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会員・会友員のテクスト 富川リュウの太気拳修行記

平成20年・夏の章

ハーフ&ハーフ

前回の初夏の章の最後に「自分なりに工夫を凝らし臨んだ7月6日、少しは組手が良くなっていた」と書いたが、その工夫についての報告をしておきたいと思う。

6月28日の組手では「身体を透明化し、思いをゼロ化する」感覚で臨んだが、これでは緊張感に欠けていると感じた。「脱力」を意識するあまりに「ゆる過ぎる状態」だったのだ。その日の組手の終了間際、自分の手に力が無く、これではその瞬間が来ても打拳を出せないなと感じて、ちょっとだけ力を入れてみて、最後の1分間だけいい動きができたので、それがヒントになった。

そして次の日からの立禅で「ハーフ&ハーフ」にトライしてみた。力が完全に抜けている立禅の姿勢から、少しだけ手に力を入れてみる。そしてそれを全身を震わせながら、力んで緩める、力んで緩めるを繰り返しながら、6/4から 4/6の辺りに調整し、なんとなく5/5くらいかな、という所を探す。実は、このやり方は気持ちの作り方にも応用可能で、主に眼の焦点の合わせ方、目の前の全体の風景の見方に対して、目をカッと見開いたり、全体をボゥ~を見る状態を、ハーフ&ハーフに調整してみて、良い結果が得られたのだ。

上腹部の使い方

次の夏合宿に向かい、天野先生から皆に対してのテーマは「体幹部の使い方・体幹部からの力の引き出し方」ということだ。まずミゾオチから下を足だと思って使えとのこと。そして初めに、ミゾオチから上だけを肩と腕と頭を一緒に回転方向に捩じってみて、一番力が抜けて、気持ち良く捩じれる感覚を見つける準備体操から始めた。そして次にヘソからミゾオチの間だけを捩って使う。腰と肩はそのままの位置で、上腹部だけを捩じって使うのだ。ここでもポイントは同じ、一番力が抜けて、気持ち良く捩じれる状態を捜すのだ。

これが半禅で出来るようになると、自分の組手が大きく変わった。相手の顔に対して、自分の手が(打拳が)真っ直ぐに入って行くのに対して、自分の顔は少しだけ(イメージ的には約10度)横に入っていく。そしてその時のハラの向きはというと、相手に対してかなり横を向いている(イメージ的には約45度)。しかしこれでは順番が違う。まずハラが相手の頭部を打ち抜く感覚で45度方向を向き、次に頭が少しズレて入っていく。そして、この二つが組み合わされた結果として、打拳が相手の正面を捉えてくれる様になった。

ハラを「くの字」に

前述のハラを捩って使う感覚が身につくと、探手での打拳のキレが一段と良くなった。しかしそれでも天野先生からの色々なアドバイスを思い出しながら、何が足りないのかを考えて探手をしていると、自分の中から色々なものが出てくる。「打拳を打つ探手はあまり重要ではない」「手はいつも顔の前」「打ってしまったら、すぐに打ったことは忘れる(それが当たっても当たらなくても)」「相手が来た瞬間に、体を緩めて地面を掴んで、体全体を縮ませる」。ということは「引き手が重要」ということではないか! そう思い、打った手がすぐに所定の位置へ戻ってくるように工夫してみた。手だけで戻しても何か空しい感じがした。ならばどうするのか。フッと体全体を縮めてみる。コレだ!少しアゴをだして、ハラを「くの字」に曲げる動きに引き手の動きを連動させることで、手が体に戻ってくる感覚が得られた。後日、この件で天野先生から教えていただいたことは「少しアゴをだして、ハラを「くの字」に曲げる」ときに見つけたハラの感覚はそのままで、「アゴを出さずに、ハラも「くの字」にはしない」ということだ。その時のハラの感覚、ハラの奥のほうがキュッとなる感覚をキープすること。そして、頭部・胸部・腹部があるラインに揃っていることが重要だとのことだった。

