プロフィール
ペンネーム:N(エヌ)
年齢:42歳
職業:公務員、現在は、研究職で鉛筆より重いものを持たない勤務をしている。あと2年位でまた、現場に戻ると思われる。その後、また研究職になると思われる。
住所:横須賀市在住、平成15年念願のマイホーム(マンション)を買う。
家族:妻、子2人、長女:中3(反抗期バリバリ)、長男:小5(極真空手少年部の緑帯4級)
1-太気拳に出会うまで(0~21歳)
昭和39年、石川県金沢に生まれる。生まれてからまもなく、父の都合で大阪、東京と転勤し、小学校1年の終わりから、 生まれ故郷の石川県の金沢で生活するようになった。東京からの転校生ということで、言葉使いが女のよう だと難癖を付けられ、小学校2年から小学校5年生までは、毎日のように喧嘩。今考えると、家庭に不満が あり、そのはけ口として喧嘩をしていたように感じる。同じ学年では負け知らずで、1学年上と喧嘩をしていた。
小学生から体格がよく、小学校5年の時には、実父に腕相撲で勝つ。
今思えば、化け物のようなものだったかもしれない。(小学生が力で父親に勝つとは驚愕であろう。もし、 今の息子が私に腕相撲で勝ったら度肝を抜かれると思う。) 小学校2年生の時から格闘技は好きで、映画では「ブルース・リー」、マンガでは、「タイガーマスク」、 「リングにかけろ」や「空手バカ一代」なんかを良く読んでいた。喧嘩ばかりしているため、小5からク ラスで村八にされ、それから本を読むようになる。(それまで、まともに教科書を朗読することができなか った。)最大一日3冊程度読むようになり、小学校6年の時は、単行本を読むようになった。ジャンルはS Fである。その急激な読書のため視力が一気に悪くなり、小学校5年の4月に1.0から小学校5年11月 に0.4まで視力が落ちてしまった。
勉強は、中2から本格的に実施したが、高校受験に間に合わず、志望校は桜散る。
高校では、運動は自分で走ったりするぐらいで、勉強ばかりしていたように記憶している。ただし、ゲーム センターのパンチ測定器をよく叩き、毎回最高記録を出して喜んでいたように記憶している。(記憶では、 最大165kgを出していたように思う。)
昭和58年4月(18歳)
大学に入学、学部は電気科、格闘技は、小学校からやりたかったが、危ないからと親が 許してくれず、ようやく憧れの格闘技ができることとなる。
大学の徒手格闘技は、柔道、レスリング、空手、少林寺及びボクシングとあった。柔道及びレスリングの 組技系は好きではなかった。空手及び少林寺は寸止めであったため、実際に当てることのできるボクシング 部に入部することとした。
練習は、月曜日~土曜日で毎日1時間半。練習内容は、体操3R、移動3R、縄跳び3R、シャドウ3R、 ミット又はサンドバック3R、マススパーリング2R×3ほどを日課としていた。大学時代の戦績は、12 戦8勝4敗、負けは全て判定負け、勝ち8勝のうち5KOだった。
1年の練習内容は最初の2ヶ月は、ずっと縄跳びを跳んでいた。
そして5月上旬~6月 左ジャブ及び右ストレートの練習をしていたように記憶してい る。
8月、最初の夏合宿、初めて本格的なスパーリングを行う。2年生から3年生までをボ コボコにしたように覚えている。大学は、上下関係が厳しく1年生は奴隷扱いとなって いた。ボクシング部に行けば、実力の世界であり、ここで日頃の不満を一気にぶつけて いたように思う。
11月 神奈川大学トーナメントに出場、1、2回戦勝ち、決勝トーナメントで昨年の 優勝大学のキャプテンと対戦し、判定負けとなる。
昭和59年4月(大学2年生)
モントリールオリンピックのボクシング監督をしたK氏が監督となる。この頃からボ クシングは、相手に殴られずに自分だけが殴るのが理想と考えるようになる。ボクシン グは、芸術だと考えるようになる。
この頃から、フック系統を練習するようになる。
練習では筋トレは、ほとんど行わず技術トレーニングがメインであった。右ストレートにおいては、 地面を蹴った力が腰にいき、最終的に手に乗る練習をした。イメージ的には、体をデンデン太鼓の 軸のようにし、手に力を入れず、腰の回転の接線上に腕が伸びていく練習をした。
また、ダブルボールと言って、上下にゴムの付いたボールを天井と床に固定し、それを移動しながら 打つ練習をしていた。
