立禅の中の左右の力――その1
六面力という言葉があります。意拳・太気拳の中で使われる、上下、左右、前後のどの方向に対しても力が出せるようにすることを指し示している意味のようです。 今までに天野先生にご教示していただいた、立禅の中における前後の力と上下の力に引き続き、この年の9月のセミナーの中では、立禅の中における左右の力がテーマとなっていました。
立禅の中における左右の力は、左右というよりは回転方向の力と表現した方が適切かもしれません。立禅もしくは半禅の状態で、自分の背骨を中心軸として、上体を左右にねじってみます。例えば体を左に捻ろうとする時には、左手の手刀から前腕の外側全体で空手チョップを打つように、これと同時に右手の背刀と右手の前腕内側全体で相手の首を刈るような動作をイメージします。はじめは、首も上体と同じ方向を向けるようにして行ない、次のステップとして、首は一方向を向いたままで上体と腕を廻すようにしてみます。胸と両腕の形は立禅の形を維持したままで、これを行ないます。
勘のよい方はもう気が付いたかもしれませんが、この動きが太気拳のフック系の打拳の打ち方になります。太気拳のフックは、禅の形をそのままにして打つようになります。つまり、胸と肩と腕と肘の角度(位置関係)をほとんど変えずに打つのです。天野先生の説明によると、これが「力を逃さない打ち方」であり、「もし肘を肩より後ろへ引いて打とうとするなら、パンチ力は腕と肩の筋力で決まってしまう」ということです。現代格闘技をやっていらっしゃる方々には、もちろん異論の声もあるとは思います。ただ、ボクシングや空手とはまた違った打ち方もあるんだな、ということも理解しておいてほしいのです。
ベーゴマの推手
ある日のこと、天野先生が唐突に「ベーゴマになった気分で推手をしてごらん」と言われました。そしてこれは前述の、立禅の中の左右の力(回転方向の力)を意識して、腕と肩と胸の位置関係を変えずに、半禅(右向き)と立禅(正面)と半禅(左向き)の動作範囲の中でだけ上体を廻し、そこに触れたものは全てはじき飛ばしてしまうような気分で推手を行なってみなさい・・・というような意味合いのことも教えてくださいました。
しかしいつもの事ながら、すぐにはこの事を推手の中で実現するのは難しいことでした。何せ相手があっての推手なのです。自分はこうしようと思っても、相手はそうさせまいとしてくるし、力量の差もあります。それに立禅・半禅の右向き~正面~左向きの間といっても、相手の方に力のベクトルを向けているので、それをしようとすると必然的に相手との位置関係を調整する為に、歩法に工夫が必要となってきます。それに腕をぐるぐると廻しているので、どうしても手先に頼りがちとなってしまうのです。
天野先生からのアドバイスは、手の動きに関しては、「肘を大きく動かし過ぎない。手先も肘が動いた分だけしか廻さないような感じで」ということと「自分の手の後ろに隠れてしまうように、常に相手に向かって素面をさらさない様に自分の顔の前にはいつも右手か左手があるように」とのことでした。そして歩法は「這いの歩法で、常にどちらか一方の片足荷重で立ち、両足を開く力を使って引き裂くようにして一歩を踏み出し、両足を閉じる力を使って足を引き寄せるようにしてみなさい」とのことでした。それからもうひとつのポイントは「足を踏み替えたときに前の足の足先が、常に相手の中心に向いているようにする事」でした。確かに半禅の姿勢の時には、前足の真上に前手があるわけですから、この手を少しだけ内側にしておけば、その手(腕)には常に禅の力があるはずなのです。
この年の初秋、自分自身まだ全ての留意点を融合させて動けるようには至っていませんが、私よりも後輩の者に対しては、だんだんと「ベーゴマの推手」が出来るようになってきています。そして私レベルでの「ベーゴマの推手」は、立禅・半禅の形で相手のほうに力を出していくことが第一目標なのですが、次のステップとして上級編になると、自分の下半身はそのままの位置に置いておいて、上体を廻すことで相手を引きずり回してしまうこともできる様なのです。というのはちょうどこの半年ほど前に、R先輩が「回転方向の力」を課題として取り組んでいた時期があって、その時にR先輩の推手の相手をしていた私は、ズルズル、ズルズル、と右に左に崩されっぱなしだったのです。Rさんは下半身はそのままに、禅の形で上体をねじっていただけなのに、そのたびに崩されてしまう自分は、「この力はいったいどこから出てくるのだろう?」と不思議でしょうがなかった――という経験を思い出したからです。
「回転方向の力」とひとくちに言っても、その使い方には、まさに様々なものがあるようです。この辺にも、太気拳の技術の奥の深さを感じてしまいます。
推手でクソ!
