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会員・会友員のテクスト 富川リュウの太気拳修行記

平成12年・夏の章

立禅の中での開合の力

 前後の立禅の次に天野先生に教えていただいたのは、腕と胸のあたりの「開合の動き(力)」でした。立禅で手を顔の前におき、親指を曲げてぐっと起こすようにすると、親指の第二関節の後ろに角張った部分ができます。左右のこの部分にゴムバンド繋がっているような意念を持ち、少しだけ緩めたり広げたしてみます。このときに腕の外側や肩の筋肉を使いがちとなってしまいますが、これとは逆に腕の内側を意識することと、胸が閉じたり開いたりする感覚を味わってみる様にするとよい、とのことでした。これが太気拳の体の使い方のひとつのコツで、打拳や歩法を含む全ての動き方のコンセプトになっている「開合の力」の練習の第一歩でした。

立禅の効果

 立禅の効果とは、いったいどれくらいの期間で出てくるものなのでしょうか。物の本には、一年とか三年とか、気の遠くなるようなことが書いてあったりします。しかも「毎日1時間、雨の日も風の日も休まずに」とのこと。太気拳を始めるにあたり、それなりの覚悟はありました。立禅とはいったい何なのか、効果が出始めるまでに一体どれくらいの時間がかかるのか皆目見当がつかない――でもやれるだけのことはやってみよう。とにかく最初の1年は続けてやってみよう――そう思って始めました。

 そして実際に効果が実感できたのは、3ヶ月目を少し過ぎた頃で、これには正直、自分でも驚いてしまいました。天野先生に教わっていたのは、立禅(正面向き)と半禅(右向きと左向き)、その中での「前後の動き(力)」と「開合の動き(力)」のみでした。そして先生に要求された点は、この動き(力)ということに対して、「僅かな緊張」と「完全なる弛緩」の状態を味わうこと、感じること、にありました。

 極真空手やボクシングを習っていた頃、ミット打ちやサンドバッグ打ちがどうも苦手でした。先輩達は「バンバン」「ボンボン」という感じで、カッコ良く打っているのに、私がやるとどうも「パスパス」といった感じで、超カッコ悪ィなのです。それでも週に1~2回の練習を3~4ヶ月と続けていると、すこしは「バンバン」に近づいてくるのですが、「これは慣れやコツといったこともあるのかもしれませんが、やはりスタミナが無いとできないんじゃないかな」と思い込んでいました。というのは、たまに仕事が忙しくて暫く練習を休んだりすると、サンドバック打ちがまた元の「パスパス」に戻ってしまっていて、再び「バンバン」にたどり着くまでには、また2~3週間は掛かってしまう――そんな経験を何度となくしてきていたからです。

 実は立禅を始めて3ヶ月を過ぎた頃に感じた効果のひとつは、このサンドバッグを打つ感じでした。どうも胸のあたりの筋肉がムズムズして、無性にサンドバッグが叩きたい感覚が体にまとわりついていてしょうがないのです。そこで早速近くのスポーツジムへ行き、サンドバッグを叩いてみました。するとどうでしょう(あら不思議)、もう半年以上もそんなもんとはご無沙汰だったにもかかわらず、ちゃんと、というか以前よりももっとしっかりと「ボンボン」とパンチが打てるのです。どうもなにか「貯まっていたエネルギーを使えることに体が喜んでいる」といった感じだったのです。

立禅の効果つづき

 またある日のこと、立禅をしていると無性に走り出したくなったことがありました。この頃は、ジョギングもしていなかったし、もちろんダッシュもやっていなかったのに・・。それでちょっと立禅をやめて、ダァーと50メートル程でしょうか公園の中を走ってみました。足の筋肉が喜んでいるのがよくわかります。走って、走って、走って、走って、走って、足の筋肉が嬉しいと云っています。とても不思議な感覚でした。

 この件を天野先生に聞いてみました。「立禅をしていて、ダッシュをしたくなったんですけど、これは何故なのでしょうか?」と。先生の説明はざっとこんな感じでした。「立禅の中ではいつも中途半端な状態を維持しつづけている。開合をとってみても、グワッと大きく開いたり、グッと手と手を合わせて閉じるという動きはしない。あくまでも立禅の姿勢の中で動かしてよいのは、せいぜい1cmか2cmくらいなもの。そうしていると体がムズムズしてきて爆発的な力を出したくなる。立禅や半禅の姿勢は、一体どういう形なのかというと、全身の各部がちょうど良く中途半端になっている状態にある」――ということでした。この説明を聞いて「なるほど!」と納得の富川でした。

 暗中模索の中、教えられるままに、立禅の中での前後の力と開合の力を味わっていただけの3ヶ月間。そして自分の体の何かが変わって、それに対する明確な理由付けをいただいた。このことは、私が後々、太気拳の稽古を続けていく上で大きな礎(いしずえ)となる貴重な経験でありました。

 それはつまり順序だてて言うと次のようになります。 
 1.先生が何か新しい事を教えてくださる。
  「こういう風にすると、こうなるでしょう」と説明してくれる。 
 2.自分は今ひとつ理解が及ばない。とりあえず何回かやってみていると、少し動きがスムーズ
  になってくる。  
  でも先生が言わんとしていることには、どうも話が繋がってこない。 
 3.二日、三日と先生の言葉を思い出しながら、繰り返しその動きをやっていると、自分の体の
  中に「あっ!先生はこの事を、この感覚のことを言っていたんだな!」とあるとき突然に理解
  する。これがひとつのことの場合もあるし、2つ3つの事が芋ずる式に出てくる場合もある。
 4.自分の体を通してて感じたことを先生に確認してみる。たいていは1のときに既に言われた
  説明であるが、それに理由付けも加わって、よりいっそう理解が深まる。というか自分の体の
  感覚を明確な言葉で説明していただいて気持ちがとてもすっきりする。

