立禅の中での開合の力
前後の立禅の次に天野先生に教えていただいたのは、腕と胸のあたりの「開合の動き(力)」でした。立禅で手を顔の前におき、親指を曲げてぐっと起こすようにすると、親指の第二関節の後ろに角張った部分ができます。左右のこの部分にゴムバンド繋がっているような意念を持ち、少しだけ緩めたり広げたしてみます。このときに腕の外側や肩の筋肉を使いがちとなってしまいますが、これとは逆に腕の内側を意識することと、胸が閉じたり開いたりする感覚を味わってみる様にするとよい、とのことでした。これが太気拳の体の使い方のひとつのコツで、打拳や歩法を含む全ての動き方のコンセプトになっている「開合の力」の練習の第一歩でした。
立禅の効果
立禅の効果とは、いったいどれくらいの期間で出てくるものなのでしょうか。物の本には、一年とか三年とか、気の遠くなるようなことが書いてあったりします。しかも「毎日1時間、雨の日も風の日も休まずに」とのこと。太気拳を始めるにあたり、それなりの覚悟はありました。立禅とはいったい何なのか、効果が出始めるまでに一体どれくらいの時間がかかるのか皆目見当がつかない――でもやれるだけのことはやってみよう。とにかく最初の1年は続けてやってみよう――そう思って始めました。
そして実際に効果が実感できたのは、3ヶ月目を少し過ぎた頃で、これには正直、自分でも驚いてしまいました。天野先生に教わっていたのは、立禅(正面向き)と半禅(右向きと左向き)、その中での「前後の動き(力)」と「開合の動き(力)」のみでした。そして先生に要求された点は、この動き(力)ということに対して、「僅かな緊張」と「完全なる弛緩」の状態を味わうこと、感じること、にありました。
極真空手やボクシングを習っていた頃、ミット打ちやサンドバッグ打ちがどうも苦手でした。先輩達は「バンバン」「ボンボン」という感じで、カッコ良く打っているのに、私がやるとどうも「パスパス」といった感じで、超カッコ悪ィなのです。それでも週に1~2回の練習を3~4ヶ月と続けていると、すこしは「バンバン」に近づいてくるのですが、「これは慣れやコツといったこともあるのかもしれませんが、やはりスタミナが無いとできないんじゃないかな」と思い込んでいました。というのは、たまに仕事が忙しくて暫く練習を休んだりすると、サンドバック打ちがまた元の「パスパス」に戻ってしまっていて、再び「バンバン」にたどり着くまでには、また2~3週間は掛かってしまう――そんな経験を何度となくしてきていたからです。
実は立禅を始めて3ヶ月を過ぎた頃に感じた効果のひとつは、このサンドバッグを打つ感じでした。どうも胸のあたりの筋肉がムズムズして、無性にサンドバッグが叩きたい感覚が体にまとわりついていてしょうがないのです。そこで早速近くのスポーツジムへ行き、サンドバッグを叩いてみました。するとどうでしょう(あら不思議)、もう半年以上もそんなもんとはご無沙汰だったにもかかわらず、ちゃんと、というか以前よりももっとしっかりと「ボンボン」とパンチが打てるのです。どうもなにか「貯まっていたエネルギーを使えることに体が喜んでいる」といった感じだったのです。
立禅の効果つづき
またある日のこと、立禅をしていると無性に走り出したくなったことがありました。この頃は、ジョギングもしていなかったし、もちろんダッシュもやっていなかったのに・・。それでちょっと立禅をやめて、ダァーと50メートル程でしょうか公園の中を走ってみました。足の筋肉が喜んでいるのがよくわかります。走って、走って、走って、走って、走って、足の筋肉が嬉しいと云っています。とても不思議な感覚でした。
この件を天野先生に聞いてみました。「立禅をしていて、ダッシュをしたくなったんですけど、これは何故なのでしょうか?」と。先生の説明はざっとこんな感じでした。「立禅の中ではいつも中途半端な状態を維持しつづけている。開合をとってみても、グワッと大きく開いたり、グッと手と手を合わせて閉じるという動きはしない。あくまでも立禅の姿勢の中で動かしてよいのは、せいぜい1cmか2cmくらいなもの。そうしていると体がムズムズしてきて爆発的な力を出したくなる。立禅や半禅の姿勢は、一体どういう形なのかというと、全身の各部がちょうど良く中途半端になっている状態にある」――ということでした。この説明を聞いて「なるほど!」と納得の富川でした。