推手をしていると色々と考えさせられます。後輩を相手にしていると自分の上達がよく分かるし、先輩や先生が相手だと、自分の“穴”や“問題点”が見えてきます。そしてその“穴”を埋め、“問題点”を解決していくことが、推手の大きな目的のひとつであるようです。
この頃、天野先生との推手の中で、ひとつ新たな発見がありました。それは先生に体軸を崩され、後ろへ飛ばされたときのことでした。思わず自分が小さく「クソッ!」と叫んだのです。一瞬自分でも驚いて、「天野先生に飛ばされるのは、実力差を考えれば当たり前のことなのに、何故、自分がそんなことを口走ってしまったのだろうか?」と、あとになってふとそう思ったのでした。つまり「クソッ!」と叫んだのは、自分の“思考”ではなく、もっと“感覚的”なものだったようなのです。というのは、このことについて天野先生にお話しした時に、先生が次のように説明をしてくださったからです。
「富川が俺に飛ばされて、クソッ!と思わず叫んだのは、富川の中に『守るべき自分』というものが出来てきたからだよ。立禅を続けていると、いつのまにか『自分の中心』ができてきて、それが『守るべき自分』となってくるんだよ」をいうことでした。そして続けて「推手の中で崩された時に、自分の姿勢、自分の状態が、違う形にされると、『守るべき自分』を持っている人間は、非常にそれが不快で、『イヤだな』というふうに感じるんだよ。実はこの『あっ、この状態はイヤだな』という感覚がとても重要で、例えば相手に至近距離で指差された時に、顔の中心線上に相手の指があれば『イヤだな』と感じて、それを10cmほど左右のどちらかに逸らすと、『イヤ』でなくなる。武術というものにおいては、この感覚が非常に重要なことなんだよ」と言われ、富川も「うーん、なるほどぉー」と合点がいく説明でありました。
この後も、推手の稽古のたびに、私は何度か「クソッ!」と小さく叫んでいました。そして殴り合う格闘技をする人にしては、反骨精神の希薄だった私の中に、少しずつではありますが、そういうものが育ちつつあるように思える今日この頃なのです。
推手は救世主となり得るか?
一般的に言って打撃系の格闘技では、打つ、蹴るといったことに対して“センス”があって、“スタミナ”がある者であれば、比較的上達が早いのではないかと思います。これに対して、組技系では、一概に言えないのは承知の上ですが、“肌の感覚をとうして覚える”という要素があるので、時間は掛かるものの、さほどスタミナやセンスのない者であっても、上達していけるというメリットがあるのではないでしょうか。
そしてこの中間に、推手という稽古体系が位置付けられると思うのです。推手は、組み技系出身で、打撃技にはセンスがないと思っている方や、闘争心があまりない方、スタミナにあまり自信のない人でも打撃技術を上達させる糸口となり、実際にそれを上達させるために有効な練習方法だと思うのです。
いみじくも天野先生はおっしゃっています。澤井先生が神宮で太気拳を指導されていた時代、澤井先生には時間がなかったという都合もあったのでしょうが、立禅と這いの稽古の後は、一足飛びに“組手”が待っていた・・・と。そしてこの組手の後では、勝つ者には学びが在っても、負けた者には、何も新たな発見は見出せずに、その場を去るのみであった・・・と回顧されています。
敗者も勝者も新たな発見を見出し、上達していくことの出来る稽古体系のシステムとして、意拳で行なわれていた推手がありました。推手を太気拳の稽古体系の中に取り入れていくことで、「立禅や這い」と「組手」の間の橋渡しができ、なお且つ色々な条件の人たちに対して、太気拳の、打撃系技術の、上達への間口を広げてくれたと言えるのではないでしょうか。
