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天野敏のテクスト 閑話休題

誕生日 たったの55歳

誕生日を祝ってくれた家人が寝た後、グラスに氷、ウイスキーを注ぐ。

電気を消しガラス戸をあけて濡れ縁へ座る。まだ肌寒い新月の春の宵、空に星がいくつか、庭の隅にほの白く鈴蘭。 グラスの氷がピシ、キュッと音を立てる。氷に閉じ込められた空気がグラスから漂いだす。鈴蘭の上を漂い空に消えていく。 星までの距離は何光年かあるいは何万光年か。グラスに浮かぶ氷に閉じ込められていたのは南極の空気。 一万年前の雪に閉じ込められ、潰され封印された空気。地上のどんな騒ぎも何ひとつ知る事なく眠る空気。 ウイスキーの冷たい熱がその氷を溶かし、一万年前の空気が遠い旅を終えた星の光の粒子を浴びて広がっていく。 白く浮かぶ鈴蘭の根の下にはゴカイから進化したミミズ。気の遠くなる時間の集積が当たり前のように自分の周りを取り囲む。 人の先祖が海から上がろうと決心したのも、今日のような新月、大潮の日かも知れない。地球が46億歳、ミミズが4億5千万歳、 海が9千万歳、ヒトが5百万歳。今日の誕生日で私はたったの55歳。グラスの氷が笑うように音を立てる、ピシッ、キュッ。

思わずくしゃみが出る。何処かで誰かがネリリし、キリリし、ハララしている証拠かもしれない。