カテゴリー
天野敏のテクスト 閑話休題

二人合わせて百十歳

別に夫婦合わせての年齢ではないが、十分にフルムーンに値する。
ある弟子と組み手をしたときの二人の年齢の合計だ。
曰く、百十歳組み手。
五年前には二人して「百歳組み手だね」と笑った。

私が五十六歳で、弟子が五十四歳。
これが結構強い、小柄で普通の叔父さんだが老獪な組み手をする。
勿論私とだけでなく、二十代三十代の兄弟弟子とも同じように組み手をする。
結構若手の壁のようになっている。
組み手だけでなく、推手は組み手以上に目標のようになっている。

私を除いて五十代が三人いて、彼らも勿論組み手もするし、推手もする。
新しい弟子が入ってくると、五十歳でも組み手するんですか、と驚く。
それがだんだん当たり前に見えてくる。
当たり前どころではない、自分が五十代に勝てないことがわかってくる。

経験は伊達ではない、と言うのは、経験は体力や身体能力を凌ぐことがあるという事だ。
勿論それを凌げる経験の蓄積が無ければ話にはならないのはあたりまえ。
体力を凌ぐ経験が無ければやられる、それだけ。
(本当を言うと、体力だってそんなに落ちるモンではない、と思っている。)
経験とは組み手の積み重ね。
多くの組み手を経験して、工夫する。
それは私だって同じ事、そういった蓄積の上に工夫が成り立つ。
体力では負けても経験と洞察力、そして組み手の工夫では負けない。
二十代での経験と工夫は勿論必要だ。
しかし、五十代の経験と工夫は、その内容の厚みが違う(と信じたい)。

なんで年齢に関わらず組み手を当たり前にやるか、と言うと体力的なことだけが理由ではない。
簡単に言えば、大事な事は五十代になっても彼らが権威を背負って無いからだ。
何段だとか、そう言う権威を持っていたら彼らも気軽に組み手が出来ない。
負けたら権威が失墜する。
ところがそんなものは何処にも無い、余分な権威が無い。
権威なんて所詮他人が作り出したもの、そんなものに絡め取られる必要はない。
だから自由に組み手が出来る、誰に負けても恥ずかしくない。
此処にいる俺とお前が組み手する、それだけ。
負けて失う権威なんて無い。
それが良い。

私だって、自分が権威だなんて思った事はない。

勿論打たれれば悔しい。
でも素直に悔しいだけで、そこに背負っているものは無い。
あるとすれば、それは自分の矜持、それがあるから悔しい。
もし失ったら努力して取り戻せばいいだけ。
悔しいって言うのは楽しみの一つだ、バネになって力になる。
それ以外に失うものが無いって言うのは自由だ。
だから自由に組み手が出来る、自由だから楽しい。

普段の生活の中は不自由だらけ、しがらみってヤツだ。
武術をやっているときくらいは、そんな不自由から開放されたって良い。