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2014年6月7月太気拳基礎講座予定

太気拳基礎講座(横浜)

2014年 基礎講座

6月22日(日)10時半~17時
7月27日(日)10時半~17時

※時間は昼食休憩一時間半を含む

場所:横浜市内
費用:一般10,000円、会友員5,000円

お申込みはこちらから

5月の基礎講座動画(発力と発勁)

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会員・会友員のテクスト 富川リュウの太気拳修行記

富川リュウの太気拳修行記 プロフィール

はじめに

 私は、富川リュウ(ハンドル名)と申します。30代の会社員(入会当時)で横浜市内に在住しています。天野 敏(さとし)先生の主宰する、太氣至誠拳法・太氣会へは平成12年の春に入会いたしました。  太氣会のホームページの開設にあたり、何か手記を――との依頼があり、入門当初の頃より書き溜めていたメモやノートを読み返して見ているうちに、自分でも書き記しておきたいことが色々と出てきてしまい、「入門当初のことにまで、さかのぼって書こう!」という思いに至りました。  この原稿の内容は主に、立禅、這い、歩法、推手、を中心に書き進めておりますが、後々、組手稽古の模様や先生や先輩方々のエピソード等も書き加えていきたいと考えています。

私の武歴

 武歴などというと少々おおげさですが、この原稿を書くにあたり、私という人間の経歴を知っておいていただいた方がよいと思いますので、概略程度に説明させていただきたいと思います。 子供の頃は体が弱く、いつも風邪をひいていました。運動神経も鈍かったようで、小学校の体育の授業で跳び箱が跳べるようになったのはクラスで一番最後の3人の中に入っていましたし、ソフトボール投げの飛距離はクラスの男子の中で最下位でした。この頃、あのブルース・リーのブームが起こり、素早いパンチやサイドキックなどにとっても魅了されていました。自分でヌンチャクを作って遊んだりもしていましたが、ひ弱な体質から、はなから無理と思い込んでいたのか、格闘技に対する思いはそれほど強くはなく、テレビでプロレスやキックボクシング等を観ることもほとんどありませんでした。 中学生になると、背がグッと伸び体力も少しずつですが、ついてきた様でバスケットボール部のボール拾い係として活躍していました。というのはずっと補欠だったからです。この頃からスポーツをやって汗を流すことは嫌いではなかったのですが、いかんせん何をやっても人よりも上達が遅いので、途中でイヤになってしまうことが多かったような記憶があります。 高校に入っても運動神経は開花せず、テニス部に入りましたが2年で辞めてしまいました。後輩達がどんどん上達して自分を追い越していくようになると、なんとなく居心地が悪いように感じていたのかもしれません。 上京して就職し、運動不足ぎみだったので20才の年からスイミングスクールへ入って、水泳を習い始めました。これが自分にはとっても合っていた様で、1年でかなり上達し、体重も増え、鈍かった運動神経もだんだんと繋がり始めたようでした。スイミングスクールへの登録は、入っている期間とそうでない期間もありましたが、プールへ行って泳ぐことは、しっかりと私の生活習慣の一部となって根づいていて、週に一度は泳いでいました。 29才で結婚しましたが、まだ週に一度の水泳の習慣は続いていました。そしてこの年の夏、昔から心のどこかで燻っていた思いから、格闘技を始めようと思い立ちました。 はじめは少林寺拳法を1年ほど、それから極真空手を2年、大道塾、骨法はともに1年未満、その後、キックボクシングを2年ほどやりました。また合気道やボクシングジムにも少しだけ行っていました。太氣会に入会する時点においての私の格闘技歴は、途中のブランクの期間を除くと、「6年と少々」といった所でしょうか。

太気拳入門のきっかけ

 30代も後半にさしかかると、スタミナが低下し、ケガの直りが遅くなり、疲労の回復にも時間がかかるようになってきて、空手やキックボクシングを続けていくのが、だんだんと辛くなってきました。そうなってくると不思議なもので、格闘技に対する情熱も冷めてきてしまい、しばらく何もやらなかった時期もありました。そんなとき中国拳法や古武道をあつかう雑誌を見て、年をとっても強くなれる世界を垣間見たような気がして、「これなら出来るかな」から「これからでももっと強く成れるかも知れない」という想いがつのり、その雑誌の後ろにあった道場ガイドに、天野 敏 先生の主宰する「横浜太気拳研究会(現・太氣至誠拳法・太氣会)」を見つけ、時間と場所が私の希望どうりでしたし、「武術班と健身班に分かれて云々・・」という記述があり、「はじめは健身班ということで入って、自分で出来そうだったら武術班へ移るということにすれば、最初からボコボコにされる事はないだろう」と考えて入門を決めました。

