりを感じる中で太気拳のことを知りました。何冊の本を元に毎日、30分程度の立禅と、這いや練りを合わせて30分くらい行うようにして3カ月ほどになります。しかし、わかりやすさという点でも、先生の『太気拳の扉』と『太気拳完全戦闘理論』は素晴らしいですので、疑問が出たらそこからヒントを得るようにしております。

先生のHPを拝見すると、Q&Aの中で、腕に張りが出たり、ゴムのボールをはさんでいるように感じるというのは、関節の不具合が調整されてきたから、というご説明があったように記憶しております。このような感覚は、しばらく前から私も感じることがあります。最近は、練りをしていると腕が重く感じることもあり、『秘伝』の先生の記事を見て、「水飴のような感覚」のお話とかさなるのかな、と思いました。
それでも、やはり、この不具合の調整ということが難しいのですが、調整がうまくいき始めた時の感覚には他にどのようなものがあるのかをお教え頂けないでしょうか。

また、今、何冊かの本を見てみると、意拳では「微動する」というような記述があります(佐藤聖二先生の文章でも拝見しました)。これは,上下,左右,前後に微動するとのことなのですが、この目的はやはり不具合を調整することなのでしょうか。

お時間がおありの時で結構ですので、お答えを頂けませんでしょうか。

A:
○『調整がうまくいき始めた時の感覚には他にどのようなものがあるのか?』

うまく説明できませんが、腕が肩からぶら下がっているような感じ、とでも言えるかも知れません。
これで良い、と言うものではありませんから難しいですね。
ただ、ある程度整ってくると、見てすぐにわかります。
同じ様に立っているように見えても、内容のある立禅と、まとまる前のものとは全然違います。

○『上下,左右,前後に微動するとのことなのですが,この目的はやはり不具合を調整することなのでしょうか?』

微動、これは実に難しい質問です。色々な角度から考えることができます。
一番根本的なことから言うと、立禅は何のために組むか、という問いになります。
立禅を組むのは、ヒトの身体は普通の状態では整っていないものだ、という前提があるからです。
もちろんそんなことは無い、という人もいると思います。
それはそれでいいと思います。
しかし、私の理想と思う拳を実現しようとするには、ヒトの身体は不十分で整っていない。
だから整えるために禅を組む。
肩や腰を整える、各関節の落ち着きどころを探す。
探すから少し動く、わずかに動きながら探す。
これが前回の回答でした。

大きな意味では不具合を調整する、と言う事です。
しかしここではちょっと違う方向から見てみましょう。
禅の目的はひとつではありません。
「静の中に動を探る」ということがあります。
禅を組んでいて動こうとします。
前に行こうとしてやめます、後ろに動こうとしてやめます。
行こうとするのも戻ろうとするのも気持ちです。
その時、つまり気持ちが動こうとすると、それを止めようとする力を感じます。
だからやめるわけです。
その繰り返しが微動になります。

微動の原点は、この動こうとした時のそれを止めようとする力を感じるところから始まります。
つまり行こうとすると、戻そうという力を感じるのです。
前に行こうとして戻され後ろに下がろうとして押されるのです。
この微動が沢井先生の言われた独楽のような力かもしれません。
動こうとして準備ができるとそれを静止しようとする力を感じる、
で、別の方向に動こうとしてやめる、これを気持ちの速さで行う。

上下前後左右を意拳では六面といいます。
六面にこの微動を感じていれば動こうとした時にすぐに動き出せます。
何故なら動く準備ができているからです。
つまり上下前後左右に動く準備をしているのと同じだからです。
動けば時間が掛りますが、準備なら時間が掛りません。
普通は動こうとして準備して動きます。
ところが準備ができていればいつでもすぐに動き出せる、と言うわけです。
微動というのは動こうとして止められるからわずかな動きになるのです。

さて、此処で大事なのは止めようとする力とは何か、と言う事です。
動こうとするときにそれを止めようとする力。
動こうとする力は即ち運動エネルギーです。
正の方向に物が動こうとすれば、負の方向にも力が生まれます。
遠心力があれば求心力が生まれるのと同じです。
動くとするのを止めようとする位置エネルギーです。
それを感じる感性がヒトの身体に埋め込まれているということです。
それを六面に感じられるということはつまり、身体の軸がどの方向にもまとまっている、と言う事です。

どの方向にも身体がまとまっていて位置エネルギーを感じられる。
と言うことは、それが動いたときには大きな力が発生する、と言う事です。
位置エネルギーとは質量であり、質量が移動する距離と時間の関係が力ですから。
つまり、動きの速さと力を生み出す元が微動、と言う事です。
立禅の中のもうひとつの動的な部分が微動と言うわけです。
もちろん別の角度から見れば、他にも書きようがあると思いますが、とりあえずはこれをもって答えとさせてください。

太気会 天野

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立禅における腕の微動

Q:
初めてメール致します。私は、先生の『太気拳の扉』と『太気拳完全戦闘理論』をもとに独学している者です。難しいものを明晰な理論で説明されていることに驚いています。その中で生じた疑問が一つあるのですが。

DVDの中で先生やお弟子さん達は、立禅の際わずかに手を動かしているように見えます。これはなぜでしょうか?
また、動かすことがよい効果を上げるのであれば、どのような方法で動かすのがよいのでしょうか。
先生のDVDにもご本にも、立禅の最初に少し前後、もしくは左右に体を揺するというような記述がある他は、手を動かすことに関する解説がない(私の読み方が不足しているのかもしれません)ように思われるのですが、是非お教え頂けたらと思います。

A:
独学で太気拳の稽古をしているとの事。
大変だと思いますが、がんばってください。
きっと何時かやっていてよかったという日が来ると思います。

さて、腕の動きについて。
これは別にわざと動かしているわけではありません。
ジッと立っていると、肩や肘、あるいは手指と色々なところの関節の不具合が感じられてくるものです。
それを少しずつ動かしながら調整します。
ですから、このように動く、とかいうものはありません。
要は自分の各部分の不都合な部分を探し、具合の好い様に変えていく、という作業です。

禅はジッと立つといっても、ただ立てばいいものではなく、こういった身体の調整を不断に続けていく稽古です。
だから決して動いてはいけない、と言うものではありません。
ジッとしていて、具合の悪いところを探る稽古でもあるわけです。
特に肩や股関節は可動角度が広いかわりに、きっちりと収めるのがなかなか厄介な部分です。
だから結構もぞもぞ動かして居心地のいい具合を探ることがよくあるのです。
日常生活では、怪我などしない限り、身体の収まり具合など気にもしないと思いますが、武術ではとても重要です。
普通の人は自分の身体がきちっと収まっていないのに気がついていません。
それが禅を組むことで、顕在化してくるのです。
それを少しずつ直して身体をまとめていくのが第一歩であり、目標でもあります。
なんと言っても身体がまとまらなければ、拳法にはなりませんから。

禅を組むのは、自分の身体を探ることです。
自分の身体と正面から向かい合って、身体を知って初めて人と向かい合って相手のことがわかるようになるのです。
一人で稽古するのは大変だと思いますが、何かあればまたメールを頂ければ、と思います。
がんばってください。

太気会 天野