暗中模索の中、教えられるままに、立禅の中での前後の力と開合の力を味わっていただけの3ヶ月間。そして自分の体の何かが変わって、それに対する明確な理由付けをいただいた。このことは、私が後々、太気拳の稽古を続けていく上で大きな礎(いしずえ)となる貴重な経験でありました。
それはつまり順序だてて言うと次のようになります。
1.先生が何か新しい事を教えてくださる。
「こういう風にすると、こうなるでしょう」と説明してくれる。
2.自分は今ひとつ理解が及ばない。とりあえず何回かやってみていると、少し動きがスムーズ
になってくる。
でも先生が言わんとしていることには、どうも話が繋がってこない。
3.二日、三日と先生の言葉を思い出しながら、繰り返しその動きをやっていると、自分の体の
中に「あっ!先生はこの事を、この感覚のことを言っていたんだな!」とあるとき突然に理解
する。これがひとつのことの場合もあるし、2つ3つの事が芋ずる式に出てくる場合もある。
4.自分の体を通してて感じたことを先生に確認してみる。たいていは1のときに既に言われた
説明であるが、それに理由付けも加わって、よりいっそう理解が深まる。というか自分の体の
感覚を明確な言葉で説明していただいて気持ちがとてもすっきりする。
これは天野先生に教えていただくひとつひとつの全てのことに当てはまります。そして段階を追っていくと、立禅→這い→推手、という単調な練習の中に奥行きが出てきて、そこからまた別の課題を与えられ、新しい発見がある。これが太気拳の稽古の一番の喜びであります。
ジグザグ歩法と加速歩法
この年の夏、新しい歩法を教えていただきました。這いの歩法に比べてやや腰高で、初めはゆっくりと確実に行い、その後、徐々に速度を上げていき組手のときと同じ速さにしていきます。
初めは手を体側に広げてバランスを取りやすいようにして、足腰の安定とバランスを重視して行います。やや斜めに踏み出して、右、左、右、左、とそのつど軸足の一本だけでスッと立っているようにします。一歩進む毎に、ピタッ、ピタッと片足だけで上体をまっすぐにして止まるイメージです。(膝はやや曲がっている) この時に遊足が軸足の横にあると体が左右に振れやすいので、遊足の踵を軸足のつま先の真上に重ねるようにします。こうすることにより、股関節も閉じ、左右のバランスが取りやすくなります。
足腰と全体のバランスが取れるようになってきたら、次に手をつけて行います。手首が目の高さになるように両手を前に挙げ、右足が軸足の時には右手が、左足が軸足の時には左手が、顔面をガードするような位置を取り、もう片方の手は同じ高さで、常に両腕の手首から肘までが平行に、やや前後しながら動くようにします。そして後退(後ろ向きに進む場合)も同様に練習します。ここまでは這いの鍛錬を行っていれば、そこそこ簡単にできてしまうのですが、次の加速歩法は、ちょっと難しいかもしれません。
(注記)「ジグザグ歩法」、「加速歩法」という呼称は、私が勝手につけたもので、正式には何と言うのかわかりません。ただ便宜上、呼び名がないと説明しにくくなってしまうので、それらしくネーミングをさせていただきました。
前述のジグザグ歩法ではフットワークとして、スピードを上げていくのには、おのずと限界があります。特にに足が揃っている状態から一歩踏み出すときに、ワンテンポ遅れるというか、足(股関節)を開く力に初動の加速力がつきません。そこで加速歩法では、軸足を一瞬、進行方向とは逆の方向に、一足分ほどずらすことで、股関節を開く力に加速をつけるようにするのです。
要領としては、大体次のようになります。
【前進するとき】
1.最初、左足が軸足で、その上に骨盤および上体がスッとまっすぐに立っているように
します。軸足の膝は少しだけ曲がり、遊足がある右足の踵は左足つま先の上に
浮いている状態におきます。
2.次に右足を右斜め前へ一歩踏み出す訳ですが、その前に左足を左斜め後へ一足分