繰り返しになりますが、打撃格闘技においては、センスとスタミナと闘争心がある者のみに約束された上達への道が、推手という救世主が現われたことにより、打撃技術においても、皮膚感覚を通して、上級者から盗み取るようにしながら、上達していける道が拓けた――というと言い過ぎでしょうか・・・。
推手から発力へ
そうは言っても、推手にもデメリットはあります。まず時間が掛かるということです。まともな推手が出来るようになるまでには時間が掛かり、さらにそれを組手につなげていくためには、またひと工夫が必要となります。第一部、第二部を通して、「訳のわからない推手」「推手で飛ばされる」「てんでバラバラの手足」「楽ちん推手はもう卒業?」「ベーゴマの推手」と書き綴ってきたように、まともな推手が出来るようになるまでに私の場合は、1年と半年ほどを要しました。
しかしながら時間をかけた分、得るものも大きいようです。私の場合は、このごろ急に推手の稽古がとても楽しく思えてきています。自分が優位な時はもちろんですが、格上の先輩とやっていても何かとても楽しいのです。守るべき自分があって、それをどう維持していくかが解ってくると、何も怖いものは無いといった感じでしょうか。たぶんこの感覚で、組手も出来るようになれば、言う事はないのでしょうが・・・。
またもうひとつ、推手の稽古が楽しく思える理由があります。それは推手の中に発力の動作を取り入れられてきているからです。もっとも初めの頃から推手で発力をやってはいけないという訳ではないのですが、やりたくても出来ないというのが実情なのです。これは文章で説明するのはなかなか難しいのですが、簡単に言ってしまうと「相手が格上か格下かには関係なく、ベーゴマの推手が少しでも出来るようになっていないと、自分が発力できる状態にはならない」といったところでしょうか。
でも、はじめのうちから発力が上手く出来るわけではありませんし、今でもまだ「やっとそれに手が掛かったかなぁ」くらいな感じです。相手と推手を行なっている中での発力は何種類かあるのですが、代表的な例では、相手の胸元(咽元)に、片手もしくは両手をあてて、ボンと後ろへ飛ばす――というのがあります。はじめのうちは、タイミングもコツも何も解りません。ただやみくもに、とにかく相手の胸元に手が入れば発力みたいに押してみる、といった具合です。A先輩も「はじめのうちはそれでいい」と言って下さっています。そして「何度も何度もやって、上手くいったり失敗したりを繰り返しながら体に覚え込ませていく、体で覚えていくんだよ」ということです。きっとこういった稽古を繰り返し行なっていく中で、「こう来たらこう動く」という型稽古的なパターンではなく、「相手が動いたときには、もうスッと自然に反応して動いている」という感覚が身に付いてくるのだと思います。
練習のための練習はするな
天野先生が普段からよく言われる言葉に「練習のための練習はするな」というのがあります。これは普段から常に「推手のための推手」ではなく、「組手のための推手」を心掛けることが大切なんだよ、という意味なのではないかと私は理解しています。組手を意識して推手をするようにしていないと、自分の中心が空いてしまったり、左右の腕が横や上にあるのにもかかわらず、そのままの状態で推手をやり続けてしまいます。私自身、天野先生や先輩格の方々と推手をしている時に、よくそのような状態になってしまう様で、そんな時にはきまって、膝蹴りや頭突きや咽への張り手が飛んできて、「中心を空けるな!」とどやされることがしょっちゅうあります。
また推手のみならず、立禅でも、這いでも、各種歩法においても、組手を意識して行なうか否かで、その稽古の質に大きな差が出てくるのではないでしょうか。そして組手も「組手のための組手」ではなく、「武のための組手」を心掛けることにより、よりリアルファイトに近い稽古になっていくのではないかと思うのです。
タックルでつぶされギャフン!
