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天野敏のテクスト 閑話休題

断腸亭日記

以前、昔見た映画を見直したくなってきた、と書いたがどうも映画だけでは無さそう。10代や20代に読んだ本を読み返したいと思うことがある。多分読み返すと
最初に読んだときとはまったく違うものが見えてくるんだろう、と言う気がする。

先日、学生時代の友人と何人かで集まって飲む機会があった。もう20年ほど外国に行ったままだった女性が里帰り。で、皆で集まって飲もうということになった。彼女は海外で仕事をしていて外国人のだんなさんと二人の子持ち。昔は小太りだったのが、最近は「小」が取れてきた。友人の多くは髪も薄くなっている。額が広くなったものも入れば、私のように頭頂部に天井の明かりが反射するものもいる。相変わらず髪がふさふさしていると思うと、腹が出てきている。みな昔と同じようで同じではない。

話をしているうちに、日本人の作家で海外で一番読まれているのは誰だろう、と言うことになった。三島由紀夫や川端康成、それに大江健三郎。ここら辺が一番先に名前が挙がる。ところが彼女曰く、なんと言っても村上春樹だという。「ウチなんか。子どもとの会話は村上春樹のおかげで成り立ってる」とまで言う。英訳しか読めない息子・娘、原文を日本語で読む母親、そこら辺が親子の会話になるという。飲み会での会話は脈絡がなく、そんなこんなで、昔読んだ吉本隆明の話になる。氏も、もう歳も歳。失礼ながら訃報の話になった。新聞社に勤める友人が訃報が社会面に載るか一面に載るか、難しいところだ、などと言う。「今頃、吉本なんていったって、若い奴はわかるめ~」と言うものもいる。「いやいや、それは吉本隆明の訃報ではなく、吉本バナナの父親の訃報という風になるんじゃないの」と勝手に言うものもいる。どうもまったくもって失礼で申し訳ない。時代が変わっている。父親の時代から娘の時代になったということか(その後やはり世代的に影響を受けた小田実の訃報。癌で闘病中とは聞いていたが、遂に・・・。ちなみにうちで取っている新聞では一面の扱い)。

そうこうして帰り際に彼女が、最近は永井荷風が面白い、という。「おお、それそれ」思わず、話し出す。荷風を読んだのは確か高校生のころ。発禁処分を受ける作家、と言うところにも勿論興味はあったが、取り立てておもしろいと思わなかった。まあ、文学史に出てくる作家だから読んだ、といった感じ。ところがそれをつい最近読み返し始めたところだったからだ。「墨東奇談」なんていうのは最近でいえば、スポーツ新聞の盛り場探訪記みたいで面白い。さらに「断腸亭日記」を読み返している最中で、枕元において寝る前にパラパラめくる。なんと言っても荷風は稀代の不良。不良少年から不良中年、そして仕上げに不良老年、中年になった私としては憧れの的。無頼も極まれり、といった趣で、後の坂口安吾や太宰治、あるいは壇一雄も荷風の前では霞んでしまうくらいの大不良・大無頼。肝の据わり方も尋常ではない。なにせ、遊郭から大学に教えに通う。学生には久保田万太郎や佐藤春夫がいる。最後は落籍せた遊女を妻にして、置屋を経営させる。そして挙句の果てにたったひとりで野垂れ死に。
どうも女性がそこら辺を面白いというのがちょっと解せない気もするが、まあ、私の勝手な思い込みかもしれない。 しかし、外国にいても、荷風なんかを簡単にインターネットを通じて手に入れられる、と言うのも時代と言う奴だね、と言うの小説とは全然関係ない感想。

ところで、もう「最近の若いモン」は漱石や鴎外辺りは学校で読まされても、他は余り読まないんだろうな~、と勝手に思っていた。ところが「アルジャーノンに花束を」で有名なダニエル・キースと宇多田ヒカルの対談を読んでいたら、なんとその中で、当時16歳の宇多田ヒカルがダニエル・キースに、志賀直哉と武者小路実篤を紹介しているのにはびっくりした。ニューヨーク生まれ、ニューヨーク育ちの宇多田ヒカルが「城之崎にて」を読んでいて、その脇に実篤の絵入りの色紙なんか置いてあったらおもしろい、「仲よきことは美しきかな」なんて。

しかし、武者小路実篤が翻訳されたら欧米人は読むだろうか???