 これは天野先生に教えていただくひとつひとつの全てのことに当てはまります。そして段階を追っていくと、立禅→這い→推手、という単調な練習の中に奥行きが出てきて、そこからまた別の課題を与えられ、新しい発見がある。これが太気拳の稽古の一番の喜びであります。

ジグザグ歩法と加速歩法

 この年の夏、新しい歩法を教えていただきました。這いの歩法に比べてやや腰高で、初めはゆっくりと確実に行い、その後、徐々に速度を上げていき組手のときと同じ速さにしていきます。

 初めは手を体側に広げてバランスを取りやすいようにして、足腰の安定とバランスを重視して行います。やや斜めに踏み出して、右、左、右、左、とそのつど軸足の一本だけでスッと立っているようにします。一歩進む毎に、ピタッ、ピタッと片足だけで上体をまっすぐにして止まるイメージです。(膝はやや曲がっている) この時に遊足が軸足の横にあると体が左右に振れやすいので、遊足の踵を軸足のつま先の真上に重ねるようにします。こうすることにより、股関節も閉じ、左右のバランスが取りやすくなります。

 足腰と全体のバランスが取れるようになってきたら、次に手をつけて行います。手首が目の高さになるように両手を前に挙げ、右足が軸足の時には右手が、左足が軸足の時には左手が、顔面をガードするような位置を取り、もう片方の手は同じ高さで、常に両腕の手首から肘までが平行に、やや前後しながら動くようにします。そして後退(後ろ向きに進む場合)も同様に練習します。ここまでは這いの鍛錬を行っていれば、そこそこ簡単にできてしまうのですが、次の加速歩法は、ちょっと難しいかもしれません。

(注記)「ジグザグ歩法」、「加速歩法」という呼称は、私が勝手につけたもので、正式には何と言うのかわかりません。ただ便宜上、呼び名がないと説明しにくくなってしまうので、それらしくネーミングをさせていただきました。

 前述のジグザグ歩法ではフットワークとして、スピードを上げていくのには、おのずと限界があります。特にに足が揃っている状態から一歩踏み出すときに、ワンテンポ遅れるというか、足(股関節)を開く力に初動の加速力がつきません。そこで加速歩法では、軸足を一瞬、進行方向とは逆の方向に、一足分ほどずらすことで、股関節を開く力に加速をつけるようにするのです。

 要領としては、大体次のようになります。

 【前進するとき】
 1.最初、左足が軸足で、その上に骨盤および上体がスッとまっすぐに立っているように
します。軸足の膝は少しだけ曲がり、遊足がある右足の踵は左足つま先の上に
浮いている状態におきます。 
2.次に右足を右斜め前へ一歩踏み出す訳ですが、その前に左足を左斜め後へ一足分
ずらします。そしてその反動で右足を前へ飛ばし、右足が接地したと同時に左足を引
寄せます。(引き寄せた左足の踵が右足つま先上に浮いているようにする) 
3.同様にして、右足を右斜め後に一足分ずらした反動を使って、左足を左前方へ踏み
出し、接地したらすぐに右足を引寄せます。

 【後退するとき】
 1.最初、左足が軸足で、右足の踵が左足のつま先上にあるとすると。 
2.右足を右斜め後へ一歩後退させるために、一瞬だけ左足を左斜め前に一足分ずらし、
その反動を使って右足を右斜め後ろへ一歩後退させ、接地したと同時に左足を引寄せ
ます。 
3.同様にして、右足を右斜め前に一足分ずらした反動で、左足を左斜め後ろに一歩後
退させます。

 どの状態の時も上体はほとんどまっすぐで、軸足の上で大きく傾くことは無いようにします。

 【軸足のシフト】
 上記の説明の中で、特に「軸足を進行方向とは逆方向に一足分ずらす」という部分が解りにく 
 いと思いますので補足いたします。 「軸足を進行方向とは逆方向に一足分ずらすこと」を便
 宜上、「軸足のシフト」とネーミングしましょう。シフトには、「入れ替える」「切り替える」「ずれる」
 「ずらす」等の意味があります。 軸足のシフトを行なうときのまず第一の注意点は、上へ飛び
 上がらないことです。逆に下に沈み込むようにして行います。どの足をどちらへシフトさせる場
 合も同じで、骨盤から頭頂までがまっすぐになっている上体を、まっすぐそのままで、真下にズ
 ンッと重心をかけて落とします。そしてこのとき同時に軸足のシフトを行なうのです。

 文房具のコンパスに例えるなら、通常その先端には鉛筆と針とがついていますが、これが、両
 方に鉛筆がついていると考えてみてください。このコンパスを2cmほど広げてある状態にし
 て、机などに押付けていくと両足が均等に広がって行こうとします。この状態をイメージして、
 自分の両方の足を一足分だけズズッと広げてみてください。初めは、ずらす前もずらした後も
 両足が接地しているようにします。何回かやってみて、この感覚を体が覚えたようになった
 ら、今度は両足をズズッとずらした直後に片足だけを地面から少しだけ(1cmほど)浮かせてみ
 ます。このときに自分の上体は、設置している足とは反対の方向へ自然に動いていこうとする
 はずです。この自然に動いていこうとする力に、股関節の開く力を同調させて加速させるよう
 にしていきます。