10月のある日曜日のこと、他流派の方と組手を行なう機会がありました。天野先生が指名したのは、A先輩と私でした。はじめに組手をしたA先輩は、相手を軽くあしらっていたようなのですが、私は何かひとごとのような気分でその組手を見ていました。恐怖感はそれほど無かったのですが、やはり緊張していたのだと思います。
A先輩は楽勝のようでしたが、私がどうなってしまうのかは、自分でも全く予想もつきませんでした。相手は、打撃がそれほど得意ではなさそうに見受けられましたが、天野先生からは、いきなり「組手をやってみるか」と言われただけで、相手が何者なのか、どういう経歴の方なのかを全く知らされてなかったのです。後で聞いた話では、その方は組み技と寝技を得意とし、打撃技はほとんど出来ないとのことでしたが・・・。
この組手の内容について、ここでこと細かに描写するつもりは無いのですが、大まかな流れとしては、こちらが2~3発の打拳を打ったところで、組み付かれ、タックルされ、倒されて、横四方で上に乗られて動けなくなった――というような状況でした。
タックルの切り方は、以前に骨法をやっていた頃に習ったことがあったのですが、そんな昔のことはすっかり忘れてしまっていたし、太気の練習には関係ないものと思い込んでいたのも事実です。しかし「太気拳は打撃系格闘技ですから、タックルは防げません」という話が通用するはずもなく、そもそも「太気拳は打撃系格闘技です」等とは誰も言っていないのです。ということは私自身も「タックルで来られても太気拳は負けないよ」ということを実現していかなければなりません・・・。
この組手の後で、天野先生からは「相手の目線の高さに常に自分の目線の高さを合わせておいて、相手が低くなったら自分も低くなる」ということをアドバイスしていただきました。こうする事により、相手が急に自分の視界から消えて、タックルに入ってくることに対しての対処が容易になるとのことでした。またA先輩、R先輩からは、この後の推手の中で、実地を通してタックルへの対処を指導していただきました。
立禅の中の左右の力――その2
毎朝の自主練で、左右の立禅を自分なりに行なっていたのですが、この中で大きな間違いを冒していたことに気がつきました。それまでは、腰骨は動かさずに上体だけをねじっていたのですが、このやり方では上体を左右にねじるときに、力が出ている感じや体が繋がっている感じがなかったのです。そしてこうではなくて“骨盤も廻して、それに固定された上体が一緒に動いていく”というのが、正しいやり方だと気がついたのです。以前から肘と腰骨が、手首と腰骨が、繋がっている意識――ということは繰り返し言われていたのですが、それがこの時になってやっとわかったという感じでした。
このことに気が付いたきっかけは、前述のタックルの防御のための動きを朝練の中でやっていた時でした。天野先生や、A先輩、R先輩に言われたこと、教えていただいたこと思い出しながら、探手の中で、頭を下げて腰を低く、足を退げて腰を落とす、足を廻しながら退げて腰を落とす――という動きをやっていた時にふと、立禅の中での左右の力を探るために、上体を水平方向に廻していた時には感じられなかったことが、探手の中で頭を下げ、腰を引いて、上体が前傾している形で、足を後ろに廻しながら引く動作を行った時に、手と腰骨が繋がっている感覚がとてもよくわかったのです。
いったんこの感覚がつかめると、立禅の中でもこれが感じられるようになりました。はじめは探手でやった時のように、上体の軸を前傾させて廻してみました。この方が感覚がつかみやすかったからです。そして感覚がつかめてから、上体を前傾させずに、水平に廻して、左右の力(回転方向の力)が確認できました。
ここで一気に話が全部つながりました。まずタックルを切るときの動き方がわかり、以前からR先輩に指摘されていた打拳が手打ちになっているということの理由がわかり、打拳を腰骨と一緒に打っていくという感覚もつかみかけています。立禅、這い、探手の中で腰骨と上体が一緒に動くということを意識しての練習は、まさに達人への一歩を踏み出したかの様な気分でしたが、あまりの練習の楽しさにオーバーワークがたたって腰を痛めてしまいました。どうも楽にやる事を忘れて、全ての動作を力んでやるようになっていて、腰の周りの筋肉に緊張を溜め込んでしまったようなのです。
これから2~3週間のあいだは、練習を休まなければならないかもしれませんが、これもまた、新しい筋肉、新しい力の出し方、新しい体の動き方を手に入れるための通過儀式と考えれば、しばらく練習ができない事もそれほど苦痛には思わないものです。