緊張と弛緩

ハーフ&ハーフの感覚で立禅ができ、上腹部の使い方が解り、ハラがキュッとなる感覚が身についてくると、緊張と弛緩の相反する要素が両立できる状態が見えてきた。今年の春くらいまでは、リラックスすること、固くならずに緩んでいることを第一優先に考えて稽古してきていたが、それではやはり限界があった。ここへきてやっと体も気持ちも、緊張の中の弛緩、弛緩の中の緊張ということが実現できつつある。

これは天野先生の云う所の「ただ緩んでいるだけでは駄目で、いつでも締められる、いつでも力を出せる緩んでいる状態が必要」ということにも通じる。

これを体得するための近道というものがあるのだろうか? 大抵の初心者は、はじめて立禅を組むと、まず首と肩肘に力が入ってしまう。そして個人差はあるが数ヶ月で首と肩肘のリキミは取れてくる。そして次は腹と背中、ここのリキミが取れるまでには、ずいぶんと時間がかかる。自分の場合には、約8年の時間を要した。そして9年目に入ってやっと緊張の中の弛緩、弛緩の中の緊張ということが実現できつつある。

用心深くなれ

7月20日の岸根公園での組手で、ハラにヒザ蹴りをくらいダウンしてしまった。この時に意外な発見があった。もちろんその瞬間に自分のハラがガラ空き(ハラに締めの無い状態)だったことはいうまでもないが、もっと大事なこと、もっと違うことに気がついた。

この2週間前に、同じ場所で同じメンバーと組手をした。一人目は、空手経験者の小柄なTさん。そして二人目は私とほぼ同じ体格のS拳法経験者のKさんだ。この時は、Tさんに対しては、やや優位に立てている組手ができた。Kさんにはやや押されぎみの組手だった。そして7月20日、この2週間での自分の進歩に自信があったので、Tさんに対しては伸び伸びと、楽勝ではないものの、いい感じで自分の組手ができた。そして続けてKさんとの組手。前回は押されぎみだったものの、今日の自分は違うんだぞ、と意気込んでいた。そしてハラにヒザ蹴りをくらいダウンした。いったい何が悪かったのか。

その対戦でKさんと向かい合った瞬間に「あ、この人は強い」という感覚があった。しかし自分で自分のその感覚を無視した。今日の自分は違うんだぞ、という自分の思い込み・自分勝手な考えを優先させ、そして失敗した。ここでの教訓は、自分の思い込みや推測などは二の次にして、「あ、この人は強い」という感覚の方を優先させ、用心深く組手に臨むべきだ、ということだ。

充実感

8月1日からの3日間、熱海にて夏合宿が行われた。私は初日の金曜日に休みが取れたので、初めてフルの3日間に参加することにした。去年までは、体力に自信が無かったこともあり、日帰り参加することがほとんどだった。それが何故か「今年はいけそうだ」という感触があった。ひとつには体力がついたこともあるだろうし、体がこなれてきて無駄な所に力が入らないので疲れにくい、ということもあると思う。しかし今回の夏合宿で改めて気付かされた点は、長い時間の一人稽古に苦痛を感じなくなっている自分を発見したことだった。

例えば何も予定のない休日に、近所の公園で自主練をしようとする。夕方になり、あまり暗くならないうちにと、エイヤっと重い腰を上げ、午後4時くらいに自宅をでる。30分だけか、一時間まで行うのか、気分はややもすると短めの時間で切り上げるほうに傾く。それでも自分は稽古が好きなほうだと思っていた。何も予定のない日は、ジョギングするよりも、プールで泳ぐよりも、立禅をすることがとても楽しいからだ。

今回発見した自分は、立禅も這いも、ただメニューをこなすのではなく、思考と実行をセットで行うようになっていた。労働者が課せられた責務をもくもくと果たすというよりは、研究者が自らの興味・関心から派生した事柄を研究することが仕事であるように。仮定し、検証し、出てきた解に基づいて再び仮定し直し、また検証する。そんなふうに自分の稽古を組み立てられるようになっていた。

