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会員・会友員のテクスト 富川リュウの太気拳修行記

平成13年・夏の章

這いの完成形

 “平成13年・初夏の頃”において、尻の股関節を意識した「オヤ・コ・シリの這い」のやり方を紹介しました。尻の股関節を意識することによって足腰や背中の筋肉の負担がぐっと減り、かなり楽に這いができるようになっていた、というくだりです。

 そして夏になった頃、天野先生に指摘されたのは「首や腕の力を抜き、もっと楽に這いを行なうように」ということでした。「エッ、もっと楽でいいの?」と一瞬思ったのですが、「這いの鍛錬は、足腰の筋力を鍛えるためだけに行なっている訳ではないのだから、もっと楽に、もっとゆったりと行なえるようにしなさい」と言われました。そして「首はスッと立てるのだけれど決して力まずに、腕も常に自由に動けるように力を抜いておくこと」というアドバイスもいただきました。実際のところ、這いを行なうときの両手の位置は、目の高さに挙げているだけで、ほとんど動きがありません。だからその状態(その形)を維持することにだけに意識を集中させてしまうと、肩に力が入って硬くなってしまうのです。天野先生からは「例えば、這いの最中に打拳を打ち込まれても、この両腕がパンパンと素早く動けるように、そんな楽で自由な感じにしておきなさい」ということも付け足して言われました。

 自主練の這いの中で、天野先生のアドバイスを思い出し、色々と工夫しながらやってみました。最初はなかなか難しく、尻の股関節の意識によって下半身はかなり楽になっているとはいえ、腰を低く落としているので、どうしてもそこに何がしかのストレスがあります。そして「首をスッと伸ばした状態で、両腕を高く挙げつつも、首と両腕をリラックスさせる」というのが、初めはなにか矛盾しているように感じていたのですが、何度も何度も繰り返し行なっている内に、だんだんと力みが抜けるようになってきました。いや逆に、下半身が安定しているからこそ、両腕が楽で自由になるという感じでしょうか。

 ここでふと気が付いたことがありました。それは足腰の負担を減らしてくれた尻の股関節の意識についてです。この時はまだ、「尻の股関節を意識する=尻の股関節に力みを持つ」という感じでやっていたのですが、ふと「この尻筋肉の力みも取ってみたら、どうなるのだろうか。力みをとっても同じように出来るのではないだろうか」と思いついたのです。そしてさっそく実行してみました。まさにこの考えがズバリと的中し、今まで力んでいた尻の股関節の緊張を無くしても、同じように安定した這いが出来ていたのです。「こんなにも楽ちんでスムーズに動けて良いのだろうか」と目から鱗が落ちたような思いでした。

 さていったいこれは、「這いの完成形」と呼べるのでしょうか?仮にはそう呼んでもよいかもしれませんが、太気拳の全ての動きの終わりは常に次の動きの始まりと同質であるという事を考えると、この這いの完成形は、完成と思った瞬間に次のステップへの踏み台となり、新たな領域の発見を示唆しているように思えてきます。

前腕の触覚中心(推手)

 太気拳では、「手が効くようになる」あるいは単に「手が効く」という表現がよく使われます。これは相手の攻撃に対して手が勝手に反応し、「手がさばいてくれる」ということなので、ある意味「手が効く=聴勁」といってよいのではないでしょうか。

 そして「手が効くようになる」ためには、どうすればよいのでしょうか?もちろん、立禅の中にもそういう要素は含まれているのだろうとは思います。ただ、その感覚を一番伸ばしてくれるのは、やはり推手の稽古なのではないでしょうか。推手の稽古は傍目から見ると、ただ単に二人の人間が前腕と前腕をぐるぐる廻して押し合いながら、前へ後ろへと、動いているだけの様に見えます。しかしながら実際には、禅の状態を保ちながら、這いの歩法を使って動き、自分の中心を守りながら、相手の中心を奪う――という作業が行われているのです。

 推手で相手と前腕を合わせる時、手首寄りの部分よりは、できるだけ肘に近い部分を使う様に――という事は、一年目の最初の頃から言われていました。でもどうしても肘寄りの部分が使いずらいためか、手首寄りの方ばかりを使ってしまうのです。二年目の夏、先生がこの推手での腕使いについて、ひとつアドバイスをしてくださいました。それは推手の時に「肘の少し上の内側の部分を使って、相手を抑えるようにしてごらん」ということでした。本来、推手のときの腕使いは、前腕のぐるっと一周、360度全体をどの方向にも使えるようになることと、前腕の全体が触覚のようになることが目的なのですが、発展途上の私に対して、ひとつの導入部として、「その部分を意識して使ってみてごらん」という意味でのアドバイスだったんだと思います。

