カテゴリー
天野敏のテクスト 閑話休題

写真というものは面白い

写真というものは面白いものだと思う。当たり前だが静止している。静止しているが動きのある写真と動きの無い写真がある。 止まっているのに動きを感じる。紙の上に印刷された粒子の集合から視覚が何かを感じ取る。改めてなんでこんなことを感じた かと言うと、自分が海で遊んでいる写真を見つけたからである。サーフィンを始めて2年。自慢ではないがヘボである。なかなか 上手くならない。ただそれなりに遊べるようにはなった。で、インターネットでサーフィン関連のサイトを検索していて自分の サーフィンしている写真が載っているサイトを見つけたのである。近所の写真屋さんが運営するサイトで、近場のポイントでの サーフィンの写真を公開している。もちろん気に入ったのがあればプリントもお願いできる。たまたまそこに何葉かの写真を見 つけたわけである。写しているのは台風などで波のサイズが上がった時。だからほとんどは上級者の写真である。いつも顔をあ わせる顔なじみの写真もいくつかある。皆なかなか格好よい。サーフィンをしている写真だから、当然のごとく動きがある。 当たり前、と思ったら動きの無い写真がある。誰だ、と思ったら自分の写真だったのである。おいおい、と思わず悲しくなった。 見た目でこんなに違いがあるものか。上手と下手が写真でこんなにもはっきりと判るのか、である。写している瞬間は実にいい瞬間である。 太陽に波がきらめいて崩れかかる。そこをサーファーが滑り抜けようとする。そんな一瞬を切り取った写真のはずが、ヘボのおかげで台無し。 まるで躍動感の無い写真になってしまっている。どこがそんなに違うのか、なぜ上手い人のには動きが感じられて、私のにはそれが感じられないか。 見るのではなく、今度はじっくりと観察する。判った。視線が違う。私の写真(ということは私のサーフィンと言うことになるが・・・) は視線が足元を向いている。上手い人は皆視線が次のあるいはその次のアクションのためのゲレンデを見ている。遠くを見ている分だけ 長いスパンのイメージを作ることができ、変化に幅が出来てくる。有体に言えば、眼の前しか見ていないのが私、だからイメージが貧困で 変化の幅が無い。未来を見据えているのが上手い人で、イメージが豊富な分変化にも柔軟に対応する。その違いが動きのある写真とそうで ないものを分けている。現在の動きを身体が表現し、視線が未来を暗示するとでも言うか、そこに動きを感じ取るわけである。背景が波と言う、 変化の権化みたいな自然だから余計に動きのなさが際立つわけである。まあ、眼の前ばっかり見ないで、きちんと将来のことを考えなさいよ、 なんて昔誰かにいわれたような気がする(将来のことばかり夢見ないで、きちんと足元を見なさい、なんてことを言われた記憶もあるが)。 どうも三つ子の魂百まで、いまだに変わっていないらしい。サーフィンだから、遊びだからこれでもいいが、ことが拳法になると困ったことになる。 長いスパンで遠くをしっかり見つめながら、同時に地に脚がついた稽古を今出来ているか。弟子に言うより自分に言い聞かせないといけない。