推手で飛ばされる

 推手の練習も3ヶ月を過ぎる頃になるとだんだんと要領を得てきます。表面的な体の動きができてくると、次に要求されることは、「自分の中心を守って、相手の中心を奪うこと」だと天野先生は言われます。富川はどうも理解が及びません。「自分の中心を守る」ということには、どうも2つの意味があるようです。ひとつ目は自分のどちらかの手が常に自分の顔の前にあり、顔面を(自分の中心を)守るようにするということ。もうひとつは、自分の体の重心がしっかりとしていて、その重さの方向が常に相手の中心に向かっているということです。

 しかしながら、実際にはそう簡単にことは運びません。古参の大先輩であるRさんと手合わせする時などは、全くなすすべも無いといった感じになってしまうのです。手を廻しながら、全体重を前腕を通して相手に押し当てていっているつもりが、ズルッと去なされてしまったり、体の中心の守りの甘い私の両手の間をいとも簡単に通り抜けたR先輩の掌が私の胸元に触れ、アッと思った瞬間にズズッと押込まれ、体が浮いてしまい、後はもうポンポンポンポンという感じになってしまいます。

 天野先生に相手をしていただくときには、また感じが違います。相手の悪い点を指摘しつつも、正しい方向へ導いてくれる(誘導する)ような推手をしてくれている様なのです。とは言っても入りたての頃とは違って、だんだんと厳しくもなってきます。先生に発力されるとほんとうに後ろへ3m~4mはふっ飛んでしまいます。たいていは手をつかんで停めてくれるのですが、回転方向に崩されたりすると、勢いあまって転がってしまうこともあります。うぅーん、推手とはなんと厳しく、奥の深いものなのでしょうか。でも、またそれが楽しいんだけどね・・・ (^^; 

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平成12年・春の章

入門後の印象

 平成12年の春、一度練習を見学させて頂いて、次週から入会という形をとりました。何を習うにしても、先生との相性や、その団体や組織のもつ雰囲気が、自分に合うかどうか、要は居心地が良いかどうかというのが、それを長く続けられるためひとつのポイントになると思うのですが、天野先生はとても気さくな方で、親切丁寧に説明してくれるし、ちょっと顔が怖くて稽古のときには厳しい先輩達も、稽古のあとには「とにかく長く続けるように頑張って下さいネ」と声を掛けてくださり、気持ちの上で受け入れられているんだなという安心感がありました。

立禅の中の前後の力

 入門して初めて習った立禅は、「立禅(正面向き)」と「半禅(右向き)」と「半禅(左向き)」の3種類でした。立禅は足を肩幅に開き、足先はやや外側を向け、膝を閉じ気味にして、手は大木を抱えるように顔の前に置き、手のひらを自分の方へ向け、指を開く――おおざっぱに言うとこんな感じです。立禅の中で、初めて天野先生に教えていただいた事は、「前後の動き(力)」でした。立禅で立っている状態から重心をつま先に移していく。そして踵が地面から離れそうになった瞬間に、手の甲が壁にあたったように感じて、ピタッと止まってみる。次に重心を後ろに移していく。同じようにつま先が地面から離れそうになった瞬間に、背中の上の方(首の付け根あたり)に僅かに緊張を持たせて、その力で動きをピタッと止めてみる。

 実際に自分で上体を前後させながらこれをやってみると、「壁」をイメージした時と、していない時の違いがはっきりと判ってくる。つまりこれが「意念」ということであるらしい。「なぁんだ、それってイメージトレーニングの事なんじゃないの。じゃあ『意念=イメトレ』だな」などと、自分勝手に解ったようなつもりになってしまいました。

 そしてもうひとつ、先生の言うところの「僅かな緊張」――実はこれが曲者です。確かに、後ろに行きそうになった時に、背中の上のあたりをグッと力んでみると、動きは止まるのです。でもしかし、この「力む」ということと、先生の言うところの「僅かな緊張」とはどうも違うらしいのです。この辺がどうも難しいというか、奥が深そうでなのです。

這いの歩法

 入門した初日に、這いの歩法も教えていただきました。這いのやり方には何種類かあるらしいのですが、私が最初に習った這いは、比較的、楽に行えるものでした。たぶん「最初から本式のきつい這いのやり方をさせると、根性のない富川はすぐに辞めてしまうだろう」と先生が気を使って下さったのかもしれません。

 その這いは、手を体の横にヘソの高さあたりにおいて、腰をあまり落とさずに、目を前方へ向けゆっくりと歩み、進んでいく――というものでした。このときの注意点は、寄せ足と重心移動の2点でした。

 例えばいま、右足が前にあり、上体の重心も右足上にある時に、左足が後方にあるとしましょう。つぎに左足を軸足である右足に近づけていくのですが、この動作の中に色々な要求事項がありました。
 1.左足を引き寄せる前に、靴裏全体を地面から1cmほど浮かせてみて、上体が
  ふらつかないこと。重心が右足一本ににしっかりと乗っていて、上体が右に
傾いたりしないことを確認する。
 2.動き初めは、最初に外を向いていた左足のつま先を右足(軸足)の踵の方へ向
け、左足のつま先が右足の踵を目指して進んでいくように意識すること。
 3.また同時に、左足の膝頭が右足の膝裏にピタリと合体するように意識して、
左足を引き寄せていくこと。
 4.また同時に、左足が大腿部まで田んぼの泥の中に浸かっていて、その抵抗を
感じながら、左足を引き寄せていくこと。
 5.また同時に、脚の筋力を使うのではなく、股の閉じる力を感じて引き寄せる
こと。
 ―――という具合です。