入門に際しての不安

 先に「入門を決めました」と書きましたが、実際には、そう決めるに至るまでに色々と不安な点もたくさんありました。立禅に代表される、一見、単調に見えてしまう練習体系、あとの練習は、這いや推手等々と書いてあっても、一体全体それがどういう練習で、どういう目的で行われるものなのかも、何も知識が無かったからです。また室内ではなく、公園での練習のため、夏は暑く、冬は寒い、という当然の事実。練習時間が午後2時から6時までととても長く「大丈夫かなぁ、俺にもできるかなぁ」と思ったこと。(ちなみに現在は2時から5時ということに改められています) という様に、数え上げればきりが無いほどの懸念点や不安材料が目白押しでした。それでも太気拳への入門を決心させたのは、私の心のどこかに「次はこれをやるんだ」「とにかくやってみよう」という何か不思議な確信めいたものがあったからです。

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会員・会友員のテクスト 石の上にも三年

石の上にも三年(会員N)

プロフィール

ペンネーム:N(エヌ)
年齢:42歳 
職業:公務員、現在は、研究職で鉛筆より重いものを持たない勤務をしている。あと2年位でまた、現場に戻ると思われる。その後、また研究職になると思われる。
住所:横須賀市在住、平成15年念願のマイホーム(マンション)を買う。
家族:妻、子2人、長女:中3(反抗期バリバリ)、長男:小5(極真空手少年部の緑帯4級)

1-太気拳に出会うまで(0~21歳)

昭和39年、石川県金沢に生まれる。生まれてからまもなく、父の都合で大阪、東京と転勤し、小学校1年の終わりから、 生まれ故郷の石川県の金沢で生活するようになった。東京からの転校生ということで、言葉使いが女のよう だと難癖を付けられ、小学校2年から小学校5年生までは、毎日のように喧嘩。今考えると、家庭に不満が あり、そのはけ口として喧嘩をしていたように感じる。同じ学年では負け知らずで、1学年上と喧嘩をしていた。

小学生から体格がよく、小学校5年の時には、実父に腕相撲で勝つ。
今思えば、化け物のようなものだったかもしれない。(小学生が力で父親に勝つとは驚愕であろう。もし、 今の息子が私に腕相撲で勝ったら度肝を抜かれると思う。) 小学校2年生の時から格闘技は好きで、映画では「ブルース・リー」、マンガでは、「タイガーマスク」、 「リングにかけろ」や「空手バカ一代」なんかを良く読んでいた。喧嘩ばかりしているため、小5からク ラスで村八にされ、それから本を読むようになる。(それまで、まともに教科書を朗読することができなか った。)最大一日3冊程度読むようになり、小学校6年の時は、単行本を読むようになった。ジャンルはS Fである。その急激な読書のため視力が一気に悪くなり、小学校5年の4月に1.0から小学校5年11月 に0.4まで視力が落ちてしまった。

勉強は、中2から本格的に実施したが、高校受験に間に合わず、志望校は桜散る。
高校では、運動は自分で走ったりするぐらいで、勉強ばかりしていたように記憶している。ただし、ゲーム センターのパンチ測定器をよく叩き、毎回最高記録を出して喜んでいたように記憶している。(記憶では、 最大165kgを出していたように思う。)

昭和58年4月(18歳)

大学に入学、学部は電気科、格闘技は、小学校からやりたかったが、危ないからと親が 許してくれず、ようやく憧れの格闘技ができることとなる。
大学の徒手格闘技は、柔道、レスリング、空手、少林寺及びボクシングとあった。柔道及びレスリングの 組技系は好きではなかった。空手及び少林寺は寸止めであったため、実際に当てることのできるボクシング 部に入部することとした。

練習は、月曜日~土曜日で毎日1時間半。練習内容は、体操3R、移動3R、縄跳び3R、シャドウ3R、 ミット又はサンドバック3R、マススパーリング2R×3ほどを日課としていた。大学時代の戦績は、12 戦8勝4敗、負けは全て判定負け、勝ち8勝のうち5KOだった。

