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天野敏のテクスト 閑話休題

記念写真

学生時代の友人が引越しをした。近くと言っても電車で15分ほど。早速引っ越し祝いに一升瓶片手に訪問。 引越しから2週間であらかた片付いている様子。なんと言ってもその友人は引越しが趣味のようなもの、手際がよい。 知っているだけでも二桁の記憶がある。毎年住所録を書き換えないと出した手紙が戻ってくる。引越しの理由は良く判らない。 だから趣味と言うのだ、と友人の奥さんは言う。何かよんどころない事情があって(例えば仕事の関係とか)と言うわけではない。 住む町が気に入らないと言うわけでもない。ほとんど同じ町内と言える範囲で引越しをする。 引越しだって只ではない、引越し貧乏と言う言葉があるくらいだから費用も当然かかる、なのに引っ越す。 確かに新しい住まいに移る、ということは何かワクワクするが、引越しという大仕事の労力を考えると普通は二の足を踏む。 近所付き合いだってある。そこら辺を酒を飲みながら話していると、要は物を溜め込みたくないのだと言う。 だったら引越しをしなくても大掃除でいいじゃないか、と思うがどうもそう言うものでもないらしい。 「新しい酒には新しい酒袋を」とか何とかいいながら結局「趣味だからね」。しかし、考えて見るとどうも人には二種類いるような気がする。 物を捨てられる人と、ものを捨てられない人。件の彼は、捨てられない性格なのに、敢て捨てよう溜め込まないでいよう、と言う事なのかもしれない。 何か執念じみたものを感じる。私はどちらかと言うと捨てる方に属する、と言うか物にあまり固執しない。自分のものは布団と茶碗があればいい。 いろいろな記念品にもあまり執着はない。どこそこに行った記念の品とか、あるいは写真もそう。 よく観光地で写真やビデオを撮りためる人がいるが、私はせいぜい2.3枚。現地に行ったアリバイ程度にしか撮らない。 いいところなら記憶に残せばいい。忘れるならそれでいい。写真を撮っているとそっちに気持ちがいってせっかくの気分が台無しになる気がする。 大事なのはそこに行って何かを感じたという経験であって、行ったという記録ではないはず。 あっと、これを書いていて今沢井先生の写真嫌いを思い出した。 外国から武術を習いに来てすぐ記念写真を撮りたがるのを嫌がったのは案外これと同じ気持ちなのかもしれない。 武術で大事なのは記念写真という記録ではなくて、その時その場で何かを身体に感じ・経験し・刻印すること。 それが稽古という事。日常生活だって土台記憶に残るあるいは残したい事などそうそうある訳ではない。 今までの人生を振り返ってみれば確かに様々なことの積み重ねには違いないが、明確に記憶に残っていることなどほんの僅かでしかない。 大部分の記憶から欠落してしまっている経験から今の自分が作られている。多分記録を残すっていうのは、そこに何かの達成感があるからだと思う。 だけど達成感と言うものはほんの一瞬でその瞬間はもう過去だからいいんじゃない、次行こう次へという性格なのかも知れない。 これは格好よく言えば無常感。無常というのは別の言葉にすると過程。生きていくと言うことは要は過程を生きていくと言うこと。 武術もおんなじで名人とか何とか言うのは周りだけで、稽古と言う過程にしか武術はないのかもしれない。 あっと、これも沢井先生の言葉を借りれば「昔強かったなんていうのは何にもならない」か・・・。 「昔強かった」って言う記念写真はやっぱり捨てたほうが良さそうだ。