 これでやっと左足が右足の所まできてくれたので、次は左足を一歩斜め前へと踏み出していきます。
 1.今は右足が軸足になっていて、左右の足が並んで揃ってはいるが、重心は右足
一本にあり、左足裏は地面からやや浮いている状態で、両膝ともが少し曲がっ
ている状態です。この右足に重心が掛かったままの形から左足をそろそろと斜
め前方に出して行きます。
 2.右足のつま先の親指から左足の踵が引き裂かれていくように意識すること。
 3.また同時に、左膝裏が右膝頭~引き裂かれていくように意識すること。
 4.また同時に、田んぼの泥抵抗を意識しながら、左足を出していくこと。
 5.また同時に、脚の筋力を使うのではなく、股の開くる力を意識して左足を出し
ていく事。
 ―――と、ここまでの動作でやっと左足を一歩前に踏み出すことができました。

 そして次に何をするのかというと、体の重心を右足上から左足上へと移していきます。分解して説明すると次のようになります。
 1.重心を移動させるということは、腰と上体を右足の上から左足の上へ動かし
ていくことです。上体は常にまっすぐに立っているという前提で、骨盤(腰)
に着目します。そして骨盤に繋がっている右足のつけ根部(股関節)を意識し
ます。
 2.骨盤が右足上から左足上へと移動していくときに、右の股関節と左の股関節
が「グリグリ、グリグリ」と動いていくように感じます。
 3.またこの時に、左の膝が自然に少しずつ前にせり出して行きますから、この
膝のすぐ下あたりに氷が張っていて、その氷を「バリバリ、バリバリ」と砕
いていくように意識します。
 4.またこの時に、太ももの前面の筋肉はできるだけ力まないようにして、太もも
の後ろ側の筋肉(ハムストリング)と背中に僅かな緊張を感じるようにします。
 5.骨盤が完全に左足の上まで移動し終わったら、まだ後ろにある右足を少しだけ
浮かせてみて、上体がふらつかなければ良しとします。
 ―――以上の動作を繰り返しながら、ゆっくりと前進と後退を行います。

訳のわからない推手

 推手とはいったい何なのだろう。端から見ていると単なる腕と腕で押し合っているようにしか見えないのだが、その練習方法に内包される要求事項には、けっこう奥の深いものがあるようなのです・・・

 とりあえず最初は足を使わずに、手の廻し方から。手首から肘までの前腕部を用い、相手の前腕部と絡めて廻しながら上になったり下になったり。つまり最初に前腕の内側で相手の腕を押したら、次はぐるっと廻って前腕の外側で相手の腕を押すようにします。(相手側はこれの逆をやっている) そして自分と相手とが向かい合い、両手をぐるぐる廻しながらこれを行うのですが、要領を得るのに多少時間が掛かります。お互いがぐるぐるとスムーズに腕を回せるようになってきたら、二人同時に一歩前へもう一歩前へ、一歩後へもう一歩後へ、と歩を進めてみます。前に出るときも、後に下がるときも常に相手に圧力を掛けていることが大切なようです。つまり前腕は単にぐるぐると廻しているのではなく、相手の腕を右へ左へと払うのでもなく、常に前へ前へと相手の中心に向かって行く方向に、力を出し続けるようにすることが最初に要求されます。

 とりあえず初めの頃はこんな要領でやっていきますが、これが結構きついのです。前腕をぐるぐる廻して相手と押し合いながら、前へ、後へと足も合わせて動かしていくのですが、シャドーボクシングのような激しい動きではないしにしても、さすがに一人と4分から5分ぐらい相手をして、「交代!」と言われてまた4分から5分ぐらいやる。これを40分から長い時には50分もやっているので、途中からは結構、息も上がってきます。ただメンバーの人数が奇数の時には、途中どこかで自分に休憩の順番が廻ってくるので少し楽ちんです。(偶数人数の時にはそうもいかない)だけど拳法で強くなるためには、つらい稽古も楽しくこなしていかなければならないのに、「今日は奇数人数だからラッキー (^-^) 」 と喜んでしまう自分が、少し情けなく思えたりもするのです。

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富川リュウの太気拳修行記 プロフィール

はじめに

 私は、富川リュウ(ハンドル名)と申します。30代の会社員(入会当時)で横浜市内に在住しています。天野 敏(さとし)先生の主宰する、太氣至誠拳法・太氣会へは平成12年の春に入会いたしました。  太氣会のホームページの開設にあたり、何か手記を――との依頼があり、入門当初の頃より書き溜めていたメモやノートを読み返して見ているうちに、自分でも書き記しておきたいことが色々と出てきてしまい、「入門当初のことにまで、さかのぼって書こう!」という思いに至りました。  この原稿の内容は主に、立禅、這い、歩法、推手、を中心に書き進めておりますが、後々、組手稽古の模様や先生や先輩方々のエピソード等も書き加えていきたいと考えています。