 果たして結果は如何に。推手の時に「肘の少し上の内側の部分」で相手を抑えるように意識して行うと、上半身の禅の形が保たれ、安定して動けるようになり、且つ、相手に対する圧力のかけ方も楽に行なえる様になったのです。そしてこの部分に私なりのネーミングではありますが、「前腕の触覚中心」という呼び名をつけました。

 この日から、毎朝の立禅の中では、特にこの「前腕の触覚中心」を意識して行なうようにしています。これを行なうことにより、次に推手を行なう際には、その部分がより生かされるようになってくるのです。“少し意識を向けるポイントを変えただけで、ぐっと力量が上がってしまう事もある”というのも太気拳の魅力のひとつだと思います。

走りながらも止まらない(打拳)

 タッタッタッタッタッと小走りに走りながら、左右の拳をフックぎみに連続して繰出していく。私が立禅をしている脇で、よく天野先生がそんな打拳の練習をされていた。「あぁ、あんなのが出来たらすごいのになぁ。でも今の自分には、無理なんだろうなぁ」と思い込んでいたので、「先生、私にもその打拳を教えてくださいッ」とか「あれはどうやってやるんですか?」などとは、全く聞く気にもならなかった時期がしばらくありました。でもこのやりかたを正式には習っていないにもかかわらず、2年目に入ったある時から、見様見真似でなんとなく、出来るようになっていたのです。それは何とも言えず不思議な感覚でありました・・・。

 この年の夏合宿のときに、何種類かの打拳の打ち方と、走りながらの打拳、肘打ちの打ち方、等を教わりました。大関さんがミットを持ってくださり、私がそのミットに向かって、小走りしながら、左右の打拳を打ち込んでいきます。真夏の暑い体育館の中で、延々とミット打ちを行い、もう汗がダクダク状態でへばりそうになってしまったのですが、終わってから、「この打ち方は、太気拳の体の使い方が身についている人にしかできないから、富川はもう大体できてるネ」と大関さんに褒められて、とても嬉しくなってルンルン気分で、疲れもふっ飛んだような気がしたけれど、やっぱり民宿への登りの階段はきつかった・・・。

 8月末に行われた天野先生のセミナーで、一般参加の人たちにも、太気拳の打拳の打ち方の基本から、最後にはこの小走りしながらの打拳も教授されたが、空手やボクシングをやっている方々でも、この「小走りの打拳」は誰一人としてできる人がいなかった。

 人間というものは、自分ができるようになってしまうと、できなかったときの感覚は忘れてしまうようで、「なぜ他の人達にはできないのだろう?」と疑問に思えてしまいます。天野先生の説明によると、「上半身と下半身の動き、バランスが全てよどみなく一致していないと、これはできないんだよ。逆に、その一致が体の中にできていれば、何も言われなくてもできてしまうものなんだ」ということでした。

 皆さんもちょっと試してみてください。この打拳のやり方は、言葉で説明するのは意外と簡単で、でもやるのはとっても難しい・・・みたいです。はじめは普通に歩く速さでかまいません。逆突きの要領で、左足が前にあるときには右の打拳を、右足が前にあるときには左の打拳を、交互に打っていきます。打拳は、ややフックぎみのストレートで、それほど形にはこだわらずに、打ち易い形で打てば良いと思います。これを歩きながら連続して打っていって、だんだんと早足に進み、最後は小走りしながら連発で打っていきます。左足が前のときに右パンチ、右足前のときに左パンチ、一歩で一発ずつです。

 この説明を読んだだけでもう出来てしまった人は、きっともう「武道の達人」―――かもしれません。

寸勁なんてあたりまえ?(エピソード)

 中国拳法全般において、短く鋭いパンチのことを「寸勁(すんけい)」という言葉で表現される事がよくあります。具体的にどういう打ち方かというと、ストレートやフックなど、その形には関係なく、目標との距離が5cm~10cmのショートレンジ、あるいは既に触れている状態からでも相手に大きなダメージを与えられるパンチということのようです。プロのボクサーの打つショートフックやショートアッパー等もこの類のものらしく、確かに初心者には難しいようです。またジークンドーを創始したブルース・リーのワンインチパンチ等も有名です。