ずらします。そしてその反動で右足を前へ飛ばし、右足が接地したと同時に左足を引
寄せます。(引き寄せた左足の踵が右足つま先上に浮いているようにする)
3.同様にして、右足を右斜め後に一足分ずらした反動を使って、左足を左前方へ踏み
出し、接地したらすぐに右足を引寄せます。
【後退するとき】
1.最初、左足が軸足で、右足の踵が左足のつま先上にあるとすると。
2.右足を右斜め後へ一歩後退させるために、一瞬だけ左足を左斜め前に一足分ずらし、
その反動を使って右足を右斜め後ろへ一歩後退させ、接地したと同時に左足を引寄せ
ます。
3.同様にして、右足を右斜め前に一足分ずらした反動で、左足を左斜め後ろに一歩後
退させます。
どの状態の時も上体はほとんどまっすぐで、軸足の上で大きく傾くことは無いようにします。
【軸足のシフト】
上記の説明の中で、特に「軸足を進行方向とは逆方向に一足分ずらす」という部分が解りにく
いと思いますので補足いたします。 「軸足を進行方向とは逆方向に一足分ずらすこと」を便
宜上、「軸足のシフト」とネーミングしましょう。シフトには、「入れ替える」「切り替える」「ずれる」
「ずらす」等の意味があります。 軸足のシフトを行なうときのまず第一の注意点は、上へ飛び
上がらないことです。逆に下に沈み込むようにして行います。どの足をどちらへシフトさせる場
合も同じで、骨盤から頭頂までがまっすぐになっている上体を、まっすぐそのままで、真下にズ
ンッと重心をかけて落とします。そしてこのとき同時に軸足のシフトを行なうのです。
文房具のコンパスに例えるなら、通常その先端には鉛筆と針とがついていますが、これが、両
方に鉛筆がついていると考えてみてください。このコンパスを2cmほど広げてある状態にし
て、机などに押付けていくと両足が均等に広がって行こうとします。この状態をイメージして、
自分の両方の足を一足分だけズズッと広げてみてください。初めは、ずらす前もずらした後も
両足が接地しているようにします。何回かやってみて、この感覚を体が覚えたようになった
ら、今度は両足をズズッとずらした直後に片足だけを地面から少しだけ(1cmほど)浮かせてみ
ます。このときに自分の上体は、設置している足とは反対の方向へ自然に動いていこうとする
はずです。この自然に動いていこうとする力に、股関節の開く力を同調させて加速させるよう
にしていきます。
推手で飛ばされる
推手の練習も3ヶ月を過ぎる頃になるとだんだんと要領を得てきます。表面的な体の動きができてくると、次に要求されることは、「自分の中心を守って、相手の中心を奪うこと」だと天野先生は言われます。富川はどうも理解が及びません。「自分の中心を守る」ということには、どうも2つの意味があるようです。ひとつ目は自分のどちらかの手が常に自分の顔の前にあり、顔面を(自分の中心を)守るようにするということ。もうひとつは、自分の体の重心がしっかりとしていて、その重さの方向が常に相手の中心に向かっているということです。
しかしながら、実際にはそう簡単にことは運びません。古参の大先輩であるRさんと手合わせする時などは、全くなすすべも無いといった感じになってしまうのです。手を廻しながら、全体重を前腕を通して相手に押し当てていっているつもりが、ズルッと去なされてしまったり、体の中心の守りの甘い私の両手の間をいとも簡単に通り抜けたR先輩の掌が私の胸元に触れ、アッと思った瞬間にズズッと押込まれ、体が浮いてしまい、後はもうポンポンポンポンという感じになってしまいます。
天野先生に相手をしていただくときには、また感じが違います。相手の悪い点を指摘しつつも、正しい方向へ導いてくれる(誘導する)ような推手をしてくれている様なのです。とは言っても入りたての頃とは違って、だんだんと厳しくもなってきます。先生に発力されるとほんとうに後ろへ3m~4mはふっ飛んでしまいます。たいていは手をつかんで停めてくれるのですが、回転方向に崩されたりすると、勢いあまって転がってしまうこともあります。うぅーん、推手とはなんと厳しく、奥の深いものなのでしょうか。でも、またそれが楽しいんだけどね・・・ (^^;