10月 神奈川大学トーナメントに参加する。記憶では1、2回戦目KO勝ち、決勝ト ーナメントで昨年負けた大学のキャプテンにまたもや負けてしまったように覚えている。
結局、そのキャプテンには最後までリベンジできなかった。
昭和60年5月(3年)
この頃からアッパーの練習を始める。大学1年でストレート、大学2年でフック、大学3年で アッパーと実に3年かけて、パンチを磨いてきたことになる。
9月 全日本選手権大会の神奈川予選に出場し、判定負けであった。
この時の負け方はひどく、今でも鮮明に覚えているが、相手のパンチが見えなかった。
見えなかったため、相手のパンチが自分に当たったと同時に自分のパンチを出し相手に当て (相手のパンチが当たるということは、自分のパンチも当たる間合いであるため。)最後まで何 とか根性で立っていたように感じる。相手のパンチに酔ってしまい終わってから便所に行って吐 いたように記憶している。
なお、この相手は、全日本第2位になったように記憶している。
この頃学園祭に友達と来た際に知り合った現在の妻と付き合いだす。
10月~11月 神奈川リーグに参加、3戦3勝2KOであった。この時のKO記録において 1R(ラウンド)28秒という記録があり、今でも破られていないと思う。
昭和61年4月~5月(大学4年生)
関東リーグに初めて出場する。私は体重が当時73kg程度あり、神奈川リーグは67 kgのウェルター級があったので、1年から出場していた。
しかし関東リーグは63kgのライトウェルター級までしかなかった。さすがに10kg以上の 減量はきつく、通常であれば、1週間で減量するところを約1ヶ月間かけておこなった。試合や 練習よりも減量の方が辛かったように覚えている。この関東リーグは1試合出たのみであったが 、2R(ラウンド)KO勝ち。監督から2週間後も試合にでるように言われたが、減量がイヤで 断ったように記憶している。
大学でのボクシングは、こんなところであり、1年生の入った時から強く、結構試合に出た方であった。
昭和62年3月(21歳)大学を卒業。
そして結婚する。
2-太気拳との出会い(27歳~39歳)
27歳の頃、少し腹ができてきたような気がして、格闘技を再開しようと考えた。ボクシングは、頭に衝撃を受けるので、生涯続けられそうな空手をやろうと考えた。どうせやるなら極真空手と思い支部に入門。 以後はずっと空手をやった。
平成8年9月(32歳)
オープントーナメント青森大会3位入賞、この時、K-1の小比類巻選手に勝ったこと を記憶している。小比類巻選手は当時19歳で、キックボクシングを始めたばかりであ った。極真青森の茶帯であり、上京から青森に帰ってきて優勝を狙っていたとのことで あった。この頃の私の組み手は、ボクシングスタイルに蹴りがある程度できるといった 感じのものであり、今のように両足を使って自由に動けるものではなかった。
平成10年2月~6月(33歳)
仕事のため川崎に。
ここで極真支部の出稽古に行った際、「立禅、這及び揺」といったことを習った。しかし、その形のみであって、それがどういう効果があり、どういう意識をもってやるのかは理解できなかった。「立禅、這及び揺」といった不思議な稽古法は、太気拳の稽古であることが分かり、以来、太気拳関連の本を読んだり、意拳の本を読んだりしたが、意味が理解できなかった。「練りもどき」や、「這もどき」をやってみたが、なんかしっくりいかず、直ぐに止めてしまった。以来、立禅を中核とするその不思議な稽古法には興味があり、本屋で太気や意拳関連の本を見かけたら買って読んだが、よく理解できなかった。
平成14年3月(37歳)
横須賀に異動、毎週土曜日は、出身大学のボクシング部に行き後輩の指導をしていた。
11月(38歳)全日本マスターズ(35歳~42歳の部)に参加、52名中ベスト8 となる。この時に負けた相手が優勝したが、体重が120kgもあり、この体重差から 来る圧力は何ともしようがなかった。
これまで、11年間の空手の総括は、まず、力をつけること、相手を上回る体格を付ける努力をしていた。いわゆるパワー空手というものであり、ベンチプレス100kg 1回は最低挙げ、体重を80kg以上(極真に入った時は、75kgで筋肉を5kg増やした。)という具合に、数字的に分かるものは、全て相手以上にし、それから技術 云々というふうに考えていた。