 私がはじめて中国拳法関係の本を読み始めたころ、この「寸勁」という打ち方や「聴勁(ちょうけい)」という技術に大変感銘を受け、是非とも習得してみたいと切望していました。そして、聴勁に関しては、詠春拳(えいしゅんけん)等で行われる目隠しをして、推手のように二人の人間が腕と腕を接触させてぐるぐる回すような練習の様子が紹介されていて、「私もいつか、こういう練習をしてみたいなぁ」と思っていました。でも寸勁に関しては、「○○さんは出来る」とか、「○○先生の寸勁でふっ飛ばされた」という記述はあっても、どうすればそれが身に付くのかは、どこにも書いてなく、「これでは絵に描いた餅だな」と残念に思っていました。いったいどこへ行けば寸勁の打ち方を教えてくれるというのでしょうか?套路を何十回も行えば、それが身に付くというのでしょうか?空手を10年やっていれば、自然とそれが出来るようになるとでも言うのでしょうか?どうにも曖昧模糊としていて歯がゆくてしょうがない思いをしていました。

 8月末に行われたセミナーの後の懇親会の席で、この旨、天野先生に聞いてみたところ、なんとも明快なお答えが返ってきたのです。それは「立禅をすれば出来るようになる!」ということでした。

 これは私(富川)の私見なのですが、正しい方法で立禅を行っていれば、早い人なら6ヶ月、遅い人でも2年ほどで、それらしい力が出てくるのではないかと思うのです。それらしいと書いたのは、寸勁といってもピンきりだからです。4回戦のボクサーのパンチと世界チャンピオンのパンチの力量に差があるように、1年生の寸勁と、10年生の寸勁では、その力と質が異なっていて当然でありましょう。私自身も、太気拳をはじめて1年から1年半が過ぎたころから、それらしい(寸勁のような)打ち方や力の出し方が感じられるようになってきています。

 しかしここで新たな疑問またひとつ出てきました。もし本当に「立禅をすれば、寸勁が打てるようになる」のだとすると、なぜ天野先生は、「立禅をすれば、寸勁が打てるようになるんだよ~」と吹聴して回らないのでしょうか。いや、吹聴というのは少々大袈裟な表現ではありますが、それを切望している多くの人達に、情報として提供してあげてもよいのではないかと思ってしまうのです。この旨を先生に尋ねると、「寸勁を打てたからといって何になる。それを打つ技量があっても、攻めてくる相手に対して、打ち込める力量がなければ意味がないではないか」とのことでした。

 たぶん先生は、ボクシングでも、サンドバッグ打ちが得意で、力強く、素早く打ち込め人であっても、試合で勝たなければ意味がないのと同じように、とても威力のある寸勁を身につけた人が、止まっている人や物に対してこれを使い、「ほら、僕ってこんなに凄いんだョ~」と自慢するようなことを戒める意味で、こういう表現をされたのだと思います。拳法とは所詮、人と人とのぶつかり合い。パンチ力(寸勁)だけがあっても何の役にも立たない。攻撃してくる相手に対して、それをかわし、あるときは打つ、あるときは引き倒す、またあるときは、はじき飛ばす―――という対応ができることが前提で、はじめて寸勁や発勁、発力というものが役に立ってくる。だから「殴ることなどどうでもいいんだょ」と天野先生はよく口にされるのでしょう。

殴ることなどどうでもいい?(エピソード)

 太気拳の稽古の体系は、立禅、這い、歩法、推手、等がほとんどを占めていて、打つ、蹴る、等の稽古の割合が極端に少ない。天野先生は言う、「殴ることなんか、そんな事はどうでもいいんだょ」と。そのココロはいったい何?

 それはつまり闘いということの本質に起因する。まず守るべき自分の中心(体の中心と、気持ちの中心)があって、自分の中心を守りながら、相手の中心を奪う。そのためには歩法を使う。軽やかで力強い、楽ちんだけど素早いステップ。そしてこのステップをも含めた防御の技術。ここまでが必須条件。つぎに発力・発勁の力が常に準備されていること、いつでも思った時にすぐに出る、すぐに出せる。それが拳であるか、肘であるか、肩であるか。さらには押す力か、引く力か、廻す力か、ケースバイケースで如何様にも出せる―――だとすれば、殴る、打つという行為は闘いの最後のステップの小手先だけで十分だということで、要は打つにいたる、打てる状況にまで至るプロセスが重要だということである。

 相撲の解説で、「十分になっている」という表現があるが、これは「体制が十分に整っている」ということを指し示しているのだと思う。太気拳ではまさにこの「自分は十分、相手は不十分」の状態にまで体勢をつくってから打拳を打込むことを理想としている。そう考えると前述の「殴ることなどどうでもいいんだょ」という天野先生の意図する所もわかろうというものではないか。