1年の練習内容は最初の2ヶ月は、ずっと縄跳びを跳んでいた。
そして5月上旬~6月 左ジャブ及び右ストレートの練習をしていたように記憶してい る。

8月、最初の夏合宿、初めて本格的なスパーリングを行う。2年生から3年生までをボ コボコにしたように覚えている。大学は、上下関係が厳しく1年生は奴隷扱いとなって いた。ボクシング部に行けば、実力の世界であり、ここで日頃の不満を一気にぶつけて いたように思う。
11月 神奈川大学トーナメントに出場、1、2回戦勝ち、決勝トーナメントで昨年の 優勝大学のキャプテンと対戦し、判定負けとなる。

昭和59年4月(大学2年生)

モントリールオリンピックのボクシング監督をしたK氏が監督となる。この頃からボ クシングは、相手に殴られずに自分だけが殴るのが理想と考えるようになる。ボクシン グは、芸術だと考えるようになる。

この頃から、フック系統を練習するようになる。
練習では筋トレは、ほとんど行わず技術トレーニングがメインであった。右ストレートにおいては、 地面を蹴った力が腰にいき、最終的に手に乗る練習をした。イメージ的には、体をデンデン太鼓の 軸のようにし、手に力を入れず、腰の回転の接線上に腕が伸びていく練習をした。
また、ダブルボールと言って、上下にゴムの付いたボールを天井と床に固定し、それを移動しながら 打つ練習をしていた。

10月 神奈川大学トーナメントに参加する。記憶では1、2回戦目KO勝ち、決勝ト ーナメントで昨年負けた大学のキャプテンにまたもや負けてしまったように覚えている。
結局、そのキャプテンには最後までリベンジできなかった。

昭和60年5月(3年)

この頃からアッパーの練習を始める。大学1年でストレート、大学2年でフック、大学3年で アッパーと実に3年かけて、パンチを磨いてきたことになる。

9月 全日本選手権大会の神奈川予選に出場し、判定負けであった。
この時の負け方はひどく、今でも鮮明に覚えているが、相手のパンチが見えなかった。
見えなかったため、相手のパンチが自分に当たったと同時に自分のパンチを出し相手に当て (相手のパンチが当たるということは、自分のパンチも当たる間合いであるため。)最後まで何 とか根性で立っていたように感じる。相手のパンチに酔ってしまい終わってから便所に行って吐 いたように記憶している。
なお、この相手は、全日本第2位になったように記憶している。

この頃学園祭に友達と来た際に知り合った現在の妻と付き合いだす。
10月~11月 神奈川リーグに参加、3戦3勝2KOであった。この時のKO記録において 1R(ラウンド)28秒という記録があり、今でも破られていないと思う。

昭和61年4月~5月(大学4年生)

関東リーグに初めて出場する。私は体重が当時73kg程度あり、神奈川リーグは67 kgのウェルター級があったので、1年から出場していた。
しかし関東リーグは63kgのライトウェルター級までしかなかった。さすがに10kg以上の 減量はきつく、通常であれば、1週間で減量するところを約1ヶ月間かけておこなった。試合や 練習よりも減量の方が辛かったように覚えている。この関東リーグは1試合出たのみであったが 、2R(ラウンド)KO勝ち。監督から2週間後も試合にでるように言われたが、減量がイヤで 断ったように記憶している。

大学でのボクシングは、こんなところであり、1年生の入った時から強く、結構試合に出た方であった。
昭和62年3月(21歳)大学を卒業。
そして結婚する。

2-太気拳との出会い(27歳~39歳)

27歳の頃、少し腹ができてきたような気がして、格闘技を再開しようと考えた。ボクシングは、頭に衝撃を受けるので、生涯続けられそうな空手をやろうと考えた。どうせやるなら極真空手と思い支部に入門。 以後はずっと空手をやった。

平成8年9月(32歳)

オープントーナメント青森大会3位入賞、この時、K-1の小比類巻選手に勝ったこと を記憶している。小比類巻選手は当時19歳で、キックボクシングを始めたばかりであ った。極真青森の茶帯であり、上京から青森に帰ってきて優勝を狙っていたとのことで あった。この頃の私の組み手は、ボクシングスタイルに蹴りがある程度できるといった 感じのものであり、今のように両足を使って自由に動けるものではなかった。

平成10年2月~6月(33歳)