この頃、ある本屋において、たまたま、太気拳戦闘理論(ビデオ)を買った。その理論の明快さとビデオからにじみ出る先生の人柄にあこがれた。そのビデオを見る前まで 、立禅からどのような力が引き出せるのかわからず、武術的に何か効果があるという印象でしかなかった。太気拳戦闘理論のビデオで先生から明らかに常識では図れない力 が出ているのが感じられ非常に興奮したことを覚えている。先生に直接便りを出すことは、恐れおおくできなかったため、当時の横須賀支部代表のAさんにメールを出し、太 気会の練習日程等の確認をした。太気会は会友員としてのスタートだった。
平成15年の5月(38歳)
初めて太気会のセミナーに参加した。 このセミナーで「立禅」、「這」及び「練り」を教わる。「立禅」でも体の各部に力が入っていたり、「這」や「練り」においても、「立禅」の諸条件を守りながら動こう とすると直ぐに体のバランスを崩したりと他の練習生のようにスムーズに動くことができなかった。また、自分の動きが良いのか悪いのか自分で評価できなく、一人で練習 しても無駄だと悟り、セミナーの1週間後の6月(39歳)から正規に太気会の会員となった。
入会当初、太気会の横須賀支部があったため、毎週日曜日、ほぼ欠かさず練習に行った。
平成15年6月から9月までの3ヶ月は、這において、「まともに重心が左右の足に移っていない。」と先生からさんざん指導された。
先生からそのように言われたが、自分のどこが悪いかも自分で評価することはできなかった。やはり、できている人から見ないと、良いか悪いか評価できないと思う。自分 ができるようになって、初めて分かるものだ。それは、新入会員が先生から「這い」を教わり、歩く様を見ると、何処が悪いのか分かるところからも推察できる。
8月、最初の夏合宿で、先生から組手を促されたが、素手素面であり、這いすらまともにできないので、とてもじゃないけど組手はできないと思い断った。その後、先輩方 の素手素面の組手は、迫力があり、組手をやらなくて良かったなあと胸をなで下ろした。
実は、平成15年の2月、太気会に入る4ヶ月前に、私は、近視の矯正手術(レーシック)をしたため、目に衝撃を与えることのできない体になってしまった。手術した 当時、まさか素手素面で組手をするなんて考えておらず、極真空手は、顔面がないから大丈夫であろうと考えての手術であった。 太気会での組手において、自分の目を守るため、ヘッドギヤーとグローブを付けて組手をするしかなかった。他の会員は、素手素面で組手をするに関わらず、私は身体上の 都合から、ヘッドギヤーとグローブで組手をやらしていただいている。私は、そのことに対して、少し心苦しいのであるが、先生と他の会員の了解のもと、太気会の交流会 等に参加させてもらっている。
その年の6月から9月、先生からの指導で2つほど印象に残った事象がある。
1つは、先生の発力である。先生の発力で私は、5mほど木の葉のように吹き飛ばされたことを覚えている。
もう1つは、先生が立禅を組む形にして、私に「腕を押して見みろ。」と言って力一杯押しても動かなかった。先生が、「小鳥が止まっているようなもの。」と言ったこ とが印象に残っている。
そして9月中旬、横浜の元住吉の稽古で練りを行った際、「やっと、歩けるようになったな。今日は記念すべき日だ。今日のことを一生忘れるなよ!」と先生に言われた ことを覚えている。
また11月中旬頃、先生から「腕がはまってきたみたいだなあ。」と言って腕を押された時、自分も全く力を入れないで立禅の形の腕のままでいられ、まるで「小鳥が止 まっているようなもの。」ということを実感することができた。太気会に入って半年、初めて自分は変わったというのを実感できた時であった。 腕がはまってきたので、11月中旬から推手が始まった。推手を最初見たときは、ただ、手を回して踊っているようにしか見えなかった。手を軽く回しているように感じ た。(実際に腕に力を入れないようにして回すため、力が見えない。)しかし、初めての推手で受けた圧力は、相手が真剣に力一杯押しているような感覚があった。 最初は、先生や先輩からの圧力で、毎回腰が痛くなった。この推手が終わった後の腰の痛さは約半年続いた。
そして12月、初めて太気の組手に参加する。初めてということもあり、初心者同士で組手をした。この時の組手は、ボクシングの延長みたいものであり、左半身の構え が固定しており、ただ相手の攻撃を避けるだけに終始していたように思う。
平成16年