欠落感

初日、金曜日の稽古のあと、夕食後の部屋飲みで、いっぱい飲んで、いっぱい喋った。いや、はっきり言って飲みすぎた、喋りすぎた。土曜日の朝は二日酔い。そのまま稽古で汗をかき、昼にはほとんど酒も抜けたが、胃腸が疲れているせいかあまり食は進まない。午後の稽古の締めは、やっぱり組手。さんざんな結果だ。二日酔いのせいにはできないが、初対面の伊豆同好会の面々の手前にもかかわらず、いいところを全く見せられなかったので、ずーんと落ち込んだ。その日の飲み会でのお喋りは一気にトーンダウン。何だか全然元気がでない。そういう訳で、夜は皆がワイワイ盛り上がる中、一人早めに床に着いた。ちくしょう!明日こそ、不完全燃焼ではない組手をやりてぇーと。

翌朝、早く目が覚めてしまい、一人、体育館に行く。30分ほど自分のイメージで探手を行う。なかなかいい感触だ。そしてその日の稽古の締めも、やっぱり組手。不完全燃焼感こそ無かったものの、何かに手が届きそうで、全く届いていない欠落感。そんな欠落感をまざまざと感じさせられた夏合宿の最終日だった。

聞きたいことが分からない

熱海からの帰り道は、私と天野先生と後輩のYさんの3人が電車の中にいた。組手に対して、どういうアプローチをしていけばよいのかを聞きたかったが、尋ねるための糸口がない。分からないのだけれど、何が分からないのかも分からないので聞きようが無い、という有り様だ。それでも、○○ということは、どういうことなんですか?と的外れを承知の上での質問をすると、天野先生は丁寧に答えてくださった。

アプローチの違い

組手の始まりは、打ちに行く、当てに行く、ということではない。まず「抑える」、つぎに「触れる」、そのつぎに「変化する」、そして変化のあとはまた「抑える」に戻る。富リュウは自分が組手のセンスがないと思うんだったら、「抑える」から入って「触れる」ところまで行って、相手と自分の状況を良く観察してごらん。そしたら打たなくてもいいから、また「抑える」の距離にまで戻ればいいんだよ。そんなアドバイスだった。

帰宅後、そのアドバイスの意味を反芻するように天野先生の著書「組手再入門」を読み返してみた。実に4割ほどがそのための説明にページを割いていた。「打ちに行く、当てに行く」という意識でいたときには、あまに目に入らなかった点だ。いや、それなりに読んで解っていたつもりにはなっていたが、自分の意識がそれを(抑える、触れる、変化するを)プライオリティの低いほうに分類していたのだろう。

そしてもうひとつ、一昨年の夏合宿のビデオを見直してみた。さすがに一年前に比べると少しは自分も成長しているだろうとの自信がほしかったのかもしれない。だけど、自分のしょぼい組手を見ても何の感触も無い…。しかしここで、驚きの新事実を発見!それは天野先生の組手のスタイル。まさに、抑える、触れる、変化する、を体現されているのだ。いただいたアドバイスは、初学者に対してのものと思い込んでいたが、そうではなかった。天野先生自身もその手法を使い、組手に臨んでいた。まさに組手の王道ここに有りって感じ!もちろんそれが出来たらの話ですが…。

抑えること触れること

ここで「抑えること」と「触れること」の解説をしておこう。抑えるとは、自分の手を顔の前に置き、手の平を相手に向けるということ。そして相手の手から自分の顔までの軌道線上に自分の手を置いておく。つまり相手の手が低い位置にあれば自分の手もやや低い位置にする必要がある。触れるとは、自分の手と相手の手が触れ合える位置にまで距離を詰めること。ここでは、自分の手の平で相手の手や腕を掴みにいくのではなく、自分の掌、手首、前腕のどこかが、相手の掌、手首、前腕のどこかに触れればよい。そしてこの瞬間が一番大事で、この瞬間に気持ちを最大限に緊張させ、相手と自分の状況を良く観察することとすばやい変化を起こすことを同時に行なう。言うはやすし、西川きよし、である。