仕事のため川崎に。
ここで極真支部の出稽古に行った際、「立禅、這及び揺」といったことを習った。しかし、その形のみであって、それがどういう効果があり、どういう意識をもってやるのかは理解できなかった。「立禅、這及び揺」といった不思議な稽古法は、太気拳の稽古であることが分かり、以来、太気拳関連の本を読んだり、意拳の本を読んだりしたが、意味が理解できなかった。「練りもどき」や、「這もどき」をやってみたが、なんかしっくりいかず、直ぐに止めてしまった。以来、立禅を中核とするその不思議な稽古法には興味があり、本屋で太気や意拳関連の本を見かけたら買って読んだが、よく理解できなかった。

平成14年3月(37歳)

横須賀に異動、毎週土曜日は、出身大学のボクシング部に行き後輩の指導をしていた。
11月(38歳)全日本マスターズ(35歳~42歳の部)に参加、52名中ベスト8 となる。この時に負けた相手が優勝したが、体重が120kgもあり、この体重差から 来る圧力は何ともしようがなかった。

これまで、11年間の空手の総括は、まず、力をつけること、相手を上回る体格を付ける努力をしていた。いわゆるパワー空手というものであり、ベンチプレス100kg 1回は最低挙げ、体重を80kg以上(極真に入った時は、75kgで筋肉を5kg増やした。)という具合に、数字的に分かるものは、全て相手以上にし、それから技術 云々というふうに考えていた。

この頃、ある本屋において、たまたま、太気拳戦闘理論(ビデオ)を買った。その理論の明快さとビデオからにじみ出る先生の人柄にあこがれた。そのビデオを見る前まで 、立禅からどのような力が引き出せるのかわからず、武術的に何か効果があるという印象でしかなかった。太気拳戦闘理論のビデオで先生から明らかに常識では図れない力 が出ているのが感じられ非常に興奮したことを覚えている。先生に直接便りを出すことは、恐れおおくできなかったため、当時の横須賀支部代表のAさんにメールを出し、太 気会の練習日程等の確認をした。太気会は会友員としてのスタートだった。

平成15年の5月(38歳)

初めて太気会のセミナーに参加した。 このセミナーで「立禅」、「這」及び「練り」を教わる。「立禅」でも体の各部に力が入っていたり、「這」や「練り」においても、「立禅」の諸条件を守りながら動こう とすると直ぐに体のバランスを崩したりと他の練習生のようにスムーズに動くことができなかった。また、自分の動きが良いのか悪いのか自分で評価できなく、一人で練習 しても無駄だと悟り、セミナーの1週間後の6月(39歳)から正規に太気会の会員となった。
入会当初、太気会の横須賀支部があったため、毎週日曜日、ほぼ欠かさず練習に行った。

平成15年6月から9月までの3ヶ月は、這において、「まともに重心が左右の足に移っていない。」と先生からさんざん指導された。

先生からそのように言われたが、自分のどこが悪いかも自分で評価することはできなかった。やはり、できている人から見ないと、良いか悪いか評価できないと思う。自分 ができるようになって、初めて分かるものだ。それは、新入会員が先生から「這い」を教わり、歩く様を見ると、何処が悪いのか分かるところからも推察できる。
8月、最初の夏合宿で、先生から組手を促されたが、素手素面であり、這いすらまともにできないので、とてもじゃないけど組手はできないと思い断った。その後、先輩方 の素手素面の組手は、迫力があり、組手をやらなくて良かったなあと胸をなで下ろした。

実は、平成15年の2月、太気会に入る4ヶ月前に、私は、近視の矯正手術(レーシック)をしたため、目に衝撃を与えることのできない体になってしまった。手術した 当時、まさか素手素面で組手をするなんて考えておらず、極真空手は、顔面がないから大丈夫であろうと考えての手術であった。 太気会での組手において、自分の目を守るため、ヘッドギヤーとグローブを付けて組手をするしかなかった。他の会員は、素手素面で組手をするに関わらず、私は身体上の 都合から、ヘッドギヤーとグローブで組手をやらしていただいている。私は、そのことに対して、少し心苦しいのであるが、先生と他の会員の了解のもと、太気会の交流会 等に参加させてもらっている。

その年の6月から9月、先生からの指導で2つほど印象に残った事象がある。

1つは、先生の発力である。先生の発力で私は、5mほど木の葉のように吹き飛ばされたことを覚えている。
もう1つは、先生が立禅を組む形にして、私に「腕を押して見みろ。」と言って力一杯押しても動かなかった。先生が、「小鳥が止まっているようなもの。」と言ったこ とが印象に残っている。