私の武歴

 武歴などというと少々おおげさですが、この原稿を書くにあたり、私という人間の経歴を知っておいていただいた方がよいと思いますので、概略程度に説明させていただきたいと思います。 子供の頃は体が弱く、いつも風邪をひいていました。運動神経も鈍かったようで、小学校の体育の授業で跳び箱が跳べるようになったのはクラスで一番最後の3人の中に入っていましたし、ソフトボール投げの飛距離はクラスの男子の中で最下位でした。この頃、あのブルース・リーのブームが起こり、素早いパンチやサイドキックなどにとっても魅了されていました。自分でヌンチャクを作って遊んだりもしていましたが、ひ弱な体質から、はなから無理と思い込んでいたのか、格闘技に対する思いはそれほど強くはなく、テレビでプロレスやキックボクシング等を観ることもほとんどありませんでした。 中学生になると、背がグッと伸び体力も少しずつですが、ついてきた様でバスケットボール部のボール拾い係として活躍していました。というのはずっと補欠だったからです。この頃からスポーツをやって汗を流すことは嫌いではなかったのですが、いかんせん何をやっても人よりも上達が遅いので、途中でイヤになってしまうことが多かったような記憶があります。 高校に入っても運動神経は開花せず、テニス部に入りましたが2年で辞めてしまいました。後輩達がどんどん上達して自分を追い越していくようになると、なんとなく居心地が悪いように感じていたのかもしれません。 上京して就職し、運動不足ぎみだったので20才の年からスイミングスクールへ入って、水泳を習い始めました。これが自分にはとっても合っていた様で、1年でかなり上達し、体重も増え、鈍かった運動神経もだんだんと繋がり始めたようでした。スイミングスクールへの登録は、入っている期間とそうでない期間もありましたが、プールへ行って泳ぐことは、しっかりと私の生活習慣の一部となって根づいていて、週に一度は泳いでいました。 29才で結婚しましたが、まだ週に一度の水泳の習慣は続いていました。そしてこの年の夏、昔から心のどこかで燻っていた思いから、格闘技を始めようと思い立ちました。 はじめは少林寺拳法を1年ほど、それから極真空手を2年、大道塾、骨法はともに1年未満、その後、キックボクシングを2年ほどやりました。また合気道やボクシングジムにも少しだけ行っていました。太氣会に入会する時点においての私の格闘技歴は、途中のブランクの期間を除くと、「6年と少々」といった所でしょうか。

太気拳入門のきっかけ

 30代も後半にさしかかると、スタミナが低下し、ケガの直りが遅くなり、疲労の回復にも時間がかかるようになってきて、空手やキックボクシングを続けていくのが、だんだんと辛くなってきました。そうなってくると不思議なもので、格闘技に対する情熱も冷めてきてしまい、しばらく何もやらなかった時期もありました。そんなとき中国拳法や古武道をあつかう雑誌を見て、年をとっても強くなれる世界を垣間見たような気がして、「これなら出来るかな」から「これからでももっと強く成れるかも知れない」という想いがつのり、その雑誌の後ろにあった道場ガイドに、天野 敏 先生の主宰する「横浜太気拳研究会(現・太氣至誠拳法・太氣会)」を見つけ、時間と場所が私の希望どうりでしたし、「武術班と健身班に分かれて云々・・」という記述があり、「はじめは健身班ということで入って、自分で出来そうだったら武術班へ移るということにすれば、最初からボコボコにされる事はないだろう」と考えて入門を決めました。

入門に際しての不安

 先に「入門を決めました」と書きましたが、実際には、そう決めるに至るまでに色々と不安な点もたくさんありました。立禅に代表される、一見、単調に見えてしまう練習体系、あとの練習は、這いや推手等々と書いてあっても、一体全体それがどういう練習で、どういう目的で行われるものなのかも、何も知識が無かったからです。また室内ではなく、公園での練習のため、夏は暑く、冬は寒い、という当然の事実。練習時間が午後2時から6時までととても長く「大丈夫かなぁ、俺にもできるかなぁ」と思ったこと。(ちなみに現在は2時から5時ということに改められています) という様に、数え上げればきりが無いほどの懸念点や不安材料が目白押しでした。それでも太気拳への入門を決心させたのは、私の心のどこかに「次はこれをやるんだ」「とにかくやってみよう」という何か不思議な確信めいたものがあったからです。

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会員・会友員のテクスト 石の上にも三年

石の上にも三年(会員N)

プロフィール

ペンネーム:N(エヌ)
年齢:42歳 
職業:公務員、現在は、研究職で鉛筆より重いものを持たない勤務をしている。あと2年位でまた、現場に戻ると思われる。その後、また研究職になると思われる。
住所:横須賀市在住、平成15年念願のマイホーム(マンション)を買う。
家族:妻、子2人、長女:中3(反抗期バリバリ)、長男:小5(極真空手少年部の緑帯4級)

1-太気拳に出会うまで(0~21歳)

昭和39年、石川県金沢に生まれる。生まれてからまもなく、父の都合で大阪、東京と転勤し、小学校1年の終わりから、 生まれ故郷の石川県の金沢で生活するようになった。東京からの転校生ということで、言葉使いが女のよう だと難癖を付けられ、小学校2年から小学校5年生までは、毎日のように喧嘩。今考えると、家庭に不満が あり、そのはけ口として喧嘩をしていたように感じる。同じ学年では負け知らずで、1学年上と喧嘩をしていた。