1月、今年の太気の目標を、「太気拳挑戦講座」(ビデオ)のある種の歩法ができることに決めた。その歩法は、片足で自分の重心を蹴って後進や横に移動するものであり、傍 目にはとても不思議に見える動きである。
2月、横須賀での組手練習が始まる。私だけの特別ルール(グローブ、私のみヘッドギヤー)でベテランのA氏、R氏及びH氏と組手を始める。ベテランは、明らかに手の 重みが違うことを実感する。この時の私は、組手をしたとき、直ぐに息が上がりゼロゼロ状態になってしまっていた。
3月(39歳)この頃、横須賀の練習場にミットを持って、打撃の練習等をしていた。私が軽く打っているのにミットを持った人から、「肋骨が折れるように重い。」と 聞き、立禅で腕がはまっているから、体の重みが相手に伝わるのかなあと感じたものでした。腕がはまった状態で殴るというのは、あたかも棍棒で人を殴ったのと同じ状 態であり、これは相手にかなりのダメージを与えると考える。
4月下旬、今年、目標にしていた歩法ができようになる。片足でしっかりと立てるようになってきたと実感する。今年の自分の目標を立禅状態での左右の早い動きに変える。 5月、この頃から、「練」において、動きながら左右の腕で打つ練習をするようになる。
止まってワン・ツーを打つのではなく、動きながらワン・ツー・スリー・フォー・・・・・・と切れることなく打っていくものである。
この頃、「太気拳挑戦講座」(ビデオ)にあるような、互いに向かいあって、片手は、相手の肘を持ち、もう片方の手で相手の胸を押して発力を出し合う練習を先生に付け てもらった。しかし、うまくいかず、どうしたら先生のような発力が出るのか不思議に思ったものであった。それから2~3ヶ月、毎回先生にそのような練習をつけてもら い、徐々にコツらしいものがつかめてきた。
この練習で効果を出すには、片方の人に発力ができなければ、効果が少ない。
今、私が発力を出せるのも先生から発力を分けてもらったからではないかと感じている。
5月から7月の間、この頃、先生から「N、立禅の大切さは、いつから気づきだした。」という質問をされるようになる。この時立禅は、まだ、練習前の一種の儀式みたい なものであって、早く他の弟子が動き始めないかなあ?自分だけ這いの練習をしたら、先輩に白い目で見られるかなあ?といった感じで、先生の言う立禅の大切というもの を感じられていなかった。私は、立禅の大切さというものは認識していなかったが、とりあえず、意識で早さを作ったりするものと感じていた。
今でも思うことであるが、世の中で一番早いものは何か?という質問に対して、「人の意識」が一番速いと私は考える。光よりも人の意識の方が速いのである。この理由に ついて、例えば、夜空に見えるアンドロメダ星雲に思いをはせた時、光の速度でも200万年かかるものが、意識では一瞬にそこに到達できるからである。
そして8月、この時の夏合宿で先生と初めて思い切り組手をした。
このビデオは、今でも時々見るが、先生の動き、特に上下が速すぎて、私の視界から何度も消えているのがよく分かる。(ビデオの中の私の目が泳いでいる。)先生は、 優しいので私の視界から先生が消えた状態では、攻撃してこなかったが、もしこの無防備状態で攻撃されていたらボコボコ状態であったと思っている。私は、ボクシング や、空手をやってきて、相手が視界から居なくなるということは感じたことがなかった。
先生は、私と組手をする前に20名以上と1時間以上連続で組手をしていたが、まったく息切れしておらず、練りの延長で組手をされていたのは驚愕であった。私は、 先生との5分ほどの組手でゼロゼロ状態になっていた。
この夏合宿時、先生から、「もっと、歩幅を狭く、両膝で相手を見るように」や「止まらない、止まらない!止まらないで動きながら打つ!」ということを強調されて いた。通常のボクシングや空手では、止まっての打ち合いとなるが、太気は動きながら攻撃である。
常人が考えたら、止まって地面からの反動で打たないと相手に力が十分に伝わらないと考えるが、太気の立禅を中心とした稽古で、この動きながら打つことでも相手に 相当のダメージを与えることができるようになる。
これが、今までの格闘技にない概念であり、太気拳の真骨頂であるのではないかと考えている。
先生からこの夏合宿のDVDをもらった時、「N、全然太気の動きになっていない。まだ、空手とボクシングの上に太気が乗ったものにしかなっていない。」と厳しい 評価をされてことを覚えている。