そして9月中旬、横浜の元住吉の稽古で練りを行った際、「やっと、歩けるようになったな。今日は記念すべき日だ。今日のことを一生忘れるなよ!」と先生に言われた ことを覚えている。

また11月中旬頃、先生から「腕がはまってきたみたいだなあ。」と言って腕を押された時、自分も全く力を入れないで立禅の形の腕のままでいられ、まるで「小鳥が止 まっているようなもの。」ということを実感することができた。太気会に入って半年、初めて自分は変わったというのを実感できた時であった。 腕がはまってきたので、11月中旬から推手が始まった。推手を最初見たときは、ただ、手を回して踊っているようにしか見えなかった。手を軽く回しているように感じ た。(実際に腕に力を入れないようにして回すため、力が見えない。)しかし、初めての推手で受けた圧力は、相手が真剣に力一杯押しているような感覚があった。 最初は、先生や先輩からの圧力で、毎回腰が痛くなった。この推手が終わった後の腰の痛さは約半年続いた。

そして12月、初めて太気の組手に参加する。初めてということもあり、初心者同士で組手をした。この時の組手は、ボクシングの延長みたいものであり、左半身の構え が固定しており、ただ相手の攻撃を避けるだけに終始していたように思う。

平成16年

1月、今年の太気の目標を、「太気拳挑戦講座」(ビデオ)のある種の歩法ができることに決めた。その歩法は、片足で自分の重心を蹴って後進や横に移動するものであり、傍 目にはとても不思議に見える動きである。

2月、横須賀での組手練習が始まる。私だけの特別ルール(グローブ、私のみヘッドギヤー)でベテランのA氏、R氏及びH氏と組手を始める。ベテランは、明らかに手の 重みが違うことを実感する。この時の私は、組手をしたとき、直ぐに息が上がりゼロゼロ状態になってしまっていた。

3月(39歳)この頃、横須賀の練習場にミットを持って、打撃の練習等をしていた。私が軽く打っているのにミットを持った人から、「肋骨が折れるように重い。」と 聞き、立禅で腕がはまっているから、体の重みが相手に伝わるのかなあと感じたものでした。腕がはまった状態で殴るというのは、あたかも棍棒で人を殴ったのと同じ状 態であり、これは相手にかなりのダメージを与えると考える。

4月下旬、今年、目標にしていた歩法ができようになる。片足でしっかりと立てるようになってきたと実感する。今年の自分の目標を立禅状態での左右の早い動きに変える。 5月、この頃から、「練」において、動きながら左右の腕で打つ練習をするようになる。
止まってワン・ツーを打つのではなく、動きながらワン・ツー・スリー・フォー・・・・・・と切れることなく打っていくものである。

この頃、「太気拳挑戦講座」(ビデオ)にあるような、互いに向かいあって、片手は、相手の肘を持ち、もう片方の手で相手の胸を押して発力を出し合う練習を先生に付け てもらった。しかし、うまくいかず、どうしたら先生のような発力が出るのか不思議に思ったものであった。それから2~3ヶ月、毎回先生にそのような練習をつけてもら い、徐々にコツらしいものがつかめてきた。
この練習で効果を出すには、片方の人に発力ができなければ、効果が少ない。
今、私が発力を出せるのも先生から発力を分けてもらったからではないかと感じている。

5月から7月の間、この頃、先生から「N、立禅の大切さは、いつから気づきだした。」という質問をされるようになる。この時立禅は、まだ、練習前の一種の儀式みたい なものであって、早く他の弟子が動き始めないかなあ?自分だけ這いの練習をしたら、先輩に白い目で見られるかなあ?といった感じで、先生の言う立禅の大切というもの を感じられていなかった。私は、立禅の大切さというものは認識していなかったが、とりあえず、意識で早さを作ったりするものと感じていた。

今でも思うことであるが、世の中で一番早いものは何か?という質問に対して、「人の意識」が一番速いと私は考える。光よりも人の意識の方が速いのである。この理由に ついて、例えば、夜空に見えるアンドロメダ星雲に思いをはせた時、光の速度でも200万年かかるものが、意識では一瞬にそこに到達できるからである。

そして8月、この時の夏合宿で先生と初めて思い切り組手をした。

このビデオは、今でも時々見るが、先生の動き、特に上下が速すぎて、私の視界から何度も消えているのがよく分かる。(ビデオの中の私の目が泳いでいる。)先生は、 優しいので私の視界から先生が消えた状態では、攻撃してこなかったが、もしこの無防備状態で攻撃されていたらボコボコ状態であったと思っている。私は、ボクシング や、空手をやってきて、相手が視界から居なくなるということは感じたことがなかった。

