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天野敏のテクスト 閑話休題

百年の孤独

拳法に限らないが、面白いというのはどこから来るのか、と考えて見てわかった事がある。それは思いもしない事とめぐり合うから。 つい先日もそんな事があった。思いもしない事、とは昔の自分。先日、あるきっかけで昔読んだ本を読み返そう、という気になった。 本の名前は「百年の孤独」、作者はガルシア・マルケス。確か学生のときに読んだ記憶はあったが、細かくは覚えていない。 何故この本を読んだのかさえ覚えてはいなかった。本は確か実家においてある気がしたが、とりあえず図書館に行って借りる事にした。 開放書架には置いてなく、司書の方にお願いして、地下の書庫から出してもらう。 司書の方から本を受け取るとき、ハッとなった。覚えている、この装丁、色・大きさそして段組み。 思わず手にとってページを開き、本の匂いを嗅いだ。本を手に取り、ページを開いた瞬間、本の内容とは無縁に30数年前の自分を思い出した。 何故、「百年の孤独」を買いに行ったか、本屋への道すがらの照り返す陽射し、そのときの自分の考えていた事、感じていた事。 自分がこれからどうなるのか、どう生きていくのか、頼りなさとともに傲慢であった時代。 そう、この本を買いに走った頃、頭の中にこだましていた言葉、「本を捨てよ街に出よ」。 故寺山修二のシャイでありながら不遜な風貌とともにこの言葉に心を射抜かれていた。 その寺山修二がこの本に触発されて製作したフィルムがあり、それを見た直後に本を買いに走ったのだ。 どこで見たのか、どんな内容であったのかさえ定かではない。 ただ、本屋へ急ぐ時の照りつける陽射しと共に、あやふやでありながら何かを見つけようとあせっていた自分を思い出す。 その数年前にはやはり「見る前に跳べ」の言葉に頭の芯は熱を持っていたあの頃。 そんな自分の姿が「百年の孤独」の装丁・手触りとともによみがえってきたのである。 時間の経過と共にいつの間にか鈍磨して埋もれてしまっていた記憶。 それは出会った事すら忘れていた学生時代の恋人と街で偶然出会ったような気分。 時代は1960年代後半から70年初頭。成田では、空港反対運動がますます先鋭化していた。 新宿での街頭闘争は一時的に解放区を現出させ、学生街はフランスのカルチェ・ラタンを髣髴とさせていた。 中国では、後衛兵が「造反有理」を叫び、既存の文化の否定は嵐のごとくであったと聞く。そんな時代だった。 一冊の本が、変な話だが、その内容とはまるで関係なく昔の自分との出会いを引き寄せる。 面白いとはこういうことを言うのだろう。 予定して、あらかじめその結果を予見して何かをやっていると、それ以外には目を向ける事ができなくなってしまう。 これは太気拳でもおんなじ。この稽古はこのためにやっている、なんて考えると新しい発見を見落としてしまう。 人生が面白いのは、思ったとおりに行かないからで、思ったとおりに行かないからこそ、思いもしなかった事に遭遇する。 昔の恋人との出会いなど、そうあることではないが、それでも結構人生は面白い。