小学生から体格がよく、小学校5年の時には、実父に腕相撲で勝つ。
今思えば、化け物のようなものだったかもしれない。(小学生が力で父親に勝つとは驚愕であろう。もし、 今の息子が私に腕相撲で勝ったら度肝を抜かれると思う。) 小学校2年生の時から格闘技は好きで、映画では「ブルース・リー」、マンガでは、「タイガーマスク」、 「リングにかけろ」や「空手バカ一代」なんかを良く読んでいた。喧嘩ばかりしているため、小5からク ラスで村八にされ、それから本を読むようになる。(それまで、まともに教科書を朗読することができなか った。)最大一日3冊程度読むようになり、小学校6年の時は、単行本を読むようになった。ジャンルはS Fである。その急激な読書のため視力が一気に悪くなり、小学校5年の4月に1.0から小学校5年11月 に0.4まで視力が落ちてしまった。

勉強は、中2から本格的に実施したが、高校受験に間に合わず、志望校は桜散る。
高校では、運動は自分で走ったりするぐらいで、勉強ばかりしていたように記憶している。ただし、ゲーム センターのパンチ測定器をよく叩き、毎回最高記録を出して喜んでいたように記憶している。(記憶では、 最大165kgを出していたように思う。)

昭和58年4月(18歳)

大学に入学、学部は電気科、格闘技は、小学校からやりたかったが、危ないからと親が 許してくれず、ようやく憧れの格闘技ができることとなる。
大学の徒手格闘技は、柔道、レスリング、空手、少林寺及びボクシングとあった。柔道及びレスリングの 組技系は好きではなかった。空手及び少林寺は寸止めであったため、実際に当てることのできるボクシング 部に入部することとした。

練習は、月曜日~土曜日で毎日1時間半。練習内容は、体操3R、移動3R、縄跳び3R、シャドウ3R、 ミット又はサンドバック3R、マススパーリング2R×3ほどを日課としていた。大学時代の戦績は、12 戦8勝4敗、負けは全て判定負け、勝ち8勝のうち5KOだった。

1年の練習内容は最初の2ヶ月は、ずっと縄跳びを跳んでいた。
そして5月上旬~6月 左ジャブ及び右ストレートの練習をしていたように記憶してい る。

8月、最初の夏合宿、初めて本格的なスパーリングを行う。2年生から3年生までをボ コボコにしたように覚えている。大学は、上下関係が厳しく1年生は奴隷扱いとなって いた。ボクシング部に行けば、実力の世界であり、ここで日頃の不満を一気にぶつけて いたように思う。
11月 神奈川大学トーナメントに出場、1、2回戦勝ち、決勝トーナメントで昨年の 優勝大学のキャプテンと対戦し、判定負けとなる。

昭和59年4月(大学2年生)

モントリールオリンピックのボクシング監督をしたK氏が監督となる。この頃からボ クシングは、相手に殴られずに自分だけが殴るのが理想と考えるようになる。ボクシン グは、芸術だと考えるようになる。

この頃から、フック系統を練習するようになる。
練習では筋トレは、ほとんど行わず技術トレーニングがメインであった。右ストレートにおいては、 地面を蹴った力が腰にいき、最終的に手に乗る練習をした。イメージ的には、体をデンデン太鼓の 軸のようにし、手に力を入れず、腰の回転の接線上に腕が伸びていく練習をした。
また、ダブルボールと言って、上下にゴムの付いたボールを天井と床に固定し、それを移動しながら 打つ練習をしていた。

10月 神奈川大学トーナメントに参加する。記憶では1、2回戦目KO勝ち、決勝ト ーナメントで昨年負けた大学のキャプテンにまたもや負けてしまったように覚えている。
結局、そのキャプテンには最後までリベンジできなかった。

昭和60年5月(3年)

この頃からアッパーの練習を始める。大学1年でストレート、大学2年でフック、大学3年で アッパーと実に3年かけて、パンチを磨いてきたことになる。

9月 全日本選手権大会の神奈川予選に出場し、判定負けであった。
この時の負け方はひどく、今でも鮮明に覚えているが、相手のパンチが見えなかった。
見えなかったため、相手のパンチが自分に当たったと同時に自分のパンチを出し相手に当て (相手のパンチが当たるということは、自分のパンチも当たる間合いであるため。)最後まで何 とか根性で立っていたように感じる。相手のパンチに酔ってしまい終わってから便所に行って吐 いたように記憶している。
なお、この相手は、全日本第2位になったように記憶している。

この頃学園祭に友達と来た際に知り合った現在の妻と付き合いだす。
10月~11月 神奈川リーグに参加、3戦3勝2KOであった。この時のKO記録において 1R(ラウンド)28秒という記録があり、今でも破られていないと思う。

昭和61年4月~5月(大学4年生)

関東リーグに初めて出場する。私は体重が当時73kg程度あり、神奈川リーグは67 kgのウェルター級があったので、1年から出場していた。
しかし関東リーグは63kgのライトウェルター級までしかなかった。さすがに10kg以上の 減量はきつく、通常であれば、1週間で減量するところを約1ヶ月間かけておこなった。試合や 練習よりも減量の方が辛かったように覚えている。この関東リーグは1試合出たのみであったが 、2R(ラウンド)KO勝ち。監督から2週間後も試合にでるように言われたが、減量がイヤで 断ったように記憶している。

大学でのボクシングは、こんなところであり、1年生の入った時から強く、結構試合に出た方であった。
昭和62年3月(21歳)大学を卒業。
そして結婚する。

2-太気拳との出会い(27歳~39歳)

27歳の頃、少し腹ができてきたような気がして、格闘技を再開しようと考えた。ボクシングは、頭に衝撃を受けるので、生涯続けられそうな空手をやろうと考えた。どうせやるなら極真空手と思い支部に入門。 以後はずっと空手をやった。