 先生は、私と組手をする前に20名以上と1時間以上連続で組手をしていたが、まったく息切れしておらず、練りの延長で組手をされていたのは驚愕であった。私は、 先生との5分ほどの組手でゼロゼロ状態になっていた。

この夏合宿時、先生から、「もっと、歩幅を狭く、両膝で相手を見るように」や「止まらない、止まらない!止まらないで動きながら打つ!」ということを強調されて いた。通常のボクシングや空手では、止まっての打ち合いとなるが、太気は動きながら攻撃である。
常人が考えたら、止まって地面からの反動で打たないと相手に力が十分に伝わらないと考えるが、太気の立禅を中心とした稽古で、この動きながら打つことでも相手に 相当のダメージを与えることができるようになる。
これが、今までの格闘技にない概念であり、太気拳の真骨頂であるのではないかと考えている。

先生からこの夏合宿のDVDをもらった時、「N、全然太気の動きになっていない。まだ、空手とボクシングの上に太気が乗ったものにしかなっていない。」と厳しい 評価をされてことを覚えている。

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2013年12月年末交流会

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2013年夏合宿の記念写真

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2013年4月春の交流会

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佐藤聖二先生指導風景

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島田先生指導風景

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鹿志村先生指導風景

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稽古の様子

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組手

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組手

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2011年4月春の交流会

慣例の交流会を日曜日に行いました
太氣会をはじめ島田道夫先生率いる気功会、
佐藤聖二先生の太気拳意拳研究会、
そして鹿志村英雄先生の中道会の方々の参加で和気藹々、
時に真剣に稽古できました。

前半は佐藤先生と鹿志村先生による袋竹刀の稽古、
そして他道場生との推手。

後半はいつもと違ったメンバーとの組み手と新鮮な驚きがあったようです。
稽古の後は皆さんでバーベキュー。
こちらはカメラマンが食べるのと飲むので一生懸命で写真は撮れませんでした。

2011-04-04 天野

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天野敏のテクスト 閑話休題

太気拳ノート―1

前後の力、六面力、或いは静的な力について。

立禅を何故組むのか、と言う疑問については答えは幾通りにもある。
簡単に言えば、立禅から色々なものを引き出すことが出来るからだが、その中でも大事なものの 一つに静的な力を引き出す、或いは感じ取ると言う事が上げられる。
静的な力は、意拳的に言えば六面力であり、上下前後左右に力を感じると言う事だ。
六面に力を得る、と言うことは自分の周囲360度と重力に抗する力を得る事であるが、 上下の力が大元にあり、その変化形として前後左右の力があると考えた方がわかりやすい。

静的な力と言うのは動こうとする力ではなく「動くまい 動かされまい」とする力だ。
そういう意味では受動的なところから引き出される力と言える。
これを感じ取るには、立禅を組んでいる最中に前から胸を軽く押してもらう。或いは後ろから押してもらう。 また左右から軽く押してもらう。
それらを間断なく前後左右を入れ替えながらそれらの力に抗する方法を探る事から見つけることが出来る。
力を入れ替える時間は徐々に短くしていく事で、前から押されても、押し返すだけでなく後ろも押さえ、 左から押されても右を押さえる、といったように同時に前後左右に力を得る事が出来るようになる。

柔道などの組み技系の経験者なら誰でも知っていることだが、組んだ瞬間に相手の重さを感じる。 これが言ってみれば六面力に近い。引いても引けず、押しても押せずと言う感じだ。そこに居る強さ、 とでも言えば良いかもしれない。あるいは動かされない存在感、とでも言うか。技術以前のそのヒトのあり方だ。 だから表題に書いたように「静的な力」と言うわけだ。

具体的なイメージで言えば、前後に関しては立ち幅跳びで前に飛び出そうとした瞬間の力感が一番近い 感じがする。或いは後ろに飛ぼうとした感じでもよい。両足が前後に揃っている場合、引き出される力は 第一に身体全体が前後に震動するような力で、これは幅跳びの時の身体の運用を考えれば想像に難くない。