目に見えないこと大事なこと

夏合宿である人からとても参考になる話を聞いた。その人によると島田先生に聞いた話だという。それは立禅での体の感覚の作り方の話。手の平で子供の頭を撫でるような感覚を持つ。そしてそれを腕の内側と胸、腹、太腿のうえにまでも拡げていき、撫でて包んで抱擁しているような感覚を作っていく…そんな話だった。これを実践してみると、なんだか曖昧だった「ハーフ&ハーフ」より、島田先生の言う「撫でる感覚」の方がより的を射ていた。そして自分の胸が包めていないな…と感じた瞬間、ちょっとだけミゾオチの辺りを引っ込めてみて、胸がやっと生きてきた。その後、背中を拡げて使う感覚などにも気付き、とっても微妙なことなんだけど、これって大事なことなんだなと思った。

形ではなく機能

初夏の章に書いた<頭をハラの上にのせる>というのは間違いだったのかもしれない。ダビングしていただいた今年の夏合宿の組手のビデオを見てそう思った。なぜならば自分の組手が、春の花見のときよりも下手になっていたからだ。幸い、胸を少しだけ引っ込めること、背中を拡げて使うこと等々、自分の立禅に進化の兆しを感じていたので、次の課題もすぐに見つかった。特にkitaG3やi井さんのフォームが参考になった。それはミゾオチの裏、背中の上のほうを膨らませて使うフォームだ。これをやると肩が下がり、胸が緩んでアバラがよく動くようになった。特に私の場合、ビビリィの緊張気質なので、相手と向かい合うだけで無意識のうちに背中が強張っていたようだ。新しいフォームで立禅するようになって、この辺が改善されてきた。

思うに、「頭が下がってしまうから、頭をもっと後に置いておけばよい」というのは、あまりに安直すぎる考えだったと思う。人は誰しも「位置=形」に目が行きがちだが、大事なのは「機能=状態」である。どんな状況の時にも、動ける状態に自分の身体を保っておく。これが重要。――そういえば、ここのところ言われ続けている。「自分で自分の体を動けなくしてるんだよ。見直すべき点は、姿勢と視線」これが天野先生から自分に対してのアドバイスだった。

第一司令塔と第二司令塔

自分の体の中心はどうも右に2~3cm程ずれているようだ。そして長く禅を組んでいると右目の上あたりが気になってくる。これは自分の意識が、頭蓋骨の内側の右上の部分に何かを感じているように思えてならない。

右目の上に自分の第一司令塔を立てる。そして、第二司令塔を相手の左肩の上に立てる。こんな視線の保ち方を見つけた。意識は第一司令塔と第二司令塔に集中させておく。目付けは全体をボワ―ンを見る。しかし目玉は右上を向いているかもしれない。体はパラボラアンテナの様に相手の全体を捉えておく。目で見ずに、体で見ているような感覚だ。

組手の手応え

9月13日、久しぶりに組手をした。夏合宿でアバラを痛めていたので、しばらく対人稽古はしていなかった。今回は6週間ほどブランクがあったが、色々な工夫の成果が現れ、少しは組手が良くなっていた。しかし、またまた次の課題が噴出…。結局、これの繰り返しなんだな、と思った。でも今は、自分の組手に確かな手応えを感じている。回を重ねるごとに、新たな問題は出てくるものの、確実に内容が良くなってきている。そして毎回、何某かの進歩を感じられている。一足飛びにスーパーマンになれることはないだろうが、日々の積み重ねが、自分を「ただの普通人」から「ちょっと上質な普通人」へと向かわせてくれていることは確かなようだ。おっ!?手を抜きやがったな富リュウ。初夏の章と同じじゃねぇか。――いつもご愛読有難う御座います。