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天野敏のテクスト 閑話休題

はしっこい奴

小中学生に何か武術を習わせたいのだけれど、と言う相談を受けることがある。どんなものが良いか、と言う質問。 私の答えは簡単、武術なんて習わせない方が良いですよ、と答える。小さい頃はそれこそ球技などで自由に走り回る方が良い。 野球でもサッカーでもバレー・バスケと色々ある。でも武術はやめた方が良いよ、と言う。 いろんな武術の経験者を山ほど見ている私が言うのだから間違いが無い。もしどうしてもやらせたいならせいぜい柔道くらい。 畳の上で跳ね回っていれば良いと思う。小さい頃は身体を自由に動かし、柔軟で豊かな創造力を養っておかなくてはいけない。 武術をやるならそういう最低限のものが出来てからの方が良い。 だいたい年端も行かない子どもに何が悲しくて相手をやっつけるなんていう事を教えなくてはならないか、と思う。 (太気拳は別だと思っているが、それだってある程度からだが育ってからの方が良い。だから私は子どもを教える気は全く無い。) なぜなら、ほとんどの武術と言うのは窮屈で形に拘っていて、逆にそれぞれの自由で創造的なものを摘み取ってしまうからである。 形を決めてそれを守る事を強制する。それぞれの個性を摘み取り、型にはめることが流派の個性だといわんばかりである。 子どもに自由にのびのび育ってもらいたい、と思ったら武術は習わせない方が良い。 子どもの頃からずっと武術をやってきました、と言う弟子も何人かいるが、そういうものほど最初は手がかかる。 何故かと言うと自然にやってよい、という事の意味を理解できないからである。こういう姿勢が良い姿勢と教えられる。 こういう時はこの技をと教えられる。だからそれを守ろうとする。何故かわからないけれど、と言う但し書きつきで何かを守ろうとする。 人に言われた事を守るのではなく、自分がこうしたらどうだろうと工夫するのが創造力である。 ところが大半の武術は最初に技ありきだから、創造的なところが無い。違う事をやるとそれは流儀ではないという。 人の創造力を矯めるのがほとんどの武術である。だから武術をやっている人は本人の思惑とは別にそれほど強くない。 武術を10年、15年やっても、力が強くはしっこい奴には勝てない。殴る蹴るの稽古をいくらやってもこういう手合いにはそうそう勝てるものでは無い。 多分やっている本人もそう感じている。力が強くはしっこい。本当に大事なのはこれである。 「力が強くはしっこい」この言葉の中には武術に必要な力強さや柔軟性、そして創造力が含まれている。 「何をやるかわからない」これが創造力であり、武術で実は一番大事なことなのである。太気拳では有形無形と言う。 形あって形無し。力強く、柔軟、そしてはしっこい、これを形あって形無しと言う。 技術がどうのこうのではなく、太気拳はそうなるための拳法である。様々な武術を経験して太気拳に辿り着く弟子がいる。 そして初めて武術が形や技術で無いことに気づく。こうきたらこう、そんなマニュアルの繰り返しで強くなれるなら誰も苦労しない、そう気づく。 そこが彼の新しいスタート地点になる。