左右に関しては、親指を中心にした足首の外旋する力が水平方向の力の基本になる。それに加えて、 身体全体が上に伸び上がろうとする力が突き当たって下に向かう感じだ。

どちらにしても、常に前後左右上下に抵抗感・圧力感を感じるところから始まる。

この力がもっとも基本になり、動く稽古は、その抵抗感や圧力感をを失わずに動く事が課題となる。
 その意味で、静的な力を感じ取れないところでの動的な稽古は、何のことは無い、ただの運動になるということだ。

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天野敏のテクスト 閑話休題

あっという間に年末

あっという間に年末。今年は何となく落ち着かない一年と言う感じだった。落ち着かない、と言うのは今年中に 片付けようと思ったものが予定通りに行かなかったというのが理由。幾つかあるが、雑誌に連載していた「組み手 再入門」の書籍化が来春に持ち越しになってしまった事。後から製作したビデオの一巻目が年内に発売されたにも かかわらず、原稿の出来ていた書籍化が遅れた。責任はもちろん私にある。校正や書き直しの部分を先延ばしにし たからに他ならない。

さて、それに対して片付けられた事の幾つか。「組み手再入門」の映像化。組み手に関して色々書いて、それが 空念仏じゃしょうがないから、と言うところ。組み手の実際を見てもらってイメージを作る事が出来ればと思って の映像化。連載あるいは書籍と突きあわせて貰えれば、文章より伝わるだろうと考えての事だが、果たしてどうか。 今年の夏合宿での弟子を相手にした組み手やスタジオでの組み手を7~8回、それらを例にとってポイントの指摘及び整理。 正直に言うと、他の武術やスポーツ格闘技の組み手の映像と横並びで比べてみるとその違いがハッキリする。が、 まさかそれを自分のビデオでするわけにもいかず、ちょっと残念。太気拳と言うか、あるいは私の組み手がと言うべきか、 普通の人にとってはとても異質な感じだろうな、と言うのが感想。まあ、判る人が判ればいいでしょう。

それともう一つ出来たのがE-BOOK「中年から始める本物の中国武術」、とりあえず第一部の「立禅」を完成。 太気拳の入門書的な作り、これもテキストとDVDのセット。テキストが原稿用紙70枚余りと一時間の映像。立禅につ いては正直言ってこれでも不十分だが、キリがないのでそこそこに収めた。文章だけだと歯がゆいし、映像だけだと言い 忘れや抜け落ちるところがあるので、両方で相互補完と言う感じ。「中年の~」と銘打ったのは別に中年じゃないといけ ない、と言うわけではない。私がもう中年だから、エールを送る意味でつけた題名。また、今回立禅だけの章にしたのは、 太気拳だけでなく、ほかの武術や健康のためにと言う問い合わせがよく来るため。色々な所で立禅に似た稽古法を指導し ている所もあるようだが、そう言うところの経験者から漏れ聞くと、結構いい加減だったりする。別に私だけが正しいと 思っているわけではないが、書くべき事は書いておこうと言うところ。この後、半禅や這い、そして練りや他の稽古も書き、 同時に映像化のつもりだが、何時になるかはまだ不明。なんと言っても「立禅」の章でほぼ一年掛かり。ライフワークなんて 気取るつもりはないが、どうなるか・・・。

さて、最大の落ち着かない理由は十分に遊べなかった事。遊べないといっても遊んではいる。要は思うように遊べな かったという事。今年は年明けから波がなくて、十分にサーフィンが出来なかった。それに加えて夏の台風直撃で地形が 変り、波の質が落ちた。じゃあ、と言うんで今度は釣りを始めたが、もちろん思うように釣れない。今日は休みで、実は 釣りに行ったがバラシ。知り合いが80センチの平目を釣ったとか、誰それが70センチのスズキを釣ったとか言うがこちら には来ない。このふた月の釣果は、40センチのイナダ一匹・15センチのスズキの子供・同サイズのメッキ鯵。まあ、魚に してみれば私に釣られるなんて言うのは、交通事故にあうようなもの。めったにあることではない。で、モチベーション が落ちて、もういいかなんて思ってると、眼の前で他の人が大物を釣ったりする。じゃあ、この竿にも掛かっていいん じゃないの、何で掛かってくれないの、と生殺しの蛇のようで日々落ち着かない。

「遊びをせんとや生まれけん」じゃあないが、せいぜい正月は落ち着いて遊びたいもの。そのためには祝いの膳に 自分の釣った魚を、なんて初夢でも見ることが出来ればよしとするか・・・。