平成8年9月(32歳)

オープントーナメント青森大会3位入賞、この時、K-1の小比類巻選手に勝ったこと を記憶している。小比類巻選手は当時19歳で、キックボクシングを始めたばかりであ った。極真青森の茶帯であり、上京から青森に帰ってきて優勝を狙っていたとのことで あった。この頃の私の組み手は、ボクシングスタイルに蹴りがある程度できるといった 感じのものであり、今のように両足を使って自由に動けるものではなかった。

平成10年2月~6月(33歳)

仕事のため川崎に。
ここで極真支部の出稽古に行った際、「立禅、這及び揺」といったことを習った。しかし、その形のみであって、それがどういう効果があり、どういう意識をもってやるのかは理解できなかった。「立禅、這及び揺」といった不思議な稽古法は、太気拳の稽古であることが分かり、以来、太気拳関連の本を読んだり、意拳の本を読んだりしたが、意味が理解できなかった。「練りもどき」や、「這もどき」をやってみたが、なんかしっくりいかず、直ぐに止めてしまった。以来、立禅を中核とするその不思議な稽古法には興味があり、本屋で太気や意拳関連の本を見かけたら買って読んだが、よく理解できなかった。

平成14年3月(37歳)

横須賀に異動、毎週土曜日は、出身大学のボクシング部に行き後輩の指導をしていた。
11月(38歳)全日本マスターズ(35歳~42歳の部)に参加、52名中ベスト8 となる。この時に負けた相手が優勝したが、体重が120kgもあり、この体重差から 来る圧力は何ともしようがなかった。

これまで、11年間の空手の総括は、まず、力をつけること、相手を上回る体格を付ける努力をしていた。いわゆるパワー空手というものであり、ベンチプレス100kg 1回は最低挙げ、体重を80kg以上(極真に入った時は、75kgで筋肉を5kg増やした。)という具合に、数字的に分かるものは、全て相手以上にし、それから技術 云々というふうに考えていた。

この頃、ある本屋において、たまたま、太気拳戦闘理論(ビデオ)を買った。その理論の明快さとビデオからにじみ出る先生の人柄にあこがれた。そのビデオを見る前まで 、立禅からどのような力が引き出せるのかわからず、武術的に何か効果があるという印象でしかなかった。太気拳戦闘理論のビデオで先生から明らかに常識では図れない力 が出ているのが感じられ非常に興奮したことを覚えている。先生に直接便りを出すことは、恐れおおくできなかったため、当時の横須賀支部代表のAさんにメールを出し、太 気会の練習日程等の確認をした。太気会は会友員としてのスタートだった。

平成15年の5月(38歳)

初めて太気会のセミナーに参加した。 このセミナーで「立禅」、「這」及び「練り」を教わる。「立禅」でも体の各部に力が入っていたり、「這」や「練り」においても、「立禅」の諸条件を守りながら動こう とすると直ぐに体のバランスを崩したりと他の練習生のようにスムーズに動くことができなかった。また、自分の動きが良いのか悪いのか自分で評価できなく、一人で練習 しても無駄だと悟り、セミナーの1週間後の6月(39歳)から正規に太気会の会員となった。
入会当初、太気会の横須賀支部があったため、毎週日曜日、ほぼ欠かさず練習に行った。

平成15年6月から9月までの3ヶ月は、這において、「まともに重心が左右の足に移っていない。」と先生からさんざん指導された。

先生からそのように言われたが、自分のどこが悪いかも自分で評価することはできなかった。やはり、できている人から見ないと、良いか悪いか評価できないと思う。自分 ができるようになって、初めて分かるものだ。それは、新入会員が先生から「這い」を教わり、歩く様を見ると、何処が悪いのか分かるところからも推察できる。
8月、最初の夏合宿で、先生から組手を促されたが、素手素面であり、這いすらまともにできないので、とてもじゃないけど組手はできないと思い断った。その後、先輩方 の素手素面の組手は、迫力があり、組手をやらなくて良かったなあと胸をなで下ろした。

実は、平成15年の2月、太気会に入る4ヶ月前に、私は、近視の矯正手術(レーシック)をしたため、目に衝撃を与えることのできない体になってしまった。手術した 当時、まさか素手素面で組手をするなんて考えておらず、極真空手は、顔面がないから大丈夫であろうと考えての手術であった。 太気会での組手において、自分の目を守るため、ヘッドギヤーとグローブを付けて組手をするしかなかった。他の会員は、素手素面で組手をするに関わらず、私は身体上の 都合から、ヘッドギヤーとグローブで組手をやらしていただいている。私は、そのことに対して、少し心苦しいのであるが、先生と他の会員の了解のもと、太気会の交流会 等に参加させてもらっている。

その年の6月から9月、先生からの指導で2つほど印象に残った事象がある。

1つは、先生の発力である。先生の発力で私は、5mほど木の葉のように吹き飛ばされたことを覚えている。
もう1つは、先生が立禅を組む形にして、私に「腕を押して見みろ。」と言って力一杯押しても動かなかった。先生が、「小鳥が止まっているようなもの。」と言ったこ とが印象に残っている。

そして9月中旬、横浜の元住吉の稽古で練りを行った際、「やっと、歩けるようになったな。今日は記念すべき日だ。今日のことを一生忘れるなよ!」と先生に言われた ことを覚えている。