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天野敏のテクスト 閑話休題

雑誌の連載が終了

雑誌の連載が終了。「組み手再入門」の題で一年余り書いてきた。書く事はいくらでもあるような気がするが、書いているうち にもどかしくなってしょうがなかった。考えてみれば当たり前で、組み手に関していくら書いても隔靴掻痒、言いたい事、伝えたい 事の距離感をべらぼうに感じた。それがストレスで多少嫌気が差した、というのが正直なところ。それで、そのストレスを今度は 映像化すれば少しは晴れるか、ということで同じ題名「組み手再入門」で映像を先日撮り終えた。なんと言っても百聞は一見にし かず、だ。本当を言うと、題名は「組み手改造計画」とでもしたかったが、連載とリンクした内容だからという事で同じに決まった。 キーボードに向かって組み手について書いているよりどれほど判りやすいか、と思っていたがこれもなかなか難しい。カメラに向かっ て話しているうちに、肝心な事を言いわすれたと気がついたりする。それが撮影中だったら撮り直しもきくが、終わってから思い出 すなんていう事もある。まあ、連載はそのうち書籍化するから映像と書籍と両方を参考にしてもらえれば、少しは組み手に行き詰っ て悩んでいる人の助けになると思う。

空手にしても他の武術にしても形にばかり拘って、組み手に工夫が無さすぎるって言うのが連載を始めた主旨。みんな拘っている のがどうでもいい事に僕には見えてしょうがない。どこも最初に決まった形の構えがあって、そこから全部始まるなんていう不思議 な事をやっている。そんな常識なんて役に立ちはしませんよ、という所を見取ってもらえればいい。どんな流派だって良いが、当た り前に組み手をやれば太気の組み手に似てくるというのが持論。当てっこだとか、ゲームで良いって割り切るなら既存のままでいい けどね。

今回の映像には、今年の夏合宿の組み手を幾つか参考として載せる予定。合宿のときはそんな気はなかったので、のんびりとした 指導組み手だが、それなりには役に立ちそう。組み手の技術というだけではなく、雰囲気から組み手に対する取り組み方を感じ取って もらえれば良い。組み手が殺伐としたものではなく、自分の課題に取り組むためのものだという捉え方が出来ればいいと思う。もし 機会があったら太気以外の組み手と比べてみると、違いが一目瞭然で面白いかも知れない。

ただ、映像にするのを選ぶために何回も同じ自分の動きを見るのは正直言って辛い。段々あらが見えてきていやになってくる。 まあ、約束したからしょうがないか、という気分。恥を書くのもなんかの薬になって、そのうち役に立つ事もあるかもしれない。 しかし、映像でも喋ったけれど、25年間毎週組み手をやったというのは、考えてみればよくやったよね、という感じ。好きなんだね、 組み手が。下手の横好きか、それとも好きこそものの上手なれ、なのかは皆さんの判断に任せます。撮ってしまったらもう俎板の上の鯉。

今回のカメラマンは、実は地元のサーフィンの先輩にお願いした。勿論撮影中はそんな話は全然しない。ところが昼食でアシスタント の若者がやはりサーファーと判り、話が盛り上がる。聞くところによると、最近格闘技系の選手がサーフィンを良くやるとのこと。ブラジ ルの選手がやったというところから始まったらしい。勿論バランス感覚は要求されるから、そう言うところがトレーニングになるんでしょ うね、と言う。まあ、それもあるけど、それより判断力だろう、というのが僕の感想。やらない人はわからないと思うけど、一瞬の判断を 常に要求されるのがサーフィン。判断ミスをすると場合によっては大怪我をする。波に乗る瞬間、どっちにいくか、周りに何処に人がいるか、 避けられるかそうでないか、同じ波に自分以外の人が乗っていないか、そのほか色んな事を瞬間に見取って乗る、あるいは乗らないを決定する。 時には乗ってから降りる。それはほとんどの場合、ほんの一瞬でしかない。見て考えるのではなく、見た瞬間に判断する、決定する。 勿論乗ってからも、ボードのコントロールは考えていては遅い。感覚で動かす。そこら辺は組み手と同じで、自分の場合は組み手の感覚が サーフィンに少しは活きたかも知れない、そんな事を話して昼休みが終了。自分は昼食後に3分でも寝ないと午後は眠くなる性質。 それをしなかったおかげで午後の撮影はNGの連続。皆さん、ご迷惑をおかけしました、反省はしてます。