また11月中旬頃、先生から「腕がはまってきたみたいだなあ。」と言って腕を押された時、自分も全く力を入れないで立禅の形の腕のままでいられ、まるで「小鳥が止 まっているようなもの。」ということを実感することができた。太気会に入って半年、初めて自分は変わったというのを実感できた時であった。 腕がはまってきたので、11月中旬から推手が始まった。推手を最初見たときは、ただ、手を回して踊っているようにしか見えなかった。手を軽く回しているように感じ た。(実際に腕に力を入れないようにして回すため、力が見えない。)しかし、初めての推手で受けた圧力は、相手が真剣に力一杯押しているような感覚があった。 最初は、先生や先輩からの圧力で、毎回腰が痛くなった。この推手が終わった後の腰の痛さは約半年続いた。

そして12月、初めて太気の組手に参加する。初めてということもあり、初心者同士で組手をした。この時の組手は、ボクシングの延長みたいものであり、左半身の構え が固定しており、ただ相手の攻撃を避けるだけに終始していたように思う。

平成16年

1月、今年の太気の目標を、「太気拳挑戦講座」(ビデオ)のある種の歩法ができることに決めた。その歩法は、片足で自分の重心を蹴って後進や横に移動するものであり、傍 目にはとても不思議に見える動きである。

2月、横須賀での組手練習が始まる。私だけの特別ルール(グローブ、私のみヘッドギヤー)でベテランのA氏、R氏及びH氏と組手を始める。ベテランは、明らかに手の 重みが違うことを実感する。この時の私は、組手をしたとき、直ぐに息が上がりゼロゼロ状態になってしまっていた。

3月(39歳)この頃、横須賀の練習場にミットを持って、打撃の練習等をしていた。私が軽く打っているのにミットを持った人から、「肋骨が折れるように重い。」と 聞き、立禅で腕がはまっているから、体の重みが相手に伝わるのかなあと感じたものでした。腕がはまった状態で殴るというのは、あたかも棍棒で人を殴ったのと同じ状 態であり、これは相手にかなりのダメージを与えると考える。

4月下旬、今年、目標にしていた歩法ができようになる。片足でしっかりと立てるようになってきたと実感する。今年の自分の目標を立禅状態での左右の早い動きに変える。 5月、この頃から、「練」において、動きながら左右の腕で打つ練習をするようになる。
止まってワン・ツーを打つのではなく、動きながらワン・ツー・スリー・フォー・・・・・・と切れることなく打っていくものである。

この頃、「太気拳挑戦講座」(ビデオ)にあるような、互いに向かいあって、片手は、相手の肘を持ち、もう片方の手で相手の胸を押して発力を出し合う練習を先生に付け てもらった。しかし、うまくいかず、どうしたら先生のような発力が出るのか不思議に思ったものであった。それから2~3ヶ月、毎回先生にそのような練習をつけてもら い、徐々にコツらしいものがつかめてきた。
この練習で効果を出すには、片方の人に発力ができなければ、効果が少ない。
今、私が発力を出せるのも先生から発力を分けてもらったからではないかと感じている。

5月から7月の間、この頃、先生から「N、立禅の大切さは、いつから気づきだした。」という質問をされるようになる。この時立禅は、まだ、練習前の一種の儀式みたい なものであって、早く他の弟子が動き始めないかなあ?自分だけ這いの練習をしたら、先輩に白い目で見られるかなあ?といった感じで、先生の言う立禅の大切というもの を感じられていなかった。私は、立禅の大切さというものは認識していなかったが、とりあえず、意識で早さを作ったりするものと感じていた。

今でも思うことであるが、世の中で一番早いものは何か?という質問に対して、「人の意識」が一番速いと私は考える。光よりも人の意識の方が速いのである。この理由に ついて、例えば、夜空に見えるアンドロメダ星雲に思いをはせた時、光の速度でも200万年かかるものが、意識では一瞬にそこに到達できるからである。

そして8月、この時の夏合宿で先生と初めて思い切り組手をした。

このビデオは、今でも時々見るが、先生の動き、特に上下が速すぎて、私の視界から何度も消えているのがよく分かる。(ビデオの中の私の目が泳いでいる。)先生は、 優しいので私の視界から先生が消えた状態では、攻撃してこなかったが、もしこの無防備状態で攻撃されていたらボコボコ状態であったと思っている。私は、ボクシング や、空手をやってきて、相手が視界から居なくなるということは感じたことがなかった。

 先生は、私と組手をする前に20名以上と1時間以上連続で組手をしていたが、まったく息切れしておらず、練りの延長で組手をされていたのは驚愕であった。私は、 先生との5分ほどの組手でゼロゼロ状態になっていた。

この夏合宿時、先生から、「もっと、歩幅を狭く、両膝で相手を見るように」や「止まらない、止まらない!止まらないで動きながら打つ!」ということを強調されて いた。通常のボクシングや空手では、止まっての打ち合いとなるが、太気は動きながら攻撃である。
常人が考えたら、止まって地面からの反動で打たないと相手に力が十分に伝わらないと考えるが、太気の立禅を中心とした稽古で、この動きながら打つことでも相手に 相当のダメージを与えることができるようになる。
これが、今までの格闘技にない概念であり、太気拳の真骨頂であるのではないかと考えている。

先生からこの夏合宿のDVDをもらった時、「N、全然太気の動きになっていない。まだ、空手とボクシングの上に太気が乗ったものにしかなっていない。」と厳しい 評価をされてことを覚えている。